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「源氏物語画帖(その七)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

7 紅葉賀(光吉筆)=(詞)大覚寺空性 (一五七三~一六五〇)源氏18歳秋-19歳秋

紅葉賀・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 紅葉賀  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/533341/2

紅葉賀・詞.jpg

源氏物語絵色紙帖 紅葉賀  詞・大覚寺空性
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/533341/1

(「大覚寺空性」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/08/%E7%B4%85%E8%91%89%E8%B3%80%E3%83%BB%E7%B4%85%E8%91%89%E3%81%AE%E8%B3%80_%E3%82%82%E3%81%BF%E3%81%98%E3%81%AE%E3%81%8C%E3%83%BB%E3%82%82%E3%81%BF%E3%81%A2%E3%81%AE%E3%81%8C%E3%80%90%E6%BA%90

うち笑みたまへる、いとめでたう愛敬づきたまへり。いつしか、雛をし据ゑて、そそきゐたまへる。三尺の御厨子一具に、品々しつらひ据ゑて、また小さき屋ども作り集めて、たてまつりたまへるを、ところせきまで遊びひろげたまへり。 (第二章 紫の物語 源氏、紫の君に心慰める 第四段 新年を迎える)

http://www.genji-monogatari.net/

2.4.3 うち笑みたまへる、いとめでたう愛敬づきたまへり。いつしか、雛をし据ゑて、そそきゐたまへる。三尺の御厨子一具に、品々しつらひ据ゑて、また小さき屋ども作り集めて、 たてまつりたまへるを、ところせきまで遊びひろげたまへり。
(微笑んでいらっしゃる、とても素晴らしく魅力的である。早くも、お人形を並べ立てて、忙しくしていらっしゃる。三尺の御厨子一具と、お道具を色々と並べて、他に小さい御殿をたくさん作って、差し上げなさっていたのを、辺りいっぱいに広げて遊んでいらっしゃる。)

紅葉賀・挿絵.jpg

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第七帖 紅葉賀

 第一章 藤壺の物語 源氏、藤壺の御前で青海波を舞う
  第一段 御前の試楽
《1.1.2  源氏中将は、青海波をぞ舞ひたまひける。 片手には 大殿の頭中将。容貌、用意、人にはことなるを、立ち並びては、なほ花のかたはらの深山木なり。》

青海波・挿絵.jpg

  第二段 試楽の翌日、源氏藤壺と和歌を贈答
  第三段 十月十余日、朱雀院へ行幸
  第四段 葵の上、源氏の態度を不快に思う
 第二章 紫の物語 源氏、紫の君に心慰める 
  第一段 紫の君、源氏を慕う
  第二段 藤壺の三条宮邸に見舞う
  第三段 故祖母君の服喪明ける 
  第四段 新年を迎える→「大覚寺空性」書の「詞」=2.4.3(上記「挿絵図(2.4.3)」)
 第三章 藤壺の物語(二) 二月に男皇子を出産
  第一段 左大臣邸に赴く
  第二段 二月十余日、藤壺に皇子誕生
  第三段 藤壺、皇子を伴って四月に宮中に戻る
  第四段 源氏、紫の君に心を慰める
 第四章 源典侍の物語 老女との好色事件
  第一段 源典侍の風評
  第二段 源氏、源典侍と和歌を詠み交わす
  第三段 温明殿付近で密会中、頭中将に発見され脅される
  第四段 翌日、源氏と頭中将と宮中で応酬しあう
 第五章 藤壺の物語(三) 秋、藤壺は中宮、源氏は宰相となる
  第一段 七月に藤壺女御、中宮に立つ

http://www.nara-u.ac.jp/museum/publications/docs/leaflet05_genji.pdf

源氏物語屏風一.jpg

「源氏物語図屏風(右隻)」(奈良大学博物館所蔵)

源氏物語屏風二.jpg

「源氏物語図屏風(右隻)」(奈良大学博物館所蔵)=上図「解説図」

http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN10403791-20120300-1014.pdf?file_id=6056


(大覚寺・「大覚寺36世・空性法親王(後陽成天皇の弟)))周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

正親町天皇→陽光院 →     ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
    ↓※青蓮院尊純法親王 ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
               ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良
                          ↓良純法親王 他

https://kotobank.jp/word/%E7%A9%BA%E6%80%A7%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B-16398

空性法親王(くうしょうほうしんのう)
1573-1650 織豊-江戸時代前期,誠仁(さねひと)親王の第2王子。
天正(てんしょう)元年生まれ。16年京都の大覚寺で出家し、18年親王となる。慶長3年から四天王寺別当をつとめ、のちに還俗(げんぞく)。和歌にすぐれた。慶安3年8月25日死去。78歳。名は定輔(さだすけ)。法名は別に性舜,義性。号は瑞庵,虔真。著作に「桂光院追悼和歌並詩」。

四天王寺

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA

四天王寺(してんのうじ)は、大阪府大阪市天王寺区にある聖徳太子ゆかりの天台宗の本山寺院。和宗総本山。古代の官寺十五大寺・十大寺の一つ。中世には浄土教の聖地となり、一遍は1274年(文永11年)に遊行の最初の巡礼地として参拝している。聖徳太子建立四十六寺の一つ。

52慈円(1155-1225):藤原忠通の子。青蓮院門跡。天台座主。
53真性(1167-1230):以仁王王子。青蓮院門跡か(除歴?)。天台座主。
54慈円:再任。
55尊性法親王(1194-1239):後高倉院(守貞親王)の皇子。妙法院門跡。天台座主。
56良快(1185-1242):九条兼実の子。青蓮院門跡。天台座主。
57尊性法親王:再任。
58慈源:九条道家の子。青蓮院門跡。天台座主。
59仁助法親王(1214-1262)<1249->:土御門天皇皇子。円満院門跡。園城寺長吏。
60円助法親王(1236-1282):後嵯峨天皇皇子。円満院門跡。園城寺長吏。四ケ院の復興を計画。
61叡尊(1201-1290)<1284->:真言宗僧。真言律宗西大寺流の開祖。西大寺長老。東大寺大勧進。
62尊助法親王(1217-1290):土御門天皇皇子。青蓮院門跡。天台座主。
63慈実(1238-1300):九条道家の子。慈源の弟。青蓮院門跡。法性寺座主。天台座主。
64最助法親王(1253-1293):後嵯峨天皇皇子。三千院門跡。天台座主。
65忍性(1217-1303)<1294->:真言宗僧。真言律宗西大寺流。叡尊の弟子。極楽寺長老。東大寺大勧進。多田院別当。
66覚助法親王(1247-1336):後嵯峨天皇皇子。聖護院門跡。園城寺長吏。
67慈道法親王(1282-1341):亀山天皇皇子。青蓮院門跡。法性寺座主。天台座主
68道昭(1281-1355):一条家経の子。熊野三山検校。園城寺長吏。
69尊円法親王(1298-1356):伏見天皇皇子。青蓮院門跡。天台座主。
70尊悟法親王(1302-1359):伏見天皇皇子。円満院門跡。熊野三山検校。園城寺長吏。
71承胤法親王(1317-1377):後伏見天皇皇子。三千院門跡。天台座主。
72覚誉法親王(1320-1382):花園天皇皇子。聖護院門跡。園城寺長吏。
73尊応:二条持基の子。青蓮院門跡。
74慈運法親王(1466-1537):貞常親王王子。曼殊院門跡。法性寺座主。
75尊鎮法親王(1504-1550):後柏原天皇皇子。青蓮院門跡。
76義俊(1504-1567):真言宗僧。近衛尚通の子。大覚寺門跡。
77尊朝法親王(1552-1597):邦輔親王王子。青蓮院門跡。天台座主。
78空性法親王(1573-1650)<1598->:真言宗僧。陽光太上天皇(誠仁親王)皇子。大覚寺門跡。

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「源氏物語画帖(その六)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

6-1 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六)源氏18歳春-19歳春

末摘花・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 末摘花  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/532678/2

末摘花・詞一.jpg

源氏物語絵色紙帖 末摘花 詞・西洞院時直
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/532678/1

(「西洞院時直」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/07/%E6%9C%AB%E6%91%98%E8%8A%B1_%E3%81%99%E3%81%88%E3%81%A4%E3%82%80%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%83%BB%E3%81%99%E3%82%91%E3%81%A4%E3%82%80%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_

  もろともに大内山は出でつれど入る方見せぬいさよひの月
と恨むるもねたけれど、この君と見たまふ。すこしをかしうなりぬ。人の思ひよらぬことよと憎む憎む。
  里わかぬかげをば見れどゆく月のいるさの山を誰れか尋ぬる
(第一章 末摘花の物語 第三段 新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く)

1.3.29  もろともに大内山は出でつれど入る方見せぬいさよひの月
(ご一緒に宮中を退出しましたのに、行く先を晦ましてしまわれる十六夜の月ですね。)
1.3.30 と恨むるも ねたけれど、この君と見たまふ、すこしをかしうなりぬ。
(と恨まれるのが癪だが、この君だとお分かりになると、少しおかしくなった。)
1.3.31 「 人の思ひよらぬことよ」と憎む憎む、
(「人が驚くではないか」と憎らしがりながら、)
1.3.32  里わかぬかげをば見れどゆく月のいるさの山を誰れか尋ぬる
(どの里も遍く照らす月は空に見えても、その月が隠れる山まで尋ねる人はいませんよ)

6-2 (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書) 

末摘花・長次郎.jpg

源氏物語絵色紙帖 末摘花  画・長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/574656/2

末摘花・詞二.jpg

源氏物語絵色紙帖 末摘花  詞・青蓮院尊純
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/574656/1

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第六帖 末摘花
 第一章 末摘花の物語
  第一段 亡き夕顔追慕
  第二段 故常陸宮の姫君の噂
  第三段 新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く→「西洞院時直」書の『詞』=1.3.29/1.3.30/1.3.31/1.3.32 
「青蓮院尊純」書の詞=1.3.29/1.3.30/1.3.31/1.3.32 
  第四段 頭中将とともに左大臣邸へ行く
  第五段 秋八月二十日過ぎ常陸宮の姫君と逢う
  第六段 その後、訪問なく秋が過ぎる
  第七段 冬の雪の激しく降る日に訪問
  第八段 翌朝、姫君の醜貌を見る
  第九段 歳末に姫君から和歌と衣箱が届けられる
  第十段 正月七日夜常陸宮邸に泊まる
 第二章 若紫の物語
  第一段 紫の君と鼻を赤く塗って戯れる

(参考)

末摘花・挿絵.jpg

http://www.genji-monogatari.net/

(参考五) 「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

正親町天皇→陽光院 →     ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
    ↓※青蓮院尊純法親王 ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
               ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良
                          ↓良純法親王 他

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図は、上記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

※後陽成天皇(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(関屋・絵合・松風)
※八条宮智仁親王(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純法親王(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋(須磨・蓬生)
※近衛信尹(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)

① 筆者のなかで最も早く死亡しているのは、近衛信尹(一五六五~一六一四)で、その死亡する慶長十九年(一六一四)以前に、その大半は完成していたと解せられている。因みに、土佐光吉は、その一年前の、慶長十八年(一六一三)五月五日に、その七十五年の生涯を閉じている。

② 筆者のなかで最も若い者は、烏丸光広(一五七九~一六三八)の嫡子・烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)で、慶長十九年(一六一四)当時、十五歳、それに続く、近衛信尋(一五九九~一六四九)は、十六歳ということになる。なお、烏丸光賢の裏書注記は、「烏丸右中弁藤原光賢」で、その職にあったのは、元和元年(一六一五)十二月から元和五年(一六一九)の間ということになる。また、近衛信尋の裏書注記の「近衛右大臣左大将信尋」の職にあったのは、慶長一九年(一六一四)から元和六年(一六二〇)に掛けてで、両者の詞書は、後水尾天皇が即位した元和元年(一六一五)から元和五年(一六一九)に掛けての頃と推定される。

③ この近衛信尋(一五九九~一六四九)の実父は「後陽成天皇(一五七一~一六一七)」で、その養父が「近衛信尹(一五六五~一六一四)」、そして「後水尾天皇」(一五九六)~一六八〇)の実弟ということになる。この「近衛信尋」と「近衛信尹息女太郎君(?~?)」の二人だけが、上記の詞書のなかに「署名」がしてあり、本画帖の制作依頼者は「近衛信尹・近衛信尋・近衛信尹息女太郎(君)」周辺に求め得る可能性が指摘されている。(「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)
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「源氏物語画帖(その五)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

5-1 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) 源氏18歳

若紫・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 若紫 画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/545045/2

若紫・詞一.jpg

源氏物語絵色紙帖 若紫 詞・西洞院時直
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/545045/1


(「西洞院時直」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/06/%E8%8B%A5%E7%B4%AB_%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%80%E3%82%89%E3%81%95%E3%81%8D%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%94%E5%B8%96%E3%80%91

雀の子を犬君が逃がしつる伏籠のうちに籠めたりつるものをとていと口惜しと思へりこのゐたる大人例の心なしのかかるわざをしてさいなまるるこそいと心づきなけれ (第一章 紫上の物語 若紫の君登場 第三段 源氏、若紫の君を発見す)

1.3.5 「 雀の子を 犬君(いぬき=紫上が召使っている女童の名)が逃がしつる。伏籠のうちに 籠めたりつるものを」(雀の子を犬君が逃がしてしまいましたの、伏籠の中に置いて逃げないようにしてあったのに)
1.3.6 とて、いと口惜しと思へり。 このゐたる大人、(たいへん残念そうである。そばにいた中年の女が、)
1.3.7 「 例の、心なしの、かかるわざをして、 さいなまるるこそ、いと心づきなけれ。 い
づ方へかまかりぬる。 いとをかしう、やうやうなりつるものを。 烏などもこそ見つくれ」
(「またいつもの粗相やさんがそんなことをしてお嬢様にしかられるのですね、困った人ですね。雀はどちらのほうへ参りました。だいぶ馴れてきてかわゆうございましたのに、外へ出ては山の鳥に見つかってどんな目にあわされますか」)

