SSブログ

「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十七)「服部嵐雪」(その周辺)

嵐雪肖像一.jpg

「服部嵐雪/小栗寛令筆」(『國文学名家肖像集』)(「ウィキペディア」)
『国文学名家肖像集(48/101)』(書誌情報:著者・永井如雲 編/出版者・博美社/出版年月日・昭14)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1120068/1/48
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/ransetu.htm
≪ 生年月日不詳。下級武士服部喜太夫高治の長男として江戸湯島に生まれる。新左衛門。下級武士として一時は禄を食んだが貞亨3年仕官の道を諦めて俳諧師に転身。貞亨4年春宗匠として立机。若いころは相当な不良青年で悪所通いは日常茶飯事であったようである。
 蕉門入門は古く、嵐雪21歳頃、蕉門では最古参の一人。芭蕉は、嵐雪の才能を高く評価し元禄5年3月3日の桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称え、「両の手に桃と桜や草の餅」と詠んだりした程であった。しかし、それより以前から師弟間には軋みが発生していたらしく、芭蕉の奥州行脚にも嵐雪は送別吟を贈っていないなど風波は激しかったようである。
 元禄7年10月22日、嵐雪は江戸にあってはじめて師の訃報を聞いた。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開いたばかりでなく、桃隣と一緒に膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下にかくねむるらん雪仏」であった。いずれ才能ある人々の師弟関係であったために、暗闘や角逐もあったのだが、相互に強い信頼関係もまたあったのである。
(嵐雪の代表作)
布団着て寝たる姿や東山 (『枕屏風』)
梅一輪いちりんほどの暖かさ (『遠のく』)
名月や煙はひ行く水の上 (『萩の露』)
庵の夜もみじかくなりぬすこしづゝ (『あら野』)
かくれ家やよめ菜の中に残る菊 (『あら野』)
我もらじ新酒は人の醒やすき (『あら野』)
濡縁や薺こぼるる土ながら (『続虚栗』)
木枯らしの吹き行くうしろすがた哉 (『続虚栗』)
我や来ぬひと夜よし原天の川 (『虚栗』)
雪は申さず先ず紫の筑波かな (『猿蓑』)
狗背の塵に選らるる蕨かな (『猿蓑』)
出替りや稚ごころに物哀れ (『猿蓑』)
下闇や地虫ながらの蝉の聲 (『猿蓑』)
花すゝき大名衆をまつり哉 (『猿蓑』)
裾折て菜をつみしらん草枕 (『猿蓑』)
出替や幼ごゝろに物あはれ (『猿蓑』)
狗脊の塵にゑらるゝわらびかな (『猿蓑』)
兼好も莚織けり花ざかり (『炭俵』)
うぐひすにほうと息する朝哉 (『炭俵』)
鋸にからきめみせて花つばき (『炭俵』)
花はよも毛虫にならじ家櫻 (『炭俵』)
塩うをの裏ほす日也衣がへ (『炭俵』)
行燈を月の夜にせんほとゝぎす (『炭俵』)
文もなく口上もなし粽五把 (『炭俵』)
早乙女にかへてとりたる菜飯哉 (『炭俵』)
竹の子や兒の歯ぐきのうつくしき (『炭俵』)
七夕やふりかへりたるあまの川 (『炭俵』)
相撲取ならぶや秋のからにしき (『炭俵』)
山臥の見事に出立師走哉  (『炭俵』)
濡縁や薺こぼるゝ土ながら  (『續猿蓑』)
楪の世阿彌まつりや靑かづら (『續猿蓑』)
喰物もみな水くさし魂まつり (『續猿蓑』)
魂まつりここがねがひのみやこなり (『杜撰集』)
一葉散る咄ひとはちる風の上 (辞世句) ≫(「芭蕉DB」所収「服部嵐雪」)

嵐雪肖像二.jpg

「嵐雪肖像真蹟 / 渡辺崋山画, 1793-1841」([佐野屋喜兵衛], [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_d0165/bunko31_d0165_p0001.jpg

