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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その一) [忘れがたき風貌・画像]

その一 松尾芭蕉

松尾芭蕉像.jpg

「松尾芭蕉(まつおばしょう、1644-94)」(早稲田大学図書館/WEB展覧会第32回)
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/shozo/index2.html
≪「松尾芭蕉肖像」 小川破笠画  1軸 
俳聖と呼ばれる芭蕉の肖像画はいくつかあるが、この肖像を描いたのは、漆細工師小川破笠(はりつ、1663-1747)。伊勢に生まれ、のち江戸に出て芭蕉に俳諧を学んだ。生前の芭蕉を知る人の描いた貴重な伝記資料である。≫(「早稲田大学図書館」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-07-25

(その一) 蕪村が描いた芭蕉翁像

 さまざまな俳人あるいは画人が芭蕉像を描いている。代表的なものは、芭蕉と面識のある門人の杉山杉風と森川許六、面識はないが芭蕉門に連なる彭城百川(各務支考門)、そして、画俳二道を究めた与謝蕪村(宝井其角・早野巴人門)などの作が上げられる。

 杉風の描いた芭蕉像は、①端座の像(褥に端座・左向き) ②脇息の像(左向き) ③火桶にあたる像(左向き) ④竹をえがく像(左向き) ⑤馬上の像(笠をかぶり右方へ進行)などで、この①のものは「すべての芭蕉像の基盤」になっており、杉風筆像は、温雅で「おもながのおだやかな面相である」と評されている(『岡田利兵衛著作集1芭蕉の書と画』所収「画かれた芭蕉」)。

 蕪村の描いた芭蕉像は、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』には十一点が収録されている。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九9作。金福寺蔵)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)

 しかし、これらは、いわゆる「画賛形式」(画と賛が一体となっている条幅・色紙等)のもののうち、芭蕉単身像の条幅もので(上記の十一点のうち、⑦は一幅半切(紙本墨画)で、他は長さに異同はあるが一幅もので、①②⑤⑥は絹本淡彩、③と⑩は紙本淡彩、④は紙本墨画である。
 これらの芭蕉単身像では無帽のものはなく、宗匠頭巾のようなものを被っているが、それぞれ制作時に関係するのか、それぞれに特徴がある。上記の①②は、円筒型(丸頭巾型)の白帽子、③④⑥が長方形型(角頭巾型)の白帽子、⑤は長方形型(角頭巾型)の黒帽子、⑥は長方形型(角頭巾型)の黒(薄墨)帽子の感じのものである。

 これらの芭蕉単身像のものではなく、「俳仙群会図」などの芭蕉像を加えると次のとおりとなる。

⑫ 座像(「俳仙群会図」=十四俳仙図、絹本着色、款「朝滄」、上・中・下の三段に刷り込んだ一幅。上段に「此俳仙群会の図ハ元文のむかし余弱冠の時写したるもの」とあり、元文元年(一七三五)から同五年(一七四〇)の頃の作とされているが、「その落款・印章によれば、やはりこの丹後時代の作」(『続芭蕉・蕪村(尾形仂著)』)と、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)の頃の作ともいわれている。とにもかくにも、蕪村最古の芭蕉像、無帽で右向き、蕪村の師の早野巴人が、芭蕉の左側の園女の次に宗匠頭巾を被り左向きで描かれている。柿衛文庫蔵)
⑬ 座像(「八俳仙」画賛、淡彩、一幅。宗匠頭巾、笠を持ち正面像。「物云へは唇寒し秋の風」。印は「長庚」「春星」。『山王荘蔵品展覧図録』)
⑭ 座像(「十一俳仙」)画賛、紙本墨画、一幅。宗匠頭巾、笠・頭陀袋の正面像。「名月や池をめくりて終夜」。印は「三菓居士」。個人蔵)
⑮ 座像(版本『其雪影』挿図、明和九年(一七七二)刊、宗匠頭巾、正面像。「古いけや蛙とひ込水の音」。)
⑯ 座像(版本『時鳥』挿図、安永二年(一七七三刊)、宗匠頭巾、正面像。「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」。)
⑰ 七分身像(版本『安永三年(一七四四)春帖)』挿図、宗匠頭巾、杖、頭陀袋、笠、正面像。)

 さらに、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、京都国立博物館蔵)、「奥の細道」屏風(安永八年=一七七九)作、山形美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永八年=一七七九作、逸翁美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、「蕪村遺芳」)、「野ざらし紀行」屏風(安永七年=一七七八作、個人蔵)などに、それぞれ特徴のある芭蕉像が描かれている。

