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川原慶賀の世界(その十二) [川原慶賀の世界]

(その十二)「川原慶賀の長崎歳時記(その四)雛祭り(桃の節句)」周辺

『NIPPON』 第1冊図版(№177)「雛祭り(桃の節句)」(A図).gif

『NIPPON』 第1冊図版(№177)「雛祭り(桃の節句)」(A図) 福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

ひな祭り(B図).gif

●作品名:ひな祭り(B図)
●Title:Girl's Festival, March
●分類/classification:年中行事、3月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

ひな祭り(C図).jpg

●作品名:ひな祭り(C図)
●Title:Girls' Festival, March
●分類/classification:年中行事・3月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1141&cfcid=142&search_div=kglist
「雛祭り」 絹本着色 26.8×36.6
Girls' Festival( March)
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№8」)』)

「雛祭り」(D図).jpg

「雛祭り」(D図) 絹本着色 26.2×38.0 (「ブロムホフ・コレクション」)
Girls' Festival( March)
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№7」)』)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№21」)

『 この図(D図)は長崎における普通の家庭の雛祭りを写したものである。上段の天子様が紋付袴すがたであるし、現在の雛人形のように五人囃子、三人上戸などといった人形はないが、夜具や台所用具が飾られている。下段の人形は親族知音より贈られたものであろう。雛祭りの見物客に、
しるも知らぬも打むれたがひに雛ある家にいたりて見物す。其時菓子又は祝酒をだして飲しむ。よつて途中酩酊の子児輿にいりて行かふさま大ひに賑わし。
といっている。 』
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説1」)

 上記の「雛祭り(ひな祭り)」の「B図」(紙本墨画)と「C図」(絹本着色画)は「シーボルト・コレクション」、そして「D図」は「ブロムホフ・コレクション」のものである。
 『NIPPON』 第1冊図版(№177)「雛祭り(桃の節句)」(A図)の「下絵」は、「B図」(紙本墨画)で、その「原画」が「C図」(絹本着色画)ということになる。
そして、大まかには、この「B図」も「C図」も「川原慶賀」作とされるが、厳密には、
この「C図」は「川原慶賀(又は「慶賀工房」)」作、この「B図」は「川原慶賀(又は「慶賀工房」)」(又は「石販挿絵画家=西洋の画家」)作と見解は分かれることであろう。
 それに対して、「ブロムホフ・コレクション」の、この「D図」は「川原慶賀」作で、この「D図」を原画にして、「C図」そして「B図」は制作されているものと解したい。

(参考)

https://note.com/mitonbi/n/nd19ac15e4197

野口文龍「長崎歳時記」全文訳

三月

一日
 家々では草餅をついた団子を菱形にして、お重に入れてお互いに配ります。お重の蓋には桃の花を挿すのがお決まりです。女の子のいる家では、ひな人形を並べます。飾りかたは、上中下の壇をしつらえて、この上に毛氈を敷き、前には赤いちりめん、またはカラフルな幕をかけ、真っ赤な「ふき」などで絞り上げます。紫宸殿の前の闘鶏や、公卿や殿上人たちが参内する様子などを模した飾りをしますが、みな一様ではありません。かたわらには箪笥や長持、ほかひ(?)、挟箱、つづら、黒棚、書棚、皮籠など、ここに書ききれないほどの家財を、思い思いに飾り付けます。下の壇には、大きな花甕に桃や桜、山吹などの咲き乱れたものを生けておきます。

三日
 諸役人は節を拝し、親類縁者の家も回ります。

 初めて女の子が生まれた家では、初節句といってみんな集まり、お雛様の前で酒を酌み交わし、お祝いします。この日は街中の女の子がおしゃれをして、知ってる人も知らない人も連れ立って、雛飾りのある家を見物して回ります。そのとき、お菓子やお酒を出して飲ませるので、酔っぱらって興奮した子供たちが道を行き交い、とても賑やかなのです。
 初節句の家には、親戚知人たちからも、お雛様や造り花などを贈ります。

四日
 この日もまだ「ひなめぐり」をする女の子たちがいます。また、男女が何人ずつも誘いあい、瞽女や座頭などを引き連れて、大浦の浜辺あたりで潮干狩りをするものもいます。
 大浦とは、大村領で、長崎の南西にあり、詩人などは大浦を「雄浦」と書いたりします。

五日
 家々では雛飾りを片付けます。

九日
 諏訪社の合殿の森崎権現の祭礼です。以前は能などがあって参詣者が群れをなしていたのですが、いつのころよりか、このお祭りは衰え、参詣するものもまれになりました。祭礼のあとには社壇で音楽が奏され、近ごろでは舞囃子などが催されます。

 この夜、金比羅山に参詣する者がたくさんいます。

十日
 金比羅山祭礼。町中からも接待所が設けられ、参詣の老若男女が連れ立って大勢集まります。麓の広場には、それぞれが毛氈を敷き並べ、弁当を持って来ては、大人も子供もハタ合戦です。
 この日は町のハタ屋たちもやってきて店を出し、ビードロヨマやハタを売っているので、身分の上下も関係なく勝負しては、お金を使います。ま、この土地の欠点ではありますな。

十五日
 諸役人たちは佳日を拝します。

十八日
 秋葉山の祭礼。秋葉山は長崎の東、中心部より半里ほどの所にあります。
 ここに時雨桜というものがあります。晴天の日でも、梢から水気を飛ばして、細雨が降っているように、着物を濡らすことから、とある詩人が名付けたのです。思うに、山の上から一脈の渓流の清水が流れていて、その流れの音が琴の音のようでもある土地の、いちばんきれいな場所だからでしょう。かつ、この祭りのころは、春の着物になるころでもあり、市中の男女、あるいは遊女たちは、それぞれにめいっぱいおしゃれをして参詣するのです。八月十八日にも祭礼があります。この地には天神があり、亀井天神と呼ばれています。

十八日
 浦上山王祭り。浦上村は長崎の北西にあります。むかしはここに山王社はありませんでした。寛永年間の島原一揆の際、松平伊豆侯がここを通って長崎に来られた時に、「江戸の坂本という所の地形によく似ているので、山王社を勧請したらいい」というお沙汰があり、その社を建て、地名も坂本となったのです。

十九日
 鳴滝の奥の七面山の祭礼。とりわけ、日蓮宗徒の参詣が多くあります。
 鳴滝は長崎の東。村に一脈の谷川があって、詩人たちは浣花谿などと呼んでいます。中程に大きな石があって、鳴滝の文字が彫られています。これは府尹(首長の中国風な言い方)牛込侯によるものだそうです。

二十一日
 香焼山、弘法大師の祭りということで、男女が船に乗って参詣します。この日多くは風や波が大きく、参詣の者はまれなのだが、年によって快晴の日であれば、老いも若きもそれぞれ船に乗って詣でるものがたくさんいたということです。
 香焼山は肥前領で、長崎の港の西三里ほどの場所にあり、もともとは「こうやぎ島」といって、人が住んでいる島です。

二十三日
 豊前坊祭礼。豊前坊は長崎の東にあって、彦山の隣です。八月二十三日にも祭礼があります。

潮干がり(E図).jpg

●作品名:潮干がり(E図)
●Title:Shell gathering at low tide, Spring, Summer
●分類/classification:年中行事、春、夏/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

 この「潮干がり」(E図)は、上記の「野口文龍『長崎歳時記』全文訳」の、「四日 この日もまだ「ひなめぐり」をする女の子たちがいます。また、男女が何人ずつも誘いあい、瞽女や座頭などを引き連れて、大浦の浜辺あたりで潮干狩りをするものもいます。大浦とは、大村領で、長崎の南西にあり、詩人などは大浦を「雄浦」と書いたりします。」で、上記の「ひな祭り」(C図)と同じく、「シーボルト・コレクション」の一群の作品ということになる。
 これが、次のように、「年中行事」の「潮干狩り」(E図)から、「生業と道具」の「潮干狩り、ウニ採り」(F図)と、「シーボルト・コレクション」では変貌して行く。

潮干狩り、ウニ採り(F図).jpg

●作品名:潮干狩り、ウニ採り(F図)
●Title:Shell gathering at low tide
●分類/classification:生業と道具/Agriculture and Fishery, their tools
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 ational Museum of Ethnology, Leiden
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川原慶賀の世界(その十一) [川原慶賀の世界]

(その十一)「川原慶賀の長崎歳時記(その三)節分」周辺

『NIPPON』 第1冊図版(№180)「節分」(A図).gif

『NIPPON』 第1冊図版(№180)「節分」(A図) 福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

節分、豆まき(B図).gif

●作品名:節分、豆まき(B図)
●Title:Bean-scattering in February (to ward off evil spring)
●分類/classification:年中行事、2月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1132&cfcid=141&search_div=kglist

節分、豆まき(C図).jpg

●作品名:節分、豆まき(C図)
●Title:Bean-scattering in February, February
●分類/classification:年中行事・2月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1132&cfcid=141&search_div=kglist
「豆撒き(節分)」 紙本著色 27.0×36.5
Bean-scattering in February, February (to word off evil spring )
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№5」)』)

この「節分、豆まき(C図)」は、『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№5」)』では、「シーボルト・コレクション」の「川原慶賀筆」としている。
 これは、まぎれもなく、「葛飾北斎」のゴーストライターともいわれている、北斎の三女「葛飾応為」(名は「栄」)の、次の「吉原格子先之図」などを念頭に置いての作のように思われる。

葛飾応為筆「吉原格子先之図」(D図).jpg

葛飾応為筆「吉原格子先之図」(「太田記念美術館」蔵) (D図)
紙本著色一幅 26.3×39.8㎝ 文政~安政(1818~1860)頃
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/collection/list05
〖 吉原遊廓の妓楼、和泉屋の張見世の様子を描く。時はすでに夜。提灯が無くては足元もおぼつかないほどの真っ暗闇だが、格子の中の張見世は、まるで別世界のように赤々と明るく輝き、遊女たちはきらびやかな色彩に身を包まれている。馴染みの客が来たのだろうか、一人の遊女が格子のそばまで近寄って言葉を交わしているが、その姿は黒いシルエットとなり、表情を読み取ることができない。 光と影、明と暗を強調した応為の創意工夫に満ちた作品で、代表作に数えられる逸品。なお、画中の3つの提灯に、それぞれ「応」「為」「栄」の文字が隠し落款として記されており、応為の真筆と確認できる。〗(「太田記念美術館」)

〖 吉原遊廓の妓楼・和泉屋で、往来に面して花魁たちが室内に居並ぶ「張見世」の様子を描く。店や客が持った複数の提灯から生まれる幻想的な光と影が、観者に強い印象を与える。紙の寸法や日本人の生活に取材した画題が、カピタンの依頼により北斎工房が手がけた水彩画(ライデン国立民族学博物館およびパリ国立図書館蔵)と一致することから、本作もオランダ人からの依頼によって描かれたが、何らかの理由により日本に留まった可能性が考えられる。〗(「ウィキペディア」)

 この「吉原格子先之図」(葛飾応為筆)の「画中の3つの提灯に、それぞれ『応』『為』『栄』の文字が隠し落款として記されており」の、その「部分拡大図」は、次のとおりである。

「応・為・栄」図.png

左図(D図の右側「行燈型」の提灯)→「応」
中図(D図の左寄りの中央右側「丸型」の提灯)→「為」
右図(D図の左寄りの中央左側「細長型」の提灯)→「栄」

川原慶賀筆「青楼」(E図).jpg

川原慶賀筆「青楼」紙本著色 25.3×49.2 ライデン国立民族学博物館蔵(「ブロムホフ・コレクション」) The Nagasaki gay quarter (E図)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№87」)

『 あかあかと明かりのついた遊郭を、通りに視点を置いて描いている。格子越しに見える内部、それを表からのぞいてひやかす客たち、二階には三味を弾かせ太鼓を叩いて陽気に騒ぐ客、提燈を持って通りを行き交う人々、そば屋、これらの人々が生き生きと描写されている。そして、本図で最も注意すべきことは、夜の人工的な光の錯綜を見事に捉えていることである。室内はろうそくの明かりで照らし出され、その室内の光は外にもれて通りの人々が持つ提燈の光とともに複雑な影を地面に作り出している。
 妓楼格子先を表した図は多く見ることができるが、本図ほど光と影を意識して描かれたものはないのではなかろうか。その点だけでも、本図を描いた慶賀を日本の近代絵画の先駆者として位置づけることができるであろう。(兼重護稿)』(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 葛飾応為の「吉原格子先之図」(D図)が、江戸を象徴する遊郭地「吉原」の夜景とすると、川原慶賀の「青楼」(E図)は、長崎を象徴する遊郭地「丸山」の夜景ということになる。そして、この応為の「吉原格子先之図」(D図)は、ライデン国立民族学博物館蔵の「シーボルト・コレクション」ではなく、「ブロムホフ・コレクション」であることを、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』では指摘している。
 慶賀が、「スチュルレル(商館長)・シーポルト(商館付医師)」らに同行しての「江戸参府」で「江戸」を訪れたのは、文政九年(一八二六)のことであった。その四年前の文政五年(一八二二)の「江戸参府」は、「ブロムホフ(商館長)とフイッセル(商館員・書記・『日本風俗備考』の著者)」らで、この「ブロムホフ・フイッセル」らが「北斎(北斎工房)に発注し四年後受け取る予定」の絵画作品の一つに、この応為の「吉原格子先之図」(D図)があり、それが「何らかの理由により日本に留まった可能性が考えられる」(「ウィキペディア」)ということになる。

 これらのことについては、下記のアドレス等で触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-27

(再掲)

≪ オランダ国立民族学博物館のマティ・フォラーによると、1822年のオランダ商館長ブロムホフが、江戸参府の際日本文化の収集目的で北斎に発注し4年後受け取る予定としたが、自身の法規違反で帰国。後継の商館長ステューレルと商館医師シーボルトが1826年の参府で受け取った。現在確認できるのは、オランダ国立民族学博物館でシーボルトの収集品、フランス国立図書館にステューレルの死後寄贈された図だという。西洋の絵画をまねて陰影法を使っているが絵の具は日本製である。≫

 また、上記(再掲)の「スチュルレル・シーボルトらの江戸参府」の折、スチュルレル(カピタン=使節)が持ち帰り、後に「フランス国立図書館」に寄贈したといわれている『北斎・北斎工房』らの作品(その一)・(その二)」については、下記のアドレスで紹介している。

(その一)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-27

(その二)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28

 この「スチュルレル・シーボルトらの江戸参府」の折、シーボルトが持ち帰った作品のうちの、「北斎、検閲避け?名入れず 作者不明だった西洋風絵画の謎 シーボルト収集品目録と一致」の「北斎・北斎工房」らの作品については、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-25

 ここで、特記をして置きたいことは、これらの「ブロムホフ・コレクション」「フイッセル・コレクション」そして「スチュルレル・コレクション」「シーボルト・コレクション」の、その「ブロムホフ・コレクション」のうちに、川原慶賀筆「青楼」(E図)が収蔵されているということは、この「ブロムホフ・コレクション」のうちに収蔵されるべき作品のうち「何らかの理由により日本に留まった可能性が考えられる」、その葛飾応為筆「吉原格子先之図」(D図)は、少なくとも、慶賀にとっては、自己の「青楼」(E図)の姉妹編ともいうべき、その「姉」(目標とすべき「原画」)にも近い作品であったであろうということなのである。
 すなわち、川原慶賀にとって、この文政九年(一八二六の「スチュルレル・シーボルトらの江戸参府」に同行して、その「江戸」滞在中に、「北斎・北斎工房」の、特に、「葛飾応為」との遭遇ということは、それまでの、単なる「鎖国日本唯一の窓口・長崎出島出入りの石崎融思一門の一町絵師『登与助(慶賀の通称)」が、名実共に、「世界に『日本』を知らしめた『長崎派絵師』の一角を占めている『川原慶賀』(慶賀は号、別号に聴月楼主人。後に田口姓を名乗る)の誕生を意味する。
 ちなみに、慧眼のマルチニスト劇作家「ねじめ正一」の「『シーボルトの眼 出島絵師川原慶賀』(集英社 2004 のち文庫)」では、この「川原慶賀」と「葛飾応為」とは、夫婦関係となり、そのドラマが進行するが、そこで、シーボルトをして、「光ダケナク、影モ描クノダ。正確ニ、オ前ノ見タ通リニ」という、その絵師としての「慶賀の開眼」は、まさに、この、文政九年(一八二六の「スチュルレル・シーボルトらの江戸参府」に同行しての、慶賀の、その「北斎・北斎工房」、特に、「葛飾応為」との遭遇ということが、その根底にあることであろう。
 それらを物語る如く、この一連の、「シーボルト・コレクション」の作品群が、上記の「節分、豆まき」(B図)を下絵とする「節分、豆まき」(C図)のように思われる。
 ここに、もう一つの「節分、豆まき」(F図)も、これらの一群の作品と解したい。

「節分、豆まき」(F図).jpg

「節分、豆まき」(F図)
https://publicdomainr.net/mizue-6-0001867-llaytf/
「豆撒き(節分)」 紙本著色 30.5×39.5 ライデン国立民族学博物館蔵(「フイッセル・コレクション」)
Bean-scattering in February (to ward off evil spring)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№3」)
『 節分の行事については現在においてほとんどかわるところはないようである。長崎歳時記に、
 家内のともし火を悉く消し、いりたる豆は二合にても三合にても一升ますに入れ、年男とて、あるじ右の豆を持て恵方棚、神棚に向ひ至極小声をして福は内と三遍となへ、夫より大声にて鬼は外と唱ふ、家の一間ごとにうち廻り庭におり外をさして打出す。』(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 この「節分、豆まき」(F図)は、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』によると、「フイッセル・コレクション」所蔵のもので、「シーボルト・コレクション」所蔵の「節分、豆まき(B図)」(紙本墨画)や「節分、豆まき(C図)」(絹本着色)の先行的な作品と思われる。そして、葛飾応為の「吉原格子先之図(D図)」との関連ですると、この「フイッセル・コレクション」や「ブロムホフ・コレクション」所蔵の作品の方が、「応為と慶賀」との関係をより直接的に位置づけているもののように思われる。

