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源氏物語画帖「その三十 藤袴(蘭)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

30 藤袴(蘭)(光吉筆) =(詞)阿野実顕(一五八一~一六四五)  源氏37歳秋 

光吉・蘭.jpg

源氏物語絵色紙帖  藤袴(蘭)  画・土佐光吉
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阿野実顕・蘭.jpg

源氏物語絵色紙帖  藤袴(蘭) 詞・阿野実顕 
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900644&parent_data_id=322&data_id=537

(「阿野実顕」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/30/%E8%A1%8C%E5%B9%B8%E3%83%BB%E5%BE%A1%E5%B9%B8_%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B8%96_%E7%8E%89%E9%AC%98%E5%8D%81

宰相中将、 同じ色の、今すこしこまやかなる直衣姿にて、纓巻きたまへる姿しも、またいと なまめかしくきよらにておはしたり。初めより、ものまめやかに心寄せきこえたまへば、 もて離れて疎々しきさまには、もてなしたまはざりしならひに、今、あらざりけりとて、こよなく変はらむもうたてあれば、なほ御簾に几帳添へたる御対面は、人伝てならでありけり。
(第一章 玉鬘の物語 玉鬘と夕霧との新関係 第二段 夕霧、源氏の使者として玉鬘を訪問)

1.2.1  宰相中将、 同じ色の、今すこしこまやかなる直衣姿にて、纓巻きたまへる姿しも、またいと なまめかしくきよらにておはしたり。
(宰相中将が、同じ喪服の、もう少し色の濃い直衣姿で、纓を巻いていらっしゃる姿が、またたいそう優雅で美しくいらっしゃった。)

1.2.2 初めより、ものまめやかに心寄せきこえたまへば、 もて離れて疎々しきさまには、もてなしたまはざりしならひに、今、あらざりけりとて、こよなく変はらむもうたてあれば、なほ御簾に几帳添へたる御対面は、人伝てならでありけり。
(初めから、誠意を持って好意をお寄せ申し上げていらっしゃったので、他人行儀にはなさらなかった習慣から、今、姉弟ではなかったといって、すっかりと態度を改めるのもいやなので、やはり御簾に几帳を加えたご面会は、取り次ぎなしでなさるのであった。)


(周辺メモ)

第三十帖 藤袴
 第一章 玉鬘の物語 玉鬘と夕霧との新関係
  第一段 玉鬘、内侍出仕前の不安
  第二段 夕霧、源氏の使者として玉鬘を訪問
(「阿野実顕」書の「詞」) → 1.2.1 1.2.2 
  第三段 夕霧、玉鬘に言い寄る
  第四段 夕霧、玉鬘と和歌を詠み交す
  第五段 夕霧、源氏に復命
  第六段 源氏の考え方
  第七段 玉鬘の出仕を十月と決定
 第二章 玉鬘の物語 玉鬘と柏木との新関係
  第一段 柏木、内大臣の使者として玉鬘を訪問
  第二段 柏木、玉鬘と和歌を詠み交す
 第三章 玉鬘の物語 玉鬘と鬚黒大将
  第一段 鬚黒大将、熱心に言い寄る
  第二段 九月、多数の恋文が集まる


http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3651

源氏物語と「藤袴(蘭」(川村清夫稿)

【 桐壺帝の妹で光源氏の叔母に当たる三条の大宮が亡くなり、光源氏の養女となっていた玉鬘は孫娘として喪に服した。玉鬘は宮中へ出仕するか迷っていたところ、夕霧がやって来て、藤袴の花を差し出して求愛したが、玉鬘は相手にしなかった。夕霧は光源氏に、光源氏が玉鬘を側室にしようとしているとの噂を内大臣が聞いていると言って、光源氏の真意をただしたが、光源氏は言葉巧みに真意をはぐらかせた。玉鬘は夕霧の他に、内大臣の息子の柏木、右大臣の息子の髭黒大将、光源氏の異母弟の蛍兵部卿宮などの男性貴族から求愛の手紙を送られるが、結局彼女は蛍兵部卿宮だけに返事を書いたのである。

 「藤袴」の帖の英訳に関しては、ウェイリーは玉鬘と柏木、髭黒大将、蛍兵部卿宮の恋愛だけ描いていて、玉鬘と夕霧の場面、夕霧と光源氏の場面を省略しており、サイデンステッカーは原文に忠実に翻訳している。

 それでは夕霧と光源氏の場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、サイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「かたしや、わが心ひとつなる人の上にもあらぬを、大将さへ、我をこそ恨むなれ。すべてかかることの心苦しさを見過ぐさで、あやなき人の恨み負ふ、かへりては軽々しきわざなりけり。かの母君のあはれに言ひおきしことの忘れざりしかば、心細き山里になど聞きしを、かの大臣、はた聞き入れたまふべくもあらずと愁へしに、いとほしくて、かく渡しはじめたるなり。ここにかくものめかすとて、かの大臣も人めかいたまふなめり」と、つきづきしくのたまひなす。…
「年ごろかくて育みこきえたまひける御心ざしを、ひがざまにこそ人は申すなれ。かの大臣も、さやうになむおもむけて、大将の、あなたざまのたよりにけしきばみたりけるにも、応へける」と聞こえたまへば、うち笑ひて、
「かたがたいと似げなきことかな。なほ、宮仕へをも、御心許して、かくなむと思されむさまにぞ従ふべき。女は三つに従ふものにこそあれど、ついでを違へて、おのが心にまかせむことは、あるまじきことなり」
とのたまふ。

(渋谷現代語訳)
「難しいことだ。自分の思いのままに行く人のことではないので、大将までが、わたしを恨んでいるそうだ。何事も、このような気の毒なことは見ていられないので、わけもなく人の恨みを負うのは、かえって軽率なことであった。あの母君(夕顔)がしみじみと遺言したことを忘れなかったので、寂しい山里になどと聞いたが、あの内大臣は、やはり、お聞きになるはずもあるまいと訴えたので、気の毒に思って、このように引き取ることにしたのだ。わたしがこう大切にしていると聞いて、あの大臣も人並みの扱いをなさるようだ」
と、もっともらしくおっしゃる。…
「長年このようにお育てなさったお気持ちを、変なふうに世間の人は噂申しているようです。あの大臣もそのように思って、大将が、あちらに伝を頼って申し込んできた時にも、答えました」
と申し上げなさると、ちょっと笑って、
「それもこれもまったく違っていることだな。やはり、宮仕えでも、お許しがあって、そのようにとお考えになることに従うのがよいだろう。女は三つのことに従うものだというが、順序を取り違えて、わたしの考えにまかせることは、とんでもないことだ」
とおっしゃる。

(サイデンステッカー英訳)
“It is very difficult. Higekuro seems to be annoyed with me too, quite as if her arrangements were mine to make. Her life is very complicated and I thought I should do what I could for her. And the result is that I am unjustly reproached by both of them. I should have been more careful. I could not forget her mother’s last request, and one day I heard that she was off in the far provinces. When she said that her father refused to listen to her troubles. I had to feel sorry for her and offer to help her. I think her father is finally beginning to treat her like a human being because of the interest I have taken in her.” It was a consistent enough account of what had happened…
Yugiri wished to probe further. “People seem a curious about your reasons for being so good to her. Even her father hinted to a messenger from General Higekuro at what he thought might be your deeper reasons.”
Genji smiled. “People imagine too much. I shall defer entirely to her father’s wishes. I shall be quite happy if he sends her to court, and if he finds a husband for her that will be splendid too. A woman must obey three men in her life, and it would not do for her to get the order wrong.”

 「宮仕えへをも、御心許して、かくなむと思されむさまにぞ従ふべき」は、意味がよくわからない。サイデンステッカーの訳文I shall be quite happy if he sends her to court, and if he finds a husband for her that will be splendid tooの方がはるかにわかりやすい。「女は三つに従ふもの」は、女性は父、夫、息子の順に従えという、当時の婦道である。「おのが心」を渋谷は「わたしの考え」と訳したが、誤訳である。「玉鬘の考え」と訳すべきである。

 光源氏は、求愛者が群がる玉鬘の出仕を、十月に決定するのである。  】


(「三藐院ファンタジー」その二十)

阿野実顕・書状.jpg

「阿野実顕筆書状」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/587

【阿野実顕〈あのさねあき・1581-1645〉は従四位上右少将季時(すえとき)の子(実は、季時の子・休庵〔大和内山の上乗院住持〕の子で、請われて季時の養子となる)。初名は実政、のち実時、さらに天正20年〈1592〉に実顕と改名した。元和5年〈1619〉権中納言、寛永10年〈1633〉権大納言に至る。蹴鞠の宗家・飛鳥井家において催された蹴鞠を見物、その見事な競技に、一座の皆々が満足の旨を報告してきた。早速にその礼を申し述べるべきところ用事で外出、日延べしたことを詫びている。宛名を「飛鳥井様」とのみ記す。が、実顕と同年代の飛鳥井某となれば、飛鳥井雅宣〈あすかいまさのぶ・1586-1651。雅章の父〉が相当するものと思われる。実顕は、当時光悦流の能書公卿として知られる。この書状の筆致にもその面目が遺憾なく発揮されている。「一昨日は御鞠興行、本望の至りに存じ候。皆々見物仕り候衆、満足仕り候由申し越し候。昨日御礼申し入るべくの処、他出致し、延引本意に背くと存じ候。猶、参を以って御意を得べく候。かしく。御報に及ばず候。以上。二月十六日飛鳥井様人々御中実顕」

(釈文)

[端裏書]飛鳥井様人々御中実顕不及御報候以上一昨日者御鞠興行本望之至存候皆々見物仕候衆満足仕候由申越候昨日御礼可申入之処致他出延引背本意存候猶以参可得御意候かしく二月十六日      】

光悦・書状.jpg

「本阿弥光悦筆書状」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/427

【本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉は、桃山~江戸時代初期の能書家・工芸家。徳友斎・大廬庵を号した。室町時代より刀剣の磨研・浄拭・鑑定の三業で知られる本阿弥家に生まれる。父光二(こうじ)の分家に伴い、この家職から半ば解放され鷹ヶ峰に芸術村をつくり、そこで書画・蒔絵・陶器などにすぐれた芸術作品を生み出し、その才能を発揮した。書においては「寛永の三筆」の一人として知られる。慶長期〈1596~1615〉には、俵屋宗達〈たわらやそうたつ・生没年未詳〉下絵の華麗な料紙に展開した彼の筆致は、上代様を基盤に光悦の個性が加味された豊麗なものであった。が、元和期〈1615~24〉に入ると、中国宋代の張即之〈ちょうそくし・1186-1266〉や空海〈くうかい・774-835〉の書の影響をうけた、肥痩の著しい新たな書風を展開した。いわゆる光悦流である。角倉素庵〈すみのくらそあん・1571-1632〉・小島宗真〈こじまそうしん・1580-1655?〉・尾形宗謙〈おがたそうけん・1621-87〉ら多くの追従者を出している。茶道においても、古田織部〈ふるたおりべ・1544-1615〉に学び、小堀遠州〈こぼりえんしゅう・1579-1647〉に並ぶ傑出した存在であった。この手紙は、光悦が京の町に居住の養嗣子光瑳〈こうさ・1578-1637〉に、江戸の本阿弥家からの到来物の鮭を裾分けするに際して添えたもの。当節、気分よく、書の揮毫に励んでいる旨の近況と、9月晦日か10月朔日に京へ出ると告げている。つまりこれは、鷹ヶ峰から上京・本阿弥辻子の光瑳に宛てたものである。光悦と光瑳は20歳違い、宛所に光瑳老としたためているので、光悦晩年の筆と知る。「江戸より上り申し候間、鮭を進じ入れ候。拙者、気相能く、物を書き申し候。御心易かるべく候。晦日、朔日(十月一日)時分、出京せしむべく候。かしく。九ノ二十五日。光悦(花押)/光瑳老光悦(花押)座下」

(釈文)

従江戸上申候間鮭 進入候拙者気相能物をかき申候可御心易候晦日朔日時分可令出京候かしく九ノ廿五日光悦(花押)[封]光瑳老 光悦(花押)座下     】
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源氏物語画帖「その二十九 行幸」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

29 行幸(光吉筆)=(詞)阿野実顕(一五八一~一六四五)   源氏36歳冬-37歳春 

光吉・御行.jpg

源氏物語絵色紙帖  行幸  画・土佐光吉
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=1900641&data_id=310

阿野実顕・御行.jpg

源氏物語絵色紙帖  行幸 詞・阿野顕 
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900641&parent_data_id=310&data_id=513

(「阿野実顕」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/30/%E8%A1%8C%E5%B9%B8%E3%83%BB%E5%BE%A1%E5%B9%B8_%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B8%96_%E7%8E%89%E9%AC%98%E5%8D%81

蔵人の左衛門尉を御使にて、雉一枝たてまつらせたまふ。仰せ言には何とかや、さやうの折のことまねぶに、わづらはしくなむ。
  雪深き小塩山にたつ雉の古き跡をも今日は尋ねよ
太政大臣のかかる野の行幸に仕うまつりたまへる例などやありけむ大臣御使をかしこまりもてなさせたまふ
  小塩山深雪積もれる松原に今日ばかりなる跡やなからむ
(第一章 玉鬘の物語 冷泉帝の大原野行幸 第三段 行幸、大原野に到着)

1.3.2 蔵人の左衛門尉を御使にて、 雉一枝たてまつらせたまふ。 仰せ言には何とかや、さやうの折のことまねぶに、わづらはしくなむ。
(蔵人で左衛門尉を御使者として、雉をつけた一枝を献上あそばしなさった。仰せ言にはどのようにあったか、そのような時のことを語るのは、わずらわしいことなので。)
1.3.3 雪深き小塩山にたつ雉の 古き跡をも今日は尋ねよ
(雪の深い小塩山に飛び立つ雉のように、古例に従って今日はいらっしゃればよかったのに。)
1.3.4 太政大臣の、かかる野の行幸に仕うまつりたまへる例などやありけむ。大臣、御使をかしこまりもてなさせたまふ。
(太政大臣が、このような野の行幸に供奉なさった先例があったのであろうか。大臣は、御使者を恐縮しておもてなしなさる。)
1.3.5 小塩山深雪積もれる松原に 今日ばかりなる跡やなからむ
(小塩山に深雪が積もった松原に、今日ほどの盛儀は先例がないでしょう。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十九帖 行幸
 第一章 玉鬘の物語 冷泉帝の大原野行幸
  第一段 大原野行幸
  第二段 玉鬘、行幸を見物
  第三段 行幸、大原野に到着
(「阿野実顕」書の「詞」) → 1.3.2 1.3.3 1.3.4 1.3.5
  第四段 源氏、玉鬘に宮仕えを勧める
  第五段 玉鬘、裳着の準備
 第二章 光源氏の物語 大宮に玉鬘の事を語る
  第一段 源氏、三条宮を訪問
  第二段 源氏と大宮との対話
  第三段 源氏、大宮に玉鬘を語る
  第四段 大宮、内大臣を招く
  第五段 内大臣、三条宮邸に参上
  第六段 源氏、内大臣と対面
  第七段 源氏、内大臣、三条宮邸を辞去
 第三章 玉鬘の物語 裳着の物語
  第一段 内大臣、源氏の意向に従う
  第二段 二月十六日、玉鬘の裳着の儀
  第三段 玉鬘の裳着への祝儀の品々
  第四段 内大臣、腰結に役を勤める
  第五段 祝賀者、多数参上
  第六段 近江の君、玉鬘を羨む
  第七段 内大臣、近江の君を愚弄


http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3589

源氏物語と「行幸」(川村清夫稿)

【  玉鬘は、大原野へ行幸する冷泉帝の行列に、光源氏に似た帝の美貌に見とれると同時に、父の内大臣(頭中将)の姿を初めて見た。そこで光源氏は玉鬘に、宮中へ出仕をすすめた。光源氏は内大臣に、玉鬘の裳着(成人式)に立ち会うよう依頼したが、内大臣は彼女が実の娘だと知らないので遠慮しようとした。そこで光源氏は内大臣に、玉鬘が彼の娘であることを打ち明け、内大臣は快諾、晴れて父と娘の対面がかなったのである。

 それでは、光源氏が内大臣に玉鬘が彼の娘であることを打ち明ける場面を、定家自筆本、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(定家自筆本原文)
そのついでに、ほのめかし出でたまひてけり。大臣、
「いとあはれに、めづらかなることにもはべるかな」と、まづうち泣きたまひて、「そのかみより、いかになりにけむと尋ね思うたまへしさまは、何のついでにかはべりけむ、愁へに堪へず、漏らし聞こしめさせし心地なむしはべる。今かく、すこし人数にもなりはべるにつけて、はかばかしからぬ者どもの、かたがたにつけてさまよひはべるを、かたくなしく、見苦しと見はべるにつけても、またさるさまにて、数々に連ねては、あはれに思うたまへらるる折に添へても、まづなむ思ひたまへ出でらるる」
とのたまふついでに、かのいにしへの雨夜の物語に、いろいろなりし御睦言の定めを思し出でて、泣きみ笑ひみ、皆うち乱れたまひぬ。

(渋谷現代語訳)
その機会に、ちらと姫君のことをおっしゃったのであった。内大臣、
「まことに感慨深く、またとなく珍しいことでございますね」と、何よりも先お泣きになって、「その当時からどうしてしまったのだろうと捜しておりましたことは、何の機会でございましたでしょうか、悲しさに我慢できず、お話しお耳に入れましたような気が致します。  
 今このように、少しは一人前にもなりまして、つまらない子供たちが、それぞれの縁談を頼ってうろうろ致しておりますのを、体裁が悪く、みっともないと思っておりますにつけても、またそれはそれとして、数々いる子供の中では、不憫だと思われる時々につけても、真っ先に思い出されるのです」
 とおっしゃるのをきっかけに、あの昔の雨夜の物語の時に、さまざまに語った体験談の結論をお思い出しになって、泣いたり笑ったり、すっかり打ち解けられた。

(ウェイリー英訳)
Genji said at last, and without going into the whole story, broke to To no Chujo the news that Yugao was long ago dead, and that Tamakatsura had for some while been living with him.
Tears sprang to Chujo’s eyes. “I think that at the time when I first lost sight of her,” he said at last, “I told you and some of my other friends about my endeavors to trace Yugao and her child. It would have been better to speak of the matter, but I was so wretched that I could not contain myself. However, the search brought to result, and at last I gave up all hope. It was only recently, when my accession to high office induced all kinds of odd and undesirable creatures in every quarter to claim relationship with me, that I began to think once more about this true child of mine. How much more gladly would I have acknowledged and welcomed Yugao’s daughter than the band of discreditable and unconvincing claimants who henceforward thronged my gates! But now that I know she is in good hands…” Gradually the conversation drifted back to that rainy night and to the theories which each of them had then put forward. Had life refuted or confirmed them? And so, between tears and laughter, the talk went on, with not a shade of reproach or coolness on either side, till morning was almost come.

(サイデンステッカー英訳)
Genji presently found a chance to turn to his main subject.
“How perfectly extraordinary.” To no Chujo was in tears. “I believe that my feelings once got the better of me and I told you of my search for the girl. As I have risen to my modest position in the world I have gathered my stupid daughters around me, not omitting the least-favored of them. They have found ways to make themselves known. And when I think of the lost ones, it is she who comes first to mind.”
As they remembered the confessions made and the conclusions reached that rainy night, they laughed and wept and the earlier stiffness disappeared.

 内大臣の台詞の内容が難解で、翻訳しにくいのだが、ウェイリー訳が冗長なのに対して、サイデンステッカー訳は簡潔である。「いとあはれに、めづらかなることにもはべるかな」をウェイリーは省略したが、サイデンステッカーは”How perfectly extraordinary”と訳している。ウェイリー訳にある”It would have been better to speak of the matter … at last I gave up all hope”と”How much more gladly would I have acknowledged… thronged my gates”は余計である。「はかばかしからぬ者どもの、かたがたにつけてさまよひはべるを、かたくなしく、見苦しと見はべるにつけても」を、ウェイリーは”induced all kinds of odd and undesirable creatures in every quarter to claim relationship with me”と訳しているが、誤訳である。内大臣は子供たちの縁談が見つからないのを嘆いているのである。サイデンステッカーは”I have gathered my stupid daughters around me not omitting the least-favored of them. They have found ways to make themselves known”と訳しているが、踏み込み過ぎた超訳である。

玉鬘が大切にされるのを近江の君はうらやむが、内大臣から笑われてしまうのである。】



(「三藐院ファンタジー」その十九)

実顕・詠草.jpg

「阿野実顕筆二首和歌懐紙」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/662

【阿野実顕〈あのさねあき・1581-1645〉は、江戸時代初期の公卿。初名実政、のち実治。天正20年〈1592〉に実顕と改める(12歳)。大和国内山上乗院の住持、休庵(阿野実時)の子。家職の神楽を代々伝える阿野家が中絶しないよう還俗して、祖父季時の子として家督を継いだ。正二位・権大納言に至る。細川幽斎・中院通村・烏丸光広らから和歌を学んだ。この懐紙は、位署に「左近衛権中将」とある。実顕は慶長12年〈1607〉に左近衛権中将となり、同17年2月28日に参議に進んでいることから、27~32歳の筆跡と知る。字形や字配りなどに、心なしか未熟の面影が漂うようにも思われる。が、後年、光悦流の名手として鳴った実顕が、早くもこの時期に本阿弥光悦の書風を追慕していたさまがうかがえる。「秋の日、同じく二首の和歌を詠める/左近衛権中将藤原実顕/菊薫衣/けふも猶袖こそかほれ/きくのはな一夜の程の/へだてやはある/海眺望/朝ぼらけ浪もはるかに/なごの海や日影にうかぶ/あまのつり舟」

(釈文)

秋日同詠二首和歌/左近衛権中将藤原実顕/菊薫衣/けふも猶袖こそかほれ/きくのはな一夜の程の/へだてやはある/海眺望朝ぼらけ浪もはるかに/なごの海や日影にうかぶ/あまのつり舟 】

(参考)

「近衛家―五摂家筆頭」と他の摂家関連については、下記のアドレスが参考となる。

https://uchicomi.com/uchicomi-times/category/topix/main/13793/

 さらに詳しく、下記のアドレスで、「室町後期の近衛家と他の摂家―近衛政家を中心に(石原比呂志稿)」も閲覧することができる。

https://ci.nii.ac.jp/naid/120006346723

 これらに、『流浪の戦国貴族近衛前久―天下一統に翻弄された生涯 (中公新書): 谷口研語著』により、「公家社会の家礼慣行」(p177~)並びに「近衛家に家礼する人々」(p179)などを抜粋して置きたい。

【 「家礼または家来・家頼とも書き、カレイあるいはケライと読む。家来というと武家のものとばかり思われているかもしれないが、公家社会にも家礼しいう慣行があった。公家社会の家礼慣行とは、公家がそれぞれ五摂家いずれかの家に親しく出入りして臣礼をとりそれに対して、摂家ではその公家について、さまざまな便宜をはかったり、庇護を与えたりするものである。」(p177) 

「戦国時代の近衛家の家礼については、その全貌は明らかにできないが、江戸時代のある記録では、近衛家の家礼として、日野・山科・広橋・滋野井・平松・萩原・吉田・石井・八条・長谷・交野・錦小路・滋光寺・船橋・桜井・水無瀬・山井・七条・柳原・錦織・町尻・阿野・西洞院・難波・竹屋・櫛筍・四辻・万里小路・外山・園池・高倉・日野西・豊岡・北小路・富小路・三室戸・西大路・裏松・勘解由小路・持明院・石野・土御門・高野・正親町三条・芝山・裏辻・竹内・小倉の四八家があげられており、その他、九条家では二〇家、二条家では四家、一条家では三七家、鷹司家では八家の家礼があげられている。このほか、どの家の家礼でない公家が十余家ある。」(p178)

「戦国時代に近衛家の家礼であったと推定される家には、勧修寺・広橋・下冷泉・五条・山科・吉田・飛鳥井・柳原・西洞院・四辻・万里小路・高倉・北小路・富小路・持明院・土御門・藤井・一条(河鰭)などの諸家がある。ただし、これらが前久の代にもそうであったかどうかは、一部をのぞいては、はっきりしない。」(p179)

「久我事件(永禄十年十月に後宮で起きた不祥事、近衛家と久我家とは極めて親近の関係にあり、権大納言久我通俊関連の事件)の時、前久は中山・山科・勧修寺・持明院・万里小路・四辻・甘露寺・正親町・五辻・烏丸・薄・三条・柳原らの公家衆を自邸に招集して協議しているが、これらはいずれも近衛家の家礼だったのではないかと考えられる。」(p179)

「家礼の仕方にも親疎があり、西洞院や北小路・藤井などは近衛家の家司(けいし=親王家・内親王家・摂関家および三位以上の家に置かれ、家政をつかさどった職)のごとき立場にあった。」(p179)     】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%87%8E%E5%AE%B6

【 阿野家(あのけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院流・滋野井庶流。家業は神楽・有職故実。家紋は唐花。近衛家の家礼。江戸時代の家禄は478石。(旧家、外様)。
16代実顕が阿野家を再興する。実顕は慶長17年(1612年)公卿に列して正二位権大納言に進み、江戸時代の阿野家はこれを極位極官としたが、40代で没した者が多い関係で実際に極位極官に達したのは18代公業・19代実藤・21代公緒・23代公縄の4代にとどまる。】
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源氏物語画帖「その二十八 野分」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

