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「俳誌・ホトトギス」管見(その十三) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス・七百号」周辺

ホトトギス・七百号.jpg
 
「ホトトギス・七百号」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972813/1/1

(目次)

回顧(俳句)/虚子/p3~3
ホトトギス七百號/高濱虚子/p4~5
『ホトトギス』と私/小宮豐隆/p6~10
大師堂の大松/高濱虚子/p11~14
鍔廣の帽子/高濱年尾/p14~15
堀田先生來書/大岡龍男/p15~18
饀パン/佐藤漾人/p18~19
雪沓/深川正一郞/p19~20
梟/京極杞陽/p21~21
十日町/池内たけし/p21~22
物干し/波野千代/p22~23
春風/下田實花/p23~24
花鳥諷詠論について/深見けん二/p26~31
ベルリン句會の時のこと/京極杞陽/p32~33
隨問・隨答/阿部小壼 ; 眞下喜太郞/p34~35
思ひ出・折々 船河原町時代の誰彼/年尾/p36~37
雜詠/年尾/p38~74
雜詠選集(豫選稿)/虚子/p75~82
句日記/虚子/p2~2
句帖/年尾/p2~2
消息/虚子/p83~83
消息/年尾/p83~83
俳畫 屋根替/植田湖畔/p25~25
俳畫 茶山/相生垣秋津/p55~55

(管見)

一 「『ホトトギス』と私/小宮豐隆/p6~10」周辺

ホトトギス 14(9).jpg

「ホトトギス 14(9)」(出版者/ホトトギス社 出版年月日/1911-04)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972296/1/1
 
[『ほととぎす 臨時増刊 五人集』」(明治44年4月18日発行)目次
寒き影 / 小宮豐隆/p1~27
長兄 / 東渡生/p28~61
狐火 / 阿部次郞/p62~71
女 / 鈴木三重吉/p82~126
御殿女中(上) / 森田草平/p127~136
表紙圖案 / 橋口五葉
土耳古のカフエー(揷畵) / 石井柏亭/p3~3
田舍者の一人(揷畵) / 石井柏亭/p6~6
落花(揷畵) / 齋藤與里/p9~9
グリーキの女(揷畵) / 齋藤與里/p12~12
フランスの女優(揷畵) / 齋藤與里/p15~15
失題(揷畵) / 齋藤與里/p18~18
失題(揷畵) / 齋藤與里/p21~21
失題(揷畵) / 齋藤與里/p24~24
失題(揷畵) / 齋藤與里/p27~27
失題(揷畵) / 齋藤與里/p30~30
失題(揷畵) / 齋藤與里/p33~33
僕トコの近邊其一(揷畵) / 渡邊與平/p36~36
其二(揷畵) / 渡邊與平/p39~39
其三(揷畵) / 渡邊與平/p42~42
其四(揷畵) / 渡邊與平/p45~45
其五(揷畵) / 渡邊與平/p48~48
其六(揷畵) / 渡邊與平/p51~51
其七(揷畵) / 渡邊與平/p54~54
其八(揷畵) / 渡邊與平/p57~57
其九(揷畵) / 渡邊與平/p60~60
其十(揷畵) / 渡邊與平/p63~63
顏(揷畵) / 津田靑楓/p66~66
うちの下女(揷畵) / 津田靑楓/p69~69
FEMME DE MÈNAGE(揷畵) / 津田靑楓/p72~72
ひふ(揷畵) / 津田靑楓/p75~75
たすき(揷畵) / 津田靑楓/p78~78
MA FEMME(揷畵) / 津田靑楓/p81~81
SINGE(揷畵) / 津田靑楓/p84~84
ひつぱり(揷畵) / 津田靑楓/p87~87
SIT PI(揷畵) / 津田靑楓/p90~90
LIS(揷畵) / 津田靑楓/p93~93
田舍人形(揷畵) / 小川芋錢/p96~96
廻り佛(揷畵) / 小川芋錢/p99~99
床(揷畵) / 小川芋錢/p102~102
寫眞(揷畵) / 小川芋錢/p105~105
船大工(揷畵) / 小川芋錢/p108~108
朽木(揷畵) / 小川芋錢/p111~111
釜城(揷畵) / 小川芋錢/p114~114
失題(揷畵) / 小川芋錢/p117~117
廢舟(揷畵) / 小川芋錢/p120~120
土筆山(揷畵) / 小川芋錢/p123~123  ](「国立国会図書館デジタルコレクション」)

