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「俳誌・ホトトギス」管見(その十一) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス・五百号」周辺

ホトトギス・五百号.jpg
 
「ホトトギス・五百号」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972618/1/1

(目次)

「成程」 / 高濱虛子/p1~4
お濠の水鳥 / 赤星水竹居/p4~5
算術ぎらひ / 富安風生/p5~8
日附 / 佐藤漾人/p9~10
寶生九郞翁(6) / 池內たけし/p11~18
牛鍋 / 大岡龍男/p19~22
おAさん / 眞下喜太郞/p22~23
句日記 / 高濱虛子/p24~26
ホトトギスに關係深かりし物故せる人々 / 高濱虛子/p26~28
復軒先生--虛子先生著「杏の落ちる音」餘談 / 林若樹/p29~38
リアリズムと最短詩型の問題 / 山路閑古/p39~68
現代徒然草 / 永田靑嵐/p68~73
現「ホトトギス」作家小觀 / 伊藤鷗二/p73~82
高濱さんと私 / 安倍能成/p82~86
廻り出す / 京極杞陽/p86~89
河風 / 山本實彥/p90~93
いみじくも小さきわが詩に / 山口靑邨/p93~100
五百號記念集 / 赤木格堂 ; 吉田絃二郞 ; 蘇峰迂人 ; 佐藤紅綠 ; 正宗白鳥 ; 村上鬼城 ; 小野蕪子 ; 杉村楚人冠 ; 吉井勇 ; 近松秋江 ; 池部釣 ; 藤井紫影 ; 宇佐美不喚洞 ; 野間奇瓢 ; 靑木月斗 ; 上司小劍 ; 村上霽月 ; 吉岡禪寺洞 ; 依田秋圃 ; 庄司瓦全 ; 島田靑峰 ; 鹿子木孟郞 ; 寒川鼠骨 ; 飯田蛇笏 ; 中野三允 ; 小川千甕 ; 西川一草亭 ; 前田普羅 ; 山路閑古 ; 目黑野鳥 ; 鍋平朝臣 ; 柳原極堂 ; 武定巨口 ; 日野草城 ; 牛田鷄村 ; 伊藤鷗二 ; 今村幸男 ; 森古泉 ; 服部嘉香 ; 齋藤茂吉 ; 野上豐一郞 ; 野上彌生子 ; 栗本木人 ; 岡本松濱 ; 齋藤香村 ; 三好達治 ; 中村星湖 ; 柴淺茅 ; 福田把栗 ; 中村吉藏 ; 籾山梓月 ; 松浦爲王 ; 臼田亞浪 ; 加茂正雄 ; プロバン一羽 ; ヂュリヤン・ヴヲカンス/p102~136
虛子の胸像製作者たる石井鶴三を圍みて / 石井鶴三 ; 赤星水竹居 ; 麻田椎花 ; 楠目橙黃子 ; 三宅淸三郞 ; 高濱虛子/p137~145
春寒の深川(武藏野探勝の九〇) / 上林白草居/p146~150
雜詠句評會(145) / 王城 ; 茅舍 ; 橙黃子 ; 花蓑 ; 泊雲 ; 素十/p151~154
發行所例會/p155~156
鳴雪翁十三囘忌小句會 / 高濱虛子/p156~158
ホトトギス 五百號史を編むついでに / 高濱虛子 ; 柴田宵曲/p158~164
子規の前に獨り言(1) / 高濱虛子/p166~170
同人集 / ホトトギス同人八十二家/p171~204
外國の俳句 芳草や黑き烏も濃紫 / 高濱虛子/p206~208
外國の俳句 ガリニエの手紙の譯 / 佐藤朔/p209~210
外國の俳句 親愛なる先生 / ヂュリヤン・ヴヲカンス/p211~211
外國の俳句 伯林より / 山口靑邨/p212~213
外國の俳句 戰地より其他/p214~218
外國の俳句 消息 / 虛子/p219~220
外國の俳句 雜詠 / 高濱虛子/p221~290

(管見)

