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「俳誌・ホトトギス」管見(その六) [ホトトギス・虚子]

「俳誌・ホトトギス」管見(その六)
「ホトトギス(8巻4号)」(明治三十八年・一九〇五/一月号)周辺

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「ホトトギス(8巻4号)」(明治三十八年・一九〇五/一月号)表紙
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「ホトトギス(8巻4号)」(明治三十八年・一九〇五/一月号)目次
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(目次)

素盞鳴尊(口繪) / 默語
孫叔敖(口繪) / 默語
我輩は猫である / 漱石/p1~15
新年五題(挿畫) / 默語
占領地の新年/p5~5
朝鮮の新年/p7~7
歩哨の新年/p9~9
陣中の新年/p11~11
病院の新年/p13~13
灰吹日記抄 / 四方太/p15~17
非片々文學 / 虚子/p18~23
影法師/p18~19
茶漬/p20~23
曙光(挿畫) / 朱冠/p19~19
日出(挿畫) / 朱冠/p21~21
北米雜筆 大統領選擧の夕 / 落葉/p23~24
北米雜筆 風聲録 / 逝水/p25~28
北米雜筆 公園まで / 柴舟/p28~29
俘虜の生活(挿畫二葉) / 爲山/p26~27
拾ひ猫 / 小風/p29~31
鮭漁 / 淡月/p31~32
戰死通知 / 蓙村生/p32~33
屠蘇に醉ふて / 虚子/p33~37
こがらし(挿畫二葉) / はしぐち/p34~35
俳體詩 雪 / 五城/p37~39
俳體詩 菊 / 五城/p40~40
俳體詩 童謠 / 漱石/p41~41
俳體詩 蓑虫の歌 / 蜩鳩/p41~41
寒天(挿畫) / はしぐち/p39~39
戰地雜信 戰場の握手 / 蒼苔/p41~43
戰地雜信 陣中凍夜 / 遼一/p43~44
戰地雜信 豫備兵日記抄(二) / 淡紅/p44~47
歳暮(挿畫) / はしぐち/p43~43
蕪村遺稿講義(秋六、二十) / 鳴雪 ; 碧梧桐 ; 虚子/p47~53
連句 歌仙一巻 / 小洒 ; 素泉/p54~55
田舍源氏に付て / 鳴雪/p55~59
豫言者(挿畫) / 朱冠/p57~57
東京俳句界/p60~61
地方俳句界/p61~67
文學界美術界漫言 新曲「浦島」 / 角居 ; 半壺/p67~69
新年雜咏 / 碧童/p69~70
風邪(募集俳句其一) / 鳴雪/p70~71
榾(募集俳句其二) / 碧梧桐/p72~74
征露節(挿畫) / 朱冠/p73~73
蕎麥湯(募集俳句其三) / 碧童 ; 虚子/p75~77
冬の月(挿畫) / 樂堂/p78~78
消息 / 虚子/p78~79
新刊/p79~79
課題/p79~80
淺草寺雜咏 / 四方太/p80~80
冬の朝(裏繪) / はしぐち
附録 仰臥漫録 / 子規/p1~52

(管見)

一 「我輩は猫である / 漱石/p1~15」周辺

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「我輩は猫である / 漱石/p1~15」
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[『吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石の長編小説であり、処女小説である。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』にて発表されたのだが、好評を博したため、翌1906年(明治39年)8月まで継続した。上、1906年10月刊、中、1906年11月刊、下、1907年5月刊。
 中学の英語教師苦沙弥先生の日常と、書斎に集まる美学者迷亭、理学者寒月、哲学者東風らといった明治の知識人たちの生活態度や思考を飼い猫の目を通して、ユーモアに満ちたエピソードとして描いた作品。
 表面的にすぎない日本の近代化に対する、漱石の痛烈な文明批評・社会批判が表れている風刺小説。なお実際、本作品執筆前に、夏目家に猫が迷い込み、飼われることになった。その猫も、ずっと名前がなかったという。](「ウィキペディア」抜粋)

[『漱石氏と私』は日本の俳人、高浜虚子が1918年1月(夏目漱石の没したのは1916年12月)に出版した回想録である。漱石から虚子への書簡を紹介し、明治30年から虚子が中心となって発行した『ホトトギス』で漱石が小説家として脚光をあびる前後の経緯などが紹介される。
 漱石の死の直後から執筆され、1917年の『ホトトギス』に7回に亘って連載されたもの他をまとめて出版したもので、後に、1915年の著書『子規居士と余』とともに岩波文庫で『回想 子規・漱石』のタイトルで刊行された。