※「『ホトトギス』と私/小宮豐隆/p6~10」は、昭和三十年(一九六五)の時で、「虚子(八十一歳))、「松根東洋城(七十八歳)」、そして、「小宮豊隆(七十二歳)、安倍能成(七十三歳)」、上記の、「ほととぎす 臨時増刊 五人集」に出て来る、「鈴木三重吉(昭和十一年没)」と森「田草平(昭和二十四年没)」とは他界している。
 そして、小宮豊隆を東北大へと招聘した「阿部次郎」も、その二年後(1959年〈昭和34年〉)に没している。
 ここで、「ほととぎす 臨時増刊 五人集」(明治44年4月18日発行)は、小宮豊隆が、二十八歳の時で、当時は、夏目漱石の下で、「朝日新聞文芸欄」を、「森田草平、阿部次郎・安倍能成」らとコンビを組んで、盛り立てていた頃ということになる。
 この頃の、松根東洋城は、明治四十一年(一九〇八)に、虚子より「国民俳壇」の選者を引き継ぎ、俳句より小説に専念していた、虚子の実質的な後継者として、「ホトトギス」・「国民俳壇」の俳人第一人者として、縦横に活躍していた時代ということになる。
 もう一人、寺田寅彦は、明治四十二(一九〇九)から明治四十四年(一九一一)にかけて、ヨーロッパに留学(ベルリン大学・ゲッチンゲン大学)していて、異国の地にあった。
 ここで、明治四十四年(一九一一)の、「漱石年譜」・「東洋城年譜」・「寺田寅彦年譜」などを、下記のアドレスで再掲をして置きたい。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-12

[漱石・四十四歳。明治44(1911) 2月、文学博士号を辞退。7月、「ケーベル先生」、11月、ひな子急死。]

[東洋城・三十四歳。一月、父没す。望遠館を引払つて、築地に一戸を構へた。五月二十四日の日記に「松根の宅は妾宅の様な所である云々。漱石の博士問題起る。六月、四十二年より留学中の寅彦帰朝。九月、漱石大阪に病み、東洋城は伊予より帰京の途見舞つた。]

[寅彦・三十四歳。欧米各国の地球物理学を調査するため、二月にフランス、四月にイギリス、五月にアメリカ、六月、帰国。七月、正七位に叙せられる。十一月、物理学第三講座を担任、第二講座を分担する。十一月、本郷区弥生町に転居。]

漱石夫妻.jpg

『漱石夫妻 愛のかたち』より
https://yamabato.exblog.jp/32354048/
夏目漱石の長女・筆子の次女(松岡陽子マックレイン)による著作『漱石夫妻 愛のかたち』。
『漱石の思い出』(漱石の妻・鏡子の語りを、筆子の夫で漱石の門人でもあった松岡譲が書き取ったもの)を軽く補足するような内容)。)
[漱石家族(前列左から「二女・恒子、妻・鏡子、長男・純一、四女・愛子、長女・筆子、三女・栄子」、後列、左から「松根東洋城・森成麟造医師」など) ]

※※ ここに、[『ほととぎす 臨時増刊 五人集』」(明治44年4月18日発行)の「小宮豊隆・安部能成・鈴木三重吉・森田草平(欄外の「三重吉の右脇)」の写真が遺されている。
 もう一人の「阿部次郎」周辺は、下記のアドレスなどが参考となる。

https://gbvx257.blog.fc2.com/blog-entry-2643.html

阿部次郎.jpg

阿部次郎(1883~1959)略歴(以下はWikipedia版を編集)

[1883年(明治16年)山形県飽海郡上郷村(現・酒田市)大字山寺に生まれる。荘内中学(現山形県立鶴岡南高等学校)から山形中学(現山形県立山形東高等学校)へ転校。校長の方針に反発し、ストライキを起こして退学。その後上京して京北中学校へ編入。
 1901年(明治34年)、第一高等学校入学。同級生に鳩山秀夫、岩波茂雄、荻原井泉水、一級下に斎藤茂吉がいた。1907年(明治40年)、東京帝国大学に入学後哲学科を卒業。夏目漱石に師事、森田草平、小宮豊隆、和辻哲郎らと親交を深めた。
 
1914年(大正3年)に発表した『三太郎の日記』は大正昭和期の青春のバイブルとして有名で、学生必読の書であった。慶應義塾大学、日本女子大学の講師を経て1922年(大正11年)、文部省在外研究員としてのヨーロッパ留学。同年に『人格主義』を発表。真・善・美を豊かに自由に追究する人、自己の尊厳を自覚する自由の人、そうした人格の結合による社会こそ真の理想的社会であると説く。
 
帰国後の1923年(大正12年)東北帝国大学(現東北大学)に新設の法文学部美学講座の初代教授に就任。以来23年間に渡って美学講座を担当。1941年(昭和16年)、法文学部長を経て1945年(昭和20年)、定年退官。1947年(昭和22年)帝国学士院会員となる。1954年(昭和29年)、財団法人阿部日本文化研究所の設立、理事長兼所長を務める。

大正末年から『改造』に連載した『徳川時代の藝術と社会』を著す。阿部はここで、歌舞伎、浮世絵といった徳川時代芸術を批判、抑圧された町人たちの文化と説いた。哲学者や夏目漱石門下の作家らとの交流や、山形で同郷の斎藤茂吉や土門拳との交流は有名。

1958年(昭和33年)脳軟化症のため東大附属病院に入院。1959年仙台市名誉市民の称号を贈られた同年、東大附属病院にて死去。(満76歳)現在、酒田市(旧・松山町)の生家は阿部記念館となっており、青葉区米ケ袋には阿部次郎記念館がある。](「阿部次郎昭和6年随筆『丘の上から』」)


二 「花鳥諷詠論について/深見けん二/p26~31」周辺

花鳥諷詠論.jpg

「花鳥諷詠論について/深見けん二/p26~31」周辺
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972813/1/14

[深見 けん二(ふかみ けんじ、1922年3月5日 - 2021年9月15日)は、福島県出身の俳人。本名は謙二。
 高玉鉱山(現・郡山市)に生まれる。父の転勤で東京に移り、府立第五中学校を経て東京帝国大学工学部冶金科を卒業。卒業後は東大冶金科研究室勤務を経て日本鉱業入社。日興エンジニアリング勤務。
 高校時代の1941年より高浜虚子に師事、20歳の頃に深川正一郎の指導を受ける。大学卒業後「ホトトギス新人会」を結成。1952年より山口青邨にも師事し、1953年に青邨の「夏草」同人。1959年に「ホトトギス」同人。1989年、「珊」創刊同人。1991年、「Fの会」を土台として「花鳥来」を創刊、主宰。(以下略) ](「ウィキペディア」)

[花鳥諷詠(かちょうふうえい)は、高浜虚子 の造語。虚子の俳句理論を代表する根本理念である。
 花鳥諷詠」は1928年4月21日の「大阪毎日新聞」の講演会で提唱された。「花鳥」は季題の花鳥風月のことで、「諷詠」は調子を整えて詠う意味である。
 一般に「花鳥風月」といえば「自然諷詠」の意味になるが、虚子によれば「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります」(『虚子句集』)と「人事」も含めている。この「花鳥諷詠」は「ホトトギス」(俳誌)の理念であるが、それまで主張していた「客観写生」との関係は必ずしも明らかではない。虚子は終生この主張を変えることなく繰り返したが、理論的な展開は示さなかった。
 虚子の後継者である孫・稲畑汀子は「虚子が人事界の現象をも花鳥(自然)に含めたことは重要であるが、その事は案外知られていない。それは「人間もまた造化の一つである」という日本の伝統的な思想、詩歌の伝統に基づくものであった。アンチ花鳥諷詠論の多くは、この点を理解せず、自然と人間、主観と客観などの二項対立的な西洋形而上学に基づいているため、主張が噛み合っていないように思われる」(「俳文学大辞典」)という。
つまり、「花鳥諷詠」は花鳥風月と分けて考える必要があり、人間の営みを含めた森羅万象を詠む概念であって、虚子としては「有季」という意味で「花鳥諷詠」という語を説いたと思われる。虚子自身「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」(1954年)の句を残しているように、花鳥諷詠は「表題」と考えればわかりやすい。(以下略) ](「ウィキペディア」)

(参考)

「新興俳句と花烏弧詠論」(松井利彦稿)

https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/jl/ronkyuoa/AN0025722X-023_060.pdf

「第7回 高浜虚子④ ――花鳥諷詠の功罪」(井口時男稿)

https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/kou/kokugo/document/ducu5/c01-00-007.html


三 川端龍子(「ホトトギス・七百号」表紙画)と川端茅舎(「花鳥諷詠眞骨頂漢」)周辺

(再掲)

https://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E8%8C%85%E8%88%8E

[茅舎復活(その二)(抜粋)

(『川端茅舎句集』・「序」)

茅舎句集が出るといふ話をきいた時分に、私は非常に嬉しく思つた。親しい俳友の句集が出るといふ事は誰の句集であつても喜ばしいことに思へるのであるけれども、わけても茅舎句集の出るといふことを聞いた時は最も喜びを感じたのである。それはどうしてであるかといふ事は自分でもはつきり判らない。
茅舎君は嘗ても言つたやうに、常にその病苦と闘つて居ながら少しもその病苦を人に訴へない人である。生きんが為の一念の力は、天柱地軸と共に、よく天を支へ地を支へ茅舎君の生命をも支へ得る測り知られぬ大きな力である。
茅舎君は真勇の人であると思ふ。自分の信ずるところによつて急がず騒がず行動してをる。茅舎君は雲や露や石などに生命を見出すばかりではなく、鳶や蝸牛などにも人性を見出す人である。
露の句を巻頭にして爰に収録されてゐる句は悉く飛び散る露の真玉の相触れて鳴るやうな句許りである。

昭和九年九月十一日
ホトトギス発行所     高浜虚子

(『華厳』・「序」)

花鳥諷詠真骨頂漢     高浜虚子

(『白痴』・「序」)

新婚の清を祝福して贈る  白痴茅舎     ]


[茅舎復活(その五)(抜粋)

「昭和十六年・二水夫人土筆摘図」

日天子寒のつくしのかなしさに
寒のつくしたづねて九十九谷かな
寒の野のつくしをかほどつまれたり
寒の野につくしつみますえんすがた
蜂の子の如くに寒のつくづくし
約束の寒の土筆を煮てください
寒のつくし法悦は舌頭に乗り
寒のつくしたうべて風雅菩薩かな

「二水夫人土筆摘図」の「二水夫人」とは、茅舎が俳句の指導をしていた「あおきり句会」(第一生命相互保険会社)の会長をしていた藤原二水の夫人を指している。二水夫人と茅舎の異母兄の川端竜子の夏子夫人とは親しい関係にあり、「茅舎略年譜」には、次のとおりの記述が見られる。

「 昭和九年(一九三四) 三七歳。五月、竜子の妻夏子の紹介で、第一生命相互保険会社の「あおきり句会」の指導を始める。十月、処女句集『川端茅舎句集』を玉藻社より刊行。」

茅舎と異母兄の日本画家として著名な竜子(龍子)との当時の関係は、森谷香取さんの「川端茅舎――俳人川端茅舎と思い出の中の親族」に詳しい(現在は下記のアドレスでその一部分しか目にすることはできないが、竜子関係のネット記事などでもその一端が紹介されているものが多い)。

http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha_04.html

そして、これらを見ていくと、茅舎と竜子の実父(寿山堂)とその長兄にあたる竜子との葛藤(竜子の実父に対する嫌悪感など)は深刻なものがあり、そういう葛藤の中で、晩年の茅舎と寿山堂とは、竜子の完全な庇護下にあって、病床にある茅舎にとって、その兄嫁(夏子)や甥(清)、そして、この二水夫人などが、真の理解者であったのであろう。
この掲出の八句の中で、特に、六句目の、「約束の寒の土筆を煮て下さい」は、茅舎の傑作句の一つとして、今に詠み継がれている。この句についての、山本健吉の評(『現代俳句』)は次のとおりである。

