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源氏物語画帖「その四十三 紅梅」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

43 紅梅(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)   薫24歳春

長次郎・紅梅.jpg

源氏物語絵色紙帖  紅梅  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

花山院・紅梅.jpg

源氏物語絵色紙帖  紅梅  詞・花山院定煕
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「花山院定煕」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/16/%E7%B4%85%E6%A2%85_%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%B0%E3%81%84%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%B8%96_%E5%8C%82%E5%AE%AE%E4%B8%89%E5%B8%96%E3%81%AE

麗景殿に御ことづけ聞こえたまふ譲りきこえて今宵もえ参るまじく悩ましくなど聞こえよとのたまひて笛すこし仕うまつれともすれば御前の御遊びに召し出でらるるかたはらいたしやまだいと 若き笛をとうち笑みて
(第二章 匂兵部卿の物語 第一段 按察使大納言、匂宮に和歌を贈る)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十三帖 紅梅
 第一章 紅梅大納言家の物語 娘たちの結婚を思案
  第一段 按察使大納言家の家族
  第二段 按察使大納言家の三姫君
  第三段 宮の御方の魅力
  第四段 按察使大納言の音楽談義
 第二章 匂兵部卿の物語 宮の御方に執心
  第一段 按察使大納言、匂宮に和歌を贈る
  第二段 匂宮、若君と語る
  第三段 匂宮、宮の御方を思う
第四段 按察使大納言と匂宮、和歌を贈答
第五段 匂宮、宮の御方に執心

(「三藐院ファンタジー」その三十三)

 この「源氏物語画帖」が制作された同じ年代(「慶長期~元和初期)に、岩佐又兵衛(1578-1650)作とされている「豊国祭礼図屏風(六曲一双)」(徳川美術館蔵)と「洛中洛外図屏風・舟木本(六曲一双)」(東京国立博物館蔵)との二大大作屏風が制作されている。
 その「豊国祭礼図屏風」の右隻(第六扇)の中央部に、次の「かぶき者けんか図」として知られている場面が描かれている。

豊国祭礼図・秀頼.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)
http://jarsa.jp/wp/wp-content/uploads/2017/03/e7517-flyer.pdf

http://sengokudama.jugem.jp/?eid=4895

 この図が掲載されている「かぶき者―織田頼長と猪熊教利―(古田織部美術館蔵・宮出版社 )」では、この上半身裸の「かぶき者」(徒者=いたずらもの)は、「かぶき手の第一なり」(『当代記』)と名指しされている「織田左門頼長(道八)」(1582-1620)を想定しているようである。
 というのは、この頼長は、織田信長の甥で、茶人織田有楽斎(長益)の嫡男、そして、慶長十九年(1614)の大阪冬の陣では豊臣方につくが、その総軍の指揮にあたることを望んで容れれらず、その翌年(1615)に大阪城を出て京都に退去している(『大阪御陣覚書』)。
 そして、その大阪冬の陣の時に、頼長は「朱具足と朱鞘の刀、赤母衣(ほろ)を着けた女武者を連れて夜間の見回りをした」という話(『大阪陣山口休庵咄』 )などか出回っており、それらを題材にしての、岩佐又兵衛のイメージ化での創作なのであろうというのが、この図の一般的な解なのである。

かぶき者の鞘の銘.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)の「鞘の銘記文」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8778.html

【「いきすぎたりや、廿三、八まんひけはとるまい」
と当時の傾奇者たちにはやった死生観を表しているものと一般的に解釈されているようだ
(歴史番組?ヒストリアでもそのように紹介)。
 しかし、黒田日出男「豊国祭礼図を読む」でちょっと驚くような考察がされていた。
黒田氏の考察によれば、この図屏風は元和元年頃、蜂須賀家政の注文によるものだそうだが、「いきすぎたりや~」の若者の、喧嘩相手の側を見ると、卍紋や梅鉢紋をつけた男たちが必死になって仲裁し、鷹羽紋をつけた男が加勢しようとしている。
(卍紋は蜂須賀家、梅鉢紋は前田家、鷹羽紋は浅野家の家紋である。)
また、喧嘩のせいで倒れたと思われる、紋が散りばめられた上等の駕籠が描かれているが、
その紋の中心は豊臣家の桐紋であり、中から女の手が伸びている。
そして、1612年に処刑された傾奇者、大鳥一兵衛の刀には「廿五迄いき過ぎたりや一兵衛」
と「廿五まで」、となっているのに、絵の若者は「廿三」と中途半端な年齢である。
実は廿三とは豊臣秀頼の享年である。
 結論を言えば、岩佐又兵衛は大坂の陣をかぶき者同士の喧嘩にみたてたのではないか、という考察だった。
つまり、この画像のかぶき者は秀頼ということになるのだが・・・】

