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「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十五) [光悦・宗達・素庵]

その二十五 法性寺前関白太政大臣

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十二「堀河右大臣・橘為仲・藤原忠通」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵・シアトル十一.jpg
「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(藤原忠通・源頼政)」(シアトル美術館蔵))

25 法性寺前関白太政大臣:風吹ばたまちるはぎのしたつゆにはかなくやどる野辺の月哉
(釈文)風吹盤たま知るハ幾能志多徒ゆ尓ハ可那久やどる野邊濃月哉

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-26

風ふけば玉ちる萩の下露にはかなく宿る野辺の月かな(藤原忠通「新古386」)

歌意は、「風が吹くと、玉となって散っていく萩の葉の下露に、かりそめにもその影を宿している野辺の月であることよ。」
(参考)法性寺入道前関白太政大臣(artwiki)
【藤原忠通。承徳元年(1097)~長寛二年(1164)藤原氏摂気相続流、関白忠実の息子で母は右大臣源顕房の娘師子。関白太政大臣従一位に至る。保元の乱の際には後白河天皇の関白として、崇徳院側であった父忠実や弟の左大臣頼長と対立した。しばしば自邸に歌合を催している。漢詩をもよくし、また法性寺流の能書で知られる。(百人一首 秀歌集) 】

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十三)

百人一首歌人系図(藤原氏)

http://kitagawa.la.coocan.jp/data/100keizu02.html

藤原道長系図.jpg

 上図は、藤原氏の「百人一首歌人系図」であるが、その七十六番の作者「法性寺入道前関白太政大臣」(藤原忠通)は、道長直系(道長→頼通→師実→師通→忠実→忠通)なのである。
 この忠通が「藤氏長者」となった頃には、既に「摂関政治」は形骸化し、さらに父や弟との対立を抱え、本来対抗勢力である鳥羽法皇や平氏等の「院政」勢力と巧みに結びつきながら、「保元の乱」に続く「平治の乱」でも実質的な権力者・信西(藤原通憲)とは対照的に生き延び、彼の直系子孫のみが「五摂家」(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)として、原則的に明治維新まで摂政・関白職を独占することとなる。
 この「百人一首」を編んだ定家(九十七番作者)も道長直系で、この道長直系は、忠通・定家の他に、六人(基俊・俊成・寂蓮・良経・雅経・慈円)を数える。そして、忠通の前後の作者はいずれも忠通との政争に敗れた人物(藤原基俊、崇徳天皇)である。

75契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋も去ぬめり(藤原基俊)
76わたの原こぎいでてみれば久方の雲いにまがふ沖つ白波(法性寺入道前関白太政大臣)
77瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院)

ここで、これまでの「道長→頼通・頼宗→忠通」の「月の歌」は、次のとおりである。

此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思へば(藤原道長「小右記」)
(歌意: 今の世は、我が一族の世であることよ。それは丁度、今宵の満月が欠けることなく満ち足りていることと同じであることよ。 )

有明の月だにあれやほととぎすただ一声のゆくかたも見む(藤原頼通「後拾遺192」)
(歌意: 暁闇の中、ほととぎすが鳴いて、たちまち飛び去ってしまった。せめて空に有明の月が出ていたらなあ。たった一声鳴き捨てて去って行く方を、見送ることもできように。)

人よりも心のかぎりながめつる月はたれとも分かじものゆゑ(藤原頼宗「新古384」)
(歌意: 誰よりも深く、心を尽して月を眺めたよ。月の方では、見ているのが誰だろうと、区別などしないだろうに。)

風ふけば玉ちる萩の下露にはかなく宿る野辺の月かな(藤原忠通「新古386」)
(歌意: 風が吹くと、玉となって散っていく萩の葉の下露に、かりそめにもその影を宿している野辺の月であることよ。)

 これに、同じく道長・忠常直系の「寂蓮・良経」の「月の歌」を抜粋すると次のとおりである。

いつまでか涙くもらで月は見し秋待ちえても秋ぞ恋しき(慈円「新古379」)
(歌意: 涙に目がくもらないで月を見たのは、いつ頃までのことだったろう。待望の秋を迎えても、さやかな月が見られるはずの、ほんとうの秋が恋しいのだ。)

ゆくすゑは空もひとつの武蔵野に草の原よりいづる月かげ(良経「新古422」)
(歌意: ずっと先の方は夕空と一つになっている広大な武蔵野――その草の原からさしのぼる月よ。)

道長の時代(康保三年~万寿四年(九六六~一〇二八年))から良経の時代(嘉応元~建永元(一一六九~一二〇六))まで、平安時代(中期)の全盛時代から平安時代(後期)の終焉時代へと、それは、京都の平安宮を中心する「公家時代」から武蔵野の一隅の鎌倉幕府を中心する「武家時代」への変遷の流れでもあった。
 これらのことは、その他の道長直系の「基俊・俊成・寂蓮・定家・雅経」の、次の「月の歌」でも、如実に感知される。

あたら夜を伊勢の浜荻をりしきて妹恋しらに見つる月かな(基俊「千載500」)
(歌意: もったいないような月夜なのに、私は伊勢の海辺で旅寝するために葦を折り敷いて寝床に作り、都の妻を恋しがりながら、こうして月を眺めることよ。)

ひとり見る池の氷にすむ月のやがて袖にもうつりぬるかな(俊成「新古640」)
(歌意: 独り見ていた池の氷にくっきりと照っていた月が、そのまま、涙に濡れた袖にも映ったのであるよ。)

ひとめ見し野辺のけしきはうら枯れて露のよすがにやどる月かな(寂蓮「新古488」)
(歌意: このあいだ来た時は人がいて、野の花を愛でていた野辺なのだが、秋も深まった今宵来てみると、その有様といえば、草木はうら枯れて、葉の上に置いた露に身を寄せるように、月の光が宿っているばかりだ。)

ひとりぬる山鳥の尾のしだり尾に霜おきまよふ床の月影(定家「新古487」)
(歌意: 独りで寝ている山鳥の尾、その垂れ下がった尾に、霜が置いているのかと迷うばかりに、しらじらと床に射す月影よ。)

はらひかねさこそは露のしげからめ宿るか月の袖のせばきに(雅経「新古436」)
(歌意: 払っても払いきれないほど、そんなに露がたくさんおいているにしても、よくまあ月の光が宿るものだわ、こんな狭い袖の上に。)

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「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十四) [光悦・宗達・素庵]

その二十四 橘為仲朝臣

鹿下絵十一.JPG
「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十二「堀河右大臣・橘為仲・藤原忠通」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(「橘為仲」シアトル美術館蔵)」)

24 橘為仲朝臣:あやなくてくもらぬよひをいとふ哉しのぶの里の秋の夜の月
(釈文)安や那久天具もならぬよひをいとふ哉し乃ぶ濃里能秋乃夜濃月

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tamenaka.html

   題しらず
あやなくもくもらぬ宵をいとふかな信夫の里の秋の夜の月(新古385)
【通釈】我ながらおかしなことだ。雲ひとつない宵を厭うなんて。秋の夜、信夫の里の月を眺めながら…。
【語釈】◇あやなくも 「あやなし」は道理に外れた・不合理な。◇信夫の里 旧陸奥国信夫郡。いまの福島市あたり。信夫山がある。「しのぶ(忍ぶ・偲ぶ)」を掛けることが多い。
【補記】普通なら「曇る宵」を厭うのだが、この作者は「曇らぬ宵」を厭うという。雲のかかった月の風情がまさるとしたか。憂鬱な心に月の光が明るすぎたのか。あるいは、晴れがましさに対する羞恥の感情であろうか。

橘為仲 生年未詳~応徳二(1085)
諸兄の裔。為義の孫。筑前守義通の子。母は信濃守挙直女。弟の資成も後拾遺集に歌を載せる歌人。
蔵人・陸奥守・左衛門権佐・太皇太后宮亮などを歴任し、正四位下に至る。
藤原範永らと共に和歌六人党の成員(『続古事談』)。後冷泉天皇皇后四条宮寛子や藤原頼通、橘俊綱のもとに出入りした。陸奥赴任の際は右大臣源師房から装束を賜わったという(『袋草紙』)。能因・相模らに師事し、源経信・良暹・四条宮下野・周防内侍ら多くの歌人と交友をもった。大弐三位との贈答歌もある。家集『橘為仲朝臣集』がある(以下「為仲集」と略)。後拾遺集初出。勅撰入集十二首。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十二)

http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu/waka-rokunintou/tamenaka-t.htm

(「橘為仲」年譜)

 長和3(1014)年、出生?
 長元8(1035)年5月16日、『賀陽院水閣歌合』にて方人を勤める
 長久3(1042)年閏9月晦日、高陽院で開催された歌合に参加
 永承2(1047)年12月1日、六位蔵人・式部少丞
 永承3(1048)年10月11日、五位?・駿河権守
 永承5(1050)年、淡路守赴任?
 天喜4(1056)年、これより以前  皇后宮少進
 康平2(1059)年、皇后宮大進?
 治暦2(1066)年1月14日、五位蔵人・左衛門権佐 『滝口本所歌合』出詠
 治暦3(1067)年1月5日、叙従四位下・蔵人去る
 延久元(1069)年、越後守赴任?
 延久4(1072)年、越後守任終(『朝野群載』第26)
 承保元(1074)年、これより以前に家集完成か
 承保2(1075)年秋、陸奥守赴任
 承保3(1076)年9月12日、陸奥守見任(『水左記』)
 承保4(1077)年正月、陸奥守見任(『後葉和歌集』巻九)
 承暦4(1080)年1月、陸奥守延任を許される?
 応徳2(1085)年10月21日、 没

 この年譜で顕著なのは、為仲が「駿河権守」・「淡路守」・「越後守」・「陸奥守」と「受領」(国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者、現在の「知事」)を歴任していることである。「駿河国」は「現在の静岡県中部」で「上国」の権守、「淡路国」は「現在の兵庫県淡路」で「下国」だが朝廷と関係の深い近国の守、「越後国」は「現在の「新潟県」で「上国」の守、そして、最後の任地の「陸奥国」は「現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県」で「大国」の守である。
 そして、その時代史的な背景は、道長の出家する寛仁三年(一〇一九)の「刀伊の入寇」(女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件)、さらに道長が没した万寿四年(一〇二七))の翌年に起きた東国(安房・下総・常陸)の「平忠常の叛乱」、そして、永承五年(一〇五〇)の翌年に勃発した「前九年の役」(奥州陸奥国などの戦乱)など、藤原氏を中心とする摂関政治は下降線の一途を辿り、変って、「院政」(天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治)そして「武家」の台頭へと時代は推移して行くことが、その背景となっている。
 そもそも、橘為仲の「橘家」は、いわゆる、「源平藤橘」(日本における貴種名族の四つ、源氏・平氏・藤原氏・橘氏)の名家の出で、元明天皇から「橘宿禰」の氏姓を賜り、後に後に「橘朝臣」を姓としている。
 為仲の祖父・為義は藤原道長の家司であり、道長の娘・彰子の皇太后宮大進を務めた人物。また、父・義通は後一条天皇の「乳母子」であるという間柄から、天皇の近臣として仕えている。
 為仲も、道長の嫡男・頼通に近従し、頼通の実娘である寛子の太皇太后亮を務めた。祖父も父も優秀な歌人であり、為仲も、後朱雀~後冷泉天皇時代に活躍した歌人集団である「和歌六人党」の一人に数えられている。
 その「和歌六人党」のメンバーは、次のようである。

藤原範永(受領層歌人の重鎮。「摂津・紀伊守」など。「新古今」三首入集。)
藤原経衡(「大和、筑前守」など。後三条天皇の大嘗会和歌の作者。)
源頼家(「備中・筑前守」など。『袋草紙』に「頼家と為仲」との確執の記事有り。)
源兼長(「備前・讃岐守」など。『袋草紙』に「高倉一宮歌合」の記事有り。)
源頼実(五位蔵人任官、従五位下左衛門尉。叔父頼家、弟頼綱も勅撰集歌人。)
平棟仲(「因幡守・周防守」など。娘に歌人の周防内侍がいる。)
橘義清(「肥後守・勘解由次官」など。橘為仲の兄。)
橘為仲(「駿河・淡路・越後・陸奥守」を歴任。能因、相模らに師事し、経信、兼房、良暹、素意、四条宮下野、周防内侍らと親交を持った。「新古今」二首入集。)

 この「和歌六人党」の中心的な人物の「藤原範永」の『新古今和歌集』入集句のうちの「月の歌」は、次の一首である。

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/norinaga.html

    月を見て遣はしける
見る人の袖をぞしぼる秋の夜は月にいかなる影かそふらむ(新古409)
【通釈】秋、夜空を見上げていると、袖は涙に濡れ、しぼらなければならないほどです。月にどんな面影がだぶってくるからでしょうか。貴女の面影が重なるのです。
【語釈】◇見る人 秋の夜空の月を見る人。自分のことをぼやかして言っている。
【補記】相模に贈った歌。相模の返しは、「身にそへる影とこそ見れ秋の月袖にうつらぬ折しなければ」(大意:秋の月を、身に添って離れない貴男の面影と見ているのです。いつも涙に濡れた袖には月の光が映っているので)。恋歌の贈答のように見えるが、新古今集では秋歌の部に収め、恋歌めかして秋の夜の情緒を詠み交わした歌としている。
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「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十三) [光悦・宗達・素庵]

その二十三 堀川右大臣

鹿下絵十一.JPG
「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十二「堀河右大臣・橘為仲・藤原忠通」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(堀河院・堀河右大臣」(シアトル美術館蔵)

23 堀河右大臣:人よりも心の限詠(ながめ)つる月は誰共わかじ物故
(釈文)題不知
人よ利も心濃限詠徒る月盤誰共わ可じ物故

題しらず
人よりも心のかぎりながめつる月はたれとも分かじものゆゑ(新古384)
【通釈】誰よりも深く、心を尽して月を眺めたよ。月の方では、見ているのが誰だろうと、区別などしないだろうに。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yorimune.html

藤原頼宗  正暦四~治暦一(993-1065) 号:堀河右大臣

道長の次男。母は源高明女、高松殿明子(盛明親王の養女)。関白頼通・上東門院彰子の弟。権大納言能信・関白教通・権大納言長家らの兄。子に右大臣俊家・内大臣能長・後朱雀天皇女御延子ほかがいる。
寛弘元年(1004)十二月、元服し従五位上に叙せられる。長和三年(1014)、権中納言。治安元年(1021)七月、権大納言。同年八月、春宮大夫を兼ねる。寛徳二年(1045)正月、後冷泉天皇の践祚により春宮大夫を止められ、同年十一月、右大将を兼ねる。永承二年(1047)八月、内大臣となり、康平元年(1058)正月、従一位に叙せられる。同三年(1060)七月、右大臣に至るが、治暦元年(1065)正月、病により出家した。同年二月三日、薨ず。七十三歳。
『続古事談』によれば公任に次ぐ歌人と自負していたという。長元八年(1035)の「関白左大臣頼通歌合」、「永承四年内裏歌合」、永承五年(1050)の「麗景殿女御延子歌絵合」などに出詠。特に長久二年(1041)の公任薨後は歌壇の指導者として活躍し、「永承五年六月五日賀陽院歌合」、「永承六年五月五日内裏根合」、天喜四年(1056)の「皇后宮寛子春秋歌合」で判者を務めた。大弐三位・小式部内侍ら女流歌人を愛人としたらしい。家集『入道右大臣集』がある。後拾遺集初出。勅撰入集は四十一首(金葉集は二度本で数える)。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十一)

 堀河右大臣(藤原頼宗)は、「藤氏長者(とうしのちょうじゃ)」(藤原氏一族の全体の氏長者)として摂関政治の頂点を極めた藤原道長の次男である。藤原道長は、その外孫に当たる三代の天皇(後一条・後朱雀・後冷泉天皇)に亘り、その長男の頼通は早くして摂政・関白となり、この道長・頼道の体制は、道長死亡後も続き、実に約半世紀に亘り実権を握り続ける。その藤原氏全盛時代の象徴が、今に遺る頼通が造営した平等院鳳凰堂である。

此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思へば(藤原道長「小右記」)
(歌意: 今の世は、我が一族の世であることよ。それは丁度、今宵の満月が欠けることなく満ち足りていることと同じであることよ。 )

