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川原慶賀の世界(その十) [川原慶賀の世界]

(その十)「川原慶賀の長崎歳時記(その二)新年・踏み絵」周辺

『NIPPON』 第1冊 図版「踏み絵」.gif

『NIPPON』 第1冊図版(№192)「踏み絵」(A図) 福岡県立図書館/デジタルライブラリ
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html


踏み絵(B図).gif

●作品名:踏み絵(B図)
●Title:Fumi-e : a relife tablet with the Crucifix or the Virgin on which suspected believers in the forbidden Christian, January
●分類/classification:年中行事、1月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

「踏み絵」(川原慶賀画).jpg

「踏み絵」(川原慶賀画) 絹本着色 26.5×36.5 (C図)
Fumi-e : a relife tablet with the Crucifix or the Virgin on which suspected believers in the forbidden Christian faith were forced to tread to disprove the guilt.
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№3」)』)

 冒頭の石販挿絵の(A図)『NIPPON』( 第1冊 図版「踏み絵」)は、紙本墨画の(B図)「踏み絵」を下絵にして、その紙本墨画の(B図)「踏み絵」は、絹本着色の(C図)「踏み絵」(川原慶賀画)を原画にしている。
 これらの(A図)と(B図)、そして、(C図)との三者関係で、大きくアレンジしているのは、衝立に描かれている、(C図)=「山水画」が、(A図)と(B図)との「義(関連文字)」にアレンジ、次に、(C図)=「米俵と荒神様の鏡餅」が、(B図)で「米俵」が削除され、「荒神様の鏡餅」だけになり、それが、(A図)になると、その「荒神様の鏡餅」が、大きくクローズアップされて、(A図)の左端の一角を占める「荒神様と大鏡餅」に変身している。
 さらに、これらの「踏み絵」(A図・B図・C図)に描かれている登場人物が、(B図・C図)は、十人(踏み絵をする主人と順番を待つ家族三人、座敷に座る町役人三人と宗門改め人別帳に記録して人、土間に二人)対して、(A図)では、「座敷に一人、土間に二人」を付け加えている。
 ここで、この「家族三人」が控えている後ろの「衝立」の文字が「竹=D図」と「松=E図」とのものがある。
 この「竹=D図」は、(「ZEBREGS&RÖELL ファインアート - Antiques」)のもので、その解説文は「翻訳文(PC翻訳)」ものであるが、その内容は極めて、これらの図を解読するに多くの示唆を含んでいる。

川原慶賀 (D図).jpg

https://www.zebregsroell.com/ja/kawahara-keiga-painting-fumi-e-ceremony

≪川原慶賀 (1786-c.1860) またはスタジオ(川原慶賀工房?)(D図)
ふみえの儀式(絵踏み、1820-1830)
シルクに水彩、 H. 29 × W. 37.5 cm≫
来歴:
米国オハイオ州クリーブランド、アクロンのスタウファー一家(裏ラベルによる)

描かれた文絵(踏絵)
 中央の男性は、役人3人の前で素足で踏み絵を踏んでいる。長寿の象徴である鶴と松の若木が飾られた襖の前に座っている最高官(街官=町乙名・おとな?)の日行寺(日行使?)。屏風には「ついたて」の右側に「竹」「青竹はいきいき」という文字が大きく書かれています。これはおそらく中国の有名な儒学者の言葉で、「濰河のほとりを見ると、青々と生い茂る青竹が生い茂る。美しく力強い竹のように、毅然とした聡明な君主がいる。」誰もがその機会にふさわしい服装をしており、ほとんどが家族の紋章である家紋をコートに着ています.手前には米俵、上には海老をのせたお正月飾り。
 正月四日から幕府の役人は家々を家々に渡り、家長をはじめ、家々が踏み絵を踏まなければなりませんでした。源氏物語を連想させる柄のおしゃれな羽織を着た妻が右側に座り、順番を待っている。羽織を着た長男と次男。右手前の足袋と雪駄をはいた二人の人物は、おそらく町の管理人。

