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醍醐寺などでの宗達(その十四・「松島図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十四 「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「松島図屏風 (宗達筆)」(その一)

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宗達筆「松島図屏風」(右隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五二・〇×三五五・七cm
フリーア美術館蔵

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宗達筆「松島図屏風」(左隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五二・〇×三五五・七cm
フリーア美術館蔵

 嘗て、下記のアドレスで「フリーア美術館逍遥」と題し、次のように紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-16-1

(再掲)

【《六曲一双の長大な画面を使い、右隻に海中に屹立する二つの岩、左隻には磯の浜松と波に洗われる小島を添える。左右の画面は砂浜と波によって連携する。松島は古来名所絵として描かれたが、このような大画面に展開、壮観な装飾画として成功させた宗達の手腕はみごとというべきか。千変万化の波の描写が素晴らしく、海潮音が聞こえてくるようだ。》 
(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)》

(特記事項)「松島」と題されているが、名所松島の風景ではなく、依頼主である豪商谷正安が堺に祥雲寺を建てた記念に自分の道号「海岸」のイメージを絵画化させたものである、という仲町啓子氏の研究がある。(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)

Waves at Matsushima 松島図屏風
Type Screens (six-panel)
Maker(s) Artist: Tawaraya Sōtatsu 俵屋宗達 (fl. ca. 1600-1643)
Historical period(s) Edo period, 17th century
Medium Ink, color, gold, and silver on paper
Dimension(s) H x W (overall [each]): 166 x 369.9 cm (65 3/8 x 145 5/8 in)

http://archive.asia.si.edu/sotatsu/about-jp.asp

Sōtatsu: Making Waves

俵屋宗達と雅の系譜

会期 2015年10月24日-2016年1月31日
開催場 アーサー M. サックラー美術館
(English version)
日本絵画とデザインに強烈なインパクトをあたえた江戸時代初期の天才絵師・俵屋宗達(1570年頃-1640年頃)。日本国外では初めてとなる大規模な宗達の展覧会が、米国首都ワシントンDCで2015年10月24日-2016年1月31日に開催されます。
世界最大の博物館群として知られるスミソニアンの一部で、アジア美術を専門とするフリーア美術館。国宝級の「松島図屏風」「雲龍図屏風」など、宗達の傑作品を所蔵しています。隣接のサックラー美術館を会場として、世界各国より70点以上の作品を集めて展示し、京都を中心に活躍した宗達の雅な世界を蘇らせます。
きらびやかな金銀泥と極色彩を用い、大胆に抽象化された絵画空間をみせる宗達作品は、日本美術史の中でも際立った存在です。しかし、宗達の生涯は生没年の記録もないほど未だ多くの謎に包まれています。京都の町衆階層の出身であり市井の紙屋の主人であった宗達が、どのような過程を経て上層貴族階級にネットワーク・交流を持ちその洗練されたセンスを取り入れ数多くの斬新なデザインを生み出すに至ったのか、まだ不明な点が多く残されています。
本展覧会では、日本を始めアメリカ・ヨーロッパの著名なコレクションより70点以上の作品を一堂に会し、屏風、扇面、色紙、和歌巻き、掛け軸などの展示を通して宗達を検証します。宗達の作風を追随した江戸時代中後期の作品も含まれ長期に渡る宗達芸術の継承が示唆されます。さらに明治時代以降の画家たちの作品も併せて展示され、時代を超える宗達スタイル伝播の理解においても画期的な企画といえます。
最大の見所である「松島図屏風」と「雲龍図屏風」は、19世紀末にフリーア美術館の創立者チャールズ・L・フリーア(1854-1919)により蒐集されました。先見あるコレクターであったフリーアは、俵屋宗達及び宗達と書画の合作を行った本阿弥光悦 (1558-1637)の名を、海外に知らしめたとされています。フリーアの遺言により所蔵品が館外貸出は禁じられました。本展覧会は門外不出となった宗達代表作品と各国に分散する宗達筆及び宗達派作品が一度に堪能できる絶好の機会です。
本展覧会はスミソニアン研究機構フリーア/サックラー美術館と国際交流基金 (Japan Foundation)の共催により開催されます。2015年秋には展覧会のフル・カラー図録出版が予定されており、執筆者は下記の通りです。
仲町啓子(実践女子大学)奥平俊六(大阪大学)古田亮(東京藝術大学美術館)
野口剛(根津美術館)大田彩(宮内庁三の丸尚三館)
ユキオ・リピット(ハーバード大学)ジェームス・ユーラック(フリーア美術館)