28 野分(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三)  源氏36歳秋 

光吉・野分.jpg

源氏物語絵色紙帖  野分  画・土佐光吉
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=1891335&data_id=309

尊純法親王・野分.jpg

源氏物語絵色紙帖  野分  詞・青蓮院尊純
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=1891335&data_id=309

(「青蓮院尊純」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/29/%E9%87%8E%E5%88%86_%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%81%8D%E3%83%BB%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%81%91%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%B8%96_%E7%8E%89%E9%AC%98

東の対の南の側に立ちて、御前の方を見やりたまへば、御格子、まだ二間ばかり上げて、ほのかなる朝ぼらけのほどに、御簾巻き上げて人びとゐたり。高欄に押しかかりつつ、若やかなる限りあまた見ゆ。うちとけたるはいかがあらむ、さやかならぬ明けぼののほど、色々なる姿は、いづれともなくをかし。童女下ろさせたまひて、虫の籠どもに露飼はせたまふなりけり。紫苑、撫子、濃き薄き衵どもに、女郎花の汗衫などやうの、時にあひたるさまにて、四五人連れて、ここかしこの草むらに寄りて、色々の籠どもを持てさまよひ、撫子などのいとあはれげなる枝ども取り持て参る、霧のまよひは、いと艶にぞ見えける。
(第一章 夕霧の物語 継母垣間見の物語 第六段 夕霧、中宮を見舞う)

1.6.1 東の対の南の側に立ちて、御前の方を見やりたまへば、御格子、まだ二間ばかり上げて、ほのかなる朝ぼらけのほどに、御簾巻き上げて人びとゐたり。
(東の対の南の側に立って、寝殿の方を遥かに御覧になると、御格子は、まだ二間ほど上げたばかりで、かすかな朝日の中に、御簾を巻き上げて、女房たちが座っていた。)

1.6.2 高欄に押しかかりつつ、若やかなる限りあまた見ゆ。 うちとけたるはいかがあらむ、 さやかならぬ明けぼののほど、色々なる姿は、いづれともなくをかし。
(高欄にいく人も寄り掛かっている、若々しい女房ばかりが大勢見える。気を許している姿はどんなものであろうか、はっきり見えない早朝では、色とりどりの衣装を着た姿は、どれもこれも美しく見えるものでる。)

1.6.3 童女下ろさせたまひて、虫の籠どもに露飼はせたまふなりけり。紫苑、撫子、濃き薄き衵どもに、女郎花の汗衫などやうの、時にあひたるさまにて、四、五人連れて、ここかしこの草むらに寄りて、色々の籠どもを持てさまよひ、撫子などの、いとあはれげなる枝ども取り持て参る、霧のまよひは、いと艶にぞ見えける。
(童女を庭にお下ろしになって、いくつもの虫籠に露をおやりになっていらっしゃるのであった。紫苑、撫子、濃い薄い色の袙の上に、女郎花の汗衫などのような、季節にふさわしい衣装で、四、五人連れ立って、あちらこちらの草むらに近づいて、色とりどりの虫籠をいくつも持ち歩いて、撫子などの、たいそう可憐な枝をいく本も取って参上する、その霧の中に見え隠れする姿は、たいそう優艷に見えるのであった。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十八帖 野分
 第一章 夕霧の物語 継母垣間見の物語
  第一段 八月野分の襲来
  第二段 夕霧、紫の上を垣間見る
  第三段 夕霧、三条宮邸へ赴く
  第四段 夕霧、暁方に六条院へ戻る
  第五段 源氏、夕霧と語る
  第六段 夕霧、中宮を見舞う
(「青蓮院尊純」書の「詞」) → 1.6.1 1.6.2 1.6.3 
 第二章 光源氏の物語 六条院の女方を見舞う物語
  第一段 源氏、中宮を見舞う
  第二段 源氏、明石御方を見舞う
  第三段 源氏、玉鬘を見舞う
  第四段 夕霧、源氏と玉鬘を垣間見る
  第五段 源氏、花散里を見舞う
 第三章 夕霧の物語 幼恋の物語
  第一段 夕霧、雲井雁に手紙を書く
  第二段 夕霧、明石姫君を垣間見る
  第三段 内大臣、大宮を訪う

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3582

源氏物語と「野分」(川村清夫稿)

【野分は第28番目の帖で、第22帖の玉鬘から第31帖の真木柱までの玉鬘十帖の一つである。この帖では主役は光源氏の子息である夕霧であり、光源氏は脇役に回っている。

 8月に台風(野分)が京の都を襲い、その時六条院を訪れていた夕霧は、継母である紫上の姿をのぞき見して、その美貌に一目ぼれしてしまう。野分の翌日に光源氏は秋好中宮(六畳御息所の娘)、明石の方、玉鬘、花散里を見舞うが、夕霧は光源氏が玉鬘に、とても親子とは思えない、むつみ合う姿をのぞき見して、驚くのである。

 野分の帖で、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の間で明らかな相違点が出てくる。ウェイリーは野分の帖を改作して、光源氏と玉鬘の場面を省略したのに対して、サイデンステッカーは原作のままに翻訳している。この場面を大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、サイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
かく戯れたまふけしきのしるきを、
「あやしのわざや、親子と聞こえながら、かく懐離れず、もの近かべきほどかは」
と目とまりぬ。

(渋谷現代語訳)
このようにふざけていらっしゃる様子がはっきりわかったので、
「妙なことだ。親子とは申せ、このように懐に抱かれるほど、馴れ馴れしくしてよいものだろうか」
と目がとまった。

(サイデンステッカー英訳)
He was rather startled at what he saw. They were father and daughter, to be sure, but it was not as if she were an infant for Genji to take in his arms, as he seemed about to do.

 サイデンステッカーは、夕霧の独白を表面的な状況描写に薄めて、光源氏と玉鬘のむつみ合う描写を強調している。

(大島本原文)
「見やつけたまはむ」と恐ろしけれど、あやしきに、心もおどろきて、なほ見れば、柱隠れにすこしそばみたまへりつるを、引き寄せたまへるに、御髪の並み寄りて、はらはらとこぼれかかりたるほど、女も、いとむつかしく苦しと思うたまへるけしきながら、さすがにいとなごやかなるさまして、寄りかかりたまへるは、
「ことと馴れ馴れしきにこそあめれ。いで、あなうたて。いかなることにかあらむ。思ひよらぬ隈なくおはしける御心にて、もとより見慣れ生ほしたてたまはぬは、かかる御思ひ添ひたまへるなめり。むべなりけりや。あな、疎まし」
と思ふ心も恥づかし。

(渋谷現代語訳)
「見つけられはしまいか」と恐ろしいけれども、変なので、びっくりして、なおも見ていると、柱の陰に少し隠れていらっしゃったのを、引き寄せなさると、御髪が横になびいて、はらはらとこぼれかかったところ、女も、とても嫌でつらいと思っていらっしゃる様子ながら、それでも穏やかな態度で、寄り掛かっていらっしゃるのは、
「すっかり親密な仲になっているらしい。いやはや、ああひどい。どうしたことであろうか。抜け目なくいらっしゃるご性分だから、最初からお育てにならなかった娘には、このようなお思いも加わるのだろう。もっともなことだが、ああ、嫌だ」
と思う自分自身までが気恥ずかしい。

(サイデンステッカー英訳)
Though on ready alert lest he be detected, Yugiri was spellbound. The girl turned away and sought to hide behind a pillar, and as Genji pulled her towards him her hair streamed over her face, hiding it from Yugiri’s view. Though obviously very uncomfortable, she let him have his way. They seemed on very intimate terms indeed. Yugiri was a little shocked and more than a little puzzled. Genji knew all about women, there could be no question of that. Perhaps because he had not had her with him to fret and worry over since girlhood it was natural that he should feel certain amorous impulses towards her. It was natural, but also repellent. Yugiri felt somehow ashamed, as if it were in measure his responsibility.

 サイデンステッカーの翻訳は説明調で、この帖の主役である夕霧の存在を軽視している。

(大島本原文)
「女の御さま、げに、はらからといふとも、すこし立ち退きて、異腹ぞかし」など思はむは、「などか、心あやまりもせざらむ」とおぼゆ。

(渋谷現代語訳)
「女のご様子は、なるほど、姉弟といっても、少し縁遠くて、異母姉弟なのだ」などと思うと、「どうして、心得違いを起こさないだろうか」と思われる。

(サイデンステッカー英訳)
She was a half sister and not a full sister and he saw that he could himself be tempted. She was very tempting.

 サイデンステッカーの翻訳は、あまりにも無味乾燥で、夕霧の心理状態を訳し切れておらず、原文に忠実とは言えない。

 光源氏の玉鬘への不純な恋愛は、藤袴の帖まで続くのである。 】

(「三藐院ファンタジー」その十八)

尊純・月前扇.jpg

「尊純法親王筆短冊」」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/1257

【尊純法親王〈そんじゅんほうしんのう・1591-1653〉は、応胤法親王(おういんほうしんのう・伏見官貞敦親王の王子)の子。伯父の邦輔(くにすけ)親王の養子となり、さらに後陽成天皇の猶子となった。慶長三年〈1598〉に青蓮院(しょうれんいん)に入室、曼殊院(まんしゅいん)の良恕法親王〈りょうじょほうしんのう・1574-1643〉の弟子となって剃髪。法印大僧正に任じ、天台座主を2度にわたって務めた。承応2年〈1653〉、63歳で入寂。青蓮院歴代の故実に精通しており、尊円入道親王〈そんえんにゅうどうしんのう・1298-1356〉著『門葉記(もんようき)』の増補に加わった。書においては、尊朝法親王〈そんちょうほうしんのう・1552-97〉から伝授された尊円流(青蓮院流)の書法に習熟し、のちには尊純流の祖として尊重された。

(釈文)

月前扇:手に馴し扇も今は忘られてそでに待出る閨の月かげ 尊純        】

 「青蓮院尊純法親王」は、天台座主第一六五世「応胤法親王」の王子で、第一七三世・第一七七世の天台座主である。「源氏物語画帖」では、最多の「篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花」の五帖の「詞書」の筆者で、この他に、天台座主では、第一六九世の「常胤法親王」が「初音・胡蝶」、第一七〇世「良恕法親王」が、「関屋・絵合・松風」の筆者になっている。
 そして、「青蓮院尊純法親王」は、「曼殊院良恕法親王」の直弟子で剃髪し、さらに、「尊朝法親王」(第一六七世「天台座主」) から「尊円流」(青蓮院流)の書法を伝授され、後に、
「尊純流」の祖と崇められている、キャリアからすると、「寛永三筆」の一人の「近衛信尹」(三藐院流)や、「寛永三筆」と並び名高い「烏丸光広」(光広流)以上の、正統派ということになろう。
 これらの、関係する「歴代天台座主」との関連は、下記のアドレスのものが参考となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%BA%A7%E4%B8%BB

【※応胤法親王(第165世。伏見宮貞敦親王第5王子)
覚恕(第166世。後奈良天皇第3皇子)
※尊朝法親王(第167世。伏見宮邦輔親王第6王子。書流尊朝流を創立)
※※常胤法親王(第168世。伏見宮邦輔親王第5王子) → (初音・胡蝶)
最胤法親王(第169世。伏見宮邦輔親王第8王子)
※※良恕法親王(第170世。誠仁親王第3王子)    → (関屋・絵合・松風)
堯然法親王(第171、174、178世。後陽成天皇第6皇子)
慈胤法親王(第172、176、180世。後陽成天皇第2皇子)
※尊純法親王(第173世、177世。第165世応胤法だい親王王子)→(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花) 】


(参考)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/714

「尊朝法親王筆詠草」周辺

尊朝法親王.jpg

「尊朝法親王筆詠草」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

【尊朝法親王〈そんちょうほうしんのう・1552-97〉は、伏見宮邦輔親王〈くにすけしんのう・1513-63〉の第六王子。弘治元年〈1555〉4歳で京都粟田口の青蓮院に入室。永禄元年〈1558〉正親町天皇の猶子となる。同5年11歳で得度して、尊朝と号し、翌6年に親王宣下を賜った。元亀2年〈1571〉の織田信長の比叡山焼き打ち以来、廃墟となっていた延暦寺を再興し、みずから天台座主となる。歴代の青蓮院門跡の中でもとりわけ能書として名高く、その遺墨は尊重され、数多く伝存している。尊朝法親王の書は、青蓮院流から独立させて、尊朝流として位置づけられている。また、『墨池掌譜』『入木道口伝』などの入木道(書道)に関する貴重な著作も残している。これは「対菊待月」を歌題の歌会に詠進するにあたり2首詠じ、添削を乞うた詠草である。「尊朝上る」とあることにより、歌道の師と仰ぐ父・邦輔親王に批評を求めたものであろう。紙背に「天正十三重陽」との書入れがある。が、『続史愚抄』によれあば、天正十三年九月九日に行われた歌会の詠題は「菊送多秋」で、歌題が異なる。この詠草は、別の歌会が催されるにあたって書かれたものか。「(端裏書:天正十三重陽)尊朝上(たてまつる)/対菊待月/置く露の光待つ間も白菊の/籬に遅き山の端の月/色々の籬の菊の宵の間に待たるるものは月の影かな」

(釈文)

(端裏書=天正十三重陽)尊朝上/対菊待月/をく露のひかりまつまも白菊のまがきにをそき山の端の月/色/\の籬の菊のよひの間に/またるゝものは月のかげ哉

(メモ)

端裏書(はしうら‐がき)=端裏の部分に記事を書くこと。また、その記事。文書の受取人が、受け取ったとき、その日付と内容を略記するもの。端裏。(精選版 日本国語大辞典)   】
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源氏物語画帖「その二十七 篝火」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

27 篝火(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三)  源氏36歳秋

光吉・篝火.jpg

源氏物語絵色紙帖  篝火  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/512297/2

青蓮院・篝火.jpg

源氏物語絵色紙帖  篝火 詞・青蓮院尊純
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/512297/1

(「青蓮院尊純」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/28/%E7%AF%9D%E7%81%AB_%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%82%8A%E3%81%B3%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B8%83%E5%B8%96_%E7%8E%89%E9%AC%98%E5%8D%81%E5%B8%96%E3%81%AE

篝火にたちそふ恋の煙こそ 世には絶えせぬ炎なりけれ
いつまでとかや。ふすぶるならでも、苦しき下燃えなりけりと聞こえたまふ。女君、あやしのありさまやと思すに、
行方なき空に消ちてよ篝火のたよりにたぐふ煙とならば
(第一章 玉鬘の物語 第二段 初秋の夜、源氏、玉鬘と語らう)

1.2.6  篝火にたちそふ恋の煙こそ 世には絶えせぬ炎なりけれ
(篝火とともに立ち上る恋の煙は、永遠に消えることのないわたしの思いなのです。)
1.2.7  いつまでとかや。ふすぶるならでも、苦しき下燃えなりけり
(つまで待てとおっしゃるのですか。くすぶる火ではないが、苦しい思いでいるのです。)
1.2.8  と聞こえたまふ。女君、「 あやしのありさまや」と思すに、
(と申し上げなさる。女君は、「奇妙な仲だわ」とお思いになると、)
1.2.9  行方なき空に消ちてよ篝火の たよりにたぐふ煙とならば
(果てしない空に消して下さいませ、篝火とともに立ち上る煙とおっしゃるならば)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十七帖 篝火
 第一章 玉鬘の物語 養父と養女の禁忌の恋物語
  第一段 近江君の世間の噂
  第二段 初秋の夜、源氏、玉鬘と語らう
(「青蓮院尊純」書の「詞」)  →  1.2.6 1.2.7 
第三段 柏木、玉鬘の前で和琴を演奏

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3309

源氏物語と「篝火」(川村清夫稿)

【 源氏物語の27番目の帖「篝火」は短い帖である。光源氏は内大臣(頭中将)の娘である近江の君の悪評を知り、まわりがとりつくろえば悪評は立たないものだと言う。光源氏は召使に篝火を焚かせ、養女として扱っている玉鬘に添い寝して、彼女への思慕の情を打ち明けて困惑させる。そこへ、光源氏の息子夕霧が内大臣の息子柏木と合奏する音が聞こえてくるのである。では近江の君に関する光源氏の所見と、彼と玉鬘とのやりとりを、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)「ともあれ、かくもあれ、人見るまじくて籠もりゐたらむ女子を、なほざりのかことにても、さばかりにものめかし出でて、かく、人に見せ、言ひ伝へらるるこそ、心得ぬことなれ。いと際際しうものしたまふあまりに、深き心をも尋ねずもて出でて、心にもかなはねば、かくはしたなきなるべし。よろづのこと、もてなしからにこそ、なだらかなるものなめれ」

(渋谷現代語訳)「何はともあれ、人目につくはずもなく家に籠もっていたような女の子を、少々の口実はあったにせよ、あれほど仰々しく引き取った上で、このように、女房として人前に出して、噂されたりするのは納得できないことだ。たいそう物事にけじめをつけすぎなさるあまりに、深い事情も調べずに、お気に入らないとなると、このような体裁の悪い扱いになるのだろう。何事も、やり方一つで、穏やかにすむものなのだ」

(ウェイリー英訳)
“All this is very puzzling,” said Genji. “Her father gave orders that she was to be kept in close confinement; how comes it, then, that everyone seems to know so much about her? One hears nothing but stories of her ridiculous behavior. So far from keeping the poor half-witted creature out of harm’s way he seems to be positively making an exhibition of her. Here again I think I see the consequences of his obstinate belief in the impeccability of his own family. He sent for her without making the slightest enquiry, convinced that since his blood ran in her veins she must necessarily be beyond reproach. Finding her an exception to this rule he has taken his revenge by deliberately exposing her to derision. However, I can hardly believe that after all the trouble he has taken, it can really give him much satisfaction that the mere mention of her name should evoke peals of laughter…”

(サイデンステッカー英訳)
“I do not like it,” said Genji. “She should have been kept out of sight, and here for no reason at all he brings her grandly into his house and kets the whole world laugh at her. He has always been quick to take a stand, and he probably sent for her without finding out much of anything about her, and when he saw that she was not what he wanted he did what he has done. These things should be managed quietly.”

 ここでもウェイリー訳は冗長で、サイデンステッカー訳の方が簡潔である。

(大島本原文)
「篝火にたちそふ恋の煙こそ
世には絶えせぬ炎なりけれ
いつまでとかや、ふすぶるならでも、苦しき下燃えなりけり」
と聞こえたまふ。女君、「あやしのありさまや」と思すに、
「行方なき空に消ちてよ篝火の
たよりにたぐふ煙とならば
人のあやしと思ひはべらむこと」
とわびたまへば、「くはや」とて、出でたまふに、東の対の方に、おもしろき笛の音、箏に吹きあはせたり。

(渋谷現代語訳)
「篝火とともに立ち上る恋の炎は
永遠に消えることのない私の思いなのです
いつまで待てとおっしゃるのですか。くすぶる火ではないが、苦しい思いでいるのです」
と申し上げなさる。女君は「奇妙な仲だわ」とお思いになると、
「果てしない空に消して下さいませ
篝火とともに立ち上る煙とおっしゃるならば
人が変だと思うことでございますわ」
とお困りになるので、「さあて」と言って、お出になると、東の対の方に美しい笛の音が、箏と合奏していた。

(ウェイリー英訳)“How long, like the smoldering watch-fire at the gate, must my desire burn only with an inward flame?”
“Would that, like the smoke of the watch-fires that mounts and vanishes at random in the empty sky, the smoldering flame of passion could burn itself away!” So she recited, adding : “I do not know what has come over you. Please leave me at once or people will think…”
“As you wish,” he answered, and was stepping into the courtyard, when he heard a sound of music in the wing occupied by Lady from the Village of Falling Flowers. Someone seemed to be playing the flute to the accompaniment of a Chinese zither.

(サイデンステッカー英訳)“They burn, these flares and my heart, and send off smoke.
The smoke from my heart refuses to be dispersed.
“For how long?”
Very strange, she was thinking.
“If from your heart and the flares the smoke is the same.
Then one might expect it to find a place in the heavens.
“I am sure that we are the subject of much curious comment.”
“You wish me to go?” But someone in the other wing had taken up a flute, someone who knew how to play, and there was a Chinese koto too.

 ここでは二人の和歌、台詞に関して、ウェイリー訳の方がサイデンステッカー訳より文学的センスが豊かで、わかりやすい。
 養女として育てている玉鬘に恋慕するとは、光源氏の行動様式には共感できない。    】

(「三藐院ファンタジー」その十七)

尊純法親王・詠草.jpg

「尊純法親王筆和歌懐紙」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/814

【 尊純法親王〈そんじゅんほうしんのう・1591-1653〉は伏見宮応胤入道親王〈おういんにゅうどうしんのう・1521-98〉の王子。伯父である邦輔親王〈くにすけしんのう・1513-63〉の養子となり、さらに後陽成天皇〈ごようぜいてんのう・1571-1617〉の猶子となった。慶長3年〈1598〉青蓮院に入室し、のち天台座主に2度補せられた。近衛信尹から和歌の添削を受けたとされ、禁裏や近衛家の歌会にたびたび出詠している。また、尊朝法親王〈そんちょうほうしんのう・1552-97〉から青蓮院流の書法を伝授され、これを聖護院道澄に授けたという。能書家として当時から高名で、画もまた能くした。この懐紙は、寛永17年〈1640〉に親王宣下を受け尊純を名乗った時(50歳)より以後、63歳で没するまでの執筆である。「「宮の庭菊を翫ぶ」ということを詠める和歌/尊純/九重の庭にし咲けば幾秋を重ねてや見む代々の白菊」 

(釈文)

詠翫宮庭菊/和歌/尊純/九重のにはにし/さけば幾秋をかさ/ねてやみむ代々の/白ぎく     】

「源氏物語画帖」の、二十三名中の「詞書」の筆者の中で、一番の年長者は、「妙法院常胤法親王」で、その皇族に近衛家(※)の関係者も入れての、年齢順の「詞書」の執筆担当の「帖名」を列記すると、次のとおりとなる。

①妙法院常胤法親王(正親町天皇の猶子・一五四八~一六二一)  →(初音・胡蝶)
③※近衛信尹→(信尹の養父・太郎君の父・一五六五~一六一四)→(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)
④後陽成院周仁(誠仁親王の第一皇子・一五七一~一六一七) →(桐壺・箒木・空蝉)
➄大覚寺空性法親王(誠仁親王の第二皇子・一五七三~一六五〇) →(紅葉賀・花宴)
⑥曼殊院良恕法親王(誠仁親王の第三皇子・一五七三~一六四三) →(関屋・絵合・松風)
⑧八条宮智仁親王(誠仁親王の第六皇子・一五七九~一六二九) →(葵・賢木・花散里) 
⑬青蓮院尊純(応胤法親王の子・一五九一~一六五三)→(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
⑯※近衛太郎(君)→(近衛信尹息女・慶長三年(一五九八)誕生?)・ 信尋の正室?)→(花散里・賢木)
⑰※近衛信尋→(後陽成天皇の子・後水尾天皇の弟・信尹の養子・太郎君の夫?・一五九九~一六四九)→(須磨・蓬生)

 この「皇族・近衛家関係者」の以外の、年齢順の「詞書」の執筆担当の「帖名」を列記すると、次のとおりとなる。

②花山院定煕(一五五八~一六三九) → 夕霧・匂兵部卿宮・紅梅
③久我敦通(一五六五~?)     → 椎本
⑦日野資勝(一五七七~一六三九)  → 真木柱・梅枝 
⑧烏丸光広(一五七九~一六三八)   → 蛍・常夏
⑨阿部実顕(一五八一~一六四五) → 行幸・藤袴(蘭)
⑨四辻季継(一五八一~一六三九) → 竹河・橋姫
⑩西洞院時直(一五八四~一六三六)→ 若紫・末摘花
⑪飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)→ 夕顔・明石・
⑫中村通村(一五八七~一六五三) → 若菜下・柏木
⑬久我通前(一五九一~一六三四) → 総角 
⑭冷泉為頼(一五九二~一六二七) → 幻・早蕨
⑮菊亭季宣(一五九四~一六五二) → 藤裏葉・若菜上
⑱烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) → 薄雲・朝顔(槿)
⑱西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)→ 横笛・鈴虫・御法

 こうして、「源氏物語画帖」の二十三名中の「詞書」の筆者を見て行くと、次の「親子関係」がクローズアップされてくる。

④後陽成院周仁(誠仁親王の第一皇子・一五七一~一六一七)と⑰※近衛信尋→(後陽成天皇の子・後水尾天皇の弟・信尹の養子・太郎君の夫?・一五九九~一六四九)との「親子関係」

③※近衛信尹→(信尹の養父・太郎君の父・一五六五~一六一四)と⑰※近衛信尋→(後陽成天皇の子・後水尾天皇の弟・信尹の養子・太郎君の夫?・一五九九~一六四九)との「親子 (養父・養子) 関係」