ふみえの歴史
 1629年頃に始まり、それ以来毎年、新年の初めに九州のいくつかの州で行われ、これらの州のすべての日本人はキリスト教の祈りのイメージを踏むことを余儀なくされました。彼らはキリスト教信仰の信者ではありませんでした。拒否した人は尋問され、厳しく迫害されました。文絵は、長崎の鋳物工場で鋳造された真鍮のレリーフ板で、十字架または聖母を描いています。東京国立博物館にはおそらく残りのすべてのキャストがあります。
 キリスト教徒でない日本人にとっては正月の風物詩にすぎなかったが、キリスト教徒にとっては毎年繰り返される恐怖だったに違いない。この冒涜行為に対抗するために、「隠れた」キリスト教徒は、儀式中に履いたわらじを燃やし、灰を水と混ぜてその溶液を飲むという儀式を行ったようです.出島のオランダ人も、ヨーロッパの他のキリスト教国を信じられないほど、踏み絵の儀式を行うことを余儀なくされました。しかし、VOC は従業員を宣教師としてではなく、商人として日本に派遣しました。
 踏み絵の儀式で使用される最初の額はヨーロッパから輸入されましたが、すぐに日本の当局は多くの額を必要とし、キリスト教のイメージが描かれた頑丈な青銅の額が日本の金属細工師に注文されました.デザインはヨーロッパのプラークに基づいていましたが、本来の意味と機能は完全に逆であり、祈りのイメージではなく、キリスト教の信仰を攻撃していました。

その他のコピー
 川原慶賀または彼のスタジオによる 3 つの他の文書化された写しの写しが知られており、3 つすべてがライデンの国立博物館 voor Volkenkunde のコレクションにあります。 Johan van Overmeer Fischer のコレクションからの慶賀の印のある紙に 1 つ (inv. no. 360-4302)、フォン シーボルトが収集した絹のおそらくスタジオ Keiga に 1 つ (inv. no. 1-4480-7)、および 1 つ紙に墨も工房慶賀、シーボルトコレクション。 3つとも、主に背景の画面の描写と書道にわずかな違いがあります。

川原慶賀かスタジオか?
 川原慶賀は1823年に「出島の出入りを許された画家」に任命されたが、すでに1809年頃からヤン・コック・ブロムホフ、オッパーフーフト、そして彼の秘書ヨハン・フレデリック・ファン・オーバーメール・フィッシャーのために1809年頃から働いていた。 1823 年から 1842 年頃まで、彼は科学者フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトの下で働いた。
 神戸市立博物館の学芸員である岡泰昌は、この作品は画中書の書の素晴らしさ、人物の表現と表現の素晴らしさから、彼の工房ではなく慶賀自身によって描かれたにすぎないと考えています。畳の柔らかな影。≫(「ZEBREGS&RÖELL ファインアート - Antiques」)

それと「松=E図」とがある。これは「シーボルト・コレクション」のものではなく、「フイッセル・コレクション」のものなのである。この「竹=D図」は「プロムホフ・コレクション」のもので、「ライデン国立民族学博物館蔵」ではないのかも知れない。

「踏絵」(川原慶賀画)(E図).jpg

「踏絵」(川原慶賀画) 紙本着色 30.5×40.0 (E図)
Fumi-e : a relife tablet with the Crucifix or the Virgin on which suspected believers in the forbidden Christian faith were forced to tread to disprove the guilt.
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№2」)
(F)― フイッセル・コレクション(ライデン国立民族学博物館蔵)