(参考) 

https://note.com/mitonbi/n/n174f312ed806

「長崎歳時記」全文訳 節分 二月

節分

 節分の夜は、家々ではなますを作り、神棚、恵方棚、そのほか家財道具、浴室、トイレなどに明かりをつけておき、黄昏を過ぎるころ、「最初の暗闇」といって、灯してあった家中の明かりを全部消して、豆まきをはじめます。この豆は二合でも三合でも、量は問いません。「年男」といって、金持ちは出入りの者、普通あるいは貧乏な家は、家の主が一升枡に入れた豆を持って、まずは恵方棚、神棚に向かい、とても小さな声で「福は内」と三回唱え、それから大きな声で「鬼は外!」と唱えます。家の部屋ごとにおなじように回って、また、庭に降りて、外に向けて打ち出します。家によってやりかたは様々ですが、これが終われば、祝い酒です。俗にこの夜の大豆は、いつもより強く煎るとよいと伝えられています。このことを女たちは昔から言い伝えられているだけで、その意味を知る者はあまりいません。私見ですが、「赤くて丸いもので災厄や鬼を追う」という話が「文選六臣注(中国の詩文集とその注釈書)」に詳しく載っているのを見ると、昔から大豆を「赤くて丸いもの」に見立てて、煎り過ぎを良しとするのでは、と考えています。
 この日は紅大根という赤い大根が売られているので、家々ではこれを買ってなますに刻んだり、生のまま輪切りにして台に盛り、かたわらに塩を添えて、この夜の第一の肴とすることは、家の大小に関わらず、古来からのしきたりです。これは、退治した鬼の手に見立てた物だと伝えられています。
 年の内の立春も、そのやり方はおなじような感じです。この「年豆」を蓄えておいて、二十日正月の煮込みに入れる家もあります。
 また、初めて雷が鳴った日に食べれば、一年中、雷を避けると言い伝える人もいて、その真意はわかりません。
 この日の暮れごろには、一年使ってきた火吹き竹の口に紙を詰め、子供や使用人たちが、これを門口より外に投げ捨てるのですが、投げた先は絶対に見てはならないとされています。これがまた、昔ながらのことで、どうしてこうなのかはわかりません。ひょっとしたら、火吹き竹は一年の間、ふーふーと気を吹き入れ続けた物ですから、それを邪気にたとえて投げ捨てるという意味なのかもしれません。いずれにせよ、これを誰かが拾うということは禁じられているのですが、その多くは非人や乞食といった者どもが拾って薪にするのです。
 この夜は厄払いといって、山伏などの宗教者たちが貝を吹き、鈴を振り、あるいは錫杖を振り立てて、街中を「厄払い、厄払い」と触れ歩きます。もしおはらいを頼みたければ、小銭を包んで門先でおはらいしてもらいます。 また、三味線や太鼓、笛を囃したて、踊ったりしながら、寿ぎをする人がいたり、へぎに塩を詰み、あるいは白鼠の作り物などを持って家々を回り、お金を乞う者もいます。もっとも塩を持ってくる人たちは皆「恵方から潮が満ちて来ました~」と言いながら差し出します。このようなことは、ただ卑しい者たちの稼ぎというだけでなく、遊び人たちが戯れにその姿を真似して顔を隠し、若いお嬢さんのいる家をつぶさに回って顔かたちを確かめ、お嫁さん探しのたすけにする場合もあります。
 諏訪社では天下一統百鬼の夜行を祓って、鬼やらいをします。その百鬼が散り散りにならないように、疫神所に封じ込めておいて清祓いを行い、疫神を祭り、塚を捨てるというのです。あるいは、厄年の男女が清祓いに参拝すると、厄難を避け、疫神も除かれるといいます。拝殿では(家々の)神棚とおなじような豆まきがあるので、町の人々は上下を着たり、あるいは平服で参詣します。諏訪社の年豆は、例年、土製の八分大黒を三勺ほど入れ混ぜているので、卑しい者たちはみな争って神社に集まり、豆を拾います。この「大黒」を拾い当てた者は、その年の福を得るといわれています。

二月

一日
 諸役人は佳日を拝します。

 この月初めての午の日には、あちこちの稲荷社で祭礼があります。社殿ごとに青、黄、赤、白の旗をひるがえし、参詣者はそれぞれに赤飯を炊いて供物を献じます。たまたま家などに安置されているお稲荷さんも、おなじようにお祭りします。(とはいえ長崎では、みんながみんな稲荷を信仰しているわけでもありません。)

二日
 毎年、唐人屋敷で唐人踊りがあります。

 六日ごろより、七ヶ村の踏絵が始まります。七ヶ村は、日見村、古賀村、茂木村、河原村、椛島村、野母村、高浜村です。この中にはさらに、網場や田上、飯香浦、宮摺などの小名があります。いずれも代官所の支配地なので、代官の手代、足軽などを引き連れて回ります。

十五日
 諸役人は佳日を拝します。

 涅槃会。お寺では堂内に大きな涅槃像を掛けて香と花をお供えし、たくさんの人がお参りします。
古老が言うには、その昔、絵師が禅林禅寺(八幡町、寺町にあり)の涅槃絵を描いていたところ、毎日、猫がかたわらにやってきて立ち去りませんでした。身をひそめて、頭を下げて、なにか物を思い、感じている様子だったそうです。絵師は心動かされ、ついに涅槃絵にその猫を描き加えたところ、いつしか姿は消え、ふたたび来ることはなかったというのです。今の世になっても、みんなこの話をして、不思議だね~と言っています。というわけで、長崎にあるお寺の涅槃像の中で、この寺のものがいちばんいいということになっているのです。

 彦山祭礼。
 この山は長崎の東にあって、雅名を峨眉山といいます。中国の峨眉岳に似ているので、唐人たちが名付けたのです。以前は参詣する者が多かったのですが、いまはやや衰えているようです。

二十八日
 諸役人は佳日を拝します。

二十九日
 このころまで、酒屋町、袋町、本紺屋町、材木町の通りには雛見せが出ます。夜、見物の人が大勢です。
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川原慶賀の世界(その十) [川原慶賀の世界]

(その十)「川原慶賀の長崎歳時記(その二)新年・踏み絵」周辺

『NIPPON』 第1冊 図版「踏み絵」.gif

『NIPPON』 第1冊図版(№192)「踏み絵」(A図) 福岡県立図書館/デジタルライブラリ
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html


踏み絵(B図).gif

●作品名:踏み絵(B図)
●Title:Fumi-e : a relife tablet with the Crucifix or the Virgin on which suspected believers in the forbidden Christian, January
●分類/classification:年中行事、1月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

「踏み絵」(川原慶賀画).jpg

「踏み絵」(川原慶賀画) 絹本着色 26.5×36.5 (C図)
Fumi-e : a relife tablet with the Crucifix or the Virgin on which suspected believers in the forbidden Christian faith were forced to tread to disprove the guilt.
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№3」)』)

 冒頭の石販挿絵の(A図)『NIPPON』( 第1冊 図版「踏み絵」)は、紙本墨画の(B図)「踏み絵」を下絵にして、その紙本墨画の(B図)「踏み絵」は、絹本着色の(C図)「踏み絵」(川原慶賀画)を原画にしている。
 これらの(A図)と(B図)、そして、(C図)との三者関係で、大きくアレンジしているのは、衝立に描かれている、(C図)=「山水画」が、(A図)と(B図)との「義(関連文字)」にアレンジ、次に、(C図)=「米俵と荒神様の鏡餅」が、(B図)で「米俵」が削除され、「荒神様の鏡餅」だけになり、それが、(A図)になると、その「荒神様の鏡餅」が、大きくクローズアップされて、(A図)の左端の一角を占める「荒神様と大鏡餅」に変身している。
 さらに、これらの「踏み絵」(A図・B図・C図)に描かれている登場人物が、(B図・C図)は、十人(踏み絵をする主人と順番を待つ家族三人、座敷に座る町役人三人と宗門改め人別帳に記録して人、土間に二人)対して、(A図)では、「座敷に一人、土間に二人」を付け加えている。
 ここで、この「家族三人」が控えている後ろの「衝立」の文字が「竹=D図」と「松=E図」とのものがある。
 この「竹=D図」は、(「ZEBREGS&RÖELL ファインアート - Antiques」)のもので、その解説文は「翻訳文(PC翻訳)」ものであるが、その内容は極めて、これらの図を解読するに多くの示唆を含んでいる。

川原慶賀 (D図).jpg

https://www.zebregsroell.com/ja/kawahara-keiga-painting-fumi-e-ceremony

≪川原慶賀 (1786-c.1860) またはスタジオ(川原慶賀工房?)(D図)
ふみえの儀式(絵踏み、1820-1830)
シルクに水彩、 H. 29 × W. 37.5 cm≫
来歴:
米国オハイオ州クリーブランド、アクロンのスタウファー一家(裏ラベルによる)

描かれた文絵(踏絵)
 中央の男性は、役人3人の前で素足で踏み絵を踏んでいる。長寿の象徴である鶴と松の若木が飾られた襖の前に座っている最高官(街官=町乙名・おとな?)の日行寺(日行使?)。屏風には「ついたて」の右側に「竹」「青竹はいきいき」という文字が大きく書かれています。これはおそらく中国の有名な儒学者の言葉で、「濰河のほとりを見ると、青々と生い茂る青竹が生い茂る。美しく力強い竹のように、毅然とした聡明な君主がいる。」誰もがその機会にふさわしい服装をしており、ほとんどが家族の紋章である家紋をコートに着ています.手前には米俵、上には海老をのせたお正月飾り。
 正月四日から幕府の役人は家々を家々に渡り、家長をはじめ、家々が踏み絵を踏まなければなりませんでした。源氏物語を連想させる柄のおしゃれな羽織を着た妻が右側に座り、順番を待っている。羽織を着た長男と次男。右手前の足袋と雪駄をはいた二人の人物は、おそらく町の管理人。

ふみえの歴史
 1629年頃に始まり、それ以来毎年、新年の初めに九州のいくつかの州で行われ、これらの州のすべての日本人はキリスト教の祈りのイメージを踏むことを余儀なくされました。彼らはキリスト教信仰の信者ではありませんでした。拒否した人は尋問され、厳しく迫害されました。文絵は、長崎の鋳物工場で鋳造された真鍮のレリーフ板で、十字架または聖母を描いています。東京国立博物館にはおそらく残りのすべてのキャストがあります。
 キリスト教徒でない日本人にとっては正月の風物詩にすぎなかったが、キリスト教徒にとっては毎年繰り返される恐怖だったに違いない。この冒涜行為に対抗するために、「隠れた」キリスト教徒は、儀式中に履いたわらじを燃やし、灰を水と混ぜてその溶液を飲むという儀式を行ったようです.出島のオランダ人も、ヨーロッパの他のキリスト教国を信じられないほど、踏み絵の儀式を行うことを余儀なくされました。しかし、VOC は従業員を宣教師としてではなく、商人として日本に派遣しました。
 踏み絵の儀式で使用される最初の額はヨーロッパから輸入されましたが、すぐに日本の当局は多くの額を必要とし、キリスト教のイメージが描かれた頑丈な青銅の額が日本の金属細工師に注文されました.デザインはヨーロッパのプラークに基づいていましたが、本来の意味と機能は完全に逆であり、祈りのイメージではなく、キリスト教の信仰を攻撃していました。

その他のコピー
 川原慶賀または彼のスタジオによる 3 つの他の文書化された写しの写しが知られており、3 つすべてがライデンの国立博物館 voor Volkenkunde のコレクションにあります。 Johan van Overmeer Fischer のコレクションからの慶賀の印のある紙に 1 つ (inv. no. 360-4302)、フォン シーボルトが収集した絹のおそらくスタジオ Keiga に 1 つ (inv. no. 1-4480-7)、および 1 つ紙に墨も工房慶賀、シーボルトコレクション。 3つとも、主に背景の画面の描写と書道にわずかな違いがあります。

川原慶賀かスタジオか?
 川原慶賀は1823年に「出島の出入りを許された画家」に任命されたが、すでに1809年頃からヤン・コック・ブロムホフ、オッパーフーフト、そして彼の秘書ヨハン・フレデリック・ファン・オーバーメール・フィッシャーのために1809年頃から働いていた。 1823 年から 1842 年頃まで、彼は科学者フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトの下で働いた。
 神戸市立博物館の学芸員である岡泰昌は、この作品は画中書の書の素晴らしさ、人物の表現と表現の素晴らしさから、彼の工房ではなく慶賀自身によって描かれたにすぎないと考えています。畳の柔らかな影。≫(「ZEBREGS&RÖELL ファインアート - Antiques」)

それと「松=E図」とがある。これは「シーボルト・コレクション」のものではなく、「フイッセル・コレクション」のものなのである。この「竹=D図」は「プロムホフ・コレクション」のもので、「ライデン国立民族学博物館蔵」ではないのかも知れない。

「踏絵」(川原慶賀画)(E図).jpg

「踏絵」(川原慶賀画) 紙本着色 30.5×40.0 (E図)
Fumi-e : a relife tablet with the Crucifix or the Virgin on which suspected believers in the forbidden Christian faith were forced to tread to disprove the guilt.
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№2」)
(F)― フイッセル・コレクション(ライデン国立民族学博物館蔵)

https://note.com/mitonbi/n/n63af7bd7d5ff

≪絵踏み (E図)
四日。この日より市中の踏絵が始まります。江戸町…(町名略)…都合十六町、絵板は12枚あります。町役人がとにかくすべての家々を回って、これを踏ませ、その都度、帳面に付けるのです。また「朝絵」「夕絵」と言うことがあります。大きな町では、絵板一枚踏ませて回るのに時間がかかるので、朝夕の区別があるのです。
「十二枚」とありますが、本来は二十枚(現在確認されているのは十九枚)ですし、他の日には「十九枚」などとあるので、ひょっとしたら、書き写し間違いかもしれません。(『長崎県史史料編』の底本は写本です。原本は虫食いなど傷みが激しいらしいです)
絵踏みについての文龍さんの筆は、由来も人々の様子も、自分の心情も書くことなく、わりと淡々としています。もっと書いてくれてもいいのになぁ、と思うのですが、あまり書きたくなかったのか、どうなのか。そのぶん、と言ってはなんですが、メイランさんが詳しく書いてくれています。
昔キリスト教が最も根を張っていた所、とくに長崎では、有名な踏絵の儀式が始まる。長崎で大抵8日間は取られる。どの町の住民はどの日と決められている。この式は、小児イエスを膝に抱いた処女マリアの像を彫った銅板を足で触れるのである。役人の立ち会いのもとに行われ、この役人がその詳しい手続きその他を決める。それを免除するものは一人もないし、いかなる口実をもってしても、誰もこれを免れることはできない。病人や懐に抱かれた幼児もそこに運ばれて、真っ直ぐに立つことのできない人には、踏絵板を足に圧しつけてこの式を済ませるのである。これについては、日本人の間では、物に足を当てることほど大きな軽蔑のしるしはないということを、知らねばならぬ。これはおよそ日本人のなし能う最大の侮蔑であり、従って日本人はどんな些細な物でも、足で触れることを極力注意して避ける。
そして「外国人も踏絵をさせられるという話があるが、そんなことはない。」ということに加え「真偽は不明」としながら、次のようなエピソードも記しています。真偽も、確かに重要かもしれませんが、こういう話がまことしやかに語られ、場合によっては信じられていた、ということも、また真実なのだと私は思います。
踏絵が始まって当座の間は、日本人はこのような銅板を一枚しか持たなかった。それでは日本の政策上、踏絵を行う必要があると思われる場所全部に、一時に使用するには不十分だというので、一人の芸術家が、そのために必要とされるだけの踏絵を模造する仕事を命ぜられた。芸術家は、現物と模造品のあいだに何らの区別も見出されぬくらい立派なものを作ったが、その彼がその褒美として報いられた所は、それ以後彼がキリシタンのために働くことを予防するために、将軍の命で首をはねられたということであった。
長崎の年中行事の中でも特別な意味を持つ踏絵。文龍さんが生きた時代は、禁教から200年近くが経っていましたので、切実な信仰をもって踏絵に臨んだ人は、もはや少なかったことでしょう。それでもあまり気持ちのいいものではなかったようで、古賀十二郎さんの「長崎市史風俗編」によれば、踏絵が終わったあとには「厄払い」と称した宴が開かれ、あらためてお正月を寿ぐかのような万歳までもが家々を回ってきたとあります。踏絵そのものにも様々な作法や言い伝えがあったようですが、文龍さんはとにかく書き残していないのです。ほかの行事の記しかたや、「子どもの遊び」の饒舌さを思えば、その記述はあまりに簡潔です。その真意はわかりませんが、ひとつ確かなことは、長崎に暮らした文龍さんは、生まれてから死ぬまで、毎年お正月に踏絵をしていたということです。いまの私たちには想像しようにもできない心情が揺らめいていたのでしょう。
 慶賀さんの絵の中の人たちは、それが死に際するものであっても、なぜかみんな楽しげな顔をしているのですが、この「踏み絵」の人たち……特にいままさに絵に足をかけようとしている人の、憂に満ちた横顔は、見れば見るほど寂しげな複雑さを湛えているようです。
≫(「いまにつながる江戸時代の暮らし「長崎歳時記手帖」 第8回 お正月」)

 続いて、次の「正月(F図)」が連動してくることになる。この「正月(F図)」は、「正月の挨拶」と同じく「ブロムホム・コレクション」のように思われる。そして、この土間に跪いている裃をつけた男性とその従者の二人が、冒頭の石販挿絵の(A図)『NIPPON』( 第1冊 図版「踏み絵」)の、土間に跪いている裃をつけた男性とその従者の二人のようなのである。さらに、この「正月(F図)」の左端の「荒神様の鏡餅」が、A図の『NIPPON』( 第1冊 図版「踏み絵」)の左端に登場してくる。

正月(F図).jpg

https://note.com/mitonbi/n/n63af7bd7d5ff

≪正月 (F図)
正月二日には、小商いをしている人々が、商い初めということで、大人子どもに限らず、暁にかけてナマコを売り歩きます。その声は午前4時頃から大きくなるのですが、家々ではこれを買い整えて、朝のなますに加えます。値段の交渉はしません。彼らを家に呼び入れて器を出せば、ナマコを入れてくれるので、12文、または13文と、その年の月の数の通りに紙に包んで渡します。古来よりの長崎の風俗です。 長崎の人たちはナマコのことを「たわら(俵)子」と呼ぶのですが、それはその形が米俵に似ているところから来ています。二日を「商い初め」として、すべての担い売りの商人が「たわら子」を売るのは、売り買い双方が、みな米俵にまつわるものであること思ってのことです。
 寄合・丸山両町の遊女屋では、出入りの魚屋たちが、毎年おめでたい習わしとして、夜、門を叩いてナマコを持ってくるので、祝儀として銭百文ずつを包んで与えるそうです。≫(「いまにつながる江戸時代の暮らし「長崎歳時記手帖」 第8回 お正月」)

「大黒舞」(G図).gif

https://note.com/mitonbi/n/n63af7bd7d5ff

≪「大黒舞」(G図)
 「正月」の絵をもう一度見てみると、玄関の外にいる人も、この絵の女の子とよく似た動きをしていますので、大黒舞かと思われます。≫

「大黒舞」(G図)と「正月」((F図)).png

左図(「大黒舞」(G図)とその右図(左から二番目「正月」((F図))
左図三番目(正月(F図)と左図四番目(『NIPPON』 第1冊 図版「踏み絵」(A図)

 上記の「大黒舞」(G図)は、紙本墨画「職人尽し図」の画冊に貼りこまれたものの一つで、「33種類の職人(中には職人といえないものも含まれている)が描かれているが、これは下絵的な性格のもので、いつでも注文に対して対応できるように準備されたものと思われる。」(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「主要作品解説」)』)
 この「大黒舞」(G図)の左端の女の子の動作が、「ブロムホム・コレクション」の「正月」(F図)の右端の玄関の外にいる男の子と動作が同じで、これは「大国舞」の踊りの仕草だというのである。また、この「正月」(F図)の左端の「荒神様の鏡餅」の図は、そっくり、A図の『NIPPON』( 第1冊 図版「踏み絵」)の左端に登場してくることについても前述した。
 そして、この「荒神様の鏡餅」は、次図(G図)の「正月の挨拶」のように、長崎の正月飾りの風物詩ともなっている「幸木(しやぎ・さいわいぎ)」と連動
してくる。