宗達の重要性

17世紀初頭、宗達は扇面や料紙などを手がける京中で話題の紙屋を営んでいましたが、その時期日本の社会は大きな変貌を遂げようとしていました。権力の中心が宮廷・公卿から幕府・武士階級へと移り、彼らは文化エリートの仲間入りをすべく装飾画を求めました。広がる受容層に答え、宗達は独創的な画面構成に実験的な技法を駆使し憧憬の王朝美に新しい時代の息を吹き込みました。
革新的ともいえる宗達のデザインに後世代の画業が加わり、やがて造形芸術における一つの流れとして「琳派」と呼ばれるようになりました。江戸時代後期の画家・尾形光琳(1658-1716)の名の一字に由来していますが、実は光琳よりも以前に宗達および光悦が確立した流れなのです。実際、琳派様式の要である「たらし込み」は、宗達が創案したものです。まだ水気残る地に墨や顔料を再度含ませ、にじみによる偶然の効果をねらった技法です。例えば花びらや水流などのデリケートな描写に予期せぬニュアンスをもたらします。
宗達が日本美術にもたらした影響は過小評価できません。17世紀に宗達を祖とした「琳派」は19世紀末に美術流派として定着し20世紀初頭まで引き継がれ、西洋ではある意味においては日本文化の粋そのものと認識されるようになりました。1913年に東京で初めて宗達を紹介する展覧会が開かれましたが、それは美術界に大きな波紋を投げ新世代の画家たちを深く感化しました。宗達のデザインはまたアール・デコ派、クリムトやマチスなどの西洋の巨匠らの作品にも呼応し、現代の眼にも近世的に映ります。
1615年に本阿弥光悦が徳川家康より京都洛北の鷹峰の土地を拝領し、そこに芸術村を作ったのを琳派発祥の年とすると、2015年は琳派が誕生してから四世紀ということになり、只今日本では文化人たちの間で「琳派400年記念祭」が呼びかけられています。数多くの琳派関連のイベント・シンポジウムなどが企画される中、国際的なコラボレーションにより可能となった本展覧会は、一つのハイライトとなることが期待されます。  】

 現在、フリーア美術館所蔵となっている、この「松島図屏風」(宗達筆)を、前回に紹介した、下記の「醍醐寺 三宝院庭園」(醍醐寺三宝院の「居住空間」)に展示した場合、どのようなイメージになるのか、そんな「バーチャル(架空)空間」での「松島図屏風 (宗達筆)」を鑑賞したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

醍醐寺三宝院・庭.jpg

C図「醍醐寺 三宝院庭園」
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin
【 醍醐寺 三宝院庭園の由来
醍醐寺は平安前期(874年)に創建され、平安後期(1115年)に醍醐寺の本坊的な存在として三宝院が創建される。三宝院のほぼ全ての建物が重要文化財指定である。庭園は安土桃山時代(1598年)に豊臣秀吉が基本設計を行い、小堀遠州の弟子でもある作庭家・賢庭(けんてい)らによって造園。約30年後の1624年に完成するが、秀吉は設計翌年に亡くなっている。昭和27年(1952)に特別名勝と特別史跡の指定、平成6年(1994)には「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録。
※「➄唐門」と「⑥表書院」は国宝、「①玄関 ②葵の間 ③秋草の間 ④勅使の間 ⑬純浄観 ⑭奥宸殿 ⑮本堂」は重要文化財となっている。そして、この庭園は、特別名勝と特別史跡で、全国に八つしかなく、京都では「天龍寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈恩寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院庭園」の四つだけである。 】

