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「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その六) [岩佐又兵衛]

(その六) 四条河原の「能」の小屋は何を演じているのか?

四条河原の「能」舞台.jpg

「四条河原の『能』の小屋」(右隻第五扇中部) → A図

 『洛中洛外図舟木本―町のにぎわいが聞こえてくる(奥平俊六著)』では、「舞台では『橋弁慶』が演じられている」とするが、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)では「鞍馬天狗」と軌道修正をしている。

「能」舞台・鞍馬天狗.jpg

「能・鞍馬天狗」
https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_025.html

【(あらすじ)
春の京都、鞍馬山。ひとりの山伏が、花見の宴のあることを聞きつけ、見物に行きます。稚児を伴った鞍馬寺の僧たちが、花見の宴を楽しんでいると、その場に先の山伏が居合わせていたことがわかります。場違いな者の同席を嫌がった僧たちは、ひとりの稚児を残して去ります。
 僧たちの狭量さを嘆く山伏に、その稚児が優しく声をかけてきました。華やかな稚児に恋心を抱いた山伏は、稚児が源義朝の子、沙那王[牛若丸]であると察します。ほかの稚児は皆、今を時めく平家一門で大事にされ、自分はないがしろにされているという牛若丸に、山伏は同情を禁じ得ません。近隣の花見の名所を見せるなどして、牛若丸を慰めます。その後、山伏は鞍馬山の大天狗であると正体を明かし、兵法を伝授するゆえ、驕る平家を滅ぼすよう勧め、再会を約束して、姿を消します。
 大天狗のもと武芸に励む牛若丸は、師匠の許しがないからと、木の葉天狗との立ち合いを思い留まります。そこに大天狗が威厳に満ちた堂々たる姿を現します。大天狗は、牛若丸の態度を褒め、同じように師匠に誠心誠意仕え、兵法の奥義を伝授された、漢の張良(ちょうりょう)の故事を語り聞かせます。そして兵法の秘伝を残りなく伝えると、牛若丸に別れを告げます。袂に縋る牛若丸に、将来の平家一門との戦いで必ず力になろうと約束し、大天狗は、夕闇の鞍馬山を翔け、飛び去ります。 】

 これもまた、源義経の幼少期を題材とした能で、他の同趣の能と同様『義経記』からの影響というよりも、「古浄瑠璃」(語り物)などと深く関わりのある演目の一つなのであろう。
 この「鞍馬天狗」でも、「能の牛若の物語を好み、源氏(新田氏)の後裔という強烈な自覚をもった注文主(とも思われる)、すなわち松平忠直」の好みの「語り」が、この舞台から伝わってくる。

【子方 「さん候誰今の稚児達は平家の一門。中にも安芸の守清盛が子供たるにより。
    一寺の賞鑑他山の覚え時乃花たり」
    みずからも同山には候へども。よろづ面目もなきことどもにて。
    月にも花にもすてらて候。
シテ 「あら痛はしや候。流石に和上﨟は。常磐腹には三男。毘沙門乃沙の字をかたどり。
    御名を紗那王とつけ申す。」
    あら痛はしや御身を知れば。所も鞍馬の木陰の月。」
(略)
地 上 「抑も武略の誉れの道。抑も武略の誉れの道。
     源平藤橘四家にも取り分き彼の家乃水上は清和天皇乃後胤として。
     あらあら時節を考え来たるに驕れる平家を西海におっくだし
     遠波滄波の浮雲に飛行の自在を受けて。
     敵を平らげ會稽を雪がん御身と守るべしこれまでなりや。
     お暇申して立ち帰れば牛若袂にすがり給えばげに名残あり。   
     西海四海乃合戦といふとも影身を離れず弓矢の力をそへ守るべし。
     頼めやたのめと夕影暗き。頼めやたのめと夕影暗き鞍馬の梢にかけって。
     失せにけり。   】

 『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』では、「四条河原の忠直」として、次のように記述している。