「正月の挨拶」(川原慶賀画)(G図).jpg

「正月の挨拶」(川原慶賀画) 紙本著色 26.0×38.0 (G図)
New Year Greeting
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№1」)
(B)― プロムホフ・コレクション(ライデン国立民族学博物館蔵)
≪正月の挨拶
 長崎の年中行事図については川原慶賀が手がける以前に、まとまったものとしては打橋竹雲・石崎融思などが描いた長崎古今集覧名所図絵稿本や長崎名所図絵がある。慶賀も大いにこれらを活用している。
 図は長崎商家の内玄関土間の方より奥の座敷を望み、土間には幸木(しやぎ)が下げられ、荒神様には三つ重ねの鏡餅が供えられている。
 長崎の正月飾りについては寛政年間(1797)の長崎歳時記に次のような記載がある。
「鏡餅は多く上に昆布、橙等を置く……荒神様の大鏡家々すべて三ツ重ね、上に海老、橙、こんぶ、串柿、包米、下にゆずり葉、裏白を敷て是を置く……又幸木といふ物あり、長さ凡壱間ほど、廻り壱尺有余の木に縄をゆひ付、塩物とて鰤(ぶり)、
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川原慶賀の世界(その九) [川原慶賀の世界]

(その九)「川原慶賀の長崎歳時記(その一)新年・正月の遊び」周辺

『NIPPON』 第1冊 図版 「新年」.gif

『NIPPON』 第1冊図版(№176)「新年」(A図)福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

「正月の遊び」(B図).gif

●作品名:「正月の遊び」(B図)
●Title:New year games, January
●分類/classification:年中行事、1月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

「正月遊び」(川原慶賀筆).jpg

「正月遊び」(川原慶賀筆) 絹本着色 27.2×36.5 (C図)
New year games
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№2」)』)
●作品名:「正月の遊び」
●Title:New year games, January
●分類/classification:年中行事・1月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden 
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1135&cfcid=142&search_div=kglist

 「長崎歳時記」というのは、下記アドレスの『長崎歳時記(野口文龍著)』などに出てくる「長崎の年中行事(「四季・月次・祭り」)などを指す。

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1546781&start=#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-39%2C-332%2C1631%2C1821

 そして、それらの「長崎年中行事図」については、『長崎古今集覧名所図絵稿本(石崎融思画)』や『長崎名所図絵(打橋竹雲画)』などに、その先例を見ることができる。
 川原慶賀の「長崎年中行事図」も、「シーボルト・コレクション」だけでなく、「プロムホフ・コレクション」そして「フイッセル・コレクション」にも含まれているが、「シーボルト・コレクション」のものは、シーボルトの大著『NIPPON(日本)』の中に、「正月遊び」「踏絵」「雛祭り」「端午の節句」「水祖神祭」「七夕」「精霊流し」の各図が収載されている(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)。

「歳市・行商人」(川原慶賀画).jpg

「歳市・行商人」(川原慶賀画) 絹本着色 27.0×36.5 (D図)
Vendors of New Year articles
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№1」)』)
●作品名:歳市、行商
●Title:Vendor of new year decorations, December
●分類/classification:年中行事・12月/Annual events>諸職/
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1120&cfcid=142&search_div=kglist

  冒頭に掲げた『NIPPON(日本)』に収載されている「新年」(A図)の、右側の「二本の松」は、上記の「歳市・行商人」の「歳(とし)の市」(正月用の飾物などを売る年末の市)で手に入れた「門松」(新年を祝って家の門口などにたてる一対または一本の松)であろう。
その「門松」の前には、「羽根突き」をしている女性と、「凧揚げ」をしている男性が描かれている。 左上部の二階室内の男女は「手毬遊び」をしている。これらは子供の「正月の遊び」のスナップの「原画」(下絵)と思われる図が、墨画の「正月の遊び(B図)」(New year games, January)と、彩色画の「正月の遊び(C図)」(New year games, January)である。
 墨画の「正月の遊び(B図)」と彩色画の「正月の遊び(C図)」とは、同じ図柄かというと、微妙にアレンジしていて、登場人物も、「正月の遊び(B図)」は六人に比して、「正月の遊び(C図)」は七人と一名が増えている。
 さらに、この彩色画の「正月の遊び(C図)」(New year games, January)と同じ彩色画の「歳市・行商人(D図)」(Vendors of New Year articles)とは、同一シリーズもので、これらは「川原慶賀画」(又は「川原慶賀工房画)」と同一人作と解しても差し支えないように思われる。
 その上で、これらの彩色画の「正月の遊び(C図)」そして「歳市・行商人(D図)」と墨画の「正月の遊び(B図)」とは、同一人作(又は同一工房作)と解するかどうかについては、二通りの見方が成り立つであろう。
 一つは、墨画の「正月の遊び(B図)」は、彩色画の「正月の遊び(C図)」の「下絵」(素描・スケッチ画)と解すると、これは、「川原慶賀画」(又は「川原慶賀工房画)」と同一人作ということになる。
 もう一つの見方は、墨画の「正月の遊び(B図)」は、『NIPPON(日本)』に収載されている「新年」(A図)の「下絵」(「石版画」制作過程での画稿・転写画)と解すると、「石版画」の制作の西洋人画家(例えば「L・ナーデル」画など)の作ということになる。
 ここで、これらのことを念頭に置いて、墨画の「正月の遊び(B図)」を見て行くと、彩色画の「正月の遊び(C図)」の「下絵」(素描・スケッチ画)にしては、単一の「線書き」で、いわゆる、「原画」(「川原慶賀画」又は「川原慶賀工房画)」)の、その「下絵」(素描・スケッチ画)にしては、味も素っ気もない印象を深くする。
 すなわち、この墨画の「正月の遊び(B図)」は、『NIPPON(日本)』に収載されている「新年」(A図)の「下絵」(「石版画」制作過程での画稿・転写画)の一つで、この「下絵」(「石版画」制作過程での画稿・転写画)に対して、注文主のシーボルトは、二つの大きな指示を与えている。
 その一つは、最終の石版画の「新年」(A図)の中央に描かれている「門付(かどつけ)芸人」(人家の門口に立って芸能を見せ、報酬を受ける芸能と芸能者の総称。「千秋万歳・大黒舞・春駒・獅子舞・太神楽・節季候・狐舞・鉢叩き」など)を描かせている。これは、川原慶賀の画題の一つの「大黒舞」なのかも知れない。

大国舞.gif

※蔭凉軒日録‐文正元年(1466)閏二月一七日「彼知客平日好二大黒舞一、仍如レ此也」
「精選版 日本国語大辞典」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E8%88%9E-556975

 もう一つは、その「門付(かどつけ)芸人」の前で、「正装の武家や裕福な町人が街道の行商人(子供)から何やらを購入している図」なのである。

「拡大図」(A-1図).gif

『NIPPON』 第1冊 図版 「新年」(A図)→「拡大図」(A-1図)

この図は何か? この疑問符(?)を解くヒントは、次のアドレスの、「「長崎歳時記」正月 全文訳」にあるようである。

https://note.com/mitonbi/n/n63af7bd7d5ff

 すなわち、これは、下記の、「正月・二日目の『ナマコ売り・「たわら(俵)子」売買』のスナップと解したい。

【 「長崎歳時記」正月 全文訳

元日
 家々では若水といって、夜明け前のまだ暗いころから恵方の水を汲んで湯を沸かし、お茶を淹れます(この朝『若水手拭』と言って、一年の手拭を新しく下ろします)。さらに神棚、恵方棚、仏壇を清めて灯火をかかげ、雑煮を出してお屠蘇を飲んで、祝います。
 雑煮は、三が日、あるいは五日と限って食べます。
 お膳の向こうには皿に裏白を敷いて、その上に塩イワシを二~三匹ずつ据え、これを「据わりイワシ」と呼びます。もし来客があれば、まず「手掛けの台(一二月参照)」を持ち出して前に置き、あるいはお屠蘇や雑煮を出すわけです。屠蘇の杯は、多くは土器(かわらけ)を使い、三方に裏白を敷いて、その上に重ねておくのが、古式ゆかしいやりかたです。
 役付の家々の多くは門松を立て並べ、家の者はみな夜明け前には起きて、それぞれ新しい着物と上下を着け、午前六時頃より奉行所に行って挨拶をします。それから諏訪、松の森、伊勢の三社を回り、また、お世話になっている家へ、新年のお祝いに伺ったりします(二十一日に、家ごとに名札を置いておくのです)。

 商家の中でも、裕福な家は門松を立て並べたりもしますが、多くの家は質素を守り「打ち付け松」といって、松の枝を戸口の左右に打ち付けて竹を立て添えて、しめ飾りをしています。しめ飾りはどれも、門松とおなじような感じです。とはいえ、どの家も先祖からの様式があって、根曳きの小松に竹を添えて、その左右に輪状の〆を掛けることもあれば、大きな〆を曲げて中に飾りをして家の門先や玄関などの上に掛けるのもあって、一様ではありません。門松は薪を束ねて根を固め、あるいは笹の葉で垣根を造り、または萩を揃えて根をかこって、左右の垣根にしたりもします。
 しめ飾りは、包んだ米と塩、海老、橙、炭、昆布、串柿、裏白、ユズリハなどで作ります。冬からこの月にかけては、かねてから憎らしく思っていた家に、夜分、誰ともわからないものが松飾りを引き下ろしたりという嫌がらせをすることがあります。また、子どもたちが柿や昆布などを狙って取ったりもするのですが、このどちらも、長崎のよろしからざる一面です。

 商家は、前夜の取引で徹夜しているので、元旦はまだ夜中のようです。門を閉ざしてしまって、だれの挨拶も受けません。
 最近この街の人たちは、気分がボンヤリすることがあると、「元旦状態だ…」と言い表したりするのですが、これはこの「商家の人が徹夜した気分」に例えているのです。

 この日は、一年中使う道具たちの恩に報いるということで、どの家も家財を使うことなく休めます。お金も、一銭も出さないように慎んで、物を買うことはしません。

 正月の間は、チャルメラを吹き、小銅鑼や片張りの太鼓を持って囃し立て、街の家々を訪ねる者たちがいます。家々からは、小銭の包み(六~七文から一四~五文くらいまで、その家の懐次第です)を与えます。以前、チャルメラ吹きたちは刀を持たず、古い袴を着ていました。なので、役人たちの袴の着こなしが悪いと「チャルメラ吹きの袴」と言われてしまうのです。いつのころからか袴は着けなくなり、ここ三~四年前くらいからは、ただ羽織だけを着て廻っているので、そうみっともなくもなくなりました。
 ただし、長崎ではチャルメラ吹きの家が決まっていて、勝手に吹いて廻ることは禁じられています。これは唐人が亡くなった時、遺体を寺に送るまでの途中では、昔からチャルメラを吹いてついていく専門家がいたのです。唐人が毎年これに出した謝礼金を、長崎会所を通して受け取っていました(置銀といって、年に銀百目ほど)。それで、役株ができたのだと古老から聞きました。

 船江の非人たちが(船江とは、俗に杭原と呼ばれています)、二~三人ずつ一組になって、みんな編み笠をかぶり、家々の門に立ち寄って、歌を歌います。俗に「やわらやわら」と呼ぶのですが、ただしこれは歌の歌いだしの言葉です。また非人の女の子が黒い木綿で顔を覆って槌を振り、大黒舞や「松尽くし」などを歌ったり、恵比須大黒の格好をしてやってきては、米を乞うのです。

 三ヶ日あるいは五ヶ日の間は、天秤、帳箱、搗臼などの家財道具、浴室やトイレなどに、夜、灯火をかかげます。

 唐館では、唐人たちが部屋の額を新しく張り替えたり、船主や脇船頭、総代たちの部屋を、それぞれ赤い紙の名札を持って訪ね、お祝いを述べるのです。

 丸山町、寄合町の遊女たちも、この朝は雑煮を食べ、それぞれが年の餅などを飾り、この夜は客を迎えることはしないそうです。この月の二十日まで、遊女屋の恵方棚にいろいろな衣装の裁ち切れや、金銀の紙で作った折り鶴などをあしらい、たくさんの餅を花柳に結びつけて飾り立てているのは、すばらしく美しいものです。それなので、夜になると「恵方棚見物」といって、街の人々がたくさん訪れるのです。

二日
 市中では元旦とおなじような挨拶が交わされます。また小商いをしている人々は、商い初めということで、大人子どもに限らず、暁にかけてナマコを売り歩きます。その声は午前四時ごろから大きくなるのですが、家々ではこれを買い整えて、この朝のなますに加えます。値段の交渉はせず、(ナマコ売りを)家に呼び入れて器を出せば、入れてくれます。買う人は、十二文、または十三文と、その年の月の数の通りに紙に包んで渡します。これは、古来よりの長崎の風俗なのです。
 ただし長崎の人たちはナマコのことを、多く「たわら(俵)子」と呼ぶのですが、それはその形が米俵に似ているところから名付けているのです。ゆえに、二日を商い初めといって、すべての担い売りの商人が「たわら子」を売るのは、売り買い双方が、みな米俵にまつわるものであること思ってのことです。
 寄合・丸山両町の遊女屋へは、常日頃出入りしている魚屋たちが、毎年おめでたい習わしとして、夜、門を叩いてナマコを持ってくるので、祝儀として銭百文ずつを包んで与えるそうです。

 家々では暁に起きて、店先には葦の御簾または竹の簾を垂れ、みな賑やかに過ごします。子どもたちの遊びとしては、破魔弓、双六、猫貝、手鞠、羽子板、紙打などです。貧しいものたちは、すぼ引、よせ、けし、かんきり、かうば、筋うちなどして楽しむものがありますが、これらは博打に似ていると言って、これを厳しく禁ずる親もいます。

 唐館では古来より「水かけ」ということがあります。船の「火の元番」たちが、冬から踊りを練習しておいて、早朝から笛や太鼓、銅鑼を叩き、土神堂や関帝堂、その他、唐人の部屋の前で踊ります。踊りは風流や今様の踊りなど、毎年おなじというわけではありません。この時、船の船主、財副、惣管といった人たちが、思い思いに遊女と一緒に出てきてこれを見物している様子は、長崎ならではの奇観と言えるでしょう。
 唐館の船頭の部屋の多くは、多くが二階の隅にあり、外向きに「かけ」を作って、これを「露台」と呼びます。見物のときや涼むときなどは、この台に毛氈を敷き並べ、椅子を立て、寄りかかって眺めるのです。また「火の元番」というのは、入港した唐人たちが上陸した日から、館内の水汲みをはじめとする下働きとして、唐人屋敷乙名のほうより一人、唐人番より一人、宿町より一人、全部で三人ずつ、その船が出港するまで唐館に派遣される人のことです。これを通常「部屋付」と呼びます。

三日
 年始の挨拶は元旦とおなじ。

 盲僧などが川柳にお守り札を結びつけたものを家々に持ってきて、新年を寿ぐことがあります。その時は、三~四銭を包んで渡します。川柳は俗に猫花柳と言います。

 町年寄の踏絵があります。

四日
 奉行所、寺社の礼。大音寺(浄土宗)、大徳寺(真言宗)、本蓮寺(法華宗)、青木陸奥(大宮司・諏訪社神主)、同虎丸(左京亮・大宮司の伜)、青木西市(近江介・西山郷妙見社神主)、光栄寺(東一向宗院家)、正覚寺(西一向宗)、安禅寺(天台宗・東照宮)、そのほか神職、出家の人々が、それぞれの装束で順列を正して挨拶に訪れます。
 これが済めば、市中の檀家や俗縁の家々を訪れて、お守りの札に水引や杉の楊枝などを添え、また、納豆を曲げに入れて配ることもあります。昔から、延命寺のお坊さんは金山寺味噌というものを配ります。これは中国の金山寺から伝わったとされ、家々ではこれを珍味として喜びます。

 市中の踏絵が始まります。江戸町、大黒町、今魚町、東浜町、本博多町、島原町、磨屋町、新橋町、大村町、樺島町、榎津町、新石灰町、今町、榎津町、袋町、本籠町。都合十六町、絵板は一二枚あります。町役人がすべての家々を回って絵を踏ませ、そのつど、帳面に付け、印を押して宗門改めの記録とします。また、朝絵、夕絵と言うことがあります。大きな町では、絵板一枚踏ませて回るのに時間がかかるので、朝夕の区別があるのです。以降の日も、すべておなじようにします。

五日
 奉行所へ皓台寺(禅宗)が挨拶に行きます。皓台寺は以前大音寺と順番の争いがあったので、ふたつの寺の挨拶は別々に受けるようになりました。

 本五島町、浦五島町、南馬町、八幡町、掘町、豊後町、本興善町、新町、内中町、小川町、油屋町、東古川町、上筑後町、炉粕町、船大工町、八百屋町、酒屋町、北馬町、引地町の踏絵です。
 踏絵の板は十枚で、十九ヶ町の町役人たちが付き添って廻ることは、四日とおなじです。

 帯刀組やお役所付きの唐人番、町使、散使の家の踏絵もこの日にあります。これにその組の触頭などが付き添い回って改めることは町家のようです。

六日
 町の家々では、〆飾りを下ろして門松を片付けます。十四日のところもあります。ただし、幸木の〆は、翌年の飾りまで外さずにおけば、その年の盗難を逃れるということが言い伝えられているので、そのまま置く家もあります。あるいは松飾りの橙を取って、床の下に投げ入れておいたり、橙を戸口の上やぬかみそにつけておくと、これまた盗賊に遭わないまじないと言われていますが、家によって違います。また、このころから子どもたちは、イカを揚げて遊びます。

 伊勢町、中紺屋町、桶屋町、本大工町、本下町、今下町、勝山町、今紺屋町、出来鍛冶屋町、今鍛冶屋町、本紺屋町、西古川町、下筑後町、西中町、諏訪町、今石灰町、後興善町、新興善町、東築町の踏絵。
 右の十九町、絵板は十九枚。

 この日から近隣の子どもたちは、七草を取って売り歩きます。家々ではこれを煮て、まな板の上に揃えておき、そのかたわらに火箸、飯杓子、すりこぎ、菜包丁、せつかひ、金杓子、火吹き竹の七種を乗せて、午後三時ごろから恵方に向かって、菜包丁の裏でまな板を叩きます。これを叩く拍子があるのですが、うまく書き表せません。実は、一刻ごとに叩いて暁に至るというのが昔からの習わしなのですが、人々はもはや怠けてしまって、夜通しこれを叩くなんて人はまれです。また「唐の鳥と日本の鳥と渡らぬ先に」という決まった呪文があり、これを唱えながら叩きます。ある人が言うには「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬうちに」ということだったのが、間違って伝わっているそうです。しきたりに厳しい古老がいる家はこれを真面目に唱えるのですが、つい笑ってしまいます。ある本には、この日に唐土より鬼車という悪い鳥が渡ってくるので、家々では門を閉じて灯火を消し、これを払っているのだとありました。七草を叩く時にあの呪文を唱えるのは、この鬼車の鳥を忌む気持ちからなのだというのです。また唐土の鳥とはツバメを差しているという節もあります。ただし、老婆や婦女に伝わっている説ですので、その証拠はありませんし、これがどういう意味なのかはわかりません。

七日
 俗に七日正月と呼び、家々ではなますを作り、七草雑炊を煮て、神棚、恵方棚、仏壇などにお供えをして、お祝いします。

 恵美須町、桜町、西築町、西浜町、金屋町、東上町、麹屋町、銀屋町、本古川町、本紙屋町、大幸町、西上町、古町、出来大工町、外浦町、平戸町。
 全部で十六町、絵板は十枚。

 この夜、本蓮寺下の船津浦の男女たちは、家に集まって「番神ごもり」をします。宵のうちから各々声を揃えて題目を唱え、夜半過ぎればみんな酒を飲んで様々な余興を披露し、夜が更けるまで題目を唱え、夜が開ければ家々の〆縄を浜に持ち出して焼きます。これを鬼火と言います。また、五月に籠ることもあったり、不定期に行われているようです。