5-2 (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)

若紫・長次郎.jpg

源氏物語絵色紙帖 若紫 画・長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/545045/2

若紫・詞二.jpg

源氏物語絵色紙帖 若紫 詞・青蓮院尊純
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/545045/1

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第五帖 若紫
 第一章 紫上の物語 若紫の君登場、三月晦日から初夏四月までの物語
  第一段 三月晦日、加持祈祷のため、北山に出向く
  第二段 山の景色や地方の話に気を紛らす
  第三段 源氏、若紫の君を発見す→「西洞院時直」書の「詞」=1.3.5/1.3.6/1.3.7 
       →「青蓮院尊純」」書の「詞」=1.3.5/1.3.6/1.3.7
  第四段 若紫の君の素性を聞く
  第五段 翌日、迎えの人々と共に帰京
  第六段 内裏と左大臣邸に参る
  第七段 北山へ手紙を贈る
 第二章 藤壺の物語 夏の密通と妊娠の苦悩物語
  第一段 夏四月の短夜の密通事件
  第二段 妊娠三月となる
  第三段 初秋七月に藤壺宮中に戻る
 第三章 紫上の物語(2) 若紫の君、源氏の二条院邸に盗み出される物語
  第一段 紫の君、六条京極の邸に戻る
  第二段 尼君死去し寂寥と孤独の日々
  第三段 源氏、紫の君を盗み取る

(参考)

若紫三.jpg

http://www.genji-monogatari.net/

「西洞院時直」周辺

西洞院時直(にしのとういん ときなお) 生誕・天正12年(1584年) 死没・寛永13年10月9日(1636年11月6日)
 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公家・歌人。参議・西洞院時慶の長男。官位は従二位・参議。西洞院家27代当主。後水尾天皇の側近。天正13年(1585年)叙位。天正20年(1592年)、元服し、従五位上侍従となる。少納言、右衛門督を経て、寛永3年(1626年)参議。寛永8年(1631年)、従二位となった。歌人としても知られ、『参議時直卿集』が現存している。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

「尊純法親王」周辺

http://kourindo.sakura.ne.jp/sonjyun.html

尊純法親王(1591-1653)は江戸前期の天台宗の僧。応胤法親王の王子。後陽成天皇の猶子。諡号は円智院。1598年天台宗青蓮院に入り良恕法親王の門に従う。25歳で大僧正に任じられ天台座主。尊朝法親王から青蓮院の書道を近衛信伊に和歌を伝授される。御家流中でも尊純流の祖として重んじられ後水尾天皇に書を指導した。門跡寺院の故事にも通じていた。狩野探幽や狩野重信、岩佐又兵衛、住吉派などとの合作も残っている。江戸初期、門跡寺院の重鎮の一人として活躍。八坂神社や多賀大社など神社仏閣の扁額を著すこともあった。

「天台座主(応胤法親王→良恕法親王→尊純法親王)」周辺(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

https://www.kyototuu.jp/Temple/TermTendaiZazu.html

※165 応胤法親王(第165世。伏見宮貞敦親王第5王子)
※170 良恕法親王(第170世。誠仁親王第3王子。後陽成天皇の弟。曼珠院門跡)
171  堯然法親王(第171、174、178世。後陽成天皇第6皇子)
※172 慈胤法親王(第172、176、180世。後陽成天皇第13皇子)
※173 尊純法親王(第173世、177世。第165世・応胤法親王王子)

「後陽成天皇(後陽成院)の系譜」周辺(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

第一皇子:覚深入道親王(良仁親王、1588-1648) - 仁和寺
第二皇子:承快法親王(1591-1609) - 仁和寺
※第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)
※第四皇子:近衛信尋(1599-1649) - 近衛信尹養子
第五皇子:尊性法親王(毎敦親王、1602-1651)
※第六皇子:尭然法親王(常嘉親王、1602-1661) - 妙法院、天台座主
第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮
第八皇子:良純法親王(直輔親王、1603-1669) - 知恩院
第九皇子:一条昭良(1605-1672) - 一条内基養子
第十皇子:尊覚法親王(庶愛親王、1608-1661) - 一乗院
第十一皇子:道晃法親王(1612-1679) - 聖護院
第十二皇子:道周法親王(1613-1634) - 照高院
※第十三皇子:慈胤法親王(幸勝親王、1617-1699) - 天台座主  
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「源氏物語画帖(その四)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

「源氏物語画帖(その四)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺
4-1 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏17歳秋-冬

夕顔.jpg

源氏物語絵色紙帖 夕顔 画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/583950/2

夕顔・詞.jpg

源氏物語絵色紙帖 夕顔 詞・飛鳥井雅胤
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/583950/1

(「飛鳥井雅胤」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/05/%E5%A4%95%E9%A1%94_%E3%82%86%E3%81%86%E3%81%8C%E3%81%8A%E3%83%BB%E3%82%86%E3%81%B5%E3%81%8C%E3%81%BB%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%B8%96%E3%80%91_%E5%8D%8A

中将の君、御供(ごくう)に参る。紫苑(しおん)色の折にあひたる、羅(ら)の裳(も)、鮮やかに引き結ひたる腰つき、たをやかになまめきたり。見返りたまひて、隅の間の高欄に、しばしひき据ゑたまへり。うちとけたらぬもてなし、髪の下がりば、めざましくもと見たまふ。
咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎ憂き今朝の朝顔 (第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語 第一段 霧深き朝帰りの物語)

3.1.7 咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎ憂き今朝の朝顔
(咲いている花に心を移したという風評は憚られますが、やはり手折らずには素通りしがたい今朝の朝顔の花です)

4-2 (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)

夕顔・長次郎.jpg

源氏物語絵色紙帖 夕顔 画・長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575436/2

夕顔・詞二.jpg

源氏物語絵色紙帖 夕顔 詞・青蓮院尊純

(「青蓮院尊純」の「詞」)

3.1.7
咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎ憂き今朝の朝顔
3.1.8/ 3.1.9 
いかがすべきとて、手をとらへたまへれば、いと馴れてとく、
3.1.10
朝霧の晴れ間も待たぬ気色にて 花に心を止めぬとぞ見る

(第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語 第一段 霧深き朝帰りの物語)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四帖 夕顔
第一章 夕顔の物語 夏の物語
  第一段 源氏、五条の大弐乳母を見舞う
  第二段 数日後、夕顔の宿の報告
 第二章 空蝉の物語
  第一段 空蝉の夫、伊予国から上京す
 第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語
  第一段 霧深き朝帰りの物語 →「飛鳥井雅胤」書の「詞」=3.1.5/ 3.1.6/ 3.1.7
              →「青蓮院尊純」の「詞」=3.1.7/3.1.8/ 3.1.9/3.1.10          
 第四章 夕顔の物語(2) 仲秋の物語
  第一段 源氏、夕顔の宿に忍び通う
  第二段 八月十五夜の逢瀬
  第三段 なにがしの院に移る
  第四段 夜半、もののけ現われる
  第五段 源氏、二条院に帰る
  第六段 十七日夜、夕顔の葬送
  第七段 忌み明ける
 第五章 空蝉の物語(2)
  第一段 紀伊守邸の女たちと和歌の贈答
 第六章 夕顔の物語(3)
  第一段 四十九日忌の法要
 第七章 空蝉の物語(3)
  第一段 空蝉、伊予国に下る

(参考)

夕顔三.jpg

「飛鳥井雅胤」周辺

http://www.ic.daito.ac.jp/~hama/gallery/syo-tanzaku-asukaimasatane-000.html

難波宗勝・飛鳥井雅胤と同一人。飛鳥井雅庸(まさつね)の二男として天正14年12月16日に生まれ、難波家を相続する。慶長5年正月月従五位上。同年12月28日侍従。同12年正月11日左権少将。同14年(1609)7月女官との密通事件(猪熊事件)が後陽成天皇の耳に達し連座の勅勘を蒙り伊豆に配流された。同17年(1612)勅免され帰洛し、翌同18年(1613)名を雅胤と改めて飛鳥井家を相続する。難波家は子の宗種が相続した。同20年(1614)正月11日左中将。寛永3年(1626)12月3日参議。同5年正月29日左衛門督。同7年正月11日権中納言。同16年権大納言、慶安4年(1651)従一位、同年3月21日薨ず。享年66歳。
 難波家を再興して難波宗勝を名乗ったが、後名は雅宣、雅胤。法名演雅、法号潜龍院太素演雅。能書家で栄雅流。

「青蓮院尊純」周辺(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

尊純法親王(そんじゅんほっしんのう、天正19年10月16日(1591年12月1日)- 承応2年5月26日(1653年6月21日))は、江戸時代前期の天台宗の僧。父は応胤法親王。母は福正院。
1598年(慶長3年)天台宗青蓮院第48世の門跡に入る。1604年(慶長9年)権少僧都・権大僧都を歴任し、1607年(慶長12年)良恕法親王から灌頂を受けた。1615年(元和元年)大僧正に任じらる。1640年(寛永17年)に親王宣下を受け、尊純と号した。1644年(正保元年)天台座主173世となり、日光山法務を兼帯、日光東照宮の営繕をつとめた。1647年(正保3年)には二品に叙せられ、1653年(承応2年)天台座主177世に就任している。書に秀でていた。

「源氏物語画帖と土佐光吉・長次郎」周辺

https://artsandculture.google.com/asset/scenes-from-the-tale-of-genji-tosa-mitsuyoshi-and-ch%C5%8Djir%C5%8D/5AG60ggMg9LJDA?hl=ja
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「源氏物語画帖(その三)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

3 空蝉(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏 

光吉・空蝉.jpg

源氏物語絵色紙帖 空蝉 画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/512094/1

後陽成院・空蝉.jpg

源氏物語絵色紙帖 空蝉 詞・後陽成院周仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/512094/1

(「後陽成院」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/04/%E7%A9%BA%E8%9D%89_%E3%81%86%E3%81%A4%E3%81%9B%E3%81%BF%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B8%96%E3%80%91_%E7%A2%81_%E3%81%94

「なぞかう暑きにこの格子は下ろされたる」と問へば、「昼より西の御方の渡らせたまひて碁打たせたまふ」と言ふ。さて向かひゐたらむを見ばや、と思ひてやをら歩み出でて、簾のはさまに入りたまひぬ。(第二段 源氏、再度、紀伊守邸へ)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三帖 空蝉
第一段 空蝉の物語
第二段 源氏、再度、紀伊守邸へ →この「場面 (1.2.6)・(1.2.7)・(1.2.8)」での「画と詞」(下記「参考」)
第三段 空蝉と軒端荻、碁を打つ
第四段 空蝉逃れ、源氏、軒端荻と契る
第五段 源氏、空蝉の脱ぎ捨てた衣を持って帰る

(参考)
http://www.genji-monogatari.net/

空蝉二.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-14

【 (再掲)

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

後陽成天皇画.jpg
 
後陽成天皇筆「鷹攫雉図」(国立歴史民俗博物館所蔵)

『天皇の美術史3 乱世の王権と美術戦略 室町・戦国時代 (高岸輝・黒田智著)』所収「第二章 天皇と天下人の美術戦略 p175~ 後陽成院の構図(黒田智稿)」

《 p175 国立歴史民俗博物館所蔵の高松宮家伝来禁裏本のなかに、後陽成院筆「鷹攫雉図(たかきじさらうず)」がある。背景はなく、左向きで後方をふり返る鷹とその下敷きになった雉が描かれている。鷹の鋭い右足爪はねじ曲げられた雉の鮮やかな朱色の顔と開いた灰色の嘴をつかみ、左足は雉の左翼のつけ根を押さえつけている。右下方に垂れ下がった丸みのある鷹の尾と交差するように、細長く鋭利な八枚の雉の尾羽が右上方にはね上がっている。箱表書により、この絵は、後陽成院から第四皇女文高に下賜され、近侍する女房らの手を経て有栖川宮家、さらに高松宮家へと伝えられた。後陽成天皇が絵をよく描いたことは、『隔冥記(かくめいき)や『画工便覧』によってうかがえる。

p177~p179 第一に、王朝文化のシンボルであった。鷹図を描いたり、所有したりすることは、鷹の愛玩や鷹狩への嗜好のみならず、権力の誇示であった。鷹狩は、かつて王朝文化のシンボルで、武家によって簒奪された鷹狩の文化と権威がふたたび天皇・公家に還流しつつあったことを示している。
第二に、天皇位にあった後陽成院が描いた鷹図は、中国皇帝の証たる「徽宗(きそう)の鷹」を想起させたにちがいない。(以下省略)
第三に、獲物を押さえ込む特異な構図を持つ。(以下省略)  
第四に、獲物として雉を描くのも珍しい。(以下省略)
 天皇の鷹狩は、天下人や武家によって奪取され、十七世紀に入ってふたたび後陽成院周辺へと還流する。それは、次代の後水尾天皇らによる王朝文化の復古運動の先鞭をなすものとして評価できるであろう。
 関ヶ原合戦以来、数度にわたり譲位の意向を伝えていた後陽成天皇が、江戸幕府とのたび重なる折衝の末にようやく退位したのは、慶長十六年(一六一一)三月のことであった。この絵が描かれたのは、退位から元和三年(一六一七)に死亡するまでの六年ほどの間であった。この間、江戸開府により武家政権の基礎が盤石となり、天皇・公家は禁中並公家諸法度によって統制下におかれた。他方、豊臣家の滅亡、大御所家康の死亡と、歴史の主人公たちが舞台からあいついで退場してゆくのを目の当たりにした後陽成院の胸中に去来りしたのは、天皇権威復活のあわい希望であったのだろうか。 】

