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「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十三) [光悦・宗達・素庵]

その二十三 堀川右大臣

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十二「堀河右大臣・橘為仲・藤原忠通」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(堀河院・堀河右大臣」(シアトル美術館蔵)

23 堀河右大臣:人よりも心の限詠(ながめ)つる月は誰共わかじ物故
(釈文)題不知
人よ利も心濃限詠徒る月盤誰共わ可じ物故

題しらず
人よりも心のかぎりながめつる月はたれとも分かじものゆゑ(新古384)
【通釈】誰よりも深く、心を尽して月を眺めたよ。月の方では、見ているのが誰だろうと、区別などしないだろうに。

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藤原頼宗  正暦四~治暦一(993-1065) 号:堀河右大臣

道長の次男。母は源高明女、高松殿明子(盛明親王の養女)。関白頼通・上東門院彰子の弟。権大納言能信・関白教通・権大納言長家らの兄。子に右大臣俊家・内大臣能長・後朱雀天皇女御延子ほかがいる。
寛弘元年(1004)十二月、元服し従五位上に叙せられる。長和三年(1014)、権中納言。治安元年(1021)七月、権大納言。同年八月、春宮大夫を兼ねる。寛徳二年(1045)正月、後冷泉天皇の践祚により春宮大夫を止められ、同年十一月、右大将を兼ねる。永承二年(1047)八月、内大臣となり、康平元年(1058)正月、従一位に叙せられる。同三年(1060)七月、右大臣に至るが、治暦元年(1065)正月、病により出家した。同年二月三日、薨ず。七十三歳。
『続古事談』によれば公任に次ぐ歌人と自負していたという。長元八年(1035)の「関白左大臣頼通歌合」、「永承四年内裏歌合」、永承五年(1050)の「麗景殿女御延子歌絵合」などに出詠。特に長久二年(1041)の公任薨後は歌壇の指導者として活躍し、「永承五年六月五日賀陽院歌合」、「永承六年五月五日内裏根合」、天喜四年(1056)の「皇后宮寛子春秋歌合」で判者を務めた。大弐三位・小式部内侍ら女流歌人を愛人としたらしい。家集『入道右大臣集』がある。後拾遺集初出。勅撰入集は四十一首(金葉集は二度本で数える)。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十一)

 堀河右大臣(藤原頼宗)は、「藤氏長者(とうしのちょうじゃ)」(藤原氏一族の全体の氏長者)として摂関政治の頂点を極めた藤原道長の次男である。藤原道長は、その外孫に当たる三代の天皇(後一条・後朱雀・後冷泉天皇)に亘り、その長男の頼通は早くして摂政・関白となり、この道長・頼道の体制は、道長死亡後も続き、実に約半世紀に亘り実権を握り続ける。その藤原氏全盛時代の象徴が、今に遺る頼通が造営した平等院鳳凰堂である。

此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思へば(藤原道長「小右記」)
(歌意: 今の世は、我が一族の世であることよ。それは丁度、今宵の満月が欠けることなく満ち足りていることと同じであることよ。 )

 この歌が収載されている「小右記」は、長い詞書があって、「今日、女御藤原威子を以て、皇后に立つるの日なり」とあり、「寛仁二年(一〇一八)十月十六日の記事」で、「威子の立后は道長が三后(皇后・皇太后・太皇太后)をすべて我が娘で占めるという前代未聞の偉業の達成」の日に因んでのもののようである。この時に、道長、五十三歳の時で、その翌年に出家し、以後、持病(糖尿病)の悪化と共に、万寿四年(一〇二七) に、その六十二年の生涯を閉じることとなる。
この 「三后=一家三后=皇后(藤原威子)・皇太后(藤原妍子)・太皇太后(藤原彰子)
の、この「皇后(藤原威子)・皇太后(藤原妍子)・太皇太后(藤原彰子)」は、全てが藤原道長の娘であり、当時の天皇家は、この「天皇の母方・三后の父・藤原道長」が掌中にしたということを意味する。

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 祐子内親王家に歌合し侍りけるに、歌合などはててのち、
  人々おなじ題をよみ侍りけるに
有明の月だにあれやほととぎすただ一声のゆくかたも見む(藤原頼通「後拾遺192」)
【通釈】暁闇の中、ほととぎすが鳴いて、たちまち飛び去ってしまった。せめて空に有明の月が出ていたらなあ。たった一声鳴き捨てて去って行く方を、見送ることもできように。
【語釈】◇祐子内親王 後朱雀天皇第三皇女、高倉一宮と号す。母は中宮嫄子で、すなわち頼通の孫にあたる。◇有明の月 普通、陰暦二十日以降の月。月の出は遅く、明け方まで空に残る。
【補記】永承五年(一〇五〇)六月五日、頼通の賀陽院において、祐子内親王の名で主催された歌合のあと、「郭公(ほととぎす)」の題で詠んだ歌