八日
 今博多町、材木町、東中町、新大工町、万屋町、本石灰町、今籠町の絵踏み。絵板は七枚。

 丸山・寄合両町の踏絵は、遊女たちが美麗を尽くして行うので、以前は市中の遊び人たちが変装して顔を隠して見物に出かけたものですが、あるとき群衆の者たちが町役人と口論になって以来、見物人がやや減ったようです。

九日
 松囃子といって、以前は諏訪神社で能がありました。今はその儀礼だけが残って、能太夫または社家、社用人たちが拝殿に幕を張って囃子をしています。年によっては舞をすることもあります。

 銅座跡の踏絵。銅座跡は以前銭を鋳造していたところで、現在は人家が建っていて、築町に続いています。町の乙名から二名ずつ係を務めます。
 唐館の部屋付きの者たち(火の元番)が、唐館の乙名部屋で踏絵をします。絵板は部屋付き担当の町から、役人が付き添って持ってきます。

十日
 俗に十日恵美須といって、商家では恵美須棚へお神酒を供え、互いに訪問しあってお祝いします。
 丸山・寄合両町の遊女屋では、遊女たちが集まってお酒を飲んで大騒ぎします。郭もこれを許して制することはありません。また、年季が明ける遊女は、この日に暇乞いの杯をすることがしきたりです。

 御船頭、武具預かりの者たち、その家の者たちの踏絵があります。代官の手代が、見届けに付いて回ります。以前は十一日にありました。

一一日
 鏡開き。市中の家々では、神棚仏壇その他家財などに供えた鏡餅を下ろして善哉餅とします。またこの日は「帳祝い」といって、商家などでは新たに帳面を仕立て、表題などを付けて祝います。
 荒神棚の餅は、多くが十五日、または二十八日に下ろします。いずれも家々のしきたりがあります。

 夜分女中礼が始まります。婦人たちはそれぞれにおしゃれを尽くし、召使いには箱提灯を灯させ、おともを引きつれて親類縁者、近所の家々を回って新年の挨拶をします。下女は包んだお茶を入れた硯の蓋に、いろいろなふくさを持たせて、行く家ごとに渡します。また「とし玉」といって、紅粉茶碗、白粉、鬢つけ、元結い、洗い粉、刻みたばこ、手まり、筆紙墨などを、子どもがある家々にはそれぞれに見合うようなものをお茶に添えて贈りあうことがあります。これは常日頃から特に仲良くしている人だけに贈ります。また、この行事は、既婚者に限ることで、娘が出ることはありません。もし既婚者でもなにか差し障りがあって出ない人は、月の末に下女にお茶だけを持たせて使いに出します。あるいは冬の間に新婦をめとった家では、この月を待って、姑が嫁を引き連れてまわります。
市中の男子たちは、夜に女中礼を見ると、だれもかれもが松の葉を持って召使いの髪に打ちかけて、いやがるのを喜びます。
六、七日の夜より回る婦人たちもいますが、これはまれです。

(茶を包む図)
 新婦の茶は、包みの右上に切り熨斗を用いることがある。上包みは、多く杉原紙を二枚重ねたもの。紅で落ち松葉、海老、梅の花、折り鶴、三ツ星などの絵型を描く。お茶はこの中に小包にして入れる。

一三日
 三ヶ村の踏絵が始まります。三ヶ村とは、お代官高木作右衛門の支配する所で、長崎、浦上、山里(含む淵)の各村があります。野母村、高浜村、川原村、茂木村、日見村、古賀村、樺島村の七つの村は、そのあと追々に踏絵があり、お代官の下役たちが巡回します。

一四日
 奉行所や岩原屋敷、代官所、その他諸侯の蔵屋敷などでは、門戸や玄関の上に削りかけを吊ったり、鬼木を立てたりします。ただし市中では、役付の家でもこれはしません。

 この夜より一五日の夜までは、もぐら打ちといって、町の男の子たちは、門松に添えられていた竹を取っておいて、図(31頁参照)のように作り、家々の門口にやってきては、踏み石を打ちます。(踏み石は俗に『ぎんば』と言いますが、方言でしょう)その時は「もぐら打ちは科なし、ぼうの目、ぼうの目、祝うて三度、しゃんしゃんのしゃん」と言って打ちやめ、家に入り、お金をねだります。もしお金を渡さなければ、また帰りに踏み段を打ち、「打戻せ打ち戻せ、一まつぼう、二まつぼう、三まつぼう、四まつぼう、鬼子持て子持て」と言い捨てて、またその隣の家に行くのです。
ただし、これはただ貧しい家の子供だけがするわけではなく、ゆえに昔はお金をねだることもなく、ただ家々の「ぎんば」を打って戯れとするだけでした。いま、家々に入ってお金をねだることは、世の中の悪い流れによるものなのか、あるいは長崎の風俗の良くないところでありましょう。

 この日、子供たちは、市中の家々で下ろした〆縄を貰い受けて、諏訪神社の焼き場に担いでいってこれを焼きます。焼くときにはそれぞれ「鬼の骨、鬼の骨」と唱えます。

 丸山、寄合の遊女屋でも「〆おろし」といって祝日に定められており、遊女たちはお客を迎えて、とても賑わいます。

 おなじ日、長崎から一里ほど西にある小瀬戸という浦で「尻たたき」ということがあります。姑が新婦を引き連れて、親類縁者の家を回るのですが、道の途中には老若の男たちが鬼木を持って集まっていて、新婦の尻を叩こうとするのです。新婦ほうでは、ご祝儀として団子をこしらえ、酒の肴を整えておいて、彼らを招きます。新婦がやってきた家では、正月十四日にするのが古式だそうです。

一五日
 役人たちは、朝七時ごろから奉行所に行き、良き日を祝います。(※以下『佳日を拝す』『節を拝す』は、これと同様の行事です)
 家々ではなますを作り、小豆のお粥に餅を入れて煮、神前や仏前などに供え、またこのお粥で門戸や家の柱の所々にお札を貼ります。また、多くの荒神の前の大釜の上に供えていた、三つ重ねの大鏡餅を下ろします。
 あるいは二八日になるのを待って、小餅の鏡と引き換えて下ろす家もあります。

 この夜、福濟寺(下筑後町の山手にある漳州寺)の観音堂で「ろうそく替え」という行事があります。俗に「しょんがん」「しょむがん」と言います。これは「じゅんぐかん」という中国語が転じたもので「じゅんぐわん」は「上元」であると言います。その作法は、日暮れごろより、お堂の仏様の前のロウソク立てに、唐ロウソク数千本を立てて火を灯しておきます。市中から参詣にやってきた人たちは、自分で和ロウソクを持ってきておいて、手前から、唐ロウソクと立て替えます。次々にやってくる参詣の人たちが、元々のロウソクと新しいロウソクを引き換えて持ち帰る様子は、まるでロウソクが階段を上っていくようです。これは何のためなのかというと、この夜、お寺ではお経が上げられ、仏前にロウソクが灯されているので、もし家に病人などあるならば、枕の上にこれをかかげることで、ご祈祷になるというのです。ゆえに、昔から参詣する人同士、肩がぶつかりあうくらい競って替えるというのですが、これが中国の風習であるのかどうなのかはよくわかりません。ただし午後五時ごろに始まって、夜の九時くらいまでには終わります。お堂の中では、お坊さんが銅鑼や「ケイ」を打ちならしています。

 夕方から、長崎の近郊では、竹を焼き、それが「はくひつ」と音がするとき、子供たちは同時に「鬼の骨」と唱えます。これより俗に「鬼火」とも呼びます。思うに、我が国で広く行われている「さぎちょう」というものでしょう。あるいは「三几張」とも書きます。これは昔から、市中では行われていません。

 唐館では「蛇おどり」があります。唐人たちがハリボテの大きな蛇を作り、夜になってその体内に灯を灯して、館内をぐねぐねと回るのです。船主や財副の部屋では、露台に毛氈を敷いて、数十の灯をつけて賑わいます。市中の女子供たちは、稲荷岳の小島郷(館内の上、長崎の町の南のほう)の山手にのぼってこれを見物します。これまた毎年のことです。

一六日
 諏訪神社では、百手の神事ということがあります。社記を見て考えると、これは門戸におられる神、クシイワマトノミコト、トヨイワマトノミコトのお祭りでありましょう。(この二神は、俗に矢大臣、または矢五郎さまと称します)毎年この日、礼を尽くしてこの神様を祭るのです。お供えは白羽の矢を二百、黄白の餅を二百、お神酒を二瓶、これを本殿の内陣にお供えし、社人たちは祈りを捧げ、神楽を舞う二人が弓矢を持って矢大臣の前に行き、左右に拝して湯立て場に行って的を立て、左右それぞれに射るのです。この行事が済んだのち、神宝蔵の前後の窓から百手の矢を投げ出しますと、参詣した男たちが群れ集まって争い取ります。これを名付けて「矢ばかい(『はかい』は方言)」と言います。取った矢はそれぞれの家に持ち帰って神棚に納めれば、一年の邪気を払うと言います。それから神主の家では、若餅百個が玄関より撒かれます。これをまた、参詣の人々が争い取って、お神酒(甘酒を器に入れておいて、ひしゃくを添えておきます)も我先にと頂戴するのです。言い伝えでは、この餅を取った人は、一年の幸せを得るそうです。餅の異名が「福」というところから起こっているのかもしれません。
注:矢は粗櫛(あらぐし)を割って、羽根型の紙を挟んで作ります。

 薮入りと言って、奉公人たちはその主人に暇を乞い、故郷の家に帰ります。また、市中の下流のものたちは、男女が集まってお金を出し合い、宴会をし、歌って踊って三味線など弾いて楽しんだりもします。

一九日
 諏訪社で清祓いの神事があります。社記を見るところ、これは疫神のお祭りだそうです。夜に入ってから行われます。もともとこのお祓いは、吉田(神道)の疫神祭りの清祓いの作法にならって勤めます。明暦年間(一六五五-一六五七)より、毎年の節分の夜に大祓をするのですが、これを除夜の大祓、あるいは年越しの神事というような行法、清祓いとおなじように、節分の夜から中門の渡り殿の前に八角型の塚を建てて、ヤツデの注連縄をひき、榊を立てます。これを疫神塚、また疫塚と呼びます。中央にお祓いの棚を作り、左右に高机を据えて、机それぞれに幣帛を立てます。また様々の供物があり、行事のあいだはかがり火を焚いて、本座、縁座、三段の行法、八方拝などの品があります。ただし疫塚を建てるのは節分の夜から正月十九日までの間です。(以下、節分の項へ)

二十日
 俗に二十日正月といって、家々ではなますを作り、餅のくずを赤飯にして、神棚、荒神棚などにお供えします。「煮込み」といって、身分に関わらず、前の夜から「幸木」のブリの骨や頭、大根、ごぼうなどを取り混ぜて煮て、この日の珍味とします。(大豆は節分の夜の豆をとっておいて、これを入れます)もし来客があれば、まずこれを出してお祝いするのです。
 ただし婦女子が言うところでは、煮込みはこの月の魚や野菜の切りくずを取り集め、食べものを無駄にしないようにということを、恵比寿神さまの戒めとして昔から伝えているとのこと。また、この日の煮込みは銘々が腰に箸を差して七カ所を回る…すなわち七つの場所で食べると良いと言うのです。ゆえに、近郊の人々で、初めて市中奉公に出て来た者があれば、家の娘たちが集まってそそのかしておき、家の主人の親類縁者のところへ箸を差して行かせたりして、笑い者にします。しかしいまどきの人々はだれも彼も知恵がついてしまっているので、騙される人は百人のうちの一人、二人でしょうか。

 この日をまた、二十日恵美須ともいって、稲佐郷(代官支配地、淵村)の恵美須社へ参詣することもあります。以前は市中の老若男女が小舟を浮かべ、あるいは数十艘の屋形船で、思い思いに遊女などを連れて楽しんでお参りしていたものですが、十七、八年前に、遊女町の出口の船大工町で、悪たれどもが両町の者と口論しはじめ、遊女たちが通行することを差し控えるようになってから、市中からの参詣も衰えました。それから現在に至ったままで、遊女を連れた船もありますが、昔に比べると物の数になりません。いまはただ、信心深い商家の人たちだけが集まります。
 この日も「紋日」として、両町の遊女たちは競って客を迎え、昼も夜も賑わいます。町の人の中には、夜、踊りながら花街に出かける者もいます。

二五~六日
 この日ごろは、特に町々の西国巡礼者たちが出発する日として、いずれも巡礼の歌を唱えながら市中を回り、家々より米を貰うことは、まるで修行者のようです。町の知り合いの男子はみんな、晴れ着を着て列を整え、巡礼に行く人の後に付き、おなじようにご詠歌を唱えます。旅立つ人たちは、この付き添いの者たちが多いほど良く、女の人たちも負けじと衣装を借りてきては、分不相応のおしゃれを尽くして桜馬場(町の東のはずれにあって、日見村に至る道)の八幡社のあたりの茶屋で送るのです。いずれもひとつの町ごとに酒や魚、ごちそういろいろを持ってきて、別れの杯を交わします。以前はこの見送りの帰りに、両馬町(北馬町、南馬町…ひとつの町を、左右で南北に分けています)の通りでは、三味線、太鼓、笛でさまざまな芸を披露し、旅立った人の家で騒いでいたのですが、ご改正(寛政の改革?)のあとは質素を旨とし、それはやや静まっています。

二九日
 この夜は、座頭瞽女の人々が「籠り講」として、諏訪神社の拝殿に集まり、夜を徹して三味線と琴を弾いて神前に手向けます。市中の老若男女でこれをたしなむ人たちは、それぞれに酒や肴を持ってきて、これを聞いて楽しむのです。
(正月、五月、九月にあるようです)

 この月の初めの辰の日には「辰の水」といって、一人が塩田子に塩を入れて屋根に上がり、「辰の水 辰の水 辰の水」と三遍となえて、持っている塩を屋根の棟に打ちます。このまじないをする人は、この年の火の難を逃れるというのですが、すべての家でしているわけでもありません。】(「いまにつながる江戸時代の暮らし「長崎歳時記手帖」 第8回 お正月」)
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川原慶賀の世界(その八) [川原慶賀の世界]

(その八)「川原慶賀の動植物画」(シーボルト・フイッセル:コレクション)周辺

川原慶賀の植物画.png

上図(左から「ムクゲ」「クチナシ」「ナノハナ」「カキツバタ」「スイカ」)
下図(左から「タンポポ」「フクジュソウ」「ケシ」「キリ」「サツキ」)
川原慶賀筆 ライデン国立民族学博物館

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=762&cfcid=115&search_div=kglist

●作品名:ムクゲ
●学名/Scientific name:Hibiscus syriacus
●分類/classification:植物/Plants>アオイ科/Malvaceae
●形状・形態/form:紙本彩色、冊子/painting on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

●作品名:クチナシ
●Title:Common Gardenia
●学名/Scientific name:Gardenia augusta
●分類/classification:植物/Plants>アカネ科/Rubiaceae
●形状・形態/form:紙本彩色、冊子/painting on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

●作品名:ナノハナ
●Title:Rapeseed
●学名/Scientific name:B.rapa var.nippo-oleifera
●分類/classification:植物/Plants>アブラナ科/Brassicaceae
●形状・形態/form:紙本彩色、冊子/painting on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

●作品名:カキツバタ
●学名/Scientific name:Iris laevigata
●分類/classification:植物/Plants>アヤメ科/Iridaceae
●形状・形態/form:紙本彩色、大型冊子/painting on paper, album
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

●作品名:スイカ
●Title:Water melon
●学名/Scientific name:Citrullus lanatu
●分類/classification:植物/Plants>ウリ科/Cucurbitaceae
●形状・形態/form:紙本彩色、冊子/painting on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

●作品名:タンポポ
●Title:Dandelion
●学名/Scientific name:Taraxacum
●分類/classification:植物/Plants>キク科/Asteraceae
●形状・形態/form:紙本彩色、大型冊子/painting on paper, album
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

●作品名:フクジュソウ
●Title:Far East Amur adonis
●学名/Scientific name:Adonis amurensis
●分類/classification:植物/Plants>キンポウゲ科/Ranunculaceae
●形状・形態/form:紙本彩色、大型冊子/painting on paper, album
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

●作品名:ケシ
●Title:Opium poppy
●学名/Scientific name:Papaver somniferum
●分類/classification:植物/Plants>ケシ科/Papaveraceae
●形状・形態/form:紙本彩色、大型冊子/painting on paper, album
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

●作品名:キリ
●Title:Empress Tree, Princess Tree, Foxglove Tree
●学名/Scientific name:Paulownia tomentosa
●分類/classification:植物/Plants>ゴマノハグサ科/Scrophulariaceae
●形状・形態/form:紙本彩色、大型冊子/painting on paper, album
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

●作品名:サツキ
●学名/Scientific name:Rhododendron indicum
●分類/classification:植物/Plants>ツツジ科/Ericaceae
●形状・形態/form:紙本彩色、冊子/painting on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

 これらの「植物図譜」に関して、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』では、次のように解説している。
≪ 慶賀の植物図は5冊のアルバムに収められ、全部で340種を数えることができる。直接的には『日本植物誌』に用いられていないが、シーボルトを満足させた慶賀の植物観察図の力量をうかがうことができる。≫(『同書(主要作品解説)』)

川原慶賀の動物画.png

上図(魚介)(左から「クジラ」「ニホンアシカ」「サケ」「ギンサメ」)
中図(魚介・鳥類)(左から「モクズガニ」「カメ」「ライチョウ」「ミヤコドリ」)
下図(動物)「左から「ウマ」「ウシ」「イヌ」「ネコ」「サル」)

●作品名:クジラ
●Title:Whale
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>クジラ目/Cetacea
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

●作品名:ニホンアシカ
●Title:Japanese Sea Lion
●学名/Scientific name:Zalophus californianus japonicus
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>アシカ科/Otariidae
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

●作品名:サケ
●Title:Impossibe to identify species or genus
●分類/classification:魚類/Animals, Fishes>サケ目/Cetacea
●形状・形態/form:紙本彩色、大型冊子/painting on paper, album
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

●作品名:モクズガニ
●学名/Scientific name:Eriocheir japonicus
●学名(シーボルト命名)/Scientific name(by von Siebold):Grapsus (Eriocheir)
●分類/classification:節足動物/Animals, Arthropods>エビ目/Decapoda
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

●作品名:カメ(イシガメ)、クサガメ
●学名/Scientific name:Chinemys reevesii
●分類/classification:は虫類/Animals, Reptiles>イシガメ科/Geoemydidae
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

●作品名:ライチョウ
●Title:Ptarmigan
●学名/Scientific name:Lagopus mutus
●分類/classification:鳥類/Animal,Birds>キジ目/Galliformes
●形状・形態/form:紙本彩色、冊子/painting on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

●作品名:阿州産 ミヤコドリ
●Title:Eurasian Oystercatcher
●学名/Scientific name:Haematopus ostralegus
●分類/classification:鳥類/Animal,Birds>チドリ目/Charadriiformes
●形状・形態/form:紙本彩色、冊子/painting on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

●作品名:オウマ
●Title:Horse
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>ウマ科/Equidae
●形状・形態/form:紙本彩色、大型冊子/painting on paper, album
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

●作品名:オウシ
●Title:Bull
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>ウシ科/Bovidae
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

●作品名:オイヌ
●Title:Male dog
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>イヌ科/Canidae
●形状・形態/form:紙本彩色、大型冊子/painting on paper, album
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

●作品名:オネコ
●Title:Male cat
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>ネコ科/Felidae
●形状・形態/form:紙本彩色、大型冊子/painting on paper, album
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