一 「松根東洋城更迭(訣別)」・「水原秋櫻子離脱」・「『日野草城・吉岡禅寺洞・杉田久女』除名」・「ホトトギス・五百号」前後

http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/nenpu/100nensi/1002-top.htm

(「松根東洋城更迭(訣別)」)

大正四年(1915)
 二月 渋柿」創刊。
大正五年(1916)
 四月 虚子、国民新聞の「国民俳句」の選を東洋城に代わり再び担当。
 
(「水原秋櫻子離脱」・「『日野草城・吉岡禅寺洞・杉田久女』除名)

昭和二年(1927)
 十月 「秋桜子と素十」虚子。
昭和三年(1928)
 四月 大阪毎日新聞社講演で虚子「花鳥諷詠」を提唱。
 九月 山口青邨「どこか実のある話」で、誓子・青畝・秋桜子・素十を四Sと名付く。
昭和六年(1931)
 十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。
昭和七年(1932)
 三月 草城ホトトギスを批判、『青芝』刊。「花衣」創刊。
昭和八年(1933)
 一月 誓子「かつらぎ」で「花鳥風月を詠み人事現象を疎略にするのは誤り」と。
 三月 碧悟桐俳壇引退を声明。
昭和十年(1935)
 五月 誓子「馬酔木」に参加。
昭和十一年(1936)
 十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名。
 
(「ホトトギス・五百号」前後)

昭和十二年(1937)
 二月 河東碧梧桐没。
 六月 虚子『五百句』刊(改造社)。帝国芸術院創設、虚子会員に推される。
昭和十三年(1938)
 四月 「ホトトギス」五百号。高浜年尾俳号を「としを」から「年尾」と改名。
昭和十四年(1939)
 八月 「俳句研究」の座談会「新しい俳句の課題」、これより人間探求派の呼称起る。
昭和十五年(1940)
 二月 京大俳句弾圧事件。日本俳句作家協会設立、虚子会長に就任。

二 「ホトトギス」内部の対立・相克・粛清

 大正五年(一九一六)四月十七日の、「国民新聞」の「社告」(明治四十一年に虚子から引き継いだ「国民俳壇(選者)」を一方的に虚子に交替させるという社告)は、虚子と東洋城との、以後の「絶交・訣別」という事態をもたらし、虚子は「ホトトギス」・「国民新聞(国民俳壇選者)」、そして、東洋城は「渋柿」と「朝日新聞(朝日俳壇選者)」(大正八年~大正十二年)と、その相克は、虚子の「韜晦」(清濁併せ吞む本心を見せない気質)と東洋城の「狷介」(気位の高い頑固一徹の気質)の、その気質が倍加されて、その深い対立・相克の溝は終生埋まることはなかった。
 このことは、それに続く、昭和六年(一九三一)の、水原秋櫻子の「ホトトギス」離脱と類似し、以後の「秋櫻子と虚子(そして素十)」との「絶交・訣別」とを意味し、秋櫻子の「主観(創作)写生」の「馬酔木」と、虚子の、客観写生の「ホトトギス」(素十の「芹」)との、その対立・相克とは、これまた、その溝は埋まることはなかった。
 これらのことは、昭和十一年(一九三六)の、「草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名」と繋がってくる。
 この「草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名」は、昭和十一年(一九三六)十月号の「ホトトギス」(第四十巻第一号/四百八十二号)には、下記のとおり搭載されている。
 そして、それは、「新興俳句運動」(反ホトトギスの俳句革新運動。水原秋桜子を先駆とし、山口誓子・日野草城らが参加。)に深く関わった「日野草城・吉岡禅寺洞」の除名は、「さもありなん」と理解出来るとしても、虚子崇拝の念が強い「杉田久女」の除名となると、これは、「松根東洋城更迭(訣別)」・「水原秋櫻子離脱」と併せ、一連の、「ホトトギス」内部態勢を固めるための、「異端子の粛清」という印象を深くする。
 この「同人変更」(「『日野草城・吉岡禅寺洞・杉田久女』除名」)の公告の次に、「俳論・俳話」として、「松本たかし・河野靜雲・淸原枴童・川端茅舎・鈴鹿野風呂~山口靑邨」の、これらの俳人こそ、「虚子」直系の、そして、「ホトトギス・五百号」の、その中心に据えられた「ホトトギス」俳人群像ということになろう。