 上記の渡辺崋山の「嵐雪肖像真蹟」画に付せられている、嵐雪自筆短冊の句は、「今少
とし寄見たしはちたたき」「今少し年より見たし鉢叩(『玄峰集(冬)・旨原編』)のようである。
 『玄峰集(冬)・旨原編』では、この句に「鉢たゝき」との前書を付している。そして、『名家俳句集(全・藤井紫影校訂・有朋堂文庫)』では、この句の上五の「今」の脇に、「嵯峨落柿舎での作なり」との頭注を施している。
 この頭注の「嵯峨落柿舎での作なり」の、嵐雪が「嵯峨落柿舎」に行ったのは、上記の
「芭蕉DB」所収「服部嵐雪」に記されている「元禄7年10月22日、嵐雪は江戸にあってはじめて師の訃報を聞いた。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開いたばかりでなく、桃隣と一緒に膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、『この下にかくねむるらん雪仏』」であった」との、元禄七年(一六九四)の「芭蕉の没と嵐雪・桃隣との芭蕉追善の京阪旅路」での一句ということになる。
 この時、嵐雪、四十歳の頃で、当時の「嵐雪実像」が、この崋山の「嵐雪肖像真蹟」画の「嵐雪像」のようにも思われる。
 と同時に、この嵐雪の「今少し年より見たし鉢叩」というのは、嵐雪の、「この下にかくねむるらん雪仏」(嵐雪の「義仲寺」での「芭蕉追悼吟」)と並ぶ、嵐雪の「落柿舎」での「芭蕉追悼吟」ということになる。
 ともすると、其角俳諧と嵐雪俳諧とを総括的に「其角の瑰奇放逸(「奇抜奇警・自在放埓」)と嵐雪の平弱温雅(「平淡柔弱・篤実渋味」)などと評するが(『名家俳句集(全・藤井紫影校訂・有朋堂文庫)』)、嵐雪の、この句なども、其角の句などと同様、「趣向の多重化」などが施されていることには、いささかの変りもない。
 この句の上五の、「今少し」は、「今少し、芭蕉翁をには生き長らえて欲しかった」の意と、「いま少し、芭蕉翁を追善するため鉢叩きには、年寄りの僧にして欲しかった」との、両義性などが挙げられよう。
 同時に、この嵐雪の句は、次の、芭蕉や其角の「鉢叩き」の句の「唱和」と、その「反転化」の一句であることを如実に物語っているとも解せられる。

長嘯の墓もめぐるか鉢叩き    (芭蕉『いつを昔』)
鉢叩き暁(あかつき)方の一声(こゑ)は冬の夜さへも鳴く郭公 (長嘯子「鉢叩の辞」)

ことごとく寝覚めはやらじ鉢叩き (其角『五元集』・前書「去来家にて」)
千鳥なく鴨川こえて鉢叩き    (其角『五元集』・前書「去来家にて」)

 鉢たゝきの歌 (其角『五元集拾遺』)
鉢たゝき鉢たゝき   暁がたの一声に
初音きかれて     はつがつを
花はしら魚      紅葉のはぜ
雪にや鰒(ふぐ)を  ねざむらん
おもしろや此(この) 樽たゝき
ねざめねざめて    つねならぬ
世の驚けば      年のくれ
気のふるう成(なる) ばかり也
七十古来       まれなりと
やつこ道心      捨(すて)ころも
酒にかへてん     鉢たゝき
 あらなまぐさの鉢叩やな
凍(コゴエ)死ぬ身の暁や鉢たゝき  