●作品名:サル
●Title:Monkey
●分類/classification:動物、ほ乳類/Animals, Mammals>オナガザル科/Cercopithecidae
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

≪ 「魚介」
魚の図は、2冊のアルバムと1枚の紙片に四種類に描かれたものが23枚所蔵されている。このような魚図の大部分は同じライデンの国立自然科学博物館の所蔵に帰しており、これらの図の一部はすでに『シーボルトと日本動物誌』(L.B.Holthuis ・酒井恒共著、1970年、学術出版刊)で紹介されている。これらの図がいかなる事情でしかも慶賀の手で描かれたかについては、シーボルトが日本を去るにあたって、彼の助手ビュルガー(ビュルゲル)に与えた指示(『前掲書301頁)によって分かる。その手紙の文面はシーボルトが慶賀の写実力をいかに高く評価していたかを証しするものであり、本展出品の諸図(上記が一例))もその一端を示すものである。なお、魚名を墨で仮名書きした和紙が各図に貼付されているが、これも慶賀自身の手になるものと推定されている。(兼重護) ≫(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

≪ 「鳥」
 鳥の図はすべてフイッセル・コレクションに属している。絹(紙? 27.5t×42㎝)に描かれ、慶賀の朱印が押されている。鳥類は、鑑賞的傾向が強く、いわゆる花鳥画的趣を呈している。鳥籠の中の鳥図が5点含まれているが、これらは細かい線と入念な彩色により、写実的に写しており、これらが実物の観察に基づいて描かれたであろうことを示している。≫(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

≪ 「動物図譜」
 C&I Honicの透かしのあるオランダ製(ホーニック社製)の紙に著色したもの、横約110㎝、縦約64㎝ の大きな紙も二つ折にして両面(すなわち4頁分)に各頁6頭の動物を描いている(総頭48頭)、日本語めの獣名は貼りこんでものと書きこんだものと両用あるが、ローマ字は全て書きこみで、Oeso(ウソ)、Moesina(ムジナ)など表記されている。≫
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「主要作品解説」)』)

(参考)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-07

≪「シーボルト・コレクションにおける川原慶賀の動植物画と風俗画」(「野藤妙」稿・国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」所収)

はじめに(抜粋)

 川原慶賀(1786?-1860?)は江戸時代後期の長崎の絵師であり、登与助と呼ばれていた。遅くとも文化年間には出島に出入りが許可されており1、出島で勤務していたオランダ商館員の求めに応じて日本の動植物や風俗、風景などの作品を描いた。慶賀の作品を収集したオランダ商館員としては、ヤン・コック・ブロムホフ(Jan Cock Blomhoff)、ヨハン・フレデリック・ファン・オーフェルメール・フィッセル(Johan Frederik vanOvermeer Fisscher)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz vonSiebold)の3名が知られている。
 現存する慶賀の作品の中には、精密な動植物画の他、水墨画や南蘋風の掛け軸などもあり、慶賀がいろいろな技法を用いて作品を描くことができたことがわかる。町絵師である以上、依頼主の注文に応じた作品を描かなければならなかったため、さまざまな技法で描くことができる必要があった。したがって、慶賀の作品を研究する際には、まず依頼主が何を求めていたかを考察しなければならない。それゆえに、本稿ではシーボルトが何を要求したかという点から慶賀が数多く描いた動植物画と風俗画を検討していきたい。

1.シーボルトにおける絵画の重要性(略)
2.慶賀の動植物画(部分抜粋)

 シーボルトの著作の図版は、標本や、日本人の絵師の原画、カレル・ヒュベルト・ドゥ・フィレニューフェ(Carel Hubert de Villeneuve)による原画の他、和本の挿絵などを元に作成された。来日期間中にシーボルトは日本人絵師に描かせるだけでは日本研究を進めるのが難しいと考えた。そこでオランダ東インド総督へ画家の派遣を要請し、1825年にフィレニューフェが来日することとなった。またこの時に、研究の助手としてハインリッヒ・ビュルガー(Heinrich Bürger)も来日した。
 シーボルトは1828年に帰国する予定であったがいわゆるシーボルト事件が起こったため、結局1830年に帰国した。シーボルトが日本を離れた後も、後任のビュルガーは標本等の発送を行い、シーボルトの日本研究に助力した。ブランデンシュタイン城に現存している1831年12月1日に書かれた書簡4は、出島にいるビュルガーからライデンにいるシーボルトへ出されたものである。
 (中略)
 慶賀やフィレニューフェの現存する絵を併せて検討すると、それぞれの描く対象が異なっており、大まかな役割分担がなされていたことが推測される。この役割分担は、シーボルトがオランダ東インド総督に行った報告に添付された「1823年から1828年の間に日本で作成された記述類一覧」中の「絵図」項目の

39 日本人の肖像12点:デ・フィレニューフェ氏制作
40 日本のもっとも注意すべき若干の哺乳動物図:デ・フィレニューフェ氏制作
41 若干の爬虫類および哺乳動物の骨格図:デ・フィレニューフェ氏
42 若干の魚類および海中棲息生物の写生:日本人絵師登与助制作
43  日本植物、あるいは約60個の注目すべき日本植物図:日本人絵師登与助制作。輸送と荷卸しはデ・フィレニューフェ氏による
という記述とも合致する。

 (中略)

 シーボルトは、慶賀が動植物画を描く場合、その動植物が分類学上どのように分類されるのかがわかるように、正確に特徴をとらえ、生きているそのままの色を表現することを求めた。慶賀はこの要求に沿って、例えば海老などの甲殻類の殻の凹凸を表現するために細かく描くなどして、シーボルトの要求に応えるように努力した。先行研究でも言及されている通り、シーボルト・コレクションの慶賀の動物画と、シーボルト以前に来日したブロムホフ・コレクションの動物画とを比べると、死ぬと縮んでしまう魚の背びれや尾ひれがピンと張って描かれるようになり、鱗の数なども正確に描かれ、図鑑の挿絵として使えるように技術が向上していることがわかる。
 慶賀の絵の上達は、植物画においても同様に見られる。シーボルト・コレクションの慶賀の植物画を、ブロムホフ・コレクションと比較すると、ブロムホフ・コレクションでは、植物が色鮮やかに描かれているが、花や葉の形を見ると正確さに欠けている。シーボルト・コレクションでは、色に濃淡があり、繊細に塗られているほか、植物の解剖図が描かれている。  
 シーボルトがヨーロッパの植物学の分野において本を出版しようとするとき、ブロムホフ・コレクションのような絵では不十分である。植物の同定をするためには、花や葉の形が正確に描かれていることはもちろん、解剖図が描かれている必要があった。慶賀はシーボルトやフィレニューフェから指導を受け、その結果、図鑑の挿絵として活用できるような絵を描けるようになった。

3.慶賀の風俗画(部分抜粋)

 シーボルト・コレクションの風俗画のほとんどはオランダ政府によって購入され、ライデン国立民族学博物館に所蔵されている。慶賀が描いた風俗画の画題の中でも、人が生まれ結婚し、死去するまでを23場面で描いた《人の一生》という画題の作品群に注目する。
《人の一生》について、ここでは簡潔に結果を述べたい《人の一生》は、5セット現存している。シーボルト以前に来日したフィッセルが3セット、シーボルトが1セット持ち帰っており、その他に収集者が不明のものがもう1セットある。
 フィッセルが収集し、現在ライデン国立民族学博物館に所蔵されている《人の一生》を①とする。1832年にオランダ国王ウィレム1世によって購入されたフィッセル・コレクションの中にこの作品も含まれていた。絹に描かれており、サイズは、30㎝×45㎝程度である。この①の最大の特徴は慶賀の落款が押されている点である。落款は縦横1㎝×1㎝程度の大きさで、黒枠の内側や外側などに見られ、多くは右下に押されている。
  (中略)
 シーボルト・コレクションの風俗画で慶賀の落款が押されているものは、60㎝×80㎝程度の比較的大判の絵や掛け軸、さらには朝鮮の人々を描いた絵などのブロムホフやフィッセルのコレクションには含まれていない絵である。一方、慶賀の落款が押されていないものは、ブロムホフやフィッセルとの画題の重複が見られるものが多い。そのような作品の中には、《人の一生》のように、慶賀が直接描くのではなく、同じ工房で働く他の絵師たちによって作成された作品も含まれている。

おわりに

 本稿では、シーボルトが収集した慶賀の動物画と風俗画を併せて検討を行った。動物画に関しては、慶賀に描かせるようにとビュルガーに指示しており、ビュルガーもシーボルトの忠告を守り慶賀に描かせている。そうさせたのは、標本にすると失われてしまう動物の色をきちんと表現させることが重要であったからである。慶賀はシーボルトの要求に、精密な絵を描くことで応えた。その一方で、風俗画に関しては、ブロムホフ、フィッセルとの画題の重複が見られ、そのような作品の中には細部の正確さに欠けるものも含まれている。
 『日本植物誌』や『日本動物誌』の図版は一流の画家が作成しているのに対し『日本』の図版では費用の問題もあり、二流の画家を使っていることが先行研究によって指摘されている。このことからも、動植物画と風俗画ではシーボルトの意図が異なっていたことが推測される。注文主であるシーボルトが絵を重視していた植物、動物に慶賀も力点を置いていたと言えよう。風俗画については、シーボルトは、どう描かれているかということ以上に何が描かれているか、つまり細部の正確さよりも内容が重要で、動植物画ほどの精密さは求めていなかったと考えられる。シーボルトから大量の絵を注文された慶賀は、自分にしか描くことのできない動植物画を自ら描き、同じ画題の風俗画については、他の絵師などにトレースさせた絵を提供した。≫
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川原慶賀の世界(その七) [川原慶賀の世界]

(その七)「人の一生」(プロムホフ・フイッセル・シーボルト:コレクション)周辺

プロムホフ・シーボルトコレクション《人の一生》「誕生」.png
左図:プロムホフ・コレクション≪人の一生≫「誕生」(「人の一生画巻」・川原慶賀筆)
右図:シーボルト・コレクション≪人の一生≫「誕生」(シーボルトコレクションの《人の一生》は唯一23場面が全て揃っている。そのトップの場面。但し、「慶賀」の落款無。「川原慶賀筆?」)

フイッセル・シーボルトコレクション《人の一生》「寺院での葬式」.png
左図:フイッセル・コレクション≪人の一生≫「寺院での葬式」(「慶賀」の落款有。「川原慶賀筆」。23場面のうち「誕生」が欠落している。)
右図:シーボルト・コレクション≪人の一生≫「葬列の迎え」(シーボルトコレクションの《人の一生》23場面の22番目の場面。「慶賀」の落款無。「川原慶賀筆?」)

 上記の「左図」(プロムホフ・コレクション≪人の一生≫「誕生」)と「右図」(シーボルト・コレクション≪人の一生≫「誕生」)とを比較して鑑賞すると、「左図」は「着帯」の場面で、「右図」は「産湯と着帯」との場面で、これは、左の家では「産湯」、そして、隣の右の家では「着帯」の場面と、そのアレンジの妙が伝わってくる。
 次の「左図」(フイッセル・コレクション≪人の一生≫「寺院での葬式」)に対して、「右図」(シーボルト・コレクション≪人の一生≫「葬列の迎え」)の場面で、同じ、寺院のスナップなのだが、この「右図」の、中央の「位牌」の「戒名」が「酔酒玄吐……居士」などと書いてあり、「慶賀(慶賀工房)」の「洒落・遊びの精神」が随所に見受けられる(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「主要作品解説」)』・西武美術館刊)とか、この種の≪人の一生≫ものでは、下記の「④シーボルト・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》④)→「慶賀」の落款無」が、一番妙味があるような趣である。

 ここで、「川原慶賀・川原慶賀工房」作とされている「人の一生」と題するシリーズものは、「プロムホフ・フイッセル・シーボルト」の各コレクションが、ライデン国立民族学博物館所蔵となっている。
 そして、『「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作―野藤妙・宮崎克則(西南学院大学国際文化学部)』(九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 12, 1-20, 2014)では、さらに、「フイッセル・コレクション」は全部で三種類、蒐集者不明のもの一種類で、合計して六種類(プロムホフ・コレクションは「画巻」、その他「めくり」)のものを取り上げ(プロムホフ・コレクションの「画巻」は補足)、下記の「①フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》①)→「慶賀」の落款有」のみ、「川原慶賀筆」としている。そして、補足的に「プロムホフ・コレクションの『画巻』」を取り上げ、これも「川原慶賀筆」としている。
 その上で、唯一23場面が全て揃っている「④シーボルト・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》④)→「慶賀」の落款無」と「①フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》①)→「慶賀」の落款有」とを基準として、「人の一生」シリーズの全場面について、詳細な論及をしている。

①フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》①)→「慶賀」の落款有
②フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》②)→「慶賀」の落款無
③フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》③)→「慶賀」の落款無
④シーボルト・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》④)→「慶賀」の落款無
⑤収集者不明《人の一生》(以下、《人の一生》⑤)→「慶賀」の落款無

(参考)『「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作―野藤妙・宮崎克則(西南学院大学国際文化学部)』(九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 12, 1-20, 2014)所収「巻末図《人の一生》①(フィッセル・コレクション、その(1)のみシーボルト・コレクション、ライデン国立民族学博物館所蔵)」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-22

(上記のアドレスの記述を一部改変している。)

(1)誕生.jpg
(1)誕生 ④シーボルト・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》④)→「慶賀」の落款無)→ 「慶賀」筆(?)

洗礼・命名.jpg
(2)洗礼・命名(略) 以下、「(3)洗礼・命名)~(23)墓参り」は、①フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》)→「慶賀」の落款有。「慶賀」筆。

(3)洗礼・命名(略) 
(4)子どもの衣装替え(略) 
(5)男性の宿命(略) 
(6)交際(略)

(9)花嫁の贈り物.jpg
(9)花嫁の贈り物 
(7)結婚の準備(略)
(8)両親の同意(略)

(10)結婚の行列.jpg
(10)結婚の行列
(11)祝宴の準備(略)
(12)結婚式(略) 
(13)両親への敬意 
(14)病気と老齢

(15)死去.jpg
(15)死去
(16)湯灌(略)
(17)葬式の注文(略)
(18)墓掘(略)
(19)忌中の家の浄化(略)

(20)葬式.jpg
(20)葬式
(21)聖職者による埋葬と祈り(略)
(22)寺院での葬式(略)
(23)墓参り(略)

 上記の全図などは、『「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作―野藤妙・宮崎克則(西南学院大学国際文化学部)』(九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 12, 1-20, 2014)所収「巻末図《人の一生》①(フィッセル・コレクション、(1)のみシーボルト・コレクション、ライデン国立民族学博物館所蔵)」→ 下記論稿の「2. 5セットの《人の一生》(一部抜粋)」に詳述されている。
↑ 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-22

≪『「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作―野藤妙・宮崎克則(西南学院大学国際文化学部)』(九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 12, 1-20, 2014)

はじめに(抜粋)

 本稿は、川原慶賀(1786?-1860?)が描いたとされる《人の一生》に注目し、絵の制作過程について検討したものである。
 川原慶賀、通称登与助は江戸時代後期の長崎の絵師である。正確な生没年は不明であるが、遺された作品から1786年生まれとされている。「出島出入絵師」または「出島絵師」として出島に出入りし、来日したオランダ商館員の求めに応じて日本のひと動植物や風俗、風景を描いた。
 出島に出入りし始めた時期や経緯については判明していないが、少なくとも文化年間には出島に出入りしていたと考えられる。慶賀の絵を収集したオランダ商館員としては、商館長ブロムホフ(Jan Cock Blomhoff: 1779-1853 来日1809-1813, 1817-1823)、商館員フィッセル(Johan Frederik van Overmeer Fisscher: 1800-1848 来日1820-1829)、商館医シーボルト(PhilippFranz von Siebold:1796-1866 来日1823-1830)が知られている。
 慶賀の絵とされている絵の多くは、オランダ商館員によって持ち帰られたため、海外に現存する点数は数百点にものぼり、主にオランダやドイツ、ロシアに所蔵されている。慶賀作とされている絵の中には慶賀一人で制作したとは考えがたい絵も含まれており、先行研究においても山梨絵美子氏、原田博二氏、永松実氏によって慶賀の手によるものと他の絵師のものがあることが言及されている。特に、本稿で検討課題とした《人の一生》については、原田博二氏によってライデン国立民族学博物館と長崎歴史文化博物館所蔵、さらに個人蔵のものについて詳細な検討がなされており、複数人の分業により制作した、とされている。
 また、山梨絵美子氏はサンクトペテルブルクにあるクンストカーメラに所蔵されている《人の一生》について検討しており、慶賀の弟子のものではないか、と述べている。しかし、これまでの研究では、具体的にどのような方法で他の絵師と絵を制作していたのか、ということについてわかっていない。
そこでフィッセルやシーボルトらによって収集された5セットの《人の一生》の作品群に注目し、慶賀がその他の絵師とどのようにして作品を制作していたのかについて検討を行う。

1. 背景           (略)
2. 5セットの《人の一生》  (一部抜粋) 

①フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》①とする)→「慶賀」の落款有

所蔵先・収集者
 フィッセルによって収集された《人の一生》は3セットあると言われている。そのうちの1セットはその他のフィッセルのコレクションとともに1832年、オランダ国王ウィレム1世によって購入され、現在はライデン国立民族学博物館に所蔵されている。

サイズ・材質
 めくりで、サイズは1点1点異なるが、たとえば「死去」の場面のタテ×ヨコは30.4cm×44.5cmであり、その他の21点もほぼ同一サイズである。フィッセルコレクションの《人の一生》は全て絹に描かれている。

制作年
 フィッセルの日本滞在時期から1820年から1829年の間に描かれたと考えられる。ただし、前述の日本収集品目録の序文には、「1822年に行われた皇帝の都への参府(※筆者注:江戸参府)と、とくに大変重要な地位にいて、しかも教養のある数人の日本人との非常に親しい関係は、私にいろいろな品物の宝を集めるきっかけを与えてくれた。」11と述べていることから、収集された時期は1822から1829年の間である可能性が高い。

特色
 このフィッセル・コレクション《人の一生》①の最大の特徴は、唯一「慶賀」の落款が押されている点である。フィッセル・コレクションの《人の一生》のうち、ライデン国立民族学博物館にあることから、前述のフィッセル手書きの日本収集品目録に記述されている《人の一生》は、このセットを指すと考えられる。この《人の一生》には22場面が遺されているが、フィッセルの手書き目録には23場面の説明があることから、現在はない「誕生」の場面も、描かれた当時には存在していたことがわかる。さらに、黒枠が貼られていて確認できないものもあるが、このセットには漢数字で番号が記されており、その番号はフィッセルの目録における《人の一生》の1から23の番号と一致する。

②フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》②)(略)→「慶賀」の落款無
③フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》③)(略)→「慶賀」の落款無

④シーボルト・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》④)→「慶賀」の落款無

所蔵先・収集者
 ライデン国立民族学博物館には他にシーボルトによって収集された《人の一生》が所蔵されている。
 
形態・サイズ・材質
 めくりであり、「死去」の場面はタテ×ヨコ31.5cm×44.3cmの大きさで、この《人の一生》④のセットの他の作品もほぼ同じサイズで描かれている。絹本着色である。

制作年
 シーボルトの来日期間から、1823年から1829年の間に描かれたと考えられる。シーボルトは「私の日本滞在の最初の二、三年は自然科学関係のコレクションを収集することと、日本の文学を研究することだけに集中したが、その後、1826年の江戸参府のときに民族学的なものにも興味が移り、この分野の総合的なコレクションを開始した」と述べているため1826年以降に収した可能性もある。
 