(「同人変更」と「俳論・俳話」)

同人変更.jpg

(「同人変更」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972600/1/21
(「俳論・俳話」)
[俳論・俳話 二十六篇 縛られないといふこと / 松本たかし/p32~34
俳論・俳話 二十六篇 雜感 / 河野靜雲/p34~36
俳論・俳話 二十六篇 磊塊片々 / 淸原枴童/p37~41
俳論・俳話 二十六篇 金針銀針 / 川端茅舎/p41~47
俳論・俳話 二十六篇 ゆすらうめ / 鈴鹿野風呂/p48~52
俳論・俳話 二十六篇 去來抄を讀みつゝ / 田中王城/p53~56
俳論・俳話 二十六篇 俳句と日本刀 / 赤星水竹居/p56~58
俳論・俳話 二十六篇 さかしら言 / 上林白草居/p58~63
俳論・俳話 二十六篇 俳句に於ける古典主義 / 山路閑古/p64~82
俳論・俳話 二十六篇 此頃の話題 / 伊藤鷗二/p83~92
俳論・俳話 二十六篇 寫生といふこと / 長谷川素逝/p93~100
俳論・俳話 二十六篇 俳句修行ちか道 / 小山耕生/p100~102
俳論・俳話 二十六篇 認識 / 安藤老蕗/p103~104
俳論・俳話 二十六篇 俳句雜話 / 瀧本水鳴/p105~107
俳論・俳話 二十六篇 寫生と推敲 / 木津蕉蔭/p107~109
俳論・俳話 二十六篇 傳統と現實 / 福田蓼汀/p109~113
俳論・俳話 二十六篇 句作の思ひ出 / 宇津木未曾二/p114~118
俳論・俳話 二十六篇 如是我聞 / 小林拓水/p118~121
俳論・俳話 二十六篇 海月・其他 / 柏崎夢香/p121~124
俳論・俳話 二十六篇 俳悦 / 大橋越央子/p124~127
俳論・俳話 二十六篇 洋行俳句瞥見 / 五十嵐播水/p127~133
俳論・俳話 二十六篇 魔 / 皿井旭川/p134~136
俳論・俳話 二十六篇 その外に何もない / 鈴木花蓑/p136~137
俳論・俳話 二十六篇 境涯といふこと / 佐藤漾人/p137~139
俳論・俳話 二十六篇 玉斧 / 楠目橙黄子/p139~142
俳論・俳話 二十六篇 颯々の記 / 山口靑邨/p142~150 ]

三 「ホトトギス・五百号」に祝辞を寄稿した人たち

[ 五百號記念集 / 赤木格堂 ; 吉田絃二郞 ; 蘇峰迂人 ; 佐藤紅綠 ; 正宗白鳥 ; 村上鬼城 ; 小野蕪子 ; 杉村楚人冠 ; 吉井勇 ; 近松秋江 ; 池部釣 ; 藤井紫影 ; 宇佐美不喚洞 ; 野間奇瓢 ; 靑木月斗 ; 上司小劍 ; 村上霽月 ; 吉岡禪寺洞 ; 依田秋圃 ; 庄司瓦全 ; 島田靑峰 ; 鹿子木孟郞 ; 寒川鼠骨 ; 飯田蛇笏 ; 中野三允 ; 小川千甕 ; 西川一草亭 ; 前田普羅 ; 山路閑古 ; 目黑野鳥 ; 鍋平朝臣 ; 柳原極堂 ; 武定巨口 ; 日野草城 ; 牛田鷄村 ; 伊藤鷗二 ; 今村幸男 ; 森古泉 ; 服部嘉香 ; 齋藤茂吉 ; 野上豐一郞 ; 野上彌生子 ; 栗本木人 ; 岡本松濱 ; 齋藤香村 ; 三好達治 ; 中村星湖 ; 柴淺茅 ; 福田把栗 ; 中村吉藏 ; 籾山梓月 ; 松浦爲王 ; 臼田亞浪 ; 加茂正雄 ; プロバン一羽 ; ヂュリヤン・ヴヲカンス/p102~136 ]

