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「俳誌・ホトトギス」管見(その十二) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス・六百号」周辺

ホトトギス・六百号.jpg

「ホトトギス・六百号」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972713/1/1

(目次)

句日記 / 高濱虛子/p2~3
うれしさ / 寒川鼠骨/p4~5
蕪村句集講義雜感 / 佐藤紅綠/p6~7
謠を習ひ始めた頃 / 安倍能成/p8~9
能十八句 / 野上臼川/p10~10
日記の一節 / 野上彌生子/p10~11
死兒の齡 / 石井柏亭/p12~13
南瓜の辯 / 川端龍子/p14~15
虛子先生 / 中田みづほ/p16~17
遷喬第一號を前にして / 富安風生/p18~19
四S時代のことなど / 山口靑邨/p20~21
明達寺 / 高濱虛子/p22~24
はなれ / 富安風生/p25~26
吉田文庫 / 深川正一郞/p26~27
小諸の夜 / 高濱年尾/p27~28
ホトトギス六百號記念 新潟俳句會 / 長谷川馬刀/p29~30
ホトトギス六百號記念 秋田俳句會 / 柴田果/p30~31
ホトトギス六百號記念 能代俳句會 / 渡邊そてつ/p32~33
ホトトギス六百號記念 頸城俳句會 / 春山他石/p33~35
船河原町發行所の思ひ出 / 高崎雨城/p35~35
彌木にて / 虛子 ; 年尾 ; 立子/p36~37
藪醫者 / 松尾いはほ/p38~39
雜詠 / 虛子/p40~62
消息 / 虛子/p67~67
非無和尙の手紙/p68~
誹諧 連句の季の符號 / 虛子/p63~64
誹諧 二句の連句/p64~64
誹諧 附句練習 / 高濱年尾/p65~66
誹諧 消息 / 年尾/p66~66
玉藻消息 / 星野立子/p62~62

(管見)

一 「句日記 / 高濱虛子/p2~3」周辺

句日記( 昭和11年より昭和15年まで).jpg

『句日記( 昭和11年より昭和15年まで)』(著者・高浜虚子 著/出版者・中央出版協会/出版年月日・昭和17)所収「序」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1220675/1/5

 上記のアドレスで、『句日記( 昭和11年より昭和15年まで)』(下記の「その2」)を閲覧できる。その「序」に「私の生涯の句を纏めたものには、今までに」ということで、虚子が俳句を作り始めた「明治二十四年(十七歳)・二十五年(十八歳)から昭和十年(六十一歳)迄」の句が収載されているものを示して、それに続く、「昭和十一年(六十二歳)から昭和十五年(六十六歳)迄」の句を『句日記』(その2)として、中央出版協会より出版している。

『年代順 虚子俳句全集 第一巻 第一巻  明治時代(上)』
『同上 第二巻 明治時代(下)』
『同上 第三巻 大正時代』
『同上 第四巻 昭和時代(昭和5年4月21日迄)』
(新潮社/昭和15年2月より昭和16年3月迄の出版)
『句日記』(その1) 昭和11年出版/改造社(昭5〜10)
『句日記』(その2) 昭和17年出版/中央出版協会(昭11〜15) 

 さらに、これに続くものとして、「昭和十六年(六十七歳)から亡くなる昭和三十四年(八十五歳)迄」の句も、以下の『句日記(その3~その6)』(「創元社」版と「新樹社」版)として、『句日記』として出版されている。

『句日記』(その3) 昭和22年/創元社(昭16〜20)
『句日記』(その4) 昭和28年/創元社(昭21〜25)
『句日記』(その5) 昭和33年/新樹社(昭26〜30)
『句日記』(その6) 昭和35年/新樹社(昭31〜34)

 そして、これらの『句日記』という、虚子の句集の母胎となったものは、上記の「句日記 / 高濱虛子/p2~3」の、その「ホトトギス」の、それらの搭載されたものが基盤になっている。
 そして、それは、虚子の自選句集「『五百句』・『五百五十句』・『六百句』・『六百五十句』」と『七百五十句』(高浜年尾・星野立子選)と、連動していることになる。

(一) 虚子の自選句集「『五百句』・『五百五十句』・『六百句』・『六百五十句』」周辺

[『五百句』(昭和12年(1937年)6月、改造社)→ 『ホトトギス』500号記念の年に自選して上梓(※明治二十四・五年頃から昭和十年にいたる四十余年間から五百句選出)。
『五百五十句』(昭和18年(1943年)8月、桜井書店)→ 『ホトトギス』550号記念の年に自選して上梓(※昭和十一年から十五年までの句、五百八十八句選出)。

『六百句』(昭和22年(1947年)2月、菁柿堂)→ 『ホトトギス』600号記念の年に自選して上梓(※昭和十六年から昭和二十年までの句、六百四十四句選出)。

『六百五十句』(昭和30年(1955年)6月、角川書店)→ 『ホトトギス』650号記念の年に自選して上梓(昭和二十一年から昭和二十五年までの句、六百九十五句選出)。  ](「ウィキペディア」・「※「俳句・平成七年四月号/大特集高浜虚子とその時代」)

(二) 『七百五十句』(高浜年尾・星野立子選)周辺

[『七百五十句』(昭和39年(1964年))→ 『六百五十句』以後の句を虚子没後に上梓(昭和二十六年一月一日より虚子が倒れる前日の昭和三十四年三月三十一日までの句、七百六十三句選出)。](「ウィキペディア」・「※「俳句・平成七年四月号/大特集高浜虚子とその時代」)


二 「うれしさ / 寒川鼠骨/p4~5」周辺

寒川 鼠骨.jpg

[寒川 鼠骨(さむかわ そこつ、1875年(明治8年)11月3日 - 1954年(昭和29年)8月18日)は、正岡子規門下の俳人。病床の子規に侍り、遺族を見守り、遺墨・遺構の保存に尽くした。](「ウィキペディア」)

三 「蕪村句集講義雜感 / 佐藤紅綠/p6~7」周辺

佐藤 紅緑.jpg

[佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年〈明治7年〉7月6日 - 1949年〈昭和24年〉6月3日)は、日本の劇作家・小説家・俳人。本名:洽六](「ウィキペディア」))


四 「小諸の夜 / 高濱年尾/p27~28」周辺

鎌倉虚子庵に集う一家.jpg

「鎌倉虚子庵に集う一家/前列左より 晴子、糸夫人、虚子、池内たけし、年尾/後列左より 章子、宵子、立子、真砂子」
http://www.kyoshi.or.jp/j-huuten/1300/04.htm

[高浜 年尾(たかはま としお、1900年12月16日 - 1979年10月26日)は、俳人。ホトトギス代表。俳人高浜虚子の実子。「年尾」の名は正岡子規の命名による。
 東京市神田区猿楽町に虚子・いと夫妻の長男として生まれる。開成中学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に進む。小樽高商時代は同期に小林多喜二、1期下に伊藤整がおり、全員でフランス語劇に出演したこともある。卒業後、旭シルクに入社する。のち転勤により兵庫県芦屋に転居する。句作は父虚子の手ほどきを受けて中学時代から始めていたが、この時期に一時中断、1938年に『俳諧』を発行し連句をはじめる。「俳諧」は俳句、連句、俳文、俳詩、俳論などのほか俳句の英・仏・独訳を載せるなど意欲的な俳誌であった。
 1939年、旭シルクを退社し以後俳句に専念、関西の俳壇の中心として活躍する。1944年、戦時下の物資不足のため『俳諧』を『ホトトギス』に合併させる。1951年『ホトトギス』雑詠選者。1959年、朝日俳壇および愛媛俳壇選者。同年虚子より『ホトトギス』主宰を継承する。1979年10月26日死去、78歳。死後『ホトトギス』主宰は次女の稲畑汀子に引き継がれた。句集に『年尾句集』ほかに『俳諧手引』などの著書がある。](「ウィキペディア」)

五 「虚子の家族」周辺

[配偶者・高浜いと(1897年 - 1959年)

 子供(二男六女)

高浜年尾(長男) → 虚子の長男。俳人。「ホトトギス」三代主宰。
池内友次郎(次男)→ 虚子の次男。作曲家、音楽教育家、俳人。回想記を刊行。
真下真砂子(長女)→ http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm
星野立子(次女) → 虚子の次女。俳人。「玉藻」初代主宰。
新田宵子(三女) → http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm
高浜六(四女)  → http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm
高木晴子(五女)→ 虚子の五女。俳人。「晴居」主宰。
上野章子(六女)→ 虚子の六女。俳人、随筆家。「春潮」二代目主宰。
親族 坊城中子(孫) → http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm
稲畑汀子(孫) → http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm
星野椿(孫) → http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm ](「ウィキペディア」・「虚子一族の系図」など)


六「小諸時代(昭和19(1944)年~昭和22(1947)年)」周辺

https://www.komoro-tour.jp/spot/person/takahamakyoshi/

[ 昭和19(1944)年、太平洋戦争の戦火を逃れるため、五女の高木晴子一家と小諸へ疎開しました。小諸では五女の晴子と交流のあった小山栄一の援助のもと、精力的に俳句活動を行い、句会を開催しました。また、全国各地のホトトギス句会にも積極的に赴き、多くの俳人や門人の指導に当たりました。小諸時代はひたすら俳句に没頭できた時代でもありました。そんな中で、小諸の自然や風土を詠んだ「小諸百句」、小諸での疎開生活の様子をまとめた「小諸雑記」、小説「虹」が生み出されました。](「こもろ観光局 HOME/ みどころ/ 小諸ゆかりの文化人 /近代俳句の巨匠・高濱虚子」抜粋)

小諸三部作.png

「小諸百句」
底本:「定本高濱虚子全集 第三巻」毎日新聞社・1974(昭和49)年1月発行
底本の親本(単行本):『小諸百句』羽田書店・1946(昭和21)年発行
http://ww41.tiki.ne.jp/~haruyasumi/works/komoro100ku.txt
「序(抜粋)
昭和十九年九月四日鎌倉より小諸の野岸といふところに移り住み昭和二十一年十月の今日まで尚ほ續きをれり。鎌倉の天地戀しきこともあれど小諸亦去り難き情もあり。二年間此地にて詠みたる句百を集めたり。]

「小諸雑記」
底本:「定本高濱虚子全集 第九巻」毎日新聞社・1974(昭和49)年6月発行
底本の親本(単行本):『小諸雑記』青柿堂・1947(昭和22)年発行
「高浜虚子を歩く 其の一 小諸雑記を巡る」
https://www.youtube.com/watch?v=YPptxu6xIA4

「虹」
底本:「定本高濱虚子全集 第七巻」毎日新聞社・1975(昭和50)年1月発行
底本親本(単行本):『虹』苦楽社・1947(昭和22)年発行(「虹」「愛居」「音楽は尚ほ続きをり」)
『虹』所収「虹」
https://note.com/hujiie/n/ne5362fc3f232
『虹』所収「音楽は尚ほ続きをり」
https://haiku.jp/home/read/story-2/
[ 愛ちやんはがんばつてをります。水晶の念珠を右手首にかけて、今生の縁を楽しんでをる様です。

 と言ふ柏翠の葉書が来た。私は其手紙を受取つてから、水晶の念珠を右手首にかけてゐるといふことが頭を離れなかつた。あの病み衰へた手首に水晶の珠数をかけてゐるのかと、昨年の十月に其病床を見舞つて親しく見た其細い手首を想像するのであつた。さうして其数珠を手首にかけたまま静かに横はつてゐる様がけなげにさへ思はれるのであつた。さうして又私の夜眠れない時などは其水晶の珠数を手首にかけて静に寝てゐる愛子の容子を想像してゐると気分が落着いて来て、いつか静に眠に落つる事が出来るのであつた。

 さうしてこんな電報が来た。

 ニジ キエテスデ ニナケレド アルゴ トシ  アイコ

 生死の境を彷徨してゐることがわかつた。電話が通じれば電話をかけたいと思つたが、郵便局に聞き合すと、小諸から三國へは通じないとのことであつた。
 それから柏翠の葉書が来た。

 四月一日午後四時五十分でございました。只今納棺を致しました。 「小諸雑記」一冊と新しい句帳を入れました。その前に母達と愛子を、先生の命名して下さいましたあの九頭竜川に臨んでゐる二階の愛居に運びました。行き度いと云ひ遺しましたので。

  虹の上に立ちて見守るてふことも  愛子
  虹の上に立てば小諸も鎌倉も    同

 愛子は始終虹のことを考へながら息を引取つたものらしかつた。](「公益社団法人 日本伝統俳句協会」抜粋)
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