特色
 シーボルトコレクションの《人の一生》は唯一23場面が全て揃っている。

⑤収集者不明《人の一生》(以下、《人の一生》⑤)(略)→「慶賀」の落款無

3. 《人の一生》の手本    (略)
4. 《人の一生》の制作    (一部抜粋)

ブロムホフ・コレクション《人の一生》「誕生」.jpg

ブロムホフ・コレクション《人の一生》「誕生」(ライデン国立民族学博物館所蔵)

 最後に補足として、もう一つの《人の一生》について言及しておきたい。フィッセルやシーボルトが《人の一生》を収集するよりも前にブロムホフは《人の一生》を収集している。ブロムホフが収集した《人の一生》の詳細については以下の通りである。

所蔵先・収集者
 ブロムホフによって収集された《人の一生》はライデン国立民族学博物館に所蔵されている。ブロムホフは第1回目の出島滞在時、慶賀の作品を1816年に創設された王立骨董陳列室に送っている。また、オランダ国王ウィレム1世はブロムホフ・コレクションを、1824年に購入している。そのいずれかの際にこの《人の一生》は王立骨董陳列室へ所蔵されることになったと考えられる。
 
形態・サイズ・材質
 現在は折本形式のアルバムに仕立て直されているが、元の形を復元すると、本来は絵巻であったことがわかる。アルバムの表紙のサイズはタテ×ヨコ29.5cm×41.0cmである。和紙に描かれており、洋紙で裏打ちされている。裏打ちの紙にはすかしがあり、オランダのHonig en Zoon社18の紙であることがわかる。この洋紙は出島のオランダ商館で使用されていた紙であるため、日本で仕立て直されたのではないか、との指摘がある19。アルバムの裏表紙内側にオランダ王室御用達の製本所のマークがあり、日本で裏打ちされたものをオランダで製本したと考えられる。
 
制作年
 ブロムホフの日本滞在時期から、1809年から1812年、1816年から1823年の間に制作されたと考えられる。
 
特色
 ブロムホフ・コレクションの《人の一生》には、各場面の説明が書かれたオランダ語のメモが貼り付けられている。ブロムホフ・コレクションには、その他にも大工の道具を描いたものや、オランダ商館員の行列、狩りの行列、寺社を描いたものがある。そのうち、職人の道具を描いた作品とオランダ商館員を描いた作品は、墨でオランダ語が書かれていることからも、ブロムホフの依頼によってオランダ通詞が作品にメモを書いていたのであろうと考えられる。また、それらの作品はいずれももともと絵巻であったものを折本へ仕立て直している。ヨーロッパの人びとにとっては、絵巻は見づらかったのであろう。

おわりに(抜粋)
 本稿における《人の一生》5セットの考察により、フィッセル・コレクションで慶賀の落款を持つセット(《人の一生》①)のみが慶賀の作品であり、それ以外のセット(《人の一生》②~⑤)は慶賀以外の絵師によって描かれたことが判明した。
 慶賀以外の絵師の存在に関しては、フィッセルが著書の中で「この芸術家がいかに器用で経験にとんでいるとしても、この仕事を単独でなしとげることは不可能である。そこでその目的のために、その家僕や弟子が使用される」と述べており、先行研究においてもすでに言及されている。しかし、具体的にどのようにして他の絵師と作品を制作していたのか、ということに関しては具体的に明らかではなかった。
 《人の一生》5セットを比較検討することで、今まで不明瞭であった慶賀とその他の絵師による制作が、雛形をトレースすることによって行われていたことが明らかとなった。さらに、それぞれのセットを別の絵師が担当していることから、少なくとも4人以上の絵師とともにこれらの作品を制作していたと言えよう。現在確認している慶賀の作品のうち、フィッセル・コレクションの作品の大半には慶賀の落款が押されている。
 一方、シーボルト・コレクションでは慶賀の落款が押されている作品のほとんどは、比較的大きい作品であり十数点程度である。またそれ以外ではコマロフ植物研究所にある植物図譜があげられる。慶賀による植物、動物図はシーボルトが出版した図鑑で活用されており、慶賀には精密に描くことが求められたと考えられる。一方、今回とりあげた《人の一生》のような風俗などを描いた作品を見ると、フィッセルのコレクションとの重複が目立ち、慶賀以外の絵師の作品と思われる作品が多い。
 シーボルトは日本の風俗を描いた作品に関して、フィッセルのコレクションを参考に慶賀に注文を行った。シーボルトより様々な作品の注文を受けた慶賀は、自分にしか描くことのできない植物や動物の絵は自分で描き、それ以外の、これまでの注文と重複する画題の絵は他の絵師に描かせたのであろう。そのようにして慶賀は、オランダ商館員の絵画需要を満たしていたのである。≫
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川原慶賀の世界(その六) [川原慶賀の世界]

(その六)「若き日のシーボルト先生とその従僕図」周辺

若き日のシーボルト先生とその従僕図.jpg

●作品名:若き日のシーボルト先生とその従僕図(川原慶賀筆)
●Title:Ph.Fr.von・Siebold of a Young Dayして
●分類/classification:阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:紙本彩色、掛幅装/painting on paper,hanging scroll
●所蔵館:長崎歴史文化博物館 Nagasaki Museum of History and Culture

 ここで、「ヘンドリック・ドゥーフ」(1777~1835)、「ヤン・コック・ブロンホフ」(1779~1853)、「ヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセル」( 1800-1848)、そして、「フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト」(1796~1866)と「川原慶賀」(1786?~1860)との「関連年表」を記すと次のとおりとなる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-09

≪ 156代(148代)、ヘンドリック・ドゥーフ(1803年11月14日-1817年12月6日)
著書『ドゥーフ日本回想録』 永積洋子訳 <第3期新異国叢書10> 雄松堂出版 2003年
ドゥーフ.jpg

ドゥーフ肖像画/長崎市立博物館蔵
ヘンドリック・ドゥーフ(1777~1835)
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0311/index1.html

※喜多川歌麿(53)没(1802)
※※1811年(文化8)川原慶賀当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。
※歌川豊春(80)没(文化11年=1814)
※鳥居清長(64)没(文化12年=1815)
※山東京伝(前・北尾政演、64)没(文化13年=1816)

157代(149代)、ヤン・コック・ブロンホフ(1817年12月6日-1823年11月20日)

ヤン・コック・ブロンホフ.jpg

「出島ホームページ」)
ヤン・コック・ブロンホフ(1779~1853)
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/dejimasyoukan/dejimasyoukan.html

※司馬江漢(72)没・伊能忠敬(74)没(文化15年=1818)
※※1820年(文政3)シーボルト、ヴュルツブ、ルク大学を卒業(24歳)
※大田南畝(75)没(文政3年=1820)

※※1822年(文政5)シーボルト、オランダの陸軍外科少佐になる(26歳)
※式亭三馬(47)没・亜欧田田善(75)没(文政5=1822)

フィッセル.jpg

(「出島ホームページ」)
ヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセル( 1800-1848)=『日本風俗備考』
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/dejimasyoukan/dejimasyoukan.html

158代(150代)、ヨハン・ウィレム・デ・スチューレル(1823年11月20日-1826年8月5日)
※※1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳)

シーボルト.jpg

(「出島ホームページ」)=一回目の来日時のシーボルト
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(1796~1866)=『日本』『日本動物誌』『日本植物誌』
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/dejimasyoukan/dejimasyoukan.html

※※慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く。
※※1824年(文政7)シーボルト、「鳴滝塾」をひらく(28歳)
※※1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳)
※※慶賀はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く。
※亀田鵬斎(75)没(文政9=1826)
※小林一茶(65)没(文政10=1826)  ≫

 この「関連年譜」の、最後に掲載した「シーボルト肖像画」は、次の川原慶賀作のものである。

シーボルト肖像画(川原慶賀筆).jpg

●作品名:シーボルト肖像画(川原慶賀筆)
●Title:Portrait of Von Siebold
●分類/classification:阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:紙本彩色、額装/painting on paper, with amount
●所蔵館:長崎歴史文化博物館 Nagasaki Museum of History and Culture
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3722&cfcid=164&search_div=kglist

 この「シーボルト肖像画(川原慶賀筆)」は、慶賀に「西洋画」技法を教示した、次の「シーボルト肖像画(デ・フィレニューフェ筆)」を写したものである。

シーボルト肖像画(デ・フィレニューフェ筆).jpg

シーボルト肖像画(デ・フィレニューフェ筆) サイズ size 19cm (「長崎歴史文化博物館」蔵)
http://www.nmhc.jp/museumInet/prh/colArtAndHisGet.do?command=view&number=67915
≪ 解説
 文政8年(1825)オランダ商館員として出島に来て、シーボルトの研究助手、画家として働いたデ・フィレニューフェによって描かれた若きシーボルトの肖像画である。
 「著・デ・フェレニウヘ〔C,H,De Villeneuve〕成・文政一〇年。内・出島蘭館医師であったシーボルトの肖像画。筆者デ・フェレニウヘは文政八年に長崎に来たオランダ商館員。当時二五歳であったという。シーボルトの日本研究の助手兼画家として働き、シーボルト帰国後も出島に残り、随員筆者として商館長の江戸参府に同行した。つやのある洋紙に油彩で、シーボルトの礼服姿上半身を描いている。画中に筆者のサインが“CH:d:V,Japan.1827”とある。後に川原慶賀がこの肖像画を写している。一面七×七センチ。彩色。額入り。(『長崎県の郷土史料』p・94」 ≫(「長崎歴史文化博物館」)

 川原慶賀が、名実共に、「石崎融思・石崎融思工房(その筆頭格の絵師=川原慶賀)から「川原慶賀・川原慶賀工房」へと脱皮するのは、「1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳)。慶賀は十歳上なので(37歳)」の頃と解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-04

≪「シーボルト・川原慶賀」関連年表
https://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/828000/p009222.html
(「川原慶賀」関連=「ウィキペディア」)

※1786年(天明6)川原慶賀生まれる(長崎の今下町=現・長崎市築町)。
1796年(寛政8)2月17日、シーボルト、ドイツのヴュルツブルクに生まれる
※1811年(文化8)川原慶賀当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。
1820年(文政3)シーボルト、ヴュルツブ、ルク大学を卒業(24歳)
1822年(文政5)シーボルト、オランダの陸軍外科少佐になる(26歳)
1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳)
※慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く。
1824年(文政7)シーボルト、「鳴滝塾」をひらく(28歳)
1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳)
※慶賀はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く。
1827年(文政10)シーボルト、娘いね生まれる(31歳)
1828年(文政11)「シーボルト事件」おこる(32歳)
※シーボルト事件に際しては多数の絵図を提供した慶賀も長崎奉行所で取り調べられ、叱責される。
1829年(文政12)シーボルト国外追放になる(33歳)
※シーボルトの後任のハインリヒ・ビュルゲルの指示を受け、同様の動植物画、写生図を描く。
1832年(天保3)シーボルト、「日本」刊行はじまる(36歳)
1833年(天保4)シーボルト、「日本動物誌」刊行はじまる(37歳)
1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる(39歳)
※1836(天保7)『慶賀写真草』という植物図譜を著す。
※1842(天保13)オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れた。これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受ける。
※1846(弘化3)長崎を追放されていた慶賀は、長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである脇岬(現・長崎市脇岬町)に向かい、脇岬観音寺に残る天井絵150枚のうち5枚に慶賀の落款があり、50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる。また、この頃から別姓「田口」を使い始める。その後の消息はほとんど不明で、正確な没年や墓も判っていない。ただし嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画が残っていること、出島の日常風景を描いた唐蘭館図(出島蘭館絵巻とも)は開国後に描かれていること、慶賀の落款がある万延元年(1860年)作と推定される絵が残っていることなどから少なくとも75歳までは生きたとされている。一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)。
1859年(安政6)シーボルト再び長崎に来る(63歳)
1861年(文久元)シーボルト、幕府から江戸に招かれる(65歳)
1862年(文久2)シーボルト、日本をはなれる(66歳)
1866年(慶応2)10月18日、シーボルト、ドイツのミュンヘンで亡くなる(70歳≫
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川原慶賀の世界(その五) [川原慶賀の世界]

川原慶賀の世界(その五)
(その五)「ドゥーフ像」と「プロムホフ家族図」周辺

ドゥーフ像.jpg

「ドゥーフ像」(川原慶賀作か?) 江戸時代、享和3年〜文化14年/1803年〜1817年
紙本著色 35.0×23.0(額の外寸) 1面 (「神戸市立博物館」蔵)
款記「Hendrik Doeff Junior Opperhofd van ao1803 Tot Ao」
来歴:長崎川島友一→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/456559
≪解説
ヘンドリック・ドゥーフ(1777~1835)は、享和3年(1803)に荷倉役から商館長となり、文化14年(1817)の離日まで14年間商館長を勤めました。当時の西洋人の肖像画にありがちな日本人臭を感じさせない本図は、ドゥーフの容貌をかなり正確に伝えていると思われます。諸色売込人(しょしきうりこみにん)川島家の旧蔵品です。繊細な青貝細工を施した漆器製の額には「Hendrik Doeff Junior Opperhofd van ao1803 Tot Ao」と、商館長就任期間の最後をあけて銘が記されています。制作動機は、商館長就任の記念、あるいは、文化6年に商館長居宅で催された日蘭友好200年記念パーティーと推察されますが、確定にはいたりません。池長蒐集当時より作者は川原慶賀に帰属されますが、落款がなく、制作時期と連動する問題でもあり、検討の余地があります。≫(「文化遺産オンライン」)

「長崎港図・ブロンホフ家族図」のうちの「ブロンホフ家族図」.jpg

「長崎港図・ブロンホフ家族図」のうちの「ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆)
江戸時代、文政元年以降/1818年以降 絹本著色 69.0×85.5 1基2図
題記「De Opregte Aftekening van het opper hoofd f:cock BIomhoff, Zyn vrouw en kind, die in Ao1818 al hier aan gekomen Zyn,」
来歴:(シーボルト→長崎奉行所?)→北川某→1931池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・神戸市立博物館特別展『日本絵画のひみつ』図録 2011
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008
・神戸市立博物館特別展『絵図と風景』図録 2000
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455049
≪解説
 衝立の両面に、19世紀に長崎の鳥瞰図と、オランダ商館長コック・ブロンホフとその家族の肖像が描かれています。この衝立は、作者の川原慶賀(1786-?)がシーボルトに贈呈したものの、文政11年(1828)のシーボルト事件に際して長崎奉行所によって没収されたという伝承があります。その後長崎奉行の侍医・北川家に伝来した。昭和6年(1931)に池長孟が購入しました。
現在のJR長崎駅付近の上空に視座を設定して、19世紀の長崎とその港の景観を俯瞰しています。画面左中央あたりに当時の長崎の中心部、唐人屋敷・出島・長崎奉行所が描かれ、それをとりまく市街地の様子も克明に描かれています。
 この衝立の片面に描かれているブロンホフ家族図には、慶賀の款印(欧文印「Toyoskij」と帽子形の印「慶賀」)が見られる。コック・ブロンホフは文化6年(1809)に荷倉役として来日。文化10年のイギリスによる出島奪還計画に際し、その折衝にバタビアへ赴き、捕らえられイギリスへ送られたました。英蘭講和後、ドゥーフ後任の商館長に任命され、文化14年に妻子らを伴って再来日。家族同伴の在留は長崎奉行から許可されず、前商館長のヘンドリック・ドゥーフに託して妻子らはオランダ本国に送還されることになりました。この話は長崎の人々の関心を呼び、本図をはじめとする多くの絵画や版画として描かれました。≫
(「文化遺産オンライン」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-04

川原慶賀「長崎港ずブロンホフ家族図」.jpg

「長崎港図・ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆)
江戸時代、文政元年以降/1818年以降 絹本著色 69.0×85.5 1基2図

阿蘭陀加比丹並妻子之図・ブロンホフ家族図.jpg

●作品名:阿蘭陀加比丹並妻子之図・ブロンホフ家族図(川原慶賀筆)
●Title:Bromhoff's family
●分類/classification:阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:絹本彩色、額装/painting on silk, with amount(縦18.3,横124.6,)
●所蔵館:東京大学総合図書館 General Library, The University of Tokyo
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3506&cfcid=164&search_div=kglist

 『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』(長崎新聞新書)では、この「長崎港図・ブロンホフ家族図」の「ブロンホフ家族図」(「神戸市立博物館」蔵)と「阿蘭陀加比丹並妻子之図・ブロンホフ家族図」(「東京大学総合図書館」蔵)とについて、前者(神戸本)は「実写あるいはそれに近い条件の下に描かれ、それをもとに本図(後者・東大本)が制作された」としている(『兼重・同書』p106)。
 そして、後者(東大本)は、それが所蔵されている箱の内書に「文政元戌寅歳阿蘭陀加比丹妻子等召連肥州長崎江着船候 珍敷儀付於公辺人物写茂被仰候由 而右写絵図一枚御出入大通辞末永甚左衛門より指上候事」があることを紹介している。  
 この「阿蘭陀加比丹並妻子之図・ブロンホフ家族図」(「東京大学総合図書館」蔵)は、「シーボルトの21世紀」(東京大学コレクションXVI)にも展示され、その「シーボルトの21世紀」展 展示品一覧」の「解説」は、次のとおりである。

http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/2003Siebold21/index.html

≪12 阿蘭陀加比丹并妻子之図
紙本彩色,文政元年(1818),縦18.3,横124.6,木箱入り,東京大学附属図書館蔵.