 上記の、上半身裸の「かぶき者」(徒者=いたずらもの)は、「かぶき手の第一なり」(『当代記』)と名指しされている「織田左門頼長(道八)」(1582-1620)ではなく、慶長二十年、改元して、元和元年(1615)の「大阪夏の陣」で大阪城が落城した時に自決した「豊臣秀頼」(享年23(満21歳没))の「見立て」(俳諧用語で「あるものを他のものになぞらえる作りかた。また、比喩仕立ての句」=それに準じた「創作」)が、この「かぶき者」の正体だというのである。
 この「豊国祭礼図屏風(岩佐又兵衛筆)」の「かぶき者けんか図」の「かぶき者=豊臣秀頼」とする見方は、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』の「Ⅷ 徳川美術館本《豊国祭礼図屏風》と岩佐又兵衛」(P230-270)で展開されているもので、ここでの見方が、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の「Ⅳ 二条城へ向かう武家行列と五条橋上の乱舞―中心軸の読解」(P179-213)と「舟木屏風の注文主と岩佐又兵衛」(P214-252)などにより、さらに、その細部が深化され、その全体像は、未だ、未完のまま、考察途上の現在進行形のものと解すべきものなのであろう。
 これらの、その全体像の考察は、下記の著作などで、その一端が紹介されている。

一 『江戸図屏風の謎を解く(黒田日出男著・角川選書471)』
二 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』
三 『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』

四  徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主(黒田日出男稿)
https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E5%8F%A2%E6%9B%B846.pdf

五 『岩佐又兵衛風絵巻の謎を解く(黒田日出男著・角川選書637)』
六 『岩佐又兵衛と松平忠直(黒田日出男著・岩波現代全書1.03)』

(参考一)「源氏物語画帖」と「猪熊事件」そして「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」との主要人物一覧

※※豊臣秀吉(1537-1598) → 「豊臣政権樹立・天下統一」「豊国祭礼図屏風」
※※土佐光吉(1539-1613) → 「源氏物語画帖」
※※徳川家康(1543-1616) →「徳川政権樹立・パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」
花山院定煕(一五五八~一六三九)  →「夕霧」「匂宮」「紅梅」
※※高台院 (1561? - 1598) →  「豊国祭礼図屏風」
近衛信尹(一五六五~一六一四)   →「澪標」「乙女」「玉鬘」「蓬生」
久我敦通(一五六五~?)      →「椎本」
※※淀殿1569?-1615) →  「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣 」
後陽成院周仁(一五七一~一六一七) →「桐壺」「帚木」「空蝉」
日野資勝(一五七七~一六三九)   →「真木柱」「梅枝」
※大炊御門頼国(1577-1613) →「猪熊事件」

※※岩佐又兵衛(1578-1650)→「豊国祭礼図屏風」「洛中洛外図・舟木本」

※※徳川秀忠(1579-1632) →「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※烏丸光広(一五七九~一六三八) →「猪熊事件」→「蛍」「常夏」 
八条宮智仁(一五七九~一六二九) →「葵」「賢木」「花散里」
四辻季継(一五八一~一六三九)  →「竹河」「橋姫」

※織田左門頼長(道八)(1582-1620) →「猪熊事件」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※猪熊教利(1583-1609)      →「猪熊事件」
※徳大寺実久(1583-1617)     →「猪熊事件」

飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)   →「夕顔」「明石」
中村通村(一五八七~一六五三)    →「若菜下」「柏木」 
※花山院忠長(1588-1662) →「猪熊事件」
久我通前(一五九一~一六三四     →「総角」    
冷泉為頼(一五九二~一六二七)     → 「幻」「早蕨」
※※豊臣秀頼(1593-1615)  → 「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
菊亭季宣(一五九四~一六五二)    →「藤裏葉」「若菜上」
近衛信尋(一五九九~一六四九)    →「須磨」「蓬生」
烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)   →「薄雲」「槿」
西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)   →「横笛」「鈴虫」「御法」

(参考二)「洛中洛外図屏風(舟木本)」と「豊国祭礼図屏風」

一 重文「洛中洛外図屏風(舟木本)」(岩佐又兵衛筆・東京国立博物館蔵) 
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

二の一 重文「豊国祭礼図屏風(右隻)」(岩佐又兵衛(伝)徳川美術館蔵)
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-right-screen-iwasa-matabei/2AFW7iv6tr1u3g?hl=ja

二の二 重文「豊国祭礼図屏風(左隻)」(岩佐又兵衛(伝)徳川美術館蔵)
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-left-screen-iwasa-matabei/DQG2KSydiLG95A?hl=ja

(参考三)「慶長・元和期における政治と民衆―『かぶき』の世相を素材として―」(鎌田道隆稿)

http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN10086451-19841200-1002.pdf?file_id=1682

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