 後陽成天皇(一五七一~一六一七)は、天正十四年(一五八六)に即位し、慶長十六年(一六一一)に後水尾天皇に譲位するまで、在位二十六年に及んだ。和漢の学問的教養に造詣が深く、書・画を能くし、慶長(けいちょう)勅版を刊行させた。
 この後陽成天皇の活躍時期と、本阿弥光悦(一五五八~一六三七)と俵屋宗達(?~一六四一)とのコラボレーションの「書(光悦)・画(宗達)和歌巻」の一連の制作時期(慶長五年=一六〇〇=「月の和歌巻」~元和元年=一六一五=鷹峯「大虚庵」へ移住)とはオーバーラップする。
 そして、それらを、「書・画・古活字本出版」の三分野に限定すると、「書=寛永三筆・本阿弥光悦、画=法橋宗達・俵屋宗達、古活字本出版=嵯峨本・角倉素庵」と、この後陽成天皇(後陽成院)に続く後水尾天皇の「寛永文化」(桃山文化の特徴を受け継ぎ、元禄文化への過渡的役割を担う)の担い手として飛翔していくことになる。

https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=7398  
  


後陽成天皇書.jpg

[重要美術品]「宸翰 御色紙」 桃山時代(16世紀)紙本墨書 軸装 22.0×18.2cm 東京富士美術館蔵
《後陽成天皇の筆による鎌倉時代前期の歌人・藤原家隆の和歌「秋の夜の月 やをしまの あまの原 明方ちかき おきの釣舟」(『新古今和歌集』)の書写。》       】

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 「源氏物語画帖(その二)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

2 帚木(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏

光吉・箒木.jpg

源氏物語絵色紙帖 箒木 画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/535711/1

後陽成院・箒木.jpg

源氏物語絵色紙帖 箒木 詞・後陽成院周仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/535711/1

(「後陽成院」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/03/%E5%B8%9A%E6%9C%A8_%E3%81%AF%E3%81%AF%E3%81%8D%E3%81%8E%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B8%96%E3%80%91

木枯に吹きあはすめる笛の音を ひきとどむべき言の葉ぞなき(第二章 女性体験談 第二段 左馬頭の体験談(浮気な女の物語))
《「琴の音も月もえならぬ宿ながらつれなき人をひきやとめける」(2.2.6=男の歌)への(2.2.8=女の歌=返歌) 》


(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二帖 帚木
第一章 雨夜の品定めの物語
第一段 長雨の時節
第二段 宮中の宿直所、光る源氏と頭中将
第三段 左馬頭、藤式部丞ら女性談義に加わる
第四段 女性論、左馬頭の結論
第二章 女性体験談
第一段 女性体験談(左馬頭、嫉妬深い女の物語)
第二段 左馬頭の体験談(浮気な女の物語)→この「場面」での「画と詞」(下記「参考」)
第三段 頭中将の体験談(常夏の女の物語)
第四段 式部丞の体験談(畏れ多い女の物語)

(参考)

帚木二.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-01

【 (再掲)

土佐光吉・澪標二.jpg
  
B図(拡大図) 土佐派・『澪標図屏風』(部分)/個人。安土桃山時代の装束で描かれた人々。
http://toursakai.jp/zakki/2018/10/25_2944.html

このB図(拡大図)に関連して、上記のアドレスでは次のとおり紹介している。

《 宇野「光吉は緻密さが特徴ですが、もうひとつ貴族でない人々を生き生きと描くのも得意だったように思います。たとえば、『源氏物語』の『澪標(みをつくし)』の帖を描いた屏風を展示していますが、光源氏が住吉大社に行列を成して参拝する様子が描かれています。ここには光源氏の行列を座って見ている人々の姿が、平安時代の装束ではなく、安土桃山時代の衣装で描かれています」
――光吉の生きた時代の人々の姿が描きこまれていたんですね。
宇野「これは私の想像ですけれど、まるで源氏物語の舞台を見物しているようなこの人々は、光吉のまわりにいて絵の注文もしてくれる堺の人々の姿を写していたりしないかなと思うのです」
――ルネサンスの画家が、宗教画にパトロンや自分自身の姿を滑り込ませたのと同じような感じですかね。もっと言えば現代の漫画家や映画監督的というか......。展示された作品や資料をもとに、そういう想像の翼を広げていくのも、展覧会の楽しみの一つですよね。チヨマジックに続き、チヨファンタジー、いいですね。
(注) 宇野=堺博物館・宇野千代子学芸員=チヨマジック・チヨファンタジー  》

 この人物は、上記の対談中の「チヨマジック・チヨファンタジー」の「ルネサンスの画家が、宗教画にパトロンや自分自身の姿を滑り込ませたのと同じような感じ」ですると、「土佐派の工房」の主宰者「土佐光吉」その人と見立てることも出来るであろう。
 この土佐光吉((天文11年=一五三九~慶長十八年=一六一三)の経歴については、次の見解が、「チヨマジック・チヨファンタジー」に馴染んでくる。

《 土佐光茂の次子と言われるが、実際は門人で玄二(源二)と称した人物と考えられる。師光茂の跡取り土佐光元が木下秀吉の但馬攻めに加わり、出陣中戦没してしまう。そのため光吉は、光元に代わって光茂から遺児3人の養育を託され、土佐家累代の絵手本や知行地、証文などを譲り受けたとみられる。以後、光吉は剃髪し久翌(休翌)と号し、狩野永徳や狩野山楽らから上洛を促されつつも、終生堺で活動した。堺に移居した理由は、近くの和泉国上神谷に絵所預の所領があり、今井宗久をはじめとする町衆との繋がりがあったことなどが考えられる。光元の遺児のその後は分からないが、光元の娘を狩野光信に嫁がせている。(『ウィキペディア(Wikipedia)』) 》 

 この「光吉は、光元に代わって光茂から遺児3人の養育を託され」たということを、「チヨマジック・チヨファンタジー」流に解すると、B図(拡大図)の四人は、「光吉と、光茂(土佐派本家・宮廷繪所預)の遺児・三人」ということになる。
 そして、この三人のうちの一人(旅装した女子?)が、狩野派宗家(中橋狩野家)六代の狩野
光信(七代永徳の長男)に嫁いでいるということになると、狩野派の最大の実力者と目されている狩野探幽(光信の弟・孝信の長男=鍛冶橋狩野家)は、光吉と甥との関係になり、その甥の一人の狩野安信(孝信の三男=探幽の弟)は、狩野派宗家を継ぎ、八代目を継承している。
 さらに、江戸幕府の御用絵師を務めた住吉派の祖の住吉如慶は、光吉の子とも門人ともいわれており、「チヨマジック・チヨファンタジー」を紹介している上記のアドレスでは、光吉を「近世絵画の礎になった光吉」というネーミングを呈しているが、安土桃山時代から江戸時代の移行期の「近世絵画の礎になった」最右翼の絵師であったことは、決して過大な評価でもなかろう。
 これを宗達関連、特に、その「関屋澪標図屏風」(C図と下記D図)に絞って場合には、全面的に、光吉一門(土佐派)の「澪標図屏風」(A図)と、同じく光吉一門(土佐派)の「源氏物語澪標図屏風」(下記のE図)とを下敷きにし、それを、宗達風にアレンジして、いわゆる「宗達マジック・宗達ファンタジー」の世界を現出していると指摘することも、これまた、過大な過誤のある指摘でもなかろう。 】
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 「源氏物語画帖(その一)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

1 桐壺(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏誕生-12歳

光吉・桐壺.jpg

源氏物語絵色紙帖 桐壺 画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509987/1

後陽成院・桐壺.jpg

源氏物語絵色紙帖 桐壺 詞・後陽成院周仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509987/1

(「後陽成院」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/02/%E6%A1%90%E5%A3%BA_%E3%81%8D%E3%82%8A%E3%81%A4%E3%81%BC%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B8%96%E3%80%91

そのころ高麗人(うど)の参れる中にかしこき相人(そうにん=人相を見る人)ありけるを 聞こし召して宮(内裏)の内に召さむことは宇多の帝の御誡(おんいまし)めあればいみじう忍びてこの御子を鴻臚館に遣はしたり (第三章 光る源氏の物語 第三段 高麗人の観相、源姓賜わる)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第一帖 桐壺
第一章 光る源氏前史の物語
第一段 父帝と母桐壺更衣の物語
第二段 御子誕生(一歳)
第三段 若宮の御袴着(三歳)
第四段 母御息所の死去
第五段 故御息所の葬送
第二章 父帝悲秋の物語
第一段 父帝悲しみの日々
  第二段 靫負命婦の弔問
  第三段 命婦帰参
 第三章 光る源氏の物語
  第一段 若宮参内(四歳)
  第二段 読書始め(七歳)
  第三段 高麗人の観相、源姓賜わる → この「場面」での「画と詞」(下記「参考」)
  第四段 先帝の四宮(藤壺)入内
  第五段 源氏、藤壺を思慕
  第六段 源氏元服(十二歳)
  第七段 源氏、左大臣家の娘(葵上)と結婚
  第八段 源氏、成人の後

(参考)

桐壺二.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

【(再掲)

追記一 土佐光吉・長次郎筆「源氏物語画帖」(京都国立博物館蔵)周辺
(出典:『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」『京博本『源氏物語画帖』覚書(今西祐一郎稿)』 )・『ウィキペディア(Wikipedia)』)

1 桐壺(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏誕生-12歳
2 帚木(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏
3 空蝉(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏 
4 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏17歳秋-冬
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
5 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) 源氏18歳
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
6 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六)源氏18歳春-19歳春
   (長次郎筆)=(詞)西蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書) 
7 紅葉賀(光吉筆)=(詞)大覚寺空性 (一五七三~一六五〇)源氏18歳秋-19歳秋
8 花宴((光吉筆)=(詞)大覚寺空性(一五七三~一六五〇)源氏20歳春
9 葵(光吉筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) 源氏22歳-23歳春
10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)源氏23歳秋-25歳夏
   (長次郎筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) (長次郎墨書)
11 花散里(光吉筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) 源氏25歳夏 
(長次郎筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) (長次郎墨書)
12 須磨(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏26歳春-27歳春
13 明石(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏27歳春-28歳秋
14 澪標(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏28歳冬-29歳
15 蓬生(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏28歳-29歳
(長次郎筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) (長次郎墨書)
16 関屋(光吉筆)=(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏29歳秋
17 絵合(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳春
18 松風(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳秋
19 薄雲(光吉筆)=(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏31歳冬-32歳秋
20 朝顔(槿)(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏32歳秋-冬
21 少女(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏33歳-35歳
22 玉鬘(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏35歳
23 初音(光吉筆)=(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳正月
24 胡蝶(光吉筆) =(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳春-夏
25 蛍(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
26 常夏(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
27 篝火(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三)  源氏36歳秋
28 野分(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 源氏36歳秋 
29 行幸(光吉筆)=(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏36歳冬-37歳春 
30 藤袴(蘭)(光吉筆) =(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏37歳秋 
31 真木柱(光吉筆)=(詞)日野資勝(一五七七~一六三九) 源氏37歳冬-38歳冬 
32 梅枝(光吉筆) =(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)  源氏39歳春
33 藤裏葉(光吉筆)=(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)  源氏39歳春-冬
34 若菜(上・下) (光吉筆) =(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二) 源氏39歳冬-41歳春 
             =(詞)中村通村(一五八七~一六五三) 源氏41歳春-47歳冬 
35 柏木(長次郎筆) =(詞)中村通村(一五八七~一六五三)  源氏48歳正月-秋
36 横笛(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏49歳
37 鈴虫(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏50歳夏-秋
38 夕霧(長次郎筆)=(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 源氏50歳秋-冬
39 御法(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六三四) 源氏51歳
40 幻(長次郎筆)=(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)  源氏52歳の一年間
41 雲隠  (本文なし。光源氏の死を暗示)
42 匂宮(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)  薫14歳-20歳
43 紅梅(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 薫24歳春
44 竹河(長次郎筆)=(詞)四辻季継(一五八一~一六三九)  薫14,5歳-23歳
45 橋姫(長次郎筆) =(詞)四辻季継(一五八一~一六三九) 薫20歳-22歳(以下宇治十帖)
46 椎本(長次郎筆)=(詞)久我敦通(一五六五~?)    薫23歳春-24歳夏
47 総角(長次郎筆) =(詞)久我通前(一五九一~一六三四) 薫24歳秋-冬
48 早蕨(長次郎筆) =(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七) 薫25歳春
49 宿木    (欠)                薫25歳春-26歳夏
50 東屋    (欠)                薫26歳秋
51 浮舟     (欠)                薫27歳春
52 蜻蛉   (欠)                薫27歳
53 手習    (欠)                薫27歳-28歳夏
54 夢浮橋   (欠)                薫28歳

追記二=参考五 「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)

正親町天皇→陽光院 →     ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
    ↓※青蓮院尊純法親王 ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
               ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良
                          ↓良純法親王 他

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図は、上記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

※後陽成天皇(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(関屋・絵合・松風)
※八条宮智仁親王(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純法親王(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋(須磨・蓬生)
※近衛信尹(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)    】
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醍醐寺などでの宗達(その二十・「風神雷神図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その二十「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「風神雷神図屏風 (宗達筆)」(その三)