ブロムホフ家族図は,文化14年(1817)に出島商館長として来日したブロムホフの一家を描いている.当時,西洋婦人の上陸は許されず,妻子は前館長ヅーフ(Hendrik Doeff)とともにオランダに帰国した.
 箱書きによると,商館長ヤン・コック・ブロムホフ(Jan Cock Blomhoff)39歳,妻デッタベル・フスマ31歳,倅ヨハンネス・コック・ブロムホフ2歳,乳母プレトルネルラ・ミュンツ23歳,下女マラテイ33歳が描かれており,この図は幕府からの指示で,一家の絵を描かせ,大通辞の末永甚左衛門が提出したとある.
 文政20年(1823)ブロムホフは6年間にわたる任期を終えて長崎を去り,新しい商館長ステューレルと医官シーボルトが着任する.(T)≫「シーボルトの21世紀」(東京大学コレクションXVI)

 この「阿蘭陀加比丹並妻子之図・ブロンホフ家族図」(「東京大学総合図書館」蔵)が描かれたのが「文政元年(1818)」とすると、川原慶賀が、三十一・二歳の頃で、「文政三年(一八二〇)」の「長崎奉行から江戸町奉行に転任する筒井和泉守政憲」に同行して「阿蘭陀芝居図巻」などを描いた三年前ということになる。

「ブロンホフ家族図」石崎融思筆.jpg

「ブロンホフ家族図」石崎融思筆 (1768-1846) 日本画 / 江戸 江戸時代、文化14年/1817年 紙本著色 90.0×28.1 1幅 神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/402831
≪画中人名・朱書「Tetta ber hsma 蛮酋(カピタン)妻テッタベルフスマ/Johannes Cok Blomhoff 子ヨハネス・コック・ブロンホフ/Maraty 下女厶アラテイ/Pretorra Muts 乳母プルトラミュッツ」款記「文化丁丑秋照写於蛮酋館長崎賞鑒家石崎融思」白文方印「融思字士斎」朱文方印「鳳嶺」
来歴:長崎、吉村善三郎→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008 ≫(「文化遺産オンライン」)

ブロンホフ家族図(川原慶賀筆?).jpg

●作品名:ブロンホフ家族図(川原慶賀筆?)
●Title:Bromhoff's family
●分類/classification:阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:紙本彩色、軸/painting on paper,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

 『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』(長崎新聞新書)では、上記の「ブロンホフ家族図」(石崎融思筆)と、「ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆「神戸市立博物館」蔵)・「阿蘭陀加比丹並妻子之図・ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆「東京大学総合図書館」蔵)とを比較して、「一八一七(文化一四)出島オランダ商館長としてヤン・コック・ブロンホフとその家族が渡来し、融思、慶賀ともにその家族図を描いている。融思はあきらかに家族一人一人(夫人、幼児、乳母、召使)を記録的に写し取っている。それに対し慶賀は、後述するように、記録性というよりも鑑賞画的性格の強い家族の肖像を描いている。この時点での融思と慶賀の接触はあきらかであるが、このとき慶賀三二歳、融思五〇歳であった」と記述している(『兼重・同書』p93-94)。

 しかし、それだけではなく、川原慶賀は、この時に、上記の「ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆?「ライデン国立民族学博物館」蔵)のとおり、記録性を重視した、その「ブロンホフ家族図」(石崎融思筆)を、融思が書いたと思われる落款(画中の「人名」など)を含めて、一枚の「ブロンホフ家族図」に仕立てているようなのである。

ブロンホフ家族図(石崎融思?).gif

●作品名:ブロンホフ家族図(石崎融思筆?)
●Title:Bromhoff's family
●分類/classification:阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1714&cfcid=164&search_div=kglist

 この「ブロンホフ家族図」(「ライデン国立民族学博物館」蔵)には、「ブロンホフ家族図」(「神戸市立博物館」蔵)や「阿蘭陀加比丹並妻子之図・ブロンホフ家族図」(「東京大学総合図書館」蔵)に描かれている「ブロンホフ」その人は描かれておらず、その左端の落款の「戌寅秋月 石崎融思 (?)写」と印章など、その詳細は不明であるが、これは「川原慶賀」作ではなく、「石崎融思」作(?=謹・敬・照・無・?)、そして、この「戌寅秋月」(「文政元年=1818」の「秋・月」の候)の、「慶賀=三一~三二歳、融思=四九歳~五〇歳」の頃は、これらの作品は、「川原慶賀・川原慶賀工房」作というよりも、「石崎融思・石崎融思工房(その筆頭格の絵師=川原慶賀)」作と解するのが一番しっくりするような印象を深くする。
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川原慶賀の世界(その四) [川原慶賀の世界]

(その四)「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」周辺

舞台正面図・黒船館.jpg

Title:Play at Dejima
●分類/classification:阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:紙本彩色、巻子/painting on paper, scroll
●所蔵館:黒船館 Kurofune Museum
●登録番号/registration No.:20070306-1
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3507&cfcid=164&search_div=kglist

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-12

≪「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」(第1図―舞台の正面図)
「第一図は、全体から見ると、単純なものだが、オランダ国旗が大きく描かれていたり、香盤が赤い炎を吹きあげている光景は、かなり観客の注意を引いただろうし、舞台の異国情調に魂をうばわれたことであろう。」≫

出島俄芝居図 性急者-1.jpg

●作品名:出島俄芝居図 性急者-1
●Title:Play at Dejima, Opera
●分類/classification:阿蘭陀商館・阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:紙本着色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:アムステルダム市立公文書館 Amsterdam City Archive
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3102&cfcid=146&search_div=kglist
(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」「第2図―ポルカムプ邸の屋内の図」。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-12

「第二図(葉)から第四図(葉)までは、「性急者」(De Ongeduldige)の芝居の場景を描いたものである。この芝居の登場人物たちは、左記(下記)のとおりである。

[役柄]    [役者名]
性急者ダアモン…オーフルメール・フィッセル(文政三年[一八二○]の夏来日した一等書記)
ラウレウル(ダアモンの従者)…ルイス・エリッセ・フィッセル(文政二年[一八一九]度からいる二等書記)
フロンティン(ダアモンの下男)…フレデリック・クレメンス・バウエル(文政二年[一八一九]度からいる書記)
ボルカンプ(金貸し)…パレラス・ディック(文政三年[一八二○]の夏来日した台所係)
ユリア(ボルカンプの娘)…ヘルマヌス・スミット(文政二年[一八一九]度からいる書記)
ノターリス(裁判所の書記)…デロイトル(文政三年[一八一一○]の夏来日した小役)

出島俄芝居図 性急者-2.jpg

●作品名:出島俄芝居図 性急者-2
(以下「Title・分類・形状・形態・所蔵館・アドレス」など上記に同じ)
(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」「第3図―ボルカムプ邸の屋内の図。下袖と上袖に`書きもの机'が二つ置かれている。」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-12

「第三図。第三葉の舞台の図柄は、第二図とほとんど変らないが、舞台中央の奥にあるドアの左右にあった椅子が姿を消し、代わって下袖と上袖に書きもの机(色は左が青、右が緑色)が二つ置かれている。下袖の机にむかって叔父(裁判官)宛の手紙を書いているのはダアモン、そのうしろにいるのがダアモンの下男フロンティン、そして帽子を手にし立っている男が裁判所の書記である。」

出島俄芝居図 性急者-3.jpg

●作品名:出島俄芝居図 性急者-3
(以下「Title・分類・形状・形態・所蔵館・アドレス」など上記に同じ)
(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」「第4図―ボルカムプ邸の屋内の図。登場人物が5名描かれている。」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-12

「第四図。第四葉の舞台の図柄は、第三図と同じである。が、登場人物が五名描かれている。正面にむかって左からダアモン、裁判所の書記、絵描き、ユリア、ボルカムプである。ボルカムプは、身を乗りだすようにして手紙を読んでいる。」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-12

「性急者」のつぎに上演された出し物は、「二人の猟師とミルク売り娘」である。

二人猟師乳汁娘1・黒船館.jpg

●作品名:阿蘭陀芝居図巻、二人猟師乳汁娘(二人の猟師とミルク売り娘)1
●Title:Play at Dejima
●分類/classification:阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:紙本彩色、巻子/painting on paper, scroll
●所蔵館:黒船館 Kurofune Museum
●登録番号/registration No.:20070306-5
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3511&cfcid=164&search_div=kglist

「第五図。舞台のほぼ中央に、何の木だかわからないが立木の”切出し”(板などを切り抜き、彩色したもの)が見られる。そのうしろに薄い灰青色のように思われるヨ―ロッパの教会の尖塔と円形の木立(黄緑色)、さらにピンク色の壁をもつ、わらぶき屋根の小屋が描かれている。下袖の”鏡”(屏風式の立ての道具)には、異国風の樹木(ヤシの木か)と動物や鳥などが描かれている。正面の切出しの前でむき合って話をしているのは、猟師ギリョットと娘ペルレッテである。」

この芝居の登場人物たちは、左記(下記)のとおりである。

[役柄] [役者名]
猟師ギリョット(仏・ギョ)…オーフルメール・フィッセル(文政三年[一八二○]の夏来日した一等書記)
同コラス(仏・コラ)…ルイス・エリッセ・フィッセル(文政二一年[一八一九]度からいる二等書記)
牛乳売り娘ペルレッテ(仏・ペルレット)…ヘルマヌス・スミット(文政二年[一八一九]度からいる書記)
騎士タンケレート…オーフルメール・フィッセル(二役)
士卒…フレデリック・クレメンス・バウエル(文政二年[一八一九]度からいる書記)
同.…一番船小役シイモン
同. …在留小役スミツト
同. …同 デウィルデ
娘ペルレッテの父……デイキ(ディック、文政三年[一八二一○]の夏来日した者)

出島俄芝居図 二人猟師乳汁売娘-2.jpg

●作品名:出島俄芝居図 二人猟師乳汁売娘(二人の猟師とミルク売り娘)-2
●Title:Play at Dejima, Opera
●分類/classification:阿蘭陀商館・阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:紙本着色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:アムステルダム市立公文書館 Amsterdam City Archive
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3104&cfcid=146&search_div=kglist
「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」(第6図一失神した猟師. ラスとその体をかぎまわっている熊。)

「第六図。舞台の背景は、第五図とおなじであるが、正面の立木の切出しのうえにギリョットがおり、木の根元ちかくに失神した男コラスがいる。そして、その体をかぎまわっている熊(赤い大きな舌を出している)などが細密に描かれている。」

出島俄芝居図 二人猟師乳汁売娘-3.jpg

●作品名:出島俄芝居図 二人猟師乳汁売娘(二人の猟師とミルク売り娘)-3
(以下「Title・分類・形状・形態・所蔵館・アドレス」など上記に同じ)
「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」(第7図一ペルレッテの父に許しを請うているタンケレートとその部下の図。)

「第七図。舞台の背景は、第六図とほぼおなじである。が、正面にむかって右の袖に何やら小枝のようなものが見られ、またその近くにロケットが大き目に描かれている。左肩に赤いたすきをかけ、腰に緑色の幅広の帯をまき、手に槍をもった士卒が六名、士官が一名描かれている。黒い上着を着、真紅のパンタロンをはき、黒衣の老人の前で身をかがめているのはタンケレート。老人のうしろで黒い上着と赤いシャツを着、銃を一眉にかけ、腰に刀をさし灰色のズボンをはいているのは猟師のコラスである。そしてその脇に立っているのは娘ペルレッテである。彼女は濃紺の上着に、真紅のスカートをはき、さらに長い黒い前掛をかけている。このさいどの場面の絵は、派手やかな色どりで描写されている。」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-12

(再掲)

「 出島の館員らによる、この『阿蘭陀芝居』は、次の四回に亘っている。
 
一八二〇年九月一七日(文政三年閏庚辰八月十一日)
一八二一〇年一〇月一三日(同九月七日)
一八二〇年一〇月二〇日(同九月十四日)
一八二〇年一〇月二二日(同九月十六日)      」

 「当時、出島の商館長であったヤン・コック・ブロンホフの日記によると、第二回目の上演のとき、長崎奉行・筒井和泉守政憲(まさのり)は、「一人の画家を(今日の一行に)同行させてあったが、その画家は、将軍に送るために、俳優たち、舞台、ならびに様々な動作のすべてをスケッチした」という。「一人の画家」(een shcilder)とは、川原慶賀であったことは間違いないようだ。この記述通りであるとすると、長崎奉行は慶賀に芝居の様子をスケッチさせ、それをあとで将軍家への献上品とするつもりであった。絵師は役者の動きをその場で精密に描き、すぐ着色することは不可能であろうから、おそらく慶賀は芝居を見ながら、すばやく筆で下絵の素描画をたくさん描き、あとでそれを紙面に細密に写しとり、彩色を施したものと考えられる。」

 「何部つくったものか明らかでないが、献上用に一部、私物用に一部、さらにオランダ人用に川原工房の絵師らに何部か模写させたものか。のちに世間に姿をみせ、道具屋の手に渡った作品は、幕府への献上品ではなく、慶賀が個人用にもっていた作品であったものか。」

 「長崎奉行から江戸町奉行に転任する筒井和泉守政憲や筒井の長崎着任後、江戸からやって来た間宮筑前守信與ら両名を招いて、素人芝居をみせたには理由がある。出島は文化六年(一八〇九)から同十四年(一八一七)までの九ヵ年、ヨーロッパ動乱の余波をうけて蘭船の入港なく、商館長ドゥ―フおよび館貝はこの間窮乏生活を強いられていた。一八一五年(文化十二年)六月、ナポレオンはワーテルローの戦で大敗し、セント・ヘレナ島に流刑になったのち、ヨーロッパに平和が訪れた。文化十四年(一八一七)七月、新たに出島の商館長としてヤン・コック・ブロンホフが来日すると、ドウーフと交代した。ブロンホフは着任後、日蘭貿易が途絶していた空白期間中の損失をうめ足す必要を痛感した。オランダ側がいちばん欲していたのは銅(竿銅)である。筒井が長崎に着任したのは、ブロンホフが来日した文化十四年十月のことであるが、幕府は文政元年(一八一八)から同三年(一八二〇)まで、毎年輸出銅の増額(定額三○万斤を九○万斤)を認めた。文政三年十月、筒井は任期みちて間宮と交代して帰府する折、オランダ側は筒井らの厚意に感謝する意味で素人芝居をみせたのである。」(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について(宮永孝稿)」(「法政大学学術機関リポジトリ」)

 ここに出てくる、「文政三年(一八二〇)」、川原慶賀、天明六年(一七八六)生まれとすると、慶賀、三十四・五歳の頃、「長崎奉行から江戸町奉行に転任する筒井和泉守政憲」の、その「一人の画家を(今日の一行に)同行させてあったが、その画家は、将軍に送るために、俳優たち、舞台、ならびに様々な動作のすべてをスケッチした」という。「一人の画家」(een shcilder)とは、川原慶賀であったことは間違いないようだ」と、「出島出入り絵師・川原慶賀(通称は「登与助(とよすけ)」)の、これは、デビュー作品ともいうべきものとなってくる。

 ここで、「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について(宮永孝稿)」(「法政大学学術機関リポジトリ」)の、その末尾の「注3」に記載されている「町絵師川原慶賀の伝記」は、次のとおりである。

≪ 「町絵師川原慶賀の伝記」
町絵師川原慶賀の伝記については分らぬことが多い。生没年もはっきりしないが、天明六年(一七八六)の生れであるらしく、父香山も絵事を善くしたという(古賀十二郎「長崎絵画全史」北光書房、昭和19.8)。

 通称「登与助」といい、諱は種美、号は聴月楼といった。はじめ氏を川原といい、のち田口に変えた(氷見徳太郎「川原慶賀に就て(上)」(「国華」六八七号、昭和249.6)。

 文政六年(一八二三)八月、出島の医官シーボルトが来日すると、今下町に住む慶賀は、その画業をシーボルトに見出され、出島出入りの絵師となるのだが、かれは写生に長じ動・植物、人物、風俗、肖像、風景画などを描いた。来舶のオランダ人の中には慶賀の絵を求める者が多かったという(黒田源次「長崎系洋画』創元社、昭和7.4)。

 同九年(一八二六)正月、シーボルトとともに江戸参府に従い、シーボルトが採取した植物を写生したり、各地の風俗風景などを描いたり、地図、地形図を作成した(林源吉「町絵師慶賀」(『長崎談叢』第十一号所収、昭和7.12)。

 文政十一年(一八二八)八月九日の夜から翌十日の夕刻まで、長崎を襲った台風は出島の諸所を破壊したばかりか(「甲子夜話」「増補長崎略史年表」)、シーポルトの荷を積んだ船が稲佐の海岸に打ち寄せられ、このとき国禁品(葵紋服、日本地図など)の数々が露見した。  
 任期満ちて帰国寸前のシーボルトは帰国を禁じられた(「シーボルト事件」)。慶賀はこのとき事件に連座し処罰された。参府のとき、シーボルトのために「薬草絵図」などを描いたことが糾弾され、同年十二月末に入牢し、翌十二年正月末に出牢し、町預けとなった(「長崎奉行所犯科帳[第百七])。

 謹慎中の慶賀は絵筆をやすめず、相変らず作画に従事していたが、西役所を写し、港内警備を担当していた細川藩、鍋島藩の番船の幕にその紋章をあずかり描いたために天保十三(一八四二)九月預を命じられ、のち手鎖預り、十一月には江戸・長崎払を申し渡された。 
 その後、慶賀は故郷を離れ他郷に身を置かざるをえなくなった。が、いつの頃かふたたび故郷に舞いもどり、酒屋町四十七番地に住し、名を田口と変えた。

 弘化のころ(一八四○年代)、慶賀の子・登七郎(号は”盧谷”、嫁のおとしは江戸生まれ)は、今下町で版画や銅版画を作り、これを売り出していたらししいい。万延元年(一八六○)に慶賀は七十五歳であったことはたしかであるが、その後亡くなったものらしい。が、没年月日、法号、墓石もわかっていない。

 いずれにせよ、慶賀はじつに見事な数々の細密画を描いたが、シーボルトはその巧みなる力量を高く評価していた。「かれの絵画数百は余の著書(『日本』l引用者)の中に掲げられて彼の功績を語るなり」(呉秀三『シーボルト先生その生涯及び功業3』東洋文庫昭和52.2)。 ≫(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について(宮永孝稿)」・「法政大学学術機関リポジトリ」)

 もう一人、「阿蘭陀芝居巻」の主役を演じた「ヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセル(Johan Frederik van OvermeerFisscher, 1799‐1848)」についても、ここに再掲をして置きたい。

フィッセル.jpg

(「出島ホームページ」)
ヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセル( 1800-1848)

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/dejimasyoukan/dejimasyoukan.html

≪ オランダのハルデルウェクに生まれる。1820年出島に商館員として赴任。9年間出島に滞在し、1822年にはブロンホフの江戸参府に随行し、絵画や大工道具などをコレクションした。帰国後、豊富な収集品や日本での経験に基づき『日本風俗誌』を著した。1820年ブロンホフが長崎奉行や役人を招待して上演した芝居の中心人物としても知られる。
 オランダ、ハルダーワイク生まれ。フィッシャーは1820年にオランダ東インド会社の従業員として出島に到着し、9年間出島に滞在しました。1822年(文政5年)、ブロムホフに続いて江戸の首都を訪れ、絵画や大工の道具などのコレクションを作った。
帰国後、日本で蓄積した豊富なコレクションと経験をもとに、日本のマナーや習慣を解説した『日本風俗備考(原書名・「日本国の知識への寄与」)』を執筆。彼はまた、ブロムホフが1820年に長崎の治安判事と政府関係者を招待して上演した演劇の重要人物としても有名です。≫

 この『日本風俗備考(原書名・「日本国の知識への寄与」)』の執筆者として知られている「フィッセル」が、出島に初来日にしたのも、この「阿蘭陀芝居」が演じられた「文政三年(1820)なのである。
 即ち、「川原慶賀(通称「登与助」)とフィッセル」との出会いも、この「文政三年(1820)
の「阿蘭陀芝居」で幕開けしたのであろう。
 これら「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について(宮永孝稿)」(「法政大学学術機関リポジトリ」の、その論稿の目次は次のとおりである。
 
≪ はじめに
一 さまよえる「阿蘭芝居巻」(川原慶賀筆)
二 オランダ芝居の上演
三 オランダ芝居の素材
四 「阿蘭芝居巻」の中味について
五 登場人物たちの衣装
六 オランダ芝居が上演された場所
七 舞台の構造について
八 オランダ芝居の筋書に関する日本側文献
九 オランダ芝居に関係ある蘭人の名刺
あとがき      ≫(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について(宮永孝稿)」・「法政大学学術機関リポジトリ」)

川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻.gif

川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」(「黒船館」蔵)
(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について(宮永孝稿)」・「法政大学学術機関リポジトリ」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-12

≪この「川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻』は、「巻子(巻き軸で巻いたもの)仕立ての絵(27.5㎝×36.3㎝)が七枚描かれている」。「慶賀がこの絵巻をつくった年代は定かでないが、おそらく江戸後期—芝居が上演された文政三年庚辰年(一八二○年)のことであろう。時に、慶賀は三十五歳であった。その三年後の文政六年(一八二三年)にシーボルトが来日し、かれはそのお抱え絵師となるのである」。
 「オランダ芝居を描いたこの絵巻は、アムステルダムの公文書館やネーデルラント演劇研究所にもあることから考えて、複数模写されたものであろう」。
 「黒船館」所蔵のものは、上記図のとおり、その形態は「巻物」であるが、「アムステルダム市立公文書館」所蔵のものは、「めくり(未表装)」とあり、額装にはなっていない「未表装」の「一枚もの」として保存しているように思われる。「ネーデルラント演劇研究所」ものも、その「めくり(未表装)」ものなのかどうか、それらは定かではない。≫
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川原慶賀の世界(その三) [川原慶賀の世界]

