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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十i二) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二十二 紅葉に鹿

鹿に紅葉.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「紅葉に鹿図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html   

   啼く山の姿も見えつ夜の鹿  (第九 うめの立枝)
   又もみぢ赤き木の間の宮居かな(第九 うめの立枝)

 抱一画集『鶯邨画譜』の「紅葉に鹿図」は、何とも、花札の「紅葉に鹿図」のありふれた図柄であるが、『屠龍之技』の「鹿」(一句目)の句もまた、何ともありふれた平明な句という装いをしている。

   啼(な)く山の姿を見えつ夜(よる)の鹿(しか)

 句意は、「山で啼いている鹿の姿を、夜で暗いのに、見ることが出来た」ということで、この中七の「見えつ」の「つ」は、完了の助動詞(た。…てしまう。…てしまった)と解するのが一般的であろう。
 そして、「夜の鹿」の句として、芭蕉の次の句などが連想されて来る。

   ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿    芭蕉 「笈日記」

 芭蕉には、もう一句、「鹿の声」の句がある。

   武蔵野や一寸ほどな鹿の声    芭蕉 「俳諧当世男」

 この句の中七の「一寸ほどな」の「ほどな」は、「ほどなる」の「る」が脱落したものの用例で、「広大な武蔵野」の中では、「尾を引いて長鳴きする鹿の声もほんの一寸」程度の印象を受けるというのが、一般的な解となっている。
 これらの芭蕉の句の関連ですると、抱一の句は、「芭蕉さんが、広大無辺の武蔵野の一角で、一寸ほどの短い鹿の鳴き声を聞いたように、一寸ほどの近い距離で、その姿を見ることが出来た」というようなことが、この句の背景として理解することも可能であろう。
 
 すがる鳴く秋の萩原朝たちて旅行く人をいつとか待たむ(『古今集・三六六』)
 すがる臥す木暮が下の葛まきを吹き裏返す秋の初風 (『山家集・中巻』)

上記の『古今和歌集』の「詠み人しらず」の「すがる」は、「腰の細い小型の蜂の古名で、じが蜂」というのが一般的である。そして、次の『山家集』の西行の「すがる」は、「蜂」ではなく「鹿」の異名というのが、一般的である。この西行の歌などから、「鹿」の別名として、「すずか・すがる・しし・かのしし」などが、季語集などには列挙されている。

 この『古今和歌集』の「すがる」(じが蜂)は、次の『万葉集』の「腰細(こしぼそ)の すがる娘子(をとめ)」を踏まえているようである。

【 しなが鳥 安房(あは)に継(つぎ)たる 梓弓(あずさゆみ) 周淮(すゑ)の珠名(たまな)は 胸別(むなわけ)の ひろき吾妹(わぎも) 腰細(こしぼそ)の すがる娘子(をとめ)のその姿(かほ)の 端正(たんせい)しきに 花の如(ごと) 咲(ゑ)みて立てれば 玉桙(たまほこ)の 道行く人は 己(おの)が行く 道は行かずて 召(よば)なくに 門(かど)に至りぬ さし並(なら)ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻(おのづま)離(か)れて 乞(こは)なくに 鍵(かぎ)さへ奉まつる 人皆の かく迷(まど)へれば 容(かほ)艶(よき)に よりてそ妹(いも)は たはれてありける ―高橋虫麻呂―(巻九・一七三八) 】

   啼く山の姿を見えつ夜(よ)の鹿(すがる)

 「夜の鹿」を、「夜(よ)の鹿(すがる)」と読み、そして、この「鹿(すがる)」を、「細腰の娘子(をとめ)」と解する句意もあろう。得てして、平明な何の変哲もないような装いをしている其角流の抱一の句は、何かしらの趣向が施されているのが通例であり、その抱一流の趣向からすると、この「夜(よ)の鹿(すがる)」の読みと句意も捨てがたい。

   又もみぢ赤き木の間の宮居かな

 この句は、「啼く山の姿も見えつ夜の鹿」と、同じ頃(「第九うめの立枝」)の「もみぢ(紅葉)」の句である。「宮居」とは「神が鎮座する神社・祠」などを指すのであろう。

   まだ暮れぬ紅葉の寺へ息子行き (『柳多留十六篇』)

 この『柳多留』に掲載されている句の「紅葉の寺」は、浅草竜泉寺町の正燈寺(しょうとうじ)を指し、品川の海晏寺(かいあんじ)と共に、当時の江戸の紅葉狩りの双璧だったようである。浅草の正燈寺の近くに、吉原遊郭があり、品川の海晏寺の近くに品川遊郭が控えている。この句は、「紅葉狩りに息子は正燈寺に行き、その帰りに吉原に寄ってくる」というものであろう。

   又もみぢ赤き木の間の宮居かな

 この句の上五の「又もみぢ」というのは、「紅葉狩りに出かけ、その帰りに、又、紅葉狩り(遊女狩り)に吉原遊郭に寄り道をし」、その吉原遊郭地の中で、中七の『赤き木の間(「赤い木の鳥居」の見立て)』に、下五の、「お稲荷さんなどを祀った『宮居』(祠)」で手を合わせている」というようなことであろう。

吉原.jpg

『絵本吾妻抉(えほんあずまからげ)』(「正燈寺」)



https://www.web-nihongo.com/edo/ed_p027/

(追記)

山中の鹿図  なく山のすがたも見へず夜の鹿 (『柳花帖』一九)
鹿図     しかの飛ぶあしたの原や廿日月 (『柳花帖』四六)
瓦灯図    啼く鹿の姿も見へつ夜半の声  (『『柳花帖』四㈦)


 抱一の自撰句集『屠龍之技』では、「啼く山の姿も見えつ夜の鹿(第九 うめの立枝)」なのであるが、文政二年(一八一九)、抱一、五十九歳頃に成った『柳花帖』(抱一が吉原で描いたとされている「俳画集」)では、どうにもこうにも、「鹿」の句が、上記のとおり、三句(そして、三画)が収載されている。

 ここで、二句目の「「しかの飛ぶ」というのは、「鹿(しか)が飛ぶ」というよりも、『古今和歌集』の「すがる(鹿)」(じが蜂)の、『万葉集』の「腰細(こしぼそ)の すがる娘子(をとめ)」を踏まえているものと解したい。
 そして、この句の「あしたの原や」の、「足下(あした)の(が)原」は、「足立(あだち・安達)の(が)原」の、捩り(反意語の捩り)で、能の「黒塚」(「安達ケ原の鬼婆」の場面)を背景にしているという雰囲気である。
 こういう抱一の、趣向に趣向を凝らした精妙な洒落句について、俳句革新を目指している正岡子規は、その『病床六尺』で、次のとおり酷評することになる。

「抱一の画、濃艶愛すべしといへども、俳句に至つては拙劣(せつれつ)見るに堪へず。その濃艶なる画にその拙劣なる句の賛あるに至つては、金殿に反古(ほご)張りの障子を見るが如く釣り合はぬ事甚だし。」

 ここで、この三句を並列して見て、一句目は「夜の鹿」、二句目は「しかの飛ぶ」、三句目は、「啼く鹿」の表記で、「五・七・五」のリズムからすると、一句目は「夜(よ)の鹿(すがる)」、三句目は「啼く鹿(しか)の」の詠みの雰囲気である。
 その上で、この一句目と三句目へ並列する、またまた、抱一の新しい趣向が浮かび上がって来る。

   なく山のすがたも見へず夜の鹿 (「山中の鹿図」)
   啼く鹿の姿も見へつ夜半の声  (「瓦灯図)

 この一句目の中七「すがたも見へず」の「見へず」(見えない)と、この二句目の中七「姿も見へつ」の「見へつ」(見えた)と、ここにも、何かしら仕掛けがあるような雰囲気なのである。
 そして、この二句目の画題の「瓦灯(かとう)図」からして、これらの句が収載されている『柳花帖』の、その「跋文」、「夜毎郭楼(吉原)に遊びし咎(とが)か予(抱一)にこの双紙(俳画集)へ書きてよ」との、当時の吉原遊郭文化と深い関わりを有しているものと解すべきものなのかも知れない。
 正岡子規が、「抱一の画、濃艶愛すべし」の指摘のごとく、「抱一の句、濃艶愛すべし」として鑑賞するのが、そのスタートなのかも知れない。


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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十一) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二十一 牡丹図

牡丹.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「牡丹図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html  

 飛ぶ蝶を喰(くは)んとしたる牡丹かな (第一 こがねのこま)
    牡丹一輪青竹の筒にさして
    送られける時
  仲光が討て参(まゐり)しぼたんかな  (第三 みやこどり)
    画賛狂句、彦根侍の口真似
    して
  さして見ろぎょやう牡丹のから傘ダ   (第三 みやこどり)

 『屠龍之技』中の「牡丹」の三句である。蕪村にも「牡丹」の佳句が目白押しである。

  牡丹散つてうちかさなりぬ二三片  蕪村 「蕪村句集」
  牡丹切て気の衰へし夕かな     蕪村 「蕪村句集」
  閻王の口や牡丹を吐かんとす    蕪村 「蕪村句集」
  地車のとゞろとひゞく牡丹かな   蕪村 「蕪村句集」  

 抱一の一句目の句は、蕪村の「閻王の口や牡丹を吐かんとす」の句に近いものであろう。二句目の前書きのある「仲光と牡丹」の句は、能「仲光(なかみつ)」を踏まえてのもので、その「仲光」中の、「美女丸」の身代わりになって、「仲光」に打ち首にされる仲光の実子の「幸寿丸 」を「牡丹」に見立てての一句ということになる(下記の「参考」)。
 三句目の「彦根侍と牡丹」の句は、「大老四家(井伊家・酒井家・土井家・堀田家)」の文治派・酒井家に連なる生粋の江戸人・抱一の、武断派・井伊家(彦根藩・彦根侍)の風刺の意などを込めての一句と解したい。この「ぎょやう」(ぎょうよう)というのが、「仰々しい(大げさ)」の彦根方言のような感じに受ける。

(参考)

http://www.kanshou.com/003/butai/nakami.htm

能「仲光」のストリー
【 多田満仲は、一子美女丸を学問の為、中山寺へ預けております。しかし、美女丸は学問をせず、武勇ばかりに明け暮れており、父満仲は、藤原仲光に命じ、美女丸を呼び戻します。ここから能「仲光」は始まります。
 「こは誰が為なれば…、人に見せんも某が子と言う甲斐もなかるべし…」これは誰の為であるのか。人に見せても、誰某の子という甲斐もない。親が子を叱る時の、昔も今も変わらぬ心情です。満仲は、憤りのあまり、美女丸を手討にしようとします。更に、中に入って止めた仲光に美女丸を討つよう命じます。
 仲光は、主君に何と言われても、美女丸を落ち延びさせるつもりでいますが、頻りの使いに、ついに逃がす事が出来なくなります。「あわれ某、御年の程にて候わば、御命に代り候わんずるものを…」同じ年頃であれば、お命に代ろうものを…と嘆く仲光の言葉を、仲光の子の幸寿が聞きます。幸寿は「はや自らが首をとり、美女御前と仰せ候いて、主君の御目にかけられ候え。」と言います。美女丸も、自分の首をと言い、仲光はついに幸寿に太刀を振り下ろしてしまいます。
 満仲は、美女丸を討ったと報告する仲光に、幸寿を自分の子と定めると言います。仲光は、幸寿が美女丸のことを悲しみ、髪を切り出て行ったと言い、自分も様を変え、仏道に入りたいと言います。
 比叡山、恵心僧都が美女丸を連れて来ます。満仲もついには許し、めでたい事と僧都に所望され仲光は舞を舞います。「この度の御不審人ためにあらず。かまえて手習学問、ねんごろにおわしませと…。」この度の事は人のせいではありません。これからは、手習学問を熱心にするように…。仲光に言われ、美女丸は恵心僧都と再び帰って行きます。  】



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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十)

その二十 葛図

抱一・葛図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「葛図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

抱一の代表作は、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描いた「夏秋草図屏風」(二曲一双)が挙げられるであろう。その左隻の「秋草図」には、「ススキ・オミナエシ・フジバカマ・クズ」が描かれている(下記の左方の「紅白」が「クズ」、その下方に「フジバカマ」、右方の「紅」は「オミナエシ」)。

抱一・秋草図部分図.jpg

酒井抱一筆「夏秋草図屏風」の左隻の部分図

月に秋草図屏風.jpg

酒井抱一筆「月に秋草図屏風」六曲一隻 東京国立博物館寄託

 この「月に秋草図屏風」は、夏目漱石の「門」に出てくる。

「下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描いた上に、真丸な月を銀で出して、其横の空いたところへ、野路や空月の中なる女郎花、其一と題してある。
宗助は膝を突いて銀の色の黒く焦げた辺から、葛の葉の風に裏を返してゐる色の乾いた様から、大福程な大きな丸い朱の輪廓の中に、抱一と行書で書いた落款をつくづくと見て、
父の行きてゐる当時を憶ひ起さずにはゐられなかつた。」(夏目漱石「門」より)

 上記の「野路や空月の中なる女郎花」は抱一の句で、抱一の高弟・鈴木其一が、その句を書き添えているというのであろう。この抱一の句は、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「かぢのおと」に、「野路や空月の中なるおみなへし」の句形で収載されている。俳人でもある夏目漱石は、確かに、抱一の自撰句集『屠龍之技』を熟知していて、そして、上記の抱一の「月に秋草図屏風」類いのものを目にしていたのであろう。
 抱一の俳諧の師筋に当たる馬場存義にも、葛の花の句がある。

  鹿野焼や手のうらかえす葛の花     馬場存義

 また、夏目漱石の俳句の師筋に当たる正岡子規や旧知の高浜虚子門下にも、葛の花の句が多い。

  山葛にわりなき花の高さかな      正岡子規
  抱一の観たるがごとく葛の花      富安風生
  堰堤に匍ひもとほれる葛の花      富安風生
  山桑をきりきり纒きて葛咲けり     富安風生
  こぼれつぐ葛の花屑雨の淵       高浜年尾
  流れ継ぐ花葛の色まぎれなし      高浜年尾
  兎跳ね犬をどり入る葛の花       水原秋櫻子
  朝霧浄土夕霧浄土葛咲ける       水原秋櫻子
  渋の湯の裏ざまかくす葛の花      水原秋櫻子
  四五人の無用の客や葛の花       高野素十
  山川や流れそめたる葛の花       高野素十
  木曽馬も花葛も見ず馬籠去る      高野素十
  大学の中に弥生ケ丘葛咲いて      山口青邨
  有耶無耶といふ関葛の花襖       阿波野青畝
  どちらかと言へば好きなり葛の花    清崎敏郎
  山道も吾妻郡葛の花          清崎敏郎

(追記)

 夏目漱石の「門」に出てくる「月に秋草図屏風」に類いするものは、六曲一隻の大作ではなく、下記アドレスの「紙本金地著色秋草花卉図(酒井抱一筆)・紙本金地著色孔雀牡丹図(谷文晁筆)」などのより小品ものであったと思われる。抱一には、「月に秋草図」(一幅)ものなどは多い。

www.city.kiryu.lg.jp/kankou/bunkazai/1010700/kenshitei/1001968.html
タグ:鶯邨画譜
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十九)  [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十九) 

その十九 禊図

禊・抱一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「禊図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 尾形光琳の「禊図」は下記のとおり。

禊・光琳.jpg

尾形光琳筆「禊図」一幅 絹本着色 九七・〇×四二・六cm 畠山記念館蔵
【 この図は藤原家隆(一一五八~一二三七)の「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」の歌意を描いたもので「家隆禊図」ともいわれる。左下に暢達(ちょうたつ)した線にまかせて、簡潔に水流の一部を表わし、流れに対して三人の人物が飄逸な姿で描かれ、色調は初夏のすがすがしさを思わせる。「法橋光琳」の落款、「道崇」の方印がある。 】(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収「作品解説131」)

尾形光琳は、下記の宗達の『伊勢物語』(第六十五段)の「禊」の場面の「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」に対して、藤原家隆の「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」の歌意を上部に「楢の木」を配して表現している。。


禊・宗達.jpg
宗達派「伊勢物語図屏風」の部分図「禊図」(「国華」九七七)
画賛「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」

 ここで、『鶯邨画譜』の「禊図」は、「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」(家隆)の「禊」の場面よりも、「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」(『伊勢物語』)の「禊」の場面のように思われる。

(追記) 下記のアドレスの「乾山の『禊図屏風』」で取り上げている(家隆の歌の「なら」を「楢」と「奈良」とを掛詞としての歌意にしていたが、この歌も京都の上賀茂神社の「御手洗川」と解するのが一般的なようである)。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-23

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十八) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十八) 

その十八 蓬莱山図

蓬莱.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「蓬莱山図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

蓬莱二.jpg

池田孤邨画「蓬莱・百亀・百鶴図」三幅対 絹本著色 各九六・〇×三二・四㎝ 個人蔵
【池田孤邨(一八〇三~六八)は其一より七歳年下抱一の弟子。抱一没後は雨華庵から独立し、鶯蒲や其一とある程度の距離を保ちながら明治維新直前まで活躍した。最晩年の元治元年(一八六四)には『光琳新撰百図』を、翌慶応元年(一八六五)には『抱一上人真蹟鏡』を発行、光琳、抱一と連なる流派の一員であることを意欲的に示した。三幅対の中幅は海上に聳える蓬莱の島に初日、右幅は夥しい亀を、左幅にも刈田に鶴の群れを配して新年を祝す掛物である。(後略) 】(『江戸琳派の旗手 鈴木其一』所収「120 蓬莱・百亀・百鶴図」)

 この中幅が「蓬莱山図」である。「蓬莱山」は、仙人の住む理想郷で、中国の神仙思想のシンボルの山である。

「中国,古代における想像上の神山。三神山 (蓬莱,方丈,瀛〈えい〉洲) の一つ。山東地方の東海中にあり,仙人が住み,不死の薬をつくっており,宮殿は金玉,白色の鳥獣がおり,玉の木が生えているとされた。しかし,遠く望めば雲のようであり,近づけばどこへか去って,常人にはいたりえないところという。前4世紀頃から盛んにいわれるようになり,神仙思想の原型となった。日本にも伝わって,富士山,熊野山,宮城県の金華山などの霊山の呼び名となった。また,熱田神宮を蓬莱と呼ぶこともある。」
https://kotobank.jp/word/蓬莱山-132488

 この孤邨が描く「百鶴図」は、「丹頂鶴と真鶴を混ぜる図様も光琳画を継承している」(上記の「作品解説」)と、前回の「鍋鶴」は、「真鶴」と解するのが妥当のようである。
 なお、『江戸琳派の旗手 鈴木其一』には、次のような、「蓬莱山図」主題の「吉祥物」(縁起物)が掲載されている。

 酒井道一画「蓬莱・桜・瓢箪図」三幅対(作品解説129)
鈴木其一画「雛掛物」三幅対 滴翠美術館蔵(作品解説139)

この其一の「雛掛物」の解説(抜粋)は次のとおりである。

「中央は蓬莱山に日輪、右幅には白椿に鴛鴦、左幅には鯉に萍(うきくさ)を描く三幅対。(中略)蓬莱山の上には二羽の鶴が飛翔し、鴛鴦、鯉も番(つがい)であることを考え合わせれば、婚礼調度として誂えた雛道具の一種だろうか。」

 鈴木其一画「亀蓬莱山図」一幅 細見美術館蔵(作品解説161)

この其一の「亀蓬莱山図」の解説(抜粋)は次のとおりである。

「(前略)海の彼方にある蓬莱山は古代中国の神仙思想に基づくが、江戸琳派では仙人の住む理想郷として緑の松とともにユニークな形で描かれ、新年の床飾りとして多くの注文を得たようだ。(後略)」

 さて、抱一の「蓬莱山」に関する句というと、抱一自撰句集『屠龍之技』を丹念に見ていくと、これはというのにお目にかかるのかも知れないが、ここは、抱一の先輩格の与謝蕪村の次の句が相応しいであろう。

  蓬莱の山まつりせむ老の春 (蕪村 安永四年=一七七五 六十歳)

 この蕪村の句の意は、「還暦に当たる老いの正月に、蓬莱山を床の間に飾り目出度い寿ぎの年を迎えたい」というようなことであろう。
 この句は、蕪村の夜半亭一門の歳旦開き(初句会)の句で、この句を発句にしての歳旦三つ物が今に遺されている。

  安永乙未歳旦
 ほうらいの山まつりせむ老の春   蕪村
  金茎の露一杯の屠蘇       我則
 閣寒く楼あたたかに梅咲きて    月渓

  其二
 みよし野の旅出撰ばんはつ暦    月渓
  花の都やみなさくら人      蕪村
 おぼろ月堤の小家ゆかしくて    我則

 其三
 冨士の夢さめ行窗や初霞      我則
  よゝと雑煮をくらふ家の子    月渓
 春風に朱のそを舟哥ふらん     蕪村
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