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東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その六 [東洋城・豊隆・青楓]

その六「俳誌・渋柿(号/昭和27・)・東洋城『隠居之辞』」など

「俳誌・渋柿(453号)」の表紙.jpg

「俳誌・渋柿(453号/昭和27・1)」の表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071584

(目次)

卷頭語 / 秋谷立石山人/p表1
荻窪から / 小宮蓬里野人/p表2
卷頭句 / 東洋城/p1~15
句作問答/p1~2
卷頭句用語解/p19~19
本社移轉/p2~15
“隱居に就て” / 東洋城/p19~19
東洋城近詠 安藝・長門/p20~20
俳諧勸進帳 / ひむがし/p20~20
奥付/p表紙の3

(東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和十九年(1944) 六十七歳
 空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る。『続山を喰ふ』『不衣の句を講ず』を連載。紙の配給減り十六頁の「渋柿」となる。
昭和二十年(1945) 六十八歳
 宇和島の邸宅土蔵戦火に会ひ、始祖伝来の家宝を失ふ。信州より焦土の都往復、「渋柿」の刊行続く。『楽木林森』『八月十四日以降』連載。能成文部大臣に親任。
昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。露伴没。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。伊予を遍歴。
昭和二十四年(1949) 七十二歳
 浅間山麓より帰京。「山籠解脱記」「流浪記」連載。伊予を遍歴指導。伊予小野小学校に、句碑建つ。十二月、森田草平没。
昭和二十五年(1950) 七十三歳
 伊予の山峡に一畳庵を結び、滞留五か月に及ぶ。松山太山に句碑、宇和島の邸宅に句碑建つ。寺田寅彦全集編纂。二月、野上臼川没。
昭和二十六年(1951) 七十四歳
 伊予に避暑、引つづき一畳庵にて越年。松山にて子規五十年忌を修し「子規没後五十年」執筆。皇太后大喪。
昭和二十七年(1952) 七十五歳
 一月、誌事より隠居、巻頭句選を(野村)喜舟に、編集発行を(徳永)山冬子・夏川女に託す。久米正雄没。伊香保に避暑。「俳句」創刊さる。

(管見)

一、「隠居之辭 / 東洋城/p16~17」・「感謝(社告)--晨悟・龍氏へ/p17~17」・「/御隱退事情 / 十四王/p18~18」・「本社移轉/p2~15」・「“隱居に就て” / 東洋城/p19~19」

 「隠居之辭 / 東洋城/p16~17」・「感謝(社告)--晨悟・龍氏へ/p17~17」については、下記図(写真)のとおりである。

隠居之辞.jpg

「隠居之辭 / 東洋城/p16~17」・「感謝(社告)--晨悟・龍氏へ/p17~17」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071584/1/10

 「感謝(社告)--晨悟・龍氏へ/p17~17」は、
「小林晨悟氏へ 大正十二年来、昨年末まで、校正、発送、その他対印刷所関係など担当。長年渋柿への格別なる尽瘁(じんすい)の段。なお、氏は生活上の都合により栃木県下各派総合誌発行の由にて渋柿脱退、仕事の多幸を祈る。
安東龍氏へ 多年本社雑務ことに発送用帯紙作製、記入、誌費精密勘定、また在京時は秘書用また市内書店配本並びに集金などに関し、渋柿および社主助力の段。
 右小生より鳴謝(めいしゃ)、”色々長々有難う”  隠居と共に小生も編集経営面から離れたので、三人三つ巴(どもえ)の発行経営の輪も自然ほどけたわけ。
この環、東京、栃木、津山と三遠隔地に分かれわかれで 、幾度かの危難に切れそうになつたのが、ともかくもつながつてきたのも奇跡。長かったな、色々だつたな、などと、これはいつか会うた時に語り合うだろう三人の内輪話。
・・・渋柿幾十年継続の功が、想像できぬほどこの両氏にかかることとは誰も知るまい、が、これだけは是非とも人々に知らされねばならぬ。玄関で郵便夫から受け取るだけで月々渋柿を手にする人達へ、”これこそ徹底的犠牲心故(ゆえ)”と。御両人へは”無理言うて済まなかった”と。(東洋城) 」

 この「隠居之辞」については、『東洋城全句集(下巻)』に全文が収載されている。その末尾に、次のように、何とも、漢文書下ろし調の、当時(七十五歳)の東洋城の、その生涯を掛けて取り組んだ、「俳誌・渋柿」の、その「隠居之辞」(「隠退之辞」)が綴られている。