③※近衛信尹→(信尹の養父・太郎君の父・一五六五~一六一四)と⑯※近衛太郎(君)→(近衛信尹息女・慶長三年(一五九八)誕生?)・ 信尋の正室?)との「親(父)子(娘)関係」

 そして、上記の「親子関係」というのは、後陽成天皇の子「信尋」(幼称は「四宮」)が、「信尹」(近衛家十八代当主)の養子になり、「近衛家」が「皇別摂家」となったことと軌を一にしている。
 ここに、もう一つの「親子関係」(⑧烏丸光広(一五七九~一六三八)と⑱烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)との「親子関係」)は、上記の「信尋」(近衛家十九代当主)と年齢が一歳年下の「光賢」とが、その側近の関係で、「光広」との番いになっているようにも感じられる。
 また、この「源氏物語画帖」の執筆者を、便宜上次の二期に分け、その「後期」の若手の執筆者に属しながら、一番最多の五帖(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)を執筆している
「⑬青蓮院尊純」は、この「源氏物語画帖」の「詞書」の、最右翼の執筆者ということになろう。

(前期: 「後陽成院」没(一六一七年)前)

①妙法院常胤法親王(正親町天皇の猶子・一五四八~一六二一)  →(初音・胡蝶)
②花山院定煕(一五五八~一六三九) → 夕霧・匂兵部卿宮・紅梅
③※近衛信尹→(信尹の養父・太郎君の父・一五六五~一六一四)→(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)
③久我敦通(一五六五~?)     → 椎本
④後陽成院周仁(誠仁親王の第一皇子・一五七一~一六一七) →(桐壺・箒木・空蝉)
➄大覚寺空性法親王(誠仁親王の第二皇子・一五七三~一六五〇) →(紅葉賀・花宴)
⑥曼殊院良恕法親王(誠仁親王の第三皇子・一五七三~一六四三) →(関屋・絵合・松風)
⑦日野資勝(一五七七~一六三九)  → 真木柱・梅枝 
⑧八条宮智仁親王(誠仁親王の第六皇子・一五七九~一六二九) →(葵・賢木・花散里)
⑧烏丸光広(一五七九~一六三八)   → 蛍・常夏
⑨阿部実顕(一五八一~一六四五) → 行幸・藤袴(蘭)
⑨四辻季継(一五八一~一六三九) → 竹河・橋姫
⑩西洞院時直(一五八四~一六三六)→ 若紫・末摘花
⑪飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)→ 夕顔・明石・
⑫中村通村(一五八七~一六五三) → 若菜下・柏木

(後期: 「後陽成院」没(一六一七年)後)

⑬青蓮院尊純(応胤法親王の子・一五九一~一六五三)→篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花
⑬久我通前(一五九一~一六三四)  → 総角
⑭冷泉為頼(一五九二~一六二七) → 幻・早蕨
⑮菊亭季宣(一五九四~一六五二) → 藤裏葉・若菜上
⑯※近衛太郎(君)→(近衛信尹息女・慶長三年(一五九八)誕生?)・ 信尋の正室?)→(花散里・賢木)
⑰※近衛信尋→(後陽成天皇の子・後水尾天皇の弟・信尹の養子・太郎君の夫?・一五九九~一六四九)→(須磨・蓬生)
⑱烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) → 薄雲・朝顔(槿)
⑱西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)→ 横笛・鈴虫・御法
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源氏物語画帖「その二十六 常夏」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

26 常夏(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八)   源氏36歳夏

光吉・常夏.jpg

源氏物語絵色紙帖  常夏  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/512727/2

光広・常夏.jpg

源氏物語絵色紙帖  常夏  詞・烏丸光広
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/512727

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/27/%E5%B8%B8%E5%A4%8F_%E3%81%A8%E3%81%93%E3%81%AA%E3%81%A4%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%B8%96_%E7%8E%89%E9%AC%98%E5%8D%81%E5%B8%96%E3%81%AE

(「烏丸光広」書の「詞」)

いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。中将の君もさぶらひたまふ。親しき殿上人あまたさぶらひて、西川よりたてまつれる鮎、近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じて参らす。
(第一章 玉鬘の物語 養父と養女の禁忌の恋物語 第一段 六条院釣殿の納涼)

1.1.1  いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。 中将の君もさぶらひたまふ。親しき殿上人あまたさぶらひて、 西川よりたてまつれる鮎、 近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じて参らす。
(たいそう暑い日、東の釣殿にお出になって涼みなさる。中将の君も伺候していらっしゃる。親しい殿上人も大勢伺候して、西川から献上した鮎、近い川のいしぶしのような魚、御前で調理して差し上げる。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十六帖 常夏
 第一章 玉鬘の物語 養父と養女の禁忌の恋物語
  第一段 六条院釣殿の納涼
(「烏丸光広」書の「詞」) →  1.1.1 
  第二段 近江君の噂
  第三段 源氏、玉鬘を訪う
  第四段 源氏、玉鬘と和琴について語る
  第五段 源氏、玉鬘と和歌を唱和
  第六段 源氏、玉鬘への恋慕に苦悩
  第七段 玉鬘の噂
  第八段 内大臣、雲井雁を訪う
 第二章 近江君の物語 娘の処遇に苦慮する内大臣の物語
  第一段 内大臣、近江君の処遇に苦慮
  第二段 内大臣、近江君を訪う
  第三段 近江君の性情
  第四段 近江君、血筋を誇りに思う
  第五段 近江君の手紙
  第六段 女御の返事

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3299

源氏物語と「常夏」(川村清夫稿)

【 内大臣(頭中将)の隠し子玉鬘は、光源氏が養女同然に育てていたが、内大臣には他に近江の君という娘がいた。彼女は末摘花、源典侍以上の、「源氏物語」の笑われ役になっている。「常夏」の帖では、彼女が五節の君と双六に夢中になっているのを内大臣がのぞいて、器量が良くないのを嘆く場面がある。大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、アーサー・ウェイリーとエドワード・サイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
手をいと切におしもみて、
「せうさい、せうさい」
とこふ声ぞ、いと舌疾きや。「あな、うたて」と思して、御供の人の前駆追ふをも、手かき制したまうて、なほ、妻戸の細目なるより、障子の開きあひたるを見入れたまふ。この従姉妹も、はた、けしきはやれる、
「御返しや、御返しや」
と筒をひねりて、とみに打ち出でず、中に思ひはありやすらむ、いとあさへたるさまどもしたり。容貌はひちちかに、愛敬づきたるさまして、髪うるはしく、罪軽げなるを、額のいと近やかなると、声のあはつけさとにそこなはれたるなめり。取りたててよしとはなけれど、異人とあらがふべくもあらず、鏡に思ひあはせられたまふに、いと宿世心づきなし。

(渋谷現代語訳)
手をしきりに揉んで、
「小賽、小賽」
と祈る声は、とても早口であるよ。「ああ、情ない」とお思いになって、お供の人が先払いするのをも、手で制しなさって、やはり、妻戸の細い隙間から、襖の開いているところをお覗き込みなさる。この従姉妹も、同じく、興奮していて、
「お返しよ、お返しよ」
と筒をひねり回して、なかなか振り出さない。心中に思っていることはあるのかも知れないが、たいそう軽薄な振舞をしている。器量は親しみやすく、かわいらしい様子をしていて、髪は立派で、欠点はあまりなさそうだが、額がひどく狭いのと、声の上っ調子なのとで台なしになっているようである。取り立てて良いというのではないが、他人だと抗弁することもできず、鏡に映る顔が似ていらっしゃるので、まったく運命が恨めしく思われる。

(ウェイリー英訳)
The two were playing Double Sixes, and the Lady of Omi, perpetually clasping and unclasping her hands in her excitement, was crying out ”Low, low! Oh, how I hope it will be low!” at the top of her voice, which rose at every moment to a shriller and shriller scream. “What a creature!” thought To no Chujo, already in despair, and signaling his attendant, who were about to enter the apartments and announce him, that for a moment he intended to watch unobserved, he stood near the double door and looked through the passage window at a point where the paper did not quite meet the frame. The young dancer was entirely absorbed in the game. Shouting out: “A twelve, a twelve. This time I know it is going to be a twelve!” she continually twirled the dice cup in her hand, but could not bring herself to make the throw. Somewhere there, inside that bamboo tube, the right number lurked, she saw the two little stones with six pips on each… But how was one to know when to throw? Never were excitement and suspense more clearly marked on two young faces. The Lady of Omi was somewhat homely in appearance; but nobody (thought To no Chujo) could possibly call her downright ugly. Indeed, she had several very good points. Her hair, for example, could alone have sufficed to make up for many shortcomings. Two serious defects, however, she certainly had; her forehead was far too narrow, and her voice was appallingly loud and harsh. In a word, she was nothing to be particularly, proud of; but at the same time(and he called up before him the image of his own face as he knew it in the mirror) it would be useless to deny that there was a strong resemblance.

(サイデンステッカー英訳)
Her hands at her forehead in earnest supplication, she was rattling off her prayer at a most wonderous speed. “Give her a deuce, give her a deuce.” Over and over again. “Give her a deuce, give her a deuce.” This really was rather dreadful. Motioning his attendants to silence, he slipped behind a hinged door from which the view was unobstructed through sliding doors beyond. “Revenge, revenge,” shrieked Gosechi, the clever young woman who was her opponent. Gosechi was not to be outdone in earnestness or shrillness. She shook and shook the dicebox and was not quick to make her throw. If either of them had anything at all in her empty mind sha was not showing it. The Omi daughter was small and pretty and had beautiful hair, and could by no means have been described as an unrelieved scandal – though a narrow forehead and a too exuberant and indeed a torrential way of speaking canceled out her good points. No beauty, certainly, and yet it was impossible not to recognize immediately whose daughter she was. It made To no Chujo uncomfortable to realize that he might have been looking at his own mirror image.

ウェイリー訳は冗漫で、サイデンステッカー訳は簡潔である。「小賽」と「御返しや」を前者はlowとa twelve、後者はgive her a deuceとrevengeと訳している。「あな、うたて」を前者はWhat a creature!と露骨に訳し、後者は省略している。「中に思ひはありやすらむ」は、前者はSomewhere there, inside that bamboo tube, the right number lurked, she saw the two little stones with six pips on each… But how was one to know when to throw?と超訳して、後者はthe clever young womanと誤訳している。内大臣の落胆を表わす「異人とあらがふべくもあらず、鏡に思ひあはせられたまふに、いと宿世心づきなし」は、前者はbut at the same time (and he called up before him the image of his own face as he knew it in the mirror) it would be useless to deny that there was a strong resemblance、後者はit was impossible not to recognize immediately whose daughter she was. It made To no Chujo uncomfortable to realize that he might have been looking at his own mirror image.と訳している。

 近江の君は文学的教養も欠けていた。弘徽殿女御に手紙と和歌を送るが、あまりに出来が悪いので、女官たちの失笑を買うのである。 】

(「三藐院ファンタジー」その十六)

光広・西行.jpg

「西行法師行状絵巻」(奥書:烏丸光広「賛」) 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/1795

【 西行の出家から入滅までの生涯を描いた物語絵巻である。「西行物語絵巻」は数種類の写本があり、大きく「広本系」「略本系」「采女本系」「永正・寛永本系」の4種に分けられるが、本絵巻は、「采女本系」にあたる。巻末に、明応九年(1500)に槐下桑門(三条公敦(1439–1507))が記した奥書、すなわち、海田采女佑相保が絵を描き、詞書を公敦が書写したことが記される写本群であり、宮中に伝わった「禁裏御本」(海田采女佑相保筆)を原本とする。
 詞書は、巻第2のみ、烏丸光広(1579–1638)が独自の書風で認めている。同じく光広の命によって俵屋宗達(生没年不詳)が描いた2組の「西行物語絵巻」である、旧毛利家本(出光美術館所蔵)、旧渡辺家本(文化庁所蔵)との関係性が興味深い。宗達はたらしこみを用い、着衣の形状など随所に個性を発揮しているのに対し、本絵巻は原本である「禁裏御本」の姿を忠実に伝える模本とされる。確かに、西行が那智滝を拝む場面の、緑青と群青で鮮やかに描かれた山岳と、垂直に注ぎ落ちる滝壺の空間表現が力強く、室町時代の原本の姿が想起される。(松谷)  

西行〈さいぎょう・1118-90〉は、もともと鳥羽上皇〈とばじょうこう・1103-56〉の北面武士であったが、23歳で出家して諸国を行脚、放浪の歌人として生存中からその歌才を謳われ、『新古今和歌集』の代表的歌人の1人として声価を得ていた。没後もその声望は高まり、その生涯を歌と文で綴る『西行物語』が生まれ、さらに画面をともなった絵巻もつくられるようになった。詞書を藤原為家〈ふじわらのためいえ・1198-1275〉、絵を土佐経隆〈とさつねたか・生没年未詳〉と伝える「西行物語絵巻」(2巻・徳川黎明会および萬野家蔵)が最古の遺品(鎌倉時代・13世紀)として知られる。その後、明応9年〈1500〉に海田采女佑源相保〈かいだうねめのすけみなもとのすけやす・生没年未詳〉が描いた絵巻(4巻本)が作られた。その原本は現存しないが、その模写本がいくつか伝存する。そのうち、寛永7年〈1630〉9月、権大納言烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉がこの海田采女佑本を禁裏御所から借り出し、詞書はみずからが揮毫、画面を俵屋宗達〈たわらやそうたつ・生没年未詳〉に模写せしめたものが2種現存する(出光美術館本=毛利家旧蔵と、渡辺家蔵本)。これらはいずれも絵は宗達独自の画風で描かれ、かならずしも原本(海田采女佑本)に忠実とはいえない。これらに対してこのセンチュリー文化財団蔵本は、細緻を尽くした精妙な模写本、すなわち禁裏御本(海田采女佑本)の原本を再現するものとして注目される。ただ、巻第二の詞書のみを光広自身がみずからの書風で書写する。光広の「西行物語絵巻」に抱く執念をみる思いである。現世の無常と仏道専念による頓証菩提の思想をあらわした詞書からはじまり、西行の死を惜しむ場面まで、4巻あわせて57場面が描かれる。

[奥書釈文] 「右此四巻画図者/海田采女佑源相保/所筆也段々文字乃愚翁書焉/明応竜集庚申上陽月中浣日/槐下桑門」         】

https://objecthub.keio.ac.jp/object/1603

「耳底記」(烏丸光広著)

光広・耳底記.jpg

【 中世の歌学を江戸時代に伝えた、高名な武将歌人細川幽斎(1534–1610)の歌道の教えを、弟子の公家烏丸光広(1579–1638)が、慶長三年八月から幽斎の田辺籠城を挟む同七年十二月まで、70回以上にわたって記録した聞書の自筆原本である。質素な茶表紙の中央に光広の手で「耳底記」と記され、裏表紙にも同筆で「一二記」とある。前遊紙裏に光広花押が書かれ、内題は「幽斎口義 光廣記之」とある。1丁目表のみ平仮名書きで、同丁裏以降は速筆できる片仮名書きである。墨色は転変して墨滅も目立ち、末尾に白紙も多く残るなど、原本の趣をよく示している。系統立たない雑多な歌話の集成であるが、幽斎の動静とともに、幽斎が学んだ三条西家の正統的な歌学思想がうかがえる貴重な資料である。
 本書の「耳底記 光廣卿自筆」との箱書は、飛鳥井雅章(1611–79)筆と思われ、天理図書館蔵本の飛鳥井家蔵自筆本を写したとする安永五年(1776)の烏丸光祖奥書の記述と整合する。(佐々木)
[参考文献]大谷俊太『和歌史の「近世」─道理と余情─』ぺりかん社、2007年/
 『耳底記』は細川幽斎(1534–1610)・烏丸光広(1579–1638)師弟の高名さもあって尊重され、写本も少なくなく、版本も寛文元年(1661)・元禄二年(1689)・同十五年(「和歌奥義抄」)本や数種の無刊記本などの多数を確認できる。公家関係の歌書が江戸前期に刊行された珍しい例として注目されるものである。
 本書は伝本の多い、末尾に「林和泉掾開版」とのみある刊本である。初丁表の解題と凡例的な文章には、俗言は改めずに、片仮名は童蒙の為に平仮名に改めたこと、部分的な歌の引用を一首全体の形にしたこと等が記される。また自筆本の外題と花押を透き写しして「首に冠らしむ」とある通り、初丁裏にそれらが模刻されている。刊行に際して3巻に分かっており、本文冒頭に「耳底記巻之一(二・三)」との内題も加えられている。自筆本との最大の違いは、「光廣卿別紙」にあるという「詠歌制之詞」を追加していることである。自筆本との比較ができるように、一具として保管されてきたものである。(佐々木) [参考文献]小松茂美『古筆学大成』第6巻、講談社、1989年      】
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源氏物語画帖「その二十五 蛍」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

25 蛍(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八)    源氏36歳夏

蛍・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖  蛍  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/535418/2

蛍・光広.jpg

源氏物語絵色紙帖  蛍  詞・烏丸光広
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/535418/1

(「烏丸光広」書の「詞」)

鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに人の消つには消ゆるものかは
(第一章 玉鬘の物語 第五段 兵部卿宮、玉鬘にますます執心す)

1.5.3 鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに 人の消つには消ゆるものかは
(鳴く声も聞こえない螢の火でさえ、人が消そうとして消えるものでしょうか。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十五帖 蛍
 第一章 玉鬘の物語 蛍の光によって姿を見られる
  第一段 玉鬘、養父の恋に悩む
  第二段 兵部卿宮、六条院に来訪
  第三段 玉鬘、夕闇時に母屋の端に出る
  第四段 源氏、宮に蛍を放って玉鬘の姿を見せる
  第五段 兵部卿宮、玉鬘にますます執心す
(「烏丸光広」書の「詞」) →  1.5.3 
  第六段 源氏、玉鬘への恋慕の情を自制す
 第二章 光る源氏の物語 夏の町の物語
  第一段 五月五日端午の節句、源氏、玉鬘を訪問
  第二段 六条院馬場殿の騎射
  第三段 源氏、花散里のもとに泊まる
 第三章 光る源氏の物語 光る源氏の物語論
  第一段 玉鬘ら六条院の女性たち、物語に熱中
  第二段 源氏、玉鬘に物語について論じる
  第三段 源氏、紫の上に物語について述べる
  第四段 源氏、子息夕霧を思う
  第五段 内大臣、娘たちを思う
  
http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3209

源氏物語と「蛍」(川村清夫稿)

【 源氏物語には、各所で紫式部個人の意見が、光源氏たちの口を借りて表明されている。山本淳子京都学園大学教授が指摘するように、「蛍」の帖で光源氏は玉鬘に、物語の歴史書に対する優越性を唱えている。中国の伝統的価値観では歴史書、思想書を「大書」と呼んで讃え、物語、説話を「小説」と軽視していた。「蛍」の帖で紫式部は日本の知識人として、中国の価値観に真っ向から挑戦したのである。光源氏の台詞を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「こちなくも、聞こえ落としてけるかな。神代より世にあることを、記しおきけるななり。日本紀などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」

(渋谷現代語訳)
「失礼にも(物語を)けなしてしまいましたね。神代から世の中にあることを、書き記したものだそうだ。日本紀などは、ほんの一面にしか過ぎません。物語にこそ道理にかなった詳細な事柄は書いてあるのでしょう」

(ウェイリー英訳)
“So you see as a matter of fact I think far better of this art than I have led you to suppose. Even its practical value is immense. Without it what should we know of how people lived in the past, from the age of the Gods down to the present day? For history-books such as the Chronicles of Japan show us only one small corner of life; whereas these diaries and romances which I see piled around you contain, I am sure, the most minute information about all sorts of people’s private affairs…”

(サイデンステッカー英訳)
“I have been rude and unfair to your romances, haven’t I? they have set down and preserved happenings from the age of the gods to our own. The Chronicles of Japan and the rest are a mere fragment of the whole truth. It is your romances that fill in the details.”

 ウェイリーは原文から逸脱した超訳をしている。光源氏が物語を高く評価していることを強調して、I think far better of this art than I have led you to supposeとかWithout it what should we know of how people lived in the pastと、原文に存在しない表現を使っている。サイデンステッカーは正確で簡潔な翻訳をしている。

(大島本原文)
「その人のうへとて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、善きも悪しきも、世に経る人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に籠めがたくて、言ひおき始めたるなり。善きさまに言ふとては、善きことの限り選り出でて、人に従はむとては、また悪しきさまの珍しきことを取り集めたる、皆かたがたにつけたる、この世の他のことならずかし」

(渋谷現代語訳)
「誰それの話といって、事実どおりに物語ることはありません。善いこと悪いことも、この世に生きている人のことで、見飽きず、聞き流せないことを、後世に語り伝えたい事柄を、心の中に籠めておくことができず、語り伝え初めたものです。善いように言おうとするあまりには、善いことばかりを選び出して、読者におもねろうとしては、また悪いことでありそうにもないことを書き連ねているのは、皆それぞれのことで、この世の他のことではないのですよ」

(ウェイリー英訳)
“But I have a theory of my own about what this art of the novel is, and how it came into being. To begin with, it does not simply consist in the author’s telling a story about the adventures of some other person. On the contrary, it happens because the storyteller’s own experience of men and things, whether for good or ill _ not only what he has passed through himself, but even events which he has only witnessed or been told of _ has moved him to an emotion so passionate that he can no longer keep it shut up in his heart. Again and again something in his own life or in that around him will seem to the writer so important that he cannot bear to let it pass into oblivion. There must never come a time, he feels, when men do not know about it. That is my view of how this art arose.
Clearly then, it is no part of the storyteller’s craft to describe only what is good or beautiful. Sometimes, of course, virtue will be his theme, and he may then make such play with it as he will. But he is just as likely to have been struck by numerous examples of vice and folly in the world around him, and about them he has exactly the same feelings as about the pre-eminently good deeds which he encounters; they are important and must all be garnered in. thus anything whatsoever may become the subject of a novel, provided only that it happens in this mundane life and not in some fairyland beyond our human ken.”

(サイデンステッカー英訳)
“We are not told of things that happened to specific people exactly as they happened; but the beginning is when there are good things and bad things, things that happen in this life which one never tires of seeing and hearing about, things which one cannot bear not to tell of and must pass on for all generations. If the storyteller wishes to speak well, then he chooses the good things; and if he wishes to hold the reader’s attention he chooses bad things, extraordinarily bad things. Good things and bad things alike, they are things of this world and no other.”

