SSブログ

東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その八 [東洋城・豊隆・青楓]

その八「俳誌・渋柿(600号/昭和39・4)・『渋柿』六百号記念号」など

俳誌・渋柿(600号)表紙.jpg

「俳誌・渋柿(600号/昭和39・4)・『渋柿』六百号記念号」所収「表紙」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/1

(目次)

扉(一句) / 野村喜舟
六百号に思ふ / 安倍能成/p7~7
四方の花(百句) / 野村喜舟/p8~13
Variétés 1 さよりと水母 / 松根東洋城/p49~49
Variétés 2 幼い詩情 / 松根東洋城/p55~55
Variétés 3 照葉狂言 / 松根東洋城/p61~61
Variétés 4 国語問題 / 松根東洋城/p67~67
Variétés 5 声と寺 / 松根東洋城/p73~73
Variétés 6 真珠貝供養 / 松根東洋城/p79~79
巻頭句 / 野村喜舟/p14~48
澁柿六百号を語る ≪座談会≫ / 水原秋櫻子 ; 秋元不死男 ; 安住敦 ; 楠本憲吉/p50~54,56~60,62~66,68~70
俳句における音韻的音調 / 西岡十四王/p71~72,74~78,80~82
たなごゝろを合せること / 礒部尺山子/p83~86
芭蕉覚書(2) / 渡部杜羊子/p87~92
空白の雄弁性 / 島田雅山/p93~93
もののあはれ / 三輪青舟/p94~97
寺田寅日子雑感 / 牧野寥々/p98~101
渋柿の立場 / 田中拾夢/p106~108
日曜随想 / 吉本杏里/p108~113
自然性の一考察 / 青木誠風/p113~115
五つの話 / 火野艸/p115~119
顔 / 高畠明皎々/p120~121
渋柿一号より六百号までの主要論文とその要旨 / 不破博/p122~127
巻頭句成績累計表 / 牧野寥々/p128~130
俳誌月且(1) / 不破博/p131~131
四月集 / 青舟 ; 十四王 ; 鬼子坊 ; 尺山子 ; 壺天子 ; 春雨/p102~103
新珠集 / 村上壺天子/p104~105
無題録 / 野口里井/p143~143
各地例会だより/p132~136
巻頭句添削実相/p136~136
処々のまとゐ/p137~137
栃木の伝統を語る 座談会 / 栃木同人/p138~142
選後片言 / 野村喜舟/p144~145
東洋城近詠(病院から)/p146~146

俳誌・渋柿(600号)東洋城近影.jpg

「俳誌・渋柿(600号/昭和39・4)・『渋柿』六百号記念号」所収「東洋城」近影(八十七歳)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/33