[ 渋柿遂に渋柿、渋柿こそ九鼎大呂(※キュウテイタイロ=「九鼎」は夏・殷・周の三代に伝わった鼎(かなえ)。「大呂」は周の大廟に供えた大鐘。ともに周の宝物とされた) 貴重な宝、重要な地位、名声などのたとえ。)より重けれ。さればその渋柿を組成する同人諸氏、今や卿等は隠棲の柴門(※サイモン=柴で編んだ門。草庵の門。柴扉(さいひ)。また転じて、粗末な庵(いおり)。)の前に確と個々に芭蕉に直結し、万人一丸渋柿は盤石、寒叟(※カンソウ=老翁・東洋城)微笑、合掌して瞑目す。芭蕉―俳諧―天、道天へ通ず。人々自奮自重、いよいよ渋柿を渋柿に。『栄光俳諧』、『栄光渋柿』。
 さて、余(※東洋城)の今後は、とりあへず隠棲休養。休余余命若し天の籍さば、自他永年の作品の撰定と俳諧深奥突入と、・・・夢はあやなし(※アヤナシ=文ナシ)。」(『東洋城全句集(下巻)』所収「隠居之辞」)

 ここに引用されている「柴門(※サイモン=柴で編んだ門。草庵の門。柴扉(さいひ)。また転じて、粗末な庵(いおり)。)」は、これは、芭蕉の「柴門辞(柴門之辞)」(※江戸前期の俳文。松尾芭蕉作。元祿六年(一六九三)成立。同年五月、門人森川許六が江戸から彦根に帰るときに贈った離別の詞。許六の絵と芭蕉自身の俳諧とについて述べ、「後鳥羽院御口伝」を典拠として「まことありて、しかも悲しびをそふる」風雅について論じたもの。「其細き一筋」につながる晩年の芭蕉の俳諧観が知られる。別名「許六離別詞」。「韻塞(いんふたぎ)」「風俗文選」に収録。)

許六離別詞.jpg

芭蕉筆「許六(きょりく)離別詞(りべつのことば)」
本紙 縦 19.1 ㎝ 横 59.1㎝
[芭蕉(ばしょう)(1644~1694)はわが国の文学史上に傑出する俳人で、代表作「奥の細道」は今も多くの人々に愛読されている。本点は芭蕉晩年の芸術論を知る上で貴重な資料であるばかりでなく、美術品としても評価が高い。元禄6年(1693)、江戸を離れて彦根に帰藩する彦根藩士で門人の森川許六(もりかわきょりく)に贈った芭蕉の餞別(せんべつ)文。許六が芭蕉の絵の師であったことや、「予が風雅(ふうが)は夏炉冬扇(かろとうせん)のごとし」「古人の跡をもとめず、古人の求めたる所を求めよ」といった芭蕉の名言としてしられる言葉も本点に基づく。芭蕉画の落日(らくじつ)・萩(はぎ)・薄(すすき)の図が下絵として描かれており興味深い。(以下略) ]

https://www.sumitomo.or.jp/html/culja/jp0905.htm

[去年の秋,かりそめに面をあはせ,今年五月の初め,深切に別れを惜しむ.その別れにのぞみて,一日草扉をたたいて*,終日閑談をなす.その器,画を好む.風雅を愛す.予こころみに問ふことあり.「画は何のために好むや」,「風雅のために好む」と言へり.「風雅は何のために愛すや」,「画のために愛す」と言へり.その学ぶこと二つにして,用いること一なり.まことや,「君子は多能を恥づ」といへれば,品二つにして用一なること,感ずべきにや.画はとって予が師とし,風雅は教へて予が弟子となす.されども,師が画は精神徹に入り,筆端妙をふるふ.その幽遠なるところ,予が見るところにあらず.予が風雅は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし.ただ,釈阿・西行の言葉のみ,かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも,あはれなるところ多し.後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも,「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ.なほ,「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」と,南山大師の筆の道にも見えたり.「風雅もまたこれに同じ」と言ひて,燈火をかかげて,柴門の外に送りて別るるのみ.
元禄六孟夏末             風羅坊芭蕉 印 印   ]

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/saimon/saimonji.htm

二、この芭蕉の「柴門辞(柴門之辞)」は、別名は「許六離別詞」である。ここで、「東洋城」を「芭蕉」とすると、「許六」は、東洋城の「感謝(謝辞)」の「大正十二年(※一九二三=関東大震災による「渋柿」印刷所の「栃木(小林晨吾))」への移転」来、昨年末(※昭和二十六年=一九五一)まで、校正、発送、その他対印刷所関係など担当。長年渋柿への格別なる尽瘁(じんすい)」した、「小林晨悟」その人ということになろう。
 この「小林晨悟」については、「俳誌・渋柿」以外は、殆ど知られていない、「松根東洋城直系の愛弟子の筆頭の一人」ということになろう。

渋柿(昭和三十九年四月号)スナップ写真.jpg

「渋柿(昭和三十九年四月号/六百号記念号/東洋城・八十七歳時)」所収「栃木の伝統を語る 座談会 / 栃木同人/p138~142」のスナップ写真」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/73