【 では、忠直は古浄瑠璃や浄瑠璃操りとどこで出会ったのであろうか。父秀康が阿国のかぶき踊りを見て、我が身の不運を嘆いたという有名な逸話があるように、不遇・不満のある武将たちは、かぶき踊りや「遊女歌舞伎」「浄瑠璃操り」などの諸芸能の見物で憂さを晴らしたのであろう。忠直も、次章で紹介するが、遊女歌舞伎の遊女を身請けしたぐらいだから、四条河原などの芸能空間に出掛けて、「遊女歌舞伎」などを熱心に観ていたことは間違いない。  】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P96)

 これらのことは、これを描いた「岩佐又兵衛」にも、均しく当て嵌まることであろう。
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「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その五) [岩佐又兵衛]

(その五)四条河原の「山中常盤浄瑠璃」は何を語っているのか?

山中常盤操り.jpg

「四条河原の『山中常盤操り』」(右隻第五扇上部) → A図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 右隻の第五・六扇の上部に、「四条河原のも諸芸能の見世物小屋」が描かれている。「かぶき小屋が二つ、人形あやつり小屋が二つ、そして、能の小屋が一つ」である。これは、その「人形あやつり小屋」の一つで、「山中常盤(物語)人形操り(浄瑠璃)」が演じられている。
 この左端の白い被衣(かずき。かつぎ=外出するときに頭からかぶった衣服)の女性が目を覆って泣いている。この演じられている右の二人の女性は、「常盤御前と侍従」、そして、左の三人は、六人の「盗賊」のうちの三人であろう。

山中常盤四.jpg

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA美術館蔵)の「 美濃の国、山中の宿にたどり着いた常盤は、盗賊に襲われて刀で胸を突き刺される。侍従は常盤を抱き、さめざめと泣く(第四巻)」 → B図
http://www.moaart.or.jp/?event=matabe-2019-0831-0924

「舟木本」(A図)の「常盤御前と従者」は、「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(B図)では、盗賊に襲われ、辱めを受け、虐殺されるのである。

宿の老夫婦に看取られて常盤の死.jpg

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA美術館蔵)の「常盤は宿の主人夫妻に自らの身分を明かし、牛若への形見を託す」(第五巻)→ C図

 この場面は夙に知られている。『岩佐又兵衛(辻惟雄・山下裕二著)・とんぼの本・新潮社』の表紙を飾り、その副題は「血と笑いとエロスの絵師」である。その内容は、次の二篇から構成されている(一部、要点記述)。

第一篇(人生篇)― その画家卑俗にして高貴なり (辻惟雄解説)
その一    乱世に生まれて 
その二    北の新天地で花ひらく
その三    江戸に死す
第二篇(作品篇)― 対談(辻惟雄+山下裕二 )
 その一 笑う又兵衛 ― 古典を茶化せ! 合戦も笑い飛ばせ!
 その二 妖しの又兵衛 ― 淫靡にして奇っ怪、流麗にしてデロリ、底知れぬカオス
 その三 秘密の又兵衛 ―「浮世又兵衛」(吃又兵衛=『傾城反魂香』)
 その四 その後の又兵衛― 又兵衛研究の総決算ここにあり!→『岩佐又兵衛―浮世絵
をつくった男の謎』(辻惟雄著・文春新書)→ 表紙=C図)

 これらに出てくる、「血と笑いとエロス」「淫靡にして奇っ怪、流麗にしてデロリ、底知れぬカオス」というネーミングを有する、これらの「岩佐又兵衛風古浄瑠璃絵巻群』(辻惟雄の命名)は、その作風を、次のように評されることになる(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P25-27「『又兵衛風絵巻群』についての辻仮説」要点記述)。

一 「荒々しいサディズムが横溢している。」
二 田中喜作によって「気うとい物凄さ」と評された一種の「妖気」も、「又兵衛風絵巻群」の「モノマニアックな表出性」にそのままつながる。
三 「又兵衛風絵巻群」の「派手な原色の濫用、表出的要素の誇張、人物の怪異な表情、非古典的な卑俗味といった要素」は、主として外的な諸要因によるものであり、それと又兵衛自身の特異な内的素質の相乗作用によって出来上がったものである。
 
