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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その二) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「松花堂画法」周辺

「松花堂照乗《茄子図》」.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「松花堂照乗《茄子図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0003.jpg

≪「茄子図」 松花堂画法 / 惺々翁ハ法ヲ遠ニ取リ/務テ時史ノ風ヲ脱ス (法ヲ縁古ニ取リテ、務テ時史ノ風ヲ脱ス) ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

(参考その一)「松花堂昭乗」周辺

https://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/hito4_syojou.html

≪ ■松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)天正12年(1584)~寛永16年(1639)9月18日

●松花堂昭乗
 松花堂昭乗は、慶長5年(1600)石清水八幡宮の社僧となり、次いで瀧本坊の住職となりました。昭乗は、書道、絵画、茶道の奥義を極め、近衛信尹、本阿弥光悦とともに寛永の三筆と称せられました。

●昭乗の出生・素性は謎
 松花堂昭乗は摂津国堺で生まれ、幼名を辰之助と言いました。兄の喜多川与作が12歳の時、その聡明さを見込まれて興福寺別当一乗院門跡の坊官であった中沼家に迎えられ、この兄に従って奈良に移りました。しかし、その昭乗の出生、素性については、実ははっきりしていません。昭乗と親しかった佐川田昌俊が記した「不二山黙々寺記」によると天正12年(1584)に生まれたとしていますが、「中沼家譜」によれば天正10年(1582)に生まれたことになります。また、昭乗が父母について語ったことがないと伝えられ、昭乗の師であった実乗は、昭乗のことを「捨て子であったものを拾い上げて育てた」と言っています。このとき、すでに昭乗は9歳。少し疑問が残ります。このため、昭乗は豊臣秀次の子であったともいわれています。

●青年期の昭乗
 慶長5年(1600)、昭乗17歳の時、石清水八幡宮瀧本坊実乗のもとで剃髪をして社僧となり、このとき名を昭乗と改めました。特に青蓮院流を学びましたが、慶長7年(1602)、昭乗20歳のとき、四天王寺に参詣して弘法大師の巻物を拝観し、いたく感動、その後大師流を学び、空海を慕って唐風をを祖述したといわれます。そして昭乗は後に松花堂流とも言うべき書風を確立しました。

昭乗の作品「茄子」

「松花堂照乗《茄子図》」2.jpg

●昭乗の交友
 昭乗は、書道のほか、歌道、絵画にもすぐれ、茶道にもその才能を発揮しました。絵画では狩野山楽、山雪について大和絵を学びました。山楽が大坂落城後、昭乗を頼って八幡に来たとき、昭乗は「山楽は絵師で会って武士にあらず」と言い張って、徳川の追求から護ったと伝えられてます。また、茶道を通じて大徳寺の玉室・沢庵・江月などの禅僧や小堀遠州・金森宗和などの大名茶人と交友を深めました。また、昭乗の茶会記には、豪商淀屋个庵の名も見えます。このときの淀屋は2代目言當でした。
 寛永3年(1626)6月11日、前将軍秀忠並びに将軍家光が入洛のため江戸を出発したという状況のなかで、伏見城内で催された茶会では、先に入洛していた尾張中納言徳川義直を席主として、当時伏見奉行の任にあった小堀遠州とともに関白近衛信尋を招待し、義直と信尋の接近を図り、公家と武士の間の斡旋に尽力しています。
 昭乗は若い頃、近衛信尹に仕えて以来、近衛家とはきわめて深い関係にありました。信尹が嗣子がなかったため、妹前子が入内して後陽成天皇との間に生まれた皇子を近衛家に迎え、これが信尋でしたが、この信尋とも昭乗は親密な関係にありました。また、尾張徳川家の祖義直は、石清水八幡宮の社務田中家の分家にあたる志水宗清の娘である亀女が徳川家康に嫁ぎ、その間にもうけた子であったから、義直とも特別な関係にあったことから両者の斡旋にあたるにはもっともふさわしい位置にあったといえます。