五百號記念集.jpg

「五百號記念集」(抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972618/1/7

[蘇峰迂人(※「徳富蘇峰」=「国民新聞・国民俳壇」社主)→「最も古き愛読者の一人/蘇峰迂人/ホトトギスと共に虚子先生の愈々健在祈る。」

村上鬼城→「吾、二十幾つにしてホトトギスを知り、今茲七十四歳に及ぶ。五百号の跡を鑑みて感無量。」

吉岡禅寺堂(※除名された「天の川」主宰者)→「高浜虚子先生の長寿を祈り、ホトトギス五百号を遥かに祝福します。」

日野草城(※除名された「旗艦」・「青玄」主宰)→「先生に褒められた話二つ」(省略)

赤木格堂(※漱石門・漱石十哲の一人)→「回顧五十年」(省略)
野上豊一郎(※漱石門・漱石十哲の一人「野上臼川」)→(省略)
野上彌生子(※漱石門・「豊一郎」の妻)→(省略)
※安倍能成(※漱石門・漱石十哲の一人)→「高濱さんと私 / 安倍能成/p82~86」(省略)

村上霽月(※子規門・夏目漱石・内藤鳴雪の知己、「ホトトギス」選者など)→省略
柳原極堂(※子規門、「ホトトギス」創刊、「鶏頭」主宰)→省略
佐藤紅綠(※子規門、劇作家・小説家・俳人)→省略
飯田蛇笏(※東洋城・虚子門、「雲母」主宰)→省略
前田普羅(※虚子門、「辛夷」主宰)→省略
靑木月斗(※子規門、「カラタチ」主宰)→省略

小野蕪子(※虚子・石鼎門、「草汁」創刊、「鶏頭陣」主宰。「新興俳句運動・プロレタリア俳句運動などに対する新興俳句弾圧事件(京大俳句事件)の黒幕、あるいは特別高等警察への密告者とされる。」)→省略

杉村楚人冠(「朝日新聞社本社記事審査部長、取締役、監査役」、随筆家、俳人)→省略

島田靑峰(※「41年国民新聞社にはいる。高浜虚子のあとをうけ,昭和3年まで学芸部長。その間「ホトトギス」の編集にあたり,大正11年篠原温亭と俳誌「土上(どじょう)」を創刊。昭和16年新興俳句弾圧事件で検挙された)→省略

中野三允(※子規門、「アラレ」を創刊)→省略

岡本松濱(※「子規の俳句革新運動に共鳴し、和歌山の銀行に勤めながら「ホトトギス」に投句。高浜虚子に認められたことで1904年に上京し、「ホトトギス」発行所に勤めた。渡辺水巴らと交流、「趣味」誌の選も担当し久保田万太郎、野村喜舟らを育てた。1910年、「ホトトギス」を辞して大阪へ戻り消息を絶つが、1926年「寒菊」を創刊し俳壇に復帰、1933年の廃刊まで主宰。下村槐太、阿部慧月、加藤かけい、大場白水郎らを育てた)→省略

臼田亞浪(※「大正4年(1915年)大須賀乙字とともに俳誌『石楠』を創刊して、俳壇に登場し、信濃毎日新聞等で撰者を務めた。恩師高浜虚子の『ホトトギス』、河東碧梧桐の新傾向俳句を批判し、俳壇革正を目指した。松尾芭蕉、上島鬼貫を慕い、自然の中にこそ真の俳句があると唱え自然感のある民族詩としての句作を目指した。翌大正5年(1916年)やまと新聞を退社し、以後は句作に専念することとなった。)→省略