 上記の「スナップ写真」は、昭和十一年(一九三六=東洋城・五十九歳)四月十二日に行われた、「栃木大平山の東洋城句碑建立」の時のものである。
 この「スナップ写真」の前列の左側一番目の人物こそ、昭和十一年(一九三六=東洋城・五十九歳)当時の、その「松根東洋城」の実像であろう。この年の前年(昭和十年=一九三五)の、十二月三十一日に、寺田寅彦が没している。
 その、東洋城と同年齢の、「東洋城・寅彦・(小宮)豊隆(豊里雨)」の、その「漱石三側近」の、その中心人物ともいうべき、「寺田寅彦(寅日子)」が没した当時の、「松根東洋城」その人の近影ということになろう。
 そして、その「東洋城」(両手は「袴」に隠している)の、その右に、紋付き袴の正装の、緊張して、そして両手を露わに組みながら鎮座しているのは、当時の「小林晨悟」(東洋城より十四歳年下)、その人のように思われる」
 と同時に、この「スナップ写真」の、これら「人物像(群)」というのは、当時の「栃木(下野)」での、その「俳誌・渋柿」関係者が勢ぞろいしている趣きである。
 この時の、「大平山の東洋城句碑」は、下記のアドレスなどで紹介されている。

https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2020-04-24

大平山の東洋城句碑.jpg

「大平山の東洋城句碑」
[(松根東洋城句碑)
この句碑は、碑陰に「昭和11年(1936)4月、栃木渋柿会」と、建立時期と建立者が刻まれています。松根東洋城は大正4年(1915)に、俳誌「渋柿」を創刊。関東大震災により印刷所が被災した為、栃木市内に移ってきました。「目で見る栃木市史」には、≪東洋城はしばらく岡田嘉右衛門邸内に在住、その住居を無暦庵と号していた。≫と、記しています。「渋柿」は昭和27年(1952)まで、栃木市内にて発行されていました。石碑に刻まれた句は、「白栄(※シロハエ)や/雲と見をれば/赤痲沼」です。
ここ謙信平からは、南方に広がる関東平野の奥に、かつては赤麻沼が白雲の如く、望まれた様です。現在は渡良瀬遊水地の葦原が広がっています。地平線には東京スカイツリーや新宿副都心のビル群を望むことが出来ます。 ]

三 ここで、「渋柿(平成九年=一九九七・八月号/一千号記念号)」を見て置きたい。

渋柿(平成九年=一千号記念号)」の「内扉」一.jpg

「渋柿(平成九年=一九九七・八月号/一千号記念号)」の「内扉」(A図)

渋柿(平成九年=一千号記念号)」の「内扉」二.jpg

https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/5

「渋柿(平成九年=一九九七・八月号/一千号記念号)」の「内扉」の解説文(B図)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/5

 「内扉」(A図)の「渋柿」は、夏目漱石書「題籢」の二字である。その下の筆文字のものは、東洋城書の「渋柿命名由来」(B図)の色紙のもので、この色紙のものは、「小林晨悟所蔵」ものということになる。
 これらのことは、下記(目次)の「小林晨悟先生のこと / 富田昌宏/p76~78」(※印)に記述されている。

[(目次)
渋柿一千号を祝す / 米田双葉子/p10~10
渋柿創刊一千号を迎えて / 松岡潔/p11~11
初夏 / 米田双葉子/p12~12
巻頭句 / 米田双葉子/p13~51
選後寸言 / 米田双葉子/p52~53
六月号巻頭句鑑賞 / 赤松彌介/p54~55
<特集>先人の思い出/p56~56
※※ 孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67
七人の侍 / 野口里井/p68~72
巨星塔の俳句指導 / 池川蜩谷/p72~73
俳諧道場回顧 / 渡部抱朴子/p73~76
※ 小林晨悟先生のこと / 富田昌宏/p76~78
忘れ得ぬ人々 / 中須賀玉翠女/p78~79
修道士竹田哲の渋柿俳句 / 安江眞砂女/p79~80
伊香保の東洋城先生 / 大島麦邨/p81~82
喜舟先生と千鳥句会 / 田原玉蓮/p82~83
松岡凡草さんを懐う / 中小路梅支/p83~84
佐伯松花先生の思い出 / 豊竹春野/p84~85
一千号記念論文・随筆/p86~101
渋柿俳句の本質と写生について / 石丸信義/p86~88
第一渋柿句集その他より / 小島夕哉/p88~91
随想 / 武智虚華/p92~92
心境俳句について / 松岡潔/p93~99
城師の遺言 / 須山健二/p100~101
渋柿一千号記念全国大会/p102~111
渋柿一千号記念全国大会の記 / 栃木光歩/p102~106
一千号大会に参加して / 豊竹春野/p106~107
えにし / 竹下須磨/p107~107
所感 / 牧野寥々/p108~108
一千号大会祝宴にて / 小島夕哉/p109~111
渋柿年譜 / 米田双葉子/p112~112
記念号一覧表 / 中須賀玉翠女/p113~113
<参考資料>城師百詠絵短冊の意義由来/p113~114
句碑のある風景--渋柿関係者句碑一覧/p115~127
尾崎迷堂句碑 / 小島夕哉/p127~128
塩原にある東洋城の句碑 / 池澤永付/p128~128
句碑のある風景 / 大島麦邨/p128~130
自句自註 最高顧問・代表同人・課題句選者/p131~142
作句あれこれ(八十四) / 米田双葉子/p143~143
課題句<夏野> / 石丸信義/p144~148
各地例会/p149~159
巻頭句添削実相抄/p160~160
歌仙/p161~161
明易き / 徳永山冬子/p162~162     ]

