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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十四) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二十四 唐橘(百両)

唐橘.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「唐橘図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

百両と書(かき)たり年の関てがた(第五 千づかのいね)

 この句は、植物の「百両(唐橘)」(三冬)の句ではなく、関所手形・往来手形などの句で、「年の関てがた(手形)」の「新年」の句であろう。
 そして、「万両(藪橘)」「千両(草珊瑚)」「百両(唐橘)」「十両(藪柑子・山橘)」「一両(蟻通)」は、何れも秋から冬に赤熟し、「三冬」の季語であるが、正月の飾りものとして、ここでは、「年の関てがた」の「年」に掛かり、「年立つ(新年)」の意を兼ねての用例と解したい。
 この句の主題は、下五の「関てがた」で、その「関所手形」(この句では女性の旅の必須の「女手形」?)の手続きは、「大家→町名主→町年寄→奉行所→江戸城留守居役」の手続きを経て発行されるなど、それらと、この上五の「百両」(そして「唐橘」)が関係しているような、そんなことが、この句の背景なのかも知れない。

 下記のアドレスで、先に、「藪柑子と竹籠図」について触れた。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-07

 この「藪柑子(山橘)」は、別名が「十両」で、『屠龍之技』には、「十両」の句は見当たらない。「千両」の句は、下記の句が収載されている。

   千両で売るか小倉の初しぐれ(第九 梅の立枝)

 しかし、この句は、「万両(藪橘)・千両(草珊瑚)・百両(唐橘)・十両(藪柑子・山橘)・一両(蟻通)」などの植物の句ではない。「初しぐれ(時雨)」(初冬)の句である。この句の「小倉」は、藤原定家が百人一首を編纂した京都の小倉山の麓・嵐山の「時雨殿(しぐれでん)」を指しているのだろう。その「小倉」の「時雨殿」の「初時雨」は何とも風情があり、「千両で売ろうか」との、抱一の粋な洒落の一句ということになる。

   一文の日行千里としのくれ(第五 千づかのいね)

 この句の前には、「歳暮」との前書きがある。抱一の時代(江戸時代中後期)の「一両」(現代=約七万五千円)は「六千五百文」で、「一文」は「約十二円」とかが、下記のアドレスで紹介されている。

https://komonjyo.net/zenika.html

 「一文の日行千里としのくれ」の「日行千里」は、四字熟語の感じだが、「一文の日行千里としのくれ」は、字義とおりに解すれば、「歳の暮れにあたり、一文無しに近い日々を重ねて、思えば遥かにも千里の道を来たかわい」というようなことであろう。

   鳥既に闇り峠(くらがりとうげ)年立つや (早野巴人『夜半亭発句帖』)

 抱一の俳諧の師の馬場存義を介すると、抱一の兄弟子にも当たる与謝蕪村の俳諧の師・早野巴人(馬場存義と同じく其角系の江戸座の俳人)の「年立つや」(年立ちかえる)の一句である。
この句の「鳥(とり)」は「掛けとり・借金とりの『とり(鳥)』」で、大晦日に駆けずり廻り、「大晦日は一日千金」の「掛け売りの借金取り」が、その裏(ウラ)の意のようである。
そして、この「闇り峠」は、松尾芭蕉が奈良から大坂へ向かう途中この峠で、「菊の香にくらがり越ゆる節句かな」を詠んだ、その古道の峠であるが、ここでは大晦日の闇夜の暗がり峠の意をも込めている。
そして、「年立つや」は、「大晦日が過ぎて新しい年を迎えたのであろうか」という意である。
即ち、この巴人の句は、「大晦日の借金取りは、私の所まで手が廻らず、大晦日が過ぎて新年を迎えることが出来れば、また、一年、借金返済の猶予の口実が出来るわい」というようなことのようである。
 抱一の、上記の、「百両・千両・一文」の句などは、間違いなく、この巴人の「年立つや」の句と、同じ世界のものという雰囲気を有している。

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十三) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』] [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二十三  「梨図」周辺

梨図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「梨図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな (第四 椎の木かげ)

 『屠龍之技』の「第七 椎の木かげ」に収載されている、この句の前に、「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」との前書きがある。


梨図・句.jpg

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0017_m.html

 この寛政九年(一七九七)、抱一、三十七歳時の「年譜」には、次のとおり記載されている。

【 九月九日、出家にあたり幕府に「病身に付」願い出。十月十六日、姫路藩より、千石五十人扶持を給することに決定する。抱一の付き人は、鈴木春草(藤兵衛)、福岡新三郎、村井又助。(御一代)
十月十八日、出家。西本願寺十六世文如上人の江戸下向に会して弟子となり、築地本願寺にて剃髪得度。法名「等覚院文詮暉真」。九条家の猶子となり準連枝、権大僧都に遇せられる。(御一代)酒井雅樂頭家の家臣から西本願寺築地別院に届けられる。(本願寺文書・関東下向記録類)
十一月三日より十二月十四日まで、挨拶のため上洛。< 抱一最後の上方行き >(御一代) 十一月十七日京都へ到着。俳友の其爪、古櫟、紫霓、雁々、晩器の五人が伴した。(句藻)
十二月三日、「不快に付」門跡に願い出て、京都を発つ。この間一度も西本願寺に参殿することはなかった。(御一代)
十二月十七日、江戸へ戻る。築地安楽寺に住むことになっていたか。(御一代・句藻)
年末、番場を退き払い、千束に転居。(句藻) 】

 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな 

 この句は、抱一の出家の時の句ということになる。抱一の俳諧日誌『軽挙観句藻』には、この時の抱一の和歌も記載されている。

 いとふとてひとなとがめそ
     うつせみの世にいとわれし
            この身なりせば

 この「いとふ」は「厭ふ」で、「世を厭ふ」の「出家する」の意であろう。「ひとなとがめそ」は、「人な咎めそ」で、「な…そ」は「してくれるな」の意で、「私のことを咎めないで欲しい」という意になろう。「うつせみの世」は、「空蝉の世(儚い世)と現世(浮き世)」とを掛けての用例であろう。次の「いとわれし」は、ここでは、「出家する」という意よりも、「厭われる・敬遠される」の意が前面に出て来よう。
 この全体の歌意は、「出家することを、どうか、あれこれと咎めだてしないで欲しい。思えば、この夢幻のような現世(前半生)では、いろいろと、敬遠されることが多かったことよ」というようなことであろう。
 この出家の際の歌意をもってすれば、前書きのある、次の抱一の出家の際の句の意は明瞭となって来る。 
 
  遯るべき山ありの實の天窓哉

 この句の表(オモテ)の意は、「出家する僧門の天窓(てんそう・てんまど)には、その僧門の果実がたわわに実っています」というようなことであろう。
 そして裏(ウラ)の意は、「僧門に出家するに際して、天窓(あたま)を、丸坊主にし、『ありの実』ならず『無し(梨)の実』のような風姿であるが、これも『実(み)=身』と心得て、その身を宿世に委ねて参りたい」ということになる。

 抱一の、この出家に際しては、松平定信の寛政の改革、とりわけ、抱一の兄事していた亀田鵬斎らが弾劾される「異学の禁」に対する意見書などを幕府あて提出したなど、さまざまな流言がなされているが、その流言の確たるものは、不明のままというのが、その真相であろう。
 ただ一つ、掲出の、抱一の俳句と和歌とに照らして、抱一の出家は、抱一自身が自ら望んで僧籍に身を投じたことではないことは、これは間違いないことであろう。
 なお、「遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」の、その「天窓(あたま)」の読みは、抱一の同時代の小林一茶(抱一より二歳年下)の、その文化十一年(一八一四)の、次の句などから明瞭である。

  三日月に天窓(あたま)うつなよほととぎす
  五十婿天窓(あたま)をかくす扇かな
  片天窓(あたま)剃て乳を呑夕涼


(参考:小林一茶『おらが春』・文化十一年)

https://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/267f5ffa138227d3849117331f82c170


 雪とけて村一ぱいの子ども哉
 御雛をしやぶりたがりて這子(はふこ)哉

五十年一日の安き日もなく、ことし春漸く妻を迎へ、我が身につもる老を忘れて、凡夫の浅ましさに、初花に胡蝶の戯るゝが如く、幸あらんとねがふことのはづかしさ、あきらめがたきは業のふしぎ、おそろしくなん思ひ侍りぬ。

 三日月に天窓(あたま)うつなよほととぎす

千代の小松と祝ひはやされて、行すゑの幸有らんとて、隣々へ酒ふるまひて、
 
五十婿天窓(あたま)をかくす扇かな
 片天窓(あたま)剃て乳を呑夕涼
 子宝が蚯蚓のたるぞ梶の葉に
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