 ウェイリーは極めて冗漫な翻訳をしている。「その人のうへとて…言ひおき始めたるなり」では、Again and again … when men do not know about itは不要である。逆にサイデンステッカーの訳文は、あまりに簡単過ぎる。「善きさまに言ふとては…この世の他のことならずかし」でもウェイリーは、「悪しきさまの、珍しき事を取り集めたる」をBut he is just as likely to … which he encountersと、だらしないほど長ったらしい翻訳をしている。サイデンステッカーの訳文は簡潔直截である。

 ウェイリーの翻訳が冗漫で超訳が目立つのは、フランスのマルセル・プルースト(Marcel Proust)の小説「失われた時を求めて」(À la Recherche du Temps perdu)の影響を受けているからである。  】

(「三藐院ファンタジー」その十五)

光広・詠草.jpg

「烏丸光広筆二条城行幸和歌懐紙」 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/803

【 後水尾天皇〈ごみずのおてんのう・1596-1680〉の二条城行幸は、寛永3年〈1626〉9月6日より5日間、執り行なわれた。その華麗な行粧と、舞楽・和歌・管弦・能楽などの盛大な催しの様子は、『寛永行幸記』『徳川実紀』などに詳述されている。この懐紙は、二条城行幸の時の徳川秀忠〈とくがわひでただ・1579-1632〉・家光〈いえみつ・1604-51〉・後水尾天皇の詠歌を、烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉が書き留めたもの。光広はこのとき48歳、和歌会の講師を務めた。「「竹、遐年を契る」ということを詠める和歌/左大臣源秀忠/呉竹のよろづ代までとちぎるかなあふぐにあかぬ君がみゆきを/右大臣源家光/御幸するわが大きみは千代ふべきちひろの竹をためしとぞおもふ/御製/もろこしの鳥もすむべき呉竹のすぐなる代こそかぎり知られね」

(釈文)

詠竹契遐年和歌/左大臣源秀忠/呉竹のよろづ代までとちぎるかなあふぐにあかぬ君がみゆきを/右大臣源家光御幸/するわが大きみは千代ふべきちひろの竹をためしとぞおもふ/御製/もろこしの鳥もすむべき呉竹のすぐなる代こそかぎり知られね   】

 この寛永三年(一六二六)の「二条城行幸」の全記録は、下記のアドレスで、その全容を見ることができる。

https://www.imes.boj.or.jp/cm/research/komonjo/001005/016/910170_1/html/

 その「一連の儀式のクライマックスとなった、天皇以下、宮廷の構成員を総動員する形で上演された『青海波』」の舞」の全容は、下記のアドレスのものが参考となり、これは、『源氏物語画帖』の「詞書」の執筆者などを探る上で、極めて重要なデータとなってくる。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiBw_ux9obxAhVSFogKHaIqBFsQFjAAegQIAxAD&url=https%3A%2F%2Fglim-re.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D795%26file_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw1LejrASRSFdRxGu9Y6EYoe

【 「王権と恋、その物語と絵画―〈源氏将軍〉徳川家と『源氏物語』をめぐる政治」(松島仁稿)(抜粋)

秀忠は寛永三年(一六二六)、息子である三代将軍・家光とともに大軍を率いて上洛し、〈天皇の庭〉神泉苑を大幅に切り取ったうえ、壮麗に改築された二條城に後水尾天皇を迎る。足利義満や豊臣秀吉、そして光源氏の故事を踏まえたこの行幸の模様は、一代の盛儀として屏風絵や絵巻、古活字版・整版として板行された絵入りの行幸記などにも記録されるが、ここで一連の儀式のクライマックスとなったのが、天皇以下、宮廷の構成員を総動員する形で上演された「青海波」の舞だった。
(註22)
 「この日兼てより舞御覧の事仰出されしかば。未刻に至て主上(後水尾天皇)の玉座を階間御簾際に設け。あらかじめ上畳御菌をしく、西間を中宮(東福門院和子・徳川氏)。女院(中和門院前子・近衛氏)の御座とし。畳菌を設く。姫宮方には畳なし。東間を爾御所(徳川秀忠・家光)御座とし。屏風をへだてて二間を親王。門跡。大臣の座とし。關白はじめ公卿。殿上人は縁より孕張に至るまでの間圓座を設く。(中略)
青海波序(輪台)。中院侍從通純。飛鳥井侍從雅章。左京大夫忠勝。治部大輔宗朝。破は(青海波)四辻侍從公理。西洞院侍從時良。いつれも麹塵閾腋。紅葉の下襲。表袴も同じ。巻纓。蒔絵野太刀。紅緂の平緒。絲鞋。青海波の二侍從は菊花を挿頭す。垣代は堀川中將康胤を始め。殿上人十四人。皆弓。壺胡簶。伶人十二人。染装束。御随身八人。襲装束なり。箏は内(後水尾天皇)の御所作。琵琶は伏見兵部卿貞清親王。箏は高松弾正罪好仁親王。琵琶は伏見の若宮。みな簾中にての所作なり。簀子には關白(近衛信尋・後水尾天皇弟)井に一條右大臣昭良公。九條前関白兼孝公。ともに箏。二條内大臣康道公笙。鷹司左大將教平卿。九條右大將幸家卿は共に笛。四辻中納言季継卿は箏。西園寺宰相中將實晴卿は琵琶。西洞院右衛門督時直卿は篳篥。其座下に打板敷。円座を設。殿上人の座とす。山科少將言総は笙。櫛笥侍從隆朝は笛。清水谷侍從忠定。久世少將通式は共に箏。小倉侍從公根は琵琶。花園侍從
公久は笙。唐橋民部少輔在村は篳篥。同所砌下に板敷をかまへ伶人の座とす。(中略)垣代の輩次第に中門にいり。舞人斜に庭上を巡り大輪をなし。御座の前東西に小輪をなせば。序破の舞人両輪の中にいり。次に一行平立。次に舞人打すちかへめぐりて前行す。(後略)」(『大猷院殿御實紀』寛永三年(一六二六)九月七日條く黒板勝美・國史大系編修會編『徳川實紀第二篇〈新訂増捕國史大系三十九巻〉』、吉川弘文館、一九三〇年〉。括弧内は筆者) 】

光広・富士山.jpg

「烏丸光広筆富嶽自画賛」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/1844

【烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉は、江戸時代初期の公卿。多芸多才の文化人として知られ、和歌・連歌はもとより、書画・茶道も能くした。とりわけ和歌は、細川幽斎〈ほそかわゆうさい・1534-1610〉に学び古今伝授を受けている。一方、能書家としても声価が高い。当初は、当時の公卿に共通の手習書法であった持明院流を習う。が、のちに光悦流に強い影響を受け、また同時に藤原定家〈ふじわらのさだいえ・1162-1241〉の書風にも私淑して、定家流も掌中にしている。しだいに不羈奔放の光広の性格を投影した光広流ともいうべき書風を確立、わが書道史上、近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉・本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉・松花堂昭乗〈しょうかどうしょうじょう・1584-1639〉ら「寛永の三筆」と並び称される評価を得ている。本図は、富士山を一筆書きに描き、その余白に富士山を詠み込んだ1首の和歌を書き添えたもの。光広は、徳川家康〈とくがわいえやす・1542-1616〉の厚遇を受け、朝廷と江戸幕府との斡旋役として、生涯幾度となく関東へ下向。そのたびたび京から江戸・駿府に下向している。東海道往来の折に、仰いだ富士の霊峰を詠んだ和歌は数知れず、家集『黄葉和歌集』(巻第七・羈旅部)には20首が収められている。この和歌はその中には見あたらないが、かれの自詠にちがいない。のびのびと淡墨を駆った書画一体の妙は、光広の真骨頂を示すものである。

(釈文)

おもかげの
山なる
気かな
朝夕に
ふじの
高根が
はれぬ
くもゐの         】


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源氏物語画帖「その二十四 胡蝶」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

24 胡蝶(光吉筆) =(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳春-夏

光吉・胡蝶.jpg

源氏物語絵色紙帖  胡蝶  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/579123/2

妙法院・胡蝶.jpg

源氏物語絵色紙帖  胡蝶  詞・妙法院常胤
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/579123/1

(「妙法院常胤」書の「詞」)

春の上の御心ざしに、仏に花たてまつらせたまふ。鳥蝶に装束き分けたる童べ八人、容貌などことに整へさせたまひて、鳥には銀の花瓶に桜をさし、蝶は金の瓶に山吹を、同じき花の房いかめしう、世になき匂ひを尽くさせたまへり。南の御前の山際より漕ぎ出でて御前に出づるほど風吹きて瓶の桜すこしうち散りまがふいとうららかに晴れて霞の間より立ち出でたるはいとあはれになまめきて見ゆ
(第一章 光る源氏の物語 第四段 中宮、春の季の御読経主催す)

1.4.3 春の上の御心ざしに、仏に花たてまつらせたまふ。 鳥蝶に装束き分けたる童べ八人、容貌などことに整へさせたまひて、 鳥には、銀の花瓶に桜をさし、蝶は、金の瓶に山吹を、同じき花の房いかめしう、世になき匂ひを尽くさせたまへり。
(春の上からの供養のお志として、仏に花を供えさせなさる。鳥と蝶とにし分けた童女八人は、器量などを特にお揃えさせなさって、鳥には、銀の花瓶に桜を挿し、蝶には、黄金の瓶に山吹を、同じ花でも房がたいそうで、世にまたとないような色艶のものばかりを選ばせなさった。)

1.4.4 南の御前の山際より漕ぎ出でて、 御前に出づるほど、風吹きて、瓶の桜すこしうち散りまがふ。いとうららかに晴れて、霞の間より立ち出でたるは、いとあはれになまめきて見ゆ。
(南の御前の山際から漕ぎ出して、庭先に出るころ、風が吹いて、瓶の桜が少し散り交う。まことにうららかに晴れて、霞の間から現れ出たのは、とても素晴らしく優美に見える。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十四帖 胡蝶
 第一章 光る源氏の物語 春の町の船楽と季の御読経
  第一段 三月二十日頃の春の町の船楽
  第二段 船楽、夜もすがら催される
  第三段 蛍兵部卿宮、玉鬘を思う
  第四段 中宮、春の季の御読経主催す
(「妙法院常胤」書の「詞」) → 1.4.3  1.4.4  
 第五段 紫の上と中宮和歌を贈答
 第二章 玉鬘の物語 初夏の六条院に求婚者たち多く集まる
  第一段 玉鬘に恋人多く集まる
  第二段 玉鬘へ求婚者たちの恋文
  第三段 源氏、玉鬘の女房に教訓す
  第四段 右近の感想
  第五段 源氏、求婚者たちを批評
 第三章 玉鬘の物語 夏の雨と養父の恋慕の物語
  第一段 源氏、玉鬘と和歌を贈答
  第二段 源氏、紫の上に玉鬘を語る
  第三段 源氏、玉鬘を訪問し恋情を訴える
  第四段 源氏、自制して帰る
  第五段 苦悩する玉鬘

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3189

源氏物語と「胡蝶」(川村清夫稿)

【 春になり、光源氏は、豪邸六条院の池に舟を浮かべ、雅楽寮の楽人を乗せて演奏させる「船楽」を催し、六条御息所の遺児の秋好中宮も招かれた。多くの皇族や貴族も集まったが、彼らの目当ては、頭中将と夕顔の娘だが光源氏の養女になった玉鬘だった。光源氏の異母弟で妻を亡くした蛍兵部卿宮、妻と倦怠期にある髭黒右大将たちから玉鬘に求愛の恋文が届いた。光源氏は右近に、返事を出すべき相手を選別するよう指示して、男女関係の機微に関する私見を開陳するのである。

(大島本原文)
「好き好きしうあざれがまし今やうの人の、便ないことし出でなどする、男の咎にしもあらぬことなり。我にて思ひしにも、あな情けな、恨めしうもと、その折にこそ、無心なるにや、もしはめざましかるべき際は、けやけうなどもおぼえけれ、わざと深からで、花蝶につけたる便りごとは、心ねたうもてないたる、なかなか心立つやうにもあり。また、さて忘れぬるは、何の咎かはあらむ」

(渋谷現代語訳)
「浮気で軽薄な新しがりやな女が、不都合なことをしでかすのは、男の罪とも言えないのだ。自分の経験から言っても、ああ何と薄情な、恨めしいと、その時は、情趣を解さない女なのか、もしくは身の程をわきまえない生意気な女だと思ったが、特に深い思いではなく、花や蝶に寄せての便りには、男を悔しがらせるように返事をしないのは、かえって熱心にさせるものです。また、それで男の方がそのまま忘れてしまうのは、女に何の罪がありましょうか」

(ウェイリー英訳)
“For the unfortunate situations which sometimes result from our present freedom of manners we men are not always to blame. It often happens that a little timely severity on the lady’s part would avert the quandaries into which we are led by our determination to treat love as our principal pastime and distraction. At the time (who should know it better than I?) such severity is of course resented by the gentleman, who will rail in the accepted style at his lady’s ‘cruelty’ and ‘insensibility.’ But in the end he will be grateful that the matter was not allowed to go further. “

(サイデンステッカー英訳)
“The dissolute gallants of our day are capable of anything, but sometimes they are not wholly to blame. My own experience has been that a lady can at the outset seem cold and unfeeling and unaware of the gentler things, and if she is of no importance I can call her impertinent and forget about her. Yet in idle exchange about birds and flowers the lady who teases with silence can seem very interesting. If the man does forget, then of course part of the responsibility is hers.”

 「好き好きしう…男の咎にしもあらぬことなり」に関しては、ウェイリー訳が原文に忠実で、サイデンステッカー訳は意訳している。次の原文は長すぎるので、「我にて思ひしにも…わざと深からで」と「花蝶につけたる便りごとは…心立つやうにもあり」に分けて訳しているが、この部分はサイデンステッカー訳の方が原文に忠実で簡潔である。「また…何の咎かはあらむ」は「罪がない」という意味なので、両者ともに訳文は正確でない。

 ここで光源氏は玉鬘の養父でありながら、欲情を抑えきれなくなり、彼女を口説くだけでなく、手を握り、添い寝するのである。

(大島本原文)

「橘の薫りし袖によそふれば
変はれる身とも思ほえぬかな

世とともに心にかけて忘れがたきに、慰むことなくて過ぎつる年ごろを、かくて見たてまつるは、夢にやとのみ思ひなすを、なほえこそ忍ぶまじけれ。思し疎むなよ」

(渋谷現代語訳)

「あなたを昔懐かしい母君と比べてみますと
とても別の人とは思われません

いつになっても心の中から忘れられないので、慰めることなくて過ごしてきた歳月だが、こうしてお世話できるのは夢かとばかり思ってみますが、やはり堪えることができません。お嫌いにならないでくださいよ」

(ウェイリー英訳)

“As the orange-blossom gives its scent unaltered to the sleeve that brushes it, so have you taken on your mother’s beauty, till you and she are one.” So he recited, adding; “Nothing has ever consoled me for her loss, and indeed, though so many years have passed I shall die regretting her as bitterly as at the start. But tonight, when I first caught sight of you, it seemed to me for an instant that she had come back to me again _ that the past was only a dream… bear with me; you cannot conceive what happiness was brought me by one moment of illusion.”

(サイデンステッカー英訳)

“Scented by orange blossoms long ago,
The sleeve she wore is surely the sleeve you wear.”

“So many years have gone by, and through them all I have been unable to forget. Sometimes I feel as if I might be dreaming _ and as if the dream were too much for me. You must not dismiss me for my rudeness.”

 和歌は玉鬘を夕顔と同じようだとうたっているので、ウェイリー訳の方が正しい。次の原文も長いので「世とともに…過ぎつる年ごろを」と「かくて…忍ぶまじけれ」に分けて訳しているが、両者とも翻訳が不正確である。末尾の「思し疎むなよ」については、サイデンステッカー訳の方が正しい。

 玉鬘は、養女としているものの、本当は頭中将の娘のはずだ。養父の愛情を越えた欲情を感じて口説くとは、光源氏という人物はあまりにも倫理性が乏しくて、共感できない。)】

(「三藐院ファンタジー」その十四)

前久書状.jpg

「近衛前久筆書状」 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/492

【近衛前久〈このえさきふさ・1536-1612〉は摂関家の嫡流として、従一位・太政大臣をきわめた。が、折柄、戦国乱世の中に運命を翻弄され、越後、摂津に出奔した。天正3年〈1575〉9月、織田信長の命をうけて薩摩に下り、島津義久の下降をすすめたが、応じなかった。同5年2月、むなしく帰洛。同10年6月2日、本能寺の変で信長横死を機に剃髪して、法名・龍山を号した。歌道・書道・有職故実・暦学など諸芸に精通、古今伝授を近衛稙家から受け、島津義久に授けている。和歌・連歌の作品を多く残す。諸国を歴訪、地方文化の向上・普及に貢献した。この手紙は西洞院時直〈にしのとういんときなお・1584-1636。時慶の子〉にあてたもの。まず、前月に貸与した『鷹百首』(前久が天正17年〈1589〉4月に著した歌書)を使者を通じて返却してほしいと申し送っている。また、昨年より貸与中の『源氏物語』についても同様の旨を記す。さらに、明日予定の連歌会に息男信尹(のぶただ)を介して参加を求められたが、先約があり不参を報じている。「山」は、前久の一字名。この手紙の書写年代は、考証の結果、慶長12年〈1607〉ころと推定される。この年、前久(龍山)は72歳。時直は24歳。文中に登場する時慶(ときよし)は56歳。信尹は43歳であった。結構の小さな温和な書風。豪放な信尹の書に較べ、父子の置かれていた立場、生き抜いた時代のすがたをまざまざと感知する。「去月の鷹百首、取りに参り候。此の者に給うべく。将亦(はたまた)、東山より御両所に申し入れ候去々年の源氏、是又、御隙(おひま)に馮(たの)み申し候由、申すべき由を度々(たびたび)、申し越し候。何様、御透(おすき)に来臨、待ち入り候。明日の連歌に拙老にも参り候半かと、一昨日の儀、信尹(近衛)より申され候へども、兼約(かねての約束)の子細候て、参らず、御残り多く候いき。旁(かたがた)、先参(まず参上)を期し候。謹言。/猶々、時慶卿(時直の父)へも此の旨、久しく面謁、能わざるも、御隙に来臨待ち入り候由、申し度く候。十月十四日山平少納言殿」  

(釈文)

猶々、時慶卿へも此旨、久不能面謁も御隙ニ来臨待入候由、申度候。去月之鷹百首、取ニ参候。此者ニ可給。将亦、東山より御両所ニ申入候去々年之源氏、是又、御隙ニ馮申候由、可申由ヲ度々、申越候。何様御透ニ来臨待入候。明日之連哥ニ拙老ニも参候半歟と、一昨日儀、信尹より被申候へ共、兼約之子細候而、不参、御残多候キ。旁、期先参候。謹言。十月十四日山平少納言殿       】

 この「近衛前久筆書状」は、慶長十二年(一六〇七)の頃で、「前久(龍山=山=瑞久?)」は七十二歳、「時直(西洞院)」は二十四歳、「時慶(西洞院)」は五十六歳。そして「信尹(杉=三木)」は四十三歳の頃の書状(手紙)だというのである。

夢想(之連歌)  来(慶長九年=一六〇四・一月?)二十三日

(夢想句) みどりあらそふ友鶴のこゑ   空白(「御」の「後陽成院」作かは不明?)
発句  霜をふる年もいく木の庭の松   瑞久=前久(龍山=山=瑞久?)」
脇    冬より梅の日かげそふ宿    杉=「信尹(杉=三木)」 
第三  朝附日軒のつま/\うつろひて  時慶=「時慶(西洞院)」
四    月かすかなるおくの谷かげ   冬隆=(滋野井冬隆)
五   うき霧をはらひははてぬ山颪   禅昌=「松梅院禅昌」
六    あたりの原はふかき夕露    時直=「時直(西洞院)」
七   村草の中にうづらの入臥て    昌琢=(里村昌啄)
八    田づらのつゞき人かよふらし  宗全=(施薬院全宗か?)

 前回、上記の「夢想連歌」を、「(慶長九年=一六〇四・一月)二十三日」の作と推定したのだが(『安土桃山時代の公家と京都―西洞院時慶の日記にみる世相(村山修一著・塙書房)』)、
その推定年次よりも、この書状は三年前のものということになる。
 そして、この両者(「書状」と「夢想連歌」)を相互に見て行くと、「前久・信尹」親子と「時慶・時直」親子とは、「前久」の時代から「側近」の関係というよりも、「主従」関係に近いような深い関係にあったことが伺われる。
 この書状の文中の「源氏(『源氏物語』)」に関連して、下記のアドレスの「近世初頭における都市貴族の生活(村山修一稿)」(p131-132)に、「慶長七年(一六〇二)より近衛家では源氏の講義が始められた。時慶始め小寺如水・神光院・松梅院・妙法院・曲直瀬正彬の顔ぶれで、始めの頃は昌叱が読み役になっていた」との記述がある。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/249507

 この記述中の「時慶=西洞院時慶、松梅院=松梅院禅昌、昌叱=里村昌琢の義父」と、「夢想連歌」の連衆と同一メンバーの顔ぶれが似通っていることが伺える。
 ここに出てくる「妙法院」は「妙法院常胤法親王」、「小寺如水」は「黒田如水=黒田官兵衛」、「曲直瀬正彬=曲直瀬道三に連なる医師=道三の孫娘が妻」、「神光院=醍醐寺三宝院・
義演に連なる住職?)などで、「近衛家」と関係の深い面々のように思われる。
 また、「夢想連歌」の連衆のうちの「宗全」については、「宗祇・宗長に連なる連歌師か?」と前回記述したが、「玄朔(曲直瀬道三)には秦宗巴・施薬院全宗・曲直瀬正彬・同正純など多士済々」(『安土桃山時代の公家と京都―西洞院時慶の日記にみる世相(村山修一著・塙書房) 』(P30))との記述の「施薬院全宗か?」と疑問符を付したものを、一応の解として置きたい。

【施薬院全宗(せやくいん-ぜんそう)
没年:慶長4.12.10(1600.1.25)
生年:大永6(1526)
戦国・安土桃山時代の医者。本姓は丹波、号は徳運軒、近江国(滋賀県)甲賀郡に生まれ、幼くして父を失い比叡山薬樹院の住持となる。織田信長の叡山攻め後に還俗して曲直瀬道三の門に入り、医を学んで豊臣秀吉の侍医となり、施薬院の旧制を復興、京都御所の一画(烏丸一条通下ル中立売御門北側)に施薬院を建て、施薬院使に任ぜられて、庶民の救療に当たった。子孫は施薬院を家姓とした。秀吉の側衆としても重用され政治にも参画した。京都で没し比叡山に葬られたが、現在は施薬院家代々の葬地十念寺(京都市上京区)に墓がある。<参考文献>京都府医師会編『京都の医学史』(宗田一) 】(出典 朝日日本歴史人物事典)

 因みに、「西洞院時慶」自身が、「医者としては曲直瀬道三と親交があり」((『安土桃山時代の公家と京都―西洞院時慶の日記にみる世相(村山修一著・塙書房) 』(P28)))と、近衛家周辺としては、医師としての「医療的活動」もしていたようである(村山『前掲書』p26-28)。

さらに、上記アドレスの「近世初頭における都市貴族の生活(村山修一稿)」(p132)に、次のように記されている。

【 これ(「源氏講釈」)と併行して何時頃から出来たのか「源氏絵」が流行した。経師にたのんで表紙をつけたり裏打ちをさせたりしている(寛永五、八、十~十六・寛永六、四、六等)が、これは絵巻物ではなく、物語中の一つの情景を題材として画いた一枚一枚ばらばらのものであったらしく、その詞書を竹内門跡・西園寺・園・日野・持明院などの公家に依頼したり(寛永五、十二、五・寛永六、四、八―九等)、人からの希望で詞書の揮毫をしたりしている(寛永六、三、十七)、また小瀬甫庵(道喜)が時慶にみせた詞書には、後奈良院や竹内門跡の古い歴代の筆跡があったという(元和七、八、二十二日)。甫庵は豊臣秀次の侍医で多数の書籍したことで知られているが、時慶と親しかった。 】

 『源氏物語画帖』(京博本)の「詞書」の執筆時期については、「慶長十九年以前より始まった詞書の作成は、元和三年頃になってようやく一応の完成を見ることとなり、その時点でまず最初の執筆者目録が作られた。以後も詞書は作り続けられ、最終的にそれが完成を見たのが、元和五年頃ではなかった」(『源氏物語画帖―京都国立博物館蔵・勉誠社』所収「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)と推定されているが、上記の記述(『時慶卿記』に基づく「近世初頭における都市貴族の生活(村山修一稿)」)からすると、その萌芽は、「慶長七年(一六〇二)より近衛家では源氏の講義が始められた」ことに関連し、そして、その「源氏講釈」として併行して「源氏絵」(物語中の一つの情景を題材として画いた一枚一枚ばらばらのもの)が定着していたということになろう。
 そして、この『源氏物語画帖』(京博本)は、その「源氏絵」(「画」と「詞書」)の先鞭的な、そして、その後の「源氏絵」のスタンダード(基準・指標)的な作品として不動の位置を占めることになる。
 これらが、やがて、寛永二十年(一六四三)の「後光明天皇の即位および徳川家綱の江戸城二之丸移徒、すなわち天皇家と徳川将軍家の後継者誕生を奉祝する」意味合いを背景としての、当時の、「宮廷の構成員を網羅したような詞書執筆陣の豪勢(五十四名を数える)」なる、
『源氏物語絵巻(狩野尚信筆)』模本(東京国立博物館蔵)=『尚信筆模本』が誕生することになる(別記「参考」)。
 この『尚信筆模本』関連については、下記アドレスの「王権と恋、その物語と絵画―〈源氏将軍〉徳川家と『源氏物語』をめぐる政治(松島仁稿)」でも紹介されているが、そこには、五十四名の執筆陣は収載されていない。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiBw_ux9obxAhVSFogKHaIqBFsQFjAAegQIAxAD&url=https%3A%2F%2Fglim-re.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D795%26file_id%3D22%

(別記「参考」)

 「源氏物語画帖(土佐光吉・長次郎筆)」(京都国立博物館蔵)と
 『源氏物語絵巻(狩野尚信筆)』模本(東京国立博物館蔵)=『尚信筆模本』

上段=『源氏物語画帖』(京博本)の「詞書」執筆者(1614以前~1619頃)
下段=『尚信筆模本』(東博本)の「詞書」執筆者(1642以前~1643頃)