 この道長の長男・頼通の歌の「永禄五年(一〇五〇)」当時には、「藤氏長者」の頂点を極めた藤原道長は既に他界(万寿四年(一〇二七))していて、その死後から三十年近い後の作ということになる。
 そして、道長の出家する寛仁三年(一〇一九)の「刀伊の入寇」(女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件)、さらに道長が没した万寿四年(一〇二七))の翌年に起きた東国(安房・下総・常陸)の「平忠常の叛乱」、そして、この頼通の歌が詠われた永承五年(一〇五〇)の翌年に勃発した「前九年の役」(奥州陸奥国などの戦乱)など、藤原氏を中心とする摂関政治は下降線の一途を辿り、変って、「院政」(天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治)そして「武家」の台頭へと時代は推移して行くこととなる。
 この頼通の歌には、もはや、栄華を極めた道長の「望月」は姿を消して、「有明の月だにあれや」(明け方の朝の月も姿を消して)、「ほととぎすただ一声のゆくかたも見む」(暁闇の中で、けたましく一声をあげた「ほととぎす」の影すら見られない)と、何とも、道長の「望月」の歌に比して、「姿を消して有明の月」と姿を変じていることは、実に象徴的である。
 ここで、冒頭の堀河右大臣(藤原頼宗)の「月の歌」を観賞したい。

人よりも心のかぎりながめつる月はたれとも分かじものゆゑ(藤原頼宗「新古384」)

 道長の「満月の歌」、そして、その嫡子(長男)・頼通の「有明の月」に続けて、この頼宗(道長の次男、頼通の弟)の、この「月」は、道長一族(道長の子女)の、それぞれの数奇な行く末を暗示するような、そんな陰影を色濃く宿している雰囲気を有している。
 月齢ですると、「望月」(道長=陰暦八月十五日の満月)、「有明月」(頼通=残月)、そして、「頼宗=立待月・居待月・臥待月・更待月」と「下弦の月」へと移行して行く月ということになろう。
 そして、この歌は、「月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど」(大江千里「古今193」)の本歌取りの歌とされ、下記のアドレスに、この歌に連なる「主な派生歌」が記されている。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tisato#AT

 その中に、藤原氏の摂関政治の後の、「院政」の最後を飾る隠岐に配流された帝王「後鳥羽院」の、次の歌も記されている。

月かげをわが身ひとつとながむれば千々にくだくる萩のうへの露(後鳥羽院)

 さらに、「道長・彰子・頼通・頼宗」などが「彰子サロン」を代表する女流作家・紫式部の『源氏物語』の中で、どのように登場しているかについて、次のアドレス(「頼宗の居る風景―『小右記』の一場面―」)に、その背景などが記述されている。

file:///C:/Users/yahan/AppData/Local/Packages/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bbwe/TempState/Downloads/KJ00008913779%20(1).pdf

(参考:「藤原道長」の子女)

※藤原彰子(道長の長女)=第六六代天皇・一条天皇の皇后(中宮)。後一条天皇、後朱雀天皇の生母(国母)。
(「彰子サロン」=『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、紫式部の娘で歌人の越後弁(のちの大弐三位。後冷泉天皇の乳母)、そして、「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一首が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成していた。)
藤原頼通(道長の長男)=平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。道長の嫡子。
藤原頼宗(道長の次男)=平安時代中期の公卿・歌人。官位は従一位・右大臣。堀河右大臣と号す。
※藤原妍子(道長の次女)=第六七代天皇・三条天皇の皇后(中宮)。
藤原顕信(道長の三男)=平安時代中期の貴族・僧。官位は従四位下・右馬頭。
藤原能信(道長の四男)=平安時代中期の公卿・歌人。官位は正二位・権大納言、贈正一位、太政大臣。
藤原教通(道長の五男)=平安時代中期から後期にかけての公卿。官位は従一位・関白、太政大臣、贈正一位。
藤原寛子(道長の三女)=敦明親王(小一条院)妃、別名高松殿女御。
※藤原威子(道長の四女)=第六八代後一条天皇中宮、別名大中宮。
藤原尊子(道長の五女)=道長の娘で「たゞ人」(非皇族・非公卿)頼通の猶子源師房と婚姻。源師房は藤原氏と摂関の地位を争う立場にはない村上源氏の一族。
藤原長家(道長の六男)=官位は正二位・権大納言。御子左家の祖。後に道長の嫡妻源倫子の養子となる。
※藤原嬉子(道長の六女)=第六九代後朱雀天皇の東宮妃、第七十代後冷泉天皇生母。贈皇太后。
藤原長信(道長の七男)=平安時代中期の真言宗の僧侶(権僧正)。通称は池辺僧正。東寺と真言宗全体の長である第二十九代東寺長者。
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