(再掲)

http://yahantei.blogspot.com/2007/08/blog-post_21.html

「其角の『句兄弟・上』(二十六)」

二十六番
   兄 蟻道
 弥兵衛とハしれど哀や鉢叩
   弟 (其角)
 伊勢島を似せぬぞ誠(まこと)鉢たゝき

(兄句の句意)弥兵衛が鳴らしているものとは知っていても、誠に鉢叩きの音はもの寂しい音であることか。
(弟句の句意)伊勢縞を来て歌舞伎役者のような恰好をしている鉢叩きだが、その伊達風の華やかな音色ではなく、そこのところが、誠の鉢叩きのように思われる。
(判詞の要点)兄句は鉢叩きにふさわしい古風な鉢叩きの句であるが、弟句はそれを伊達風の新奇な句として反転させている。

(参考)
一 この兄の句の作者、蟻道とは、『俳文学大辞典』などでも目にすることができない。しかし、『去来抄』の「先師評(十六)」で、「伊丹(いたみ)の句に、弥兵衛(やへゑ)とハしれど憐(あはれ)や鉢扣(はちたたき)云有(いふあり)」との文言があり、「伊丹の俳人」であることが分かる。

二 この『去来抄』に記述したもののほかに、去来は、別文の「鉢扣ノ辞」(『風俗文選』所収)を今に遺しているのである。
○師走も二十四日(元禄二年十月二十四日)、冬もかぎりなれば、鉢たゝき聞かむと、例の翁(芭蕉翁)のわたりましける(落柿舎においでになった)。(以下略。関連の句のみ「校注」などにより抜粋。)
 箒(ほうき)こせ真似ても見せむ鉢叩   (去来)
 米やらぬわが家はづかし鉢敲き (季吟の長子・湖春)
おもしろやたゝかぬ時のはちたゝき (曲翠)
鉢叩月雪に名は甚之丞 (越人・ここではこの句形で収載されている)
ことごとく寝覚めはやらじ鉢たゝき (其角・「去年の冬」の作)
長嘯の墓もめぐるか鉢叩き (芭蕉)

三『去来抄』(「先師評」十六)はこの時のものであり、そして、『句兄弟』(「句合せ」二十五番)は、これに関連したものであった。さらに、この「鉢叩き」関連のものは、芭蕉没(元禄七年十月十二日)後の、霜月(十一月)十三日、嵐雪・桃隣が落柿舎に訪れたときの句が『となみ山』(浪化撰)に今に遺されているのである。
千鳥なく鴨川こえて鉢たゝき (其角)
今少(すこし)年寄見たし鉢たゝき (嵐雪)
ひやうたんは手作なるべし鉢たゝき (桃隣)
旅人の馳走に嬉しはちたゝき (去来)
これらのことに思いを馳せた時、其角・嵐雪・去来を始め蕉門の面々にとっては、「鉢叩き」関連のものは、師の芭蕉につながる因縁の深い忘れ得ざるものということになろう。

四『五元集拾遺』に「鉢たたきの歌」と前書きして、次のような歌と句が収載されている。
    鉢たゝきの歌
 鉢たゝき鉢たゝき   暁がたの一声に
 初音きかれて     はつがつを
 花はしら魚      紅葉のはぜ
 雪にや鰒(ふぐ)を  ねざむらん
 おもしろや此(この) 樽たゝき
 ねざめねざめて    つねならぬ
 世の驚けば      年のくれ
 気のふるう成(なる) ばかり也
 七十古来       まれなりと
 やつこ道心      捨(すて)ころも
 酒にかへてん     鉢たゝき
   あらなまぐさの鉢叩やな
凍(コゴエ)死ぬ身の暁や鉢たゝき  其角

(再掲)
http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E3%80%80%E5%8D%83%E3%81%A5%E3%81%8B%E3%81%AE%E7%A8%B2?updated-max=2023-05-02T15:16:00%2B09:00&max-results=20&start=9&by-date=false

5-4  其夜降(ふる)山の雪見よ鉢たゝき (抱一『屠龍之技』「第五 千づかのいね」)