1 桐壺(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 
→  「二条摂政殿」=二条康道 (一六〇七~一六六六) 
2 帚木(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 
→  「近衛右大臣」=近衛尚詞(一六二二一~一六五三) 
3 空蝉(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 
→  「八条殿中務」=八条宮智忠(一六一九一~一六六二) 
4 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 
   (長次郎筆)=(詞)※青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 
→  「近衛前関白」=※近衛信尋(一五九九~一六四九)
5 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) 
   (長次郎筆)=(詞)※青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 
→  「妙法院宮」=妙法院堯然法(一六〇二~一六六九)
6 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六)
   (長次郎筆)=(詞)※青蓮院尊純(一五九一~一六五三)
→  「知恩院宮」=知恩院良純法親王(一六〇三~一六六九)
7 紅葉賀(光吉筆)=(詞※)大覚寺空性 (一五七三~一六五〇
→  「梶井殿さすの宮」=梶井宮(三千院)慈胤法親王(一六一七~一六九九)
8 花宴((光吉筆)=(詞)※大覚寺空性(一五七三~一六五〇
→  「しやうれんゐんの宮」=※青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 
9 葵(光吉筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) 
→  「しつそうゐん前大僧正」=実相院義尊大僧正(一六〇一~一六六一)
10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)
   (長次郎筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?)
→  「中の院前大納言」=中院通村(一五八八~一六五三)
11 花散里(光吉筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) 
(長次郎筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九)
→  「大炊の御門大納言」=大炊御門経孝(一六一三~一六八二)
12 須磨(光吉筆)=(詞)※近衛信尋(一五九九~一六四九)
→  「さいおん院前大納言」=※西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)
13 明石(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)
→  「姉小路中納言」=姉小路公景(一六〇二~一六五一)
14 澪標(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四)
→  「水瀬入道」=「水無瀬氏成」(一五七一~一六四四))
15 蓬生(光吉筆)=(詞)※近衛信尋(一五九九~一六四九)
(長次郎筆)=(詞※)近衛信尹(一五六五~一六一四)
→  「園前中納言」=園基音(一六〇四~一六五五)
16 関屋(光吉筆)=(詞)※竹内良恕(一五七三~一六四三)
→  「清水谷中納言」=清水谷実任(一五八七~一六六四)
17 絵合(光吉筆) =(詞)※竹内良恕(一五七三~一六四三)
→  「三条西前宰相中将」=「三条西実教」(一六一九~一七〇一)
18 松風(光吉筆) =(詞)※竹内良恕(一五七三~一六四三)
→  「白河三位」=「白川雅陳王」(一五九二~一六六三)
19 薄雲(光吉筆)=(詞)※烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)
→  「飛鳥井三位」=「飛鳥井雅章」(一六一一~一六七九)
20 朝顔(槿)(光吉筆) =(詞)※烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)
→  「野々宮三位」=「野宮定逸」(一六一〇~一六五八)
21 少女(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四)
→  「岩倉三位」=「岩倉具起」(一六〇一~一六六〇)
22 玉鬘(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四)
→  「日野頭左少弁」=「日野弘資」(一六一七~一六八七)
23 初音(光吉筆)=(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一)
→  「千草中将」=「千種有能」(一六一五~一六八七)
24 胡蝶(光吉筆) =(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一)
→  「はゝ中将」=「正親町三条公高」(一六一九~一六四八)
25 蛍(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八)
→  「その少将」=「園基福」(一六二二~一六九九)
26 常夏(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一五七九~一六三八)
→  「柳原左少弁」=「柳原資行」(一六二〇~一六七九)
27 篝火(光吉筆) =(詞)※青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 
→  「富小路兵衛佐」=「富小路頼直」(一六〇五~一六五八)
28 野分(光吉筆) =(詞)※青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 
→  「飛鳥井授従」=飛鳥井雅宣」(難波宗勝) (一五八六~一六五一)
29 行幸(光吉筆)=(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 
→  「烏丸右少弁」=「烏丸資慶」(一六二二~一六六九)
30 藤袴(蘭)(光吉筆) =(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 
→  「高辻侍従」=「高辻遂長」(一六〇〇~一六四二)
31 真木柱(光吉筆)=(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)
→  「水瀬少将」=「水無瀬氏信」(一六一九~一六九〇)
32 梅枝(光吉筆) =(詞)日野資勝(一五七七~一六三九) 
→  「□木町」=「正親町実豊」(一六一九~一七〇三)
33 藤裏葉(光吉筆)=(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二) 
→  「浦辻宰相中将」=「裏辻季福」(一六〇五~一六四四)
34 若菜(上) (光吉筆) =(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二) 
→  「安野三位」=「阿野公業」(一五九九~一六八三) 
34 若菜(下) (光吉筆) =(詞)中村通村(一五八七~一六五三)
→  「四辻中納言」=「四辻公理」(一六一〇~一六七七)
35 柏木(長次郎筆) =(詞)中村通村(一五八七~一六六七) 
→  「自妙院三位」=「持明院基定」(一六〇七~一六四二)
36 横笛(長次郎筆)=(詞)※西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)
→  「四条三位」=「四条隆術」(一六一一~一六四七)
37 鈴虫(長次郎筆)=(詞)※西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)
→  「平松右衛門督」=「平松時庸」(一五九九~一五五四)
38 夕霧(筆)=(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)
→  「六条前宰相」=「六条有純」(一六〇四~一六四四)
39 御法(長次郎筆)=(詞)※西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)
→  「水瀬宰相」=「水無瀬兼俊」(一五九三~一六五八)
40 幻(長次郎筆)=(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七) 
→  「高倉大納言」=「高倉水慶」(一五九一~一六六四)
41 雲隠  (本文なし。光源氏の死を暗示)
42 匂宮(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 
→  「松原大納言」=「松原道基」(一六一五~一六四六)
43 紅梅(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)
→  「中院中納言」=「中院通純」(一六一二~一六五三)
44 竹河(長次郎筆)=(詞)四辻季継(一五八一~一六三九) 
→  「阿野前大納言」=「阿野実顕」(一五八一~一六四五)
45 橋姫(長次郎筆) =(詞)四辻季継(一五八一~一六三九)
→  「柳原大納言」=「柳原兼光」(一五九四~一六五四)
46 椎本(長次郎筆)=(詞)久我敦通(一五六五~?)    
→  「円満院前大僧正」=「円満院常尊」(一六〇四~一六七一)
47 総角(長次郎筆) =(詞)久我通前(一五九一~一六三四)
→  「竹内新宮」=「曼殊院良尚法親王」(一六二二~一六九三)
48 早蕨(長次郎筆) =(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七) 
→  「すいあん」=※「大覚寺空性法親王」(瑞庵) (一五七三~一六五〇)
49 宿木   (欠)                
→  「勝巌院宮」=「聖護院道晃法親王(一六一二~一六七八)
50 東屋   (欠)                
→  「一条院宮」=「一条院尊覚法親王(一六〇八~一六六一)
51 浮舟   (欠)                
→  「まんしゆいん宮」=※「曼殊院良恕法親王」(一五七四~一六四三)
52 蜻蛉   (欠)               
→  「九条前関白」=「九条幸家」(一五八六~一六六五)
53 手習    (欠)                
→  「伏見院殿兵部卿宮」=「伏見宮貞清親王」(一五九五~一六五四)
54 夢浮橋   (欠)
→  「九条左大臣」=「九条道房」(一六〇九~一六四七) 

上段=(出典:『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」
下段=(出典:『徳川将軍権力と狩野派絵画―徳川王権の樹立と王朝絵画の創成(松島仁著)』所収「前期徳川時代における『源氏物語』絵画化の位相)」p162-p192 「註78」p328331-)
※=『源氏物語画帖』(京博本)と『尚信筆模本』(東博本)との両書の執筆者
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源氏物語画帖「その二十三初音」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

23 初音(光吉筆)=(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一)  源氏36歳正月

光吉・初音.jpg

源氏物語絵色紙帖  初音  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/583170/2

妙法院・初音.jpg

源氏物語絵色紙帖  初音  詞・妙法院常胤
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/583170/1

(「妙法院常胤」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/24/%E5%88%9D%E9%9F%B3%E3%83%BB%E5%88%9D%E5%AD%90_%E3%81%AF%E3%81%A4%E3%81%AD%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%B8%96_%E7%8E%89%E9%AC%98%E5%8D%81

今日は子の日なりけり。げに、千年の春をかけて祝はむに、ことわりなる日なり。姫君の御方に渡りたまへれば、童女、下仕へなど、御前の山の小松引き遊ぶ。若き人びとの心地ども、おきどころなく見ゆ。北の御殿より、わざとがましくし集めたる鬚籠ども、破籠などたてまつれたまへり。えならぬ五葉の枝に移る鴬も、思ふ心あらむかし。
  年月を松にひかれて経る人に今日鴬の初音聞かせよ 
(第一章「光る源氏の物語 新春の六条院の女性たち」「第一段 春の御殿の紫の上の周辺」「第二段 明石姫君、実母と和歌を贈答」  )

1.1.13 今日は子の日なりけり。げに、 千年の春をかけて祝はむに、ことわりなる日なり。
(今日は子の日なのであった。なるほど、千歳の春を子の日にかけて祝うには、ふさわしい日である。)
1.2.1 姫君の御方に渡りたまへれば、童女、下仕へなど、御前の山の小松引き遊ぶ。若き人びとの心地ども、おきどころなく見ゆ。 北の御殿より、わざとがましくし集めたる鬚籠ども、破籠などたてまつれたまへり。 えならぬ五葉の枝に移る鴬も、 思ふ心あらむかし。
(姫君の御方にお越しになると、童女や、下仕えの女房たちなどが、お庭先の築山の小松を引いて遊んでいる。若い女房たちの気持ちも、じっとしていられないように見える。北の御殿から、特別に用意した幾つもの鬚籠や、破籠などをお差し上げになっていた。素晴らしい五葉の松の枝に移り飛ぶ鴬も、思う子細があるのであろう。)
1.2.2 年月を松にひかれて経る人に今日鴬の初音聞かせよ
(長い年月を子どもの成長を待ち続けていました。わたしに今日はその初音を聞かせてください。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十三帖 初音
 第一章 光る源氏の物語 新春の六条院の女性たち
  第一段 春の御殿の紫の上の周辺
  第二段 明石姫君、実母と和歌を贈答
  (「妙法院常胤」書の「詞」) → 1.1.13 1.2.1 1.2.2  
第三段 夏の御殿の花散里を訪問
  第四段 続いて玉鬘を訪問
  第五段 冬の御殿の明石御方に泊まる  
  第六段 六条院の正月二日の臨時客 
 第二章 光る源氏の物語 二条東院の女性たちの物語
  第一段 二条東院の末摘花を訪問
  第二段 続いて空蝉を訪問
 第三章 光る源氏の物語 男踏歌
  第一段 男踏歌、六条院に回り来る
  第二段 源氏、踏歌の後宴を計画す

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3086

源氏物語と「初音」(川村清夫稿)

【光源氏は新居となった六条院で正月を迎えた。六条院は六条御息所の旧居を拡大造営した2町(1町は110m)四方の豪邸で、9世紀に源融が現在の松原通と六条通の間、河原町通と柳馬場通の間に造営した豪邸の河原院がモデルと思われる。東南の春の町には光源氏と紫上と明石の姫君、東北の夏の町には花散里と夕霧と玉鬘、西南の秋の町には六条御息所の遺児の秋好中宮、西北の冬の町には明石御方(明石入道の娘、明石姫君の母)が住んだ。
「初音」の帖では、光源氏は紫上と正月を祝った後、花散里、玉鬘、明石御方を訪問するのだが、彼が紫上といた時に明石御方から和歌が届く。和歌には、紫上のもとで養育されている明石姫君に会えない母親の悲しみが表現されていて、光源氏は同情するのである。
 それでは大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「年月を松にひかれて経る人に
   今日鶯の初音聞かせよ
     音せぬ里の」
と聞こえたまへるを、「げに、あはれ」と思し知る。言忌もえしあへたまはぬけしきなり。
「この御返りは、みづから聞こえたまへ。初音惜しみたまふ方にもあらずかし」
とて、御硯取りまかなひ、書かせたてまつりたまふ。いとうつくしげにて、明け暮れ見たてまつる人だに、飽かず思ひきこゆる御ありさまを、今までおぼつかなき年月の隔たりにけるも、「罪得がましう、心苦し」と思す。
「ひき別れ年は経れども鶯の
   巣立ちし松の根を忘れめや」
幼き御心にまかせて、くだくだしくぞあめる。

(渋谷現代語訳)
「長い年月を子どもの成長を待ち続けていました
    わたしに今日はその初音を聞かせて下さい
『音を聞かせない里に』」
とお申し上げになったのを、「なるほど、ほんとうに」とお感じになる。縁起でもない涙をも堪えきれない様子である。
「このお返事は、ご自身がお書き申し上げなさい。初便りを惜しむべき方でもありません」とおっしゃって、御硯を用意なさって、お書かせ申し上げなさる。たいそうかわいらしくて、朝な夕なに拝見する人でさえ、いつまでも見飽きないとお思い申すお姿を、今まで会わせないで年月が過ぎてしまったのも、「罪作りで、気の毒なことであった」とお思いになる。
「別れて何年も経ちましたがわたしは
    生みの母君を忘れましょうか」
子供心に思ったとおりに、くどくどと書いてある。

(ウェイリー英訳)

O nightingale, to one that many months,

While strangers heard you sing,

Has waited for your voice, grudge not today

The first song of the year!

Genji read the poem and was touched by it; for he knew that only under the stress of great emotion would she have allowed this note of sadness to tinge a New Year poem. “Come, little nightingale!” he said to the child, “you must make haste with your answer; it would be heartless indeed if in the quarter whence these pretty things come you were ungenerous with your springtime notes!” and taking his own ink-stone from a servant who was standing by, he prepared it for her and made her write. She looked so charming while she did this that he found himself envying those who spent all day in attendance upon her, and he felt that to have deprived the Lady of Akashi year after year of so great a joy was a crime for which he would never be able to forgive himself. He looked to see what she had written.

Though years be spent asunder,

Not lightly can the nightingale forget

The tree where first it nested and was taught to sing.

The flatness of the verse had at least this much to recommend it _ the mother would know for certain that the poem had been written without grown-up assistance!

(サイデンステッカー英訳)

“The old one’s gaze rests long on the seeding pine,
Waiting to hear the song of the first warbler, in a village where it does not sing.”

Yes, thought Genji, it was a lonely time for her. One should not weep on New Year’s Day, but he was very close to tears.
“You must answer her yourself,” he said to his daughter. “You are surely not the sort to begrudge her that first song.” He brought ink and brush.
She was so pretty that even those who were with her day and night had to smile. Genji was feeling guilty for the years he had kept mother and daughter apart.
Cheerfully, she jotted down the first poem that came to her:

“The warbler left its nest long years ago,
But cannot forget the roots of the waiting pine.”

 「鶯」をウェイリーはnightingale、サイデンステッカーはwarblerと訳した。明石御方の歌、光源氏の台詞、明石姫君の歌に関しては、ウェイリーは原文にない事を書き加えていて冗漫であり、サイデンステッカーの方が簡潔で正確だ。しかし光源氏の心理描写については、サイデンステッカー訳はあまりにそっけない。ウェイリー訳の方が丁寧だ。

 明石姫君は入内して明石中宮になり、東宮の皇子を懐妊する。実の母である明石御方とは、「若菜」の帖になって対面するのである。  】

(「三藐院ファンタジー」その十三)

常胤法親王.jpg

「常胤法親王筆書状」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/529

【常胤法親王〈じょういんほうしんのう・1548-1621〉は、伏見宮邦輔親王〈くにすけしんのう・1513-63〉の第5王子。永禄7年〈1564〉4月、堯尊法親王(ぎょうそんほうしんのう)について、天台宗門跡寺院妙法院(みょうほんいん)に入室。天正3年〈1575〉2月、正親町天皇〈おおぎまちてんのう・1517-93〉の猶子となり親王宣下、性胤(せいいん)と名乗る。出家して常胤と改め、二品に叙せられた。慶長2年〈1597〉、弟・尊朝法親王〈そんちょうほうしんのう・1552-97〉の後を継いで第168世天台座主に補せられ、同17年〈1612〉までつとめる。文中「法印」は、豊臣氏五奉行の一人、前田玄以〈まえだげんい・1539-1602〉のこと。「太閤」はいうまでもなく豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉。秀吉が「太閤」を称するのは、天正19年〈1591〉以降のこと。とすると、この書状は、天正19年から慶長2年〈1597〉、常胤44歳から50歳の間と知る。内容の子細は明らかにしがたいが、所領加増に関わる地所・年貢・斎料などについて、さまざま具申したものである。宛名の「梅軒(ばいけん)」は、前田玄以に右筆として仕えた武将であろうか。常胤法親王の書は、尊円親王〈そんえんしんのう・1298-1356〉にはじまる青蓮院(しょうれんいん)流を継承する、尊朝法親王の尊朝流に属するが、この書状の筆致には、巧みに伝統の型の書法を学んだ跡が歴然としている。
「此の中、其の地に今小路付け置かせしめ候へば、法印(前田玄以)御取り紛れの故、しかじか御意の得ざるの由に候間、一書を以って申し候。具さに披露憑み入り候。一、今度御加増の三百石、仁和寺辺りの由に候。最前申す如くに候。其元の儀は、外聞如何に候。其の上、何れの村々も一円悪しき所計りに候。是非又、右の所相定むべきに於いては、彼の境内、同じく村々の竹木等、当門進退に堅く成り候様に、御朱印にも書き載せられ、法印の副折紙など給い候はん哉。一軄にこれ無く、年貢などは、中々、迷惑千万に候。兎角、遅々に候とも、別の所ならでは、御請け申すまじく候。別の所ならば、悪しき所にても苦しからず候事。一、御斎料の儀、何方成りとも、早速に知行所相定め候様に、是又頼み入り候事。一、先日、太閤の御方(豊臣秀吉)御覧候て、法印へ御申し渡す如くに候。廊下以下、当門何所の作事(普請)の儀、急度仰せ付けられ給うべく候事。以上。十一月十八日(花押=常胤)より梅軒」

(釈文)

此中其地ニ今小路付置候へ者法印御取紛故しか/\不得御意之由候間以一書申候具披露憑入候一、今度御加増之三百石仁和寺邊之由候最前如申候其元之儀ハ外聞如何ニ候其上何之村々も一円悪所計候是非又右之所於可相定者彼境内同村々之竹木等当門進退ニ堅成候様ニ御朱印ニも書のせられ法印副折帋なと給候ハん哉一軄ニ無之年貢計なとハ中/\迷惑千万候兎角遅々候共別之所ならてハ御請申ましく候別所ならハ悪所にても不苦候事一、御斎料之儀何方成共早速ニ知行所相定候やうに是又頼入候事一、先日大閣(閤)御方御覧候て法印へ如御申渡候廊下以下当門何所之作事之儀急度被仰付可給候事以上十一月十八日より(花押)梅軒     】

  常胤法親王は、この「源氏物語画帖」の、二十三名中の「詞書」の筆者の中で、一番の年長者である。年齢順に、その筆者の皇族関係者を列記すると、次のとおりとなる。

※妙法院常胤法親王(正親町天皇の猶子・一五四八~一六二一)  →(初音・胡蝶)
※後陽成院周仁(誠仁親王の第一皇子・一五七一~一六一七) →(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(誠仁親王の第二皇子・一五七三~一六五〇) →(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(誠仁親王の第三皇子・一五七三~一六四三) →(関屋・絵合・松風)
興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)→方広寺大仏鐘銘事件(蟄居?)
※八条宮智仁親王(誠仁親王の第六皇子・一五七九~一六二九) →(葵・賢木・花散里) 
※青蓮院尊純(常胤法親王の子・一五九一~一六五三)→(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花

 ここに、近衛家の筆者を、追記すると次のとおりなる。

※近衛信尹→(信尹の養父・太郎君の父・一五六五~一六一四)→(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)
※近衛信尋→(後陽成天皇の子・後水尾天皇の弟・信尹の養子・太郎君の夫?・一五九九~一六四九)→(須磨・蓬生)
※近衛太郎(君)→(近衛信尹息女・慶長三年(一五九八)誕生?)・ 信尋の正室?)→(花散里・賢木)

 常胤法親王は、後陽成天皇の父「誠仁親王」(一五五二~一五八六)よりも年長で、「後陽成天皇・後水尾天皇」関係者(下記「参考一」)のうちの最長老ということになる。
その最長老のことを反映しているかのように、常胤法親王が揮毫したのは、光源氏の栄華の絶頂を描写した「初音」巻と、それに続く「胡蝶」である。
 ちなみに、元和元年(一六一五)七月、豊臣家を滅ぼし「禁中垣公家諸法度」を公布した徳川家康が、その直後に、源氏長者の家筋であった村上源氏中院流の若き源氏学者・中院通村を講釈させたのが、この「初音」ということである(「参考二」)。
 また、慶長一九年(一六一四)八月に勃発した「方広寺鐘銘事件」(豊臣秀頼が京都方広寺大仏再興に際して鋳造した鐘の銘文中、「国家安康」の文に対して、徳川家康の名前が分割されて使われていることから、家康の身首両断を意図したものとして、家康が秀頼を論難した事件。大坂冬の陣のきっかけとなった)当時の「方広寺住職・興意法親王」の「蟄居」中の、その「方広寺」を管轄下に置いたのは、他ならず、この「妙法院常胤法親王」なのである(「参考三」)。
 この「方広寺鐘銘事件」が勃発した三か月後の、慶長一九年(一六一四)十一月十四日に、「源氏物語画帖」の企画者とも目されている「近衛信尹」は、その五十年の生涯を閉じている。
 この「近衛信尹」の意向を汲んで、「信尹」の妹(中和門院前子)との間の「第四皇子・信尋」(第三皇子・「後水尾天皇」の弟)を、「信尹」の跡を継いで「近衞家十九代目当主の近衞家を皇別摂家」とした「後陽成天皇」(後陽成院周仁)の、上記の「皇族関係者」の、「揮毫『帖』の分担」などの細やかな配慮などが、上記(「帖別」筆者・下記の「参考一」)から伝わってくる。
 それにしても、この常胤法親王の書は、「尊円親王〈そんえんしんのう・1298-1356〉にはじまる青蓮院(しょうれんいん)流を継承する、尊朝法親王の尊朝流に属するが、この書状の筆致には、巧みに伝統の型の書法を学んだ跡が歴然としている」(上記「常胤法親王筆書状」解説)。


(参考一)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-20

【 「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)
 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図()周辺は、下記記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

正親町天皇→陽光院(誠仁親王)→ ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
      ↓        ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
      ↓          ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良(養父・一条内基)
      ↓        ↓興意法親王     ↓良純法親王 他
    ※青蓮院尊純法親王(常胤法親王の王子、良恕法親王より灌頂を受け親王宣下)
 
※後陽成院周仁(誠仁親王の第一皇子・一五七一~一六一七) →(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(誠仁親王の第二皇子・一五七三~一六五〇) →(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(誠仁親王の第三皇子・一五七三~一六四三) →(関屋・絵合・松風)
興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)→方広寺大仏鐘銘事件(蟄居?)
※八条宮智仁親王(誠仁親王の第六皇子・一五七九~一六二九) →(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(正親町天皇の猶子・一五四八~一六二一)  →(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純(常胤法親王の子・一五九一~一六五三)→(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋→(後陽成天皇の子・後水尾天皇の弟・信尹の養子・太郎君の夫?・一五九九~一六四九)→(須磨・蓬生)
※近衛信尹→(信尹の養父・太郎君の父・一五六五~一六一四)→(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)
※近衛太郎(君)→(近衛信尹息女・慶長三年(一五九八)誕生?)・ 信尋の正室?)→(花散里・賢木)        】

(参考二)

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiBw_ux9obxAhVSFogKHaIqBFsQFjAAegQIAxAD&url=https%3A%2F%2Fglim-re.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D795%26file_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw1LejrASRSFdRxGu9Y6EYoe

【 「王権と恋、その物語と絵画―〈源氏将軍〉徳川家と『源氏物語』をめぐる政治」(松島仁稿)(抜粋)

元和元年(一六一五)七月、豊臣家を滅ぼし「禁中垣公家諸法度」を公布した家康は、その直後、源氏長者の家筋であった村上源氏中院流の若き源氏学者・中院通村を召し、『源氏物語』「初音」巻を講釈させる。
 中院通村はそれまでの注釈書の集大成ともいえる『眠江入楚』を著した中院通勝の嫡男であり、中世源氏学の正統・三條西流の継承者でもあった。そのためこの源氏講釈を新しい源氏長者に対するかつての源氏長者筋の服属儀礼、徳川将軍家による中世源氏学、つまり〈読み〉の正統の収奪とみることも可能である。同じ時期、家康は、吉田神道の継承者・神龍院梵舜からも神道の講釈を受けている。豊臣家滅亡ののち、「禁中竝公家諸法度」を発布
して〈王朝世界〉に対峙した家康は、三條西家の古典学と吉田家の唯一神道という中世文化の核となる言説の吸収に努めたのである。
 宮川葉子氏によれば、源氏講釈が行われた数寄屋の庭には、豊臣秀吉を祀る豊國社から伐採された松の葉が敷かれたという。豊臣家滅亡後、豊國大明神の神号を廃し秀吉を神の座から引きずり下ろした家康は、秀吉の俳名でもあった松を踏みにじり、光源氏の栄華の絶頂を描写した「初音」巻を高らかに謡い上げ、悦惚感に酔い痴れたのである。   (中略)
 『源氏物語』のく読みを独占した徳川将軍は、自らの身体で光源氏を演じ、王権をたぐり寄せる。二代将軍・徳川秀忠は元和六年(一六二〇)、女・和子を後水尾天皇に入内させ、光源氏や源頼朝の故事を忠実に踏まえながら外戚の地位を手に入れる。また秀忠は寛永三年(一六二六)、息子である三代将軍・家光とともに大軍を率いて上洛し、〈天皇の庭〉神泉苑を大幅に切り取ったうえ、壮麗に改築された二條城に後水尾天皇を迎える。足利義満や豊臣秀吉、そして光源氏の故事を踏まえたこの行幸の模様は、一代の盛儀として屏風絵や絵巻、古活字版・整版として板行された絵入りの行幸記などにも記録されるが、ここで一連の儀式のクライマックスとなったのが、天皇以下、宮廷の構成員を総動員する形で上演された「青海波」の舞だった。  】(『徳川将軍権力と狩野派絵画(松島仁著)』所収「第三部 徳川将軍権力の権威化と新しい〈王朝絵画〉の創成」p146-p148)