 『吾輩は猫である』の誕生の経緯としては、ホトトギスの俳人たちの文章会「山会」に虚子の勧めで文章を書くことを求められた漱石は短期間に数十枚の原稿を書き、虚子が推敲して、山会で紹介され「とにかく変わっている。」ということで好評を得た。『ホトトギス』に掲載されると一挙に漱石の小説家の地位が確立され、『ホトトギス』の売り上げを高めた。それまで仲間うちの雑誌の色彩が濃く、殆ど原稿料を払わないで運営されていた『ホトトギス』は、漱石らの執筆者に原稿料を払うようになった。漱石は『ホトトギス』を商業雑誌として発行したほうがよいと考えていたことなども紹介される。](「ウィキペディア」抜粋)

二 「俳體詩 童謠 / 漱石/p41~41」周辺

http://www.compassion.co.jp/column/archive/bungei032

[源兵衛が 練馬村から/大根を 馬の背につけ/お歳暮に 持て来てくれた
源兵衛が 手拭でもて/股引の 埃をはたき/台どこに 腰をおろしてる
源兵衛が 烟草をふかす/遠慮なく 臭いのをふかす/すぱすぱと 平気で
ふかす
源兵衛に どうだと聞いたら/さうでがす 相変らずで/こん年も 寒いと
言った
源兵衛が 烟草のむまに/源兵衛の 馬が垣根の/白と赤の 山茶花を食った
源兵衛の 烟草あ臭いが/ 源兵衛は 好きなぢゝいだ/源兵衛の 馬は悪馬だ

これは「童謡」と題された夏目漱石の作である。明治三十八年「ホトトギス」の一月号に「吾輩は猫である」と共に掲載された。「日本童謡集」(与田準一編・岩波文庫)によれば、大正七年に鈴木三重吉が興した「赤い鳥」運動以前の、童謡らしい創作の動きの魁をなす。
「ホトトギス」は明治三十年に正岡子規の友人・柳原極堂が起こした俳句誌で、子規や高浜虚子らが選者となった。子規は連句に否定的であったが、彼の死後、虚子が連句を新体詩とする復興運動を興し、漱石もそれを支持した。雑俳好きの漱石が面白がり、また「ホトトギス」を仲間内の気楽な投稿誌とみなし、連句形式で詩を書いてみたに違いない。漱石はこれを新体詩ならぬ「俳体詩」と命名し、虚子もその名称を使用した。漱石のそれ以前、「童謡」という言葉は全く使用されておらず、子どもの唄は「童(わらべ)唄」と呼ばれていた。 ](「虹の橋文芸サロン アーカイヴ」抜粋)

童謡・夏目漱石.jpg

「童謡」と題する漱石の詩
https://blog.goo.ne.jp/np4626/e/bbc9d894945bb52d99698177a49b9533

三 「消息 / 虚子/p78~79」周辺

 「(前略) 四月十日を以て発刊すべき第八巻第七号は正に一百号に至り候。(後略)とあり、この号は、「ほとゝぎす(創刊号)」(明治三十年・1897/一月号)から数えて、第九十七号ということになる。

(再掲・抜粋)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-09-07

[「吾輩は猫である」(「初出」と「単行本」)

https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/soseki/syuyo-neko.html

吾輩は猫である・初出と単行本.jpg

(初出)『ホトトギス』 明治38年1月~明治39年8月まで10回にわたり断続的に連載
(単行本)上編 明治38年10月 中編 明治39年11月 下編 明治40年5月 大倉書店・服部書店
≪(内 容)
 猫を語り手として苦沙弥・迷亭ら太平の逸民たちに滑稽と諷刺を存分に演じさせ語らせたこの小説は「坊っちゃん」とあい通ずる特徴をもっている。それは溢れるような言語の湧出と歯切れのいい文体である。この豊かな小説言語の水脈を発見することで英文学者・漱石は小説家漱石(1867-1916)となった。(岩波文庫解説より)

(自作への言及)
 東風君、苦沙弥君、皆勝手な事を申候。それ故に太平の逸民に候。現実世界にあの主義では如何と存候。御反対御尤に候。漱石先生も反対に候。
 彼らのいふ所は皆真理に候。しかしただ一面の真理に候。決して作者の人生観の全部に無之故(これなきゆえ)その辺は御了知被下(くだされたく)候。あれは総体が諷刺に候。現代にあんな諷刺は尤も適切と存じ『猫』中に収め候。もし小生の個性論を論文としてかけば反対の方面と双方の働きかける所を議論致したくと存候。
(明治39年8月7日 畔柳芥舟あて書簡より)