「『「二水夫人土筆摘図」と前書した「寒の野につくしつみますおんすがた」と続き、さらにもう一句「寒のつくしたうべて風雅菩薩かな」が続いている。「食事は野菜が好き」という茅舎は、ほんの小鳥の餌(え)ほどの少量で足りたらしい。とは言え美食家でなかったわけではない。寒の土筆とは贅沢な注文だ。お弟子の二水夫人の約束が忘れられなかったのであろう。食べ得ては「風雅菩薩」と打ち興じている。童心である。ただ注文の「寒の土筆」だけが、凝りに凝っている。このような食物をねだる茅舎の身体は玲瓏たる透明体のような気がする。彼は九州旅行中原鶴温泉で珍しい川茸を食べ「それを食うと身体が八面玲瓏と、透明になるような感じのするものであった」と言っている。この句棒のように一本調子だが、「約束の、寒の土筆を、煮て下さい」と呼吸切(いきぎ)れしながら、微(かす)かな声になって行くようで、読みながら思わず惹き込まれて行くような気持ちになる。いっさいの俳句らしい技巧を捨てて、病者の小さな、だが切ない執念だけが玲瓏と一句に凝ったという感じがする。 ]

(追記一) 川端茅舎と龍子

「二水夫人土筆摘図」という題名については、日本画の題名のようでもある。川端茅舎は、家族の希望で、当初、医者の道を志していたが、受験に失敗して、画家志望となり、藤島武二絵画研究所、そして、岸田劉生に師事して、洋画家になることを目指していた。  
 茅舎の異母兄の龍子は、いわずと知れた、日本画の大家である。龍子は。当初、洋画家を目指していたが、アメリカ留学中に日本画に転向した。
 茅舎は最後まで、洋画家になることを夢見ていたというが、兄の龍子が日本画ならば、自分は西洋画という思いもあったのかも知れない。しかし、この「二水夫人土筆摘図」の題名に見られるように、茅舎は、表面的には、極めて、日本画的な、あるいは、仏教的なニュアンスの雰囲気を有しているのであるが、その内実は、西洋画的な、極めて、聖書的なニュアンスが強い世界に関心が強かったという思いを深くする。と同時に、この川端龍子と茅舎という兄弟は、それぞれ目指す道は異なったが、「東洋的な感性と西洋的な感性とを見事に開花させて、それぞれの世界で、それぞれに一時代を画した」というを思いを深くする。

(追記二) 川端龍子

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E9%BE%8D%E5%AD%90

川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年(明治18年)6月6日 - 1966年(昭和41年)4月10日)は、大正 - 昭和期の日本画家。激しく流れる水の流れとほとばしる波しぶきによる龍子の描いた水は、巨大なエネルギーで観る者を圧倒した。昭和の動乱期、画壇を飛び出し、独自の芸術を切り開いた日本画家である。けたはずれの大画面、龍子は躍動する水の世界を描き続けた。その水は画家の心を写すかのように時代と共に色や形を変えていった。
 本名は昇太郎。1885年(明治18年)和歌山県和歌山市に生まれ。幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。自分もこんな絵を描けるようになりたいとこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。10歳の頃に家族とともに東京へ移転した。弟は俳人の川端茅舎(ぼうしゃ)であり、龍子自身も「ホトトギス」同人の俳人でもあった。
 画家としての龍子は、当初は白馬会絵画研究所および太平洋画会研究所に所属して洋画を描いていた。1913年(大正2年)に渡米し、西洋画を学び、それで身を立てようと思っていた。しかし、憧れの地アメリカで待っていたのは厳しい現実であった。日本人が描いた西洋画など誰も見向きもしない。西洋画への道に行き詰まりを感じていた。失意の中、立ち寄ったボストン美術館にて鎌倉期の絵巻の名作「平治物語絵巻」を見て感動したことが、日本画転向のきっかけで帰国後、日本画に転向した。1915年(大正4年)、平福百穂(ひゃくすい)らと「珊瑚会」を結成。同年、院展(再興日本美術院展)に初入選し、独学で日本画を習得した龍子は、4年という早さで1917年(大正6年)に近代日本画の巨匠横山大観率いる日本美術院同人となる。そして1921年(大正10年)に発表された作品『火生』は日本神話の英雄「ヤマトタケル」を描いた。赤い体を包むのは黄金の炎、命を宿したかのような動き、若き画家の野望がみなぎる、激しさに満ちた作品である。しかし、この絵が物議をかもした。当時の日本画壇では、故人が小さな空間で絵を鑑賞する「床の間芸術」と呼ばれるようなものが主流であった。繊細で優美な作品が持てはやされていた。龍子の激しい色使いと筆致は、粗暴で鑑賞に耐えないといわれた。
 その後、1928年(昭和3年)には院展同人を辞し、翌1929年(昭和4年)には、「床の間芸術」と一線を画した「会場芸術」としての日本画を主張して「青龍社」を旗揚げして独自の道を歩んだ。壮大な水の世界で、縦 2 メートル、横 8 メートルの大画面、鮮やかな群青の海と白い波との鮮烈なコンストラスト、激しくぶつかり合う水と水、波しぶきの動きの『鳴門』を描き、当時の常識をくつがえす型破りな作品であった。その後も大作主義を標榜し、大画面の豪放な屏風画を得意とし、大正 - 昭和戦前の日本画壇においては異色の存在であった。
 1931年(昭和6年)朝日文化賞受賞、1935年(昭和10年)帝国美術院会員、1937年(昭和12年)帝国芸術院会員、1941年(昭和16年)会員を辞任。(以下・略)