●晩年の昭乗
 寛永4年(1627)に師実乗の遷化にともない、瀧本坊の住職となりました。このとき昭乗45歳。数年後、火災により、瀧本坊が焼失してからは、兄元知の子で弟子の乗淳に住職を譲り、自らは「惺々」と号して風雅の境地を築きました。
昭乗が人生の晩年に幽栖するために寛永14年(1637)に男山中腹の泉坊のそばに作った草堂が「松花堂」といわれるもので、たった二畳の広さの中に茶室と水屋、く土、持仏堂を備えた珍しい建物です。ここに詩仙堂の石川丈山や小堀遠州、木下長嘯子、江月、沢庵など、多くの文人墨客が訪れ、さながら文化サロンの風だったと伝えられています。
 松花堂の軒にかかる小さな扁額には「松花堂」と隷書で彫られ、「惺惺翁」の落款が見えます。「老いてなお、心は冴え冴え」というもので、昭乗の心が偲ばれます。

●昭乗の入寂
 寛永16年(1639)、このころから昭乗の背中に腫れ物ができ、昭乗は痛みをこらえる日々が続いたようです。実は昭乗の師であった実乗、また実乗の師の乗裕も背中にはれものができて、それが原因で亡くなっています。このことから、昭乗はこのとき自分の死期を悟ったようです。伏見奉行だった小堀遠州は、昭乗を伏見に呼び、名医による治療を受けさせましたが効果はありませんでした。近衛信尋も病気見舞いに訪れるなど、多くの人たちに愛されながら同年9月18日、55歳の生涯を閉じました。本阿弥光悦の80歳など「寛永の三筆」の中では短命でした。昭乗の墓は、八幡市八幡平谷にある泰勝寺にあります。また、昭乗が晩年に過ごした「松花堂」は今は八幡女郎花の松花堂庭園内に再現されています。≫

(参考その二)「松花堂画寄合賛絵」周辺

https://h29-shokadoshojo.amebaownd.com/posts/3320620/

「松花堂照乗《茄子図》」3.jpg

「茄子図 松花堂画寄合賛絵巻のうち」(個人蔵)
≪ 松花堂昭乗が花鳥や人物を描き、そこに様々な人物が着賛した「松花堂画寄合賛絵巻」。八幡名物としても知られるこの絵巻は、昭和期に分断されて掛軸装となり、諸方に所蔵されています。この「茄子図」もその一つです。
 ぷっくりとした茄子が枝になっている様子を描いたこちらの作品。墨の濃淡と一部に青墨を用いて描かれるこの茄子は、平面にもかかわらず、その重みや円味をありありと感じることができます。茄子からその周りに目を転じると、茄子がぶら下がっている葉には少しずつ濃淡の違いがみられ、それによって奥行きが感じられるようになっています。じーっと見ていると、まるで立体図のようにも見えてきます。
 昭乗の友人で親交の深かった佐川田昌俊という人物は、昭乗の絵を評して「梅花を画くに、匂いあるがごとく」と述べています。描かれているものから五感を刺激されるような…目の前に茄子があり、そのツヤを感じ、重みを感じることができる。昭乗の絵は、どこかそんな不思議な力を持っているようです。≫

(参考その三)「『松花堂画寄合賛絵の模写本』について(田中敏雄稿)」周辺

https://www.grad.osaka-geidai.ac.jp/app/graduation-work/bulletin-paper/geibun25_tanaka.pdf

雉子図.jpg

(図一)「雉子図」(墨画淡彩/五五、六㎝(図3)/かり人の入野のききす打忍ひはるを社ゑね妻やこふらむ行章/賛者今小路行)

「竹図」.jpg

(図二)「竹図」(墨画/五七、二㎝(図2)/虚心寫出両竿竹不滅不生霜節堅「印」/「印」/賛者不詳)

鶏図.jpg

(図三) 「鶏図」(墨画淡彩/五一、五㎝(図4)/大そらにとひ立かねてうち羽ふきかけそと啼か哀れなりけり景樹/賛者・香川影樹《一七六八~一八四三・京都の歌人》)

(図四) 「夢蝶図」→ この図は切り取られていて無し。

芙蓉図.jpg

(図五)「芙蓉図」(墨画/七二、一㎝(図5)/其葉葳蕤霜照夜此花爛慢炎焼秋山口正風「印」/賛者・山口正風)

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(図六) 「葡萄図」(墨画六一、四㎝(図6)/西域誰傳紫玉枝秋季馬乳帯霜肥不憂酒渇相如苦一嚼清/冷味最奇橘山題「印」 「印」/賛者畑柳敬(一七五六~一八二七)・京都の医者・儒)

菊図.jpg

(図七)「菊図」(着色/四八、○㎝(図7)/いろことに〇〇〇菊のうつしゑハあきなき時もかれす見るへき彦澄/賛者・小川彦澄)