(東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和十九年(1944) 六十七歳
 空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る。『続山を喰ふ』『不衣の句を講ず』を連載。紙の配給減り十六頁の「渋柿」となる。
昭和二十年(1945) 六十八歳
 宇和島の邸宅土蔵戦火に会ひ、始祖伝来の家宝を失ふ。信州より焦土の都往復、「渋柿」の刊行続く。『楽木林森』『八月十四日以降』連載。能成文部大臣に親任。
昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。露伴没。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。伊予を遍歴。
昭和二十四年(1949) 七十二歳
 浅間山麓より帰京。「山籠解脱記」「流浪記」連載。伊予を遍歴指導。伊予小野小学校に、句碑建つ。十二月、森田草平没。
昭和二十五年(1950) 七十三歳
 伊予の山峡に一畳庵を結び、滞留五か月に及ぶ。松山太山に句碑、宇和島の邸宅に句碑建つ。寺田寅彦全集編纂。二月、野上臼川没。
昭和二十六年(1951) 七十四歳
 伊予に避暑、引つづき一畳庵にて越年。松山にて子規五十年忌を修し「子規没後五十年」執筆。皇太后大喪。
昭和二十七年(1952) 七十五歳
 一月、誌事より隠居、巻頭句選を(野村)喜舟に、編集発行を(徳永)山冬子・夏川女に託す。久米正雄没。伊香保に避暑。「俳句」創刊さる。
昭和二十八年(1953)七十六歳
 伊香保に避暑。伊香保に句碑建つ。
昭和二十九年(1954)七十七歳
 一月、芸術院会員に任命さる。宮中に召され、陛下より賜餐。「昭和文学全集」昭和俳句集、角川書店刊。
昭和三十年(1955)七十八歳
 「五百号記念号」観、筆跡写真多数掲載。
昭和三十一年(1956)七十九歳
 伊予川内町、総河内神社に句碑建つ。三十年末、関西に遊び、翌一月中旬帰京。松本、新潟、別府、小倉、山陰等を訪ふ。伊香保に避暑。冬、又中国を訪ふ。
昭和三十二年(1957)八十歳
 北陸、伊勢、山口に遊ぶ。軽井沢に避暑。パラチフスの疑いで、逓信病院に隔離入院。程なく退院。万太郎文化勲章を受く。大晦日に西した。『現代日本文学全集』現代俳句集、筑摩書房刊。
昭和三十三年(1958)八十一歳
 京阪に遊び、長州の妹を訪ふ。蔵王に遊ぶ。軽井沢に避暑。港区芝高輪南町二十九、渋沢家へ移転。伊東にて越年。
昭和三十四年(1959)八十二歳
 関西に遊ぶ。萩の妹敏子没。軽井沢に避暑。伊東にて越年。十月、阿部次郎没。
昭和三十五年(1960)八十三歳
 京洛に遊ぶ。軽井沢に避暑。和辻哲郎没。
昭和三十六年(1961)八十四歳
 伊豆山滞留。山陽に遊び、箱根湯本に籠る。軽井沢に避暑。秋、京を訪ふ。
昭和三十七年(1962)八十五歳
 冬から腰痛治療。安芸に遊ぶ。軽井沢に避暑。柳田国男没。炎天句集『片雲』序文執筆。漱石の句を揮毫して伊予河内町に句碑建立。
昭和三十八年(1963)八十六歳
 腰、脚の疼痛あれど、小旅行続く。久保田万太郎没。七月十日軽井沢に避暑、十月一日下山。
昭和三十九年(1964)八十七歳
 新春早々関西に遊ぶ。宇和島の真珠碑揮毫。二月十八日、肺炎となり、二十八日玉川病院へ入院。四月六日退院。在院中『渋柿六百号記念号』のため照葉狂言等六篇執筆。「六百号記念号」刊行。
 六月二十一日、心臓の具合い悪しく国立大蔵病院に入院。一週間にて退院。水原秋櫻子芸術院賞受賞。 七月十九日、軽井沢へ避暑、九月十八日帰京。
 九月二十七日、三越の草丘個展に赴き心臓苦しくなり、九月三十日国立大蔵病院に入院。
 十月二十七日、勲三等瑞宝章を受く。同日夕危篤。翌二十八日午前二時三十分心不全のため逝く。二十九日夜、新宿区戸塚町三ノ九〇一の弟宗一方において通夜。従四位に叙せられる。
 葬儀は三十日午後一時より芝青松寺にて行われ、戒名は松月院殿東洋城。午後二時より同寺にて告別式。午後四時より八芳園において東洋城先生追悼会。遺骨は宇和島の金剛山大隆禅寺に葬る。墓碑は安倍能成の筆。(『東洋城全句集・中巻』所収「松根東洋城年譜」)

(管見)

一 「渋柿一号より六百号までの主要論文とその要旨 / 不破博/p122~127」周辺

渋柿一号より六百号までの主要論文その一.jpg

「渋柿一号より六百号までの主要論文とその要旨 / 不破博/p122~127」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/65

渋柿一号より六百号までの主要論文その二.jpg

渋柿一号より六百号までの主要論文とその要旨 / 不破博/p122~127
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/66

渋柿一号より六百号までの主要論文その三.jpg

渋柿一号より六百号までの主要論文とその要旨 / 不破博/p122~127
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/67

二 「昭和三十九年(1964)八十七歳/ 新春早々関西に遊ぶ。宇和島の真珠碑揮毫。二月十八日、肺炎となり、二十八日玉川病院へ入院。四月六日退院。在院中『渋柿六百号記念号』のため照葉狂言等六篇執筆。「六百号記念号」刊行。」の「照葉狂言等六篇執筆」は、下記の六篇のように思われる。この「Variétés」は、フランス語の「雑録=余白に」のような意なのかも知れない。

Variétés 1 さよりと水母 / 松根東洋城/p49~49
Variétés 2 幼い詩情 / 松根東洋城/p55~55
Variétés 3 照葉狂言 / 松根東洋城/p61~61
Variétés 4 国語問題 / 松根東洋城/p67~67
Variétés 5 声と寺 / 松根東洋城/p73~73
Variétés 6 真珠貝供養 / 松根東洋城/p79~79

Variétés 1 さよりと水母 / 松根東洋城/p49~49 → (「明治十一年=一八七八」の出生前のこと)

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/27

 ここには、東洋城の誕生した「東京築地木挽町河岸の堀割川の一角」の原風景が「さより(鱵)と水母(くらげ)」の題で活写されている。

東洋城のスナップ一.jpg

(港区高輪の渋沢家の借家での晩年の東洋城のスナップ一)