 上記の「⑥表書院 ②葵の間 ③秋草の間 ④勅使の間 ⑬純浄観 ⑭奥宸殿 ⑮本堂」の何処に展示するかによって、それぞれイメージが異なってくるが、「⑥表書院 ⑬純浄観
⑮本堂」に絞って、やはり、国宝の「⑥表書院」(庭に面して建っている表書院は、書院といっても縁側に勾欄をめぐらし、西南隅に泉殿が作りつけてあり、平安時代の寝殿造りの様式を取り入れたユニークな建築で、下段・中段・上段の間があります。下段の間は別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、畳をあげると能舞台になります。中段の間、上段の間は下段の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から見下ろせるようになっています。)が、一番落ち着くであろう。

松島図屏風.jpg

綴プロジェクト作品(高精細複製品)「松島図屏風」(俵屋宗達筆) 寄贈先:堺・祥雲寺
(紙本金地着色 六曲一双 各一五二・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵)
https://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/vol-01.html

 この「右隻」には、「海中に屹立する二つの岩」(「荒磯の岩」=「東海の荒磯に浮かぶ蓬莱山」=「荒磯と蓬莱山を象徴する亀島・鶴島」)、そして、「左隻」には、「磯の浜松と波に洗われる小島」(「磯の浜松」=「右隻から左隻にかけての州浜と松」と「波に洗われる小島」=「祝儀の席に飾った鶴亀などの作り物を配した州浜台のような小島」)が描かれている。
 この「蓬莱山」は、中国の神仙思想にあらわれる仙人の住む霊山のことで、この「蓬莱山」は、「松に鶴,亀の島」といった古来吉慶祝儀をあらわすようになり、それが「鶴島(鶴石)と亀島(亀石)」、その両方を配置した庭園を、桃山時代から江戸時代にかけて「鶴亀の庭園」として隆盛を極めていくことになる。
 そして「州浜」も「州浜の浄土」として、「彼岸(浄土)」と「此岸(現世)」とを隔てる、「荒磯」と対局をなす海の表象としての「州浜」ということで、古来「作庭」上の重要な「玉石や五郎太石を敷き並べた護岸手法」の一つなのである。
 これらの「蓬莱山・鶴島(鶴石)・亀島(亀石)・州浜」、そして、この宗達の「松島図屏風」の「松島」(特定の名勝地を模写縮小した象徴的な庭=縮景庭)などの「作庭」上の用語が、醍醐寺座主の義円の日記(『義円准后日記』)の中に、かなり詳しく記されているようなのである。

【 醍醐寺三宝院 『義円准后日記』より。蓬莱島、松島については、慶長三年五月九日条に、「成身院庭梅門跡の泉水蓬莱島島ヘ渡之了」。慶長五年正月二十六日条に「泉水蓬莱島払除仰付了」。同年二月三日条「松島ノ末申角ノ小橋懸之」。慶長六年十二月二十七日条「彼岸 八重日 桜予続之今一本ハ蓬莱の島ニ続之」。慶長二十年九月十五日条「松島ノ松与桜ノ根痛ニ依テ島ヲ広ク作レリ」。この慶長二十年には大規模に白砂を運び入れ、石を立て直す庭普請のありさまが具体的にわかる。 】(『絵は語る9松島図屏風(太田昌子著)』p109)

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https://www.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NP031/NP031.html
「紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)」(重要文化財) 一基 各 一四四・五×一六九・〇㎝ (醍醐寺蔵)

【 もと醍醐寺無量寿院の床の壁に貼られてあったもので、損傷を防ぐため壁から剥がされ衝立に改装された。左右(現在は裏表)に三羽ずつの鴨が芦の間からいずれも右へ向かって今しも飛び立った瞬間をとらえて描く。広い紙面を墨一色で描き上げた簡素、素朴な画面であるが、墨色、筆致を存分に生かして味わい深い一作としている。無量寿院本坊は元和八年(一六二二)の建立、絵もその頃の制作かと思われる。  】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

 この醍醐寺蔵の宗達の水墨画「芦鴨図」(二曲衝立)については、下記のアドレスで触れているが、元和八年(一六二二)の頃の作である。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

【 「宗達周辺年表」(『宗達(村重寧著・三彩社)』所収))の「元和八年(一六二二)」の項に「醍醐寺無量寿院本坊建つ(芦鴨図この頃か)/このころ京都で俵屋の絵扇もてはやされる(竹斎)」とある。
 この時、本阿弥光悦(永禄元年=一五五八生れ)、六十五歳、俵屋宗達は生没年未詳だが、
光悦より十歳程度若いとすると(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)、五十五歳?の頃となる。
 当時、光悦は、元和元年(一六一五)に徳川家康より拝領した洛北鷹が峰の光悦町を営み、その一角の大虚庵(太虚庵とも)を主たる本拠地としている。一方の、宗達が何処に住んでいたかは、これまた全くの未詳ということで確かなことは分からない。】

関屋澪標図屏風.jpg

関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝 静嘉堂文庫美術館蔵
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html

【俵屋宗達(生没年未詳)は、慶長~寛永期(1596~1644)の京都で活躍した絵師で、尾形光琳、酒井抱一へと続く琳派の祖として知られる。宗達は京都の富裕な上層町衆や公家に支持され、当時の古典復興の気運の中で、優雅な王朝時代の美意識を見事によみがえらせていった。『源氏物語』第十四帖「澪標」と第十六帖「関屋」を題材とした本作は、宗達の作品中、国宝に指定される3点のうちの1つ。直線と曲線を見事に使いわけた大胆な画面構成、緑と白を主調とした巧みな色づかい、古絵巻の図様からの引用など、宗達画の魅力を存分に伝える傑作である。寛永8年(1631)に京都の名刹・醍醐寺に納められたと考えられ、明治29年(1896)頃、岩﨑彌之助による寄進の返礼として、同寺より岩﨑家に贈られたものである。】

 この現在、静嘉堂文庫美術館蔵の宗達の「関屋澪標図屏風」(六曲一双)は、寛永八年(一六三一)に、醍醐寺三宝院に納められたものであることなどについては、下記のアドレスで触れたところである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-02-14

【寛永八年(一六三二)時、この屏風の注文主の、醍醐寺三宝院の門跡・覚定((1607-1661))は、二十五歳の頃であった。
 その覚定の『寛永日々記』の「源氏物語屏風壱双 宗達筆 判金一枚也 今日出来、結構成事也」(九月十三日条)の、この「結構成事也」について、「第十四帖『澪標』ならば住吉、第十六帖『関屋』ならば逢坂の関という野外を舞台とした絵画化が可能となる。さらに、この二帖を一双の屏風で描いた場合、海と山で対比が作れる。また、前者は明石君、後者は空蝉に源氏が偶然出会うという共通点もある。くわえて、この二帖は不遇な時期を乗り越え、源氏が都に返り咲いた時期の話で申し分がない。源氏の年齢設定も当時の覚定の年齢に近い」と指摘している(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p54~)。】