(参考三)  「興意法親王」と「「方広寺鐘銘事件」そして「妙法院常胤法親王」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-26

【一 「信尹」と「興意法親王=道勝=聖護院(33世)=照高院(1世)」と「道澄准后=道澄=聖護院(31世)=照高院(2世)」とは、親しい仲で、この「笑話」では実名で出てくる(もう一人の「浄光院」は、フィクション上の「捩りの人物」である)。
二 「興意法親王」は、「源氏ノ外題かき給ふ」と、『源氏物語』などに精通し、この種の
「寄合書き」(数人が合作で一つの書画をかくこと。また、その書画)の常連の一人なのである。その「興意法親王」が、何故に、親交の深い「信尹」が深く関与するとされている『源氏物語画帖』に、「後陽成天皇」の生存する兄弟の親王(空性法親王・良恕法親王・智仁親王)が皆参画しているのに、唯一、その名が見られないということは、どうしたことなのであろうか。
三 その理由は、「慶長19年8月豊臣氏が建立した方広寺大仏殿の棟札銘文に,書くべき大工頭の名を入れなかったという江戸幕府の嫌疑を受け蟄居した。元和2(1616)年聖護院寺務および三井寺長吏を退いた」(上記の「朝日日本歴史人物事典」)と深く関わっているのではなかろうか。
四 そもそも、この「方広寺鐘銘事件」の「方広寺」の初代の住職は、「道澄」(照高院1世)で、「道澄」が、慶長十三年(一六〇八)に亡くなり、その後を継いだのが「道勝」(照高院2世=興意法親王)なのである。
五 ここで、大事なことは、「方広寺鐘銘事件」というのは、「慶長19年8月豊臣氏が建立した方広寺大仏殿の棟札銘文」に起因するもので、この慶長十九年(一六一四)十一月十四日に、「源氏物語画帖」の企画者とも目されている「近衛信尹」は、その五十年の生涯を閉じている。
六 すなわち、「信尹」は、養子(近衛家の「婿」)の「信尋」(後陽成天皇の「皇子」)と愛娘「太郎(君)」とに関わる「吉事」の、この「源氏物語画帖」の制作に、その「吉事」の「源氏物語画帖」に汚点を残すことも思料される、勃発している「方広寺鐘銘事件」(豊臣家滅亡となる「大阪冬の陣・夏の陣」の切っ掛けとなる事件)の、その「方広寺」のトップの位置にある「興意法親王=道勝=聖護院(33世)=照高院(1世)」の名は、どういう形にしろ、留められるべき環境下ではなかったのであろう。
七 その「興意法親王」は、元和二年(一六一六)に「聖護院寺務および三井寺長吏」も退き、嫌疑が晴れて、洛東白川村に「照高院」を再興(幕府より所領千石が付与)できたのは、元和五年(一六一九)、そして、その翌年(元和六年九月)その再興の御礼に「江戸へ下向し、その滞在中に客死する(享年四十五)」という、後陽成天皇の兄弟中では、その後半生は多難の生涯であったことであろう(別記一)。
八 そもそも、「道澄」(照高院1世)、そして、「道勝」(照高院2世=興意法親王)が門跡となった「方広寺」は、「豊臣秀吉の創建だが、慶長元年(一五九六)の畿内を襲った大地震で倒壊、それを秀頼がブロンズ製で再建に着手したが、工事中の火災などでの曲折を経て、慶長十九年(一六一四)に完成。後は開眼供養と堂供養を待つだけとなったが、有名な『方広寺鐘銘事件』が起き、落慶は中止。その後も、寛文二年(一六六二)に再び震災で倒壊、そして、寛政十年(一七九八)七月一日に、落雷により焼失してしまう」(別記二)という、誠に、「豊臣家の滅亡」を象徴するような数奇な背景を漂わせている。この「方広寺」は、「道勝」(興意法親王)の後、その叔父の「妙法院常胤法親王」の管轄下の寺院となり、今に続いている。この「妙法院常胤法親王」(一五四八~一六二一)は、「源氏物語画帖」の「初音・胡蝶」の「詞書」を書いている。       】


(別記) 「 近衛信尹筆連歌懐紙」周辺

信尹・連歌懐紙.jpg

「近衛信尹筆連歌懐紙」 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/697

【 夢想連歌は、夢に現れた神仏が示現した句を発句として詠む連歌。これは、その夢想連歌を近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉が清書したもの。3句目の「杉」は、信尹の一字名である。この他に、西洞院時慶〈にしのとういんときよし・1552-1640〉、滋野井冬隆〈しげのいふゆたか・1586-1655〉、北野社の松梅院禅昌〈しょうばいいんぜんしょう・生没年未詳〉、西洞院時直〈にしのとういんときなお・1584-1636〉、連歌師里村昌琢〈さとむらしょうたく・1574-1636〉らの名前がみられる。執筆(しゅひつ=書記)役を務める信尹の、のびやかな筆致、見事な行配りが真骨頂を示す。

(釈文)

夢想 来二十三日 みどりあらそふ友鶴のこゑ(後陽成天皇) 霜をふる年もいく木の庭松
瑞久 冬より梅の日かげそふ宿 杉 朝附日軒のつま/\うつろひて 時慶 月かすか
なるおくの谷かげ 冬隆 うき霧をはらひははてぬ山颪禅昌 あたりの原はふかき夕露
時直 村草の中にうづらの入臥て昌琢 田づらのつゞき人かよふらし宗全    】

夢想   来二十三日
みどりあらそふ友鶴のこゑ    (後陽成天皇?)※(桐壺・箒木・空蝉)
霜をふる年もいく木の庭の松    瑞久 (「杉=信尹」の父「近衛前久」か?)
冬より梅の日かげそふ宿      杉  (「杉」=信尹) ※(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)
朝附日軒のつま/\うつろひて   時慶 →※「時直」(七句目)の父「西洞院時慶」 
月かすかなるおくの谷かげ     冬隆 (「滋野井家」を再興、後に「季吉」に改名)
うき霧をはらひははてぬ山颪    禅昌 (北野社の「松梅院禅昌」)
あたりの原はふかき夕露      時直 ※(若紫・末摘花)
村草の中にうづらの入臥て     昌琢 (連歌師「里村昌琢」)
田づらのつゞき人かよふらし    宗全 (連歌師?)       

 「夢想連歌」とは、「夢で歌や句を得た時、それを神仏のお告げだとみて、神仏への奉謝のために作る連歌。懐紙に「夢想連歌」あるいは「夢想之連歌」と端作りして脇句から始め、九九句を付け、夢の句が短句もしくは歌一首の場合は一〇〇句付ける。夢想連歌。夢想開連歌(むそうびらきれんが)」(『精選版 日本国語大辞典』)とある。
 この解説に、『俳文学大事典(角川書店)』所収「夢想連歌」(島津忠夫稿)の次の事項を追記して置きたい。
「普通、懐紙には『夢想之連歌』と記し、賦物は書かない。夢想の作者は『御』と記す。夢想の句が長句(上の句)の場合き脇起し連歌となり、短句(下の句)の場合は、表八句を九句にして一〇一句で百韻となる。」
 これらのことを念頭に置くと、上記の「釈文」は、次のように解すべきのように思われる。

夢想(之連歌)  来 二十三日

(夢想句) みどりあらそふ友鶴のこゑ   空白(「御」の「後陽成院」作かは不明?)
発句  霜をふる年もいく木の庭の松   瑞久
脇    冬より梅の日かげそふ宿    杉 
第三  朝附日軒のつま/\うつろひて  時慶
四    月かすかなるおくの谷かげ   冬隆
五   うき霧をはらひははてぬ山颪   禅昌
六    あたりの原はふかき夕露    時直
七   村草の中にうづらの入臥て    昌琢
八    田づらのつゞき人かよふらし  宗全

 ここで、「客=発句、亭主=脇」の「連歌(連句)」の式目からすると、「亭主=興行主」は「杉」(近衛信尹)、そして、「客=主賓」は、「(夢想之句作者)=空白=「御」=「後陽成院?」ではなく、発句作者の「瑞久」か、脇句の作者の「杉」(信尹)のものと解したい。
 そして、この「瑞久」は、この「久」の一字を有することから、「信尹」の父の「前久」(号=「龍山」)なのではなかろうか?(少なくとも、この連歌の「連衆」は「後陽成院サロン」のそれというよりも「近衛前久・信尹・信尋」の、それに連なる「近衛家サロン」連衆の面々と解したい)。
 そう解して行くと、『安土桃山時代の公家と京都―西洞院時慶の日記にみる世相』(村山修一著・塙書房)の、「公家では文禄二年十一月二十一日の近衛家の夢想連歌二百韻、慶長五年五月二十七日、慶長八年九月二十六日、慶長九年一月二十三日など数多く催されている」と連動して来る。
 ずばり、この「夢想之連歌」は、、慶長九年(一六〇四)一月二十三日の、恒例の「近衛家連歌会」での「夢想連歌百韻」の「表九句」(「夢想句(短句))+表八句」)と解したい。
 そして、一番目の「夢想句」の作者名(「空白」の「御」に相当する)は、「御製」の「後陽成天皇」を意味するものではなく、「夢想之連歌」の「夢想句の短句」の作者名の「御」を意味するもので、この連歌の流れからすると、「脇句」の作者「杉=信尹」のような感じを受ける。
 因みに、この信尹の「一字名」(「連歌」などの号)の「杉」は、その「偏」の「木」と「旁」の「彡(サン)」とで「三木」となり、この「三木」も、信尹の「号」(姓号?)で、陽明文庫所蔵の「龍山(「前久」の号)書状などには、「三木公」(信尹)宛のものも見受けられるとのことである(『三藐院 近衛信尹―残された手紙から(前田多美子著)』所収「8 信尹死す」p167)。
 また、信尹が亡くなる一年前(慶長十八年=一六一三・十一月十一日付け)に認めた「信尹公御書置」(遺書)の中に、この連歌の五句目の作者(禅昌)の「松梅院禅昌」(北野天満宮の社葬。連歌を通じての交流。禅昌は信尹の書を学ぶ)に、「松梅院へ硯、文台」との形見分けの遺言を残している。「北野天満宮」は「連歌(連句)」のメッカ(聖地)で、その宗匠(師匠)という風格を漂わしている。
 そして、この七句目の作者(昌琢)の「里村昌琢」も、「祖父に持つ里村昌叱と里村紹巴の娘婿」で、里村南家を継ぎ、慶長十三年(一六〇八)に「法橋」、寛永三年(一六二六)には後水尾上皇から「古今伝授」を継受され、寛永九年(一六三二年)には「法眼」に叙せられた、連歌界の大立者(大宗匠)である。
この八句目の作者(宗全)は不詳であるが、「宗祇・宗長」に連なる連歌師という雰囲気である。第三の作者(西洞院時慶)と六句目の作者(西洞院時直)は、親(時慶)と子(時直)の関係で、近衛家の側近であると同時に、朝廷(禁中)連歌界の「執筆(宗匠助士兼書記)」などを担当する中心人物である。さらに、この「西洞院時慶」は、今に『時慶卿記』(全十巻)を残す、「安土桃山・江戸初頭の公家と京都」を知る上での、必須の中心人物でもある。
 もう一人の、四句目の作者「冬孝(滋野井季吉:一五八六~一六五五)は、「西洞院時直」(一五八四~一六三六6)」と共に、「飛鳥井家」(「歌道・蹴鞠」の家元)の出の、「近衛家」の二大ホープ(若手側近)という感じで無くもない。
 「夢想連歌百韻」の「表九句」(「夢想句(短句))+表八句」)の「発句」の作者(「瑞久」)は、信尹の父の「龍山公」の「前久」と解すると、その「脇句」の作者(「杉」)の、その嫡男なる「三杉公」の「信尹」の「親子競演(協演・共演・竟宴)」となり、次のアドレスの「近衛信尹・前久詠『法薬位置夜百首』攷』(大谷俊太稿)と重奏してくることになる。

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/2690/1/0010_163_006.pdf
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源氏物語画帖「その二十二・玉鬘」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

22 玉鬘(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四)  源氏35歳

光吉・玉鬘.jpg

源氏物語絵色紙帖  玉鬘  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/578353/2

信尹・玉鬘.jpg

源氏物語絵色紙帖  玉鬘  詞・近衛信尹
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/578353/1

(「近衛信尹」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/23/%E7%8E%89%E9%AC%98%E3%83%BB%E7%8E%89%E8%94%93%E3%83%BB%E7%8E%89%E8%91%9B_%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%8B%E3%81%9A%E3%82%89%E3%83%BB%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%8B%E3%81%A5%E3%82%89%E3%80%90%E6%BA%90

曇りなく赤きに、山吹の花の細長は、かの西の対にたてまつれたまふを、上は見ぬやうにて思しあはす。内の大臣の、はなやかに、あなきよげとは見えながら、なまめかしう見えたる方のまじらぬに似たるなめり。と
(第五章 光る源氏の物語 末摘花の物語と和歌論 第一段 歳末の衣配り)

5.1.14 曇りなく赤きに、山吹の花の細長は、 かの西の対にたてまつれたまふを、上は見ぬやうにて思しあはす。「 内の大臣の、はなやかに、あなきよげとは見えながら、なまめかしう見えたる方のまじらぬに似たるなめり」と、
(曇りなく明るくて、山吹の花の細長は、あの西の対の方に差し上げなさるのを、紫の上は見ぬふりをして想像なさる。「内大臣が、はなやかで、ああ美しいと見える一方で、優美に見えるところがないのに似たのだろう」と、)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十二帖 玉鬘
 第一章 玉鬘の物語 筑紫流離の物語
  第一段 源氏と右近、夕顔を回想
  第二段 玉鬘一行、筑紫へ下向
  第三段 乳母の夫の遺言
  第四段 玉鬘への求婚
 第二章 玉鬘の物語 大夫監の求婚と筑紫脱出
  第一段 大夫の監の求婚
  第二段 大夫の監の訪問
  第三段 大夫の監、和歌を詠み贈る
  第四段 玉鬘、筑紫を脱出
  第五段 都に帰着
 第三章 玉鬘の物語 玉鬘、右近と椿市で邂逅
  第一段 岩清水八幡宮へ参詣
  第二段 初瀬の観音へ参詣
  第三段 右近も初瀬へ参詣
  第四段 右近、玉鬘に再会す
第五段 右近、初瀬観音に感謝
  第五段 右近、初瀬観音に感謝
  第六段 三条、初瀬観音に祈願
  第七段 右近、主人の光る源氏について語る
  第八段 乳母、右近に依頼
  第九段 右近、玉鬘一行と約束して別れる
第四章 光る源氏の物語 玉鬘を養女とする物語
  第一段 右近、六条院に帰参する
  第二段 右近、源氏に玉鬘との邂逅を語る
  第三段 源氏、玉鬘を六条院へ迎える
  第四段 玉鬘、源氏に和歌を返す
  第五段 源氏、紫の上に夕顔について語る
  第六段 玉鬘、六条院に入る
  第七段 源氏、玉鬘に対面する
  第八段 源氏、玉鬘の人物に満足する
  第九段 玉鬘の六条院生活始まる
 第五章 光る源氏の物語 末摘花の物語と和歌論
  第一段 歳末の衣配り
(「近衛信尹」書の「詞」) → 5.1.14
第二段 末摘花の返歌
  第三段 源氏の和歌論

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3071

源氏物語と「玉鬘」(川村清夫稿)

【玉鬘は、「夕顔」の帖で光源氏と密会中に六条御息所の怨霊に憑(つ)き殺された夕顔と、頭中将の間に生まれた遺児である。

夕顔の死後、玉鬘は乳母とその夫の太宰小弐と共に九州に移り、そこで美しく成長した。太宰小弐が当地で世を去った後、玉鬘は大夫の監という肥後の豪族から求婚されるが、彼女たちはいやがり、ひそかに船で京都へ戻って来たのである。玉鬘と乳母たちは奈良桜井にある長谷寺へ参詣するが、ここで偶然、元は夕顔の侍女で今は光源氏に仕えている右近と再会した。そして右近は光源氏に、夕顔の遺児に会ったと報告するのである。

 光源氏と右近の対話を、大島本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「かの尋ね出でたりけむや。何ざまの人ぞ。尊き修行者語らひて、率て来たるか」と問ひたまへば、
「あな、見苦しや。はかなく消えたまひにし夕顔の露の御ゆかりをなむ、見たまへつけたりし」と聞こゆ。
「げに、あはれなりけることかな。」…
「容貌などは、かの昔の夕顔と劣らじや」などのたまへば、
「かならずさしもいかでかものしたまはむと思ひたまへりしを、こよなうこそ生ひまさりて見えたまひしか」と聞こゆれば、
「をかしのことや。誰ばかりとおぼゆ。この君と」とのたまへば、
「いかでか、さまでは」と聞こゆれば、
「したり顔にこそ思ふべけれ。我に似たらばしも、うしろやすしかし」と、親めきてのたまふ。

(渋谷現代語訳)
「あの捜し出した人というのは、どのような人か。尊い修行者と親しくして、連れて来たのか」と(光源氏が)お尋ねになると、
「まあ、人聞きの悪いことを。はかなくお亡くなりになった夕顔の露の縁のある人を、お見つけ申したのです」と(右近が)申し上げる。
「ほんとうに、思いもかけないことであるなあ。」…
「器量などは、あの昔の夕顔に劣らないだろうか」などとおっしゃると、
「きっと母君ほどでいらっしゃるまいと存じておりましたが、格別に優れてご成長なさってお見えになりました」と申し上げるので、
「興味あることだ。誰くらいに見えますか。この紫の君とは」とおっしゃると、
「どうして、それほどまでは」と申し上げるので、
「得意になって思っているのだな。わたしに似ていたら、安心だ」と、実の親のようにおっしゃる。

(ウェイリー英訳)
“Tell me about the interesting person whom you have discovered,” he went on. “I believe it is another of your holy men. You have brought him back here, and now I am let him pray for me. Have I not guessed right?” “No, indeed,” Ukon answered indignantly; “I should never dream of doing such a thing!” And then, lowering her voice: “I have become acquainted with the daughter of a lady whom I served long ago… The mother came to a miserable end… You will know of whom it is I am speaking.” “Yes,” said Genji… “I know well enough, and your news is indeed very different from anything I had imagined.” …
“Is she as handsome as her mother?” Genji then asked. “I did not at all expect that she would be,” answered Ukon. “But I must say that I have seldom seen…” “I am sure she is pretty,” he said. “I wonder whether you mean anything more than that. Compare with my lady…?” and he nodded towards Lady Murasaki. “No, indeed,” Ukon hastily; “that would be going too far…” “Come,” he said, “it would not be going much farther than you go yourself. I can see that by your face. For my part, I must own to the usual vanity of parents. I hope that I shall be able to see in her some slight resemblance to myself.” He said this because he intended to pass off the girl as his own child, and was afraid that part of the conversation had been overheard.

(サイデンステッカー英訳)
“Now, then, who is the interesting person in the hills? A well-endowed hermit you have come to an understanding with?”
“Please, sir, someone might hear you. I have found a lady who is not unrelated to those evening faces. Do you remember? The ones that faded so quickly.”
“Ah, yes, memories do come back..” …
“Is she as pretty as her mother?”
“I wouldn’t have thought she could possibly be, but she has grown into a very beautiful young lady indeed.”
“How interesting. Would you compare her with our lady here?”
“Oh, sir, hardly.”
“But you seem confident enough. Does she look like me? If so, then I can be confident too.”
He was already talking as if he were her father.

 ウェイリー訳は原文にないことを加えて冗漫だが、サイデンステッカー訳は原文に忠実で簡潔である。「あな、見苦しや」をウェイリーはI should never dream of doing such a thing、サイデンステッカーはsomeone might hear youと訳しているが、後者の方が正確である。また「我に似たらばしも、うしろやすしかし」をウェイリーはI hope that I shall be able to see in her some slight resemblance to myself、サイデンステッカーはDoes she look like me? If so, I can be confident tooと訳しているが、これも後者の方が正しい。
玉鬘の父は頭中将だが、光源氏は玉鬘を引き取り、花散里を後見にして育てるのである。】

(「三藐院ファンタジー」その十二)

信尹和歌屏風一.jpg

(A-1図)「三笠山図屏風(近衛信尹賛)」 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション) 六曲一隻(金地着色)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/1860

【近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉は、桃山時代の公卿で、摂関家近衛家の当主。文禄元年〈1592〉、秀吉の朝鮮出兵に際し、みずからが総指揮をとるべく渡航従軍を企てたが失敗。同3年〈1594〉、義兄たる後陽成天皇〈ごようぜいてんのう・1571-1617〉の勅勘に触れ、薩摩国最南端、坊津に配流となった。後に帰洛し、還俗後、関白・氏長者さらには准三宮となった。歌道・書道に秀で、ことに書においては、近衛流(三藐院流)と称され、本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉・松花堂昭乗〈しょうかどうしょうじょう・1584-1639〉とともに「寛永の三筆」の1人に挙げられ、不羈奔放の性格のままに、豪放自在、すこぶる個性的な書をかいた。この賛の書風もその典型である。信尹の書風は、没後多くの追随者を得て、一世を風靡した。また、画にも非凡の才を発揮、とくに水墨画の名品を多く残している。この屏風は、金地の上に濃彩に描かれる三笠山を情景に、『古今和歌集』(巻第四・秋上)と『後拾遺和歌集』(巻第十四・恋四)所収の2首を大字で散らし書きにする。信尹の自負のみなぎりが発揮される、数少ない大字仮名作品のひとつである。三笠山は、奈良市東部、春日大社の背後の山で、笠を伏せたような円錐形が3つ折り重なった形をしていることからこの名がある。画は、なだらかな稜線に桧の若木の垂直線をからませ、画面の右に丈高い薄、その上方に月、彼方に遠山が描かれている。ひときわのびやかな勾配やリズミカルで軽快な樹の描写に、長谷川派の手法をうかがうが、筆者は不明。伝来途次による剥落が見られるのは残念ながら、信尹の豪放な筆跡と桃山時代の特色である華やかな絵との見事な調和が見所である。「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき/白露も夢もこの世も幻もたとへていへば久しかりけり」

(釈文)

尾久山爾赤葉布美倭計□□之□□聲□□□秋婆悲気しら露も夢も此世もまぼろしもたとへていへばひさしかりけり   】


信尹和歌屏風二.jpg

(A-2図)「三笠山図屏風(近衛信尹賛)」(一扇・二扇の部分図、釈文:「尾久山爾赤葉布美倭計」)


信尹和歌屏風三.jpg

(A-3図)「三笠山図屏風(近衛信尹賛)」(三扇・四扇の部分図、釈文:「秋婆悲気」)


信尹和歌屏風四.jpg

(A-4図)「三笠山図屏風(近衛信尹賛)」(五扇・六扇の部分図、釈文:「しら露も夢も此世もまぼろしもたとへていへばひさしかりけり 」)

 ここに描かれている、「画(A-1図)は、なだらかな稜線に桧の若木(A-3図)の垂直線をからませ、画面の右に丈高い薄、その上方に月(A-2図)、彼方に遠山が描かれている。ひときわのびやかな勾配やリズミカルで軽快な樹(A-4図)の描写に、長谷川派の手法をうかがうが、筆者は不明。伝来途次による剥落が見られるのは残念ながら、信尹の豪放な筆跡と桃山時代の特色である華やかな絵との見事な調和が見所である」と、第一扇に描かれている「薄と月」(A-2図)、第三・四扇以下に描かれている「桧の若木」(A-3図)、そして、第五・六扇の「のびやかな勾配(土坡)やリズミカルで軽快な樹」(A-4図)は、「長谷川(等伯)派の手法をうかがわせる」(筆者は不明)というのである。
 これら(A-1図)は、光悦と宗達とが切り拓いていた、「書画二重奏への道―光悦書・宗達画和歌巻」の世界の、それらの原型の世界と軌を一にするものと解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-06

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-02

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-10

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https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-28

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-16

 ここで、ここに書かれている、近衛信尹の、次の二首について触れたい。

「尾久山爾赤葉布美倭計□□之□□聲□□□秋婆悲気」(A-1・2・3図)

 この万葉仮名の表記による歌は、『古今和歌集』(巻第四・秋上)の次の一首である。

奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき(詠人しらず『古今和歌集』215)

「五七調の歌として二句目と四句目で切って解釈する。真淵がはっきりそのように解している。作者の身分・境遇などはわからないが、秋の悲しみが身に迫るようで、沈痛な響きをもつ歌である。俊成・定家には高く評価され、『百人一首』では作者を猿丸大夫とする。しかし、そのころは三句目で切って、奥山の鹿の声を作者が里で聞くように解したのであろう。
」(『日本古典文学全集「古今和歌集(小沢正夫校注・訳)」』)

 この『俊成三十六人歌合』では、次のように、謎に充ちた「猿丸太夫と小野小町」との歌合として収載されている。

(左)

31 遠近(をちこち)のたづきを知らぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな(猿丸太夫)
32 ひぐらしの鳴きつるなへに日は暮れぬと思ふは山の陰にぞありける(同上)
33 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき(同上)

(右)

34 花の色は移りにけるないたづらに我が身世にふるながめせしまに(小野小町)
35 色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける(ど同上)
36 海人(あま)の住む浦漕ぐ舟の梶を絶え世を倦み渡る我ぞ悲しき(同上)

