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東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その四 [東洋城・豊隆・青楓]

その三「俳誌・渋柿(431号/昭和25・3)・東洋城『悼野上氏(臼川・豊一郎)』など」

俳誌・渋柿(431号)表紙.jpg

「俳誌・渋柿(431号/昭和25・3)」表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071562/1/1

俳誌・渋柿(431号)巻頭文・目次.jpg

「俳誌・渋柿(431号/昭和25・3)」(巻頭言「荻窪から(小宮豊隆)」・目次)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071562/1/2

悼野上君(東洋城).jpg

「俳誌・渋柿(431号/昭和25・3)」(東洋城「西に向つて言ひ東に」・「悼野上豊一郎君」)

(目次)
[卷頭語 / 秋谷立石山人/表一
荻窪から / 小宮蓬里野人/表二
卷頭句 / 東洋城/p1~12
句作問答/p1~13
讀人不知の作者 / 城/p14~15
同 句作問答/p15~
松古堂氏逝 / 東洋城/p15~15
卷頭句(脱漏)/p15~15
西に向つて言ひ東に / 東洋城/p16~16
伊豫指導に就て / 東洋城/p16~
悼野上氏 / 城/p16~16
西下餘喘(5) / 東洋城/表四
ドヤ[ドヤ] / ひむがし
奧付/表紙の三
前號正誤/表紙の三     
伊豫指導日程/表紙の三
題僉 / 夏目漱石       ](「国立国会図書館デジタルコレクション」)


(東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和十九年(1944) 六十七歳
 空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る。『続山を喰ふ』『不衣の句を講ず』を連載。紙の配給減り十六頁の「渋柿」となる。
昭和二十年(1945) 六十八歳
 宇和島の邸宅土蔵戦火に会ひ、始祖伝来の家宝を失ふ。信州より焦土の都往復、「渋柿」の刊行続く。『楽木林森』『八月十四日以降』連載。能成文部大臣に親任。
昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。露伴没。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。伊予を遍歴。
昭和二十四年(1949) 七十二歳
 浅間山麓より帰京。「山籠解脱記」「流浪記」連載。伊予を遍歴指導。伊予小野小学校に、句碑建つ。十二月、森田草平没。
昭和二十五年(1950) 七十三歳
 伊予の山峡に一畳庵を結び、滞留五か月に及ぶ。松山太山に句碑、宇和島の邸宅に句碑建つ。寺田寅彦全集編纂。二月、野上臼川没。


(「一畳庵(十句)」) (『東洋城全句集(中巻)』所収)

門無くて柿の一本や冬の立つ
茅屋根の茅の厚みや冬に入る
冬灯(※ふゆともし)一畳庵の障子かな
鶲来(※ひたきく)の楓枯枝や冬籠
西吹けば昼も戸閉(※とざ)す冬籠
冬籠るや隣の寺の暁(※あけ)の鐘
日々夜々(※ひびよよ)や前山雪の消え積り
行年(※ゆくとし)峡(※たに)に日当る口の方
年守(※としもる)や松山五里の峡(※たに)の里


(管見)

一 小宮豊隆の「巻頭言」は、これまでの「中野から」が「荻窪から」に変わっている。これは、昭和二十四年(一九四九)三月に、「杉並区沓掛町一七九」に自宅をもとめて転居したことによる。「渋柿(421号)/ 昭和24・5」に、「沓掛町」は、「信州の沓掛と混同され易い。多く下車する駅の名をとつて、『荻窪から』といふ事にしたい。」と記されている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071552/1/2

 この「荻窪から」(小宮蓬野里人)の次に、「流浪記(2)僑居 荷捌き 山廬再訪 」(東洋城)が続き、その「奥付」で、「下山移住に就ひては流浪遍歴を旨とし一所不在の」とし、殊に、
東洋城の故郷ともいうべき「松根家(宇和島藩伊達家=母方)」の、その「伊予(松山藩・宇和島藩の各地)」を、その「伊予俳諧道場」逍遥の旅に明け暮れることとなる。
 そこで、「一畳庵(十句)」) (『東洋城全句集(中巻)』所収)を、今に遺している。

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071564/1/2

二 「伊予俳諧道場」の逍遥で、東洋城が、昭和二十五年(一九五〇)八月から翌年三月まで滞在して「一畳庵」と名付けた、松山から東へ約十九キロの「川内町河之内音田」の「惣河内神社」の社務所の一隅が、その名なのである。