 この歌が収載されている「小右記」は、長い詞書があって、「今日、女御藤原威子を以て、皇后に立つるの日なり」とあり、「寛仁二年(一〇一八)十月十六日の記事」で、「威子の立后は道長が三后(皇后・皇太后・太皇太后)をすべて我が娘で占めるという前代未聞の偉業の達成」の日に因んでのもののようである。この時に、道長、五十三歳の時で、その翌年に出家し、以後、持病(糖尿病)の悪化と共に、万寿四年(一〇二七) に、その六十二年の生涯を閉じることとなる。
この 「三后=一家三后=皇后(藤原威子)・皇太后(藤原妍子)・太皇太后(藤原彰子)
の、この「皇后(藤原威子)・皇太后(藤原妍子)・太皇太后(藤原彰子)」は、全てが藤原道長の娘であり、当時の天皇家は、この「天皇の母方・三后の父・藤原道長」が掌中にしたということを意味する。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yorimiti.html

 祐子内親王家に歌合し侍りけるに、歌合などはててのち、
  人々おなじ題をよみ侍りけるに
有明の月だにあれやほととぎすただ一声のゆくかたも見む(藤原頼通「後拾遺192」)
【通釈】暁闇の中、ほととぎすが鳴いて、たちまち飛び去ってしまった。せめて空に有明の月が出ていたらなあ。たった一声鳴き捨てて去って行く方を、見送ることもできように。
【語釈】◇祐子内親王 後朱雀天皇第三皇女、高倉一宮と号す。母は中宮嫄子で、すなわち頼通の孫にあたる。◇有明の月 普通、陰暦二十日以降の月。月の出は遅く、明け方まで空に残る。
【補記】永承五年(一〇五〇)六月五日、頼通の賀陽院において、祐子内親王の名で主催された歌合のあと、「郭公(ほととぎす)」の題で詠んだ歌

 この道長の長男・頼通の歌の「永禄五年(一〇五〇)」当時には、「藤氏長者」の頂点を極めた藤原道長は既に他界(万寿四年(一〇二七))していて、その死後から三十年近い後の作ということになる。
 そして、道長の出家する寛仁三年(一〇一九)の「刀伊の入寇」(女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件)、さらに道長が没した万寿四年(一〇二七))の翌年に起きた東国(安房・下総・常陸)の「平忠常の叛乱」、そして、この頼通の歌が詠われた永承五年(一〇五〇)の翌年に勃発した「前九年の役」(奥州陸奥国などの戦乱)など、藤原氏を中心とする摂関政治は下降線の一途を辿り、変って、「院政」(天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治)そして「武家」の台頭へと時代は推移して行くこととなる。
 この頼通の歌には、もはや、栄華を極めた道長の「望月」は姿を消して、「有明の月だにあれや」(明け方の朝の月も姿を消して)、「ほととぎすただ一声のゆくかたも見む」(暁闇の中で、けたましく一声をあげた「ほととぎす」の影すら見られない)と、何とも、道長の「望月」の歌に比して、「姿を消して有明の月」と姿を変じていることは、実に象徴的である。
 ここで、冒頭の堀河右大臣(藤原頼宗)の「月の歌」を観賞したい。

人よりも心のかぎりながめつる月はたれとも分かじものゆゑ(藤原頼宗「新古384」)

 道長の「満月の歌」、そして、その嫡子(長男)・頼通の「有明の月」に続けて、この頼宗(道長の次男、頼通の弟)の、この「月」は、道長一族(道長の子女)の、それぞれの数奇な行く末を暗示するような、そんな陰影を色濃く宿している雰囲気を有している。
 月齢ですると、「望月」(道長=陰暦八月十五日の満月)、「有明月」(頼通=残月)、そして、「頼宗=立待月・居待月・臥待月・更待月」と「下弦の月」へと移行して行く月ということになろう。
 そして、この歌は、「月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど」(大江千里「古今193」)の本歌取りの歌とされ、下記のアドレスに、この歌に連なる「主な派生歌」が記されている。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tisato#AT

 その中に、藤原氏の摂関政治の後の、「院政」の最後を飾る隠岐に配流された帝王「後鳥羽院」の、次の歌も記されている。

月かげをわが身ひとつとながむれば千々にくだくる萩のうへの露(後鳥羽院)

 さらに、「道長・彰子・頼通・頼宗」などが「彰子サロン」を代表する女流作家・紫式部の『源氏物語』の中で、どのように登場しているかについて、次のアドレス(「頼宗の居る風景―『小右記』の一場面―」)に、その背景などが記述されている。

file:///C:/Users/yahan/AppData/Local/Packages/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bbwe/TempState/Downloads/KJ00008913779%20(1).pdf

(参考:「藤原道長」の子女)

※藤原彰子(道長の長女)=第六六代天皇・一条天皇の皇后(中宮)。後一条天皇、後朱雀天皇の生母(国母)。
(「彰子サロン」=『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、紫式部の娘で歌人の越後弁(のちの大弐三位。後冷泉天皇の乳母)、そして、「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一首が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成していた。)
藤原頼通(道長の長男)=平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。道長の嫡子。
藤原頼宗(道長の次男)=平安時代中期の公卿・歌人。官位は従一位・右大臣。堀河右大臣と号す。
※藤原妍子(道長の次女)=第六七代天皇・三条天皇の皇后(中宮)。
藤原顕信(道長の三男)=平安時代中期の貴族・僧。官位は従四位下・右馬頭。
藤原能信(道長の四男)=平安時代中期の公卿・歌人。官位は正二位・権大納言、贈正一位、太政大臣。
藤原教通(道長の五男)=平安時代中期から後期にかけての公卿。官位は従一位・関白、太政大臣、贈正一位。
藤原寛子(道長の三女)=敦明親王(小一条院)妃、別名高松殿女御。
※藤原威子(道長の四女)=第六八代後一条天皇中宮、別名大中宮。
藤原尊子(道長の五女)=道長の娘で「たゞ人」(非皇族・非公卿)頼通の猶子源師房と婚姻。源師房は藤原氏と摂関の地位を争う立場にはない村上源氏の一族。
藤原長家(道長の六男)=官位は正二位・権大納言。御子左家の祖。後に道長の嫡妻源倫子の養子となる。
※藤原嬉子(道長の六女)=第六九代後朱雀天皇の東宮妃、第七十代後冷泉天皇生母。贈皇太后。
藤原長信(道長の七男)=平安時代中期の真言宗の僧侶(権僧正)。通称は池辺僧正。東寺と真言宗全体の長である第二十九代東寺長者。
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「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十二) [光悦・宗達・素庵]

その二十二 堀川院御歌

鹿下絵十.JPG
「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十一「円融院・三条院・堀河院」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(三条院・堀河院」(シアトル美術館蔵)

22 堀河院御歌:しきしまやたかまど山の雲間よりひかりさしそふ弓張の月(シアトル)
(釈文)雲間微月といふ事を   
    堀河院御哥
し支しまや可まど山濃雲間よ利日可利左し曽ふ弓張の月

(「堀河院」周辺メモ)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/horikawa.html

   雲間微月といふ事を
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(新古383)

【通釈】大和の国、高円山には雲がかかり、月も隠していたが、いま雲間から弓張月の光が射して、山はだんだんと明るくなってゆく。
【語釈】◇しきしまや 「大和」にかかる枕詞。ここでは「大和の国の」ほどの意。◇高円(たかまと)山 奈良市の東南郊、春日野の南に続く丘陵地帯。主峰の高円山は標高432メートル。◇弓はりの月 弓を張ったような形の月。弦月。

堀河天皇  承暦三~嘉承二(1079-1107)

白河院第二皇子。母は中宮賢子(藤原師実の養女。実父は源顕房)。鳥羽天皇の父。
応徳元年(1084)、母を亡くす。同二年、叔父の皇太子実仁親王が死去したため、翌三年(1086)十一月、立太子し、即日父帝の譲位を受けて即位した。時に八歳。寛治七年(1093)、篤子内親王を中宮とする。嘉保三年(1096)、重病に臥したがまもなく快復。康和元年(1099)、荘園整理令を発布。同五年、宗仁親王(のちの鳥羽天皇)が生れ、同年、皇太子にたてる。嘉承二年(1107)七月十九日、病により崩御。二十九歳。
幼くして漢詩を学び、成人後は和歌をきわめて好んだ。近臣の源国信・藤原仲実・藤原俊忠、および源俊頼らが中心メンバーとなって所謂堀河院歌壇を形成、活発な和歌活動が見られた。長治二年(1105)か翌年、最初の応製百首和歌とされる「堀河百首」(堀河院太郎百首・堀河院御時百首和歌などの異称がある)奏覧。同書は後世、百首和歌の典範として重んじられた。康和四年(1102)閏五月「堀河院艶書合」を主催、侍臣や女房に懸想文の歌を詠進させ、清涼殿で披講させた。なお永久四年(1116)十二月二十日成立の「堀河後度百首」(永久百首・堀河院次郎百首とも)は、堀河天皇と中宮篤子内親王の遺徳を偲び、旧臣仲実らが中心となって催した百首歌とされる。金葉集初出。勅撰入集九首

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十)

 堀河院(1079-1107)は、八歳で天皇に即位し、二十九歳で夭逝した、その一生は、父・白河天皇(堀河天皇崩御後は、第七十四代鳥羽天皇、更に曾孫の第七十五代崇徳天皇と三代にわたり幼主を擁し、四十三年間にわたり院政を敷き、後世「治天の君」と呼ばれた)に翻弄された、先に続く「円融院→三条院→堀河院」との、一連の「悲運の帝王」(「末代の賢王=堀河天皇の呼称」)の系譜という思いが拭えない。
 
64 円融天皇 安和2(969) 8 . 13~永観2(984) 8.27  →新古七首
67※三条天皇 寛弘8(1011) 6 . 13~長和5(1016) 正.29→ 同 二首
72 白河天皇 延久4(1072) 12 . 8~応徳3(1086) 11.26→後拾遺集(白河天皇)同四首
73 堀河天皇 応徳3(1086) 11 . 26~嘉承2(1107) 7.19→金葉集(白河院) 同一首
74 鳥羽天皇 嘉承2(1107) 7 . 19~保安4(1123) 正.28→ 同二首
75※崇徳天皇 保安4(1123) 正 . 28~永治元(1141) 12. 7→詞花集(崇徳院)同七首
77 後白河天皇 久寿2(1155) 7 . 24~保元3(1158) 8.11→千載集(後白河院)同三首
82※後鳥羽天皇 寿永2(1183) 8 . 20~建久9(1198) 正.11→新古今集(後鳥羽院)三四首
84※順徳天皇  承元4(1210) 11 . 25~承久3(1221) 4.20 

 上記は、第六十四代(円融天皇)から第八十四代(順徳天皇)までの、主に『新古今和歌集』に入集している天皇(上記の「新古七首」など)の一覧である。その中で※印は『百人一首』に入集している天皇、その他「八代集」の勅(院)宣を下した天皇に付記をしている。
 ここで、堀河天皇の実父の白河天皇(白河院)は、『後拾遺和歌集』(藤原通俊撰)と『金葉集』(源俊頼撰)の勅(院)宣を下した方で、この『金葉和歌集』に関して、最初の草稿の奏覧は、新味がないとし、次に改撰して奏上すると、今度は現代歌人に偏りすぎるという理由で受納せず、三度目に再々奉して成ったという逸話が今に遺っている(『今鏡』『増鏡』)。
 こういう絶大なる専制君主を後ろ盾にする堀河天皇というのは、「末代の賢王」(『続古事談』)と評されるほど賢帝であり、人望もありながら、政務、その他全般にわたり、何らの実績を示すこともなく、例えば、本来ならば、『金葉和歌集』の勅宣者(白河院)に匹敵する能力を有しているにも関わらず、その和歌の世界でも、こと白河院の後塵を拝していたということになろう。
 しかし、この第五勅撰集『金葉和歌集』のバックグラウンドとなっているのは、堀河院を中心とする『堀河(院)百首』の、「藤原公実(きんざね)、大江匡房(まさふさ)、源国信(くにざね)、源師頼(もろより)、藤原顕季(あきすえ)、藤原仲実(なかざね)、源俊頼(としより)、源師時(もろとき)、藤原顕仲(あきなか)、藤原基俊(もととし)、隆源(りゅうげん)、肥後、紀伊、河内、源顕仲(あきなか)、永縁(えいえん)」などの歌人群なのであろう。
 とした上で、上記の八人の天皇(順徳天皇は除く)の中で、『新古今和歌集』の入集数の、堀河院の一首というのは、どうにも、侘しいようにも思われるのである。
 ここで、「白河院」(父=「治天の君」)と堀河院(子=「末代の賢王」)との、それぞれの『新古今和歌集』入集歌の、「雲間の月」の歌を並列して鑑賞をしてみたい。

「a詞書のある歌」(『新古今和歌集』の二首)

    卯花如月といへる心をよませ給ひける
卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる(白河院御製「新古180」)
(歌意:卯の花が所々に群がって咲いている垣根を、雲の切れ間からさとたる月の光かと見えることだ。)
    雲間微月といふ事を
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(堀河院御製「新古383」)
(大和の高円山の雲間から、光がだんだんくわわってさす、弓張の月よ。)
(鑑賞)白河院の歌は「見立ての面白さ」(群咲く卯の花を月の影と見立てている)の歌である。堀河院の歌は「題詠」(雲間の月)であるが実写的な叙景歌(光さしそふ弓張りの月)である。どちらを採るかは、鑑賞者の好みによる。

「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の二首」(上記の二首を「歌合形式」とする)

(左)
卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる(白河院)
(右)
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(堀河院)
(判詞=鑑賞)左は、「時わかず月か雪かと見るまでに垣根のままに咲ける卯の花」(後撰・夏、詠人知らず)の本歌取りの一首。卯の花(夏)が主題の歌。右は、「高円山」の「(まと)に「的」をかけ、「弓」の縁語。「さしそふ」は「だんだんくわわってさす」、この動的な把握が持ち味。「雲間の月」の歌としては、右を勝とす。(但し、左の見立ても新鮮で、持=引き分けとしても可。)

「c詞書無・『歌合形式』の『左・右』の表示無の二首」(c-1)番いの二首表記(二首ピックアップ)、「題」=雲間の月。

(雲間の月)
卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる(白河院)
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(堀河院)
(鑑賞)「a詞書のある歌」と「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の二首」の「鑑賞」に基好き、新しい視点を加味する。例えば、白河院の歌は「地上の歌」、そして、堀河院の歌」は「天空の歌」とすると、この二首の合わせ併せは面白い。

「d詞書無・非『歌合形式』の一首」(c-2)番いの二首のうち一首表記(一首ピックアップ)

(撰歌方針・鑑賞視点)

卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる(白河院)
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(堀河院)

 この二首について、前回取り上げていた『百人一首』の、の三条院の、「心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院『百人一首68』)の、この歌との、この三者関係を並列(年代順)して見たいのである。

心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院)
卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる(白河院)
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(堀河院)

 三条院(第六十七代天皇)は、藤原摂関(道長)の後宮政策下、失意のまま失明し、退任後一年足らずにして、三十一歳で亡くなった「悲運の帝王」である。
 白河院(第七十二代天皇)は、摂関家の権勢の弱体化に伴い、早々に退位し、若き天皇の背後で強力な院政を敷き、天皇の権能を超越した政治権力を行使し、七十七歳で崩御した「治天の君」である。
 堀河院(第七十三代天皇)は、白河天皇の後を、立太子と同時に八歳で即位し、その白河上皇の「治天の君」の下で、「末代の賢王」と仰がれつつ、その持てる力を存分に発揮できないままに、二十九歳で崩御した。
 さて、白河天皇(白河院)の勅(院)宣の『後拾遺和歌集』(藤原通俊撰)は、「実生活に即し、散文的・叙情的な歌風」、そして、『金葉和歌集』(源俊頼撰)は、「叙景歌に優れ、革新的な傾向」と、その特色を簡潔に評している(『三訂・常用国語便覧・浜島書店』)。
この「叙情的歌風」と「叙景的歌風」の区別ですると、三条院のは「叙情歌」そして、白河院と堀河院のは「叙景歌」ということになる。この「叙情歌」の「情」は、「歌論・連歌論・俳論」などの「心」(内面的なもの)というものに近く、そして、「叙景歌」の「景」は、「姿・詞」(外面的なもの)というニュアンスに近い。
この「心」は、「作歌する心=風情」に通じ、この「姿・詞」は、「作歌する装い=風姿」というニュアンスに置き換えることも出来よう。この「風情・風姿」論は、「後鳥羽院御口伝」(『日本古典文学大系53歌論集・能楽論集』所収「補注」など)に出てくるものである「1序―姿の色々」。
この「風情・風姿」論の言葉尻を借用すると、三条院の歌は、「風情をむね」とする一首で、白河院の歌は「風詞おもしろき」一首で、堀河院の歌は「風姿うるはしき」一首と解することも出来よう。
 その上で、この三首のうち一首撰ということになると、「後鳥羽院御口伝」(「4定家評」=定家と釈阿・西行を比しての評)の、「最上の秀哥は、詞(ことば)を優にやさしき上、心が殊(こと)に深く、いはれもある」歌と、己(鑑賞者自身)が感ずるものを撰ぶということになろう。
 ここで、天皇の御製ということを加味をすると、堀河院の初句の「しきしま」(「大和」に掛かる枕詞であると同時に「日本」の別称、『敷島の道』=和歌の道)を無視することは、
「いはれ(筋道・道理など)」無きものの評を受けることになろう。

(参考)

万葉集 巻十三

    柿本朝臣人麻呂の歌集の歌に曰く
3253葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙(ことあげ)せぬ国 然(しか)れども 言挙ぞ吾(あ)がする 事幸(ことさき)く 真幸(まさき)くませと恙(つつみ)なく 幸(さき)くいまさば 荒磯波 ありても見むと百重波(ももえなみ) 千重波(ちえなみ)しきに 言挙す吾は 言挙す吾は
    反歌
3254しきしまの日本(やまと)の国は言霊のさきはふ国ぞ真幸(まさき)くありこそ

歌意(参考『桜井満訳注』)
3253葦原の瑞穂の国は、神の意のままに言挙げしない国である。だが、私はあえて事挙げををする。言葉が祝福をもたらし、無事においでなさいと―。もし恙なく無事でいらっしゃれば、荒磯の波のように 後にも逢えようと―。百重波や千重波が後から寄せて来るように。しきりに言挙げするよ、私は。しきりに言挙げするよ、 私は。

歌意(参考『桜井満訳注』)
32547大和の国は、言霊が人を助ける国であるよ。私が言挙げしましたからどうぞ御無事であって欲しい。

万葉集 巻五

    山上憶良頓首謹みて上(たてまつ)る
    好去好来の歌一首 反歌二首
894神代(かみよ)より 言い傳(つ)て来らく そらみつ 倭(やまと)の国は 皇神(すめかみ)の 厳(いつか)しき国 言霊の 幸(さき)はふ国と 語り継(つ)ぎ 言い継(つ)かひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人多(さは)に 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷(みかど) 神(かむ)ながら 愛(めで)の盛(さか)りに 天(あめ)の下(した) 奏(まを)し給(たま)ひし 家の子と 選び給ひて 勅旨(おおみこと) 戴(いただ)き持ちて 唐(もろこし)の 遠き境に 遣はされ 罷(まか)りいませ 海原(うなばら)の 邊(へ)にも沖にも 神留(かむづま)り 領(うしは)きいます 諸(もろもろ)の 大御神等 船舳(ふなのへ)に 導き申(まを)し 天地の 大御神たち 倭の 大国霊(おほくにたま) ひさかたの 天の御虚(みそら)ゆ 天(あま)がけり 見渡し給ひ 事了(をは)り 還らむ日には また更(さら)に 大御神たち 船(ふな)の舳(へ)に 御手打ち懸けて 墨縄(すみなは)を 延(は)へたるごとく あちかをし 値嘉(ちか)の岬(さき)より 大伴の 御津の濱びに 直泊(ただはて)に 御船泊(みふねは)てむ つつみなく 幸(さき)くいまして 早帰りませ

反歌
895大伴(おおとも)の御津(みつ)の松原かき掃(は)きて我(われ)立ち待たむはや帰りませ
896難波津にみ船泊(は)てぬと聞こえ来(こ)ば紐解(ひもと)き放(さ)けて立ち走(ばし)りせむ

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/0edafede5afb44146a798ee9417ba424

万葉集 巻二十

族(うから)を喩(さと)す歌一首并せて短歌

(集歌)4465 比左加多能 安麻能刀比良伎 多可知保乃 多氣尓阿毛理之 須賣呂伎能 可未能御代欲利 波自由美乎 多尓藝利母多之 麻可胡也乎 多婆左美蘇倍弖 於保久米能 麻須良多祁乎々 佐吉尓多弖 由伎登利於保世 山河乎 伊波祢左久美弖 布美等保利 久尓麻藝之都々 知波夜夫流 神乎許等牟氣 麻都呂倍奴 比等乎母夜波之 波吉伎欲米 都可倍麻都里弖 安吉豆之萬 夜萬登能久尓乃 可之[波]良能 宇祢備乃宮尓 美也[婆]之良 布刀之利多弖氏 安米能之多 之良志賣之祁流 須賣呂伎能 安麻能日継等 都藝弖久流 伎美能御代々々 加久左波奴 安加吉許己呂乎 須賣良弊尓 伎波米都久之弖 都加倍久流 於夜能都可佐等 許等太弖氏 佐豆氣多麻敝流 宇美乃古能 伊也都藝都岐尓 美流比等乃 可多里都藝弖氏 伎久比等能 可我見尓世武乎 安多良之伎 吉用伎曽乃名曽 於煩呂加尓 己許呂於母比弖 牟奈許等母 於夜乃名多都奈 大伴乃 宇治等名尓於敝流 麻須良乎能等母
(訓読) 久方の 天の門開き 高千穂の 岳(たけ)に天降りし 皇祖(すめろぎ)の 神の御代より 櫨弓(はじゆみ)を 手握り持たし 真鹿子矢(まかこや)を 手挟み添へて 大久米の ますら健男(たけを)を 先に立て 靫(ゆき)取り負ほせ 山川を 岩根さくみて 踏み通り 国(くに)覓(ま)ぎしつつ ちはやぶる 神を言向け まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕へまつりて 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知り立てて 天の下 知らしめしける 天皇(すめろぎ)の 天の日継と 継ぎてくる 大王(きみ)の御代御代 隠さはぬ 明き心を 皇辺(すめらへ)に 極め尽して 仕へくる 祖(おや)の官(つかさ)と 辞(こと)立(た)てて 授けたまへる 子孫(うみのこ)の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語り継ぎてて 聞く人の 鏡にせむを 惜しき 清きその名ぞ おぼろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も 祖(おや)の名絶つな 大伴の 氏と名に負へる 大夫(ますらを)の伴
(訳) 遥か彼方の天の戸を開き高千穂の岳に天降りした天皇の祖の神の御代から、櫨弓を手に握り持ち、真鹿児矢を脇にかかえて、大久米部の勇敢な男たちを先頭に立て、靫を取り背負い、山川を巖根を乗り越え踏み越えて、国土を求めて、神の岩戸を開けて現れた神を平定し、従わない人々も従え、国土を掃き清めて、天皇に奉仕して、秋津島の大和の国の橿原の畝傍の宮に、宮柱を立派に立てて、天下を統治なされた天皇の、その天皇の日嗣として継ぎて来た大王の御代御代に、隠すことのない赤心を、天皇のお側に極め尽くして、お仕えて来た祖先からの役目として、誓いを立てて、その役目をお授けになされる、われら子孫は、一層に継ぎ継ぎに、見る人が語り継ぎ、聴く人が手本にするはずのものを。惜しむべき清らかなその名であるぞ、おろそかに心に思って、かりそめにも祖先の名を絶つな。大伴の氏と名を背負う、立派な大夫たる男たちよ。

4466磯城島(しきしま)の大和の国に明らけき名に負ふ伴(とも)の男(を)心つとめよ
4467剣太刀(つるぎたち)いよよ磨ぐべし古(いにしへ)ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ

本居宣長.jpg
『本居宣長(小林秀雄著・新潮社)』(「口絵」表)
「口絵」裏

本居宣長六十一歳自畫自賛像
古連(これ)は宣長六十一寛政之(の)二登(と)せと
いふ年能(の)八月尓(に)手都(づ)可(か)らう都(つ)し
多流(たる)おの可(が)ゝ(か)多(た)那(な)里(り)

筆能(の)都(つ)い天(で)尓(に)
 志(し)き嶋のやま登(と)許(ご)ゝ(こ)路(ろ)を人登とハ(は)ゞ(ば)
  朝日尓(に)ゝ(に)ほふ山佐(ざ)久(く)ら花

P12-寛政二年秋になった、宣長自畫自賛の肖像畫を言ふので、有名な「しき嶋の やまとごゝを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」の歌は、その賛のうちに在る。だがこゝでは、歌の内容を問ふよりも、宣長という人が、どんなに桜が好きな人であつたか、その愛着には、何か異常なものがあつた事を書いて置く。

P13-寛政十二年の夏(七十一歳)、彼は遺言書を認めると、その秋の半ばから、冬の初めにかけて、桜の歌ばかり、三百首も詠んでいる。

P15-物ぐるほしいのは、また我が心でもあつたであらうか。彼には、塚の上の山桜が見えてゐたやうである。
  我心 やすむまもなく つかはれて 春はさくらの 奴なりけり
  此花に なぞや心の まどふらむ われは桜の おやならなくに
  桜花 ふかきいろとも 見えなくに 

P245-宣長は「新古今集」を重んじた。「此道ノ至極セル處ニテ、此上ナシ」「歌の風体ノ全備シタル處ナレバ、後世ノ歌ノ善悪劣ヲミルニ、新古今ヲ的ニシテ、此集ノ風ニ似タルホドガヨキ歌也」。

P246-「歌道ノ盛ハ、定家ニキハマルトイヘドモ、衰ハハヤ俊成ヨリ兆シアリ。タトヘバ、五月ノ中ニハ、イマダ暑気ノ盛ニハイタラザレドモ、ハヤ陰気ノキザス如ク、十二月ノ大寒ヲマタズシテ、十一月ヨリ、ハヤ一陽来復スルガ如シ」。
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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その二十一) [光悦・宗達・素庵]

その二十一 三条院御歌

鹿下絵十.JPG
「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十一「円融院・三条院・堀河院」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵シアトル七.jpg
「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(円融院・三条院」(シアトル美術館蔵)

21 三条院御歌:あしびきの山のあなたにすむ人はまたでや秋の月をみるらむ
(釈文)安し日支能山濃安那多尓須無人盤ま多天や秋乃月を見るら無

(「三条院」周辺メモ)

あしびきの山のあなたにすむ人は待たでや秋の月をみるらん(新古382)
(歌意:山の向こうに住んでいる人は、これほどに待たないで、秋の月を見ているのであろうか。)(『日本古典文学全集26』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sanjou.html

三条院 天延四~寛仁元(976-1017)

冷泉天皇の第二皇子。母は藤原兼家女、贈皇后宮超子。敦明親王(小一条院)・陽明門院禎子(後三条天皇の皇后)の父。
天延四年正月三日生誕。寛和二年(986)、従弟の一条天皇(当時七歳)が即位した時、皇太子に立てられる。寛弘八年(1011)六月、一条天皇の譲位を受けて即位(第六十七代天皇)。時に三十六歳。眼病と神経系慢性疾患に悩み(『大鏡』)、彰子腹の敦成親王の即位を願う藤原道長の圧迫もあって、長和五年(1016)、退位した。翌年五月九日、崩御。
後拾遺集初出。勅撰入集は八首。『新時代不同歌合』歌仙。

例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしける頃、
月の明かりけるを御覧じて
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半(よは)の月かな(後拾遺860)
【通釈】我が意に反してこの世に生き長らえたなら、いつか恋しく思い出すに違いない――そんな月夜であるなあ。
【語釈】◇例ならず 病気をいう。◇心にもあらで 心にもあらず。我が意に反して。◇恋しかるべき (生き永らえて後には)恋しく思うにちがいない。
【補記】『栄花物語』巻十二によれば、長和四年(1015)十二月、十余日の明月の晩に、清涼殿内の御局で三条天皇が中宮に詠みかけた歌。翌年正月、譲位。
【他出】栄花物語、袋草紙、古来風躰抄、定家八代抄、百人一首、新時代不同歌合

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十九)

心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院『百人一首68』)

『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』所収「百人一首」の校注には、「秀54に既出。◇病いがはかばかしくなくて譲位しようと思っておられたころ、月の明るかったのを御覧になって。『栄花物語』巻十二によれば、長和四年(1015)十二月中旬に中宮藤原妍子に言われた歌」とある。
この校注「秀54」は、『百人一首(定家撰)』の前身にも当たる『百人秀歌(定家撰)54』ということで、それは「秀53」と番い(哀傷歌二首)になっている一首なのである。

(『百人秀歌(定家撰)53』)
夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき(一条院皇后=藤原定子)
(『百人秀歌(定家撰)54』)
心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院)

 ここで、『百人一首(定家撰)』の前身と目せられている『百人秀歌(定家撰)』は、「じつは百一首の歌がしるされており、百人一首ではその内俊頼の歌を差し替え、さらに一条院皇后(秀53)・権中納言国信(秀73)・権中納言長方(秀90)の三首を削って、かわりに後鳥羽・順徳の歌を入れ計百首としている。したがって、この辺の合わせ最終的に定家がどう考えていたのか判断しかねる。改撰をかりに為家の手に成ったものと考えてよければ(たぶんそうであろう)、百人秀歌の合わせはそれとして見ておいてよい。この合わせもわるくない合わせである」(『別冊太陽№1百人一首』所収「百首通見(安東次男稿)」)と、その「六八(三条院)=『百人秀歌(定家撰)54』」のところで評している。
 しかし、これらのことに関して、「建長三年(一二五一)に藤原為家(定家の嫡男)が後嵯峨院に総覧した『続後撰集』に選入される後鳥羽院の「人もをし」(百99)、順徳院の「ももしきや」(百100)の歌が『百人一首』に選入されるから、定家が撰した『百人秀歌』を為家が『百人一首』に改撰したとみられそうであるが、問題はそれほど単純ではない。為家は性格温順で、父の撰した『百人秀歌』の歌を気ままに差し替えることは考えにくいし、定家が染筆したと思われる色紙形(小倉色紙)中に後鳥羽院の「人もをし」の詠も現存する。さらには、定家の撰した『新勅撰集』は成立が複雑で、鎌倉幕府の意向を気がねする摂関の要請で、当初選入していた後鳥羽院・順徳院ら承久の乱関係者の歌を百余首削除しているから、それらの中に右二首も含まれていた可能性は充分考えられる。『新勅撰集』成立二か月後の文暦二年(一二三五)五月の色紙染筆の際には、『新勅撰集』草稿本に定家は両院の歌を加え、また、歌の配列順序を改めたために配列上具合の悪くなった俊頼の歌も差し替えたのであろう(秀75を百74に差し替えたのであろう)。『百人一首』の撰は定家とみてもよかろう。ただ、遠島両院の諡号(しごう)は、定家没後の決定だから、為家などの手による補訂であろう」(『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』所収「百人一首」解説)と、その見方を異なにしている。
 この『百人秀歌』は、終戦後の昭和二十六年(一九五一)に有吉保(日大名誉教授)によって初めてその存在が世に知られるようになったもので、その発見者(有吉保)による「百人一首と私(有吉保稿)」(『別冊太陽№213百人一首の招待』所収)の中で、この発見当時の「百人一首の成立説」について、簡略に次のように紹介されている。

①藤原定家が自ら撰んだという説(『宗祇抄』等に見られる伝統的に継承されてきた説)
②蓮生(宇都宮頼綱)が撰歌して、定家に書写させたという説(安藤為章の「年山紀聞」の説)
③まことは宗祇が撰んだのだが、それを定家が撰んだ如く装ったという説(いわゆる定家仮託説、吉沢義則説)

 この三説の中で、「最も有力な説は吉沢義則博士の説(京大「国語国文の研究十六号)で、(中略)、その当時(昭和二十三年から同二十五年)ほぼ定説と認められていたように思う」とし、この吉沢説に対して、書陵部蔵の『百人一首』(伝栄雅筆本)などから有吉説(定家自撰説=①)を傍証し、さらに、書陵部『百人秀歌』(嵯峨山庄色紙形 京極黄門撰)を紹介し、そこで、「百人秀歌から百人一首へと進展させた」とする有吉説を展開する。さらに、『百人秀歌』の歌を差し替えて現在の『百人一首』の形にしたのは「為家」とする説(石田吉貞説・目崎徳衛説)が主張され、上記の安東次男の見方は、この有吉説と石田説・目崎説に近いものなのであろう。
 それに対して、同じ「定家自撰説=①)」の立場でも、「建長三年(一二五一)に藤原為家(定家の嫡男)が改撰した」(安東次男などが支持している説)とすることに関しては、真っ向から、「定家自撰説=①)」を固守しているものが、樋口説((『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』所収「百人一首」解説))というように解して置きたい。
 これらは、「藤原定家と百人一首―成り立ちは未だ霧の中(吉海直人稿)」・「冷泉為村が書写した『百人秀歌』の出現―冷泉家時雨文庫にて(大山和也稿)」(『別冊太陽№213百人一首の招待』所収)のとおり、これらは、その「成り立ちは未だ霧の中」のままで、未だに、現在進行形の魅力に溢れたテーマであることには、いささかの変わりがないというのが、その真相であろう。

 ここでは、これらのことに関して、二つの関心事について触れて置きたい。

 その一つは、現在の「宮中歌会始めの儀」(皇族のみならず国民からも和歌を募集し、在野の著名な歌人(選者)に委嘱して選歌の選考がなされるようになった)は、新憲法下での、昭和二十二年(一九四七)が、そのスタートで、その四年後の、昭和二十六年(一九五一)に、『百人一首』の前身と目されている『百人秀歌』が、一学徒(有吉保の「卒業論文」)により発見されたということは、何かしら、この両者に因縁があり、その因縁を探りたいという好奇心にほかならない。
そして、その好奇心は、これまた、英語学者で広範囲の評論活動を展開した渡部昇一がネーミングした「和歌の前の平等」(『日本史百人一首・扶桑社・2008年』)の「日本の歴史を貫く平等原理は和歌である」と、何かしらドッキングするような、いささか、手前勝手な関心事なのである。
さらに付け加えると、『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』所収「解説」で触れられている「詩は詞華集で読むに限る」(丸谷才一説)ということと、「『百人秀歌』の歌を差し替えて現在の『百人一首』の形にしたのは為家である」(石田吉貞説・目崎徳衛説)の「石田吉貞」の別名「大月静夫」著の『若き検定学徒の手記・大同館書店・1939』(下記のアドレスの「国立国会図書館デジタルコレクション」)とを一つのアプローチの足掛かりにしたいという、これまた、甚だ手前勝手な関心事なのである。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1456924

 もう一つの関心事は、「a詞書のある歌」(「八代集」などの多くの歌)→「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の一首」(『時代不同歌合(後鳥羽院撰)』の一首~三首ピックアップ)→「c詞書無・『歌合形式』の『左・右』の表示無の一首」(『百人秀歌(定家)』の一首又は二首ピックアップ)→「d詞書無・非『歌合形式』の一首」(『百人一首(定家撰)』の一首ピックアップ)の、この「a→b→c→d」の「相互関係」と「それぞれの一首の鑑賞視点」などについてである。

「a詞書のある歌」(「八代集」などの多くの歌)→上記の三条院の例

   例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしける頃、
   月の明かりけるを御覧じて
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半(よは)の月かな(後拾遺860)

「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の一首」(『時代不同歌合(後鳥羽院撰)』の一首~三首ピックアップ)→『時代不同歌合(後鳥羽院撰)』には三条院の例は無

「c詞書無・『歌合形式』の『左・右』の表示無の一首」(『百人秀歌(定家撰)』の一首又は二首ピックアップ)

(c-1)番いの二首表記(二首ピックアップ)→上記の一条皇后と三条院の例

夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき(「秀53」一条院皇后)
心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(「秀54」三条院)

(c-2)番いの二首のうち一首表記(一首ピックアップ)→上記(c-1-秀54)の例

心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(「秀54」三条院)

「d詞書無・非『歌合形式』の一首」(『百人一首(定家撰)』の一首ピックアップ)→(c-2)と同じ

心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院『百人一首68』)

 この「a→(b)→c(c-1とc-2)→d」の「鑑賞視点」は、つぎのとおりなる。

「a詞書のある歌」(「八代集」などの多くの歌)→詞書を加味して鑑賞する。

「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の一首」(『時代不同歌合(後鳥羽院撰)』の一首~三首ピックアップ)と「(c-1)番いの二首表記(二首ピックアップ)」→「歌合」のルールを加味して鑑賞する。

「(c-2)番いの二首のうち一首表記(一首ピックアップ)」と「d詞書無・非『歌合形式』の一首」(『百人一首(定家撰)』の一首ピックアップ)→屹立した一首として鑑賞する。

 ここで、「光悦書(和歌揮毫)・宗達下絵」の「鹿下絵和歌巻」の和歌鑑賞の視点は、「a詞書のある歌」(「八代集」などの多くの歌)として、詞書を加味して鑑賞することになる。

 また、「光悦書(和歌揮毫)・宗達下絵」の「鶴下絵和歌巻」は、「(c-2)番いの二首のうち一首表記(一首ピックアップ)」又は「d詞書無・非『歌合形式』の一首」(『百人一首(定家撰)』の一首ピックアップ)として、一巻仕立ての左右の区別のない、三十六歌仙の歌として、屹立した一首として鑑賞することになる。

 さらに、狩野探幽筆「新三十六人歌合画帖」、狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」、酒井抱一筆「集外三十六歌仙図画帖」については、「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の一首」として、「歌合」のルールを加味して鑑賞することになる。

(追記)

この「a→b→c→d」のモデルと流れは、ほぼ、「百人一首の成立」に係わる、そのプロセス(過程)と理解することも可能であろう。それは、『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』所収の、『八代集秀逸(定家撰)』→『時代不同歌合(後鳥羽院撰)』→『百人秀歌(定家撰)』→『百人一首(定家撰)』の流れなどと軌を一にするものである。
タグ:百人一首
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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その二十) [光悦・宗達・素庵]

その二十 円融院御歌

鹿下絵九.JPG
「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十「式子内親王その二・円融院その一」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(円融院その二)」(シアトル美術館蔵)

鹿下絵シアトル六.jpg
「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(円融院その三)」(シアトル美術館蔵)

20 円融院御歌:月影は初秋風と更行(ふけゆけ)ば心づくしに物をこそおも
(釈文)題しらず
    円融院御哥
月影盤初秋風登更行登心徒久し尓物をこ曽おもへ

(「円融院」周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/enyuu.html

    題しらず
月かげの初秋風とふけゆけば心づくしに物をこそ思へ(新古今381)

【通釈】夜が更け、初秋の風が吹きつのると共に月の光が一層明るくなってゆくと、心魂が尽きるほどに物思いをするのだ。
【語釈】◇月かげの 月の光が。◇初秋風と 初秋の風とともに ◇ふけゆけば 深くなってゆくと。月光がいっそう明るくなり、秋風が涼しさを増すことを言う。「夜が更け行けば」の意も重なる。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり

円融院  天徳三~正暦二(959-991)

村上天皇の第五皇子。母は藤原安子(師輔女)。一条天皇の父。
康保四年(967)五月、父帝が崩じ、同母兄憲平親王即位(冷泉天皇)ののち、皇太弟に立てられた。安和二年(969)八月、冷泉天皇の譲位を受け、十一歳で即位。天延元年(973)七月、藤原兼通の娘を皇后とする。貞元元年(976)五月、内裏が焼亡したため、同年七月、堀河院(顕徹大)に映る。翌年新造なった内裏に戻るが、天元水戸市(980)十一月、再び火
災に相、翌年、藤原頼忠の四条坊門大宮第(四条後院)に移った。
同年中に内裏は新造されたが、翌天元五年には三たび焼亡した。永観二年(984)八月、師貞親王(花山天皇。冷泉天皇皇子)に譲位。寛和元年(985)二月、紫野に子の日の遊びをし、平兼盛・清原元輔・源重之ら歌人を召して歌を奉らせた。この時、召しのないまま推参した曾禰好忠が追い立てられた話は名高い。同年八月出家し、以後円融院に住む。正暦二年二月十二日、崩御。三十三歳。 
『円融院御集』がある。拾遺集初出。勅撰入集二十四首

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十八)

 ここから、絵図としては後半の部となる。和歌は、「円融院→三条院→堀河院」と、天皇の御製歌が続く。その時代(御製歌)も、下記のとおり『千載集』そして『新古今和歌集』時代の前の時代ということになる。

安和(968~970) 円融天皇(「後撰集・拾遺集」時代)
寛弘(1004~1013)三条天皇(「後拾遺集」時代)
応徳 (1084~1087) 堀河天皇(「金葉集・詞花集」時代)

 歴代の天皇というのは、皆、和歌を詠み、天皇の歌は「御製(ぎょせい)」、皇后は「御歌(みうた)」と特別な用例扱いとなっている。上記の三人の天皇の、『新古今和歌集』の入集数は、円融院=七首、三条院=二首、堀河院=一首だが、三条院は、「小倉百人一首68」、堀河院は、「堀河院艶書合」「堀河百首」などで夙に知られている。
 ここでは、円融院の『新古今和歌集』入集歌(七句、上記に一句、下記に六句)を掲出して置きたい(以下の「歌意」などは、『日本古典文学全集26』を参考にしている)。

    題知らず
置き添える露やいかなる露ならん今は消えねと思ふわが身は(新古今1173)
(歌意:置きくわわる涙の露は、どういう露なのであろうか。今は消えてしまえと思っているわが身であるのに。)

    御返し
ひきかへて野べのけしきは見えしかど昔を恋ふる松はなかりき(新古今1438)
(歌意:野べのようすは、昔と変わって見えたけれど、昔を恋い慕うようすの松はなかった。)

    御返し
紫の雲にもあらで春霞たなびく山のかひはなにぞも(新古今1447)
(歌意:紫の雲でなくて、春霞がたなびく山の狭、なんの住みがいがあろう。 )
(補記:「紫の雲」は天人などの乗るめでたい雲。皇后の異称である「紫の雲」をかけている。「かひ」=「狭(かひ)」に「甲斐(かひ)」を掛けている。「狭(かひ)というのは何なのか」に「何の甲斐があろうか」を掛けている。)

   堀河院におはしましけるころ、閑院の左大臣家の桜を折らせに
   遣わすとて
垣根ごしに見るあだ人の家桜花散るばかりゆきて折らばや(新古今1450)
(歌意:垣根ごしに見る、実のない人の家の桜は、花も散るほどに、行って、折りたいものだ。)
(補記:「堀河院」=京都(中央区)の二条南・堀河東にあった藤原兼通邸。「閑院の左大将の家」=藤原兼通の子、左近衛府長官・藤原朝光邸。「あだ人」=うわき者・実のない人、桜を折ってよこすことをしなっかたので、戯れに呼ばれている。 )

   御返し
九重にあらで八重咲く山吹のいはぬ色をば知る人もなし(新古1479)
(歌意:九重ではなくて、また宮中でもなくて、八重に咲いている山吹の、くちなし色を知っている人もない。 )
(補記:山吹のくちなし色で、ご意志でないご退位のご苦悩を巧みにほのめかしていられる。)

   御返し
昔より絶えせぬ川の末なれば淀むばかりをなに嘆くらん(新古1647)
(歌意:)昔から絶えないで栄えている家筋の末であるのだから、ちょつと停滞したというだけであるのに、どうして嘆いているのであろうか。 )

 上記の『新古今和歌集』入集歌(七句)のうち四首が「御返し」(返歌)で、その「贈歌」も全て、その四首の前に入集されている。

    円融院位去り給ひて後、船岡に子日し給ひけるに
    給ひて、朝に奉りける
あはれなり昔の人を思ふには昨日の野べに御幸(みゆき)せましや(新古1437)
             一条左大臣(源雅信)
   御返し
ひきかへて野べのけしきは見えしかど昔を恋ふる松はなかりき(新古今1438)

   東三条院、女御におはしける時、円融院つねに渡り給いひけるを
   聞き侍りて、ゆげの命婦のもとに遣はしける
春霞たなびきわたる折にこそかかる山べはかひもありけれ(新古1446)
                   東三条入道前摂政太政大臣(藤原兼家)
   御返し
紫の雲にもあらで春霞たなびく山のかひはなにぞも(新古今1447)

  円融院、位去り給ひて後、実方朝臣、小馬命婦と物語し侍るける
   所に、山吹の花を屏風の上より投げこし給ひて侍りければ
八重ながら色も変らぬ山吹のなど九重に咲かずなりにし(新古1478)
                          実方朝臣(藤原実方)
   御返し
九重にあらで八重咲く山吹のいはぬ色をば知る人もなし(新古1479)

   冬ころ、大将離れて嘆くこと侍りける、明る年、右大臣になりて
   奏し侍りける
かかる瀬もありけるものを宇治川の絶えぬばかりも嘆きけるかな(新古1646)
                   東三条入道前摂政太政大臣(藤原兼家)
   御返し
昔より絶えせぬ川の末なれば淀むばかりをなに嘆くらん(新古1647)

 これらの「贈答歌」(二人、多くは男女が意中を述べ合ってやりとりする歌)は、「相聞歌・恋歌」(男女間で詠みかわされる恋の歌)を内容とするものが多いのだが、この円融院の「贈答歌」は、当時の「天皇と近臣者との述懐的な贈答歌」である同時に、当時の「天皇家と藤原摂関家との葛藤を背景としての贈答歌」のようにも解せられる。
 例えば、東三条入道前摂政太政大臣(藤原兼家)の返歌の「紫の雲にもあらで春霞たなびく山のかひはなにぞも」には、円融院の「紫の雲(皇后)ならいざ知らず女御(皇后・中宮に次ぐ女官)のままでは、何の甲斐があろうか」と、「東三条入道前摂政太政大臣(藤原兼家)」(摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて畏怖されている)に対する陰に含めた返歌のようにも詠み取れる。
 同様に、兼家の「大将離れて嘆くこと侍りける」を詞書とする歌の返歌の「昔より絶えせぬ川の末なれば淀むばかりをなに嘆くらん」の「昔より絶えせぬ川の末」に「昔から栄華を誇っている藤原北家の家筋」と兼家の歌の「宇治川の譬え」とを喝破し、それにしては一時的に大将を解かれて「淀む」(停滞する)でも、「そんなに嘆くことはあるまいに」と、兼家を突き放している感じでなくもない。
 それに対して、信任の厚い一条左大臣(源雅信)の「あはれなり昔の人を思ふには」の「返歌」の「昔を恋ふる松はなかりき」にすら、「昔を恋い慕う自分(円融院)の心を分かってくれる人は皆無なのです」と、何とも絶望感に充ちた「返歌」のように思われる。
 同様に、在位中寵愛していた実方朝臣(藤原実方)の「御返し」に、「山吹のいはぬ色をば知る人もなし」(「山吹のくちなし色」と「口に出して言わない」とを掛けている)とは、円融院の、「ご意志でないご退位の無念やる方のない気持ち」が伝わってくる。

 これらのことに関し、下記のアドレスの「栄花物語における円融天皇像(中村康夫稿)」で、その詳細な背景の一端が記述されている。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/chukobungaku/33/0/33_42/_pdf/-char/en

 その論稿の中で、円融院の『新古今和歌集』入集歌(七句)の鑑賞上参考になると思われる個所を、下記に抜粋して置きたい。

【円融朝は一六年続いたのだが、摂政または関白の交替が激しかった。そして、冷泉・円融二代のあいだに、ようやく摂関職常置の慣行がほぼかたまったことは、注目すべき政治的現象であろう。専制君主としての天皇の独自の機能が弱体化し、それを補強する後見の摂関の力が伸張してきたことを意味する。これ以後、皇嗣の決定、在位期間さえもがほとんど摂関家の意向によって左右されるという事態にまでなってゆくのである。】

【A みかどの御心いとうるはしうめでたうおはしませど、「雄雄しき方やおはしまさざらん」とぞ、世の人申し思ひたる。東三条の大臣世の中を御心のうちにしそしておぼすべかめれど、猶うちとけぬさまに御心もちゐぞ見えさせ給ふ。みかどの御心強からず、いかにぞやおはしますを見奉らせ給へればなるべし。 (花山たづぬる中納言) 】

【B みかど、太政大臣の御心に違はせ給はじとおぼしめして、「この女御后に据ゑ奉らん」との給はすれど、大臣なまつつましうて、「一の御子生れ給へる梅壷を置きてこの女御の居給はんを、世の人いかにかはいひ思ふべからん」と、「人敵はとらぬこそよけれ」などおぼしつつ過ぐし給へば、「などてか。梅壷 は今はとありともかかりとも必ずの后なり。世も定なきに、この女御の事をこそ急がれめ」と、常にの給はすれば、嬉しうて人知れずおぼし急ぐ程に、今年もたちぬれば、口惜しうおぼしめす。(花山たづぬる中納言) 】

【C かかる程に、今年は天元五年になりぬ。三月十一日中宮立ち給はんとて、太政大臣急ぎ騒かせ給ふ。これにつけても右の大臣あさましうのみよろづ聞しめさるる程に、后たたせ給ひぬ。いへばおろかにめでたし。太政大臣のし給ふもことわりなり。みかどの御心捉を、世の人目もあゃにあさましき事に申し思へり。一の御子おはする女御を置きながら、かく御子もおはせぬ 女御の后に居給ひぬる事、安からぬ事に世の人なやみ申して、「素腹の后」とぞっけ奉りたりける。されどかくて居させ給ひぬるのみこそめでたけれ。(花山たづぬる中納言) 作者 】