Variétés 2 幼い詩情 / 松根東洋城/p55~55 →(「明治十五(一八二二・五歳)・十六年(一八八三・六歳)の頃のこと)

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/30

東洋城のスナップ二.jpg

(港区高輪の渋沢家の借家での晩年の東洋城のスナップ二)

Variétés 3 照葉狂言 / 松根東洋城/p61~61→(「明治二十二(一八八九・十二歳)・二十三(一八九〇・十三歳)の頃のこと)

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/34

[『照葉狂言』は、泉鏡花の小説。 照葉狂言とは、能狂言に歌舞伎などの要素を加えた芸能である。19世紀中頃大坂に始まり、江戸でも上演された。照葉能狂言、今様能とも呼ばれる。 小説『照葉狂言』は1896年11月14日-12月23日『読売新聞』に連載され、1900年4月に春陽堂から単行本が刊行された。](「ウィキペディア」)

Variétés 4 国語問題 / 松根東洋城/p67~67 →(※敗戦直後の「国語国字問題」と芭蕉語録(「俳諧の益は俗語を正すなり」)など) 

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/37

東洋城のスナップ三.jpg

(港区高輪の渋沢家の借家での晩年の東洋城のスナップ三)

Variétés 5 声と寺 / 松根東洋城/p73~73→(※「鳥の何〇騒がしく渡るかな」の〇は「寺」か「声」か?)

東洋城のスナップ四.jpg 

(「信州小諸千曲川河岸川魚料理亭での食事・隣は吉田洋一氏」)

Variétés 6 真珠貝供養 / 松根東洋城/p79~79→(※能「海士」の「真珠貝」供養)

東洋城のスナップ五.jpg

(港区高輪の渋沢家の借家での晩年の東洋城のスナップ四)

三 「澁柿六百号を語る ≪座談会≫ / 水原秋櫻子 ; 秋元不死男 ; 安住敦 ; 楠本憲吉/p50~54,56~60,62~66,68~70」周辺

澁柿六百号を語る.jpg

「澁柿六百号を語る ≪座談会≫ / 水原秋櫻子 ; 秋元不死男 ; 安住敦 ; 楠本憲吉/p50~54,56~60,62~66,68~70」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/28

[(出席者)

水原秋櫻子(みずはら‐しゅうおうし)
1892-1981 大正-昭和時代の俳人。
明治25年10月9日生まれ。高浜虚子(きょし)に師事,「ホトトギス」で山口誓子(せいし)らと4S時代をきずく。昭和6年主宰誌「馬酔木(あしび)」で虚子の写生観を批判,新興俳句運動の口火をきった。39年芸術院賞,41年芸術院会員。産婦人科医で,昭和医専の教授もつとめた。昭和56年7月17日死去。88歳。東京出身。東京帝大卒。本名は豊。句集に「葛飾(かつしか)」など。
【格言など】わがいのち菊にむかひてしづかなる
(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

秋元不死男(あきもと-ふじお)
 1901-1977 昭和時代の俳人。明治34年11月3日生まれ。秋元松代の兄。昭和15年西東三鬼らと「天香」を創刊。翌年,新興俳句弾圧事件で投獄される。のち獄中句集「瘤(こぶ)」を刊行。24年「氷海」を創刊,主宰。43年「万座」ほかで蛇笏(だこつ)賞。昭和52年7月25日死去。75歳。神奈川県出身。本名は不二雄。別号に東(ひがし)京三,地平線。
(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

安住敦(あずみ-あつし)
 1907-1988 昭和時代の俳人。
明治40年7月1日生まれ。逓信省に勤務,局長の富安風生(とみやす-ふうせい)にまなぶ。昭和10年日野草城の「旗艦」に参加,戦後は久保田万太郎の「春灯」の創刊にくわわり,万太郎の死後は主宰。46年俳人協会理事長,57年会長。47年「午前午後」で蛇笏(だこつ)賞。昭和63年7月8日死去。81歳。東京出身。立教中学卒。著作はほかに随筆「春夏秋冬帖」など。
【格言など】花鳥とともに人生があり,風景のうしろに人生がなければつまらない(句作のモットー)
(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

楠本憲吉(くすもと-けんきち)
 1922-1988 昭和時代の俳人。
大正11年12月19日生まれ。大阪北浜の料亭「灘万」の長男。日野草城主宰の「青玄」に所属し,昭和44年「野の会」を創刊・主宰するなど,前衛作家のひとりとして活躍。評論,エッセイでも知られた。昭和63年12月17日死去。65歳。慶大卒。句集に「隠花植物」「孤客」など。
【格言など】失いしことば失いしまま師走(辞世)
(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)         ]