 また、「又兵衛風絵巻群」の共通点として、次の七点が列挙される(『黒田・前掲書』P25-27「二冊の『岩佐又兵衛』」要点記述)

一 長大であること。
二 金銀泥や多様性の顔料を使った原色的色調による華やかな装飾性。
三 同じ場面の執拗な反復。
四 詞書の内容の細部にわたる忠実な絵画化。
五 劇的場面に見られる詞書の内容を越えたリアルでなまなましい表現性。
六 残虐場面の強調。
七 元和・寛永期の風俗画に共通する卑俗性。

 これらの「岩佐又兵衛画の作風」や「又兵衛風絵巻群の特徴」などに関しては、「美術」側(美術史研究家)の「辻惟雄シリーズ集」(そのライフワーク的諸研究)の要約の一端なのであるが、そこに「歴史」側(絵画史料研究家)の視点からのメス(「注文主を中心とした絵画資料読解」)を入れたのが、一連の「黒田日出男シリーズ集」と理解することが出来よう。

一 『江戸図屏風の謎を解く(黒田日出男著・角川選書471)』
二 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』
三 『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』

四  徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主(黒田日出男稿)
https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E5%8F%A2%E6%9B%B846.pdf

五 『岩佐又兵衛と松平忠直(黒田日出男著・岩波現代全書1.03)』
六 『岩佐又兵衛風絵巻の謎を解く(黒田日出男著・角川選書637)』

 そして、上記の「美術」側(美術史研究家)の「岩佐又兵衛論」に、「歴史」側(絵画史料研究家)の、次の、新しい「岩佐又兵衛論」の一ページを加えようと試みていることになる((『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P209-210、
以下、要点記述)。

【第一に、豊後(大分県)に配流された松平忠直は、寛永五年(一六二八)二月吉日に、母清涼院か弟忠昌を介して、「又兵衛風絵巻群」を描いた「岩佐又兵衛画工集団」に制作を依頼した「熊野権現縁起絵巻」(全十三巻)を「津守熊野神社」に奉納した。この「熊野権現縁起絵巻」の奥書(巻第十三)の「新田之門葉松平宰相源朝臣忠直、令寄進熊野権現之本地此十三之画軸当所之鎮守権現之社団者也、仍如件、于時寛永五年戊辰衣更着吉日 大分郡之神主 右衛門大夫」(P190-191)は、その他の記録(忠直の「祈念願書・寄進状」など)と照合して正しい。

第二に、「又兵衛風絵巻群」の棹尾に位置する津守本「熊野権現縁起絵巻」が寛永五年(一六二八)二月吉日に奉納されたことに鑑みて、その他の六作品群の絵巻は、それ以前の、又兵衛が越前下向した元和二年(一六一六)から、この寛永五年(一六二八)までに絞られ、この十二年の間に、集中的に制作された作品群である。さらに、この「熊野権現縁起絵巻」以外の作品群は、配流される元和九年(一六二三)までに作られたものと解せられる。

第三に、忠直は、豊後の配流地に「又兵衛風絵巻群」を持参した。それらの絵巻は元和九年から寛永四年十一月までは萩原の屋敷にあった。それ以降は津守の屋敷にあり、忠直が慶安三年(一六五〇)に亡くなるまで彼の書院に置かれ続けたのであろう。美術史的には「又兵衛風絵巻群」という命名でも構わないが、注文主忠直の趣味が色濃く表れていることや、それらの絵巻の制作を思い立った彼の意図を重視すると、「忠直絵巻群」と呼ぶのがふさわしい。越前藩主の忠直の将軍秀忠に対する反抗と表裏の関係をもって生み出された絵巻群として、近世初期の政治史にも位置づけられるべきであろう。「又兵衛風絵巻群」は、美術史と政治史にまたがる稀有な作品群だったのである。

(付記) 「又兵衛風絵巻群」(『岩佐又兵衛風古浄瑠璃絵巻群』)

一 残欠本「堀江物語絵巻」(香雪本上巻・香雪本中巻・三重県立美術館本・京都国立博物館本・香雪本下巻・長国寺本など) 
二 「山中常盤物語絵巻」(全十二巻)(重要文化財・MOA美術館蔵) 
三 「上瑠璃(浄瑠璃物語絵巻)」(全十二巻)(重要文化財・MOA美術館蔵) 
四 「をぐり(小栗判官絵巻)」(全十五巻)(宮内庁三の丸尚蔵館蔵・総長約三二四メートル)
五 「堀江巻双紙」(全十二巻)(MOA美術館蔵)
六 「村松物語(村松物語絵巻)」(全十八巻)(このうち、十二巻=海の見える美術館蔵、三巻=アイルランドのチェスター・ビーティ・ライブラリー蔵、三巻=所在不明)
七 「熊野権現縁起絵巻」(全十三巻)(津守熊野神社蔵、大分市歴史資料館寄託)  】
((『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P209-210、
以下、P174-208 など)

これらの記述に接すると、この「洛中洛外図・舟木本」の一角に、「四条河原の『山中常盤操り』→ A図」(右隻第五扇上部)が描かれており、これは、「注文主忠直の趣味が色濃く」宿っていると解したい。

(参考)「注文主を中心とした絵画史料読解」

注文主を中心とした絵画史料読解.jpg

https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0292030.pdf

(参考)特集展示「一伯公 松平忠直」

http://www.city.oita.oita.jp/o205/bunkasports/rekishi/documents/h28nennpou.pdf

特集展示「一伯公 松平忠直」
平成 28 年は、NHK 大河ドラマ「真田丸」が放送さ
れ、戦国武将ブームが再燃した年となった。この真
田丸の主人公・真田幸村(信繁)を討ち取った武将
として注目されることとなったのが、「一伯公」こ
と松平忠直である。
松平忠直は、徳川家康の孫として生まれ、越前福
井 68 万石の 2 代藩主として、大坂の夏の陣では幸
村を討ち取り、大坂城に一番乗りを果たすなど、大
変な活躍をみせた人物である。このような輝かしい
経歴をもちながら、幕府との軋轢から 29 歳の若さ
で藩主の地位を追われ大分(大分市萩原)へ移され
る。その後、大分市津守に移り、周辺の寺社を再建
するなど、地域の人たちに親しまれると同時に、自
らの生活や家族の安泰を第一に考えた余生をおくっ
たといわれる。
本展では、熊野神社に奉納された一伯公の遺品や
中根コレクションなどから生前の一伯公の勇姿や足
跡を紹介した。

展示品 熊野権現縁起絵巻[大分市指定有形文化
財]・熊野権現縁起絵巻見返紙・兜蓑・元和年中萩
原村絵図・松平忠直記念状(熊野神社)/本田忠勝書
「政」・大坂御陣図[大坂冬の陣図]・大坂陣図[大
坂夏の陣図](個人)/日根野時代府内藩領図(当館)
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「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その四) [岩佐又兵衛]

(その四) 御所に入る「牛車」には誰が乗っているのか?

家康が乗っている牛車.jpg

「牛車の参内行列(家康・義直・頼宣)」(左隻第四扇上部) → A図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 この上図について、下記のアドレスで、次のように紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

【 この牛車には「三つ葉葵と桐紋」があり、「大御所家康か秀忠」が乗っているようだが、
その後ろに、二挺の「手輿(たごし)」が並んでおり、脇には被衣の二人の女と、赤傘をさしかけている侍女が描かれている。この「手輿」には、家康の幼い子息が乗っているようである。
 家康は、慶長十一年(一六〇六)八月十一日に、五郎太丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、後の紀伊の徳川義宣)を元服させて、その二人を伴って叙任の参内をしている。この参内行列は、その時のものであろうと、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では推測をしている。 】

 これが、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』では、この時の、家康の参内には、「祖父家康に連れられて参内した忠直」と、松平忠直も、一緒に参内していると、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の記述を一歩進めている。

【 慶長十六年(一六一一)は、十七歳になった忠直にとって重大な出来事が次々に起こった。越前藩主としての忠直にとって大きな節目となった年である。第一に京都で叙位・任官があり、忠直は祖父家康に連れられて参内した。
 慶長十六年三月六日に駿府を出発した大御所家康は、同月十七日に京着して二条城に入った。同月二十日には、家康の子義利(義直)・頼将(頼宣)が右近衛権中将・参議に、鶴松(頼房)が従四位下右近衛少将に、そして、孫の松平忠直が従四位上左近衛少将に叙任された。その御礼のために、同月二十三日、家康は子の義利・頼将と孫の松平忠直を従えて参内したのである。
 のちに御三家となる徳川義利(尾張徳川家)と同頼将(紀伊徳川家)と共に参内した忠直は、天下人家康の孫として振る舞ったのである。忠直の人生にとって最初で最後の晴れやかな出来事であった。家康の孫、秀康の子であることを強烈に意識したことであろう。清和源氏新田氏の門葉(子孫)であることを自覚した機会でもあったに違いない。 】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P116-117)

参内する松平忠直.jpg

「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部) → B図

この図(B図)は、「(A図)」の上部に描かれているものである。この「(B図)」の、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の記述は、次のものである。

【 これで行列は終わらない(註・「(A図)」の行列)。金雲の上には、二騎の騎馬を中心にして、二十人近い白丁(註・下級武士)が駆け出している。かれらは、おそらく牛車の後に付き従っている白丁なのだ。 】

 ここで、「(A図)」(「徳川家康・義直・頼宣」麾下の「白丁」の「静」なるに対し、この騎馬の若武者の「白丁」は、前回の「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の「取り巻き」と同じように「動」なる姿態で、そして、その太鼓の上部の「日の丸」の扇子を持った男性と同じように、この「(B図)」でも「扇子」を持った、「白丁」よりも身分の高いような男性が描かれている。
 これらのことからして、その「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の「母衣武者」を「松平忠直」と見立てたことと同じように、この騎馬の貴公子は、「松平忠直」その人と見立てることは、極めて自然であろう。

日の丸胴母衣武者周囲.jpg

「三番目の母衣武者周辺」(左隻第二扇上部) → A-4図

 ここまでのことを整理すると、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、慶長十六年(一六一一)八月(これは三月が正しいか?)に、徳川家康は、「五郎太丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、後の紀伊の徳川義宣)」を元服させて、その二人を伴って叙任の参内をしている。」
 この時に、「(A図)」(「牛車の参内行列(家康・義直・頼宣)」)の「牛車」に「徳川家康」、そして、二挺の「手輿(たごし)」に、「五郎太丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、後の紀伊の徳川義宣)」が乗っている。
 さらに、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』において、この参内の時には、十七歳の「松平忠直」(越前藩主)も、「祖父家康に連れられて
参内」しており、これは、「忠直の人生にとって最初で最後の晴れやかな出来事であった。家康の孫、秀康の子であることを強烈に意識したことであろう。清和源氏新田氏の門葉(子孫)であることを自覚した機会でもあったに違いない」ということになる(この書では、上記の抜粋の通り、慶長十六年(一六一一)三月になっており、それは、『大日本史料』第十二巻之七の記述が「三月」で、前書の「八月」は『大日本史料』第十二巻之四に因っており、その違いのようである)。
 そして、この時には、「(B図)」(「家康と共に参内する松平忠直」))の通り、松平忠直は「従四位上左近衛少将」の騎馬の英姿で描かれているということになる。
 
 これが、岩佐又兵衛が、越前藩主・松平忠直の招聘により、越前北ノ庄の真言寺院、興宗寺(本願寺派)の僧「心願」を介して、それまで住み慣れた京から越前へと移住し、その松平忠直から依頼された、所謂、「又兵衛絵巻群」の、その絵巻の中で、次のように変貌して結実してくることになる。