(その三)川原慶賀画「紅毛接吻図」周辺

紅毛接吻図.jpg

「紅毛接吻図」(川原慶賀画) 秋田平野政吉美術館蔵
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3502&cfcid=164&search_div=kglist

●作品名:紅毛人接吻之図
●Title:Man who urges kiss for woman
●分類/classification:阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:絹本彩色、軸装/painting on silk,hanging scroll
●所蔵館:平野政吉美術館  Hirano Msakichi Art-Museum
●登録番号/registration No.:30016

 『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』(長崎新聞新書)では、この「紅毛接吻図」(川原慶賀画)の原画となったものを、「三点のボアイ版画のうち」(「大英博物館」蔵)の、「おやめなさい!」(Finissez donc!)、「しかめ面」(Les Grimaces)および「賭博場からの退場」(La Sortie d’une Maison de Jeu)というタイトルのついた版画のうちの、「おやめなさい!」(Finissez donc!)であろうとしている(『同書p113』)。

小さな乞食.jpg 

タイトル: The Little Beggar → 小さな乞食(物乞い野郎)
作成者: Louis Léopold Boilly|Delpech → ルイ=レオポルド・ボワイー
作成日: 1826
実際のサイズ: Sheet: 12 5/8 x 9 5/16 in. (32 x 23.7 cm) Image: 7 5/16 x 6 7/8 in. (18.5 x 17.5 cm)
タイプ: Print
外部リンク: http://www.metmuseum.org/art/collection/search/394904
媒体/技法: Lithograph with hand-coloring
Repository: Metropolitan Museum of Art, New York, N →「メトロポリタン美術館」蔵
https://artsandculture.google.com/asset/the-little-beggar-louis-l%C3%A9opold-boilly-delpech/tQH4WaugVrGREA?hl=ja

噴水(盗み見).gif

タイトル: The Fountain → 噴水(盗み見)
作成者: Louis Léopold Boilly|Jules Boilly|Delpech → ルイ=レオポルド・ボワイー
作成日: 1826
実際のサイズ: Sheet: 8 3/4 x 12 3/8 in. (22.3 x 31.5 cm) Image: 6 3/8 x 8 1/16 in. (16.2 x 20.5 cm)
タイプ: Print
外部リンク: http://www.metmuseum.org/art/collection/search/394780
媒体/技法: Lithograph
Repository: Metropolitan Museum of Art, New York, NY→「メトロポリタン美術館」蔵
https://artsandculture.google.com/asset/the-fountain-louis-l%C3%A9opold-boilly-jules-boilly-delpech/SAFCY6KXKcrMng?hl=ja

アーティストの4つの自画像.gif

タイトル: Vier zelfportretten van de kunstenaar → アーティストの4つの自画像
作成者: Boilly, Louis-Léopold → ルイ=レオポルド・ボワイー
作成日: 1832
実際のサイズ: papier
Rijksmuseum → アムステルダム国立美術館蔵
https://artsandculture.google.com/asset/vier-zelfportretten-van-de-kunstenaar-boilly-louis-l%C3%A9opold/hwEpfzmW2uTooA?hl=ja

 先の『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』(長崎新聞新書)で紹介されている、「おやめなさい!」(Finissez donc!)、「しかめ面」(Les Grimaces)および「賭博場からの退場」(La Sortie d’une Maison de Jeu)だけではなく、例えば、上記の、「小さな乞食(物乞い野郎)」、「噴水(盗み見)」そして「アーティストの4つの自画像」(「ルイ=レオポルド・ボワイー」の自画像か?)なども参考にしているような印象を強くする。
 特に、この「アーティストの4つの自画像」(「ルイ=レオポルド・ボワイー」の自画像か?)の、右側の「自画像(左向き)」は、「紅毛接吻図」(川原慶賀画)の右側の「眼鏡をかけた人物像」と何やら同じよう雰囲気を醸し出している。
 これらの「原画」(「ルイ=レオポルド・ボワイー」作 )との関連は、この程度にして、この「紅毛接吻図」(川原慶賀画)の所蔵館の「秋田平野政吉美術館」に注目したい。ここには、藤田嗣治の傑作作品の一つの大作「秋田の行事」が所蔵されている。

秋田の行事.jpg

「秋田の行事」 藤田嗣治画 1937(昭和12)年 油彩・キャンバス 365.0×2050.0cm

《 秋田市の商人町・外町に関わる祝祭と日常が描かれた壁画である。画面右から日吉八幡神社の秋の例祭、太平山三吉神社の春の梵天奉納祭、夏の竿灯、冬の日常風景が展開する。米俵、油井、材木、酒樽は秋田の農業、鉱業、林業、醸造業を表し、祝祭と日常の境界の橋が古代からの秋田の歴史を暗示する。藤田と秋田市の資産家・平野政吉が構想した美術館のため「秋田の全貌」というテーマで制作された。 》(「平野政吉美術財団」)

≪「平野政吉と藤田嗣治」
 平野政吉(1895(明治28)年-1989(平成元)年)は資産家・平野家の三代目として秋田市大町一丁目に生まれました。若い頃から浮世絵や骨董を収集し、さらに刀剣、陶器、仏画、洋画、彫刻へと収集のジャンルを広げました。
 藤田嗣治(1886(明治19)年-1968(昭和43)年)は東京府牛込区(現在の新宿区)で生まれ、東京美術学校を卒業後、1913(大正2)年に渡仏します。1920年代のパリにおいて「乳白色の裸婦像」で一躍画壇の寵児となり、画家としての地位を確立しました。 1931(昭和6)年にはパリを離れ、約2年間、中南米を巡遊します。帰国後は、二科会員として作品を発表し、東京、大阪、京都などで壁画を制作しました。
 平野と日本滞在中の藤田は、1934(昭和9)年秋、東京の二科展の会場で出会います。その5年前の1929年(昭和4年)秋、平野は藤田が一時帰国した折の個展を観覧し、その作品に惹きつけられていました。
 1936(昭和11)年6月、藤田の妻マドレーヌが急死。平野と藤田は、秋田にマドレーヌ鎮魂の美術館を建設することを合意しました。美術館への展示を目的に、藤田は、作品を多数平野に譲渡します。美術館の設計のために秋田入りした藤田は、「秋田の全貌」をテーマに壁画を制作することを表明。1937(昭和12)年3月、平野がアトリエとして提供した米蔵で、壁画《秋田の行事》を制作しました。しかし、平野と藤田が構想した美術館建設は戦時下、中止を余儀なくされます。
 壁画制作から30年が経過した1967(昭和42)年5月、平野と藤田が夢見た美術館は秋田県との連携のもと秋田県立美術館として開館します。この開館に先立ち、平野は自らの収集品を基本財産とする財団法人平野政吉美術館を設立しました。そして《秋田の行事》をはじめとする1930年代の藤田作品を、同館において公開したのです。≫(「平野政吉美術財団」)

http://www.pic-hiranofound.jp/collection.html

 さらに、この「秋田平野政吉美術館」には、日本の「初期洋風画」の下記のような、それぞれの作家の一面を如実に伝えている作品群が目白押しなのである。

≪「日本初期洋風画 72件」

沈南蘋「花鳥図」 絹本着色 106.6×142cm
宋紫石「花鳥図」 絹本着色 114.5×37.5cm
宋紫石「花鳥図」 絹本着色 114.8×37.9cm
小田野直武「秋菊図」 絹本着色 103×32cm
佐竹曙山「竹に椿」 絹本着色 70×27.2cm
藤氏憲承「小禽椿花図」 紙本着色 126.8×51.7cm
藤氏憲承「牡丹図」 絹本着色 127.5×19.9cm
石川大浪「乱入図」 絹本着色 46.3×67cm
安田雷洲「危嶂懸泉」 絹本着色 129.4×56.8cm
司馬江漢「両国橋図」 紙本銅板筆彩 25×38cm
司馬江漢「不忍之池」 紙本銅板筆彩 25.8×37.8cm
石崎融思「紅毛鳩図(黒)」 紙本着色 26.5×39.5cm
石崎融思「紅毛鳩図(白)」 紙本着色 27.3×39.5cm
川原慶賀「紅毛人接吻之図」 絹本着色 79.5×39.6cm
川原慶賀「唐館騒動図」 紙本着色 38.5×26.5cm  ≫(「平野政吉美術財団」)

http://www.pic-hiranofound.jp/basic.html#japanworks
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川原慶賀の世界(その二) [川原慶賀の世界]

(その二)川原慶賀画「瀉血手術図」周辺

瀉血手術図.jpg

「瀉血手術図」(川原慶賀画)長崎県美術館蔵  江戸後期 紙本着色 87.0×50.0 
≪ 浜松市の医師で自由律俳句の作者として知られ、民藝運動にも参加した内田六郎氏のコレクションのひとつである。内田氏は美術品の収集家として、主に長崎版画とガラス絵に熱心で、自身で書籍も出版するほか、何度か展示会へ出品していたことが記録されている。その後、長崎関係のものは長崎県立美術博物館へ寄贈、その他のものは浜松市美術館へ寄贈され現在に至る。
 本図は、西洋人医師が外科手術をしている場面を描いたもので、その主題の特異性、リアルな表現といい、長崎の洋風画の典型的なものである。図中の病人の顔が最も目立つが、これはフランス石版画家ボアリーのシリーズ「しかめ面」の中の一人物の顔をそのまま借用したものである。苦痛を忍ぶ患者の表現に西洋の版画を利用したところに慶賀の着眼点の卓抜さが窺える。なお潟血手術とは高血圧や脳溢血の治療として静脈より血を抜く手術である。≫(「長崎県美術館」解説)  

しかめ面2.gif

図17 しかめ面2 (大英博物館所蔵 「シーボルトと町絵師慶賀」より転載)
「長崎遊学手記―貴宝・紅夷外科宗伝を訪ねて― 福田格稿」(「Untitled - 東京有明医療大」所収)
http://www.nagasaki-museum.jp/museumInet/coa/colGetByArt.do;jsessionid=8E16A537FB6219DE18E7FFB37CA0459B?command=view&number=60269
≪ シーボルトが瀉血をする様を川原慶賀が描いた有名な絵がある。一説によるとシーボルトが商館員に瀉血する時に見た光景を的確に表現した絵として紹介されていたが、兼重護氏の研究によればこの頃、川原慶賀はボアイ版画(原画は大英博物館蔵)にひかれていたらしく、人間感情の表現法を研究していたらしい。「しかめ面2」(図17)の表情を瀉血の傷みをこらえる表情に当てはめて仕上がったのが「瀉血手術図」(図18=上記の「長崎美術館蔵」の作品)のようだ。≫(「長崎遊学手記―貴宝・紅夷外科宗伝を訪ねて― 福田格稿」)

 「しかめ面」という題は、次の「Grimaces (Les Grimaces)」に由来があるようである。この「しかめ面」は、連作の「Consultation des Médécins」(「医師の診察」)の一つのスナップと解すると、「瀉血手術図」(川原慶賀画)の背景が浮き彫りになってくる。
そして、この「瀉血手術図」の外科医師を「シーボルト」、患者の後ろの帽子を被った男は、これを描いた「出島出入りの絵師・川原慶賀」に「西洋(ヨーロッパ)画法」を伝達した「フィレニューフェ(CARL HUBERT DEVILLENEUVE)」、そして、中央の、この患者を、この時の「江戸参府」の「書記(実体的にはシーボルトの万般の助手)・ビュルガー(ビュルゲル)」と見立てると、当時の川原慶賀を巡る人物像が一堂に会することになる。

「しかめ面」.gif

Grimaces (Les Grimaces) → 「しかめ面」
ルイ=レオポルド・ボワイーlate 18th century - early 19th century
https://artsandculture.google.com/asset/grimaces-les-grimaces-louis-l%C3%A9opold-boilly/iAGaEvx_PxfASw?hl=ja

「医師の診察」.jpg

Consultation des Médécins → 「医師の診察」
ルイ=レオポルド・ボワイー1823
https://artsandculture.google.com/asset/consultation-des-m%C3%A9d%C3%A9cins-louis-l%C3%A9opold-boilly/FQGVoUgbNzRX4Q?hl=ja

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-24

デ・フィレニューフェ夫妻図.jpg

「デ・フィレニューフェ夫妻図」石崎融思画(1768年~1846年) 絹本着色 50.5×33.4
長崎県立美術館蔵

シイボルト觀劇圖并シイボルト自筆人參圖.jpg

「シイボルト觀劇圖并シイボルト自筆人參圖」(「国立国会図書館デジタルコレクション)
[江戸後期] [写] 1軸 <特1-3288>
左側の人物=「外科医師・シーボルト、中央の人物=「カピタン(オランダ商館長)・スチュルレル」、右側の人物=「書記(実体的にはシーボルトの万般の助手)・ビュルガー(ビュルゲル)」

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川原慶賀の世界(その一) [川原慶賀の世界]

(その一)川原慶賀画「洋人絵画鑑賞図」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-22

(再掲)

川原慶賀「洋人絵画鑑賞図」.jpg

「洋人絵画鑑賞図」(川原慶賀画)
https://yuagariart.com/uag/nagasaki13/

【 「シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀」
文政6年、オランダ東インド政庁の商館付医師として長崎出島に赴任したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)は、日本の門人に西洋医学などを教授するとともに、日本に関する総合的な調査研究を行なった。当時「出島出入絵師」の権利を得て出島に出入していた町絵師・川原慶賀は、シーボルトにその画才を見出され、シーボルトが日本に滞在していた約6年間、お抱え絵師として日本の風俗や動植物の写生画を描いた。この間、シーボルトがジャワから呼び寄せたオランダ人画家フィレネーフェに洋画法を学んでいる。また、シーボルトの江戸参府にも随行し、日本の風景、風俗、諸職、生活用具、動植物などの写生図を描くなど、シーボルトの日本調査に協力した。多量の写生図はシーボルトにより持ち帰られ、オランダのライデン国立民族学博物館に伝わっている。

  川原慶賀(1786-不明)

 天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。 
 25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日たシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。
また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。

  川原慮谷(不明-1872)

 川原慶賀の子。通称は登七郎、字は張六。のちに姓を田中に改め、通称を富作とした。写生を得意とし、西洋画風を巧みに用いた。弘化の頃、今下町で長崎版画や銅版画を作って販売していたとみられる。明治5年死去した。

  田口慮慶(不明-不明)

 絵事をよくし、特に肖像画を得意とした。慶賀、慮谷の一族とみられる。  】(「UAG美術家研究所」)

 この「洋人絵画鑑賞図」については、『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』では、「蘭人絵画鑑賞図」のネーミングで、こxれは、「ボアイの原画は、”Les a mateurs de tableaux”(絵画愛好者たち)とタイトルの付いた淡彩のリトグラフである」と紹介している(p110)
この「ボアイの原画」が、「ボアイのリトグラフ発見 出島町の庭見せで初公開」というタイトルで、下記のアドレスの「長崎新聞」の記事が紹介されている。

https://news.line.me/issue/oa-nagasaki/76c8bcf3fc39

≪ 江戸時代に活躍した長崎・出島の出入(でいり)絵師で、日本の風景や動植物などを描いた川原慶賀に影響を及ぼしたフランスの画家、版画家のルイ・レオポルド・ボアイ(1761~1845年)のリトグラフ「絵画愛好者たち」(縦29・7センチ、横21センチ)が見つかった。今年の長崎くんちの踊町の一つ、出島町の3日の庭見せで初公開される。長崎大名誉教授で慶賀に詳しい兼重護氏(82)は「日本で見たことがなく珍しい」としている。

絵画愛好者たち.jpg

フランスの画家、版画家のルイ・レオポルド・ボアイ(1761~1845年)のリトグラフ「絵画愛好者たち」(縦29・7センチ、横21センチ)

 慶賀はこの作品を参考にし、「蘭人絵画鑑賞図」と題した作品を制作したとみられる。ボアイの作品は、額縁に入った絵をのぞき込む女性1人、男性5人のさまざまな表情が戯画的に淡彩で描かれている。一方、慶賀はこの構図をほぼ忠実に模写しているが、濃厚な色彩で描いている。

 兼重氏の著書「シーボルトと町絵師慶賀」(長崎新聞新書)などによると、ボアイは版画家として石版画であるリトグラフを100点以上制作。「絵画愛好者たち」は1825年、「蘭人絵画鑑賞図」は20年代後半に制作されたという。慶賀はほかにも、ボアイの作品「しかめ面」に影響され、西欧の版画の顔面描写の特異性に着目した作品も描いており、慶賀が鋭い感覚と技術を持ち合わせていたことを示しているという。

 リトグラフは、出島を30年以上研究している長崎市歴史民俗資料館(同市平野町)の学芸員、永松実氏(67)が今年4月、東京都内の古書店で発見し、購入した。
 庭見せでは、このリトグラフを、出島町とゆかりのある慶賀の関連資料として出島の乙名詰所(おとなつめしょ)に飾る。ほかにも出島町の演(だ)し物「阿蘭陀(おらんだ)船」のモデルとなった図説や、出島と西欧の貿易品など約20点を歴史資料として併せて展示する予定。永松氏は「実際に見て、出島の歴史に思いをはせてほしい」と来場を呼び掛けている。≫

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変顔(1824年) ルイ=レオポルド・ボワイー
≪ルイ=レオポルド・ボワイー(フランス語: Louis-Léopold Boilly [bwɑji]、1761年7月5日 - 1845年1月4日)とは、フランスの画家。主に肖像画を中心に絵画を描き、中流貴族の生活などを題材とした絵を描いた。彼はフランス王国時代から7月王政の時代まで絵を描き続けた。
(作風)
おもに人物画を描く。対象を実物そっくりに仕上げる写実主義であり、フランス・ファン・ミーリスやヘラルト・ドウなどのオランダ絵画の影響もうけている。
(人生)
ノール県のラ・バセ(英語版)で彫刻家の息子として生まれた。幼いころから芸術に秀でており、独学で絵画を学び、12、3歳頃から作品を作り始めた。1774年にドゥエーを訪れた際に聖アウグスチノ会士に自作の絵を見せたところその才能が認められ、その三年後アラスに移りトロンプ・ルイユをいくつか製作した。
 フランス革命が勃発した時には公安委員会に不埒な絵画を描いたとして逮捕されるも愛国的な作品を制作したためジャン=ポール・マラーによって釈放される。また、ナポレオン時代の1803年にはサロン・ド・パリでメダルを授与される。1833年にはレジオンドヌール勲章グラントフィシエを受章する。
(家族)
マリー・マドレーヌ・デリンヌと1787年に結婚しており、三人の男児を儲けた。長男にジュリアン・レオポルド・ボワイー(フランス語版)(1796年 - 1874年)、次男にエドゥアール・ボワイー(1799年 - 1854年)、三男にアルフォンス・レオポルド・ボワイー(1801年 - 1867年)が居り、いずれも父と同じ画家となった。また、アルフォンスは渡米し、彫刻家としても作品を遺した。

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箱 ルイ=レオポルド・ボワイー

(メモ)この「箱」と題する「百顔百相」の人物像が、「絵画愛好者たち」「変顔(変な顔)」等々に戯画風に描かれている。 ≫(「ウィキペディア」)

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