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抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その二十)「抱一の『猫図(抱一画・鵬斎賛)」(その周辺)

猫図(酒井抱一画・亀田鵬斎賛).jpg

「猫図(酒井抱一画・亀田鵬斎賛)」(一幅・個人蔵))

≪ 図版解説119  
 一風変わったこの猫の絵には、「壬戌之春正月十四日」と年紀のある亀田鵬斎(一七五二~一八二六)の賛がある。「抱弌」の印のみが捺された新出作品。壬戌は享和二年(一八〇二)で、抱一画としても早期の、また鵬斎との交流の証としては最初期のものとなる。この年、抱一と鵬斎とは、文晁らとともに常州金龍寺に取材旅行に出かけている。≫(『酒井抱一と江戸琳派の全貌・求龍堂』所収「図版解説119 (松尾知子稿)」)

≪ 作品解説119  
 亀田鵬斎の賛は、ある美しい猫のさまを詠う。
  本是豪家玳瑁(たいまい)兒
  眞紅纏頸金鈴垂
  沈香火底座氈睡
  芍薬花辺趁蝶戯
  磨爪潜條鼠敖者
  拂眉常卜客来時
  平生為受王姫愛
  認得情人出翠愇
   壬戌之春正月十四日
      鵬斎閑人題
 猫の絵は、細い線で輪郭はとるが、ヒゲは白、目は黄色の色彩を少し加え、瞳孔は細く、ほとんど開いていない。
 この猫の姿に対し「寝ための猫」(あるいは寝ざめ)と題した箱は、池田孤邨によるもの。その蓋裏には、「孤邨三信題函」と署名した孤邨のほか、一門の松嶺、緑堂昌信、野沢堤雨が揃って、猫が蝶と戯れることにちなんだものか、蝶の絵の寄せ書きをしているのも珍しい。(挿図=p423、挿図119) 抱一の画譜のために丹念な描写をしている彼らにとっても、珍重な一図であったことであろう。≫(『酒井抱一と江戸琳派の全貌・求龍堂』所収「作品解説119 (松尾知子稿)」)

 この「享和二年(一八〇二)」は、抱一、四十二歳の時で、この「猫図」に関連した句が、『屠龍之技』(「千ずかのいね」)に収載されている。

5-23 から貓(猫)や蝶噛む時の獅子奮進 (『屠龍之技』(「千ずかのいね」)

https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-195-24.html

(再掲)

≪ 季語は「蝶」(三春)。しかし、この句の主題は、上五の「から貓(猫)や」の「唐猫」にある。そして、「猫の恋」は「初春」の季語となる。
  その「猫の恋」は、「恋に憂き身をやつす猫のこと。春の夜となく昼となく、ときには毛を逆立て、ときには奇声を発して、恋の狂態を演じる。雄猫は雌を求めて、二月ごろからそわそわし始め、雌をめぐってときに雄同士が喧嘩したりする。」(「きごさい歳時記」)

(例句)
猫の恋やむとき閨の朧月    芭蕉 「をのが光」
猫の妻竃の崩れより通ひけり 芭蕉 「江戸広小路」
まとふどな犬ふみつけて猫の恋 芭蕉 「茶のさうし」
羽二重の膝に飽きてや猫の恋 支考 「東華集」
おそろしや石垣崩す猫の恋   正岡子規 「子規句集」
恋猫の眼ばかりに痩せにけり 夏目漱石 「漱石全集」

 掲出の抱一の「から貓(猫)や蝶噛む時の獅子奮進」は、上記の「例句」の「まとふどな犬ふみつけて猫の恋(芭蕉)」の、その本句取りのような一句である。

 まとふどな犬ふみつけて猫の恋(芭蕉「茶のさうし」)