 上記のうちで、唯一、百川筆「芭蕉翁像」と類似しているのは、「⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)」である。

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の作品解説は次のとおりである。

104 「芭蕉像」画賛  一幅  一二二・一×四〇・九cm
款 「応湖南松写庵巨州需 蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛 「はつしぐれ猿も小みのをほしけ也 はせを」(色紙貼付)
『大阪市青木嵩山堂入札』(昭和四・三)

蕪村・芭蕉像一.jpg


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-07-26

その二 蕪村と百川、そして、蕪村渇望の百川筆「芭蕉翁像」

 蕪村は、宝暦元年(一七五一)、三十六歳のときに、関東遊歴の生活を打ち切って、生まれ故郷とされている摂津(大阪市毛馬)ではなく、その隣の京都に移住して来る。以後、丹後時代と讃岐時代の数年間を除いて、死没(天明三年=一七八三=六十八歳)までの約三十年間を京都で過ごすことになる。
 この京都に移住してからの讃岐時代というのは、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)九月頃までの足掛け四年間の頃を指す(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。この丹後時代の蕪村についての百川に関する書簡が今に遺されている(『蕪村の手紙(村松友次著)』)。

[ 被仰候八僊観の翁像(オオセラレソウロウ ハッセンカンノオキナゾウ)
 少之内御見せ可被下候(スコシノウチ オミセクダサルベクソウロウ)
 其儘わすれ候得共(ソノママ ワスレソウラヘドモ)
 御払可被成思召候もの(オハライナサルベク オボシメサレソウロウモノ)
 此のものへ御見せ可被下候(コノモノヘ オミセクダサルベクソウロウ)
 他見は不仕候(タケンハ ツカマツラズソウロウ)
 おりしも吐出候発句に(オリシモハキイダシソウロウ ホックニ)
  萩の月うすきはものゝあわ(は)れなる
某(一字破損)屋嘉右衛門 様        蕪村               ]

 この八僊観こと彭城百川の描いた芭蕉像を「少しの間見せてください」と渇望した、その幻の百川筆「芭蕉像」の真蹟が、蕪村が滞在していた丹後の宮津(京都府宮津市)で、蕪村生誕三百年(平成二十八年=二〇一六)の今に引き継がれて現存している(『宮津市史通史編下巻』所収「彭城百川の芭蕉像と宮津俳壇(横谷賢一郎稿)」)。

 この経過をたどると、平成六年(一九九四)に京都府立丹後郷土資料館で特別展「与謝蕪村と丹後」が開催され、それが契機となって、宮津市在住の方から百川筆「芭蕉像」の調査依頼があり、佐々木承平京大教授らによって真筆と鑑定されたとのことである(『蕪村全集第六巻』所収「月報六・平成十年三月」)。
 これらに関して、平成九年(一九九七・九・七「朝日新聞」)に下記のような「芭蕉『幻の肖像』発見」の記事で紹介されているようである(未見)。

[ 江戸期の南画(文人画)の創始者の一人、彭城百川(さかき・ひゃくせん)(1698-1753)が描いた松尾芭蕉の肖像画の掛け軸が京都府宮津市の俳壇指導者宅に保存されていたことがわかった。この絵は、与謝蕪村(1716-1783)が「ぜひ見たい」と懇願した手紙だけが後世に伝わり、絵そのものは所在がわかっていなかった。
 掛け軸は、芭蕉の座像が水墨画で描かれ、「ものいへは 唇寒し 秋の風」の芭蕉の代表句が書き込まれている。佐々木丞平・京大教授(美術史)らが百川の真筆と鑑定した。
 百川は名古屋に生まれ、京都を拠点に活躍した。延享4年(1747年)に天橋立を詠んだ句と絵「俳画押絵貼屏風(おしえはりびようぶ)」(名古屋市立博物館蔵)があり、今度見つかったものも同時期に丹後に滞在中、描いたらしい。
 蕪村は、宝暦4年(1754年)春から3年余り宮津に滞在した間にこの掛け軸を見ることができたとみられるが、はっきりしていない。
 肖像画は宮津俳壇の宗匠(指導者)に約250年間、引き継がれてきたらしい。芭蕉の流れをくむ宗匠で同市内のはきもの商、撫松堂水波(ぶしようどう・すいは、本名・花谷光次)さん(1993年死去)の遺族から、京都府立丹後郷土資料館に問い合わせがあって存在が分かった。 ]