一畳庵.jpg

「一畳庵」(「いよ観ネット」)
https://www.iyokannet.jp/spot/3438

伊予・地図.jpg

「今治・松山・東温(川内町河之内音田=惣河内神社=一畳庵)・大洲・宇和島」
https://www.iyokannet.jp/spot/3438

 この「惣河内神社」の宮司が、「渋柿」の同人の「巨星塔(きょせいとう)」(本名「佐伯惟揚(これあき)」)で、当時は地元の「三内中学校」の校長も兼ねていた。東洋城は、旧居のある「大洲」ではなく、ここの辺鄙な「惣河内神社=一畳庵」が、一番心休まる所のようで、翌年の昭和二十六年(一九六一)の八月から、その翌年の二月まで、実に、十五か月間も、ここを仮住まいとした。
 これらのことについて、昭和二十六年(一九六一)二月号から六月号にかけて「一畳庵(之記)」を下記のとおり連載している。

昭和二十六年(一九六一)二月号「一疊庵(1) / 東洋城/p1~1」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071573/1/2
昭和二十六年(一九六一)三月号「一疊庵(2) / 東洋城/p16~16」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071574/1/10
昭和二十六年(一九六一)四月号「一疊庵(3) / 東洋城/p1」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071575/1/2
昭和二十六年(一九六一)五月号「一疊庵(4) / 東洋城/p1~1」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071576/1/2
昭和二十六年(一九六一)六月号「一疊庵(5)終 / 東洋城/p1~1」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071577/1/2

三 昭和二十五年(一九五〇)二月に「野上臼川(豊一郎)」が没した。「野上臼川(豊一郎)」への、東洋城の悼句は次のとおりである。

  悼野上豊一郎君 望幽招魂
 きさらぎや君後(※のち)ジテに今一(※ひと)たび

その前年(昭和二十四年=一九四九)十二月に、「野上臼川(豊一郎)」と「法政騒動(学内紛争)」(昭和八年=一九三三)で確執のあった「森田草平」が没している。
 「漱石十弟子(漱石十二弟子)」のうち、物故者は下記の六人ということになる。

寺田寅彦(明治十一=一八七八・十一月~昭和十年=一九三五)
鈴木三重吉(明治十五年=一八八二~昭和十一年=一九三六)
岩波茂雄(明治十四年=一八八一・八月~昭和二十一年=一九四六)
赤木桁平(明治二十四年=一八九一~昭和二十四年=一九四九・十二月十日)
森田草平1881年(明治十四年=一八八〇〉~昭和二十四年=一九四九・十二月十四日)
野上臼川(豊一郎) (明治十六年=一八八三~昭和二十五年年=一九五〇二月二十三日)

なお、「漱石十弟子(漱石十二弟子)」などについては、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-02-17

 また、「法政騒動(学内紛争)」(昭和八年=一九三三)関連については、下記のアドレスなどで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-08


(参考その一) 松根東洋城の「一畳庵」周辺

https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/6/view/1215

[ 一畳庵と名付けたのは松根東洋城本人であり、彼はここに昭和25年(1950年)8月から翌年3月までと、昭和26年8月から翌年2月までの2回、計15か月滞在し、俳誌『渋柿』の選句、弟子たちの指導に当たっていた。
 惣河内神社の宮司は俳人佐伯巨星塔(きょせいとう)(本名惟揚(これあき)、1898~1984年)、その長女が**さんである。
 「父(巨星塔)は若いころ書店で俳誌『渋柿』と出会い、東洋城先生(以下弥生さんの話の中に出てくる先生は松根東洋城を指す。)の指導を受けるようになりました。先生がなぜわたしの家に滞在されるようになったかよく分かりませんが、お弟子さんの中のだれかの紹介ではなかったかと思います。問い合わせてみると『どうぞおいでください。』ということになったのでしょう。社務所は住宅兼用(昭和41年〔1966年〕まで)でしたから、先生とわたしども家族とは一つ屋根の下で住むことになったのです。わたしには妹が4人いますが、下の二人がまだ小さくて、先生に大変かわいがっていただきました。また父をはじめお弟子さんたちも温かくもてなしました。そのようなことが、二度にわたり長期滞在をなさった理由の一つになったのかもしれません。
 一畳庵については、先生の『一畳庵の記』に詳しく書かれていますが、社務所の南西の隅、わずか畳一枚の部屋(座敷の廊下のような部分)のことです。実際は南西の角の半畳も使っておられたので一畳ではなく一畳半です。先生も『そこで一畳庵は正確に尺を入れたら、一畳半庵でなくてはならぬが、』と述べておられますが、さらに筆を続けて『そこはそれ無断越境の気安さ、又蒲団(ふとん)を捲(ま)くって置けば他に場席を塞(ふさ)がなくても机も書座も事足ること故矢張(やはり)一畳庵でいいと思ふ。』と理屈をつけておられます。布団は敷きっぱなし、人が来られると二つ折りにして、南の畳敷きの縁側に置いてある机を挟んで対座されるのでした。
 先生がわが家に滞在しておられたころ、わたしは松山で学生生活をしていて家には時々帰る程度でしたから、先生がお弟子さんをどのように指導しておられたのかよく知りませんが、両親の話によると、お弟子さんたちは先生の前では緊張していたようです。問答形式を通して追及し、相手に考えさせるような指導(安易に添削などしない。)をされたと聞いています。お弟子さんたちは難儀したということです。先生の指導は厳しかったというのはこういう指導だったからでしょう。しかし、相手の気持ちをつかむのが上手な先生でしたから、お弟子さんも指導が厳しいからやめようと思っても、どこかに心のつながりをつくってくださるので、続けられたのだと思います。
 母も俳句をつくっていました(俳号松花(しょうか))。しかし、先生のお世話と子供たちの養育とで大変でしたので『俳句はつくれません。』と先生に言うと、『忙しいと言うが、その家事の中にも題材があるのではないか。』と言われ多少は詠んでいました。ほめられたこともあったといいます。ある時は『うん、松花、なかなかうまい。君は松花じゃなくて大家だよ。』と先生に言われたそうです。先生には厳しい反面こんなところもあったので、もうやめたと思ってもそんなことを言われるとおかしくなって、また思い直して俳句を詠んだと母は話していました。とにかく先生の一畳庵での生活は充実したものであり、先生はこの庵(いおり)のくらしが大変気に入っておられた御様子でした。
 この一畳庵といわれる社務所は神社の所有です。かやぶきなのですが、神社の予算ではかやぶき屋根の維持ができません。やむを得ず町に届け出て(町の有形文化財に指定されているので)、トタンをかぶせました。昔どおりかやぶきの姿を残してほしいという声もありますし、俳文学関係の貴重な建物でもありますので、将来条件さえ整えば、またもとのかやぶきに戻したいと思っています。」 ](データベース『えひめの記憶』)

(参考その二) 「 東洋城と5人姉妹(「佐伯巨星塔」家続)周辺

http://www.trancewave.tv/~iyosaiken/saiken/1997_04.php

[ 一畳庵
 惣河内(そうごううち)神社入り口にあるウラジロガシの巨木を見ながら鳥居をくぐる。右手に東洋城の「山屏風春の炬燵にこもるかな」の句碑があった。石段をあがり、参拝する。拝殿の左手に咲く、桜を見ながら社務所の方に歩いていくと、東洋城の愛弟子、佐伯巨星塔(きょせいとう)氏の長女にあたる佐伯弥生さんが庭の手入れをされていた。社務所の建物は茅葺きにトタンを被せてはあるが、東洋城が滞在したときのままである。弥生さんが、障子を開け放って、東洋城が愛用した机の上に遺影を置き、庭に咲く紫紺の花を活けてくださった。温かい、春らしい日である。下の県道を走る車の音が時々聞こえてくるが、それもどことなく長閑(のどか)に聞こえる。
 東洋城は、昭和25年73歳の春、伊予の門人たちを教えに来て、佐伯家に1泊した。質朴な茅葺きの社務所兼用の住宅、庭の老松、野鳥の鳴き声、庭前に広がる棚田の風景、金比羅寺の大杉、そして屏風の様に囲む山々。河之内の風物と人情がすっかり気に入った東洋城は夏に佐伯家を再訪し、そのまま、居着いてしまうのである。東洋城は、佐伯家玄関脇の庭に面した8畳間の東角の1畳をカーテンで仕切って借り受け、自ら「1畳庵」と命名した。布団は敷きっぱなしで、巨星塔氏をはじめ弟子が来たときには、布団を押しやって座り、1畳の隣の半畳に置いた机を隔てて弟子と向き合い指導した。痩身長躯、俳句については俗事を一顧だにしなかった東洋城の指導は峻烈を極めた。弥生さんは直立不動で叱られている父巨星塔氏の姿をよく覚えておられるそうだ。「ふだんは優しい方やったんですけど、俳句だけは別でした。父はもうほんとうに巨星塔なんて大きな俳号でしたけど、こんなに小さくなってましたよ」と体をすぼめて笑われる。しかし、さすがの東洋城も、食事から、洗濯、足袋の繕い、原稿の清書に至るまで、身の回り一切の面倒を引き受けてくれたカヲル夫人には頭が上がらなかった。「ある時、先生がね。母に俳句をやらんかって勧められたんです。そしたら、母がね、めずらしく逆らったんですよ。先生、私は先生の食事も作らなければならないし、洗濯もしないといかんし、子供たちの面倒もみなければいけない。ですから、とても俳句なんかひねってられませんいうてね」。手きびしい反撃にあった東洋城は、それでも「カヲルさん。俳句はね、身近なものを題材にして作るものだから、大根を切りながらでもできるんだよ」と答えたそうである。結局、カヲル夫人も俳句を始めた。カヲル夫人の俳号は松花という。生まれ育った在所である松本の松からとったものだ。「それがね。母の俳句は身近なものを題材にということに徹したのがよかったのか、結構なとこまでいったんですよ」。
「足袋刺すや 子らそれぞれの足のくせ 松花」
 巨星塔氏とカヲルさんとの間に5人の娘さんがあった。長女の弥生(やよい)さん、次女の昭子(あきこ)さん、3女の嘉寿子(かずこ)さん、4女の綾子(あやこ)さん、5女の二三子(ふみこ)さんである。この、5人姉妹の足袋を繕いながら詠んだカヲル夫人の句を見た東洋城は「松花(ショウカ)君、君は小家じゃなくて大家だよ」と言って心から嬉しそうであったという。