吉田絃二郞(※小説家、随筆家、「清作の妻」の映画化など。) →省略
正宗白鳥(※自然主義の代表作家として出発。評論・戯曲も知られる。) →省略
吉井勇(※歌人、脚本家。華族(伯爵)でもあった。) →省略
近松秋江 (※代表的な私小説作家の一人。)→省略
池部釣(※風刺漫画家、洋画家。岡本一平の義弟。)→省略
藤井紫影(※子規門。京大教授、近世文学の第一人者)→省略
籾山梓月(※俳号に庭後、江戸庵など。茶道では宗仁と称す。)→省略
西川一草亭(※去風流七代家元。津田青楓の実兄。)→省略
小川千甕(※仏画師・洋画家・漫画家・日本画家。「ホトトギス」の表紙絵など。)→省略
中村吉藏(※劇作家、演劇研究家。早稲田大学教授。)→省略
齋藤茂吉(※歌人・精神科医。伊藤左千夫門下。)→省略
三好達治(※詩人、翻訳家、文芸評論家。)→省略

プロバン一羽の虚子宛書簡.png

「プロバン一羽の虚子宛書簡」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972618/1/70

プロバン一羽 (※北米の「ホトトギス」系俳人)

ヂュリヤン・ヴヲカンスの虚子宛書簡.png

「ヂュリヤン・ヴヲカンスの虚子宛書簡」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972618/1/70

ヂュリヤン・ヴヲカンス(※「『虚子の句の仏語翻訳』などに関係する仏蘭西人)

四 「お濠の水鳥 / 赤星水竹居/p4~5」周辺

[赤星 水竹居(アカボシ スイチクキョ) 明治〜昭和期の俳人 三菱地所会長。
生年 明治7年1月9日(1874年)
没年 昭和17(1942)年3月28日
出生地 熊本県八代郡鏡町
本名 赤星 陸治(アカボシ ロクジ)
学歴〔年〕 東京帝大法科大学〔明治34年〕卒
経歴 
東京帝大卒業後、三菱地所部に入社し、明治40年丸の内街の開発建設に当った。学生時代は短歌を作ったが、41年内藤鳴雪に師事して俳句に転じ、のち「ホトトギス」に拠り、昭和4年同人となる。没後「水竹居句集」「虚子俳話録」が刊行された。](「20世紀日本人名事典」)

皇居界隈/東京駅・丸の内.jpg

皇居界隈/東京駅・丸の内 文:山尾かづひろ 挿絵:矢野さとし
https://gendaihaiku.blogspot.com/2010/12/blog-post_8147.html

[ 【東京駅・丸の内】

都区次(とくじ):東京駅は丸の内北口から降りていただきます。大規模なビル群が目に入りますね、この景色こそが東京駅を東京の表玄関という所以ですね。東京駅の赤レンガは象徴的で素晴らしいですが、それに引き換え屋根は味気ないですね。

江戸璃(えどり):私のような大正生れの人は知ってるけれど、味のあるドームだったのよ。それが昭和20年5月の東京大空襲で3階から上と屋根が燃えちゃったのよ。現在のは終戦直後の改修だから付焼刃なのよ。米軍も選別爆撃をしていたのだから外してくれてもよかったのよねエ。いま全面に防災の網を張ってトンカン・トンカンと改修工事をやってるわよ。来年の春には元のちゃんとした姿になるんじゃない?

都区次:江戸時代の繁華街というと日本橋なんですが、この東京駅・丸の内はどうだったのですか?東京駅は東海道本線の起点として大正3年12月の開業ですが、周りの景観に比べて駅の開業が相当に遅いようですが?

江戸璃:江戸時代は東京駅から江戸城辺りまでの大手町・丸の内・霞ヶ関などは大名の藩邸だったのよ。

都区次:維新後はそうした大名の藩邸は新政府のものになりますよねエ?

