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「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十四) [光悦・宗達・素庵]

その二十四 橘為仲朝臣

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十二「堀河右大臣・橘為仲・藤原忠通」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(「橘為仲」シアトル美術館蔵)」)

24 橘為仲朝臣:あやなくてくもらぬよひをいとふ哉しのぶの里の秋の夜の月
(釈文)安や那久天具もならぬよひをいとふ哉し乃ぶ濃里能秋乃夜濃月

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   題しらず
あやなくもくもらぬ宵をいとふかな信夫の里の秋の夜の月(新古385)
【通釈】我ながらおかしなことだ。雲ひとつない宵を厭うなんて。秋の夜、信夫の里の月を眺めながら…。
【語釈】◇あやなくも 「あやなし」は道理に外れた・不合理な。◇信夫の里 旧陸奥国信夫郡。いまの福島市あたり。信夫山がある。「しのぶ(忍ぶ・偲ぶ)」を掛けることが多い。
【補記】普通なら「曇る宵」を厭うのだが、この作者は「曇らぬ宵」を厭うという。雲のかかった月の風情がまさるとしたか。憂鬱な心に月の光が明るすぎたのか。あるいは、晴れがましさに対する羞恥の感情であろうか。

橘為仲 生年未詳~応徳二(1085)
諸兄の裔。為義の孫。筑前守義通の子。母は信濃守挙直女。弟の資成も後拾遺集に歌を載せる歌人。
蔵人・陸奥守・左衛門権佐・太皇太后宮亮などを歴任し、正四位下に至る。
藤原範永らと共に和歌六人党の成員(『続古事談』)。後冷泉天皇皇后四条宮寛子や藤原頼通、橘俊綱のもとに出入りした。陸奥赴任の際は右大臣源師房から装束を賜わったという(『袋草紙』)。能因・相模らに師事し、源経信・良暹・四条宮下野・周防内侍ら多くの歌人と交友をもった。大弐三位との贈答歌もある。家集『橘為仲朝臣集』がある(以下「為仲集」と略)。後拾遺集初出。勅撰入集十二首。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十二)

http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu/waka-rokunintou/tamenaka-t.htm

(「橘為仲」年譜)

 長和3(1014)年、出生?
 長元8(1035)年5月16日、『賀陽院水閣歌合』にて方人を勤める
 長久3(1042)年閏9月晦日、高陽院で開催された歌合に参加
 永承2(1047)年12月1日、六位蔵人・式部少丞
 永承3(1048)年10月11日、五位?・駿河権守
 永承5(1050)年、淡路守赴任?
 天喜4(1056)年、これより以前  皇后宮少進
 康平2(1059)年、皇后宮大進?
 治暦2(1066)年1月14日、五位蔵人・左衛門権佐 『滝口本所歌合』出詠
 治暦3(1067)年1月5日、叙従四位下・蔵人去る
 延久元(1069)年、越後守赴任?
 延久4(1072)年、越後守任終(『朝野群載』第26)
 承保元(1074)年、これより以前に家集完成か
 承保2(1075)年秋、陸奥守赴任
 承保3(1076)年9月12日、陸奥守見任(『水左記』)
 承保4(1077)年正月、陸奥守見任(『後葉和歌集』巻九)
 承暦4(1080)年1月、陸奥守延任を許される?
 応徳2(1085)年10月21日、 没

 この年譜で顕著なのは、為仲が「駿河権守」・「淡路守」・「越後守」・「陸奥守」と「受領」(国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者、現在の「知事」)を歴任していることである。「駿河国」は「現在の静岡県中部」で「上国」の権守、「淡路国」は「現在の兵庫県淡路」で「下国」だが朝廷と関係の深い近国の守、「越後国」は「現在の「新潟県」で「上国」の守、そして、最後の任地の「陸奥国」は「現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県」で「大国」の守である。
 そして、その時代史的な背景は、道長の出家する寛仁三年(一〇一九)の「刀伊の入寇」(女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件)、さらに道長が没した万寿四年(一〇二七))の翌年に起きた東国(安房・下総・常陸)の「平忠常の叛乱」、そして、永承五年(一〇五〇)の翌年に勃発した「前九年の役」(奥州陸奥国などの戦乱)など、藤原氏を中心とする摂関政治は下降線の一途を辿り、変って、「院政」(天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治)そして「武家」の台頭へと時代は推移して行くことが、その背景となっている。
 そもそも、橘為仲の「橘家」は、いわゆる、「源平藤橘」(日本における貴種名族の四つ、源氏・平氏・藤原氏・橘氏)の名家の出で、元明天皇から「橘宿禰」の氏姓を賜り、後に後に「橘朝臣」を姓としている。
 為仲の祖父・為義は藤原道長の家司であり、道長の娘・彰子の皇太后宮大進を務めた人物。また、父・義通は後一条天皇の「乳母子」であるという間柄から、天皇の近臣として仕えている。
 為仲も、道長の嫡男・頼通に近従し、頼通の実娘である寛子の太皇太后亮を務めた。祖父も父も優秀な歌人であり、為仲も、後朱雀~後冷泉天皇時代に活躍した歌人集団である「和歌六人党」の一人に数えられている。
 その「和歌六人党」のメンバーは、次のようである。

藤原範永(受領層歌人の重鎮。「摂津・紀伊守」など。「新古今」三首入集。)
藤原経衡(「大和、筑前守」など。後三条天皇の大嘗会和歌の作者。)
源頼家(「備中・筑前守」など。『袋草紙』に「頼家と為仲」との確執の記事有り。)
源兼長(「備前・讃岐守」など。『袋草紙』に「高倉一宮歌合」の記事有り。)
源頼実(五位蔵人任官、従五位下左衛門尉。叔父頼家、弟頼綱も勅撰集歌人。)
平棟仲(「因幡守・周防守」など。娘に歌人の周防内侍がいる。)
橘義清(「肥後守・勘解由次官」など。橘為仲の兄。)
橘為仲(「駿河・淡路・越後・陸奥守」を歴任。能因、相模らに師事し、経信、兼房、良暹、素意、四条宮下野、周防内侍らと親交を持った。「新古今」二首入集。)

 この「和歌六人党」の中心的な人物の「藤原範永」の『新古今和歌集』入集句のうちの「月の歌」は、次の一首である。

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/norinaga.html

    月を見て遣はしける
見る人の袖をぞしぼる秋の夜は月にいかなる影かそふらむ(新古409)
【通釈】秋、夜空を見上げていると、袖は涙に濡れ、しぼらなければならないほどです。月にどんな面影がだぶってくるからでしょうか。貴女の面影が重なるのです。
【語釈】◇見る人 秋の夜空の月を見る人。自分のことをぼやかして言っている。
【補記】相模に贈った歌。相模の返しは、「身にそへる影とこそ見れ秋の月袖にうつらぬ折しなければ」(大意:秋の月を、身に添って離れない貴男の面影と見ているのです。いつも涙に濡れた袖には月の光が映っているので)。恋歌の贈答のように見えるが、新古今集では秋歌の部に収め、恋歌めかして秋の夜の情緒を詠み交わした歌としている。
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