四 「※小林晨悟先生のこと / 富田昌宏/p76~78」は、「東洋城と小林晨悟」との、その「三十七間、渋柿編集発行に携わった」、その「小林晨悟」について、そして、この小林晨悟の、戦時中の教え子(「栃木中=栃木高校」の教鞭に立った「小林晨悟」の生徒の一人)で、且つ、「渋柿(主要同人)」・「渋柿(栃木俳壇の中枢を担った俳人)」、且つ、「日本(且つ、栃木)連句協会に携わった連句人」の一人であった「富田昌宏」の、その恩師である「小林晨悟」追慕の記でもある。

五 さらに、「※※孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67」については、「松根東洋城」の、その全貌の一端を語るものとして、「小林晨悟と富田昌宏」と同じように「松根東洋城と米田双葉子」との、その「終生の師・東洋城」への、その追慕の記でもあろう。
 そして、「※※孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67」の記で、その後半部分の「妻持たぬ我と定め(ぬ秋の暮れ)」見出しで、「東洋城と柳澤白蓮」の、その、若き日の「叶わぬ恋愛」関係(聞き書き)について、詳細に触れている。
 そこで、この「白蓮女史が、七十四歳のとき、栃木市の大平山の、東洋城句碑「白栄(※シロハエ)や/雲と見をれば/赤痲沼」を訪れて、その案内人(渋柿の女流俳人「榊原春女」)に、次の二首を色紙に認めて、栃木を去ったことが記されている。
 その白蓮の二首とは、次のものである。

 夢うつつ(※現実)/うつつ(※現実)を夢と/見る人に/思ひ出の日よ/うつくしくあれ
 ながれゆく/水の如しと/みづからを/思ひさだめて/見る夏の雲

 この白蓮の七十四歳の時とは、昭和三十五年(一九六〇)の頃で、東洋城は在世中(八十三歳)で、東洋城が亡くなったのは、その四年後の、昭和三十九年(一九六四)、そして、白蓮女史が没したのは、昭和四十二年(一九六七)のことである。

晩年の白蓮女史.jpg

「晩年の白蓮女史(※「緑内障で徐々に両眼の視力を失う」=昭和三十六年=一九六一前後の白蓮女史)(「ウィキペディア」)

 なお、「東洋城と柳澤白蓮」の、この「叶わぬ恋愛」寒冷については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-06

(再掲)

桜散るや木蓮もありて見ゆる堂
木蓮は亭より上に映りけり
君水打てば妾事弾かん夕涼し
[※これらの句が、東洋城と白蓮(柳原燁子)との「叶わぬ恋愛」関係の背景を物語るものかどうかは定かではないが、三十歳になっても独身(白蓮は東洋城よりも九歳前後年下)で、その前年(明治三十九年)に、「妻もたぬ我と定めぬ秋の暮れ」の句を遺している、当時の東洋城の心境の一端を物語るものと解することも、許容範囲内のことのように思われる。「明治四十三年、東洋城は三十二歳のとき北白川成久王殿下の御用掛兼職となったが、あるとき殿下から、「松根の俳句に、妻もたぬ我と定めぬ秋の暮れ、というのがあると聞くが、妻持たぬというのは本当なのか」と聞かれた。それに対して、東洋城は、「俳句は小説に近いものです」と答えた。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)と言う。この「俳句は小説に近いものです」というのは、「事実は小説よりも奇なり」の、俳人・東洋城の洒落たる言い回しであろう。]

(追記)

大平山の東洋城句碑.jpg

「大平山の東洋城句碑」
二○二四年四月十三日(土)/令和六年四月十三日
※ 大平山の謙信平(頂上)の茶店兼蕎麦店の前、案内板は無く、「山本有三文学碑」の近傍に、富士山・東京スカイツリーがかすかに望める時もある方向に面している。山本有三文学碑」は、下記のアドレスで紹介されている。

https://www.tochigi-kankou.or.jp/spot/yamamotoyuzou-bungakuh
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