 『猫』ですか、あれは最初は何もあのように長く続けて書こうという考えもなし、腹案などもありませんでしたから無論一回だけでしまうつもり。またかくまで世間の評判を受けようとは少しも思っておりませんでした。最初虚子君から「何か書いてくれ」と頼まれまして、あれを一回書いてやりました。丁度その頃文章会というものがあって、『猫』の原稿をその会へ出しますと、それをその席で寒川鼠骨君が朗読したそうですが、多分朗読の仕方でも旨かったのでしょう、甚くその席で喝采を博したそうです。(中略)
 妙なもので、書いてしまった当座は、全然胸中の文字を吐き出してしまって、もうこの次には何も書くようなことはないと思うほどですが、さて十日経ち廿日経って見ると日々の出来事を観察して、また新たに書きたいような感想も湧いて来る。材料も蒐められる。こんな風ですから『猫』などは書こうと思えば幾らでも長く続けられます。(「文学談」)≫(「東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ」)

http://neko.koyama.mond.jp/?eid=209617

≪「俳句の五十年(高浜虚子著)」抜粋

 ある時私は漱石が文章でも書いて見たならば気が紛れるだろうと思いまして、文章を書いて見ることを勧めました。私は別に気にも留めずにおったのでありまして、果して出来るか、出来んかも分らんと考えておったのでありました。ところが、その日になって立寄ってみますと、非常に長い文章が出来ておりまして、頗(すこぶ)る機嫌が良くって、ぜひこれを一つ自分の前で読んでみてくれろという話でありました。文章会は時間が定まっておりまして、その時間際に漱石の所に立寄ったのでありましたが、そういわれるものですから止むを得ず私はその文章を読んでみました。ところがなかなか面白い文章であって、私等仲間の文章とすると、分量も多くそれに頗る異色のある文章でありましたから、これは面白いから、早速今日の文章会に持出して読んでみるからといって、それを携えて文章会に臨みました。私がその漱石の家で読んだ時分に、題はまだ定めてありませんでして、「猫伝」としようかという話があったのでありますが、「猫伝」というよりも、文章の初めが「吾輩は猫である。名前はまだない」という書き出しでありますから、その「吾輩は猫である」という冒頭の一句をそのまま表題にして「吾輩は猫である」という事にしたらどうかというと、漱石は、それでも結構だ、名前はどうでもいいからして、私に勝手につけてくれろ、という話でありました。それでその原稿を持って帰って、「ホトトギス」に載せます時分に、「吾輩は猫である」という表題を私が自分で書き入れまして、それを活版所に廻したのでありました。
 それからその時分は、誰の文章でも一応私が眼を通して、多少添削するという習慣でありましたからして、この『吾輩は猫である』という文章も更に読み返してみまして、無駄だと思われる箇所の文句はそれを削ったのでありました。そうしてそれを三十八年の一月号に発表しますというと、大変な反響を起しまして、非常な評判になりました。それというのも、大学の先生である夏目漱石なる者が小説を書いたという事で、その時分は大学の先生というものは、いわゆる象牙の塔に籠もっていて、なかなか小説などは書くものではないという考えがあったのでありますが、それが小説を書いたというので、著しく世人の眼を欹(そばだ)たしめたものでありました。そればかりではなく、大変世間にある文章とは類を異にしたところからして、非常な評判となったのでありました。
 それで、漱石は、ただ私が初めて文章を書いてみてはどうかと勧めた為に書いたという事が、動機となりまして、それから漱石の生活が一転化し、気分も一転化するというような傾きになってきたのでありました。それと同時に『倫敦塔』という文章も書きまして「帝国文学」の誌上に発表しました。
 それから『吾輩は猫である』が、大変好評を博したものですから、それは一年と八ヶ月続きまして、続々と続篇を書く、而(しか)もその続篇は、この第一篇よりも遙かに長いものを書いて、「ホトトギス」は殆(ほとん)どその『吾輩は猫である』の続篇で埋ってしまうというような勢いになりました。それが為に「ホトトギス」もぐんぐんと毎号部数が増して行くというような勢いでありました。≫  ]
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