合成図二.jpg

(上段) 俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」(国宝 紙本金地着色 二曲一双 各157.0×173・0cm 建仁寺蔵)→A図
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-11
(下段・左図) 京都博物館蔵 「蓮池水禽図」「伊年」印 国宝→B図
(下段・中央図)畠山記念館蔵 「同上」  無印     → C図
(下段・右図) 山種美術館蔵 「同上」  「伊年」印   → D図
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-19
【《宗達について大事なことは、法橋叙位以前の作品と考えられる「蓮池水禽図」(下段・左図))において、完璧に牧谿といわしめるほどに、奥深い空間表現を実現していたという事実である。また養源院障壁画(※)においてすでに独自のスタイルを見せている。ということも重要であろう。したがって、この時期、すでに宗達は相当に高いレベルで表現の自由を獲得していたと見てよい。
 私は、山川氏(山川武説)のように「若さ」を強調するのではなく、「蓮池水禽図」と養源院の「白象図」「唐獅子図」を描けた時点で、十分に「風神雷神図屏風」を描くだけの技量は成熟していたと思っている。「たらし込み」をたくみに使って「蓮池水禽図」を描いた画家が、同時期に「風神雷神図屏風」の「たらし込み」を描いたとしても不思議ではない。豊かな空間表現への進化を基準とするならば、水墨画において「蓮池水禽図」から「牛図」(※※)、「白鷺図」(※※※)という、より平面性の勝った空間表現へという逆転現象をどのように解釈すべきであろうか。後述べするが、空間表現の問題に関して、ひろがりや奥行きの追求から平面的、装飾的な画面構成へという展開は、芳崖以降の二十世紀の近代画家たちにはごく当たり前のことなのである。》(p129~p130))
《「白鷺図」(※※※)には妙心寺第百二十八世楊屋宗販の賛があり、「前(さき)」とあることから、着賛は早くても一六三三年(寛永十)頃と推定されている。宗達の制作時期もこの頃とすれば、「関屋澪標図屏風」後の最晩年作となる。
 「白鷺図」を水墨画の最晩年として見た時、屏風画のような枠の意識はさほど感じないが、そのかわり白鷺を描く速く均質に伸びる線、たらし込みをほとんどもちいない画面処理、構図の単純化、動きのない白鷺のポーズ、それらが、水墨画における宗達の絵画の純粋化を示しているように思われる。》(p145)
※養源院障壁画 → 下記のアドレスなどを参照。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07
※※「牛図」(頂妙寺蔵) → 下記のアドレスなどを参照。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-09
※※※「白鷺図」→「白鷺図」(宗達画・楊屋宗販賛)→下段の(参考三)を参照。  】
(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収「新たな宗達像―制作年代推定から」)

(「宗達ファンタジー」その三)

一 宗達作品の「制作年代の推定」について、「俵屋宗達略年譜および各説時代区分」(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収)では、次のように推定している。

①「蓮池水禽図」(上記B図) → 1614(慶長19= 47?)~1615(元和元=48?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-08
②「風神雷神図」(上記A図) → 1616(元和2= 49?)~1617(元和3= 50?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-11
③「雲龍図屏風」      → 1619(元和5= 52?)~1621(元和7= 54?)       
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-04
④「松島図屏風」      → 1619(元和5= 52?)~1621(元和7= 54?) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-30
➄「養源院障壁画」     → 1622(元和8= 55?)~1625(寛永元= 57?)  
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07
⑥「関屋澪標図屏風」    → 1631(寛永8=64?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20
⑦「舞樂図屏風」      → 1632(寛永9= 65?)~1625(寛永18= 74?) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-02-11

二 この①「蓮池水禽図」(上記B図)に関連しての、「法橋叙位以前の作品と考えられる『蓮池水禽図』)において、完璧に牧谿といわしめるほどに、奥深い空間表現を実現していたという事実である」並びに「『蓮池水禽図』を描いた画家が、同時期に『風神雷神図屏風』の『たらし込み』を描いたとしても不思議ではない」という指摘は、冒頭に掲げた「宗達モデル図」(A図とB図+C図+D図の合成図)からして、その感を大にする。

三 と同時に、宗達が①「蓮池水禽図」を制作したと推定される「1614(慶長19= 47?)~1615(元和元=48?)」と「法橋授位」の時期は、同時期の頃で、その時期は「1615(元和元=48?)~1616(元和2= 49?)」と推定し、②「風神雷神図」は、「法橋授位」後の「1616(元和2= 49?)~1617(元和3= 50?)」の頃と推定したい。

四 ③「雲龍図屏風」から⑦「舞樂図屏風」までの制作推定時期は、下記の(参考一「宗達作品の『制作年代の推定』など」) の「※古田亮説」(「標準的」な見解)に近いものと推定し、同時に、「※※林進説」(「異説的」な見解)らの「何故、それらの異説が展開されるのか」ということに関連して、常に先入観にとらわれず、下記の(参考二「宗達に関する『文献史料』)などにより、その一つ一つを随時検証することとなる。

五 その「※古田亮説」(「標準的」な見解)の、「『「白鷺図」を水墨画の最晩年として見た時、屏風画のような枠の意識はさほど感じないが、そのかわり白鷺を描く速く均質に伸びる線、たらし込みをほとんどもちいない画面処理、構図の単純化、動きのない白鷺のポーズ、それらが、水墨画における宗達の絵画の純粋化を示しているように思われる。」(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収「新たな宗達像―制作年代推定から」p145)に関連しては、
その「異説的」な見解を、(参考三)「宗達の水墨画「白鷺図」関連について」で付記して置きたい。

(参考一)  宗達作品の「制作年代の推定」など

【②「風神雷神図屏風」の制作時期
山根有三説 → 寛永一五(一六三八)~寛永一七(一六四〇) → 晩年(七一歳?以降)
水尾比呂志説→ 寛永一二(一六三五)~寛永一八(一六四一) → 晩年(六八歳?以降)
山川武説  → 元和七(一六二一) ~元和九(一六二三) → 壮年(五四~五六歳?)
源豊宗・橋本綾子説→元和五(一六一九)~元和七年(一六二一)→壮年(五二~五四歳?)
※古田亮説  → 元和二(一六一六)~元和三(一六一七)  →壮年(四九~五〇歳?)
 
  「法橋授位」の時期
山根有三説 →   寛永元(一六二四)           →五七歳?
水尾比呂志説→  慶長一九(一六一四)~元和二年(一六一六)→四七~四九歳?
山川武説  →   元和八(一六二二)           →五五歳?
源豊宗・橋本綾子説→元和七(一六二一)           →五四歳?
※古田亮説  → 元和元(一六一五)~元和四(一六一八)  →四八~五一歳?

③「雲龍図屏風」の制作時期
山根有三説 → 寛永四(一六二七)~寛永五(一六二八) →  六〇~六一歳?
水尾比呂志説→ 寛永二(一六二五)~寛永六(一六二九) →  五八~六二歳?
山川武説  → 寛永元(一六二四)~寛永四(一六二五) →  五七~六〇歳?
源豊宗・橋本綾子説→元和九(一六二三)~寛永二(一六二四)→ 五六~五八歳?
※古田亮説  → 元和五(一六一九)~元和七(一六二一) → 五二~五四歳?  

④「松島図屏風」の制作時期
山根有三説 →寛永二(一六二五)~寛永四(一六二七) →   五八~六〇歳?
水尾比呂志説→ 寛永元(一六二四)~寛永五(一六二八) →  五七~六一歳?
山川武説  → 寛永元(一六二四)~寛永四(一六二七) →  五七~六〇歳?
源豊宗・橋本綾子説→元和七(一六二一)~元和九(一六二三)→ 五四~五六歳?
※古田亮説  → 元和五(一六一九)~元和七(一六二一)  →五二~五四歳?

⑥「関屋澪標図屏風」の制作時期(寛永八(一六三一) →六四歳? )
山根有三説 → 寛永一三(一六三六)~寛永一五(一六三八) →六九~七一歳?
水尾比呂志説→ 寛永八(一六三一)~寛永一二(一六三五) → 六四~六八歳?
山川武説 →  寛永八(一六三一)~寛永一一(一六三四) → 六四~六七歳?
源豊宗・橋本綾子説→寛永四(一六二七)~寛永六(一六二九)→ 六〇~六二歳?
※古田亮説  → 寛永八(一六三一)          → 六四歳?

⑦「舞樂図屏風」の制作時期
山根有三説 → 寛永六(一六二九)~寛永八(一六三一) → 六二~六四歳?
水尾比呂志説→ 元和六(一六二〇)~元和八(一六二二)→五三~五五歳?
山川武説 → 寛永一二(一六三五)~寛永一八(一六四一) →六八~七四歳?
源豊宗・橋本綾子説→寛永四(一六二七)~寛永六(一六二九)→六八~六二歳?
※古田亮説  → 寛永九(一六三二)~寛永一八(一六四一) →六五~七四歳?  】
(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収「俵屋宗達略年譜および各説時代区分」)

制作時期・林説.jpg

http://atelierrusses.jugem.jp/?cid=22
「アトリエ・リュス」(連続講座「宗達を検証する」第9回 講師:林進)=※※林進説→『宗達絵画の解釈学―日本文化私の最新講義(林進著)』

(参考二)  宗達に関する「文献史料」など

①『中院通村日記』(元和二年=一六一六・三月十三日の条、後水尾天皇の「俵屋絵」関連)
※中院通村=権中・大納言から内大臣=細川幽斎より「古今伝授」継受
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

②一条兼遐書状
※一条兼遐=一条昭良=後陽成院の第九皇子=明正天皇・後光明天皇の摂政
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

③西行物語絵巻の烏丸光広筆奥書(寛永七年=一六三〇)
※※烏丸光広=権大納言=細川幽斎より「古今伝授」継受
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-31

④宗達自筆書状(快庵=醍醐寺和尚?宛=「むし茸」御礼)

➄光悦書状(宗徳老宛=茶会関連)

⑥千少庵書状(千少庵=千利休の次男、妙持老宛、茶会関連)

⑦仮名草子『竹斎』の一節(五条の「俵屋」関連)

⑧菅原氏松田本阿弥家図(光悦と宗達とは姻戚?)

⑨『寛永日々記』(覚定の日記) → 寛永八年(一六三一)九月十三日条
※源氏御屏風壱双<宗達筆 判金一枚也>今日出来、結構成事也、→ 「源氏御屏風」 → 「関屋澪標図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

(参考三) 宗達の水墨画「白鷺図」関連について

白鷺図・光広賛.jpg

「雪中鷺図(俵屋宗達筆、烏丸光広賛)  MIHO MUSEUM蔵 → E図
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00000024.htm
【 ?~1640頃。桃山~江戸初期の画家。琳派の様式の創始者。富裕な町衆の出身で、屋号を俵屋といった。日本の伝統的な絵巻物などの技法を消化して大胆な装飾化を加える一方、水墨画にも新生面を開き、その柔軟な筆致や明るい墨調などによって日本的な水墨画の一つの頂点をなしている。「風神雷神図」(京都・建仁寺蔵)、「蓮池水禽図」(京都国立博物館蔵)などが代表作である。】

 この「白鷺図」は、『創立百年記念特別展 琳派』所収「作品解説35」などに紹介されている「楊屋宗販賛」のものではなく、「烏丸光広賛」のものである。「楊屋宗販賛」のものは、次のものである。

白鷺・宗販賛.jpg

「白鷺図」(俵屋宗達筆、楊屋宗販賛)紙本墨画、個人蔵、一〇四・〇×四六・五㎝、落款(宗達法橋)、印章(朱文円「対青軒) → F図
「芦を背景に横向きに立つ白鷺。芦はやや濃い墨を粗く使って、冬枯れの感じを出し、鷺は淡墨の柔かい描線で、巧みに表わされている。図上の賛の筆者は、妙心寺の僧・楊屋宗販(ようおくそうはん)。寛永八年(一六三一)に同寺第128世住職となり、宗達と同時代の人。」
(『創立百年記念特別展 琳派』所収「作品解説35」)

 このF図の落款は「宗達法橋」で、印章は「対青軒」である。一方のE図の落款は下記(G図)のとおり「法橋宗達」で、印章も「対青」と、E図とF図とでは、その落款と印章とを異にしている。この相違は何を意味しているのであろうか?
 「芦を背景に横向きに立つ白鷺」像は、一見して同じものという印象を受けるのだが、仔細に見て行くと、微妙に異にしている。このE図もF図も、晩年の宗達の傑作水墨画として、どのような関係にあり、どのように鑑賞すべきなのか?
 これまた、「宗達ファンタジー」の世界ということになる。

白鷺図・法橋印.jpg

「雪中鷺図」の部分図(落款・印章) → G図

 これらの「宗達ファンタジー」に関連する基本的な考え方は、下記のアドレスの「再掲」
のものと同じで、それらを、それ以降に得た新しいデータを基にして、その細部を「精度を高めるための整序・修正」を施すことになる。
 そして、それは、宗達の水墨画「白鷺図」に関連しても、F図を中心としての「※古田亮説」とは異なり、E図とF図との、この両図との検証を経てのもので、それは、丁度、その水墨画「蓮池水禽図」の「B図(国宝・「伊年」印)とC図(無印)とD図(「伊年」印)との、その比較検証を得てのものと同じような世界のものとなってくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27

(再掲)

【 ここで、宗達の落款の「署名」と「印章」について触れたい。宗達の落款における署名は、次の二種類のみである(『日本美術絵画全集第一四巻 俵屋宗達(源豊宗・橋本綾子著)』所収「俵屋宗達(源豊宗稿))。

A 法橋宗達
B 宗達法橋

 宗達の法橋叙位は、元和七年(一六二一)、京都養源院再建に伴う、その障壁画(松図襖十二面、杉戸絵四面・八図)を制作した頃とされており(『源・橋本前掲書』所収「俵屋宗達年表」)、上記の二種類の署名は、それ以降のものということになる。
 その款印は、次の三種類のものである。

a 対青  (朱文円印 直径六・四㎝)
b 対青軒 (朱文円印 直径七・六㎝)
c 伊年  (朱文円印 直径四・九㎝)

 このcの「伊年」印は、宗達の法橋叙位以前の慶長時代にも使われており、これは、「俵屋工房(画房)」を表象する「工房(画房)」印と理解されており、その「工房(画房)」主(リーダー)たる宗達が、集団で制作した作品と、さらには、宗達個人が制作した作品とを峻別せずに、押印したものと一般的に理解されている(『源・橋本前掲書』)。
 そして、宗達が没して、その後継者の、法橋位を受け継いだ「宗雪」は、このcの「伊年」印を承継し、寛永十四年(一六三七)前後に製作した堺の養寿寺の杉戸絵の「楓に鹿」「竹に虎」図に、このcの「伊年」印が使われているという。また、宗達没後、宗雪以外の「宗達工房(画房)」の画人の何人かは、cの「伊年」印以外の「伊年」印を使用することが許容され、その種の使用例も見られるという(『源・橋本前掲書』)。
 ここで、その「伊年」印は除外しての、落款形式別の作例は、次のとおりとなる(『源・橋本前掲書』に※『宗達の水墨画(徳川義恭著)』口絵図を加える)。

一 A・a形式(法橋宗達・「対青」印)
作例「松島図屏風」(フーリア美術館蔵)
  「舞樂図屏風」(醍醐寺三宝院蔵)
  「槇図屏風」(山川美術財団旧蔵・現石川県立美術館蔵)
http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/collection/index.php?app=shiryo&mode=detail&data_id=1278
  「雙竜図屏風(雲龍図屏風)」(フーリア美術館蔵)  

二 A・b形式(法橋宗達・「対青軒」印)
作例「源氏物語澪標関屋図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵) 
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html
※「鴛鴦図一」(その四・個人蔵)

三 B・b形式(宗達法橋・「対青軒」印)
作例「関屋図屏風」(烏丸光広賛 現東京国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/459227
  「牛図」(頂妙寺蔵・烏丸光広賛)
  「鳥窠和尚像」()クリーヴランド美術館蔵 
※「牡丹図」(その三・東京国立博物館蔵)
※「鴛鴦図二」(その五・個人蔵)
※「兎」図(その六・現東京国立博物館蔵)
※「狗子」図(その七)
※「鴨」図(その九)

 ここで落款の署名の「法橋宗達」(「鴛鴦図一=その四・個人蔵」)と「宗達法橋」(「鴛鴦図二=その五・個人蔵」)との、この「法橋宗達」(肩書の一人「法橋」の用例)と「宗達法橋」(三人称的「法橋」の用例)との、その用例の使い分けなどについて触れたい。
 嘗て、下記のアドレスなどで、次のように記した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19


《 この宗達の落款は「宗達法橋」(三人称の「法橋」)で、この「宗達法橋」の「牛図」に、権大納言の公家中の公家の「光広」が、花押入りの「和歌」(狂歌)と漢詩(「謎句」仕立ての「狂詩」)の賛をしていることに鑑み、「法橋宗達」(一人称)と「宗達法橋」(三人称)との区別に何らかの示唆があるようにも思えてくる。例えば、この「宗達法橋」(三人称)の落款は「宮廷画家・宗達法橋」、「法橋宗達」(一人称)は「町絵師・法橋宗達」との使い分けなどである。 》

 この「法橋宗達」(一人称的「法橋」の用例)と「宗達法橋」(三人称的「法橋」の用例)関連については、宗達の「西行法師行状絵詞」の、次の烏丸光広の「奥書」に記されている「宗達法橋」を基準にして考察したい。

《 右西行法師行状之絵
  詞四巻本多氏伊豆守
  富正朝臣依所望申出
  禁裏御本命于宗達法橋
  令模写焉於詞書予染
  禿筆了 招胡盧者乎
  寛永第七季秋上澣
   特進光広 (花押)

 右西行法師行状の絵詞四巻、本多氏伊豆守富正朝臣の所望に依り、禁裏御本を申し出だし、宗達法橋に命じて、焉(こ)れを模写せしむ。詞書に於ては予禿筆を染め了んぬ。胡盧(コロ、瓢箪の別称で「人に笑われること。物笑い」の意)を招くものか。
  寛永第七季秋上澣(上旬) 特進光広 (花押)   》(漢文=『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』、読み下し文=『源・橋本前掲書』)

 この奥書を書いた「特進(正二位)光広」は、烏丸光広で、寛永七年(一六三〇)九月上旬には、光広、五十二歳の時である。
 この寛永七年(一六三〇)の「烏丸光広と俵屋宗達・関係略年譜」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』所収)に、「十二月、上皇、女院、新仙洞御所に移られる」とあり、この「上皇」は「後水尾上皇」で、「女院」は「中宮の『徳川和子=女院号・東福門院』か?」と思われる。
 この徳川和子(徳川家康の内孫、秀忠の五女)が入内したのは、元和六年(一六二〇)六月のことで、その翌年の元和七年(一六二一)に、東福門院(徳川和子)の実母の徳川秀忠夫人(お江・崇源院)が、焼失していた「養源院」(創建=文禄三年、焼失=元和五年、再興=元和七年)を再興した年で、「俵屋宗達年表」(『源・橋本前掲書』所収)には、「京都養源院再建、宗達障壁に画く、この頃、法橋を得る」とある。
 この養源院再建時に関連するものが、先に触れた「松図襖(松岩図襖)十二面」と「杉戸絵(霊獣図杉戸)四面八図」で、この養源院関連については、下記のアドレスで詳細に触れているので、この稿の最後に再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07

 ここで、先の宗達の「西行法師行状絵詞」に関する光広の「奥書」に戻って、その「奥書」で、光広は宗達のことについて、「宗達法橋に命じて、焉(こ)れを模写せしむ」と、「宗達法橋」と、謂わば、「西行」を「西行法師」と記す用例と同じように、「敬称的用例」の「宗達法橋」と記している。
 これらのことに関して、「(宗達の水墨画の)、多くは宗達法橋としるしている。いわば、自称の敬称である。しかしそれは長幼の差のある親しい者同士の間によくある事例である。宗達がすでに老境に及んで、人からは宗達法橋と呼びならされている自分を、自らもまた人の言うにまかせて、必ずしも自負的意識をおびないで、宗達法橋と称したのは非常に自然なことといってよい。それはまたある意味では、老境に入った者の自意識超越の姿といってもよい。彼の水墨画にこの形式の落款が多いということは、逆にいえば、それらの水墨画が多くは老境の作であり、自己を芸術的緊張から解放した、自由安楽の、いわゆる自娯の芸術であったからであるといえるのではないか」(『源・橋本前掲書』) という指摘は、肯定的に解したい。
 これを一歩進めて、「法橋宗達」の署名は、「晴(ハレ)=晴れ着=贈答的作品に冠する」用例、そして、「宗達法橋」は、「褻(ケ)=普段着=相互交流の私的作品に冠する」用例と、使い分けをしているような感じに取れ無くもない。
 例えば、前回(その四)の「法橋宗達」署名の「鴛鴦一」は、黒白の水墨画に淡彩を施しての、贈答的な「誂え品」的な作品と理解すると、今回(その五)の「宗達法橋」署名の「鴛鴦二」は、知己の者に描いた「絵手本」(画譜などの見本を示した作品)的作品との、その使い分けである。
 次に、印章の「対青」と「対青軒」については、その署名の「法橋宗達」と「宗達法橋」との使い分け以上に、難問題であろう。
これらについては、『源・橋本前掲書(p109)』では、「aの『対青』印は『対青軒』印の以前に用いたものと思われる。『対青軒』印はほとんど常に宗達法橋の署名の下に捺されている。『対青』とは、恐らく『青山に相対する』の意と思われるが、或いは彼の住居の風情を意味するのかも知れない」としている。
 また、「宗達は別号を対青(たいせい)といい、その典拠は中国元時代の李衎(りかん)著『竹譜詳録』巻第六『竹品譜四』に収載されている『対青竹』だ。『対青竹出西蜀、今處處之、其竹節間青紫各半二色相映甚可愛(略)』とあり、その図様も載せる(知不足叢書本『竹譜詳録』)。宗達は中国の書籍を読んでいた読書人であった」(『日本文化私の最新講義 宗達絵画の解釈学(林進著)』p282~p283)という見方もある。
 ここで、「対青軒」(「対青」はその略字)というのは、宗達の「庵号(「工房・画房」号)」と解したい。そして、この「青軒ニ対スル」の「青軒」とは、「青楼」(貴人の住む家。また、美人の住む高楼)の意に解したい。
即ち、宗達の「法橋の叙位を得て、朝廷の御用を勤める宮廷画人」の意を込めての、「青軒」とは、「寛永七年(一六三〇) 十二月、上皇、女院、新仙洞御所に移られる」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』所収「烏丸光広と俵屋宗達・関係略年譜」)の、その「上皇(後水尾院)と女院(東福門院)」の、その「青軒」(青楼)の意に解したい。 】
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醍醐寺などでの宗達(その十九・「風神雷神図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十九「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「風神雷神図屏風 (宗達筆)」(その二)

風神・雷神図(構図三).jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風(部分図)」(右隻=風神図、左隻=雷神図)の構図
《「放射性」=「扇子」の「矩形」の中心点(上記の二点の中心点)からする構図 と、「湾曲性」=その「放射性」の中心点から湾曲(画面を弧状に横切る) 的な構図とによる、「扇面性」の構図を基調としている。》(『琳派(水尾比呂志著)所収「扇面構図論―宗達画構図研究への序論―」「宗達屏風画構図論」)

 前回のものをアップして、その時に、「モヤモヤとしていた」ものを次のように記した。
今回は、その「モヤモヤとしていた」、その「京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだ きんのり? - 正保4年(1647年))が、寛永14年(1637年)からの臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念に妙光寺に寄贈するため製作を依頼したとされる」ということに関連に焦点を絞って、その周辺を探索したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-11

【第一ステップ → まず、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」を、宗達がモデルにしているということからスタートしたい。

第二ステップ → 続いて、宗達は、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」から得た着想を、海北友北筆の「阿吽の双龍図」(建仁寺蔵)にダブらせて、「風神像」を「右」に、「雷神図」を「左」にの、「二曲一双」の屏風スタイルを着想したと解したい。

第三ステップ → 第一と第二ステップで着想を得た「風神(右)・雷神(左)」の二曲一双の屏風形式の配色は、後陽成天皇筆「鷹攫雉図」の「金地」を背景としての、「鷹」の「白」と「雉」の「緑・青」とを基調したいというインスピレーション(閃き)が、元和改元(後陽成天皇から後水尾天皇への代替わり)、そして、宗達自身の「町絵師(町衆をバックとする絵師)」から「法橋絵師(宮廷をバックとする絵師)」への脱皮を契機として、揺るぎないものとして定着してくる。

第四ステップ → 最終的な構図は、これまでの絵屋(扇屋)の最も得意とする、その「扇面性」(放射性と湾曲性)によって仕上げている。

 これは、これで、「なかなか面白い」と思ったのだが、次の『ウィキペディア(Wikipedia)』のデータとの関連をクリアするのが、これまた、厄介である。

「宗達の最高傑作と言われ、彼の作品と言えばまずこの絵が第一に挙げられる代表作である。また、宗達の名を知らずとも風神・雷神と言えばまずこの絵がイメージされる事も多い。現在では極めて有名な絵であるが、江戸時代にはあまり知られておらず、作品についての記録や言及した文献は残されていない。京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだ きんのり? - 正保4年(1647年))が、寛永14年(1637年)からの臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念に妙光寺に寄贈するため製作を依頼したとされる。後に妙光寺住職から建仁寺住職に転任した高僧が、転任の際に建仁寺に持って行ったという。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』) 】

角倉了以別邸.jpg

「角倉了以別邸跡→高瀬川一之船入→角倉了以翁顕彰碑」周辺(「木屋町通り」)

 宗達の「風神雷神図屏風」は、「京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだきんのり)」が、「臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念」に寄贈するため製作を依頼したもの」という妙光寺伝来の、「糸屋の打它公軌(糸屋十右衛門)」とは、謎につつまれた宗達と同じように、その全体像はなかなか正体不明の人物である。
 下記のアドレスでは、「豪商・打它公軌は越前(福井県)敦賀の豪商・糸屋彦次郎の子として生まれ、家業を継がずに京都に出て、驚月庵に営み、歌を大名・歌人である木下長嘯子、俳人・歌人である松永貞徳、公卿・歌人である中院通勝に学び、木下長嘯子の「挙白集」を編集した」と、ここでも、「中院通村」の実父「中院通勝」(嵯峨本『伊勢物語』校閲者)が出てくる。

https://kyototravel.info/kenninjifuujinraijinzu

 さらに、この打它公軌の「糸屋」は、当時の俗謡に次のようにうたわれているようなのだが、この「糸屋」も、様々にうたわれており、その「糸屋」の住所などは、今一つ分からない。

「〇〇〇〇糸屋の娘/姉は十六妹は十四/諸国(諸)大名は弓矢で殺す/糸屋の娘は眼で殺す」

 この「〇〇〇〇」には、「京都三条糸屋の娘」(梁川星巌)とか「大阪本町糸屋の娘」(頼山陽)とかの、その漢詩の「起承転結」の用例で出てくるやら、その他に「三条木屋町」とか「京の五条の」とか、そして、「姉の年齢は十八だとか、妹の年齢も十五」だとか、どうにもややっこしい。
 この俗謡を、「三条木屋町糸屋の娘」とすると、上記の「角倉了以別邸跡→高瀬川一之船入→角倉了以翁顕彰碑」周辺(「木屋町通り」)が、角倉了以・素庵親子が開削した運河の「高瀬川」に添う「木屋町通り」で、ここに、打它公軌の「糸屋」があったとすると、「光悦・素庵・宗達」(「嵯峨本」や「金銀泥料紙の制作」に携わった「光悦グループ」)の「素庵」との接点が浮かび上がってくる。
 ここに、元和七年(一六二一)頃に出版された古活字版仮名草子『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)に、「あふぎ(扇)は都たわらや(俵屋)がひかるげんじ(光源氏)のゆふがほ(夕顔)のまき(巻)えぐ(絵具)をあかせ(飽かせ=贅沢に)てかいたりけり」(『竹斎・守髄憲治校訂・岩波文庫』p28)の一節を重ね合わせると、「五条は扇の俵屋」の「俵屋宗達」との接点も、これまた浮かび上がってくる。
 この『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)の「五条は扇の俵屋」関連については、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

 ここでは、この「三条木屋町」の「打它公軌」の「糸屋」(繊維問屋)の、その「絲印」(室町時代以降、当時の中国からわが国に輸入された生糸に添付されていた銅印)と、宗達の印章として使用されている「伊年」印、そして、「「対青軒」の円印などとの関連である。
 この宗達の「伊年」そして「「対青軒」の円印と、「絲印」との関連について指摘したのは、下記のアドレスでの、『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左」においてであった。それを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-14

【又、伊年に限らず、対青軒(或は劉青軒)その他の円印に就てであるが、宗達以前に、筆者の印に斯様な大きな円印を用ひた例があるかどうか、私は未ださう云ふものを見た事がない。いずれ宗達は、何かからのヒントを得て、あゝ云ふ大きな円印を画に捺す様になつたものと思はれるが、果してそれは何であつたか。…… 勿論これを簡単に知る訳には行かない。唯、私は次の様な事を想像してゐる(之は文字通りほんの想像に過ぎないのであるが)。
 即ち、絲印が本になつてゐるのではないかと云ふ事である。絲印とは、室町時代の中頃から江戸時代の初めにわたつて、織物の原料たる生絲を、明国から輸入した際に、絲荷の中に一包毎に入れて送つて来た銅印を云ふのである。その際、絲の包紙にその印を押し、又受取書にも押して、斤里を改めて受けたしるしとしたのである。その印は鋳物で、皆朱字である。そして大きさは大小色々あり、輪郭も単線、複線があつて、形も方、円、五角、八角などがあつた。而も之は文具として用ひられる様になり、秀吉や近衛三藐院らはこの絲印を用ひてゐたと云はれてゐる。即ち宗達は機屋俵屋の一族かと思はれるから、当然これに関係があるし、又、三藐院は宗達と恐らく交際があつたと想像出来るから、ここにも繋がりがあるのである。(三藐院と宗達の合作らしき一幅があるし、光悦と三藐院は明らかに交はりがあつた。)
 併し宗達のことであるから、前代の画家の小円印や、所蔵者印の大きなものからヒントを得たのかも知れず、其の点は如何とも決定し難い。】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左」p13~p15)

 宗達の「伊年」印、「対青軒」の円印、そして、「絲印」などを、参考に、掲載して置きたい。

和歌巻21.jpg

「四季草花下絵千載集和歌巻」末尾の「光悦署名(花押)」に続く「伊年」印
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-17

対青軒印.jpg

「対青軒」=典拠は模刻印(摹刻印)。典拠は「野村宗達」で立項。典拠によると「印径二寸□カ」。印文は典拠に従った。
https://dbrec.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/CsvSearch.cgi?DEF_XSL=default&SUM_KIND=CsvSummary&SUM_NUMBER=20&META_KIND=NOFRAME&IS_DB=G0038791ZSI&IS_KIND=CsvDetail&IS_SCH=CSV&IS_STYLE=default&IS_TYPE=csv&DB_ID=G0038791ZSI&GRP_ID=G0038791&IS_START=1&IS_EXTSCH=&SUM_TYPE=normal&IS_REG_S1=none&IS_TAG_S1=Identifier&IS_KEY_S1=G0038791ZSI:47531&IS_LGC_S2=AND&IS_CND_S1=ALL&IS_NUMBER=1&XPARA=&IS_DETAILTYPE=&IMAGE_XML_TYPE=&IMAGE_VIEW_DIRECTION=

絲印.jpg

<絲印の由来>
絲印とは、室町時代以降、当時の中国からわが国に輸入された生糸に添付されていた銅印のことをいい、小さな鈕(ちゅう)のついた印である。
https://ameblo.jp/mammy888/entry-11927032659.html

 ここで、最初の振り出しに戻って、【「宗達の最高傑作と言われ、彼の作品と言えばまずこの絵が第一に挙げられる代表作である。また、宗達の名を知らずとも風神・雷神と言えばまずこの絵がイメージされる事も多い。現在では極めて有名な絵であるが、江戸時代にはあまり知られておらず、作品についての記録や言及した文献は残されていない。京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだ きんのり? - 正保4年(1647年))が、寛永14年(1637年)からの臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念に妙光寺に寄贈するため製作を依頼したとされる。後に妙光寺住職から建仁寺住職に転任した高僧が、転任の際に建仁寺に持って行ったという。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)】ということに関連しては、次のように解して置きたい。

(「宗達ファンタジー」その二)

一 宗達の最高傑作と言われる「風神雷神図」は、「家康が没(七五)した元和二年(一六一六)から後陽成院が崩御(四七)した元禄三年(一六一七)に掛けてのもので、それは、宗達の「法橋授位」の御礼の「禁裏(後水尾天皇)、仙祠御所(後陽成院)」などの御所進呈品の一つ」なのであるが、何らかの経過を経て、当時の上層町衆の一人である、当時の「三条木屋町」で「糸屋」(繊維問屋)を営む「打它公軌」(糸屋十右衛門)に下賜され、「打它公軌」(糸屋十右衛門))のものとなっている。

二 その「打它公軌」(糸屋十右衛門)の所有している「風神雷神図」は、妙光寺再興の記念に、同寺に寄贈される。この間の「寛永十四年(一六三七)~元文四年(一七三九)」までの、
下記のアドレスの「妙光寺編年表」より、主要なものを掲載して置きたい。
 これによると、「※万治3年3月11日(1660年4月20日  雲菴覚英) 後水尾院が仁和寺行幸の折,糸屋如雲の山荘である妙光寺へ山越えし,御成御見物をする。六七町あった。各々杖を携え,お供し,妙光寺の山上にて風景を御照覧された。」と、後水尾天皇は、この「妙光寺」で、御所に進呈され、それを、下賜した「風神雷神図屏風」に再会したということになる。
 また、この「風神雷神図屏風」が、建仁寺へ移管された時期は、「※※享保20年3月24日(1735年4月16日 東明覚沅) 東明覚沅へ建仁寺の公帖降下,驚月庵建物を移して居間書院とする。」の頃で、尾形光琳や乾山が、この「風神雷神図屏風」に接したのは、建仁寺ではなく、この妙光寺の方丈に於てであると思われる。

https://kyoto-bunkaisan.com/report/pdf/kiyou/02/06_mase.pdf

【寛永14年8月12日(1637年9月30日) 
打宅公軌が建仁寺霊洞院の所管の北山妙光寺屋敷並びに山薮の再興と管理をまかされる。

寛永16年10月13日(1639年11月8日 三江和尚)
妙光禅寺再建,開山法燈円明国師忌を降魔室において行う。

正保4年3月14日(1647年4月18日  三江和尚)
打宅公軌死去,驚月庵香林良亭居士と号す。

慶安元年9月13日(1648年10月29日  三江和尚)
打宅景軌が妙光寺の永代檀那となすことを常光大和尚に約定。妙光寺山のうち,西の方3分の1は,驚月庵へ永代地として除くが,それは良亭遺骨と祖父宗貞の遺骨を納めた石塔を建置く打宅一門の墓とするためである。

慶安3年8月23日(1650年9月18日  雲菴覚英)
三江和尚遷化,雲菴覚英継住

※万治3年3月11日(1660年4月20日  雲菴覚英)
後水尾院が仁和寺行幸の折,糸屋如雲の山荘である妙光寺へ山越えし,御成御見物をする。六七町あった。各々杖を携え,お供し,妙光寺の山上にて風景を御照覧された。

寛文6年(1666年  雲菴覚英)
打宅景軌により山門が再建落成される。

天和2年2月19日(1682年3月27日 乙檀西堂)
雲菴覚英遷化し,乙檀西堂が継住

元禄3年11月2日(1690年12月2日 乙檀西堂)
打宅十兵衛雲泉が驚月庵並びに山薮一式を預かるとともに,妙光寺のことも管理することを約定する。

元禄9年11月21日(1696年12月15日  東明覚沅)
乙檀西堂遷化,東明覚沅継住

享保6年8月22日(1721年10月12日 東明覚沅)
打宅十右衛門死去,實乗院観海雲泉居士と号す。

※※享保20年3月24日(1735年4月16日 東明覚沅)
東明覚沅へ建仁寺の公帖降下,驚月庵建物を移して居間書院とする。

※※元文4年10月29日(1739年11月29日 東明覚沅)
東明和尚,建仁寺へ再住開堂する。     】

(参考)  尾形乾山略年表

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/244188/1/kenzan2019.pdf

1663(寛文3) 1歳 京都の呉服商尾形宗謙の三男として誕生。幼名、権平。次兄は市丞(のちの光琳)。
1687(貞享4) 25 歳 父・宗謙没(67 歳)。家屋敷・金銀諸道具などの遺産を受け継ぐ。
1689(元禄2) 27 歳 仁和寺の門前、双ヶ岡の麓に習静堂を建てて隠棲する。
1694(元禄7) 32 歳 福王子村鳴滝泉谷にある山屋敷を二條家より拝領する。
1699(元禄 12) 37 歳 3月、仁和寺へ開窯を願い出て許可される。9月、窯を築く。
11 月、初窯。乾山焼と命名し、仁和寺門跡へ茶碗を献上する。
1700(元禄 13) 38 歳 3月、二條綱平 (1672-1732) へ乾山焼香炉を献上。その後 20 年近くにわたって、二條綱平へ乾山焼を献上する。
1712(正徳2) 50 歳 鳴滝乾山窯を廃窯する。二条丁子屋町へ移転し、「焼物商売」を継続する。
1731(享保 16) 69 歳 輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下向か。猪八(二代乾山)、聖護院門前で乾山焼を生産する(聖護院乾山窯)。
1737(元文2) 75 歳 3月、技法書『陶工必用』完成。9月、下野国佐野を訪れ、『陶磁製方』執筆。
1743(寛保3) 81 歳 6月2日、乾山没。
1744 ~ 1747(延享1~4) 二代乾山、聖護院門前で、乾山窯を継続か(「延享年製」銘の火入あり)。

(尾形光琳関連メモ)

http://www.kyoto-yakata.net/artist/2416/

1658年 万治元京都で呉服商の「雁金屋(かりがねや)」の当主、尾形宗謙の次男として生まれる。絵画、能楽、茶道などに親しむ。 30歳の時に父が死去し、財産を相続した為に40代頃まで放蕩・散財生活を送ったと考えられている。画業の始まりは画家が30代前半におこなった改名した頃と同一視されるも、本格的な活動は44歳から没する59歳までの約15年ほどであったと推測される。40歳のころ、ようやく絵師として立つことを決心します。

1701年 44歳で朝廷から優れた絵師に贈られる法橋の位を得る。もって生まれた天賊の才と公家や銀座の役人、中村内蔵助(くらのすけ)らをパトロンとして、光琳は瞬く間に絵師としての地位を確立します。順風満帆な光琳が屏風「燕子花図」を描いたのはこのころのようです。

1704年 しかし画業の成功も束の間、生来の派手好みは収まらず、やはり借金漬けの生活が続きます。そして京の経済が陰り始めたころ、光琳は江戸に出仕した中村内蔵助を追うようにして、自らも東下り、江戸に赴きます。

1709年 この時期、雪舟(せっしゅう)や雪村(せっそん)の写に没頭し、その画風を学びます。とはいえ如才のない光琳は大名家からも気に入られ、京に戻って新しい屋敷を構えるほどには成功したようです。

1711年 新町通りに新居を構え、精力的に制作を行う。「風神雷神図」「槇楓(まきかえでの図」「松島図」

1716年 逝去。また、辻惟雄が「艶隠者」と呼んだ貴族的・唯美主義的作家であり、 宮廷風に美しく立派な美学を打ち出した。
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醍醐寺などでの宗達(その十八・「風神雷神図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十八「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「風神雷神図屏風 (宗達筆)」(その一)

風神・雷神図屏風.jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」(国宝 紙本金地着色 二曲一双 各157.0×173・0cm 建仁寺蔵)→A図
【 落款・印章もないが、万人が宗達真筆と認める最高傑作。左右の両端に風神と雷神の姿を対峙させ、その間に広い金地の空間を作る。風神・雷神は仏画の一部に古くから描かれているが、ここでは一切の宗教性、説明性を排して、純粋に配色と構図の妙をもって画面を構成している。躍動、疾駆する体躯の力強い描写、たらし込みによる雲の軽やかな表現。二神の位置の確かさなど、晩年の円熟した画境を物語っている。 】(『創立百年記念特別展『琳派』目録』所収「作品解説1」)

 このスタンダードの「作品解説」の末尾の「晩年の円熟した画境を物語っている」の、この作品は、宗達の「晩年」(「寛永一九=一六四二、俵屋宗雪法橋の位にあり《隔冥記》宗達すでに没か」=『東洋美術選書宗達(村重寧著)』所収「宗達周辺年表」)の頃の作品なのであろうか?
 これらのことに関して、「俵屋宗達略年譜および各説時代区分で」は、次のとおり紹介されている。

【 「風神雷神図屏風」の制作時期
山根有三説 → 寛永一五(一六三八)~寛永一七(一六四〇) → 晩年(七一歳?以降)
水尾比呂志説→ 寛永一二(一六三五)~寛永一八(一六四一) → 晩年(六八歳?以降)
山川武説  → 元和七(一六二一) ~元和九(一六二三) → 壮年(五四~五六歳?)
源豊宗・橋本綾子説→元和五(一六一九)~元和七年(一六二一)→壮年(五二~五四歳?)
※古田亮説  → 元和二(一六一六)~元和三(一六一七)  →壮年(四九~五〇歳?)
 
  「法橋授位」の時期
山根有三説 →   寛永元(一六二四)           →五七歳?
※水尾比呂志説→  慶長一九(一六一四)~元和二年(一六一六)→四七~四九歳?
山川武説  →   元和八(一六二二)           →五五歳?
源豊宗・橋本綾子説→元和七(一六二一)           →五四歳?
古田亮説  →  元和元(一六一五)~元和四(一六一八)  →四八~五一歳?  】 
(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収俵屋宗達略年譜および各説時代区分))

 この「風神雷神図屏風」の制作時期が、宗達の晩年の「最後に到達しえた画境」(『東洋美術選書宗達(村重寧著)』)などとするのは、上記の「山根有三説」(「山根宗達学」)に由来するものなのであるが、それらの見解は、同時に、「皮肉にも落款(署名)も印もない。他の追随を許さぬこの画面をみてもらえばその必要はなしとしたのだろうか。あるいは恵まれた画歴の最後の時期において、これまでの作画の殻を破るべく、もう一度新たな忘我の境地で、名誉ある『法橋宗達』の自署をあえて捨ててかかったのであろうか」(『村重・前掲書』)となると、どうにも「贔屓の引き倒し」という感が拭えないのである。

 ここは、単純明快に、この「風神雷神図屏風」の「落款(署名)も印もない」というのは、宮廷(「御所」など)御用達(宮廷への進上品など)関連の作品と解して、より具体的に、宗達の「法橋授位」の御礼の、即ち、当時の「後水尾天皇」などへの進上品的絵画作品の一つと解したい。
 そして、その年譜(『村重・前掲書』)に、「元和二(一六一六) 俵屋の記事あり(中院通村日記三月十三日)」とあるのだが、これらのことに関連して、下記のアドレスで、「元和三年(一六一七)五月十一日の和歌会」の「中院通村日記」を紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

【 https://researchmap.jp/read0099340/published_papers/15977062

《五月十一日、今日御学問所にて和歌御当座あり。御製二首、智仁親王二、貞清親王二、三宮(聖護院御児宮)、良恕法親王二、一条兼遐、三条公広二、中御門資胤二、烏丸光広二、広橋総光一、三条実有一、通村二、白川雅朝、水無瀬氏成二、西洞院時直、滋野井季吉、白川顕成、飛鳥井雅胤、冷泉為頼、阿野公福、五辻奉仲各一。出題雅胤。申下刻了。番衆所にて小膳あり。宮々は御学問所にて、季吉、公福など陪膳。短冊を硯蓋に置き入御。読み上げなし。内々番衆所にて雅胤取り重ねしむ。入御の後、各退散(『通村日記』)。

※御製=後水尾天皇(二十二歳)=智仁親王より「古今伝授」相伝
※智仁親王=八条宮智仁親王(三十九歳)=後陽成院の弟=細川幽斎より「古今伝授」継受
※貞清親王=伏見宮貞清親王(二十二歳)
※三宮(聖護院御児宮)=聖護院門跡?=後陽成院の弟?
※良恕法親王=曼珠院門跡=後陽成院の弟
※※一条兼遐=一条昭良=後陽成院の第九皇子=明正天皇・後光明天皇の摂政
※三条公広=三条家十九代当主=権大納言
※中御門資胤=中御門家十三代当主=権大納言
※※烏丸光広(三十九歳)=権大納言=細川幽斎より「古今伝授」継受
※広橋総光=広橋家十九代当主=母は烏丸光広の娘
※三条実有=正親町三条実有=権大納言
※※通村(三十歳)=中院通村=権中・大納言から内大臣=細川幽斎より「古今伝授」継受
※白川雅朝=白川家十九代当主=神祇伯在任中は雅英王
※水無瀬氏成=水無瀬家十四代当主
※西洞院時直=西洞院家二十七代当主
※滋野井季吉=滋野井家再興=後に権大納言
※白川顕成=白川家二十代当主=神祇伯在任中は雅成王
※飛鳥井雅胤=飛鳥井家十四代当主
※冷泉為頼=上冷泉家十代当主=俊成・定家に連なる冷泉流歌道を伝承
※阿野公福=阿野家十七代当主
※五辻奉仲=滋野井季吉(滋野井家)の弟 》  

 そして、この背後には、「後陽成・後水尾天皇」の、次の系譜が繋がっている・。

(別記)

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢   ※二条綱平

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

 この「後陽成天皇」(後陽成院)の系譜というのは、単に、上記の「後水尾院」そして、「醍醐寺三宝院門跡・覚定」の醍醐寺関連だけではなく、皇子だけでも、下記のとおり、第十三皇子もおり、その皇子らの門跡寺院(天台三門跡も含む)の「仁和寺・知恩院・聖護院・妙法院・一乗院・照高院」等々と、当時の「後陽成・後水尾院宮廷文化サロン」の活動分野の裾野は広大なものである。

第一皇子:覚深入道親王(良仁親王、1588-1648) - 仁和寺
第二皇子:承快法親王(1591-1609) - 仁和寺
第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)
第四皇子:近衛信尋(1599-1649) - 近衛信尹養子
第五皇子:尊性法親王(毎敦親王、1602-1651)
第六皇子:尭然法親王(常嘉親王、1602-1661) - 妙法院、天台座主
第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮
第八皇子:良純法親王(直輔親王、1603-1669) - 知恩院
第九皇子:一条昭良(1605-1672) - 一条内基養子
第十皇子:尊覚法親王(庶愛親王、1608-1661) - 一乗院
第十一皇子:道晃法親王(1612-1679) - 聖護院
第十二皇子:道周法親王(1613-1634) - 照高院
第十三皇子:慈胤法親王(幸勝親王、1617-1699) - 天台座主     】

 これらのことに関して、ここで、宗達の「法橋授位」の時期は、「※水尾比呂志説→慶長一九(一六一四)~元和二年(一六一六)→四七~四九歳?」に近いものにして置きたい。

【 宗達への法橋授位は、かかる嵯峨本におけるすぐれた下絵や、多くの金銀泥料紙の制作といふ業績に対して、公卿や上層町衆の推挙により行われた、と私は推定する。それは一寺院の障壁画制作よりもはるかに重要な業績として宮廷に認められ得るものであり、推挙者にも最高の強力なメンバーが揃っている。絵屋俵屋の宗達は、画系上では何の格式も持たぬ一介の町絵師に過ぎなかったけれども、みづからもその一員たる上層町衆の位置から考えれば、当時の宮廷との関係は、現実的に狩野土佐その他の画人よりもいっそう親密であったとしてよい。加えるに嵯峨本というみごとな業績と強力な推挙者に恵まれていたのである。
法居叙任は、至極当然たったといえよう。 】(『琳派 水尾比呂志著』所収「俵屋宗達から法橋宗達へ」)

 この指摘のうちの「嵯峨本」については、京都嵯峨の豪商角倉家の角倉素庵(了以の嫡子)が、光悦と宗達との協力を得て出版した私刊本の総称で、「光悦本」とも「角倉本」とも呼ばれている。その代表的な『伊勢物語』の校閲者は、『中院通村日記』の通村の父通勝で、
ここにも、光悦・素庵らの上層町衆と宮廷文化人との密接な協力関係がその背景にある。
 さらに、「多くの金銀泥料紙の制作といふ業績」に関連しては、その中心をなすのは、「光悦書・宗達画」の二人のコラボレーションの、下記のものに代表される「光悦書・宗達画和歌巻」の世界ということになろう。これらの作品は、慶長十年代から元和初年にかけての制作であることが、「山根宗達学」などの先達によって考証されている。

① 「四季花卉下絵古今集和歌巻」一巻、畠山記念館蔵、重要文化財
② 「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」一巻、京都国立博物館蔵、重要文化財
③ 「鹿下絵新古今集和歌巻」一巻、MOA美術館、シアトル美術館ほか諸家分蔵
④ 「蓮下絵百人一首和歌巻」一巻、焼失を免れた断簡が東京国立博物館ほか諸家分蔵
➄ 「四季草花下絵千載集和歌巻」一巻、個人蔵

 上記の「光悦書・宗達画和歌巻」については、④の「蓮下絵百人一首和歌巻」を除いて、これまでに、下記のアドレスなどで主要な課題として取り上げてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-19

 ここで、改めて、これらの「嵯峨本」や「金銀泥料紙の制作」、そして、「光悦書・宗達画和歌巻」の世界は、「後陽成天皇(一五七一~一六一七)→第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、一五九六~一六八)・第四皇子:近衛信尋(近衛信尹養子、一五九九~一六四九)・第九皇子:一条兼遐=一条昭良、一六〇五~一六七二)→智仁親王(後陽成院の弟、一五七九~一六二九)」時代の、その中枢に位置した「後陽成天皇」(後陽成院)の、その「天皇権威復活・王朝文化回帰」への悲願ともいうべきものが、その原点にあったという思いを深くする。
 これらのことについては、下記のアドレスで触れたが、宗達の、この「風神雷神図屏風」と関連させて、再度、その周辺を探索してみたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-14

後陽成天皇画.jpg

後陽成天皇筆「鷹攫雉図」(国立歴史民俗博物館所蔵)
【『天皇の美術史3 乱世の王権と美術戦略 室町・戦国時代 (高岸輝・黒田智著)』所収「第二章 天皇と天下人の美術戦略 p175~ 後陽成院の構図(黒田智稿)」   

p175 国立歴史民俗博物館所蔵の高松宮家伝来禁裏本のなかに、後陽成院筆「鷹攫雉図(たかきじさらうず)」がある。背景はなく、左向きで後方をふり返る鷹とその下敷きになった雉が描かれている。鷹の鋭い右足爪はねじ曲げられた雉の鮮やかな朱色の顔と開いた灰色の嘴をつかみ、左足は雉の左翼のつけ根を押さえつけている。右下方に垂れ下がった丸みのある鷹の尾と交差するように、細長く鋭利な八枚の雉の尾羽が右上方にはね上がっている。箱表書により、この絵は、後陽成院から第四皇女文高に下賜され、近侍する女房らの手を経て有栖川宮家、さらに高松宮家へと伝えられた。後陽成天皇が絵をよく描いたことは、『隔冥記(かくめいき)や『画工便覧』によってうかがえる。

p177~p179 第一に、王朝文化のシンボルであった。鷹図を描いたり、所有したりすることは、鷹の愛玩や鷹狩への嗜好のみならず、権力の誇示であった。鷹狩は、かつて王朝文化のシンボルで、武家によって簒奪された鷹狩の文化と権威がふたたび天皇・公家に還流しつつあったことを示している。
第二に、天皇位にあった後陽成院が描いた鷹図は、中国皇帝の証たる「徽宗(きそう)の鷹」を想起させたにちがいない。(以下省略)
第三に、獲物を押さえ込む特異な構図を持つ。(以下省略)  
第四に、獲物として雉を描くのも珍しい。(以下省略)
 天皇の鷹狩は、天下人や武家によって奪取され、十七世紀に入ってふたたび後陽成院周辺へと還流する。それは、次代の後水尾天皇らによる王朝文化の復古運動の先鞭をなすものとして評価できるであろう。
 関ヶ原合戦以来、数度にわたり譲位の意向を伝えていた後陽成天皇が、江戸幕府とのたび重なる折衝の末にようやく退位したのは、慶長十六年(一六一一)三月のことであった。この絵が描かれたのは、退位から元和三年(一六一七)に死亡するまでの六年ほどの間であった。この間、江戸開府により武家政権の基礎が盤石となり、天皇・公家は禁中並公家諸法度によって統制下におかれた。他方、豊臣家の滅亡、大御所家康の死亡と、歴史の主人公たちが舞台からあいついで退場してゆくのを目の当たりにした後陽成院の胸中に去来りしたのは、天皇権威復活のあわい希望であったのだろうか。 】

風神・雷神図(視線の彼方).jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」国宝・二曲一双 紙本金地着色・建仁寺蔵(京都国立博物館寄託)・154.5 cm × 169.8 cm (部分拡大図)

(宗達ファンタジー その一)

慶長二十年(一六一五)五月の大坂夏の陣において江戸幕府が大坂城主の羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼしたことにより、応仁の乱(東国においてはそれ以前の享徳の乱)以来、百五十年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了し、同年七月元号は「元和」となり、ここに「元和偃武(えんぶ)」の時代が幕開けする。
 この年、近衛信尹(三藐院・没五〇)、角倉了以(没六一)、海北友松(没八三)が没し、古田織部が豊臣氏に内通した咎で切腹(没六二)している。この織部の切腹などに関連するのかどうかは謎のままだが、本阿弥光悦(五八歳)も、家康より洛北鷹が峰の地を与えられ、それまでの上京区の本阿弥辻から恰も所払いように移住することとなる。
 この翌年の元和二年(一六一六)に、徳川家康が没(七五)し、その翌年の元和三年(一六一七)に後陽成院が崩御(四七)する。この元和二年(一六一六)の「中院通村日記(三月十三日条)」に「俵屋絵の記事」が掲載された前後に、「絵屋・俵屋」の一介の町絵師から、宮廷絵師の「法橋」の授位を賜り、それは、上層公卿(「烏丸光広・中院通村」など)や上層町衆(「本阿弥光悦・角倉素庵」など)の推挙という異例のものであった。

宗達・風神雷神図一.jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風(部分図)」(右隻=風神図、左隻=雷神図)