https://note.com/mitonbi/n/n63af7bd7d5ff

≪絵踏み (E図)
四日。この日より市中の踏絵が始まります。江戸町…(町名略)…都合十六町、絵板は12枚あります。町役人がとにかくすべての家々を回って、これを踏ませ、その都度、帳面に付けるのです。また「朝絵」「夕絵」と言うことがあります。大きな町では、絵板一枚踏ませて回るのに時間がかかるので、朝夕の区別があるのです。
「十二枚」とありますが、本来は二十枚(現在確認されているのは十九枚)ですし、他の日には「十九枚」などとあるので、ひょっとしたら、書き写し間違いかもしれません。(『長崎県史史料編』の底本は写本です。原本は虫食いなど傷みが激しいらしいです)
絵踏みについての文龍さんの筆は、由来も人々の様子も、自分の心情も書くことなく、わりと淡々としています。もっと書いてくれてもいいのになぁ、と思うのですが、あまり書きたくなかったのか、どうなのか。そのぶん、と言ってはなんですが、メイランさんが詳しく書いてくれています。
昔キリスト教が最も根を張っていた所、とくに長崎では、有名な踏絵の儀式が始まる。長崎で大抵8日間は取られる。どの町の住民はどの日と決められている。この式は、小児イエスを膝に抱いた処女マリアの像を彫った銅板を足で触れるのである。役人の立ち会いのもとに行われ、この役人がその詳しい手続きその他を決める。それを免除するものは一人もないし、いかなる口実をもってしても、誰もこれを免れることはできない。病人や懐に抱かれた幼児もそこに運ばれて、真っ直ぐに立つことのできない人には、踏絵板を足に圧しつけてこの式を済ませるのである。これについては、日本人の間では、物に足を当てることほど大きな軽蔑のしるしはないということを、知らねばならぬ。これはおよそ日本人のなし能う最大の侮蔑であり、従って日本人はどんな些細な物でも、足で触れることを極力注意して避ける。
そして「外国人も踏絵をさせられるという話があるが、そんなことはない。」ということに加え「真偽は不明」としながら、次のようなエピソードも記しています。真偽も、確かに重要かもしれませんが、こういう話がまことしやかに語られ、場合によっては信じられていた、ということも、また真実なのだと私は思います。
踏絵が始まって当座の間は、日本人はこのような銅板を一枚しか持たなかった。それでは日本の政策上、踏絵を行う必要があると思われる場所全部に、一時に使用するには不十分だというので、一人の芸術家が、そのために必要とされるだけの踏絵を模造する仕事を命ぜられた。芸術家は、現物と模造品のあいだに何らの区別も見出されぬくらい立派なものを作ったが、その彼がその褒美として報いられた所は、それ以後彼がキリシタンのために働くことを予防するために、将軍の命で首をはねられたということであった。
長崎の年中行事の中でも特別な意味を持つ踏絵。文龍さんが生きた時代は、禁教から200年近くが経っていましたので、切実な信仰をもって踏絵に臨んだ人は、もはや少なかったことでしょう。それでもあまり気持ちのいいものではなかったようで、古賀十二郎さんの「長崎市史風俗編」によれば、踏絵が終わったあとには「厄払い」と称した宴が開かれ、あらためてお正月を寿ぐかのような万歳までもが家々を回ってきたとあります。踏絵そのものにも様々な作法や言い伝えがあったようですが、文龍さんはとにかく書き残していないのです。ほかの行事の記しかたや、「子どもの遊び」の饒舌さを思えば、その記述はあまりに簡潔です。その真意はわかりませんが、ひとつ確かなことは、長崎に暮らした文龍さんは、生まれてから死ぬまで、毎年お正月に踏絵をしていたということです。いまの私たちには想像しようにもできない心情が揺らめいていたのでしょう。
 慶賀さんの絵の中の人たちは、それが死に際するものであっても、なぜかみんな楽しげな顔をしているのですが、この「踏み絵」の人たち……特にいままさに絵に足をかけようとしている人の、憂に満ちた横顔は、見れば見るほど寂しげな複雑さを湛えているようです。
≫(「いまにつながる江戸時代の暮らし「長崎歳時記手帖」 第8回 お正月」)

 続いて、次の「正月(F図)」が連動してくることになる。この「正月(F図)」は、「正月の挨拶」と同じく「ブロムホム・コレクション」のように思われる。そして、この土間に跪いている裃をつけた男性とその従者の二人が、冒頭の石販挿絵の(A図)『NIPPON』( 第1冊 図版「踏み絵」)の、土間に跪いている裃をつけた男性とその従者の二人のようなのである。さらに、この「正月(F図)」の左端の「荒神様の鏡餅」が、A図の『NIPPON』( 第1冊 図版「踏み絵」)の左端に登場してくる。