 この蕪村が渇望した百川筆「芭蕉翁像」が、平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」で初公開された。
 その図録に、「七〇 参考 芭蕉翁像 彭城百川筆 紙本墨画 一幅 八五・一×二五・一」と収載されている。その「作品解説」(京都府立丹後郷土資料館 伊藤太稿)は次のとおりである。

[ 賛  人の短をいふことなかれ
     己か長を説(とく)事なかれ
  ものいへは(ば)
      唇寒し
        秋の風
 款記  芭蕉翁肖像 倣杉風図  八僊真人写
 印章  「八僊逸人」(白文方印) 「字余白百川」(手文方印)

 彭(さか)城(き)百川(ひゃくせん)(一六九八~一七五二)は、名古屋に生まれ、後に京都を拠点として活躍した日本南画の創始者の一人と目される画家である。はじめ俳諧の道に入って各務支考の門にあり、俳画にも数々の傑作を残し、俳書をも手がけたその画俳両道にわたる活躍は、まさしく蕪村のプトロタイプと言えよう。蕪村が、この百川に私淑していたことは、「天(てん)橋図(きょうず)賛(さん)」はじめ丹後時代以降のいくつかの作品中に明記されており、注目されてきた。しかしながら、従来は、丹後における百川の実作が未確認のままで、両者の関係を具体的に跡づけることはできなかった。ところが最近になって、二点のきわめて興味深い作品の存在が明らかになった。一つは「天(あまの)橋立図(はしだてず)」を含む延享四年(一七四七)作の「十二ヶ月俳画押絵貼屏風」(名古屋市立博物館)であり、もう一つは初公開の本図である。本図は、宮津俳壇の守り本尊として代々の宗匠に伝えられてきたのであるが、添付された代々の譲状の写しは、百川が当地に来遊の折、真照寺で描いたという鷺(ろ)十(じゅう)の文に始まる。「三俳僧図」に描かれた鷺十は蕪村とともに歌仙を巻き、「天橋図賛」は真照寺で書されたことを想起したい。現在所在不明であるが、蕪村が本図を見せてほしいと懇望する某屋嘉右衛門宛ての書簡の存在も知られている。なお、本図と同じ構図の芭蕉翁像(名古屋市博「百川」展図録⑱)は延享三年の作と明記され、百川の来丹がその前後であることも確実となった(注=原文に「ルビ」「濁点」を付した)。  ]

幻の芭蕉像.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-07-27

その三 百川周辺と百川が描いた芭蕉像 → 略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-07-30

その四 若冲周辺と若冲の「松尾芭蕉図」 → 一部抜粋

2015年3月18日(水)~5月10日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が開催された。その出品作の一つに、若冲の「松尾芭蕉図」がある。その図と解説記事などを掲載して置きたい。

「102 松尾芭蕉図」(石田佳也「作品解説」)
伊藤若冲筆 三宅嘯山賛 紙本墨画 一幅 江戸時代 寛政十二年(一八〇〇)筆 寛政十一年(一七九九)賛 一〇九・〇×二八・〇
 若冲が描いた芭蕉像の上方に、三宅嘯山(一七一八~一八〇一)が、芭蕉の発句二句を書く。三宅嘯山は漢詩文に長じた儒学者であったが、俳人としても活躍し宝暦初年には京都で活躍していた蕪村とも交流を重ねた。彼の和漢にわたる教養は、蕪村らが推進する蕉風復興運動に影響を与え、京都俳壇革新の先駆者の一人として位置づけられている。
 なお、嘯山の賛は八十二歳の時、寛政十一年(一七九九)にあたるが、一方、若冲の署名は、芭蕉の背中側に「米斗翁八十五歳画」とあり「藤汝鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文円印)を捺す。この署名通りに、若冲八十五歳、寛政十二年(一八〇〇)の作とみなせば、「蒲庵浄英像」(作品166)と同様に、嘯山が先に賛を記し、その後に若冲が芭蕉像を描き添えたことになる。しかし改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳、寛政十年に描かれたことになり、若冲の落款を考察する上では重要な作例となっている。
  「爽吾」(白文長方印)    芭蕉
    春もやゝけしき調ふ月と梅
    初時雨猿も小蓑をほしけなり
                八十二叟
                 嘯山書
  「芳隆之印」(朱文方印) 「之元」(白文円印)