(「句意」周辺)
 この句の前に、「水無月なかば鉢扣百之丞得道して空阿弥と改、吾嬬に下けるに発句遣しける」との前書がある。
 この「鉢扣百之丞」は、「鉢叩(き)・百之丞(人名)」で、「鉢叩(き)」=「時宗に属する空也念仏の集団が空也上人の遺風と称して、鉄鉢をたたきながら勧進すること。また、その人々。これは各地に存したが、京都市中京区蛸薬師通油小路西入亀屋町にある空也堂(光勝寺)が時宗鉢叩念仏弘通(ぐづ)派の本山(天台宗に改宗)として有名。十一月十三日の空也忌から大晦日までの四八日間、鉦(かね)をならし、あるいは鉢にかえて瓢(ふくべ)を竹の枝でたたきながら、念仏、和讚を唱えて洛中を勧進し、また洛外の墓所葬場をめぐった。また、常は茶筅(ちゃせん)を製し、歳末にこれを市販した。《季・冬》」(「精選版 日本国語大辞典」)

鉢たたき.jpg

「鉢叩・鉢敲(はちたたき)」(「精選版 日本国語大辞典」)

(再掲)

http://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-405-45.html

 辛酉春興
 今や誹諧峰の如くに起り、
 麻のごとくにみだれ、
 その糸口を知らず。
5-40 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年 

 前書の「辛酉春興」は、「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」での一句ということになる。

季語は、「酉の年」(「酉年」の「新年・今年・初春・新春・初春・初句会・等々)、前書の「春興」(三春)、「長閑」(三春)の季語である。そして、この句は、松永貞徳の次の句の「本句取り」の一句なのである。

鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年 (貞徳『犬子集』)
貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年   (抱一『屠龍之技』「第五千づかの稲」)

 この二句を並列して、何とも、抱一の、この句は、貞徳の「鳳凰」の二字を、その作者の「貞徳」の二字に置き換えただけの一句ということになる。これぞ、まさしく、「本句取り」の典型的な「句作り」ということになる。
 「鳳凰」は、「聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされた、孔雀(くじゃく)に似た想像上の瑞鳥(ずいちょう)」(「ウィキペディア」)で、「貞徳」は「貞門派俳諧の祖」(「ウィキペディア」)で、この「鳳凰」と「貞徳」と、この句の前書の「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」とを結びつけると、この句の「句意」は明瞭となってくる。
「句意」は、「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」の、この「辛酉春興」(「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」)に際して、「俳諧の祖」の「貞徳翁」の「酉年」の一句、「鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年」に唱和して、「貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年」の一句を呈したい。この未曾有の俳諧混乱期の、この混乱期の道筋は、「貞徳翁」俳諧こそ、その道標になるものであろうか。

(再掲)

https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-165-18.html

「前田春来(紫隠)」の『東風流(あずまふり)』俳諧の世界のもので、それは、「西土の蕉門」(上方の蕉門、殊に、各務支考の「美濃派蕉門」(田舎蕉門)」を排斥して、「其(其角)・嵐(嵐雪)の根本の向上躰(精髄の発展形)」(「江戸蕉門=都市派蕉門=江戸座」俳諧)を強調するものであった。
 と同時に、その「春来(二世青蛾)・米仲・存義」らの『東風流(あずまふり)』俳諧は、当時、勃興しつつあった「五色墨」運動(「江戸座俳諧への反駁運動)に一石を投ずるものでもでもあった。
 この「五色墨」運動は、享保十六年(一七三一)の俳諧撰集『五色墨』(宗瑞=白兎園=風葉=中川氏=杉風門、蓮之=珪林=松木氏=杉風門、咫尺(しせき)=大場氏=嵐雪門、素丸=馬光=其日庵二世=葛飾風=長谷川氏=素堂門、長水=麦阿=柳居=佐久間氏=沾徳門・伊勢麦林(乙由)門)の「四吟歌仙(四人)+判者(一人)」の「四吟歌仙五巻」を興行したことを、そのスタートとして勃発した俳諧革新運動である。

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート