SSブログ

「俳誌・ホトトギス」管見(その四) [ホトトギス・虚子]

「俳誌・ホトトギス」管見(その四)
「ほとゝぎす(第二巻第一号=第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)周辺

ほとゝぎす第二巻第一号表紙.jpg

「ほとゝぎす第二巻第一号=(第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972133

ほとゝぎす第二巻第一号目次.jpg

「ほとゝぎす(第二巻第一号=第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)目次
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972133/1/2

(目次)

口繒 豊年/下村爲山
口繒 菌狩/中村不折
社告/p1~1
祝詞/内藤鳴雪/p1~1
ほとヽきす第二卷第一號の首に題/某/p1~2
古池の句の辯/獺祭書屋主人/p2~7
蕪村句集講義/鳴雪 ; 子規 ; 碧梧桐 ; 虚子 ; 墨水/p7~15
俳諧無門關/俳狐道人/p15~18
雜話/坂本四方太/p18~20
小園の記/正岡子規/p20~24
土達磨を毀つ辭/正岡子規/p24~25
淺草寺のくさ[グサ]/高濱虚子/p25~28
募集俳句 蜻蛉/子規/p28~32
募集俳句 螽/四方太/p32~34
募集俳句 きり[キリ]す/霽月/p34~37
募集俳句 蚯蚓鳴/虚子/p37~40
東京俳况/p41~41
各地俳况/p42~45
夜長の欠び/五百木飄亭/p45~47
文學美術漫評/白雲 ; 九鳥山人 ; ねずみ/p47~50
新體詩(四篇)/p50~51
和歌(十九首)/碧梧桐 ; 竹の里人/p51~52
俳句(四十句)/p52~53
秋十二時/p53~54
朝顔句合/子規判 ; 碧梧桐 ; 虚子/p54~56
附録 俳句分類/獺祭書屋主人/附の1~附の4

(管見)

一 明治三十一年(一八九八)十月十一日発行の「ほととぎす」(第二巻第一号=二十一号)こそ、発行所を東京に移して、「発行兼編輯(集)人 高浜清」と、若干二十四歳の「高浜虚子」のデビュー号ということになる。
 その「高浜虚子略年譜」には、次のように記述されている。

[明治三十一年(一八九八) 二十四歳
一月、根岸子規庵で、子規・鳴雪・碧悟桐らと蕪村輪講を始める。「萬朝報」社に入社。三月、長女眞砂子が誕生。六月、「萬朝報」社を辞職。十月、子規の協力で「ホトトギス」を東京に移して編集・発行人となる。「浅草寺のくさぐさ」を「ホトトギス」に連載、人気を博し、これより写生文の名が起こる。十一月、母柳死亡。十二月、神田猿楽町二十五番地に移転。](「現代俳句の世界一 高浜虚子」所収「高浜虚子略年譜(構成・斎藤慎爾)」)

ほとゝぎす第二巻第一号奥付.jpg

「ほとゝぎす(第二巻第一号=第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)奥付
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972133/1/38

浅草寺くさぐさ.jpg

「ほとゝぎす(第二巻第一号=第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)所収「浅草寺のくさぐさ(虚子生)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972133/1/17

二 「淺草寺のくさ[グサ]/高濱虚子/p25~28」周辺

[写生文の嚆矢は1898年10月、『ホトトギス』第2巻第1号から分載された高浜虚子の随筆「浅草寺のくさぐさ」、同号に掲載された正岡子規の随筆「小園の記」「土達磨を毀つ辞」などにあったとされている。この号は『ホトトギス』が虚子の経営となり、発行所が松山から東京に移ったのちの最初の号であり、これらの随筆は『ホトトギス』編集の中心を担っていた子規と虚子が互いに相談した上で掲載したものと見られる[2]。同年8月に松山から出た『ホトトギス』第1巻20号では、子規は発行所を東京へ移すということに触れ、今後は俳論・俳評・俳句だけでなく俳文や和歌・新体詩なども掲載すると書いており、上記の随筆は新しい俳文を作るという意識のもとで書かれたものだということが窺える。

上記の随筆のうち、「浅草寺のくさぐさ」は虚子が鉛筆と手帳を持って浅草寺に出かけ、実際の境内の情景を観察しつつ文章によって描写したもの、「小園の記」は子規が自宅の庭の様子を描出した随想である。いずれもまだ文語体で書かれているが、当時はちょうど、1890年頃から一時勢いを弱めていた言文一致運動が活気を取り戻してきた時期であり、子規も口語体が文語体よりも事物を詳しく描写するのに向いていることを認め、『ホトトギス』にも間もなく口語体によるこのような写生文が載り始めた。ただし、このような文に対し「写生文」という名称が定着するのは子規の晩年頃であり、当初は「美文」「小品文」「叙事文」などと呼ばれている。

1900年1月からは『日本』紙に子規の文章論「叙事文」が3回にわたって掲載され、「或る景色を見て面白しと思ひし時に、そを文章に直して読者をして己と同様に面白く感ぜしめんとするには、言葉を飾るべからず、誇張を加ふべからず、只ありのまゝ見たるまゝに」などとして自分の求める文章像を明らかにした。またこの前年ころより病床の子規を囲んでの文章会が始まっており、俳人や歌人が集まって互いに文章を練るようになった。この文章会は1900年に「文章には山(中心点)がなければならぬ」という子規の言葉によって「山会」と名付けられ、子規の病没(1902年)後も続けられた。この「山会」は『ホトトギス』の伝統となっており、何度かの中断を経て現代においても開催されている]。
(「ウィキペディア」抜粋)

三 「蕪村句集講義/鳴雪 ; 子規 ; 碧梧桐 ; 虚子 ; 墨水/p7~15」周辺

蕪村句集講義.jpg

「ほとゝぎす(第二巻第一号=第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)所収「蕪村句集講義(九)(子規記)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972133/1/8

子規年譜・明治三十・三十一年.jpg

「正岡子規略年譜」(明治三十一年・三十二年)
http://teamsumi2007.web.fc2.com/nenpyou.htm

 ここで、正岡子規の「蕪村句集講義」そして「蕪村句集輪読会」というのは、明治三十年(一八九七)の、柳原極堂の愛媛(松山)での「ホトトギス(旧)」創刊、そして、明治三十一年(一八九八)の、高浜虚子の江戸(東京)へ発行所を移して「ホトトギス(新)」へとの、その移行と深く関わっていることが読み取れる。

四 「ほととぎす(第一巻第一号)から同(第二巻第一号)」周辺

ホトトギス記念号一.jpg

「ホトトギス」記念号の表紙絵と原画(「第一巻第一号)」から「五百号」」)
http://www.kyoshi.or.jp/j-huuten/1300/01.htm

[今年四月で、高濱虚子・年尾・汀子、三代の主宰による月刊俳句雑誌「ホトトギス」が一三〇〇号を迎えます。日本で最も古い、明治三十年一月創刊のこの雑誌は、もともと俳句革新に奮闘する子規を応援し、地元松山の郷党達の勉強の場を提供するために、柳原極堂が独力で編輯し、松山で発行したものでした。発行部数三百では経営できず、極堂は子規に助けを求めます。そして翌三十一年十月、兄から借りた三百円で出版権を極堂から買い取った虚子が発行人となり、東京から「ホトトギス」を出版しました。これが表紙絵・口絵を施された、二十一号です。千五百部刷って即日完売し、追加で五百部刷り直しています。以後「ホトトギス」の販売部数は、小説ブームによる文芸雑誌化や戦争による景気の変動、虚子の病気等の影響を受けて何度も浮沈を繰り返します。ここに陳列した記念号のみを見ても、頁数や内容が極端に異なり、各々の時代を反映させていることが窺えます。]([「ホトトギス」一三〇〇号記念展]抜粋)
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート