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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十八) [光悦・宗達・素庵]

その十八 前大僧正慈円

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の九「通光・慈円」・式子内親王)」(シアトル美術館蔵)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(通光その二・慈円その一)」(シアトル美術館蔵)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(慈円その二・式子内親王その一)」(シアトル美術館蔵)

18 前大僧正慈円:いつまでか涙曇らで月は見し秋まちえても秋ぞ恋しき
(釈文)百首乃哥た天まつ利し時月能哥
    前大僧正慈円
以つ満天加涙曇ら天月盤見し秋ま知え傳も秋曽恋し幾

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jien.html#AT

(「慈円」周辺メモ)

   百首歌奉りし時、月の歌
いつまでか涙くもらで月は見し秋待ちえても秋ぞ恋しき(新古379)

【通釈】涙に目がくもらないで月を見たのは、いつ頃までのことだったろう。待望の秋を迎えても、さやかな月が見られるはずの、ほんとうの秋が恋しいのだ。
【補記】秋はただでさえ感傷的になる季節であるが、そのうえ境遇の辛さを味わうようになって以来、涙で曇らずに秋の明月を眺めたことがない、ということ。正治二年(1200)、後鳥羽院後度百首。

慈円 久寿二~嘉禄一(1155~1225) 

 摂政関白藤原忠通の子。母は藤原仲光女、加賀局(忠通家女房)。覚忠・崇徳院后聖子・基実・基房・兼実・兼房らの弟。良経・後鳥羽院后任子らの叔父にあたる。
 二歳で母を、十歳で父を失う。永万元年(1165)、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のる。仁安二年(1167)、天台座主明雲を戒師として得度する。嘉応二年(1170)、一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられる。以後、天台僧としての修行に専心し、安元二年(1176)には比叡山の無動寺で千日入堂を果す。摂関家の子息として法界での立身は約束された身であったが、当時紛争闘乱の場と化していた延暦寺に反発したためか、治承四年(1180)、隠遁籠居の望みを兄の兼実に述べ、結局兼実に説得されて思いとどまった。養和元年(1181)十一月、師覚快の入滅に遭う。この頃慈円と名を改めたという。
 寿永元年(1182)、全玄より伝法灌頂をうける。文治二年(1186)、平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就く。以後慈円は平等院執印・法成寺執印など、大寺の管理を委ねられた。同五年には、後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこなう。
 この頃から歌壇での活躍も目立ちはじめ、良経を後援して九条家歌壇の中心的歌人として多くの歌会・歌合に参加した。文治四年(1188)には西行勧進の「二見浦百首」に出詠。
 建久元年(1190)、姪の任子が後鳥羽天皇に入内。同三年(1192)、天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、ついで護持僧・法務に補せられる。同年、無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開く。同六年、上洛した源頼朝と会見、意気投合し、盛んに和歌の贈答をした(『拾玉集』にこの折の頼朝詠が残る)。しかし同七年(1196)十一月、兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居した。
 建久九年(1198)正月、譲位した後鳥羽天皇は院政を始め、建仁元年(1201)二月、慈円は再び座主に補せられた。この前後から、院主催の歌会や歌合に頻繁に出席するようになる。同年六月、千五百番歌合に出詠。七月には後鳥羽院の和歌所寄人となる。同二年(1202)七月、座主を辞し、同三年(1203)三月、大僧正に任ぜられたが、同年六月にはこの職も辞した。以後、「前大僧正」の称で呼ばれることになる。
 九条家に代わって政界を制覇した源通親は建仁二年(1202)に急死し、兼実の子良経が摂政となったが、四年後の建永元年(1206)、良経は頓死し、翌承元元年(1207)には兄兼実が死去した。以後、慈円は兼実・良経の子弟の後見役として、九条家を背負って立つことにもなる。
 この間、元久元年(1204)十二月に自坊白川坊に大懺法院を建立し、翌年、これを祇園東方の吉水坊に移す。建永元年(1206)には吉水坊に熾盛光堂(しじょうこうどう)を造営し、大熾盛光法を修す。また建仁二年の座主辞退の後、勧学講を青蓮院に移して再興するなど、天下泰平の祈祷をおこなうと共に、仏法興隆に努めた。
 建暦二年(1212)正月、後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就く。翌三年には一旦この職を辞したが、同年十一月には四度目の座主に復帰。建保二年(1214)六月まで在任した。
 建保七年(1219)正月、鎌倉で将軍実朝が暗殺され、九条道家の子頼経が次期将軍として鎌倉に下向。しかし後鳥羽院は統幕計画を進め、公武の融和と九条家を中心とした摂政性を匡治的理想とした慈円との間に疎隔を生じた。院はついに承久三年(1221)五月、北条義時追討の宣旨を発し、挙兵。攻め上った幕府軍に敗れて、隠岐に配流された。
 慈円はこれ以前から病のため籠居していたが、貞応元年(1222)、青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をするなどした。その一方、四天王寺で後鳥羽院の帰洛を念願してもいる。嘉禄元年(1225)九月二十五日、近江国小島坊にて入寂。七十一歳。無動寺に葬られた。嘉禎三年(1237)、慈鎮和尚の諡号を賜わる。
 著書には歴史書『愚管抄』(承久二年頃の成立という)ほかがある。家集『拾玉集』(尊円親王ら編)、佚名の『無名和歌集』がある。千載集初出。勅撰入集二百六十九首。新古今集には九十二首を採られ、西行に次ぐ第二位の入集数。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十六)

久寿二年(1155)慈円誕生。摂政関白藤原忠通の子。兼実・兼房らの弟。良経らの叔父。
保元元年(1156)保元の乱(「崇徳上皇・藤原頼長」対「後白河天皇・藤原忠通」の争い)
平治元年(1159)平治の乱(「後白河院政派・源義朝」対「二条親政派・平清盛」の争い)
永万元年 (1165) 慈円、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門、道快を名のる。十歳。
仁安二年(1167)平清盛 太政大臣就任。武家政権成立。
治承四年(1180)源頼朝挙兵し、鎌倉に入る。
文治元年(1185)壇ノ浦合戦、平氏滅亡。慈円、三十歳。
建久三年(1192)頼朝、征夷大将軍。慈円、天台座主に就任する。三十七歳。
建久七年 (1196) 建久七年の政変(兼実の失脚。慈円天台座主などの職位を辞す。)
建仁元年 (1201) 慈円は再び天台座主に補せられる(後鳥羽院院政)。
元久二年(1205)『新古今和歌集』成る。慈円、五十歳(「和歌所」寄人)。
建暦二年(1212)鴨長明『方丈記』成る。慈円、三たび天台座主に就く。五十七歳。
承久二年(1220)慈円『愚管抄』成る。六十五歳。
承久三年(1221)承久の乱。後鳥羽上皇ら配流。六十六歳。
嘉禄元年 (1225) 慈円入寂。七十歳。

  慈円は、久寿二年(一一五五)に、藤原摂関家の一員として生まれる。父・藤原忠道は、三十七年間にわたり摂政関白をつとめ、十三人の兄弟のうち、兄四人は、摂政関白や太政大臣の地位につき、六人の兄弟は出家し、そして三人の姉妹は皆、三代の天皇の皇后になっている。天皇家を除けば、当代に並ぶもののない高貴な家系の出ということになる。
 上記の年譜のとおり、慈円は、十歳前後で出家し、源頼朝が、征夷大将軍になった、建久三年(一一九二)に、三十七歳前後の若さで、「天台座主」(天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職)となる。
 これらは、慈円が望んでのものというより、藤原摂関家の一員であるが故に、その政治と宗教の両面から地位を磐石なものにするための、外因的な要請に因るということに外ならない。慈円の天台座主に在ったのは、建久三年(一一九二)からが建保二年(一二一四)まで、実に四たびに亘って、就任と辞任とを繰り返している。
 歌人としての慈円が、兄の兼実、そして、その子・良経の九条歌壇に登場するのは、六歳年上の兄・兼実が摂政に就いた文治二年(一一八六)、三十一歳以降の頃からである。
 しかし、その私家集『拾玉集』(五巻本=五九一七首、七巻本=流布本=四六一三首)には、安元元年(一一七五)、二十一歳の頃(当時の号=通快)の作も収録されており、二十歳前後から、百首歌(「定数歌」の一首、個人又は数人で百首詠む)などの詠作に励んでいたのであろう。
 ここで、『新々百人一首(丸谷才一著)』で、「藤原忠通(良経の祖父)~藤原良経」までの歌を掲出して置きたい(配列番号=時代順番号)。

54 限りなくうれしと思ふことよりもおろかの恋ぞなほまさりける(忠通=兼実・慈円の父)
55 かざこしを夕越えくればほととぎす麓の雲のそこに鳴くなり(藤原清輔=六条藤家)
56 花すすき茂みがなかをわけゆかば袂をこえて鶉たつなり(俊恵=源俊頼の子、長明の師)
57 七夕のとわたる舟の梶の葉にいく秋かきつ露のたまづさ(俊成=御子左家、定家の父)
58 あらし吹く峯の木の葉にさそはれていづち浮かるる心なるらん(西行=俊成と双璧)
59 朝夕に花待つころは思ひ寝の夢のうちにぞ咲きはじめける(崇徳院=保元の乱時の上皇)
60 あふさかの関の杉むら霧こめて立ちども見えぬゆふかげの駒(侍賢門院堀河)
61 ますら男がさす幣(みてぐら)は苗代の水の水上まつるなるらん(源有房=俊恵歌壇)
62 舟出する比良のみなとのあさごほり棹にくだくる音のさやけさ(顕昭=六条藤家)
63 逢ふまでの思ひはことの数ならで別れぞ恋のはじめなりける(寂蓮、俊成の甥、養子)
64 なにはがた汀の蘆は霜がれてなだの捨舟あらはれにけり(二条院讃岐)
65 ゆく春のあかぬなごりを眺めてもなほ曙やおもがはりせぬ(藤原隆信=定家の異父兄)
66 ささなみや志賀の都は荒れ西にしを昔ながらの山桜かな(平忠度=清盛の末弟、俊成門)
67 難波江の春のなごりにたへぬかなあかぬ別れはいつもせしかど(祇寿=江口の妓・遊女)
68 桜咲くたかねに風やわたるらん雲たちさわぐ小初瀬の山(兼実=慈円の兄、良経の父)
69 山おろしに散るもみぢ葉つもるらん谷のかけひの音よわるなり(長明=『方丈記』作者)
70 旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢を見るかな(慈円=『愚管抄』の作者)
71 秋風に野原のすすき折り敷きて庵あり顔に月を見るかな(家隆=定家と双璧の歌人)
72 わが恋は知る人もなしせく床の泪もらすなつげの小枕(式子内親王=『新古』女流代表)
73 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ(定家=『百人一首』撰者)
74 昔たれかかる桜の花を植ゑて吉野を春の山となしけん(良経=『新古』「序」の起草者)

 それにしても、「忠通→兼実→慈円→良経」の揃い踏みは圧巻である。

(再掲)

54 限りなくうれしと思ふことよりもおろかの恋ぞなほまさりける(忠通=兼実・慈円の父)
68 桜咲くたかねに風やわたるらん雲たちさわぐ小初瀬の山(兼実=慈円の兄、良経の父)
70 旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢を見るかな(慈円=『愚管抄』の作者)
74 昔たれかかる桜の花を植ゑて吉野を春の山となしけん(良経=『新古』「序」の起草者)

 ここで、慈円と同年齢(共に久寿二年=一一五五の生れ)の鴨長明の『方丈記』と『愚管抄』とを紹介して置きたい。また、上記の主要な歌人などと「慈円・長明」との年齢の開きも付記して置きたい。

https://nenpyou-mania.com/n/jinbutsu/11260/慈円

「藤原忠通」   →五十八歳年上
「藤原俊成」   →四十一歳年上
「西行・平清盛」 →三十七歳年上
「崇徳天皇」   →三十五歳年上
「後白河天皇」  →二十七歳年上
「藤原隆信」    →十三歳年上
「藤原(九条)兼実」 →六歳年上
「藤原家隆」     →二歳年下
「藤原定家」     →六歳年下 
「藤原(九条)良経」→十三歳年下
「後鳥羽天皇」  →二十五歳年下

『愚管抄』(出典:小学館:日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ))

 1219年(承久1)、前天台座主(ざす)大僧正慈円(じえん)(慈鎮(じちん)和尚)が著した歴史書。『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』(北畠親房(きたばたけちかふさ)著)、『読史余論(とくしよろん)』(新井白石(あらいはくせき)著)とともに、わが国の三大史論書といわれている名著である。7巻からなり、巻1~2に「漢家年代」「皇帝年代記」を置き、巻3~6で保元(ほうげん)の乱(1156)以後に重きを置いた神武(じんむ)天皇以来の政治史を説き、付録の巻7では、日本の政治史を概観して、今後の日本がとるべき政治形体と当面の政策を論じている。
 すなわち、慈円は、一方では武士の出現によって宮廷貴族の間に生まれた「近代末世の意識」を「仏教の終末論の思想」によって形而上(けいじじょう)学的に根拠づけ、一方では藤原氏の伝統的な「摂関家意識」を「祖神(天照大神(あまてらすおおみかみ)・八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と天児屋命(あめのこやねのみこと))の冥助(みょうじょ)・冥約の思想」によって形而上学的に根拠づけ、この両方の思想群を結合して彼の史論を構築した。
 その際、彼がこれら2組、四つの思想史的要素の接合剤としたのは、理想を現実にあわせて変化させるという、伝教(でんぎょう)大師最澄(さいちょう)以来比叡山(ひえいざん)の思想的伝統となって深化してきた「時処機(ときところひと)相応の思想」であった。こうした思想をよりどころとして、いまは摂関家と武家を一つにした摂録(せつろく)将軍制が、末代の道理として必然的に実現されるべき時であると論じ、後鳥羽院(ごとばいん)とその近臣による摂関家排斥の政策と幕府討伐の計画は歴史の必然、祖神の冥慮(みょうりょ)に背くものと非難した。
 彼は承久(じょうきゅう)の乱(1221)ののちもこの考えを捨てず、この書の皇帝年代記に筆を加え続けているのである。[石田一良]
『岡見正雄・赤松俊秀校注『日本古典文学大系86 愚管抄』(1967・岩波書店) ▽Delmer M. Brown and Ichiro Ishida The Future and the Past;a translation and study of the Gukansho (1979, Univ. of Calif. Press) ▽石田一良「『愚管抄』の成立とその思想」(『東北大学文学部研究年報』17所収・1966)』

『方丈記』(出典:小学館:日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ))

 鎌倉初期の随筆。一巻。鴨長明(かものちょうめい)作。1212年(建暦2)3月成立。書名は長明が晩年に居住した日野の方丈(一丈四方、すなわち約3.3メートル四方)の草庵(そうあん)にちなんだもの。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という無常観を表白する流麗な文章に始まり、五つの大きな災厄がまず記述される。京都の3分の1を焼き尽くした安元(あんげん)3年(1177)の大火、治承(じしょう)4年(1180)の旋風、同年、平清盛(きよもり)によって突如強行された福原(現在の神戸市付近)への遷都、養和(ようわ)年間(1181~82)の大飢饉(ききん)、元暦(げんりゃく)2年(1185)の大地震と打ち続く大きな災厄の前にあえなく崩壊していく平安京の光景が迫力ある筆致で描かれる。
 そして「すべて世の中のありにくく、我が身と栖(すみか)とのはかなくあだなるさま、またかくのごとし」と、この世の無常と、人の命のはかなさが強い語調で結論づけられる。続いて長明に訪れた「折り折りのたがひめ(不遇)」のため、50歳ころ出家、60歳に及び日野に方丈の庵(いおり)を構えるに至った経過が述べられる。庵の周辺は仏道の修養、管絃(かんげん)の修練には好適の地で、そこは長明に世俗の煩わしさから解放された安息を初めて与えた地であり、「仮の庵(いほり)のみのどけくしておそれなし」と賞揚される。しかし、末尾に至り、閑寂な草庵に執着する自らを突然否定し、「不請(ふしゃう)の阿弥陀仏(あみだぶつ)(人に請(こ)われなくとも救済の手を差し伸べてくれる阿弥陀仏の御名の意か)」を唱えて終わる。
 前半でこの世の無常を認識し、後半において草庵の閑居を賞美、かつ末尾ではそれらを否定するという一編の構成はきわめて緊密である。漢文訓読調を混ぜた和漢混交文は力強く、論旨を明快なものとしている。とりわけ五大災厄の描写は緊張した文体で、的確、リアルできわめて印象的である。慶滋保胤(よししげのやすたね)の『池亭記(ちていき)』(982成立)などを倣ったものと考えられるが、『平家物語』(13世紀後半成立か)をはじめ、後の中世文学に大きな影響を与えており、『徒然草(つれづれぐさ)』(1331ころ成立か)と並んで、中世の隠者文学の代表である。大福光寺本は鴨長明の自筆かといわれる写本で、その価値は高い。
 五大災厄の部分を欠く「略本方丈記」といわれるものもあり、長明の自作とも後人の偽作ともいわれ、定説をみない。[浅見和彦]
『簗瀬一雄著『方丈記全注釈』(1971・角川書店) ▽三木紀人著『鑑賞日本の古典10 方丈記・徒然草』(1980・尚学図書) ▽三木紀人・宮次男・益田宗編『図説日本の古典10 方丈記・徒然草』(1980・集英社)』
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