http://www.basho.jp/senjin/s1704-1/index.html

「句意は『恋に狂った猫が、ぼおっと横になっている犬を踏みつけて、やみくもに走って行ったよ。』
 私がこの句を知ったのは朝日新聞の天声人語(2017.2.22朝刊)に「猫の恋」の話の中で、「情熱的な躍動を詠んだ名句の一つ」として載っていたからである。「またうどな」と新聞では表記されていた上五の意味がわからないことで興味をもった。
「またうど」は『全人』でもとは正直、真面目、実直などの意であるが、愚直なことや馬鹿者の異称として用いられたこともあるという(『江戸時代語辞典』)。
 そこで私は上記のように解釈したのだが、確かに恋に夢中になった猫が普段怖がっている犬を踏みつけて走っていく状況は面白い。猫の気合とのんびりした犬の対比の面白さとして取り上げた評釈もあるが、私は猫の夢中さを描いた句ととりたい。
 この句の成立時期ははっきりしていないものの、芭蕉にしては即物的な珍しい句という感じがする。(文・ 安居正浩)」(「芭蕉会議」)

喜多川歌麿『青樓仁和嘉・通ひけり恋路の猫又』.jpg

喜多川歌麿『青樓仁和嘉・通ひけり恋路の猫又』(ColBase)/(https://colbase.nich.go.jp/
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/193858/

 この抱一の句の「句意」は、この珍しい舶来の「唐猫」が、「蝶」を捕って、それを「噛(かじ)っている」、その「獅子奮進」(獅子が荒れ狂ったように、すばらしい勢いで奮闘する様子の)の姿は、これぞ、まさしく、「万国共通」の、歌麿の描く「通ひけり恋路の猫又」の世界のものであろう。(補記) この句もまた、抱一好みの「浄瑠璃」の「大経師昔暦(1715)」上「から猫が牡猫(おねこ)よぶとてうすげしゃうするはしをらしや」とを背景にしている一句なのかも知れない。 ≫

(追記)

「下谷の三幅対(三人組):『鵬斎・抱一・文晁』」と「建部巣兆」(「千住連」宗匠)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-09

「太田南畝・四方赤良・蜀山人」(その周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-04-10

「亀田鵬斎」(その周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-04-13

「谷文晁」(その周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-04-21

「すごろく的 亀田鵬斎と仲間たち」

http://sugoroku.kir.jp/suisen-gakuya/suisen-soukanzu.htm

『抜粋』

*酒井抱一(さかい ほういつ)
宝暦11年7月1日(1761年8月1日)~文政11年11月29日(1829年1月4日)
江戸時代後期の絵師、俳人。 権大僧都(ごんのだいそうず)。本名は忠因(ただなお)

*亀田 鵬斎(かめだ ほうさい)
宝暦2年9月15日(1752年10月21日)~文政9年3月9日(1826年4月15日)
江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。

*谷文晁(たに ぶんちょう)
宝暦13年9月9日(1763年10月15日)~天保11年12月14日(1841年1月6日)
江戸時代後期の日本の画家。江戸下谷根岸生まれ。松平定信に認められ、定信が隠居するまで定信に仕えた。

*大田南畝(おおた なんぽ)
寛延2年3月3日(1749年4月19日)~文政6年4月6日(1823年5月16日)
天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。蜀山人。

*7代目・市川團十郎(いちかわ だんじゅうろう)(1791年~1859年)
歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋。五代目の孫で六代目の養子。

*佐原鞠塢(さはら きくう)
仙台出身の骨董商。向島百花園を開園する。百花園に360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸(現・江東区)に あった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも、「花屋敷」とも呼ばれていたが、1809年(文化6 年)頃より「百花園」と呼ばれるようになった。江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、 著名な利用者には「百花園」の命名者である絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らがいた。

*駐春亭宇左衛門(しゅうしゅんてい うざえもん)
江戸時代後期の遊女屋,料理店の主人。伯母の家をついで江戸深川新地に茶屋をひらき,のち新吉原に遊女屋をひらく。下谷竜泉寺町にもとめた別荘地から清水がでたため、田川屋という風呂付きの料理店をはじめた。

*八百屋善四郎(やおや ぜんしろうょ) 1768~1839年
江戸浅草山谷(さんや)で八百屋兼仕出屋をいとなんだ八百善(やおぜん) の4代目。
文政の始め頃には馬鹿げたほど高価な料理屋として大評判となる。
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