【D「位につきて今年十六年になりぬ。いままであベうも思はざりつれど、月日の限やあらん、かく心より外にあるを、この月は相撲の事あれば騒しかるべければ、来月ばかりにとなん思ふを、『東宮位につき給ひなば、若宮をこそ東宮には据ゑめ』と思ふに、祈所所によくせさせて、思ひの如くあベう祈らすべし。おろかならぬ心の中を知らで、誰誰も心よからぬけしきのある、いと口惜しき事なり。あまたあるをだに、人は子をばいみじき ものにとそ思ふなれ。ましていかでかおろかに思はん」など、よろづあベき事ども仰せらるる受け給はりて、かしこまりでまかで給て、…… (花山たづぬる中納言) 】
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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十九) [光悦・宗達・素庵]

その十九 式子内親王

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(慈円その二・式子内親王その一)」(シアトル美術館蔵)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(式子内親王その二)」(シアトル美術館蔵)

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十「式子内親王その二・円融院その一」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

19 式子内親王:ながめわびぬ秋より外の宿もがな野にも山にも月やすむらむ
(釈文)な可め王日怒秋よ利外濃宿も可那野尓も山尓も月や須むら無

(「式子内親王」周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syokusi.html#AT

   百首歌たてまつりし時、月の歌
ながめわびぬ秋よりほかの宿もがな野にも山にも月やすむらん(新古380)

【通釈】つくづく眺め疲れてしまった。季節が秋でない宿はないものか。野にも山にも月は澄んでいて、どこへも遁れようはないのだろうか。
【語釈】◇ながめわびぬ 「ながむ」はじっとひとところを見たまま物思いに耽ること。「わぶ」は動詞に付いて「~するのに耐えられなくなる」「~する気力を失う」といった意味になる。◇月やすむらん 月は澄んでいるのだろうか。秋は月の光がことさら明澄になるとされた。「すむ」は「住む」と掛詞になり、「宿」の縁語。

式子内親王 久安五~建仁一(1149~1201)

 後白河天皇の皇女。母は藤原季成のむすめ成子(しげこ)。亮子内親王(殷富門院)は同母姉、守覚法親王・以仁王は同母弟。高倉天皇は異母兄。生涯独身を通した。
 平治元年(1159)、賀茂斎院に卜定され、賀茂神社に奉仕。嘉応元年(1169)、病のため退下(『兵範記』断簡によれば、この時二十一歳)。治承元年(1177)、母が死去。同四年には弟の以仁王が平氏打倒の兵を挙げて敗死した。元暦二年(1185)、准三后の宣下を受ける。建久元年(1190)頃、出家。法名は承如法。同三年(1192)、父後白河院崩御。この後、橘兼仲の妻の妖言事件に捲き込まれ、一時は洛外追放を受けるが、その後処分は沙汰やみになった。
 建久七年(1196)、失脚した九条兼実より明け渡された大炊殿に移る。正治二年(1200)、春宮守成親王(のちの順徳天皇)を猶子に迎える話が持ち上がったが、この頃すでに病に冒されており、翌年正月二十五日、薨去した。五十三歳。
 藤原俊成を和歌の師とし、俊成の歌論書『古来風躰抄』は内親王に捧げられたものという。その息子定家とも親しく、養和元年(1181)以後、たびたび御所に出入りさせている。正治二年(1200)の後鳥羽院主催初度百首の作者となったが、それ以外に歌会・歌合などの歌壇的活動は見られない。他撰の家集『式子内親王集』があり、三種の百首歌を伝える(日本古典文学大系八〇・私家集大成三・新編国歌大観四・和歌文学大系二三・私家集全釈叢書二八などに所収)。千載集初出。勅撰入集百五十七首

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十七)

 式子内親王 については、下記のアドレスなどでしばしば触れてきた。

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(その一)後鳥羽院と式子内親王
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-23

狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」その一 後鳥羽院と式子内親王
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-09

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その七) 式子内親王

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-14

 ここで、前回の「慈円の年譜」(『岩波新書308源頼朝(永原慶二著)などを参考))に、上記の「周辺メモ」の「式子内親王」に関する事項を付記すると次のとおりである(以下の※印)。
 この二人は、式子内親王が六歳程度年長であるが、同時代を生き、式子内親王は賀茂の斎院、慈円は天台座主と俗世と離れた環境を余儀なくされたということで、共通項を同じくする。
 そして、何よりも、歌人として、後鳥羽院が実質的に編んだ『新古今和歌集』の入集数で、慈円は、西行(九十四首)に次いでの第二位(九十二首)、そして、式子内親王は、「西行(九十四首)→慈円(九十二首)→良経(九十二首)→俊成(七十二首)」に次いで第五位(四十九首)で、この二人が、当時の後鳥羽院歌壇の両翼ということになる。
 因みに、その式子内親王に次いで、「定家(四十六首)→家隆(四十六首)→寂蓮(三十五首)→後鳥羽院(三十四首)→俊成女(二十九首)」で、『新古今和歌集』のベストテンの十人の歌人というのは、「西行→慈円→良経→俊成→式子内親王→定家→家隆→寂蓮→後鳥羽院→俊成女」ということになる。

(「慈円と式子内親王」関連年譜」)

久安五年(1149)※式子内親王誕生。後白河天皇の第三皇女。
久寿二年(1155)慈円誕生。摂政関白藤原忠通の子。兼実・兼房らの弟。良経らの叔父。
保元元年(1156)保元の乱(「崇徳上皇・藤原頼長」対「後白河天皇・藤原忠通」の争い)
平治元年(1159)平治の乱(「後白河院政派・源義朝」対「二条親政派・平清盛」の争い)
        ※ 式子内親王、内親王宣下を受け斎院に卜定、賀茂神社に奉仕。 
永万元年 (1165) 慈円、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門、道快を名のる。十歳。
仁安二年(1167)平清盛 太政大臣就任。武家政権成立。
嘉応元年 (1169) ※式子内親王、病のため斎院を退下。        
治承四年(1180)源頼朝挙兵。※以仁王(式子内親王同母弟)敗死(平家追討)。
文治元年(1185)壇ノ浦合戦、平氏滅亡。慈円、三十歳。
建久三年(1192)頼朝、征夷大将軍。慈円、天台座主に就任する。三十七歳。
建久七年 (1196) 建久七年の政変(兼実の失脚。慈円天台座主などの職位を辞す。)
建仁元年 (1201) 慈円は再び天台座主に補せられる(後鳥羽院院政)。※式子内親王薨去。 
元久二年(1205)『新古今和歌集』成る。慈円、五十歳(「和歌所」寄人)。
建暦二年(1212)鴨長明『方丈記』成る。慈円、三たび天台座主に就く。五十七歳。
承久二年(1220)慈円『愚管抄』成る。六十五歳。
承久三年(1221)承久の乱。後鳥羽上皇ら配流。六十六歳。
嘉禄元年 (1225) 慈円入寂。七十歳。

『小倉百人一首』(藤原定家撰)と『新々百人一首』(丸谷才一撰)の二首(式子内親王)

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることのよわりもぞする(『小倉百人一首89』 『新古今集』恋一・1034)

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   百首歌の中に、忍恋を(三首)
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする(新古1034)

【通釈】私の玉の緒よ、切れてしまうなら切れてしまえ。もし持続すれば、堪え忍ぶ力が弱ってしまうのだ。
【語釈】◇玉の緒 魂と身体を結び付けていると考えられた緒。命そのものを指して言うこともある。◇絶えなば絶えね 絶えてしまうなら絶えてしまえ。「な」「ね」は、完了の助動詞「ぬ」のそれぞれ未然形・命令形。
【補記】『式子内親王集』には補遺の部(「雖入勅撰不見家集歌」)に載せ、元来式子の家集には無かった作。制作年、制作事情などは不詳である。
【他出】定家十体(有心様)、定家八代抄、別本八代集秀逸(家隆撰)、自讃歌、百人一首、新三十六人撰、歌林良材
【参考歌】作者未詳「万葉集」
息の緒に思へば苦し玉の緒の絶えて乱れな知らば知るとも
(『古今和歌六帖』には第四句「絶えて乱るな」として載る)
  曾禰好忠『好忠集』
乱れつつ絶えなば悲し冬の夜をわがひとりぬる玉の緒よわみ

わが恋は知る人もなしせく床の泪もらすなつげの小枕(『新々百人一首72』『新古今集』恋一・1036)

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わが恋はしる人もなしせく床の涙もらすなつげのを枕(新古1036)

【通釈】私の恋心は知る人とてない。堰き止めている床の涙を洩らすな、黄楊(つげ)の枕よ。
【語釈】◇つげのを枕 黄楊で作った木枕。枕は人の心を知るものとされたが、黄楊の木で作ったものはことに霊力が強いとされたらしい。万葉集巻十一に「夕されば床の辺去らぬ黄楊枕なにしか汝が主待ちかたき」と、やはり黄楊の枕に対し呼びかけた歌がある。なお、「つげ」を「告げ」の掛詞と見れば、その名を忌んでいることになろう。
【他出】正治初度百首、定家八代抄、六華集
【本歌】平貞文「古今集」
枕よりまた知る人もなき恋を涙せきあへずもらしつるかな

式子内親王の『新古今和歌集』入集歌など

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   百首歌たてまつりし時、はるの歌
山ふかみ春ともしらぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水(新古3)
【通釈】山が深いので春が来たとも知らない我が庵の松の戸――その戸に、途絶えがちに滴りかかる雪の雫よ。
【語釈】◇松の戸 松の木で作った板戸、または松の枝を編んだ枝折戸。いずれにしても山家の粗末な戸である。「松」には「待つ」が掛かる。◇たえだえかかる 間隔を置いて掛かる。どこから落ちてくるとも言っていないが、それゆえにかえって「雪の玉水」のイメージは鮮烈である。◇雪の玉水 雪が融けてできた雫。掲出歌以前の用例は見えず、おそらく式子内親王創意の語であろう。
【補記】正治二年(1200)、すなわち内親王薨去前年、後鳥羽院に詠進した百首歌「正治初度百首歌」。

   百首歌たてまつりしに、春歌
ながめつるけふは昔になりぬとも軒端の梅はわれを忘るな(新古52)
【通釈】眺め入った今日は過去になるとしても、軒端の梅は私を忘れずにいておくれ。

   百首歌たてまつりしに
いま桜さきぬと見えてうすぐもり春にかすめる世のけしきかな(新古83)
【通釈】まさに今桜が咲いたと見えて、空はうっすらと曇り、春らしく霞んでいる世のありさまであるよ。

   百首歌に
はかなくてすぎにし方をかぞふれば花に物おもふ春ぞへにける(新古101)
【通釈】とりとめもなく過ぎてしまった年月を数えれば、桜の花を眺めながら物思いに耽る春ばかりを送ってしまった。

   家の八重桜を折らせて、惟明親王のもとにつかはしける
やへにほふ軒ばの桜うつろひぬ風よりさきにとふ人もがな(新古137)
【通釈】幾重にも美しく咲き匂っていた軒端の八重桜は、盛りの時を過ぎてしまった。風より先に訪れてくれる人がいてほしい。
【語釈】◇家の八重桜 この「家」は、式子内親王が晩年住んだ大炊御門(おおいみかど)の邸。
【補記】惟明親王は高倉天皇の皇子で式子の甥にあたる。親王の返歌は「つらきかなうつろふまでに八重桜とへともいはですぐる心は」。因みに続後撰集には同じく大炊殿の八重桜を巡って式子内親王と九条良経とが贈答した歌を載せる(「ふるさとの春を忘れぬ八重桜これや見し世にかはらざるらむ」「八重桜をりしる人のなかりせば見し世の春にいかで逢はまし」)。

花は散りてその色となくながむればむなしき空に春雨ぞふる〔新古149〕
【通釈】花は散り果てて、これというあてもなく眺めていると、空虚な空にただ春雨が降っている。

   斎院に侍りける時、神館(かんだち)にて
忘れめや葵を草に引きむすびかりねの野べの露のあけぼの(新古182)
【通釈】忘れなどしようか。葵の葉を草枕として引き結び、旅寝した野辺の一夜が明けて、露の置いたあの曙の景色を。

   百首歌たてまつりし時、夏歌
かへりこぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕ににほふ橘(新古240)
【通釈】再び戻って来ない昔を、今のことのように思いながら寝入ると、うつらうつら夢見る枕もとに匂ってくる、橘の花の香よ。

   百首歌たてまつりしに
声はして雲路にむせぶほととぎす涙やそそく宵のむら雨(新古215)
【通釈】声は聞こえるものの姿は見えず、雲の中でむせぶように泣く時鳥よ。その涙がそそぐのか、今宵の驟雨は。

   百首歌の中に
夕立の雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山にひぐらしの声(新古268)
【通釈】夕立を降らせた雲ももう留まっていないこの山――暑かった夏の日が傾いたこの山で、いま蜩の声が響く。

   百首の歌たてまつりし時
窓ちかき竹の葉すさぶ風の音にいとどみじかきうたたねの夢(新古256)
【通釈】窓近くの竹の葉に吹きすさぶ風の音のために、ますます短く醒めてしまった転た寝の夢よ。

   百首歌に
うたたねの朝けの袖にかはるなりならす扇の秋の初風(新古308)
【通釈】転た寝した明け方の袖に、変わったと感じる。なれ親しんだ扇の風が、今年最初の秋風に――。

   百首歌の中に
ながむれば衣手すずしひさかたの天の河原の秋の夕暮(新古321)
【通釈】じっと眺めていると、自分の袖も涼しく感じられる。川風が吹く、天の川の川原の秋の夕暮よ。

それながら昔にもあらぬ月影にいとどながめをしづのをだまき〔新古367〕
【通釈】それはそれ、月は同じ月であるのに、やはり昔とは異なる月影――その光に、いよいよ物思いに耽って眺め入ってしまった、繰り返し飽きもせず。

   百首歌たてまつりし時、月の歌
ながめわびぬ秋よりほかの宿もがな野にも山にも月やすむらん(新古380)
【通釈】つくづく眺め疲れてしまった。季節が秋でない宿はないものか。野にも山にも月は澄んでいて、どこへも遁れようはないのだろうか。

   題しらず
更くるまで眺むればこそ悲しけれ思ひも入れじ秋の夜の月(新古417)
【通釈】夜が更けるまで眺めていたからこそ悲しいのだ。もう深く心にかけることはすまい、秋の夜の月よ。

   百首歌たてまつりし秋歌に
秋の色は籬にうとくなりゆけど手枕なるる閨の月かげ(新古432)
【通釈】色々に咲いていた垣根の草花はうつろい、秋の趣は疎くなってゆくけれど、反対に、私の手枕に馴れてくる閨の月光よ。

   百首歌の中に
跡もなき庭の浅茅にむすぼほれ露の底なる松虫のこゑ(新古474)
【通釈】人の通った跡もなく生い茂る庭の浅茅――その草葉にぎっしりと絡みつかれ、露の底から聞こえてくる、人を待つような松虫の声よ。

   擣衣の心を
千たび擣(う)つきぬたの音に夢さめて物おもふ袖の露ぞくだくる(新古484)
【通釈】果てしなく擣つ砧の音に夢から醒めて、悲しい物思いに耽る私の涙が落ち、袖に砕け散る。

   百首歌たてまつりし時
更けにけり山の端ちかく月さえて十市(とをち)の里に衣うつこゑ(新古485)
【通釈】夜は更けてしまった。山の稜線近くにある月の光は冴え冴えとして、十市の里に衣を打つ音が聞こえる。

   百首歌たてまつりし秋歌
桐の葉もふみわけがたくなりにけり必ず人を待つとなけれど(新古534)
【通釈】桐の落葉も踏み分け難いほど積もってしまったなあ。必ずしも人を待つというわけではないけれど。

   題しらず
風さむみ木の葉はれゆく夜な夜なにのこるくまなき庭の月かげ(新古605)
【通釈】風が寒々と吹き、そのたびに木の葉が散ってゆく夜々を経て、もはや残る隈(くま)無く照らす庭の月光よ。

   百首歌の中に
見るままに冬は来にけり鴨のゐる入江のみぎはうす氷りつつ(新古638)
【通釈】見ている間に、もう冬は来ていたのだなあ。鴨の浮かんでいる入江の波打際が薄く氷りながら。

   百首歌に
さむしろの夜半の衣手さえさえて初雪しろし岡の辺の松(新古662)
【通釈】寝床の上の夜の袖が冷え冷えとしていたが、今朝見れば初雪が白く積もっているよ、岡のほとりの松は。

   百首歌たてまつりしに
日かずふる雪げにまさる炭竈の煙もさびし大原の里(新古690)
【通釈】何日も続く雪模様で炭竈の煙が多くなるのも寂しげである。大原の里よ。

(「賀歌・哀傷歌・離別歌・羇旅歌・雑歌・神祇歌・釈教歌」→省略 )

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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十八) [光悦・宗達・素庵]

その十八 前大僧正慈円

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の九「通光・慈円」・式子内親王)」(シアトル美術館蔵)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(通光その二・慈円その一)」(シアトル美術館蔵)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(慈円その二・式子内親王その一)」(シアトル美術館蔵)

18 前大僧正慈円:いつまでか涙曇らで月は見し秋まちえても秋ぞ恋しき
(釈文)百首乃哥た天まつ利し時月能哥
    前大僧正慈円
以つ満天加涙曇ら天月盤見し秋ま知え傳も秋曽恋し幾

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jien.html#AT

(「慈円」周辺メモ)

   百首歌奉りし時、月の歌
いつまでか涙くもらで月は見し秋待ちえても秋ぞ恋しき(新古379)

【通釈】涙に目がくもらないで月を見たのは、いつ頃までのことだったろう。待望の秋を迎えても、さやかな月が見られるはずの、ほんとうの秋が恋しいのだ。
【補記】秋はただでさえ感傷的になる季節であるが、そのうえ境遇の辛さを味わうようになって以来、涙で曇らずに秋の明月を眺めたことがない、ということ。正治二年(1200)、後鳥羽院後度百首。

慈円 久寿二~嘉禄一(1155~1225) 

 摂政関白藤原忠通の子。母は藤原仲光女、加賀局(忠通家女房)。覚忠・崇徳院后聖子・基実・基房・兼実・兼房らの弟。良経・後鳥羽院后任子らの叔父にあたる。
 二歳で母を、十歳で父を失う。永万元年(1165)、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のる。仁安二年(1167)、天台座主明雲を戒師として得度する。嘉応二年(1170)、一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられる。以後、天台僧としての修行に専心し、安元二年(1176)には比叡山の無動寺で千日入堂を果す。摂関家の子息として法界での立身は約束された身であったが、当時紛争闘乱の場と化していた延暦寺に反発したためか、治承四年(1180)、隠遁籠居の望みを兄の兼実に述べ、結局兼実に説得されて思いとどまった。養和元年(1181)十一月、師覚快の入滅に遭う。この頃慈円と名を改めたという。
 寿永元年(1182)、全玄より伝法灌頂をうける。文治二年(1186)、平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就く。以後慈円は平等院執印・法成寺執印など、大寺の管理を委ねられた。同五年には、後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこなう。
 この頃から歌壇での活躍も目立ちはじめ、良経を後援して九条家歌壇の中心的歌人として多くの歌会・歌合に参加した。文治四年(1188)には西行勧進の「二見浦百首」に出詠。
 建久元年(1190)、姪の任子が後鳥羽天皇に入内。同三年(1192)、天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、ついで護持僧・法務に補せられる。同年、無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開く。同六年、上洛した源頼朝と会見、意気投合し、盛んに和歌の贈答をした(『拾玉集』にこの折の頼朝詠が残る)。しかし同七年(1196)十一月、兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居した。
 建久九年(1198)正月、譲位した後鳥羽天皇は院政を始め、建仁元年(1201)二月、慈円は再び座主に補せられた。この前後から、院主催の歌会や歌合に頻繁に出席するようになる。同年六月、千五百番歌合に出詠。七月には後鳥羽院の和歌所寄人となる。同二年(1202)七月、座主を辞し、同三年(1203)三月、大僧正に任ぜられたが、同年六月にはこの職も辞した。以後、「前大僧正」の称で呼ばれることになる。
 九条家に代わって政界を制覇した源通親は建仁二年(1202)に急死し、兼実の子良経が摂政となったが、四年後の建永元年(1206)、良経は頓死し、翌承元元年(1207)には兄兼実が死去した。以後、慈円は兼実・良経の子弟の後見役として、九条家を背負って立つことにもなる。
 この間、元久元年(1204)十二月に自坊白川坊に大懺法院を建立し、翌年、これを祇園東方の吉水坊に移す。建永元年(1206)には吉水坊に熾盛光堂(しじょうこうどう)を造営し、大熾盛光法を修す。また建仁二年の座主辞退の後、勧学講を青蓮院に移して再興するなど、天下泰平の祈祷をおこなうと共に、仏法興隆に努めた。
 建暦二年(1212)正月、後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就く。翌三年には一旦この職を辞したが、同年十一月には四度目の座主に復帰。建保二年(1214)六月まで在任した。
 建保七年(1219)正月、鎌倉で将軍実朝が暗殺され、九条道家の子頼経が次期将軍として鎌倉に下向。しかし後鳥羽院は統幕計画を進め、公武の融和と九条家を中心とした摂政性を匡治的理想とした慈円との間に疎隔を生じた。院はついに承久三年(1221)五月、北条義時追討の宣旨を発し、挙兵。攻め上った幕府軍に敗れて、隠岐に配流された。
 慈円はこれ以前から病のため籠居していたが、貞応元年(1222)、青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をするなどした。その一方、四天王寺で後鳥羽院の帰洛を念願してもいる。嘉禄元年(1225)九月二十五日、近江国小島坊にて入寂。七十一歳。無動寺に葬られた。嘉禎三年(1237)、慈鎮和尚の諡号を賜わる。
 著書には歴史書『愚管抄』(承久二年頃の成立という)ほかがある。家集『拾玉集』(尊円親王ら編)、佚名の『無名和歌集』がある。千載集初出。勅撰入集二百六十九首。新古今集には九十二首を採られ、西行に次ぐ第二位の入集数。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十六)

久寿二年(1155)慈円誕生。摂政関白藤原忠通の子。兼実・兼房らの弟。良経らの叔父。
保元元年(1156)保元の乱(「崇徳上皇・藤原頼長」対「後白河天皇・藤原忠通」の争い)
平治元年(1159)平治の乱(「後白河院政派・源義朝」対「二条親政派・平清盛」の争い)
永万元年 (1165) 慈円、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門、道快を名のる。十歳。
仁安二年(1167)平清盛 太政大臣就任。武家政権成立。
治承四年(1180)源頼朝挙兵し、鎌倉に入る。
文治元年(1185)壇ノ浦合戦、平氏滅亡。慈円、三十歳。
建久三年(1192)頼朝、征夷大将軍。慈円、天台座主に就任する。三十七歳。
建久七年 (1196) 建久七年の政変(兼実の失脚。慈円天台座主などの職位を辞す。)
建仁元年 (1201) 慈円は再び天台座主に補せられる(後鳥羽院院政)。
元久二年(1205)『新古今和歌集』成る。慈円、五十歳(「和歌所」寄人)。
建暦二年(1212)鴨長明『方丈記』成る。慈円、三たび天台座主に就く。五十七歳。
承久二年(1220)慈円『愚管抄』成る。六十五歳。
承久三年(1221)承久の乱。後鳥羽上皇ら配流。六十六歳。
嘉禄元年 (1225) 慈円入寂。七十歳。

  慈円は、久寿二年(一一五五)に、藤原摂関家の一員として生まれる。父・藤原忠道は、三十七年間にわたり摂政関白をつとめ、十三人の兄弟のうち、兄四人は、摂政関白や太政大臣の地位につき、六人の兄弟は出家し、そして三人の姉妹は皆、三代の天皇の皇后になっている。天皇家を除けば、当代に並ぶもののない高貴な家系の出ということになる。
 上記の年譜のとおり、慈円は、十歳前後で出家し、源頼朝が、征夷大将軍になった、建久三年(一一九二)に、三十七歳前後の若さで、「天台座主」(天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職)となる。
 これらは、慈円が望んでのものというより、藤原摂関家の一員であるが故に、その政治と宗教の両面から地位を磐石なものにするための、外因的な要請に因るということに外ならない。慈円の天台座主に在ったのは、建久三年(一一九二)からが建保二年(一二一四)まで、実に四たびに亘って、就任と辞任とを繰り返している。
 歌人としての慈円が、兄の兼実、そして、その子・良経の九条歌壇に登場するのは、六歳年上の兄・兼実が摂政に就いた文治二年(一一八六)、三十一歳以降の頃からである。
 しかし、その私家集『拾玉集』(五巻本=五九一七首、七巻本=流布本=四六一三首)には、安元元年(一一七五)、二十一歳の頃(当時の号=通快)の作も収録されており、二十歳前後から、百首歌(「定数歌」の一首、個人又は数人で百首詠む)などの詠作に励んでいたのであろう。
 ここで、『新々百人一首(丸谷才一著)』で、「藤原忠通(良経の祖父)~藤原良経」までの歌を掲出して置きたい(配列番号=時代順番号)。

54 限りなくうれしと思ふことよりもおろかの恋ぞなほまさりける(忠通=兼実・慈円の父)
55 かざこしを夕越えくればほととぎす麓の雲のそこに鳴くなり(藤原清輔=六条藤家)
56 花すすき茂みがなかをわけゆかば袂をこえて鶉たつなり(俊恵=源俊頼の子、長明の師)
57 七夕のとわたる舟の梶の葉にいく秋かきつ露のたまづさ(俊成=御子左家、定家の父)
58 あらし吹く峯の木の葉にさそはれていづち浮かるる心なるらん(西行=俊成と双璧)
59 朝夕に花待つころは思ひ寝の夢のうちにぞ咲きはじめける(崇徳院=保元の乱時の上皇)
60 あふさかの関の杉むら霧こめて立ちども見えぬゆふかげの駒(侍賢門院堀河)
61 ますら男がさす幣(みてぐら)は苗代の水の水上まつるなるらん(源有房=俊恵歌壇)
62 舟出する比良のみなとのあさごほり棹にくだくる音のさやけさ(顕昭=六条藤家)
63 逢ふまでの思ひはことの数ならで別れぞ恋のはじめなりける(寂蓮、俊成の甥、養子)
64 なにはがた汀の蘆は霜がれてなだの捨舟あらはれにけり(二条院讃岐)
65 ゆく春のあかぬなごりを眺めてもなほ曙やおもがはりせぬ(藤原隆信=定家の異父兄)
66 ささなみや志賀の都は荒れ西にしを昔ながらの山桜かな(平忠度=清盛の末弟、俊成門)
67 難波江の春のなごりにたへぬかなあかぬ別れはいつもせしかど(祇寿=江口の妓・遊女)
68 桜咲くたかねに風やわたるらん雲たちさわぐ小初瀬の山(兼実=慈円の兄、良経の父)
69 山おろしに散るもみぢ葉つもるらん谷のかけひの音よわるなり(長明=『方丈記』作者)
70 旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢を見るかな(慈円=『愚管抄』の作者)
71 秋風に野原のすすき折り敷きて庵あり顔に月を見るかな(家隆=定家と双璧の歌人)
72 わが恋は知る人もなしせく床の泪もらすなつげの小枕(式子内親王=『新古』女流代表)
73 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ(定家=『百人一首』撰者)
74 昔たれかかる桜の花を植ゑて吉野を春の山となしけん(良経=『新古』「序」の起草者)

 それにしても、「忠通→兼実→慈円→良経」の揃い踏みは圧巻である。

(再掲)

54 限りなくうれしと思ふことよりもおろかの恋ぞなほまさりける(忠通=兼実・慈円の父)
68 桜咲くたかねに風やわたるらん雲たちさわぐ小初瀬の山(兼実=慈円の兄、良経の父)
70 旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢を見るかな(慈円=『愚管抄』の作者)
74 昔たれかかる桜の花を植ゑて吉野を春の山となしけん(良経=『新古』「序」の起草者)

 ここで、慈円と同年齢(共に久寿二年=一一五五の生れ)の鴨長明の『方丈記』と『愚管抄』とを紹介して置きたい。また、上記の主要な歌人などと「慈円・長明」との年齢の開きも付記して置きたい。

https://nenpyou-mania.com/n/jinbutsu/11260/慈円

「藤原忠通」   →五十八歳年上
「藤原俊成」   →四十一歳年上
「西行・平清盛」 →三十七歳年上
「崇徳天皇」   →三十五歳年上
「後白河天皇」  →二十七歳年上
「藤原隆信」    →十三歳年上
「藤原(九条)兼実」 →六歳年上
「藤原家隆」     →二歳年下
「藤原定家」     →六歳年下 
「藤原(九条)良経」→十三歳年下
「後鳥羽天皇」  →二十五歳年下

『愚管抄』(出典:小学館:日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ))

 1219年(承久1)、前天台座主(ざす)大僧正慈円(じえん)(慈鎮(じちん)和尚)が著した歴史書。『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』(北畠親房(きたばたけちかふさ)著)、『読史余論(とくしよろん)』(新井白石(あらいはくせき)著)とともに、わが国の三大史論書といわれている名著である。7巻からなり、巻1~2に「漢家年代」「皇帝年代記」を置き、巻3~6で保元(ほうげん)の乱(1156)以後に重きを置いた神武(じんむ)天皇以来の政治史を説き、付録の巻7では、日本の政治史を概観して、今後の日本がとるべき政治形体と当面の政策を論じている。
 すなわち、慈円は、一方では武士の出現によって宮廷貴族の間に生まれた「近代末世の意識」を「仏教の終末論の思想」によって形而上(けいじじょう)学的に根拠づけ、一方では藤原氏の伝統的な「摂関家意識」を「祖神(天照大神(あまてらすおおみかみ)・八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と天児屋命(あめのこやねのみこと))の冥助(みょうじょ)・冥約の思想」によって形而上学的に根拠づけ、この両方の思想群を結合して彼の史論を構築した。
 その際、彼がこれら2組、四つの思想史的要素の接合剤としたのは、理想を現実にあわせて変化させるという、伝教(でんぎょう)大師最澄(さいちょう)以来比叡山(ひえいざん)の思想的伝統となって深化してきた「時処機(ときところひと)相応の思想」であった。こうした思想をよりどころとして、いまは摂関家と武家を一つにした摂録(せつろく)将軍制が、末代の道理として必然的に実現されるべき時であると論じ、後鳥羽院(ごとばいん)とその近臣による摂関家排斥の政策と幕府討伐の計画は歴史の必然、祖神の冥慮(みょうりょ)に背くものと非難した。
 彼は承久(じょうきゅう)の乱(1221)ののちもこの考えを捨てず、この書の皇帝年代記に筆を加え続けているのである。[石田一良]
『岡見正雄・赤松俊秀校注『日本古典文学大系86 愚管抄』(1967・岩波書店) ▽Delmer M. Brown and Ichiro Ishida The Future and the Past;a translation and study of the Gukansho (1979, Univ. of Calif. Press) ▽石田一良「『愚管抄』の成立とその思想」(『東北大学文学部研究年報』17所収・1966)』

『方丈記』(出典:小学館:日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ))

 鎌倉初期の随筆。一巻。鴨長明(かものちょうめい)作。1212年(建暦2)3月成立。書名は長明が晩年に居住した日野の方丈(一丈四方、すなわち約3.3メートル四方)の草庵(そうあん)にちなんだもの。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という無常観を表白する流麗な文章に始まり、五つの大きな災厄がまず記述される。京都の3分の1を焼き尽くした安元(あんげん)3年(1177)の大火、治承(じしょう)4年(1180)の旋風、同年、平清盛(きよもり)によって突如強行された福原(現在の神戸市付近)への遷都、養和(ようわ)年間(1181~82)の大飢饉(ききん)、元暦(げんりゃく)2年(1185)の大地震と打ち続く大きな災厄の前にあえなく崩壊していく平安京の光景が迫力ある筆致で描かれる。
 そして「すべて世の中のありにくく、我が身と栖(すみか)とのはかなくあだなるさま、またかくのごとし」と、この世の無常と、人の命のはかなさが強い語調で結論づけられる。続いて長明に訪れた「折り折りのたがひめ(不遇)」のため、50歳ころ出家、60歳に及び日野に方丈の庵(いおり)を構えるに至った経過が述べられる。庵の周辺は仏道の修養、管絃(かんげん)の修練には好適の地で、そこは長明に世俗の煩わしさから解放された安息を初めて与えた地であり、「仮の庵(いほり)のみのどけくしておそれなし」と賞揚される。しかし、末尾に至り、閑寂な草庵に執着する自らを突然否定し、「不請(ふしゃう)の阿弥陀仏(あみだぶつ)(人に請(こ)われなくとも救済の手を差し伸べてくれる阿弥陀仏の御名の意か)」を唱えて終わる。
 前半でこの世の無常を認識し、後半において草庵の閑居を賞美、かつ末尾ではそれらを否定するという一編の構成はきわめて緊密である。漢文訓読調を混ぜた和漢混交文は力強く、論旨を明快なものとしている。とりわけ五大災厄の描写は緊張した文体で、的確、リアルできわめて印象的である。慶滋保胤(よししげのやすたね)の『池亭記(ちていき)』(982成立)などを倣ったものと考えられるが、『平家物語』(13世紀後半成立か)をはじめ、後の中世文学に大きな影響を与えており、『徒然草(つれづれぐさ)』(1331ころ成立か)と並んで、中世の隠者文学の代表である。大福光寺本は鴨長明の自筆かといわれる写本で、その価値は高い。
 五大災厄の部分を欠く「略本方丈記」といわれるものもあり、長明の自作とも後人の偽作ともいわれ、定説をみない。[浅見和彦]
『簗瀬一雄著『方丈記全注釈』(1971・角川書店) ▽三木紀人著『鑑賞日本の古典10 方丈記・徒然草』(1980・尚学図書) ▽三木紀人・宮次男・益田宗編『図説日本の古典10 方丈記・徒然草』(1980・集英社)』
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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十七) [光悦・宗達・素庵]

その十七  左衛門督通光

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の九「通光・慈円」・式子内親王)」(シアトル美術館蔵)
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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(通光その一)」(シアトル美術館蔵)
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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(通光その二・慈円)」(シアトル美術館蔵)

http://art.seattleartmuseum.org/objects/14261/poem-scroll-with-deer?ctx=947bccb0-1f22-40c6-acef-ab7c81a74c67&idx=1

17 左衛門督通光:むさし野や行共秋のはてぞなき如何成(いかなる)風の末に吹らむ(シアトル美術館蔵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-18

(再掲)

上記の絵図の和歌(「通光その一」と「通光その二」)は次の一首である。

378  左衛門督通光 みなせにて十首哥たてまつりし時
むさし野やゆけとも秋のはてそなきいかなる風かすゑにふくらん
(釈文)水無瀬尓天十首濃哥多天まつ利し時 右衛門督通光
 無左し野や行共秋能ハて曾那支 如何成風濃末尓吹ら舞

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mititeru.html

  水無瀬にて、十首歌たてまつりし時
武蔵野やゆけども秋の果てぞなきいかなる風かすゑに吹くらむ(源通光「新古378」)

【通釈】武蔵野を行けども行けども、秋の景色は果てがなく、あわれ深さも果てがない。野末には、どんな風が吹いているのだろう。
【語釈】◇武蔵野 関東平野西部の台地。薄や萱の茂る広大な原野として詠まれる。◇秋の果てぞなき 武蔵野の果てしなさに掛けて、秋のあわれ深い情趣が尽きないことを言う。◇いかなる風か… 今、風は野を蕭条と吹いているが、まして野末に至れば、どれほど…。「末」には「秋の末」の意が響き、晩秋になれば、との心を読み取ることも可能か。下句秀逸。

源通光 文冶三~宝治二(1187-1248)

 内大臣土御門通親の三男。母は刑部卿藤原範兼女、従三位範子。通宗・通具の異母弟。承明門院在子(後鳥羽院妃)の同母異父弟。内大臣定通・大納言通方の同母兄。子に大納言通忠・同雅忠・式乾門院御匣ほかがいる。
 後鳥羽天皇の文治四年(1188)、叙爵。正治元年(1199)、禁色を聴される。右少将・中将などを経て、建仁元年(1201)、従三位に叙せられる。同二年には正三位・従二位と累進。同年末、父を亡くすが、その後も後鳥羽院政下で順調に昇進し、同四年四月、権中納言。土御門天皇の元久二年(1205)、正二位に昇り、中納言に転ず。建永二年(1207)二月、権大納言。   
 建保元年(1213)、娘を雅成親王に嫁がせる。順徳天皇の建保五年(1217)正月、右大将を兼ねる。同六年十月、大納言に転ず。同七年三月、内大臣に至る。しかし承久三年(1221)の承久の乱後、幕府の要求により閉居を命ぜられ、官を辞した。安貞二年(1228)三月、朝覲行幸の際に出仕を許され、後嵯峨院院政の寛元四年(1246)十二月二十四日、辞任した西園寺実氏に代り太政大臣に任ぜられた。同日、従一位。宝治二年(1248)正月十七日、病により上表して辞職、翌十八日、薨ず。六十二歳。
 建仁元年(1201)、十五歳の時歌壇に登場し、早熟の才を発揮した。同年の「千五百番歌合」では参加歌人中最年少。同年三月の「通親亭影供歌合」、同二年(1202)五月の「仙洞影供歌合」、同三年(1203)六月の「影供歌合」、元久元年(1204)の「春日社歌合」「元久詩歌合」、建永元年(1206)七月の「卿相侍臣歌合」、同二年の「賀茂別雷社歌合」「最勝四天王院和歌」などに出詠。順徳天皇の内裏歌壇でも活躍し、建保四年(1216)閏六月の「内裏百番歌合」、建保五年(1217)十一月の「冬題歌合」、承久元年(1219)七月の「内裏百番歌合」などに詠進。 
 建保五年(1217)八月には自邸に定家・慈円・家隆らを招き、歌合を催す(「右大将家歌合」)。承久の乱後は歌壇から遠ざかるも、後鳥羽院への忠義を失わず、嘉禎二年(1236)の遠島歌合に出詠した。宝治元年(1247)には、後嵯峨院の内裏歌合に出席、俊成卿女と詠を競った。
新古今集初出(十四首)。勅撰入集計四十九首。琵琶の名手でもあったという。


「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十五)

 ここから「シアトル美術館蔵」の作品(断簡絵図)が続く。今回の和歌は、「源通光→慈円→式子内親王」のもので、源通光(左衛門督通光)の背後に、一匹の雄鹿が描かれている。この雄鹿は、通光のイメージで見立てることは自然の流れであろう。
 通光は、源通親(内大臣土御門通親)の三男。「通宗(長男・後嵯峨天皇の外祖父)・通具(次男・堀川家の祖)」は異母兄。「第八十二代後鳥羽天皇の妃・第八十三代土御門天皇の国母」の承明門院在子は同母姉。「土御門定通(土御門家の祖)・中院通方(中院家の祖)」は同母弟で、通光は「久我家」の祖とされている。曹洞宗の開祖で『正法眼蔵』の著者として名高い道元禅師は、この久我家の出身とされ、通親の子とも道具の子ともいわれている。
 これまでにも、通親・通具については、俊成卿女との関連などで、しばしば触れてきたが、この通親を父とする、その子の周辺というのは、平安時代の末期から鎌倉時代初期の全ての事象に、大きな影響を与え続けていたということを実感する。
 通親は、建仁二年(一二〇二)十月二十四日、五十四歳で「内大臣正二位兼行右近衛大将東宮傅」の現役のままに急死した。以後、後鳥羽上皇を諫止できる者はいなくなり、後鳥羽院政が本格的に始まったとされている。
 建久九年(一一九八)に通親の長男・通宗は三十一歳で夭逝しており、通親の正室(藤原範子・通光の母)の関係で、通親の次男・通具は、「村上源氏久我家分流堀川家」を継ぎ、この三男・通光が通親の嫡男(久我家)扱いとなっている。
 通光は、承久三年(一二二一)の承久の乱後、幕府の要求により閉居を命ぜられ、官を辞している。安貞二年(一二二八)三月、朝覲行幸の際に出仕を許され、後嵯峨院院政の寛元四年(一二四六)十二月二十四日、辞任した西園寺実氏に代り太政大臣に任ぜられている。
 なお、通光は、承久の乱後は歌壇から遠ざかっていたが、後鳥羽院への忠義を失わず、嘉禎二年(一二三六)の遠島歌合に出詠している。また、宝治元年(一二四七)には、後嵯峨院の内裏歌合に出席し、俊成卿女と詠を競い合っている(この時の「宝治歌合」は、下記の末尾の一首である)。

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/mititeru.html

   詩をつくらせて歌に合せ侍りしに、水郷春望といふことを
三島江や霜もまだひぬ蘆の葉につのぐむほどの春風ぞ吹く(新古25)

【通釈】三島江の、その汀に生える蘆の群――霜もまだ乾かない葉に、今朝はのどかな春風が吹き付ける、若芽がめぐむばかりに。
【語釈】◇三島江 摂津国の歌枕。現在の大阪府高槻市の淀川沿岸にあたる。蘆・菰・白菅などの繁る場所として詠まれることが多い。◇霜もまだひぬ 霜は融けたが、まだ乾いていない。◇つのぐむほどの 芽ぐむばかりの。「つのぐむ」は新芽が角のように出ること。
【補記】新古今の清新な叙景歌として評価の高い作。「霜もまだひぬ」「つのぐむほどの」という描写によって、春風に吹かれる水辺の蘆が官能性を帯びてさえ感じられる。元久二年(1205)、元久詩歌合に出詠された。

   最勝四天王院の障子に、清見が関かきたる所
清見がた月はつれなき天の門を待たでもしらむ波の上かな(新古259)
【通釈】清見潟の上空、有明の月は、夜が明けかけたことなど素知らぬふうに照っていて、天の扉が開くのを待たぬ内から、波の上は早くも白んでいるのだなあ。
【語釈】◇清見がた 駿河国の歌枕。静岡市清水区興津の海辺にあたる。「かた(潟)」は遠浅の海。富士山や三保の松原を望む景勝地。平安時代に関が設けられ、柵が海まで続いていた。「関屋どもあまたありて、海まで釘貫したり」(『更級日記』)。◇月はつれなき 「有明のつれなくみえし別れより…」(壬生忠岑『古今集』)を響かせる。◇天の門 日や月が出入りする天の門扉。これが開いて夜が明ける。
【補記】承元元年(1207)十一月の最勝四天王院障子和歌。清見が関を描いた障子絵に添える歌である。短夜を詠んでいるので新古今集夏部に入っている。

   和歌所歌合に、朝草花といふ事を
明けぬとて野べより山に入る鹿のあと吹きおくる萩の下風(新古351)

【通釈】夜が明けたというので、野辺から山へ帰り入ってゆく鹿――その後を慕うように、萩を靡かせて吹き送る風。
【語釈】◇山にいる鹿 山に帰り入る鹿。「鹿と云ふものは、夜になれば山より野に出でて、明くれば山に帰るなり」(増抄)。◇萩の下風 萩が風に靡くさまを、鹿を見送っていると見立てた。万葉集から萩は鹿の妻として詠まれている。「吾が岳にさ壮鹿来鳴く初萩の花妻問ひに来鳴くさ壮鹿」(大伴旅人『万葉集』)。
【補記】建永元年(1206)七月二十五日、卿相侍臣歌合。

   題しらず
龍田山よはにあらしの松吹けば雲にはうとき峰の月かげ(新古412)

【通釈】龍田山を、夜半、越えて行くと、嵐が峰の松に吹き付けて、雲は追い払われてゆく。そうして松の木の間にあらわれる月光――雲にとってはつれない仲というわけだ。
【語釈】◇龍田山 奈良県生駒郡三郷町の龍田神社背後の山。◇雲にはうとき 「月に親しく懸かりたる雲が、吹き退けられたる体也」(増抄)。峰の松と月影は親密になった一方、雲にとっては月影が疎遠な関係となった、ということ。
【補記】宣長は「三の句、まづは先也、松とかける本はひがごとぞ」とし、「いり方の月には、よく雲のかかるものなれども、いまだかたぶかざるさきに、夜はには先(まづ)あらしの吹きはらへる故に、雲にはうとしと也」と独自の解釈をしている。

   千五百番歌合に
さらにまた暮をたのめと明けにけり月はつれなき秋の夜の空(新古434)

【通釈】長いはずの秋の夜だが、月を見飽きないうちに明けてしまった。もっと見たいのなら、また日が暮れるのを待てとでも言うような月――つれないなあ。明るくなってゆく空に、平気な顔をしてまだ残っている。
【語釈】◇暮をたのめと 月を見たいなら暮を期待しろと。続く「明けにけり」の主語は末句「秋の夜の空」であるが、「たのめ」と促しているのは月であろう。

   河霧といふことを
あけぼのや川瀬の波のたかせ舟くだすか人の袖の秋霧(新古493)

【通釈】曙、川の浅瀬に波の音が高く聞こえ、秋霧の絶え間から人の袖がほの見える。船頭が高瀬舟を下してゆくのか。
【語釈】◇たかせ舟 高瀬(浅瀬)を越えやすいように、底を平に造った川舟。◇人の袖の秋霧 人の袖を垣間見せる秋霧。下記本歌を踏まえる。

   最勝四天王院の障子に、なるみの浦かきたるところ
浦人の日もゆふぐれになるみがたかへる袖より千鳥なくなり(新古650)

【通釈】鳴海の浦に住む海人が、一日も夕暮になり、入江を帰ってゆく。塩水に濡れた袖を、冬の夕風に翻(ひるがえ)らせて…。その陰から千鳥が鳴いて立つよ。
【語釈】◇日もゆふぐれに 「紐結ふ」を掛け、袖の縁語となる。「唐衣ひもゆふぐれになる時は返す返すぞ人はこひしき」(よみ人しらず『古今集』)。◇なるみがた 鳴海潟。今の名古屋市緑区あたりにあった入江。「潟」は遠浅の海。千鳥や鴫と共に詠まれ、潮の満ち干にも着目される。◇かへる袖より 「帰る」「翻(かへ)る」を掛けるか。「袖より…」には俊恵の「花すすきしげみが中を分けゆけば袂を越えて鶉鳴くなり」、または定家の「から衣すそののいほの旅枕袖よりしぎのたつ心ちする」の影響があるか。◇千鳥鳴くなり 千鳥は飛び立つ時に鳴くものとされた。なお「なり」は、音が聞こえることに、ある感慨を催している心をあらわす。

   千五百番歌合に
かぎりあればしのぶの山のふもとにも落葉がうへの露ぞ色づく(新古1095)

【通釈】耐えることにも限度があるので、「忍ぶ」という名の信夫(しのぶ)山の麓の木々だって、紅葉し、やがて葉を落とすことには抵抗できないのだ。そうして落葉の上には露が置き、紅く色づいている。そのように、人の心も堪え忍ぶことには限度があるから、思いを外に表わしてしまって、ついには涙の色も紅く染まるのだ。
【語釈】◇しのぶの山 陸奥国信夫郡の歌枕。いまの福島市内にある山。「忍ぶ」を掛ける。◇露ぞ色づく 落葉の上に落ちた露が、葉の色に染まる。紅涙(血涙)を暗示する。
【補記】「詞ごとに其意よくかなひて、露ばかりもいたづらなることのまじらぬ歌也、すべて歌は、かやうにいたづらなる詞をまじへず、一もじといへどもよしあるやうによむべきわざぞかし」(本居宣長『美濃の家づと』)。

   千五百番歌合に
ながめ侘びそれとはなしに物ぞ思ふ雲のはたての夕暮の空(新古1106)

【通釈】むら雲の彼方の夕空をじっと眺めていた――そのうち眺める気力も失せて、「天空の人を恋する」とかいうのでなく、これといった宛もなしに、暮れてゆく空の下、ぼんやり物思いに耽っているのだ。
【語釈】◇それとはなしに 「本歌のやうに、天つ空なる人をこふとにはあらでといふ意なり」(美濃の家づと)。「たれをたのむとはなけれども」(聞書)。◇雲のはたて 雲の果て。但し『新古今集聞書』には「村々立たる雲はたをひろげたるやうなりといふ事也」とあり、雲の旗手と解している。

   寄風懐旧
浅茅生や袖にくちにし秋の霜わすれぬ夢を吹く嵐かな(新古1564)

【通釈】荒れ果て、浅茅の茂る庭よ――私の袖には涙が秋の霜として置いているが、それも袖といっしょに朽ちてしまった。もはや、昔を忘れず思い出すのは夜寝て見る夢ばかりだが、茅屋を嵐が吹いて、眠りも破られてしまう。
【語釈】◇浅茅生(あさぢふ) 浅茅は丈の低いチガヤ。それが茂った荒れた庭を言い、茅屋を暗示する。◇秋の霜 秋になって霜に変じた涙。題から明瞭なように、懐旧の涙である。◇わすれぬ夢 昔を忘れぬ夢。現実は、すべてを忘却させるかのごとく荒れ果てているのである。

   社頭祝
八幡山さかゆく峰も越えはてて君をぞ祈る身 のうれしさに(宝治歌合)

【通釈】栄えゆく八幡様の山の頂もついに越えて、大君の長久をお祈りします。かかる御代に生を享け、ここまで永らえ得た我が身の幸に感謝しつつ。
【語釈】◇八幡(やはた)山 石清水八幡宮の鎮座する山。京都府八幡市。下記本歌の「をとこ山」と同じ。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
今こそあれ我も昔はをとこ山さかゆく時も有りこしものを
  藤原家隆「新古今集」
大かたの秋の寝覚の長き夜も君をぞ祈る身を思ふとて
【補記】宝治元年(1247)九月、後嵯峨院主催の内裏歌合。「宝治二年歌合」とも。十題百三十番、二十六名参加の、当時としては大規模な歌合であった。六十一歳の通光は、七十歳を超えていた俊成卿女と左右を分けて対戦した。当時生き残っていた新古今歌人といえば、ほかに二、三の名を数えるばかりである。
上句は八幡に参詣する状を描くと共に、古今集の「我も昔はをとこ山」を想起させ、年の盛りを超え果てた我が身に対する感慨をこめる。下句では後鳥羽院を思いやった家隆の歌を懐かしく響かせつつ「我が身のうれしさに」と賀歌に相応しく晴ばれと結んで、深い感動を禁じ得ない。
 通光はこの歌合を歌人としての最後の晴舞台とし、翌年正月、病没した。
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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十六) [光悦・宗達・素庵]

その十六  藤原有家

鹿下絵七.JPG
「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の八「藤原家隆・藤原有家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵(有家).jpg
「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(有家)」(個人蔵)

16 藤原有家:かぜ渡るあさぢがすゑの露にだにやどりもはてぬよゐのいなづま(個人蔵)
(釈文)摂政太政大臣家 百首哥合尓
    藤原有家朝臣
可勢渡る安左知可須ゑ濃露尓多に屋ど里も者天怒るよゐ濃い那徒満

(「藤原有家」周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ariie.html

   摂政太政大臣家百首歌合に
風わたるあさぢがすゑの露にだにやどりもはてぬよひの稲妻(新古377)

【通釈】浅茅の生える荒野を、風が吹きわたる宵――稲妻が閃き、茅(ちがや)の葉末の露にその光を宿した……と思う間もなく、露はこぼれ落ちてしまうのだ。
【語釈】◇やどりもはてぬ 宿りおおせることができない。「やどり」は「よひ」と縁語になる。

藤原有家 久寿二~建保四(1155-1216)

 六条藤家従三位重家の子。母は中納言藤原家成女。清輔・顕昭・頼輔・季経らの甥。経家・顕家の弟。保季の兄。子には従五位下散位有季・僧公縁ら。
 仁安二年(1167)、初叙。承安二年(1172)、相模権守。治承二年(1178)、少納言。同三年、讃岐権守を兼ねる。同四年(1180)、有家と改名。元暦元年(1184)、少納言を辞し、従四位下に叙せられる。建久三年(1192)、従四位上。同七年、中務権大輔。正治元年(1199)、大輔を辞し、正四位下。建仁二年(1202)、大蔵卿。承元二年(1208)、従三位。建保三年(1215)二月、出家。法名、寂印。翌年の四月十一日、薨ず。
 文治二年(1186)の吉田経房主催の歌合、建久元年(1190)の花月百首、建久二年(1191)の若宮社歌合、建久四年(1193)頃の六百番歌合、建久九年(1198)の守覚法親王家五十首に出詠。後鳥羽院歌壇でも主要歌人の一人として遇され、建仁元年(1201)の新宮撰歌合・千五百番歌合、建仁二年(1202)の水無瀬恋十五首歌合、元久元年(1204)の春日社歌合、承元元年(1207)の最勝四天王院和歌などに出詠した。順徳天皇の建暦三年(1213)内裏歌合、建保二年(1214)の歌合などにも参加している。
 建仁元年(1201)、和歌所寄人となり、新古今集撰者となる。六条家の出身ながら御子左家(みこひだりけ)に親近した。

(六条藤家系図)

六条藤家系図.jpg

(御子左家系図)

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「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十四)

 『新古今和歌集』の撰者(六名)の、入集歌数の多い順から見て行くと、「定家(四十六首)→家隆(四十三首)→寂蓮(三十五首)→雅経(二十二首)→有家(十九首)→通具(十七首)」の順となる。
 上記の「六条藤家系図」には、「有家(顕季→顕輔→重家→有家)」、「御子左家系図」には、「定家(俊成→定家)」が出てくる。寂蓮は俊成の養子で、上記の「御子左家系図」の定家の脇に記載されるべき歌人であろう。
 家隆は、俊成門で「御子左家」に近い歌人であるが、後鳥羽院歌壇にあっては御子左家=定家」と双璧をなす歌人と理解したい。同様に、雅経も俊成門の歌人というよりも、後鳥羽院の側近歌人で、「飛鳥井家」(蹴鞠と歌道)の祖と目されている歌人ということになろう。
 そして、通具は、時の左大臣(藤原=九条良経)と右大臣(近衛家実)とを束ねている最高実力者(土御門内大臣)源通親の継嗣(次男)で、定家が、「御子左家」総帥・藤原俊成(釈阿)の名代とすると、源通親の名代ということになろう。と同時に、道親の歌道の師は、六条(藤原)季経で、上記の「六条藤家系図」の「顕季」の子(有家の叔父)に当たり、「通親→通具」は「六条藤家」系の歌人ということになろう。
 ここで、「六条藤家」有家の、『新古今和歌集』の入集句の幾つかを挙げて置きたい。

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   土御門内大臣の家に、梅香留袖といふ事をよみ侍りけるに
ちりぬれば匂ひばかりを梅の花ありとや袖に春かぜの吹く(新古53)

【通釈】散ってしまったので、今はもう匂いが残っているばかりなのに。梅の花びらがまだここにあると思ってか、私の袖に春風が吹いてくる。
【語釈】◇梅香留袖 梅の香、袖に留まる。
【補記】飽くまでも梅の花を散らそうとする心を持っているかのように、春風を擬人化している。
【補記】建仁元年(1201)三月十六日、通親亭影供歌合。三番右負。

   千五百番歌合に
あさ日かげにほへる山の桜花つれなく消えぬ雪かとぞ見る(新古98)

【通釈】朝日があたり、まばゆく照り映えている、山の桜。それを私は、平然と消えずにいる雪かと思って見るのだ。
【語釈】◇つれなく消えぬ 形容詞「つれなし」の原義は「然るべき反応がない」。雪は陽に当たれば消えるのが当然なのに、平然と消えずにいる、ということ。
【補記】「千五百番歌合」巻三、二百二十一番左持。俊成の判詞は「『あさひかげ』とおき、『つれなくきえぬ』と見ゆらむ風情いとをかしく侍るべし」。

   摂政太政大臣家百首歌合に
風わたるあさぢがすゑの露にだにやどりもはてぬよひの稲妻(新古377)

【通釈】浅茅の生える荒野を、風が吹きわたる宵――稲妻が閃き、茅(ちがや)の葉末の露にその光を宿した……と思う間もなく、露はこぼれ落ちてしまうのだ。
【語釈】◇やどりもはてぬ 宿りおおせることができない。「やどり」は「よひ」と縁語になる。
【補記】「六百番歌合」秋上、十八番左勝。

   同じ家にて、所の名をさぐりて冬歌よませ侍りけるに、伏見の里の雪を
夢かよふ道さへたえぬ呉竹のふしみの里の雪の下をれ(新古673)

【通釈】雪によって道が閉ざされてしまったが、その上、夢の往き来する道さえ途絶えてしまった。伏見の里で寝る夜、竹が雪の重さで折れる音に、眠りを破られて。
【語釈】◇同じ家 新古今集の一つ前の歌の詞書にある「摂政太政大臣」の家を指す。藤原(九条)良経家。◇所の名をさぐりて 籖(くじ)などで地名(歌枕)を選んで。◇ふしみ 京都の伏見。「臥し見」を掛ける。◇呉竹の 竹の節(ふし)に掛けて伏見を導く枕詞。◇雪の下をれ 雪の重みで枝が根もとの方から折れること。

   摂政太政大臣家に百首歌合し侍りけるに
さらでだに恨みんと思ふわぎも子が衣のすそに秋風ぞ吹く(新古1305)

【通釈】そうでなくても恨み言を言いたいと思っているあの子の衣の裾に、秋風が吹いて、衣の裏を見せる。私にすっかり飽きて、「裏見よ」と言っているみたいに。
【語釈】◇恨みん 衣の縁語「裏見」を掛ける。◇秋風 秋に飽きを掛ける。
【補記】「六百番歌合」恋六、寄風恋。十八番左勝。

   水無瀬の恋十五首の歌合に
物思はでただおほかたの露にだにぬるればぬるる秋のたもとを(新古1314)

【通釈】物思いをしなくても、秋は露っぽい季節なのだから、濡れるというなら、ちょっとそこいらの露にだって濡れる秋の袂なのに。まして恋をしている私の袂ときたら…。涙よ、そんなに濡らさなくてもいいだろう。
【語釈】◇ただおほかたの 単に普通の。全くありふれた。
【補記】建仁二年(1202)九月十三日、「水無瀬恋十五首歌合」。題は秋恋。十四番右勝。

   千五百番歌合に
春の雨のあまねき御代をたのむかな霜にかれゆく草葉もらすな(新古1478)

【通釈】春の雨が大地をあまねく潤すように、余すところなく恵みをたまわる御代に、おすがりしております。どうか、霜に枯れてゆく草葉のような私も、見落とすことなくご慈悲を下さい。
【語釈】◇御代 天皇の治める世。この場合、具体的には後鳥羽上皇の治世を指す。
【補記】千五百番歌合、千四百三十六番左勝。
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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十五) [光悦・宗達・素庵]

その十五  藤原家隆朝臣

鹿下絵七.JPG
「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の八「藤原家隆朝臣・藤原有家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)
鹿下絵和歌巻七の四(俊成女).jpg
「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(俊成女・家隆)」(MOA美術館蔵)
鹿下絵七の二.jpg
「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(家隆)」(MOA美術館蔵)

15 藤原家隆朝臣:有明の月待宿の袖の上に人だのめなるよゐの稲妻(MOA美術館蔵)
(釈文)守覚法親王五十首う多よま世侍介る尓
    藤原家隆朝臣 
有明濃月待宿乃袖の上尓人多のめなるよ井乃稲妻

(「藤原家隆」周辺メモ)

   守覚法親王、五十首歌よませ侍りけるに
有明の月待つ宿の袖の上に人だのめなる宵の稲妻(「新古今」376)
(歌意:夜明けの月を待っている宿のわたしの袖の上に、光を投げかけて、月の光かとそら頼みさせる、宵の稲妻よ。)(『日本古典文学全集26新古今和歌集(校注・訳 峯村文人)』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ietaka_t.html

藤原家隆 保元三~嘉禎三(1158-1237)

 良門流正二位権中納言清隆(白河院の近臣)の孫。正二位権中納言光隆の息子。兼輔の末裔であり、紫式部の祖父雅正の八代孫にあたる。母は太皇太后宮亮藤原実兼女(公卿補任)。但し尊卑分脈は母を参議藤原信通女とする。兄に雅隆がいる。子の隆祐・土御門院小宰相も著名歌人。寂蓮の聟となり、共に俊成の門弟になったという(井蛙抄)。
 安元元年(1175)、叙爵。同二年、侍従。阿波介・越中守を兼任したのち、建久四年(1193)正月、侍従を辞し、正五位下に叙される。同九年正月、上総介に遷る。正治三年(1201)正月、従四位下に昇り、元久二年(1205)正月、さらに従四位上に進む。同三年正月、宮内卿に任ぜられる。建保四年(1216)正月、従三位。承久二年(1220)三月、宮内卿を止め、正三位。嘉禎元年(1235)九月、従二位。同二年十二月二十三日、病により出家。法号は仏性。出家後は摂津四天王寺に入る。翌年四月九日、四天王寺別院で薨去。八十歳。

 家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。哥になりかへりたるさまに、かひがひしく、秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ」(後鳥羽院御口伝)。

 「風体たけたかく、やさしく艶あるさまにて、また昔おもひ出でらるるふしも侍り。末の世にありがたき程の事にや」(続歌仙落書)。

 「かの卿(引用者注:家隆のこと)、非重代の身なれども、よみくち、世のおぼえ人にすぐれて、新古今の撰者に加はり、重代の達者定家卿につがひてその名をのこせる、いみじき事なり。まことにや、後鳥羽院はじめて歌の道御沙汰ありける比、後京極殿(引用者注:九条良経を指す)に申し合せまゐらせられける時、かの殿奏せさせ給ひけるは、『家隆は末代の人丸にて候ふなり。彼が歌をまなばせ給ふべし』と申させ給ひける」(古今著聞集)。

 「家隆は詞ききて颯々としたる風骨をよまれし也。定家も執しおもはれけるにや、新勅撰には家隆の哥をおほく入れられ侍れば、家隆の集のやう也。但少し亡室の躰有て、子孫の久しかるまじき哥ざま也とて、おそれ給ひし也」(正徹物語)。

 「妖艷の彩を洗い落とした後の冷やかな覚醒、鬼拉の技の入り込む隙もない端正なしかもただならぬ詩法、それは俊成を師とした彼と、俊成を父とした定家の相肖つつ相分つ微妙な特質であった」(塚本邦雄『藤原俊成・藤原良経』)。


「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十三)

 ここから、鹿が描かれていない、和歌の揮毫だけの、藤原家隆と藤原有家との二首が続く。この家隆と有家とも、『新古今和歌集』の撰者である。

 後鳥羽院は、建仁元年(一二〇一)七月二十八日、「和歌所」を設置し、「寄人(よりうど)」(職員)として、「左大臣藤原良経・内大臣源通親・天台座主慈円・釈阿入道(藤原俊成)・源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・源具親・寂連の十一名を任命し(後に、藤原隆信・鴨長明・藤原秀能と藤原清範(異説あり)が追加される)、その「開闔(かいこう)」(書記役)として、源家長が任命された。
 そして、十一月三日、その十一名の寄人のうち、「源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・寂蓮」の六名に対して、上古以来の和歌を撰進せよという院宣が下され、寂蓮は、翌、建仁二年(一二〇二)七月に没しているので、撰進は寂蓮を除いた五名の撰者によって実施された。

 ここで、十一名の寄人を寸描的な評言で見ていくと、次のとおりである。

藤原良経→「左大臣」(朝廷の最高機関、太政官の長官で、太政大臣の次、右大臣の上。)

源通親→「内大臣」(初めは名誉称号であったが、のち、左右大臣を補佐し、権限は左右大臣に準ずる。)

慈円→「天台座主」(天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。)藤原忠通の子、九条兼実の弟、良経の叔父。

藤原俊成(釈阿)→九条兼実等が支援する「御子左家」の総帥。西行と双璧の大歌人。

藤原有家→「御子左家」と相対立する「六条藤家」に連なる歌人。俊成・定家とも親しい。

藤原定家→「御子左家」の俊成の子。父の指導を受けながら後鳥羽院歌壇で活躍。「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」の撰者となり、「小倉百人一首」も撰した。

藤原家隆→藤原定家と双璧の後鳥羽院歌壇の二大歌人。後鳥羽院と定家間には、晩年大きな確執があったが、家隆は、終始、後鳥羽院側にあった。

藤原雅経→蹴鞠の名手で「飛鳥井流」の一派を開き鎌倉に招かれていたが、後鳥羽院の懇望により帰朝し、俊成門だが後鳥羽院側近の歌人。

源具親→「内大臣」源通親の継嗣。「御子左家」俊成卿女の夫であったが、後に離別し、後鳥羽院歌壇にあっては、父の「通親」の名代を引き継いでいる。

寂連→俊成の養子、定家誕生に際し家督を譲り出家。諸国を行脚、歌道に精進し、「御子左家」の中心的歌人として活躍した。

 以上(有家から寂連まで)が、『新古今和歌集』の撰者である。

源具親→後鳥羽院の秘蔵子の女流歌人「宮内卿」の兄。鎌倉幕府二代執権・北条義時の三男・北条重時の娘を妻としている後鳥羽院側近の歌人の一人。

 以下(「藤原隆信・鴨長明・藤原秀能・藤原清範」の追加寄人)は、本来は続けるべきであろうが、ここでは略し、以後、必要な個所で触れていきたい。

 そして、藤原家隆については、この「鹿下絵和歌巻」のゴール地点(最終箇所)で、「西行・俊成そして定家・家隆」のような関連で再度言及して行きたい。
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