 この宗達の最高傑作とされている、無落款(署名)・無印章の「風神雷神図」屏風は、何時頃制作されたのか?
 このことについては、家康が没(七五)した元和二年(一六一六)から後陽成院が崩御(四七)した元禄三年(一六一七)に掛けてのもので、それは、宗達の「法橋授位」の御礼の「禁裏(後水尾天皇)、仙祠御所(後陽成院)」などの御所進呈品の一つと解して置きたい。
 そして、その上で、この宗達の「風神雷神図屏風風」は何を主題したものなのかどうか?
このことについては、町絵師の「俵屋宗達」から、宮廷絵師「法橋(俵屋)宗達」へと推挙した、「町衆文化(「光悦・素庵」らの新興する「町衆文化」)と、「宮廷文化(「光広・通村」らの「宮廷文化」)との、新たなる止揚としての「元和偃武の王朝文化の復権」を目指すものであったと解したい。
 として、「法橋(俵屋)宗達」が使用することとなる「対青」そして「対青軒」の印章に照らして、右隻の「風神図」の「風神」の、この「白色」ならず有色の「緑・青色」の世界は、
「宮廷文化(「光広・通村」らの「宮廷文化」)、そして、左隻の「雷神図」の「雷神」の、この「白色」の世界こそ、当時、勃興する「町衆文化」を象徴するもと解して置きたい。
 ここで、この宗達筆の「風神雷神図屏風(部分図)」(C図)と、先の後陽成天皇筆の「鷹攫雉図」(B図)とを、じっくりと交互に鑑賞してみたい。
 とすると、この「風神雷神図屏風(部分図)」(C図)の左隻の「白色」の「雷神」図は、「鷹攫雉図」(B図)の、「白色」の胸毛を露わにした「雉ヲ攫ウ鷹」図と化し、一方の「風神雷神図屏風(部分図)」(C図)の右隻の「風神」図は、「鷹攫雉図」(B図)の、「有色」の「緑・青」の「鷹ニ襲ワレタ雉」の形相を呈してくることになる。
 後陽成天皇(後陽成院)のポジションは、常に、時の巨大な武門の覇権者(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)との熾烈な修羅場に身を置くことを余儀なくされた環境下にあり、好むと好まざるとに関わらず、そういう二極対立上の世界のものとして鑑賞されやすいが、この宗達の「風神雷神図屏風」の「風神」と「雷神」との見立ては、全く、これらを鑑賞する者の自由裁量に委ねられている。
 そして、これらのことと、この風神と雷神とを一双の両端上部に配置し、中央の二扇を全て金地の余白とした構図と密接不可分の関係にあり、これこそが、この「風神雷神図屏風」の、いわゆる「宗達マジック・宗達ファンタジー」の原動力があるように思われる。
 ここで、この「風神雷神図屏風」の出来上がるまでの、そのモデル(宗達が見本としたもの)の段階的な一つのイメージ化(仮想的な形象化)を提示したい。

第一ステップ → まず、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」を、宗達がモデルにしているということからスタートしたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-20

三十三間堂.jpg

「三十三間堂」=「雷神像(右)」「風神像(左)」

第二ステップ → 続いて、宗達は、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」から得た着想を、海北友北筆の「阿吽の双龍図」(建仁寺蔵)にダブらせて、「風神像」を「右」に、「雷神図」を「左」にの、「二曲一双」の屏風スタイルを着想したと解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-04

友松・龍右.png

海北友松筆「雲龍図」(襖八面)「右四幅」重要文化財 京都・建仁寺蔵 慶長四年(一五九九)

友松・龍左.jpg

海北友松筆「雲龍図」(襖八面)「左四幅」重要文化財 京都・建仁寺蔵 慶長四年(一五九九)

第三ステップ → 第一と第二ステップで着想を得た「風神(右)・雷神(左)」の二曲一双の屏風形式の配色は、後陽成天皇筆「鷹攫雉図」の「金地」を背景としての、「鷹」の「白」と「雉」の「緑・青」とを基調したいというインスピレーション(閃き)が、元和改元(後陽成天皇から後水尾天皇への代替わり)、そして、宗達自身の「町絵師(町衆をバックとする絵師)」から「法橋絵師(宮廷をバックとする絵師)」への脱皮を契機として、揺るぎないものとして定着してくる。

後陽成天皇画.jpg

後陽成天皇筆「鷹攫雉図」(国立歴史民俗博物館所蔵)

第四ステップ → 最終的な構図は、これまでの絵屋(扇屋)の最も得意とする、その「扇面性」(放射性と湾曲性)によって仕上げている。

風神・雷神図(構図三).jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風(部分図)」(右隻=風神図、左隻=雷神図)の構図
《「放射性」=「扇子」の「矩形」の中心点(上記の二点の中心点)からする構図 と、「湾曲性」=その「放射性」の中心点から湾曲(画面を弧状に横切る) 的な構図とによる、「扇面性」の構図を基調としている。》(『琳派(水尾比呂志著)所収「扇面構図論―宗達画構図研究への序論―」「宗達屏風画構図論」)
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醍醐寺などでの宗達(その十七・「雲龍図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十七 「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「雲龍図屏風 (宗達筆)」

雲龍図屏風.jpg

「雲龍図屏風」俵屋宗達 六曲一双 紙本墨画淡彩 各H x W: 171.5 x 374.6 cm フリーア美術館蔵
《綴プロジェクト作品(高精細複製品)「雲龍図屏風」(俵屋宗達筆) 寄贈先:東京芸術大学美術館》→ A図の一
https://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/vol-08.html

 この宗達の「雲龍図屏風」も下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-15-1

【Dragons and Clouds
Type Screen (six-panel)
Maker(s) Artist: Tawaraya Sōtatsu 俵屋宗達 (fl. ca. 1600-1643)
Historical period(s) Momoyama or Edo period, 1590-1640
Medium Ink and pink tint on paper
Dimension(s) H x W: 171.5 x 374.6 cm (67 1/2 x 147 1/2 in)

《「雲竜図屏風」俵屋宗達 六曲一双 紙本墨画淡彩 各H x W: 171.5 x 374.6 cm
六曲一双の大画面に波間から姿を現し、対峙する二頭の龍を雄渾な筆致で描く。二頭に反転したような姿態でにらみ合う。龍は周りを黒雲で囲み、塗り残しの白さで表す。左右に躍る二組の波濤の形態は、のちに光琳や抱一の「波図屏風」にそのまま受け継がれている。龍のいかめしい顔にも、どこかゆとりがあってユーモアを覚える。》(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)】

雲龍図屏風二.jpg

A図の二 (「左隻」の龍図・部分拡大図)

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A図の三(「右隻」の龍図・部分拡大図)

雲龍図屏風四.jpg
A図の四(「右隻」の波図・部分拡大図)

 確かに、この宗達の「波図」(A図の四) は、下記の光琳の「波図」(B図)と、抱一の「波図」(C図)とに、確りと引き継がれている。

波濤図屏風.jpg

尾形光琳筆「波濤図屏風」二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵→B図

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酒井抱一筆「波図屏風(部分拡大図)」六曲一双 各一六九・八×三六九・〇cm 静嘉堂文庫美術館→C図

 そして、確かに、この宗達の龍は、「龍のいかめしい顔にも、どこかゆとりがあってユーモアを覚える」ということを実感する。これは、宗達その人の自画像なのかも知れない。この龍の眼を見ていると、「好奇心旺盛で、猜疑心が強く、ユーモアと優しさを秘めて、一切は語らず」の、謎の絵師・宗達その人の「眼」という思いを深くする。
そして、この「眼」は、「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の、あの何とも言えない、二頭の「牛」の表情(「眼)と、同じものという印象を深くするのである。

宗達・関屋図部分二.jpg

「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」右隻=関屋図(部分拡大図)=D図の一

宗達・澪標船.jpg

「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」左隻=澪標図(部分拡大図)=D図の二

 この宗達の「牛」(D図の一)は、前の人物(空蝉の弟、空蝉の文を持っているか?)に近寄ろうとしている、その感情を秘めた「牛」の表情なのである。そして、次の「牛」(D図の二)は、「明石の方」が乗っている「屋形船」を見送る(再会を果たせず無念のうちに見送る)、、謂わば、「光源氏」の化身ともいうべきものなのである。
 これらのことについて、「宗達マジック・宗達ファンタジー」ということについて、下記のアドレナスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-09

 この「宗達マジック・宗達ファンタジー」というのは、決して宗達の独占的なものではなく、当時の名のある絵師なら、その大小や程度の差はあるが、何らかの「マジック」(トリック=騙し)やら「ファンタジー」(幻想・空想を呼び起こさせるもの)を、その作品の中に潜ませている。

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狩野探幽筆「八方睨みの雲龍図」(「京都・妙心寺」蔵)

八方睨み龍二.jpg

狩野探幽筆「八方睨みの雲龍図」(「京都・妙心寺」蔵)
「青矢印が太くて長いまつ毛に隠れた左目で、赤矢印は目ではなく鼻の一部にように受け止めてしまいますが、反対側に行くと、その赤矢印が大きく開いた目となり、「両目で睨まれる」となります」
http://blog.unno-kouenkai.com/?eid=1584000

 これは、狩野派の総帥、探幽の「騙し絵」である。探幽には「鳴き龍」(大徳寺「法堂」)もある。

大徳寺・鳴き龍.jpg

大徳寺・法堂 (重要文化財)寛永13年(1636年)、小田原城主稲葉正勝の遺志により、子の正則が建立した。天井に描かれている「雲龍図=蟠龍図」は狩野探幽35歳の作。→ E図
https://ja.kyoto.travel/specialopening/winter/2019/special/public01.php?special_exhibition_id=31

 この大徳寺には、等伯(等白)の天井に描かれている「雲龍図」もある。

等伯・雲龍図.jpg

大徳寺(山=三門)金毛閣〈龍の天井絵〉長谷川等白(等伯)筆=龍源院は能登の守護大名畠山氏が建立、再興し、等伯の師とされる等春が晩年を過ごした。→ F図
https://coshian.exblog.jp/17319338/ https://news.yahoo.co.jp/articles/e065c8946d9b759368deaded7a677ed046ca41f5

 探幽の「法堂」の「雲龍図」(鳴き龍)に比して、等白(等伯)の、この「金毛閣」の「雲龍図」は、それほど喧伝されていない。「永徳・等伯年譜」(『新編名宝日本の美術 永徳・等伯』所収 )の「天正十七年(一五八九、永徳・四七歳、等伯・五一歳)」の項に、「大徳寺三門の天井画・柱絵を描く。大徳寺三玄院創建。同院の襖絵(京都市円徳院他蔵)制作はこの頃か。(『大宝院鑑国師行道記』)」とある。
 この「山=三門・金毛閣」は、下記の「大徳寺境内図」の「勅使門→金毛閣→仏殿→法堂」の一直線上の中心伽藍の中にあり、「勅使門」の南側に「龍源院」、「法堂」の西側に「三玄院」、そして、「真珠庵」は「本坊・方丈」の北側に位置する。

大徳寺境内図.jpg

「大徳寺」境内図(配置図)
http://www.geisya.or.jp/~tamaruya/info/mapwide.html

 宗達(?~寛永十七=一六四〇)の時代は、等伯(天文八=一五三九~慶長十五=一六一〇)の時代から、探幽(慶長七=一六〇二~延宝二=一六七四)時代への、その橋渡しの時代ということになる。

雲龍図屏風二.jpg

A図の二 (「左隻」の龍図・部分拡大図)

 この宗達の「左隻」の龍図の視線は、「来し方」の、等伯の、F図の、「大徳寺(金毛閣」」の「雲龍図」を睨んでいる。

雲龍図屏風三.jpg

 この宗達の「右隻」の龍は、「行く末」の、探幽の、E図の「大徳寺(法堂)」の「「雲龍図=蟠龍図」を睨んでいる。

 宗達(?~寛永十七=一六四〇)時代の先鞭をつけた、等伯(天文八=一五三九~慶長十五=一六一〇)の時代に、もう一人、海北友松(天文二=一五三三~慶長二十=一六一五)の「雲龍図」(京都・建仁寺蔵)は、これは避けては通れないであろう。

友松・龍左.jpg

海北友松筆「雲龍図」(襖八面)「左四幅」重要文化財 京都・建仁寺蔵 慶長四年(一五九九)→G図の一

友松・龍右.png
海北友松筆「雲龍図」(襖八面)「右四幅」重要文化財 京都・建仁寺蔵 慶長四年(一五九九) →G図の二
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1632
【本坊方丈の玄関に最も近い位置にある「礼之間」を飾る8面の襖絵です。阿吽(あうん)の双龍が対峙するように配され、建仁寺を訪れたものを濃墨の暗雲の中から姿をあらわして出迎えます。迫力と威圧感は他の画家の追随を許しません。】

 この友松の「雲龍図」は、「阿吽(あうん)」=「阿=口を開ける・吽=口を閉じる」の「双龍図」なのである。それに比して、宗達の「双龍図」は、その口ではなく、その眼の、その「視線の先」は、一切が『語らざる』の、沈黙の「ファンタジーの世界(さまざまな幻想などを掻き立てる語らざる世界)」なのである。

風神・雷神図(視線の彼方).jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」国宝・二曲一双 紙本金地着色・建仁寺蔵(京都国立博物館寄託)・154.5 cm × 169.8 cm (部分拡大図)→H図 

宗達の最高傑作と言われている、友松筆「雲龍図」(襖八面)と同じ「建仁寺」所蔵の、「風神雷神図」(部分拡大図・H図)である。
 この宗達の、右の「風神図」の「風神」の口は「開いて」、さながら、友松の「阿の龍」(G図の二)で、その「眼」の視線も同じ方向である。
 そして、この宗達の、左の「雷神図」の「雷神」の口は「閉じて」、これもまた、友松の「吽の龍」(G図の一)さながらで、その「眼」の視線も、これまた、同じ方向である。

(これまでに、下記のアドレスで「風神雷神図」幻想(その一~二十))と題して、その周辺を探索したことがあるが、新たに「宗達ファンタジー」と題して、その続きをフォローして行きたい。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/c2306151768-1

【「風神雷神図」幻想(その一~二十)
2018-03-1  (その一)   河鍋暁斎の「風神雷神図」(一)
2018-04-24 (その二十) 光琳の「金」(風神雷神図)と抱一の「銀」(夏秋草図)、そして、其一の「金」(白椿図)と「銀」(芒野図)の世界 】

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