(追記三) 川端茅舎

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E8%8C%85%E8%88%8D

 川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年8月17日 - 1941年7月17日)は、東京都日本橋蛎殻町出身の日本の俳人、画家。日本画家である川端龍子とは異母兄弟。本名は川端信一(かわばた のぶかず)。別号、遊牧の民・俵屋春光。
 高浜虚子に師事し、虚子に『花鳥諷詠真骨頂漢』とまで言わしめたホトトギス・写生派の俳人。仏教用語を駆使したり、凛然とし朗々たる独特な句風は、茅舎の句を『茅舎浄土』と呼ばしめる。
1897年、東京都日本橋区蛎殻町で生まれた茅舎は、腹違いの兄である龍子とともに育てられる。父信吉は紀州藩の下級武士、母は信吉の弟が経営する病院の看護婦。父は弟の病院で手伝いとして働いていたが、その後煙草の小売商を始める。父は「寿山堂」という雅号を自分で持つほど、俳句や日本画や写経を好むような風流人であったと、ホトトギスの中で茅舎は述べている。そのことから、茅舎と龍子の兄弟が進むべき道に大きく父親が影響したと考えられている。
 6歳になった茅舎は、1903年私立有隣代用小学校へ入れられる。無事小学校を卒業した茅舎は、1909年、獨逸学協会学校(のちの獨協中学校)へ入学。叔父と母が病院に勤める関係者であったことから、周囲から(特に父から)将来は医者になることを期待されていた。その後、第一高等学校理乙を受験するも失敗。そのころには画家として独立していた兄・龍子の後を追うように、次第に茅舎自身も画家を志すようになる。藤島武二絵画研究所で絵画の勉強を始める。
 また17歳頃から、自らの俳号を「茅舎」と名乗り始め、父とともに句作するようになる。俳句雑誌『キララ』(後の『雲母』)に度々投句する。(武者小路実篤の「新しき村」の第二種会員になり、白樺派の思想に触れた茅舎は次第に西洋思想に感化されていく。それが契機で、絵画の分野で明確に西洋絵画を志すようになり、その後洋画家岸田劉生に画を師事する。京都の東福寺の正覚庵に籠もり、絵や句の制作に勤しみ、同時に仏道に参じる。自身が描いた静物画が春陽会に入選するほど絵画の腕を上げる。
 しかし虚子門や脊椎カリエスや結核といった肺患に身体が蝕まれていき、師と尊崇していた劉生も死去してしまったこともあり、俳諧の道へ本格的に専念するようになる。投句を続けていた『キララ』から『ホトトギス』に専念的に投句をし始め、雑詠の巻頭を飾るまでになる。その後、高浜虚子の愛弟子となり、俳句の実力が認められ、1934年に『ホトトギス』の同人となる。また後に「あをぎり句会」の選者となる
 1941年、肺患の悪化により44歳の若さで死去。現在は、龍子や他の家族とともに伊豆の修善寺に埋葬されている。
西洋的な感性と東洋的な感性で紡ぎ出された写生的な句は、花鳥諷詠を唱えた虚子に「花鳥諷詠真骨頂漢」と評価されるほどであった  ]
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