正月(F図).jpg

https://note.com/mitonbi/n/n63af7bd7d5ff

≪正月 (F図)
正月二日には、小商いをしている人々が、商い初めということで、大人子どもに限らず、暁にかけてナマコを売り歩きます。その声は午前4時頃から大きくなるのですが、家々ではこれを買い整えて、朝のなますに加えます。値段の交渉はしません。彼らを家に呼び入れて器を出せば、ナマコを入れてくれるので、12文、または13文と、その年の月の数の通りに紙に包んで渡します。古来よりの長崎の風俗です。 長崎の人たちはナマコのことを「たわら(俵)子」と呼ぶのですが、それはその形が米俵に似ているところから来ています。二日を「商い初め」として、すべての担い売りの商人が「たわら子」を売るのは、売り買い双方が、みな米俵にまつわるものであること思ってのことです。
 寄合・丸山両町の遊女屋では、出入りの魚屋たちが、毎年おめでたい習わしとして、夜、門を叩いてナマコを持ってくるので、祝儀として銭百文ずつを包んで与えるそうです。≫(「いまにつながる江戸時代の暮らし「長崎歳時記手帖」 第8回 お正月」)

「大黒舞」(G図).gif

https://note.com/mitonbi/n/n63af7bd7d5ff

≪「大黒舞」(G図)
 「正月」の絵をもう一度見てみると、玄関の外にいる人も、この絵の女の子とよく似た動きをしていますので、大黒舞かと思われます。≫

「大黒舞」(G図)と「正月」((F図)).png

左図(「大黒舞」(G図)とその右図(左から二番目「正月」((F図))
左図三番目(正月(F図)と左図四番目(『NIPPON』 第1冊 図版「踏み絵」(A図)

 上記の「大黒舞」(G図)は、紙本墨画「職人尽し図」の画冊に貼りこまれたものの一つで、「33種類の職人(中には職人といえないものも含まれている)が描かれているが、これは下絵的な性格のもので、いつでも注文に対して対応できるように準備されたものと思われる。」(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「主要作品解説」)』)
 この「大黒舞」(G図)の左端の女の子の動作が、「ブロムホム・コレクション」の「正月」(F図)の右端の玄関の外にいる男の子と動作が同じで、これは「大国舞」の踊りの仕草だというのである。また、この「正月」(F図)の左端の「荒神様の鏡餅」の図は、そっくり、A図の『NIPPON』( 第1冊 図版「踏み絵」)の左端に登場してくることについても前述した。
 そして、この「荒神様の鏡餅」は、次図(G図)の「正月の挨拶」のように、長崎の正月飾りの風物詩ともなっている「幸木(しやぎ・さいわいぎ)」と連動
してくる。

「正月の挨拶」(川原慶賀画)(G図).jpg

「正月の挨拶」(川原慶賀画) 紙本著色 26.0×38.0 (G図)
New Year Greeting
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№1」)
(B)― プロムホフ・コレクション(ライデン国立民族学博物館蔵)
≪正月の挨拶
 長崎の年中行事図については川原慶賀が手がける以前に、まとまったものとしては打橋竹雲・石崎融思などが描いた長崎古今集覧名所図絵稿本や長崎名所図絵がある。慶賀も大いにこれらを活用している。
 図は長崎商家の内玄関土間の方より奥の座敷を望み、土間には幸木(しやぎ)が下げられ、荒神様には三つ重ねの鏡餅が供えられている。
 長崎の正月飾りについては寛政年間(1797)の長崎歳時記に次のような記載がある。
「鏡餅は多く上に昆布、橙等を置く……荒神様の大鏡家々すべて三ツ重ね、上に海老、橙、こんぶ、串柿、包米、下にゆずり葉、裏白を敷て是を置く……又幸木といふ物あり、長さ凡壱間ほど、廻り壱尺有余の木に縄をゆひ付、塩物とて鰤(ぶり)、
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