若冲・芭蕉像3.jpg
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-01

その五 呉春(月渓)の描いた芭蕉像(四画像) → 一部抜粋

『呉春(財団法人逸翁美術館)』には、四点ほど「芭蕉像」が紹介されている。

52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22
(賛) 禅法ハ仏頂和尚に 参して三国相承 験記につらなり 風雅は西行上人を 
   慕うて続扶桑隠逸 伝に載せぬ
蝶夢阿弥陀仏謹書
(解説) 呉春が芭蕉翁の正面像をクローズアップしてえがき、その上に蝶夢法師が上の賛を記している。呉春は筆意謹厳でしたため、翁の容貌はいつも彼がえがく翁の顔である。蝶夢は僧侶であるが後半は誹諧に執心し、芭蕉顕賞に多くの業績をのこした。寛政七年(一七九五)没。

53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41

54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29
(賛) 海島圓浦長汀唫 
あつみ山吹浦かけて夕すゞみ 汐こしや鶴脛ぬれて海すゞし あらうみや佐渡によこたふあまの河 早稲の香や分入右は磯海
明石夜泊
蛸壺やはかなき夢を夏の月
 このつかい這わたるほどといへば
蝸牛角ふり分よ須磨明石
 右芭蕉翁作           嘯山

55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28

呉春の芭蕉像.jpg

右上(52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22)
右下(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)
中央(54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29)
左上(55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-03

その六 金福寺の「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)と「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆) →一部抜粋

金福寺芭蕉像.jpg

金福寺「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)

 この金福寺の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)の下部には、「安永巳亥十月写於夜半亭 蕪村拝」との落款が記されている。この「安永巳亥」は、安永八年(一七七九)に当たる。この時に、蕪村は、同時に、芭蕉像を他に二点ほど描き、その二点には、芭蕉の発句が二十句加賛されているという(『図説日本の古典14芭蕉・蕪村』所収「芭蕉から蕪村へ(白石悌三稿)」)。
 この安永八年(一七七九)は、蕪村が没する四年前の、六十四歳の時で、晩年の蕪村の円熟した筆さばきで、崇拝して止まない、晩年の芭蕉の柔和な風姿を見事にとらえている。
 先に紹介した、月渓の「芭蕉像」(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)は、この蕪村の「芭蕉翁自画賛」をモデルとして描いたものであろう。そして、この両者を比べた時に、蕪村と月渓とでは、その芭蕉に対する理解の程度において、月渓は蕪村の足元にも及ばないということを実感する。
 さて、金福寺の芭蕉庵は、天明元年(一七六一)に改築再建され、この改築再建に際して、蕪村は、先に紹介した安永五年(一七七六)の『写経社集(道立編)』に収載した「洛東芭蕉庵再興記」を自筆で認めて、金福寺に奉納する。
 これらの、上記の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)と「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)とが、今に、金福寺に所蔵されている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-05

(その七)江東区立芭蕉記念館の「芭蕉翁像」(蕪村筆) → 略

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(その八)『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵で紹介された「芭蕉翁像」(蕪村筆)→略

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(その九)許六に倣った全身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)→一部抜粋

許六倣芭蕉像.jpg

『蕪村展(茨城県立歴史館 1997)』)所収「44芭蕉翁図」(蕪村筆)

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(その十)逸翁美術館蔵の「芭蕉翁立像図」(蕪村筆)→略

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(その十一)西岸寺任口上人を訪いての半身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)→略

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(その十二) 暒々翁に倣った「芭蕉翁像」(蕪村筆)→略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-18

(その十三) 天明二年(一七八二)の同一時作の「芭蕉翁像」(蕪村筆)→ 略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-20

(その十四)眼を閉じている「芭蕉翁像」(蕪村筆)→ 略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-21

その十五 「俳仙群会図」(蕪村筆)上の「芭蕉像」 → 一部抜粋

俳仙群会図・芭蕉像.jpg
(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)「部分図」(芭蕉像)

(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)「部分図」(芭蕉像)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-08-03

その十三  鈴木其一筆「朝顔図屏風」と芭蕉の「朝顔」の句周辺 →一部抜粋

俳仙群会図・拡大.jpg

「俳仙群会図」(蕪村筆)部分図(柿衛文庫蔵)
右端・芭蕉、右手前・やちよ、中央手前・其角、中央後・園女
左端手前・任口上人、左端後・宋阿(夜半亭一世、蕪村は夜半亭二世)
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