江戸璃:そのとおり新政府に接収されて陸軍用地、官庁用地になったわね。ところがギッチョンチョン、このときの新政府は財政難で麻布の兵舎の建設資金すら無く、明治23年に丸の内の十万余坪を売りにだしたのよ。

都区次:現在の状況から考えると売れたということですね。

江戸璃:そう簡単でもなかったのよ。財相の松方正義が財閥の幹部を呼び出してお願いしたのだけれど相場の数倍とあっては、そうは問屋は卸さないわよねエ。松方は次男が三菱の副社長の岩崎弥之助の長女と結婚している関係から岩崎弥之助に何度も懇願したのよ。弥之助も困っちゃうわよねエ。仕方なくロンドン出張中で経験豊富な上級番頭の荘田平五郎に電報で相談したわけよ。答えは「スミヤカニカイトラルベシ」だったのよ。

都区次:でも、それは言い値で買ったのでしょう?

江戸璃:その通りだけど荘田の考えは「情け有馬(ありま)の水天宮」というのではなくて、すでにロンドンのビル街を想定していたのね。

都区次:丸の内に三菱一号館が出来たのは明治27年ということですが、まだ東京駅は開業してませんよね。

江戸璃:東海道線も新橋まで、中央線もお茶ノ水までで、アクセスは大手町と日比谷間を走っていた路面のチンチン電車だけだったから相当不便で簡単にビルの借り手なんてなかったと思うわよ。歌人の岡本かの子が子供の頃、丸の内は三菱ヶ原と呼ばれて、草茫々の原野でところどころに武家屋敷の跡らしい変わった形の築山があったと書いていたわね。三菱側も土地の確保と政府への「貸し」をつくっておいて東京駅が出来るまで「塩漬け」にしておいたのじゃない?

都区次:さて、現在の丸の内を東京駅より眺めて、ひときわ目につくのが「丸の内ビルディング」です。このビルは二代目で平成十四年八月竣工の地上三十七階、地下四階の超高層ビルという仕様です。下層には歌謡曲『東京行進曲』などで名を残した先代の「丸の内ビルヂング(先代は表記が少し違う)」の面影を残しています。

江戸璃:私ね、二代目の「丸ビル」には悪いけど、先代の方がはるかに味があって好きだったのよ。

都区次:その先代の「丸ビル」に俳句の「ホトトギス」発行所が大正12年から入っていたそうですね。これは三菱が勧誘したのですか?

江戸璃:違うわよ。高浜虚子の方から入居希望したのよ。当時は欧州大戦が収束するか、しないかの時期で、昭和20年代の朝鮮特需のような状況でテナントの募集宣伝をしなくても入居希望があったのよ。新興成金にとって丸ビルへの入居は垂涎の的だったらしいわよ。当時、三菱地所の不動産部長だった赤星陸治(のちの赤星水竹居)が最初のテナントリストを見て、その中にホトトギスの虚子の名があってビックリ仰天したのよ。

都区次:何でビックリ仰天したのですか?

江戸璃:実業家でもないし、牛込の借家で「ホトトギス」を発行しているような虚子が本当に入るのか?家賃は支払えるのか?という疑問が当然浮かぶでしょ。後々になって家賃不払いとかになったら面倒じゃない?それで赤星は虚子に会いに行ったのよ。そしたら意気投合しちゃってね。赤星は虚子を応援する気になったのよ。応援と言ったって赤星は三菱の人だから家賃を負けてやるなんていうことは出来ないでしょう?まず自分が「ホトトギス」に入って、三菱の人達を「ホトトギス」に入れてやったのよ。

都区次:何か虚子が背伸びして丸ビルに入居したようですが、何でですか?

江戸璃:ライバルの河東碧梧桐を意識したのよ。当時、碧梧桐の方が俳句は隆盛で、おまけに浄土真宗の大谷句仏がスポンサーになって全国行脚をしたり、飛ぶ鳥を落とす勢いだったのよ。虚子も対抗意識を燃やしたのでしょうね。

(丸ビル)
梅雨傘をさげて丸ビル通り抜け  高浜虚子
丸ビルのあの窓ひとつ冬灯    山尾かづひろ   ](「現代俳句協会ブロッグ」)

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