 これらの、宗達の醍醐寺関連の作品の、元和八年(一六二二)の「芦鴨図」(二曲衝立)から、寛永八年(一六三一)の「関屋澪標図屏風」(六曲一双)までの、その十年弱の時代の、醍醐寺三宝院の門跡は、「32義演(1558-1626):醍醐寺中興。醍醐寺座主80世。関白三条晴良の子。金剛輪院を再興し、三宝院と称す。大伝法院座主。東寺長者。豊臣秀吉の帰依を受ける。後七日御修法を復興」と「33覚定(1607-1661):鷹司信房の子。醍醐寺座主81世」1607-1661):鷹司信房の子。醍醐寺座主81世」との二代にわたるということになる。
 この「松島図屏風」の右隻には、「法橋宗達」の署名と「対青」の朱文円印、左隻には「対青」印が押印してある。宗達の法橋になったのは、寛永七年(一六三〇)の「西行物語絵巻奥書」前後の頃で、寛永十六年(一六三九)には、「八月、俵屋宗雪、堺養寿寺の杉戸絵を描く(戦災で焼失)」とあり、この寛永十六年(一六三九)前後の、宗達の晩年の作品のようにも解せられる。
 いずれにしろ、宗達の、この「松島図屏風」は、堺の祥雲寺に伝存していた作品としても、醍醐寺三宝院門跡・義演(醍醐寺座主八〇世)、そして、覚定(醍醐寺座主八〇世)時代の「醍醐寺 三宝院庭園」(C図)の「蓬莱石組・鶴島・亀島・賀茂三石周辺の州浜・地水(荒磯)・須弥山石組」などから、大きな示唆を享受していることは、想像するに難くない。

三宝院庭園.jpg

「醍醐寺 三宝院庭園」(鶴島・亀島=蓬莱山=松島の縮景)
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin
【亀島の右手には鶴島を配している。松の麓には鶴の羽に見立てた鶴羽石を据えている。分かりやすいように赤色のラインで示している。そして左手に今にも折れそうな華奢な石橋がある。これが鶴の首に見立てた鶴首石(かくしゅせき)となり、全体として「躍動感」を表現している。】

松島一.jpg

宗達筆「松島図屏風」(右隻)=「右手の島=鶴島」・「左手の島=亀島」→「荒磯に浮かぶ蓬莱山」=「日本三景の景勝地・陸前の松島の縮景」

三宝院・賀茂三石.jpg

「醍醐寺 三宝院庭園」(「枯山水」=「州浜」と「賀茂の三石」(左手の石=「流れの早い様子」・中央の石=「淀んだ様子」・右手の石=「水が砕けて散る様子」)
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin

松島二.jpg

宗達筆「松島図屏風」(左隻)=「州浜の浄土」(砂州の浜松)と「州浜台(島台)の島」=「日本三景の景勝地・陸前の松島の縮景」

「醍醐寺 三宝院庭園」では、この「賀茂の三石」に続いて石張りの「州浜」が「滝石組」の方まで続いている。そして、宗達筆「松島図屏風」(右隻)の、この左手の異様な形状をした「州浜台(島台)」の島(州浜)」の、「州浜台(島台)」は下記のようなものである。

州浜台.jpg
州浜台(島台)=「州浜」の形状にならった島台(しまだい)の作りもの。蓬莱山や木石、花鳥など、その時々の景物を設けたもの。饗宴などの飾り物とする。
https://kotobank.jp/word/%E5%B7%9E%E6%B5%9C%E3%83%BB%E6%B4%B2%E6%B5%9C-300372

(参考一) 《「堺・祥雲寺」関連》

http://www.ies-group.net/shounji/yurai.html

【山号を龍谷山、俗称松の寺といい、豪商谷正安を開基、沢庵宗彭を開山とする。
 徳川時代の初め、沢庵に帰依する正安は、夭折した子供の菩提のため寺院創建を発願した。だがそのころ、新地での寺院建立は法で禁じられていた。折しも大坂夏の陣(元和元年=1615)で焼失した南宗寺の復興に尽力していた沢庵は、同じく夏の陣で焼失した海会寺を南宗寺山内に移転再建し、その跡地に新寺を建立することにした。寛永2年(1625)から同5年にかけて正安は海会寺跡地に方丈、庫裡などを造営、瑞泉寺と号して沢庵を勧請開山に迎えた。これに伴い南宗寺と法類の縁が結ばれた。その後、同9年に祥雲庵、同16年に祥雲寺と寺号を改めた。 】

(参考二) 《「谷正安・沢庵宗彭・今井宗久」そして「堺ゆかりの人々」関連》

https://www.sakai-tcb.or.jp/about-sakai/great-person/other.html

【谷正安(たにしょうあん)天正十七年~正保元年(1589~1644)
堺の商人で沢庵和尚に帰依し、寛永五年(1628)沢庵を開山にして、海会寺跡に祥雲寺を創建したのち出家し仏門に入りました。祥雲寺は戦災で焼けましたが、枯山水の庭は大阪府の指定文化財になっています。

沢庵宗彭(たくあんそうほう)天正元年~正保二年(1573~1645)
但馬出身の僧で慶長十二年(1607)南宗寺十二世、同十四年大徳寺百五十三世となりました。元名兵火後、南宗寺を復興し祥雲寺も開山しました。その後たびたび堺を訪れ教化に努めるとともに、書画・俳諧・茶道に通じていました。

武野紹鷗(たけのじょうおう)文亀二年~弘治元年(1502~1555)
大和出身の茶人・豪商で後に堺に移り住みました。上洛して三条西実隆に和歌を、宗陳・宗悟らに茶の湯を学びました。堺に帰ってからは北向道陳らと交友し、南宗寺の大林宗套に参禅して一閑居士の号を許されました。
茶道においては茶禅一味のわび茶を説き、茶道勃興期の指導者として今井宗久や千利休をはじめとする多くの門人に大きな影響を与えました。

津田宗及(つだそうぎゅう)天正十九年(1591)没
堺の茶人・豪商で堺の会合衆・天王寺屋に生まれ、父・津田宗達に茶の湯を学びました。今井宗久、千利休とともに信長に仕え、その後は秀吉の茶頭として三千石を得ました。家には多数の名器を持ち、茶会に関する逸話も多くあります。

今井宗久(いまいそうきゅう)永正十七年~文禄二年(1520~1593)
大和出身の茶人・豪商。堺に来て茶の湯を武野紹鷗に学び、女婿となりました。商才を発揮して信長に接近し摂津五ヶ庄、生野銀山の代官職などを歴任しました。千利休、津田宗及とともに信長・秀吉に仕え茶の三大宗匠といわれました

山上宗二(やまのうえそうじ)天文十三年~天正十八年(1544~1590)
堺の茶人・商人で千利休から茶の湯を学び、利休や津田宗及とともに秀吉の茶頭もつとめました。利休から学んだ茶の湯の秘伝を含む、茶の湯生活三十年の覚書を残した「山上宗二記」は、茶道研究において一、二を争う資料となっています。

高三隆達(たかさぶりゅうたつ)大永七年~慶長十六年(1527~1611)
堺顕本寺の子坊、高三坊の第一祖で、還俗して高三家に復帰しました。天性の美音で僧として学んだ声明、諷誦をはじめ各種の音曲に精通し小唄「隆達節」を創出しました。
これは室町時代の「閑吟集」の流れを汲むもので、江戸時代に登場する様々な音曲へとつながる、重要な役割を持ったものです。】

(参考三) 《 「堺・養寿寺」周辺 》

https://japan-geographic.tv/osaka/sakai-yojuji.html

【 永禄10年(1567)9月に、千利休・津田宗及とともに三宗匠の一人と言われた今井宗久の兄秀光が、当地に屋敷を建てたものを、寛永13年(1636)に、今井宗円が即明院日相上人(宗円の甥)を開山として、今井家一門の菩提を弔うため寺院に改めたものです。
 当寺の建物及び寺宝等は第二次大戦ですべて焼失しましたが、永禄10年頃に作られたものといわれる庭の石組が現存します。この庭は、室町様式を伝える桃山初期の書院式枯山水で、正面には亀島、その左には低く鶴島を設け、右の方にも集団の石組を設けた三集団の庭園であると伝えられており、当寺の庭園の様子がうかがうことができる石組が保存されています。
 境内には今井宗薫の五輪塔があり、「天外宗薫、宝永4年(1707)4月11日」と刻しています。 】

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