 これが、定家の『百人秀歌』で、次のように収載されて来る。

8 奥山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき(猿丸太夫)
13 花の色は移りにけるないたづらに我が身世にふるながめせしまに(小野小町)

そして、『百人一首』では、「1天智天皇・2持統天皇・3柿本人麻呂・4山辺赤人」に次いで五番目に収載されている。

5 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき(猿丸太夫)

 しかし、信尹の、この「三笠山図屏風(近衛信尹賛)」(A-2図・A-3図)は、漢字(真名=真字・万葉仮名=真仮名)の表記で、上記の『古今集』や『百人一首』のものではなく、次の『新撰万葉集』(菅原道真編)の表記をアレンジして書いているようなのである。

猿丸歌(万葉仮名).jpg

『新撰萬葉集』(著者:菅原 道真)  宮内庁書陵部 マイクロ収集 153,169
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100061606/viewer/18

 奥山丹黄葉(モミヂ)踏別鳴鹿之音聴時曾秋者金敷
   秋山寂々葉零々(秋山・寂々=セキセキ、葉・零々=レイレイ)
   糜鹿鳴音数處聆(糜鹿=ビロク・鳴音、数處ニ聴ユ)
   勝地尋来遊宴處(勝地=ショウチ・尋来、遊宴スル處) 
   無朋無酒意猶冷(朋無シ酒無シ、意猶冷ス)  →  (菅原道真の「漢詩」)

 奥山丹黄葉(モミヂ)踏別鳴鹿之音聴時曾秋者金敷 (『新撰万葉集』=道真)     
 尾久山爾赤葉(モミヂ)布美倭計□□之□□聲□□□秋婆悲気(「三笠山図屏風」=信尹)
  (「A-2図)」・「A-3図)」)
奥山に紅葉(モミヂ)踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき(猿丸太夫『百人一首5』・『古今集・巻第四・秋上215・詠人しらず』)
 天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも(安倍仲丸『百人一首7』・『古今集・巻第九・羇旅歌406・安倍仲麿』) (「A-2図)」)
 白露も夢もこの世も幻もたとへていへば久しかりけり(和泉式部『後拾遺集831』)
  (「A-4図」)

以下は、「三藐院ファンタジー」の「ファンタジー」的な試行的な解となる。

一 「A-2図」に描かれている「月」は、『古今集・巻第九・羇旅歌406・安倍仲麿』の「天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の、「春日(大和の春日の地)の三笠山(遣唐使が出発する際祈願する春日神社に聳える山)の上空の月」を暗示している。しかし、この「三笠の山の月」は、遠く離れた異国の「唐土」からの望郷の「大和(倭=日本)」の「幻想の山と月」と解したい。

二 そして、この歌が収載されている『古今集』の「真名序」(紀淑望が書いたといわれる漢文の「序」)と「仮名序」(紀貫之が書いたらしい仮名文の「序」)に倣い、一首目は「男手(おのこで)」(漢字・真名・真字・万葉仮名=真仮名)の「万葉仮名」で、二首目は「女手(おんなで)」(仮名=平仮名)での揮毫を、信尹はイメージをしたように思われる。

三 さらに、その「男手」(万葉仮名)で仕上げる一首目は、その「真名序」で、「(大友黒主ガ歌ハ)古猿丸大夫之次也(古ノ猿丸大夫ノ次ナリ)」と、その名(「猿丸太夫」)は刻まれているのに、その名を冠した和歌は一首も撰歌されず(その後の勅撰集にも収載されず)、後世、猿丸太夫の作とされる(『古今集・巻第四・秋上215・詠人しらず』)の「幻」の一首、「奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき」(『百人一首5』)がクローズアップされてきたように思えるのである。

四 次に、信尹は、「男手」の、「奥山丹黄葉(モミヂ)踏別鳴鹿之音聴時曾秋者金敷」(『新撰万葉集』=道真)を、「奥山に紅葉(モミヂ)踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき(猿丸太夫『百人一首5)』」のフィルターを介して、「黄葉(モミヂ)→紅葉(モミヂ)→赤葉(モミヂ)」という発想と結びついて行くものと解したい。

五 これは、「黄葉(モミヂ)」の、「萩の黄葉(モミヂ)」の「中秋の季題(季語)」から、「紅葉(モミヂ)」の「楓の紅葉(モミヂ)」の、「晩秋の季題(季語)」へと様変わりである。そして、それは、「黄(色)」から「赤(色)」の、造形的な色彩の変化を意味するものと解したい。

 ここで、次の「女手」で仕上げた、和泉式部の「白露も夢もこの世も幻もたとへていへば久しかりけり(『後拾遺集831』)」(「A-4図」)について触れたい。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/izumi.html
  ↓
【   露ばかりあひ見そめたる男のもとにつかはしける
 白露も夢もこの世もまぼろしもたとへて言へば久しかりけり(和泉式部『後拾遺831』)

【通釈】人が果敢ないと言う白露も、夢も、この世も、幻も、あなたとの逢瀬の短さに比べれば、長く続くものであったよ。
【補記】果敢ないものの例を挙げて、逢瀬の短かった不満を恋人に訴えた。正集・続集に見えず、宸翰本・松井本に見える歌。
【本歌】よみ人しらず「後撰集」
人心たとへて見れば白露のきゆるまもなほひさしかりけり
【主な派生歌】
まぼろしも夢も久しき逢ふことをいかに名づけてそれと頼まむ(木下長嘯子)   】

 この和泉式部の歌は、その詞書と一体になって詠むと「逢瀬の恋歌」なのであるが、信尹の「三笠山図屏風」の二首を、連作(一連の作品)として鑑賞すると、上記の「木下長嘯子」の派生歌(「まぼろしも夢も久しき逢ふことをいかに名づけてそれと頼まむ」)や、その長嘯子と深い姻族の関係にある「豊臣秀吉」の辞世の歌とされる「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことも夢のまた夢」に近いものが、イメージとして伝わってくる。

尾久山爾赤葉(モミヂ)布美倭計(鳴鹿)之聲(聴時曾)秋婆悲気(「A-2図)」・「A-3図)」)
白露も夢もこの世も幻もたとへていへば久しかりけり (「A-4図」)

 下記のアドレスの「〈まぼろし〉考-『和泉式部歌集』私抄四-(千葉千鶴子稿)」によると、『万葉集』には、「まぼろし」を詠んだ歌は一首も無いようである。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/oojc/12/0/12_KJ00000733320/_pdf

 そして、『源氏物語』には、次の二首の「まぼろし」の歌があることが紹介されている。

たづねゆくまぼろしもがなってにてもたまのありかをそこと知るべく(「1桐壷」―桐壺帝)
(亡き桐壺更衣を探し行ける幻術士(『長恨歌』の「玄宗皇帝は楊貴妃を失った悲しみに堪えきれず、死者の魂を探しに行かせる幻術士)がいてくれればよいのだがな、人づてにでも魂のありかをどこそこと知ることができるように。)

大空をかよふまぼろし夢にだに見えこぬたまのゆくゑたづねよ(「41幻」―光源氏)
(大空を飛びゆく幻術士よ、夢の中にさえ 現れない亡き人の魂の行く方を探してくれ。)

 しかし、この二首とも、「まぼろし=幻術士」の歌で、和泉式部の「まぼろし」(「幻」そのもの)の歌ではない。そして、紫式部の「まぼろし」とは、第一帖(「1桐壷」―桐壺帝の「まぼろし」の歌)から第四一帖(「41幻」―光源氏の歌)に至る、この光源氏の一生涯の底流に流れている「もののあわれ(もののあはれ)」を象徴する、第四一帖」の帖名の「幻」の一字に集約されているのではなかろうか。
 これらのことは、下記のアドレスの「幻術士(まぼろし)から「幻」へ : 源氏物語、哀悼の方法(天野紀代子稿)」を、先の「〈まぼろし〉考-『和泉式部歌集』私抄四-(千葉千鶴子稿)」と、併せ参照することによって、その実態の一端が浮かび上がってくる。

https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=10160&item_no=1&page_id=13&block_id=83

「もののあわれ(もののあはれ)」関連については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-06-20

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-05

「和泉式部」関連については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-09-11

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-19

「猿丸太夫」関連については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-11

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-28

「木下長嘯子」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-20


(追記一) 『猿丸幻視行(井沢元彦著)』周辺

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjpw-fmiYXxAhWTHHAKHWCxDz4QFjASegQICBAD&url=https%3A%2F%2Fmukogawa.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D1227%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw1YPpXAZM8HkHB4E00CHpFo

【 もう一度猿丸大夫の歌といわれている「奥山の 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きくときぞ 秋はかなしき」を振り返ってみる。「ふみわける」のは、この歌を詠んでいる作者と考えられるが、逆に隠者の立場からみると、紅葉を踏み分けてるのは、鹿と考えられることもで
きる。そのために、猿丸大夫はどういう考えでいたのか詠んでみる。「もう秋も深くなった。
彼はすでに孤独にも馴れてきた。不安は諦観(あきらめ)になり、かつやりきれなく思っ
た山奥での孤独も、今は閑静を楽しむ心に変わった。その彼の孤独を鹿が訪れる。カサカ
サと紅葉の落ち葉をふみ分けて、雌を求めて鳴いている。彼はかつて彼自身もあの様に悲
しげな声で女性を求めて歌を歌ったことを思い出す。すべては紅葉の様に散ってしまった。
今彼の前にあるものははてしない寂寥だけである。彼は世界の根底にある悲哀の声を聞い
た思いであった。」このように世捨て人の立場として悲しい歌を作ったということも考えら
れる。最後に猿丸大夫の歌というものが最初に表れたのは 11 世紀の前半、藤原公任の選ん
だ「三十六人撰」においてである。「三十六人撰」において彼の歌とされるのは次の 3 首が
ある。
「をちこちの たつきもしらぬ 山中に おぼつかなくも よぶことりかな」
「ひぐらしの なきつるなへに 日は暮れぬと みしは山のかげにざりける」
「奥山の 紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき」          】

(追記二) 「清少納言・紫式部・和泉式部」周辺

http://www.gregorius.jp/presentation/page_23.html

【 清少納言は、正暦四年(993年、27歳位)の冬頃から中宮定子(16歳位)に仕え、長保二年(1000年、34歳位)に定子が亡くなってまもなく、宮仕えを辞めたとされます。
 和泉式部は、寛弘五年(1008年、30歳位)から中宮彰子(20歳位)に出仕しました。四十歳を過ぎた頃、藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下りました。
 紫式部は、寛弘二年(1005年、26歳位)の末から中宮彰子(17歳位)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも同八年(1011年、32歳位)まで続けたとされます。  】

(追記三)  「三笠山図屏風(近衛信尹賛)」と「檜原図屏風(近衛信尹賛)」(素性法師歌屏風)・「いろは歌屏風(近衛信尹賛)」そして「和歌六義屏風(近衛信尹筆)

信尹和歌屏風一.jpg

(A-1図)「三笠山図屏風(近衛信尹賛)」慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション) 六曲一隻(金地着色)

檜原・いろは歌屏風.jpg

近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上=(B-1図)) いろは歌屏風(下=(B-2図)) (禅林寺蔵)(出典: 『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p235) 

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-15

和歌六義屏風.png

(C図)「和歌六義屏風」(近衛信尹筆)」 六曲一双 彩箋墨書 各一四八・四×二八五・五㎝  (陽明文庫蔵) (出典: 『近衛家陽明文庫の名宝―王朝文化の創造と伝承(MOA美術館・特別展)』所収「作品解説80」 

尾久山爾赤葉(モミヂ)布美倭計(鳴鹿)之聲(聴時曾)秋婆悲気(「A-2図)」・「A-3図)」)
しら露も夢も此世もまぼろしもたとへていへばひさしかりけり (「A-4図」)
  
  はつせ山ゆふこえくれてやとゝへは(三輪の檜原に)秋風そふく(B-1図)
  
  いろはにほへと 散ぬるを
  わか世誰そ   常ならむ 
  有為のおく山  けふこえて 
  あさき夢みし  ゑひもせす     (B-2図)

(右隻)

  そへうた
  なには津にさくやこのはなふゆこもりいまははるへとさくやこのはな
  かそへうた
  開花におもひつく身のあちきなき身のいたつきのいるもしらすて
  なすらへうた
  君にけさあしたの露のおきていなはこひしきことにきえやわたらむ
  (左隻)
  たとへ哥
  我こひはよむともつきしありそ海のはまの真砂はよみつくすとも
  たゞごとうた
  いつはりのなき世なりせはいかはかり人のことの葉うれしからまし
  いはひ謌
  此殿はむへもとみけりさきくさのみつはよつはにとのつくりせり

https://www.bijutsushi.jp/pdf-files/reikai-youshi/2015_11_21_01_hamano.pdf

「近衛信尹筆「檜原いろは歌屏風」に関する考察」(浜野真由美稿)

【永観堂禅林寺に伝来する「檜原いろは歌屏風」は、「檜原図屏風」と「いろは歌屏風」の二隻からなる紙本墨画墨書の六曲一双屏風である。両隻の書はともに近衛信尹(1565~1614)筆と見做され、大字仮名の嚆矢として日本書道史上重要な位置を占めるが、そうした知名度に反し、実証的な考究はほとんど進められてはいない。近年「檜原図屏風」の画については長谷川等伯(1539~1610)筆に比定されたものの、「いろは歌屏風」の簡略な画は閑却されており、また、両隻には内容的にも関連性が見出せないとの指摘から、現在では本来別個の作であるとする見方が強い。
 (中略)
『禅林寺年譜録』の元和 9 年(1623)の項、すなわち禅林寺第 37 世住持果空俊弍(?~1623)没年の項に「伊呂波屏風一双ナル」の記述が見出され、信尹と懇意であった果空上人の在世時に二隻が一双屏風として禅林寺に伝来したこと、つまり制作後ほどなくより一双屏風であったことが判明する。となれば、二隻に何らかの関係性が伏在した可能性も否めない。
 (中略)
「檜原図屏風」に表出された三輪地方が柿本人麻呂(660~720?)に縁深い地であることから、その主題は人麻呂の鎮魂にあるとの推察が可能であり、一方「いろは歌屏風」の主題はいろは歌の諸行無常観にあると考えられる。近年の和歌研究においては、人麻呂の歌にいろは歌と諸行無常偈を併記して解釈するといった、和歌文学における仏教的付会の傾向が指摘されており、二隻は内容的にも関連性を認めることができる。 】

(『猿丸幻視行(井沢元彦著)』周辺)

【 奥山丹黄葉(モミヂ=イロハ)踏別鳴鹿之音聴時曾秋者金敷 (『新撰万葉集』=道真) 
  ↓
  奥山丹黄葉踏
  別鳴鹿之音聴
  時曾秋者金敷
  ↓
  奥山丹 黄葉踏(いろは文〈ふみ〉)
  別鳴鹿 之音聴(の音〈こえ〉きく)
  時曾秋 者金敷(はかなしき)
  ↓
  「いろは文の音(こえ)きくは悲しき」
  ↓
『古今伝授秘事の一、呼子鳥の条 ― 君が解いたのはそれさ』(『猿丸幻視行(井沢元彦著・講談社)p116』)
  ↓
 いろはにほへ※と
 ちりぬるるをわ※か
 よたれそつ※な
 らむうゐのお※く
 やまけふこえ※て
 あさきゆめみ※し
 ゑひもせ※す
  ↓
『※とかなくてしす ― 咎(罪)無くて死す』(『猿丸幻視行(井沢元彦著・講談社)p94-95』)

『猿ならば猿にしておけ呼子鳥(白猿)』(「公家達の勿体ぶっただけで内容のない伝統を皮肉った川柳」=(『猿丸幻視行(井沢元彦著・講談社)p1164-117』)

『従四位下柿本朝臣佐留卒(従四位下柿本朝臣佐留卒〈死〉ス)』(『猿丸幻視行(井沢元彦著・講談社)p238』)

『水底の歌』(みなそこのうた)は、哲学者・梅原猛の著した柿本人麿に関する評論→井沢元彦はこの影響を受けて『猿丸幻視行』(ミステリー小説)を著している。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

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源氏物語画帖「その二十一・乙女」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

21 乙女(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四)  源氏33歳-35歳

光吉・乙女.jpg

源氏物語絵色紙帖   乙女  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/563752/2

信尹・乙女.jpg

源氏物語絵色紙帖   乙女  詞・近衛信尹
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/563752/1

(「近衛信尹」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/20/%E8%96%84%E9%9B%B2_%E3%81%

風うち吹きたる夕暮に、御箱の蓋に、色々の花紅葉をこき混ぜて、こなたにたてまつらせたまへり
(第七章 光る源氏の物語 六条院造営 第六段 九月、中宮と紫の上和歌を贈答)

7.6.1 風うち吹きたる夕暮に、御箱の蓋に、色々の花紅葉をこき混ぜて、 こなたにたてまつらせたまへり。
(風がさっと吹いた夕暮に、御箱の蓋に、色とりどりの花や紅葉をとり混ぜて、こちら(紫夫人)に差し上げになさった。)


(周辺メモ)

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第二十一帖 乙女
 第一章 朝顔姫君の物語 藤壺代償の恋の諦め
  第一段 故藤壺の一周忌明ける
  第二段 源氏、朝顔姫君を諦める
 第二章 夕霧の物語 光る源氏の子息教育の物語
  第一段 子息夕霧の元服と教育論
  第二段 大学寮入学の準備
  第三段 響宴と詩作の会
  第四段 夕霧の勉学生活
  第五段 大学寮試験の予備試験
  第六段 試験の当日
 第三章 光る源氏周辺の人々の物語 内大臣家の物語
  第一段 斎宮女御の立后と光る源氏の太政大臣就任
  第二段 夕霧と雲居雁の幼恋
  第三段 内大臣、大宮邸に参上
  第四段 弘徽殿女御の失意
  第五段 夕霧、内大臣と対面
  第六段 内大臣、雲居雁の噂を立ち聞く
 第四章 内大臣家の物語 雲居雁の養育をめぐる物語
  第一段 内大臣、母大宮の養育を恨む
  第二段 内大臣、乳母らを非難する
  第三段 大宮、内大臣を恨む
  第四段 大宮、夕霧に忠告
 第五章 夕霧の物語 幼恋の物語
  第一段 夕霧と雲居雁の恋の煩悶
  第二段 内大臣、弘徽殿女御を退出させる
  第三段 夕霧、大宮邸に参上
  第四段 夕霧と雲居雁のわずかの逢瀬
  第五段 乳母、夕霧の六位を蔑む
 第六章 夕霧の物語 五節舞姫への恋
  第一段 惟光の娘、五節舞姫となる
  第二段 夕霧、五節舞姫を恋慕
  第三段 宮中における五節の儀
  第四段 夕霧、舞姫の弟に恋文を託す
  第五段 花散里、夕霧の母代となる
  第六段 歳末、夕霧の衣装を準備
 第七章 光る源氏の物語 六条院造営
  第一段 二月二十日過ぎ、朱雀院へ行幸
  第二段 弘徽殿大后を見舞う
  第三段 源氏、六条院造営を企図す
  第四段 秋八月に六条院完成
  第五段 秋の彼岸の頃に引っ越し始まる
  第六段 九月、中宮と紫の上和歌を贈答
(「近衛信尹」書の「詞」) → 7.6.1


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源氏物語と「乙女」(川村清夫稿)

【日本の正月は、明治維新後の1873年に太陰太陽暦が太陽暦に改められてからは、太陽暦だけで祝われるようになった。他方中国、韓国、ベトナムでは、今でも旧正月が祝われている。太陰太陽暦を使っていた明治時代以前の日本では人の年齢は数え年で、正月には数え年で12歳から16歳になった男性を成人として認める元服という成人式があったのである。

 源氏物語では乙女(少女)の帖で、光源氏が長男の夕霧を元服させる場面がある。その場面で光源氏は夕霧を、高級貴族の子弟のみに許された特権である「蔭位の制」(大学寮で教育を受けなくても、父の位階が一位なら五位から自動的に官職につける制度)を通さず、大学寮で教育を受けさせてから官職につけることに決める。その理由として光源氏は、「ざえ」(または「からざえ」漢才)と「やまとだましひ」(大和魂)について語っている。
「からざえ」とは学問(特に漢学)、学問の才能のことである。そして「やまとだましひ」とは「からざえ」の反意語で、日本人が生まれながら持っている才能、常識的な知恵のことである。中国と日本を対比する「からざえ」と「やまとだましひ」は、印象の強い言葉である。「枕冊子」の研究で有名な田中重太郎相愛大学教授は、兼任されていた京都駿台予備校の古文の主任講師として、「からざえ」と「やまとだましひ」を引き合いに出して、学問の重要性を強調されておられた。

大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。さしあたりては心もとなきやうにはべれども、つひの世の重しとなるべき心おきてを習ひなば、はべらずなりなむ後もうしろやすかるべきによりなむ。

(渋谷現代語訳)
やはり、学問を基礎にしてこそ、政治家としての心の働きが世間に認められるところもしっかりしたものでございましょう。当分の間は、不安なようでございますが、将来の世の重鎮となる心構えを学んだなら、私が亡くなった後も、安心できようと存じてです。

(ウェイリー英訳)
For the truth is, that without a solid foundation of book learning this “Japanese spirit” of which one hears so much is not of any great use in the world. So you see that, though at the present moment I may seem to be doing less for him than I ought, it is my wish that he may one day be fit to bear the highest charges in the State, and be capable of so doing even if I am no longer here to direct him.

(サイデンステッカー英訳)
No, the safe thing is to give him a good, solid fund of knowledge. It is when there is a fund of Chinese learning that the Japanese spirit is respected by the world, he may feel dissatisfied for a time, but if we give him the proper education for a minister of state, then I need not worry about what will happen after I am gone.