四 「東洋城近詠(病院から)/p146~146」周辺

東洋城近詠(叟愁十句).jpg

東洋城近詠(病院から)/p146~146
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/77

如月や肺炎まがひひた臥しに(病名仮称)
如月や臥すし居に一日雪景色
如月や厨の無沙汰厚衾
梅二月あいなめ味を加へけり(家主釣魚恵贈)
如月や抗生物室熱捉らえ(四時間毎分服)
丸裸縦横そびら余寒かな(二月二八日入院 レントゲン室)
如月や粥一片のつかえさへ
如月や吸ひ飲みほしく葡萄液
如月のよき句むかしや歳満つ(病中誕辰)
如月や大鯛さしみ誕生日(同妄想)
如月や一分刻みに下がる熱(旬日静養)
松の葉に手伸べんまでの春日かな(雪の富士)
枝越しや春の小鳥の羽づくろひ(松林清風)

 これらに、上記の年譜(下記に再掲)で見て行くと、「二月十八日、肺炎となり、二十八日玉川病院へ入院。四月六日退院。在院中『渋柿六百号記念号』のため照葉狂言等六篇執筆」と、この世田谷の「玉川病院」での作ということになる。
 一旦、ここを退院して、今度は、「六月二十一日、心臓の具合い悪しく国立大蔵病院に入院。一週間にて退院。水原秋櫻子芸術院賞受賞。七月十九日、軽井沢へ避暑、九月十八日帰京。九月二十七日、三越の草丘個展に赴き心臓苦しくなり、九月三十日国立大蔵病院に入院。十月二十七日、勲三等瑞宝章を受く。同日夕危篤。翌二十八日午前二時三十分心不全のため逝く」と。東洋城がなくなったのは、「国立大蔵病院」ということになる。

[(再掲)
昭和三十九年(1964)八十七歳
 新春早々関西に遊ぶ。宇和島の真珠碑揮毫。二月十八日、肺炎となり、二十八日玉川病院へ入院。四月六日退院。在院中『渋柿六百号記念号』のため照葉狂言等六篇執筆。「六百号記念号」刊行。
 六月二十一日、心臓の具合い悪しく国立大蔵病院に入院。一週間にて退院。水原秋櫻子芸術院賞受賞。 七月十九日、軽井沢へ避暑、九月十八日帰京。
 九月二十七日、三越の草丘個展に赴き心臓苦しくなり、九月三十日国立大蔵病院に入院。
 十月二十七日、勲三等瑞宝章を受く。同日夕危篤。翌二十八日午前二時三十分心不全のため逝く。二十九日夜、新宿区戸塚町三ノ九〇一の弟宗一方において通夜。従四位に叙せられる。 ]

五 徳永夏川女(「渋柿発行(社主))・編集人の徳川山冬子・夏川女」の「夏川女」)が三月九日に亡くなる。
 その追悼号が、「渋柿(六〇二号/昭和三十九年六月号)」で編まれている。

渋柿(六〇二号.jpg

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071679/1/2

「渋柿(六〇二号/昭和三十九年六月号)」

 そこに収載されている「松根東洋城・野村喜舟・石田波郷・宇田零雨」の弔句は次のとおりである。

絶えしとや松の葉末の春嵐(東洋城「弔 夏川女氏 三の九朝 病室にて」)
うめの花ちりつくしたるうつろかな(喜舟「三月八日 夏川女さん永眠す 憶」)
境涯の辛夷ひらくを待たざりき(波郷「謹んで夏川女夫人のご逝去を悼みて」)
君を悼む無韻の楽を聴く春ぞ(零雨「『無字の書をよむ孤り』といひし作者をしのびつつ」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

[(再掲)

「徳永山冬子と夏川女」

 徳永山冬子(明四〇~) 宇和島市生まれ。昭和四年、家業(織物製造・度量衡器販売)に従事、同業(織物)の大塚刀魚に勧められて「滑床会」に入会して「渋柿」に投句、翌年、「水馬よくさかのぼる一つかな」が初入選、以来一回も休まず勉強して今日に至る。昭和二七~四一年の間、「渋柿」の編集・発行に従い、その間、妻・夏川女(~昭三九・59歳)もよくこれを助けた。昭和五二年以来「渋柿」主宰。なお、「水馬」は「あめんぼう」・「みずすまし」のこと。

  月からの冷えの及びし浴衣かな   徳永山冬子
  夢も凍る春寒の夜ありにけり    夏川女(手帳最後の句)  ]
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート