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「俳誌・ホトトギス」管見(その一) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)周辺

ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号.jpg

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863

[(目次)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863/1/2
弔詞/六家/p7~12
父の病床八日間/年尾/p13~17
虚子先生の御病気/田中憲二郎/p17~22
御祖父様の枕許で/坊城中子/p22~24
虚子先生のデスマスク/上村占魚/p24~26
四月九日と十一日/福田蓼汀/p26~27
壽福寺―火葬場―原ノ臺/伊藤柏翠/p27~29
本葬/深川正一郞/p29~35
御埋葬の記/京極杞陽/p36~36
虚子追憶/岩木躑躅 ; 飯田蛇笏 ; 富安風生 ; 中田みづほ ; 高野素十 ; 阿波野靑畝 ; 山口誓子 ; 柴田宵曲 ; 上林白草居 ; 齋藤俳小星 ; 酒井默禪 ; 大橋越央子 ; 佐藤漾人 ; 日原方舟 ; 鈴鹿野風呂 ; 河野靜雲 ; 奈良鹿郞 ; 田村木國 ; 丹治蕪人 ; 三木朱城 ; 三溝沙美 ; 大岡龍男 ; 江川三昧 ; 安田蚊杖 ; 加賀谷凡秋 ; 川田十雨 ; 大橋櫻坡子 ; 岡田耿陽 ; 久米幸叢 ; 五十嵐播水 ; 森川曉水 ; 皆吉爽雨 ; 柏崎夢香 ; 宇津木未曾二 ; 竹末春野人 ; 上野靑逸 ; 大橋杣男 ; 岡崎莉花女 ; 藤岡玉骨 ; 松尾靜子 ; 小山白楢 ; 矢野蓬矢 ; 木村杢來 ; 今井つる女 ; 景山筍吉 ; 京極杞陽 ; 遠藤梧逸/p37~99
句佛師の五句/高濱虚子述/p100~102
父の最後の句について/年尾/p103~103
春雷/高濱年尾/p104~105
春嵐/佐藤漾人/p105~106
壽福寺/池內たけし/p106~108
巷に拾ふ/大岡龍男/p108~110
目/眞下喜太郞/p110~111
その前後/深川正一郞/p111~112
日記/下田實花/p112~114
隨問・隨答/眞下喜太郞/p114~116
雜詠/年尾選/p117~162
雜詠句評/靜雲 ; 敏郞 ; 杞陽 ; 木國 ; けん二 ; 蓬矢 ; 風人子 ; 莫生 ; 年尾/p163~165
「句會と講演の會」選句/年尾 ; 立子/p166~166
句日記/虚子(遺稿)/p168~168
句帖/年尾/p168~168
消息/年尾 ; 東子房記/p167~167   ]

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)」所収「目次・スナップ写真一(昭和三十四年四十七日撮影・本葬祭壇)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863/1/2

ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号その二.jpg

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)」所収「目次・スナップ写真二(昭和三十四年四月一日撮影・俳小屋の虚子)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863/1/3

(管見)

一  弔詞/六家/p7~12
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863/1/4

文部大臣       橋本龍伍
日本芸術院長     高橋誠一郎
日本文芸家協会代表  山本健吉
愛媛県知事      久松定武
(※友人総代)     安倍能成
(全国弟子門代表)   岩本躑躅

 上記の「弔詞/六家/p7~12」のうち、「安倍能成」の肩書は、下記の「葬儀(本葬)通知」からして、「友人総代」としてのものであろう。安倍能成は明治十六年(一八八三)生まれ、高浜虚子は明治七年(一八七四)生まれ、そして、松根東洋城は明治十一年(一八七八)、この三人は、伊予尋常中学校(現在の愛媛県立松山東高校)の、同窓の三人ということになる。

ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号その三.jpg

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)」所収「本葬/深川正一郞/p29~35」

ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号四.jpg


虚子追悼号その五.jpg

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6066/
[高浜虚子(たかはま /きょし)
生没年 明治7年2/22日 〜 昭和34年4月8日(1874年2月22日 〜 1959年4月8日)/出身地 愛媛県/ 職業・身分文学者/ 別称 清(本名)
解説/
俳人、小説家。中学時代、同級生の河東碧梧桐を介して正岡子規を知り、後に上京して碧梧桐とともに子規の俳句革新を援ける。明治31(1898)年松山で刊行されていた『ホトトギス』を引き継いで経営、子規の写生主義を散文に生かした写生文も開拓した。38(1905)年に夏目漱石の『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に連載、その影響で自らも小説家を志し、『風流懺法』(1907)等を発表。大正元(1912)年俳壇に復帰、十七音・季題を守った写生句を説く。昭和2(1927)年からは日本回帰の特色を持つ「花鳥諷詠」論を提唱し、生涯この信条を貫いた。29(1954)年文化勲章受章。]

https://www.cosmos-network.jp/cosmos_collection/32871/

深川正一郎.jpg

https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:4/82/view/14586
[深川正一郎(1902~1987)
 俳人。宇摩郡上山村(現、四国中央市新宮町)出身。大正13(1924)年、上京して文藝春秋社に入社、その後、日本コロンビアに入るが、このとき高浜虚子の俳句朗読のレコード制作を企画実施し、その際に虚子の知遇を得て師事した。昭和21(1946)年より虚子の遺訓に従い終生俳句一筋に生き、『ホトトギス』の中心的な存在となった。温厚な人柄で句風も穏やかで巧みであった。連句実作者としても知られている。また、句作と併行して380篇にも及ぶ写生文を書いた。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より) ]

虚子追悼号その六.jpg

https://sumus.exblog.jp/13211828/
[『彷書月刊』5月号が届いた。松尾邦之助特集とはシブい。しかし松尾邦之助は面白い。ジャーナリスト流の文章はやや物足りないところもあるものの、激動の実際面を広く見聞したというところに強みがある。パラパラやっていてこの写真が目にとまった。『フランス・ジャポン』四巻二〇号(日仏同志会、一九三六年五・六月号)掲載で高浜虚子夫妻がパリを訪れたときの記念写真。
 前列左から二番目が高浜虚子。後列右から二人目が松尾邦之助。その松尾の隣、向って右端が池内友次郎(いけのうちともじろう)。虚子の次男として東京に生まれ、慶應義塾大学予科中退の後、一九二七年にフランスに渡りパリ音楽院に入学した。作曲家・音楽教育家であり俳人でもある。]


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