  「ざえ」に関しては、渋谷が「学問」と解釈して、ウェイリーもbook learningと意訳しているのに対して、サイデンステッカーはChinese learningと直訳している。そして「やまとだましひ」については、渋谷が「政治家としての心の働き」と解釈しているのに対して、ウェイリーもサイデンステッカーもJapanese spiritと異国趣味的な直訳をしている。

 「やまとだましひ」が歴史に登場したのは、源氏物語が最初である。

 よって紫式部が「やまとだましひ」の発明者ということになる。
「やまとだましひ」が近現代において「日本精神」として扱われるようになったのは、江戸時代中期に国学の研究がさかんになり、本居宣長が類義語の「やまとごころ」を「からごころ」の反意語と定義してからである。

 本居は歴史の長い中国文化の性格を、ものごとを作為的な虚飾で飾り立てる、はからいの多い繁文縟礼的な「からごころ」だと言って批判する一方、日本文化の性格を、ものごとにはかりごとを加えず、あるがままのさまを肯定する素直な「やまとごころ」だと呼んで称賛したのである。この「やまとごころ」が、仏教や儒教が伝来する以前の日本古来の精神に拡大解釈され、「やまとだましひ」はその同義語として扱われ、日本の独自性を象徴する標語となり、大日本帝国において国粋主義的な「日本精神」に変化していったのである。

 紫式部が「やまとだましひ」を発明した平安時代中期の日本では、国風文化が開花していた。894年に菅原道真が遣唐使を廃止して、905年には紀貫之たちが古今和歌集を編纂した。和学にも漢学にも通じていた紫式部は光源氏の口を借りて、日本人が古来の素朴な行動様式を放棄せず、漢学を学ぶことによって、先進国である中国の文化を接ぎ木して、後進国だった日本の文化の発展を願ったのである。紫式部は「和魂漢才」の提唱者だったのである。この「和魂漢才」思想は明治時代の文明開化運動で、「和魂洋才」に換骨奪胎された。飛鳥時代から豊かな外国文化摂取の蓄積がある現代日本人にとって、自文化の価値観を保持しながら外来文化を摂取して自文化を強める「和魂漢才」思想は今なお有効である。 】


(「三藐院ファンタジー」その十一)

信尹・三十六歌仙・右.jpg

「三十六歌仙図屏風・右隻(近衛信尹書)」[右隻]156.5×354.1 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/2665

信尹・三十六歌仙・左.jpg

「三十六歌仙図屏風・左(近衛信尹書)」[左隻]156.5×355.0 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/1750

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/2665

【 藤原公任〈ふじわらのきんとう・996-1041〉撰になる『三十六人撰』は、当時の秀歌の規範として貴族たちの文芸の座右に重んじられた。やがて、平安時代末期・12世紀になると、これら歌人の画像を描いてその代表歌1首を書き添えた歌仙絵が生まれた。後世、歌道の流行を歌仙信仰にともなって、絵巻形式の巻子本から、各歌仙ごと色紙に貼り込んだ色紙帖が考案された。いずれも、歌仙像は当時の名だたる絵師に、歌は能書の公卿に書写を依頼して制作されたものである。これは三十六歌仙を左右各18人の群像に描き分け6曲1双の屏風に仕立てたもの。歌仙図と和歌色紙を屏風に貼り交ぜたものはいくつか伝存するが、歌仙像を屏風に直に描いた上に和歌をも添書した遺例はきわめて珍しい。『三十六人撰』においては、柿本人麿を筆頭に、紀貫之・凡河内躬恒・伊勢……と続き、最後の36番目が中務となる。これを右・左に割り振って18人ずつに分け、人麿のグループを右隻に集めて画面左から順次配列、画像はすべて左向きに描いている。左隻には紀貫之から中務まで、画面右から配列する。1双の屏風を並べた時の画面効果をねらったものである。また、右隻の中央に斎宮女御〈さいぐうのにょうご=徽子女王・929-985〉を描くが、几帳を立てるばかりで、像主の絵姿を省略している。まことに大胆奇抜の構図である。歌仙中、最尊貴の斎宮女御に払う絵師の心情の発露というべきか。それらの歌仙像は下方に描かれ、上部の空間に近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉がそれぞれに対応する代表和歌をしたためる。信尹は桃山時代の公卿で、摂関家近衛家の当主。文禄元年〈1592〉、豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉の朝鮮出兵にみずからが総指揮をとるべく渡航従軍を企てたが失敗。同3年、義兄たる後陽成天皇〈ごようぜいてんのう・1571-1617〉の勅勘に触れ、薩摩国(鹿児島県)最南端、坊の津(ぼうのつ)に配流となった。後に帰洛し、還俗後、関白・氏長者さらには准三宮となった。歌道・書道に秀で、ことに書においては、近衛流(三藐院流)と称され、本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉・松花堂昭乗〈しょうかどうしょうじょう・1584-1639〉とともに「寛永の三筆」の1人に挙げられ、不羈奔放の性格のままに、豪放自在、すこぶる個性的な書をかいた。この賛の書風もその典型である。縦横無尽の躍動的な健筆は信尹の真骨頂。墨の濃淡自在、連綿や墨継ぎ、一気呵成の運筆、眼にもとまらぬ筆跡の跡が、関白近衛信尹の生得の威厳を示してあまりある。歌仙図の白眉というにやぶさかでない。
 屛風の各隻に歌仙を18人ずつ描いた作品。それまで絵巻(出品番号10)に描くことの多かった三十六歌仙図であるが、近世では扁額や屛風という新しい支持体の上で揮毫されるようになった。歌仙が左右に分かれてゆるやかに列座する様子は、歌の優劣を競ったという往時の歌合を目の前で再現しているような臨場感がある。また、本図の制作に際しては何かしらの原本があったようで、絵の具の剝落や退色まで忠実に写している点は珍しい。右隻第5扇の素性(生没年不詳)、第6扇の凡河内躬恒(生没年不詳)に模写当時の様相が確認できる。
 屛風の上部には歌仙と対応するように詞書を記す。筆者は三藐院流の祖、近衛信尹(1565–1614)とされる。和歌の散らし書きは構成の変化に富み、能書家と名高い信尹の力量を感じさせよう。類似作例には信尹賛をともなう場合が多く、近世初期三十六歌仙図の関係を探る上でも重要な手がかりとなろう。(小松)   】

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/1736

【 (釈文)

右隻(右から)

平兼盛/かそふれはわか身につもるとし月を/をくりむかふとなに急くらん
大中臣能宣朝臣/千年まてかきれる松もけふよりは/君にひかれてよろつ代や経ん
小大君/岩はしのよるの契りもたえぬへし/あくるわひしきかつらきの神
坂上是則/みよし野の山のしら雪つもるらし/ふる郷さむくなりまさる也
藤原興風/たれをかもしる人にせん高砂の/松もむかしの友ならなくに
藤原清正/ねのひしにしめつる野へのひめこ松/ひかてやちよのかけをまたまし
源宗于朝臣/ときはなる松のみとりも春くれは/いまひとしほのいろまさりけり
藤原敏行朝臣/秋来ぬとめにはさやかにみえねとも/風の音にそおとろかれぬる
斎宮女御/ことの音にみねの松風かよふらし/いつれのをよりしらへそめけん
源公忠朝臣/行やらて山路くらしつ郭公/いま一こゑのきかまほしさに
中納言敦忠/あひみての後のこゝろにくらふれは/むかしは物をおもはさりけり
中納言兼輔/人のおやの心はやみにあらねとも/子を思ふみちにまよひぬるかな
猿丸太夫/をちこちのたつきもしらぬ山なかに/おほつかなくもよふことりかな
素性法師/いまこんといひしはかりになかつきの/あり明の月を待出つるかな
在原業平朝臣/世間にたえてさくらのなかりせは/春の心はのとけからまし
中納言家持/さをしかの朝たつ小野の秋はきに/たまと見るまてをけるしら露
凢河内躬恒/我やとの花見かてらに来る人は/ちりなん後そこひしかるへき
柿本人丸/ほの〳〵とあかしの浦の朝霧に/しまかくれ行舟をしそ思ふ

左隻(右から)

紀貫之/櫻ちる木のした風はさむからて/空に知れぬ雪をふりける
伊勢/三輪の山いかに待みん年ふとも/たつぬる人もあらしとおもへは
山邊赤人/わかの浦にしほみちくれはかたをなみ/芦辺をさしてたつ鳴渡る
僧正遍照/すゑのつゆもとの雫や世中の/をくれ先たつためしなるらむ
紀友則/夕されはさほの河原の川風に/ともまよして千とり鳴也
小野小町/色みえてうつろふ物は世中の人の/心の花にそ有ける
中納言朝忠/あふ事の絶てしなくは中〳〵に/人をも身をも恨さらまし
藤原高光/かくはかり経かたくみゆる世間に/うらやましくもすめる月かな
壬生忠岑/春たつといふはかりにやみよし野の/山もかすみて今朝は見ゆらむ
大中臣頼基朝臣/子日する野へに小松をひきつれて/かへる山路にうくひすそなく
源重之/よし野山みねのしら雪いつきえて/今朝は霞のたちかはるらん
源信明朝臣/こひしさはおなし心にあらすとも/こよひの月を君見さらめや
源順/水のおもにてる月なみをかそふれは/こよひそ秌のもなか也ける
清原元輔/秋の野の萩のにしきを我やとに/鹿のねなからうつしてしかな
藤原元真/年毎の春のわかれをあはれとも/人にをくるゝ人を知らん
藤原仲文/あり明の月の光を待ほとに/わか世のいたくふけにけるかな
壬生忠見/やかすとも草はもえなむ春日野を/たゝはるの日にまかせたらなん
中務/鶯の聲なかりせは雪消ぬ/山里いかて春をしらまし           】

信尹・人麿自画賛.jpg

「近衛信尹筆柿本人麿自画賛(信尹筆:画・書)」 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/1719

【 近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉は、桃山時代の公卿で、摂関家近衛家の当主。文禄元年〈1592〉、豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉の朝鮮出兵にみずからが総指揮をとるべく、渡航従軍を企てたが失敗。同3年、義兄たる後陽成天皇〈ごようぜいてんのう・1571-1617〉の勅勘に触れ、薩摩国最南端、坊の津(ぼうのつ)に配流となった。後に帰洛し、還俗後、関白・氏長者さらには准三宮となった。歌道・書道に秀で、ことに書においては、近衛流(三藐院流)と称され、本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉・松花堂昭乗〈しょうかどうしょうじょう・1584-1639〉とともに「寛永の三筆」の1人に挙げられ、不羈奔放の性格のままに、豪放自在、すこぶる個性的な書をかいた。この賛の書風もその典型である。信尹の書風は、没後、多くの追随者を得て、一世を風靡した。また、画にも非凡の才を発揮、とくに水墨画の名品を多く残している。本図は、画像・賛ともに信尹自筆の柿本人麿自画賛である。歌仙信仰の長い歴史の中で、柿本人麿は歌道の聖として崇められ、人々からひときわ高い信仰を集めてきた。以来、人麿を祀る人麿影供(人麿供とも)が生まれた。これは、歌会において、床に人麿の画像を掛け、歌聖柿本人麿を供養する儀礼で、歌道の向上を願い、あるいは歌会の成功を祈ったのである。平安時代・12世紀から起こった風習である。この画像も、こうした影響下で描かれたもの。ふつうは、大和絵の手法による極彩色の画像が好まれた。が、この画像は、柿本人麿(丸)像を文字絵に描いた略画。烏帽子と線描の顔貌に、狩衣姿の肩のあたりから胸にかけて「柿」の字。筆を持つ右手を「本」の草書体。右足と左足、指貫(袴)の姿を「人」字と「丸」字をもってあらわしている。あわせて柿本人麿の坐像に完成させている。図上の賛は、柿本人麿の代表的詠歌とされている歌で、『古今和歌集』(巻第九・羇旅歌)に収められる。花押に加えて「図書之」(これを図書す)は、画も賛も信尹の自筆を示すもの。花押の上に捺された印の字様は不明。

(釈文)

ほのぼのとあかしの浦の旦(=朝)霧にしまがくれ行ふねをしぞおもふ「印」「印」(花押)図書之                      】

 「三十六歌仙図屏風」の「右隻」と「左隻」に関しては、「人麿のグループを右隻に集めて画面左から順次配列、画像はすべて左向きに描いている。左隻には紀貫之から中務まで、画面右から配列する。1双の屏風を並べた時の画面効果をねらったものである。また、右隻の中央に斎宮女御〈さいぐうのにょうご=徽子女王・929-985〉を描くが、几帳を立てるばかりで、像主の絵姿を省略している。まことに大胆奇抜の構図である」の、その「大胆奇抜」の前に、「細心にして(神経細やかにして)」をも付加したい。
 「柿本人麿自画賛」に関して、「柿本人麿(丸)像を文字絵に描いた略画。烏帽子と線描の顔貌に、狩衣姿の肩のあたりから胸にかけて「柿」の字。筆を持つ右手を「本」の草書体。右足と左足、指貫(袴)の姿を「人」字と「丸」字をもってあらわしている」と、こういう一面を、寛永時代には既に死没していて、「寛永三筆」(近衛信尹・本阿弥光悦・松花堂昭乗)の、その筆頭に挙げられている「近衛信尹」は、有していたのであろう。
 「寛永の三筆」関連の、「中世から近世へ脱皮した書の姿」などについては、下記のアドレスが参考となる。

https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=471
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源氏物語画帖「その二十・槿・朝顔」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

20 槿(朝顔)(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)  源氏32歳秋-冬

光吉・朝顔.jpg

土佐光吉画「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/534208/2

光賢・朝顔.jpg

烏丸光賢詞「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/534208/1


(「烏丸光賢」書の「詞」)

遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして雪まろばしせさせたまふ

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined20.3.html#paragraph3.2

3.2.4
(月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、)遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして、雪まろばしせさせたまふ。
《(月は隈なく照らして、一色に見渡される中に、萎れた前栽の影も痛々しく、)遣水もひどく咽び泣くように流れて、池の氷もぞっとするほど身に染みる感じで、童女を下ろして、雪まろばしをおさせになる。》
(第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影 第二段 夜の庭の雪まろばし)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十帖 朝顔
 第一章 朝顔姫君の物語 昔の恋の再燃
第一段 九月、故桃園式部卿宮邸を訪問
  第二段 朝顔姫君と対話
  第三段 帰邸後に和歌を贈答しあう
  第四段 源氏、執拗に朝顔姫君を恋う
 第二章 朝顔姫君の物語 老いてなお旧りせぬ好色心
  第一段 朝顔姫君訪問の道中
  第二段 宮邸に到着して門を入る
  第三段 宮邸で源典侍と出会う
  第四段 朝顔姫君と和歌を詠み交わす
  第五段 朝顔姫君、源氏の求愛を拒む
 第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影
  第一段 紫の君、嫉妬す
  第二段 夜の庭の雪まろばし
(「烏丸光賢」書の「詞」) →  3.2.4
  第三段 源氏、往古の女性を語る
  第四段 藤壺、源氏の夢枕に立つ
  第五段 源氏、藤壺を供養す
  
http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2901

源氏物語と「朝顔」(川村清夫稿)

【光源氏の叔父である桃園式部卿宮には朝顔という娘がいて、光源氏とは幼なじみだった。年老いて尼となった源典侍と再会しながら、光源氏は朝顔と和歌のやりとりをして旧交をあたためる。それでも朝顔は光源氏の求愛を拒んだ。帰宅後の光源氏が寝ていると、夢の中に藤壺女御が出てきて、不倫の罪が知られてしまったと恨み言を言う。紫上は、尋常ではない夢を見ている光源氏を起こす。光源氏は翌日、ひそかに藤壺女御の供養をするのであった。光源氏が藤壺女御の夢を見る場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
入りたまひても、宮の御ことを思ひつつ大殿籠もれるに、夢ともなくほのかに見たてまつる。いみじく恨みたまへる御けしきにて、
「漏らさじとのたまひしかど、憂き名の隠れなかりければ、恥づかしう、苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」
とのたまふ。御応へ聞こゆと思すに、襲はるる心地して、女君の、
「こは、など、かくは」
とのたまふに、おどろきて、いみじく口惜しく、胸のおきどころなく騒げば、抑へて、涙も流れ出でにけり。今も、いみじく濡らし添へたまふ。
女君、いかなることにかと思すに、うちもみじろかで臥したまへり。
「とけて寝ぬ寝覚さびしき冬の夜に
むすぼほれつる夢の短さ」

(渋谷現代語訳)
お入りになっても、宮のことを思いながらお寝みになっていると、夢ともなくかすかにお姿を拝するが、たいそうお怨みになっていらっしゃるご様子で、
「漏らさないとおっしゃったが、つらい噂は隠れなかったので、恥ずかしく、苦しい目に遭うにつけ、つらい」
とおっしゃる。お返事を申し上げるとお思いになった時、ものに襲われるような気がして、女君が、
「これは、どうなさいました、このように」
とおっしゃったのに、目が覚めて、ひどく残念で、胸の置きどころもなく騒ぐので、じっと抑えて、涙までも流していたのであった。今もなお、ひどくお濡らし加えになっていらっしゃる。
女君が、どうしたことかとお思いになるので、身じろぎもしないで横になっていらっしゃった。
「安らかに眠られずふと寝覚めた寂しい冬の夜に
見た夢の短かったことよ」

(ウェイリー英訳)
Long after he and Murasaki had retired to rest, recollections of Lady Fujitsubo continued to crowd into his mind, and when at last he fell asleep, a vision of her at once appeared to him, saying in tones of deep reproach:
“It may be that you on earth have kept our secret; but in the land of the dead shame cannot be hid, and I am paying dearly for what you made me do …”
He tried to answer, but fear choked his voice, and Murasaki, hearing him suddenly give a strange muffled cry, said rather peevrishly:
“What are you doing that for? You frightened me!”
The sound of her voice roused him. He woke in a terrible state of grief and agitation, his eyes full of tears which he at once made violent efforts to control. But soon he was weeping bitterly, to the bewilderment of Murasaki, who nevertheless lay all the time stock-still at his side.

(サイデンステッカー英訳)
He lay down, still thinking of Fujitsubo. He had a fleeting dream of her. She seemed angry.
“You said that you would keep our secret, and it is out. I am unable to face the world for the pain and the shame.”
He was about to answer, as if defending himself against a sudden, fierce attack.
“What is the matter?”
It was Murasaki’s voice. His longing for the dead lady was indescribable. His heart was racing and in spite of himself he was weeping. Murasaki gazed at him, fear in her eyes. She lay quite still.
“A winter’s night, I awaken from troubled sleep.
And what a brief and fleeting dream it was!”

 光源氏の夢に出てきた藤壺女御の「いみじく恨みたまへる御けしき」を、ウェイリーはsaying in tones of deep reproachと、サイデンステッカーはShe seemed angryと訳したが、前者の方に趣がある。光源氏を起こす紫上の短めの台詞「こは、など、かくは」を、ウェイリーはWhat are you doing that for? You frightened me!と、サイデンステッカーはWhat’s the matter?と表現したが、前者はくどすぎて、後者の方がさっぱりしている。

 夢が覚めた光源氏の様子「おどろきて、いみじく口惜しく、胸のおきどころなく騒げば、抑へて、涙も流れ出でにけり」を、ウェイリーはHe woke in a terrible state of grief and agitation, his eyes full of tears which he at once made violent effort to control. But soon he was weeping bitterlyと原文に忠実であるが冗長に、サイデンステッカーはHis longing for the dead was indescribable. His heart was racing and in spite of himself he was weeping.と簡潔に訳している。また末尾の光源氏の和歌をウェイリーが省略したのは、歌物語でもある源氏物語の精神に反する。

 朝顔の帖は、源氏物語の本筋に入らない、小さなエピソードの一つである。    】


(「三藐院ファンタジー」その十一)

烏丸光賢短冊.jpg

(烏丸光賢筆短冊)

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/1030

【 烏丸光賢〈からすまるみつかた・1600-38〉は、寛永の三筆の一人・烏丸光広〈みつひろ・1579-1638〉の子。父同様、順調な官途をあゆみ、寛永8年〈1631〉32歳で正三位・権中納言に至る。しかしその後は健康がすぐれず、同15年〈1638〉9月9日、39歳の若さで没した。この短冊は、藍と紫の雲紙に、金泥で草木に鷺をあしらった下絵の装飾料紙を用いる。父光広の影響のままに、字形にとらわれない闊達な筆致で書写している。
関郭公:相坂の関路の声に詠(ながむれ)ば雲井にまよふ山郭公光賢   】

 「烏丸光賢筆短冊」の、上記の「相坂(おうさか)の関路の声に詠(ながむれ)ば雲井にまよふ山郭公(ほととぎす)」、これは、「関郭公」という「詠題」での「烏丸光賢」の一首のように思われる。
これに、関連があるのかどうかは不明だが、「関郭公」の詠歌にふれた「智仁親王筆書状」(「智仁親王(八条宮))書状」も、下記アドレスで紹介されている。

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/599

智仁親王書状.jpg

【 智仁親王〈としひとしんのう・1579-1629〉は陽光太上天皇〈ようこうだじょうてんのう=誠仁親王・1552-86〉の第6皇子。後陽成天皇〈ごようぜいてんのう・1571-1617〉の同母弟にあたる。はじめ豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉の猶子となるが、のち一家を創立、八条宮(はちじょうのみや)と称した。ついで正親町天皇〈おおぎまちてんのう・1517-93〉の養子となり、親王宣下、名を智仁と賜る。式部卿に任じられ、一品に叙された。  
 また桂離宮の創始者となって桂宮の初代を称する。和歌の奥義を細川幽斎〈ほそかわゆうさい・1534-1610〉に学び、美術・茶道・華道と、当時の天下第一の文化人であった。ことに和歌と書には非凡の才能を発揮した。智仁親王の母が、勧修寺晴右〈かじゅうじはるすけ・1523-77〉のむすめ新上東門院(しんじょうとうもんいん)勧修寺晴子(はるこ)であることによって、この手紙の宛名「勧修寺中納言」は、晴右の孫・光豊〈みつとよ・1575-1612〉ということになる。かれが権中納言に在任したのは、慶長9年〈1604・智仁親王26歳〉から同17年〈1612・同34歳〉の間となる。智仁親王30歳前後の筆跡である。光豊から送ってきた詠草は、だいたい出来の良いものばかり。「朝霞」の題の一首には、自らの意見を加筆しておいたが、中でも、「関郭公(せきのほととぎす)」の詠歌は格別の上出来だと、感心の旨を書き送っている。
「御詠草見せ給い候。存ぜずながら取り取り殊勝に見え申し候。「朝霞」愚意などには、 猶以って御付け候分、延び候て閣候て申し候か。「関郭公」別して御秀逸と奇特千万、御羨ましく存ずるりに候。かしく。今日はちと先約候て、不参に候。二十五日智仁/勧(修寺)中納言」 

(釈文)
今日はちと先約候て不参ニ候御詠草みせ給候乍不存取々殊勝ニみえ申候朝霞愚意なとにハ猶以御付候分のひ候て閣候て申候歟關郭公別而御秀逸と奇特千万御浦山敷存計ニ候かしく廿五日勧中納言智仁      】

 上記の解説文を見ると、この書状は勧修寺晴右(1523-77)の孫「勧修寺光豊」(1575-1612)宛てのもので、光賢の父「烏丸光広」(1579-1638)や「八条宮智仁親王」(1579-1629)と同時代の人である。
従って、「後水尾天皇(1596- 1680)」時代の「近衛信尋(1599-1649)・烏丸光賢(1600-1639)・西園寺実晴(1600-1673)」の先の時代(「後陽成天皇(1571-1617)」時代)で、この書状に出てくる「関郭公」と、烏丸光賢筆短冊の「関郭公」とは直接には無関係と解すべきなのであろう。
しかし、光賢が、、「後水尾天皇(1596- 1680)」時代の歌会などの詠題で、この「関郭公」での、八条宮智仁親王や、父の烏丸光広の指導などを受けての一首と解することは許容されることであろう。
それよりも、光賢は、父の光広が亡くなった寛永十五年(一六三八)七月十三日の、その二か月後の、九月九日に、三十九歳の若さで夭逝しているのは、何とも痛ましい限りである。

(参考一) 「烏丸光賢・烏丸資慶」周辺 

https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E7%83%8F%E4%B8%B8%E5%AE%B6%EF%BC%88%E5%90%8D%E5%AE%B6%EF%BC%89

烏丸光賢
生没年:1600-1638
父:権大納言 烏丸光広
1602 従五位下
1608 従五位上
1608 侍従
1612 正五位下
1612 右少弁
1613 正五位上
1614 左少弁
1615 右少弁
1619 従四位下
1619 従四位上
1619 左中弁
1620 正四位下
1620 正四位上
1620-1626 蔵人頭
1626 参議
1627 従三位
1628 造東大寺長官
1630 権中納言
1631 正三位
1633 踏歌外弁
1634 従二位
1635 正三位
妻:細川万(父:豊前小倉藩主 細川忠興)
1622-1670 資慶
娘(権大納言 飛鳥井雅章室)
娘(神祇少副 吉田兼起室、義父:権大納言 飛鳥井雅章)
1626-1667 裏松資清(裏松家へ)
-1636 やや(肥後熊本藩二代藩主 細川光尚室)

烏丸資慶
生没年:1622-1670
父:権中納言 烏丸光賢
1624 従五位下
1626 侍従
1628 従五位上
1632 正五位下
1639 左衛門佐
1640 蔵人
1640 正五位上
1641 権右少弁
1642 右少弁
1643 左少弁
1644 従四位下
1644 従四位上
1644 右中弁
1645 正四位下
1645 正四位上
1645 蔵人頭
1645 左中弁
1647 右大弁
1647 参議
1648 踏歌外弁
1649 従三位
1649 左大弁
1652 正三位
1654 権中納言
1656 従二位
1658-1662 権大納言
1662 正二位
妻:(父:内大臣 清閑寺共房)
1647-1690 光雄
1652-1674 桜野順光
(養子)深達院(三河刈谷藩初代藩主 阿部正春室、父:権大納言 園基音)
娘(参議 七条隆豊室)
娘(長岡佐渡守康之室)

(参考二) 「元和三年=一六一七・禁中歌会」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-11

【 https://researchmap.jp/read0099340/published_papers/15977062

《(元和三年=一六一七)五月十一日、今日御学問所にて和歌御当座あり。御製二首、智仁親王二、貞清親王二、三宮(聖護院御児宮)、良恕法親王二、一条兼遐、三条公広二、中御門資胤二、烏丸光広二、広橋総光一、三条実有一、通村二、白川雅朝、水無瀬氏成二、西洞院時直、滋野井季吉、白川顕成、飛鳥井雅胤、冷泉為頼、阿野公福、五辻奉仲各一。出題雅胤。申下刻了。番衆所にて小膳あり。宮々は御学問所にて、季吉、公福など陪膳。短冊を硯蓋に置き入御。読み上げなし。内々番衆所にて雅胤取り重ねしむ。入御の後、各退散(『通村日記』)。

※御製=後水尾天皇(二十二歳)=智仁親王より「古今伝授」相伝
※智仁親王=八条宮智仁親王(三十九歳)=後陽成院の弟=細川幽斎より「古今伝授」継受
※貞清親王=伏見宮貞清親王(二十二歳)
※三宮(聖護院御児宮)=聖護院門跡?=後陽成院の弟?
※良恕法親王=曼珠院門跡=後陽成院の弟
※※一条兼遐=一条昭良=後陽成院の第九皇子=明正天皇・後光明天皇の摂政
※三条公広=三条家十九代当主=権大納言
※中御門資胤=中御門家十三代当主=権大納言
※※烏丸光広(三十九歳)=権大納言=細川幽斎より「古今伝授」継受
※広橋総光=広橋家十九代当主=母は烏丸光広の娘
※三条実有=正親町三条実有=権大納言
※※通村(三十歳)=中院通村=権中・大納言から内大臣=細川幽斎より「古今伝授」継受
※白川雅朝=白川家十九代当主=神祇伯在任中は雅英王
※水無瀬氏成=水無瀬家十四代当主
※西洞院時直=西洞院家二十七代当主
※滋野井季吉=滋野井家再興=後に権大納言
※白川顕成=白川家二十代当主=神祇伯在任中は雅成王
※飛鳥井雅胤=飛鳥井家十四代当主
※冷泉為頼=上冷泉家十代当主=俊成・定家に連なる冷泉流歌道を伝承
※阿野公福=阿野家十七代当主
※五辻奉仲=滋野井季吉(滋野井家)の弟 》   】


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