 百日櫻と5人姉妹
 惣河内神社には、四季桜の1種で、東洋城が「百日櫻」と命名して愛惜した桜の木がある。巨星塔氏の母上が大正2年に植えられたものだ。庭の池の片隅に東洋城が揮毫した百日櫻の碑が残っている。今も変わらず、10月のはじめに花をつけ、白猪の滝が氷結する正月にも咲いて春を迎える。
 夏目漱石は「東洋城は俳句本位の男である。あらゆる文学を17字にしたがるばかりではない、人生即俳句観を抱いて、道途(どうと)に呻吟(しんぎん)している」と言った。しかし、孤独な東洋城も呻吟ばかりはしていなかったのである。
 たとえ、ひとときにもせよ、老境にあって、伊予の山峡でこの美しい百日櫻を見、庭に来る「ひたき」を愛で、桜にもまして可憐な愛弟子の5人娘に囲まれて過ごすという幸せを持ったのである。5女の二三子さんが修学旅行で東京に出かけたときのことだ。愛する孫かとも思う二三子さんを案内しようと東洋城が宿に迎えに来た。長身の東洋城は、何時に変わらぬ作務衣にもんぺ姿。落とさぬように、紐で手袋を首に掛け、腰にはこうもり傘をさしていたそうだ。二三子さんは、少し恥ずかしかったそうだが、東洋城は掻き抱くようにして連れ歩いたという。後に東京に嫁いだ3女の嘉寿子さんとも始終行き来があった。なにかというと東洋城は嘉寿子さんを頼った。最後の病に臥した東洋城をほとんど看護したのは嘉寿子さんであった。
 弥生さんは、東洋城の滞在中、愛媛大学の学生で松山市に下宿していた。「先生は抹茶がたいへんお好きで、毎日、母に点ててくれいわれたそうです。母はお茶なんか習ったことないから、上手によう点てんいうとったんですが。私が少し習っていましたので、松山から帰ってきた時に点てて差し上げたら、弥生君のお茶はおいしいねえって言われました」。
 昭和34年、巨星塔氏が還暦祝いの旅でカヲルさんと上京したときのことである。東洋城は夫妻を先導して浅草の仲見世へ行き、4歳になった弥生さんの長男弘(ひろむ)さんへのお土産にと、「赤胴鈴之助の面や髷(まげ)やそれから竹刀、白い袴」を大童で探し歩いたという。「仲見世へおもちゃあさりも長閑かな」そのときのことを詠んだ東洋城の句である。
 東洋城は、ピーナッツを1日に10個と決めて机の上に置き、口寂しいときはそれを摘んだ。食事は多くは摂らなかったが、近在の弟子たちが、野菜や、豆腐、こんにゃくなどを届け、松山の弟子はバス便で肉や魚を届けてよこした。調理はすべてカヲル夫人が行った。生涯娶らず俳句一筋、家庭を持たなかった東洋城にとって、伊予河之内の「桜の園」は、桃源郷のようなところであったに相違ない。

東洋城・鼻サイン一.jpg

「写真を東洋城に送ったら『赤胴君安着。あの写真、飯を食ふ時は食卓へ、机に居るときは机の上 どうもありがと 縫い物そのうち送る カヲルどの』と返事が来た。東洋城は巨星塔氏の初孫、弘さんを自分の孫のように愛した。」

東洋城鼻サイン二.jpg

「東洋城の鼻のサイン
『きみのかいた絵をおぢいちゃんがおくってくださった おもしろい じょうづにできたね ひろむくん』
東洋城は消息の末尾に鼻を一筆で書いた。東洋城は鼻の高い美男子であった。](「伊予細見」)
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