梅雀図・鹿図・蕣図.jpg

(図八)「梅雀図」(着色/三七、〇㎝(図8)/〇〇猶来細禽夢乎醒暁風吹彩後梅香凝〇腥鶴橋/柚木太淳「印」 「印」/賛者・柚木太淳(一七六二~一八〇三)/京都の眼科)

(図九)「鹿図」(墨画め六二、九㎝(図9)/色ふかくにほへるはきの花つまにむつれてあそふ野辺のさをしか道覚/賛者・知足院道覚

(図十) 「蕣図」(墨画/五五、八㎝(図10)/このあきのとはなはしらし夕くれをまたてうつろう花のあさかほ重榮/賛者・山下重榮)

山梔鶯図・竹雀図・鳩図など.jpg

(図十一) 雁図」(墨画/四九、○㎝(図11)/秋風を翅にかけつつうら枯のあしの入江に落るかりかね真應/賛者・金剛院真應)

(図十二)「山梔鶯図」(着色/四〇、二㎝(図12)/自経消臘雪林苑鎖煙霞芳意殊凡卉獨/開六出花 皆川愿/題「印」「印」/賛者・皆川淇園(一七三五~一八〇七)・京都の儒学者)

(図十三)「竹雀図」(墨画/五七、一㎝(図13)/ちからなき竹のさえたにあそぶめり起居かろけにみゆるすゝめは/蒿蹊「花押」/賛者・伴蒿蹊(一七三三~一八〇六)・京都の歌人、学者)

(図十四)「鳩図」(墨画/五七、二㎝(図14)/鳩栖桑樹枝凾婦婦何之欲呼無處所縮項空相思之熙 「印」「印」/賛者・京都の儒者・村瀬栲亭(一七四四~一八一九))

(図十五) 「竹眉鳥図」(着色/四七、九㎝(図15)/長喙華毛易誤躬待人苦々含彫籠憐汝獨来阿堵裏柔梢自在喙春蟲徳方拝題「印」/賛者・中嶋泰志(一七四七~一八一六)・京都の儒
者)

叭々鳥図・水仙図.jpg

(図十六) 「叭々鳥図」(墨画五八、 三㎝(図16)/江南春樹雨濛々鸜鵒多懐語暁風莫謂羽毛設文采嗟它鸚鵡鎖重籠橘州禎「印」 印」/賛者・畑柳泰(一七六五~一八三二)・京都の医者)

(図十七)「水仙図」(着色/四七、七㎝(図17)/百草花中第一名氷肌雪骨月魂清風惜獨有寒梅似曽結芳盟為弟兄釈志岸拝題「印」「印」/賛者・菩提院志岸)

茄子図・図18.jpg

(図十八)「茄子図」(墨画/六〇、〇㎝(図18)/二月のふりにはあらぬはつなすひ多か苑生にか折えたりけん保考賛/賛者・岡本保考(一七四九~一八一八)・京都の書家)

瓜図・舟図.jpg

(図十九)「瓜図」(墨画/五八、三㎝(図19)/鵝渓寫書一蒼毬知是春門處士疇不用灌培生意勤何開納履有人例 愛親/賛者・公卿 中山愛親(一七四一~一八一四)・正二位権大納言)

(図二十)「船図」(墨画/四八、三㎝(図20)/小朶知〇處洞庭水来波渡頭縦有待千古汲人過峩眉竜 潭謹題「印」「印」/賛者・天龍寺竜潭西)

船子図・水月図他.jpg

(図二十一図) 「船子図」(墨画/五二、一㎝(図21)/上無片尾蓋霜頭下有長江可擲鈎偶遇金鱗禹碧浪山遥水闊荻蘆 秋宗弼「印」「印」/賛者・南禅寺宗弼西堂)

(図二十二)「菊図」(墨画/五八、七㎝(図 22) 秋色菊形芨一枝絹上妍不霜瓊座砕長賞入詩篇元真賢題 「印」/ 賛者・坂元鈞閑斎)

(図二十三) 「栗図」(墨画/四七、四㎝(図23)/寫真故謝寫嬋娟一種秋容宛可眸想看寒厳幽谷莫葉間山蝟座疎烟規拝題「印」/賛者・中嶋棕隠(一七七九~一八五五)・京都の儒学者、漢詩)

(図二十四) 「水月図」(墨画/七〇、六㎝(図24)/賛なし)

(参考その四)「松花堂照乗データベース」周辺

http://shoukado-shojo.net/

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