山中常盤物語絵巻.jpg

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA美術館蔵 )の「山中常盤物語絵巻・第11巻(佐藤の館に戻った牛若は、三年三月の後、十万余騎をひきいて都へ上がる)」→ C図

http://www.moaart.or.jp/?event=matabe-2019-0831-0924

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」関連については、上記のアドレスで、その全貌を知ることが出来る。
 ここでは、この「義経(牛若)」の「従者」の恰好が、「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の、左端上方に描かれている」日の丸の扇子を持った男」に瓜二つのように似ているのである。同様に、「(B図)」「家康と共に参内する松平忠直」の左の「扇子を持った男」と、その仕草・恰好が瓜二つなのである。
 そして、この「義経(牛若)」の「金色の烏帽子」について、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』では、次のように読み解くのである。

【第一に、金色の烏帽子は能装束の冠り物であり、牛若・判官(義経)の姿に特徴的な記号表現であった。忠直と又兵衛は、この金色の烏帽子の記号表現を共有しており、クライマックスにおける主人公としたのである。(略)
第二に、主人公の金色の烏帽子姿の大半は、能の風折烏帽子ではなくて、梨子打烏帽子に鉢巻をした姿で描かれている。軍勢と戦闘の中心にいる主人公は鎧姿であるから、それにふさわして梨子打烏帽子とし、それを金色に表現したのであった。(略)
そして、第三に、金色の梨子打烏帽子という主人公の姿は、能の牛若の物語を好み、源氏(新田氏)の後裔という強烈な自覚をもった注文主、すなわち松平忠直にふさわしい記号表現だったのである。また、金色の梨子打烏帽子は、忠直が又兵衛ら画工集団とのコラボレーションによって「又兵衛風絵巻群」をつくっていたことを端的に物語っている。】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P260-262)

 ここで、「又兵衛風絵巻群」というのは、次の七種類のもので、『岩佐又兵衛風古浄瑠璃絵巻群』(辻惟雄の命名)の一群の絵巻を指す。「質量ともに物凄い絵巻群で、現存分を繋ぐと全長一・二キロメート近くになる」という(『黒田・前掲書)。

一 残欠本「堀江物語絵巻」(香雪本上巻・香雪本中巻・三重県立美術館本・京都国立博物館本・香雪本下巻・長国寺本など) 
二 「山中常盤物語絵巻」(全十二巻)(重要文化財・MOA美術館蔵) 
三 「上瑠璃(浄瑠璃物語絵巻)」(全十二巻)(重要文化財・MOA美術館蔵) 
四 「をぐり(小栗判官絵巻)」(全十五巻)(宮内庁三の丸尚蔵館蔵・総長約三二四メートル)
五 「堀江巻双紙」(全十二巻)(MOA美術館蔵)
六 「村松物語(村松物語絵巻)」(全十八巻)(このうち、十二巻=海の見える美術館蔵、三巻=アイルランドのチェスター・ビーティ・ライブラリー蔵、三巻=所在不明)
七 「熊野権現縁起絵巻」(全十三巻)(津守熊野神社蔵、大分市歴史資料館寄託)

 これらの「又兵衛風絵巻群」の全資料を読み解きながら、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』では、次のような結論に達している。

【 「又兵衛風絵巻群」の注文主は、越前藩主の松平忠直であった。元和二年(一六一六)に、忠直は、岩佐又兵衛を中心とする画工(絵師)集団に命じて「又兵衛風絵巻群」つくらせ始めた。ところが、忠直は、同七・八年に参勤途中で関ケ原に滞留し、越前に引き返す行動を繰り返し、同九年二月に、将軍秀忠の命によって「隠居」とされ、豊後国に流されてしまう。絵巻の制作は、そこで一旦終わった。したがって「又兵衛風絵巻群」は、元和年間に集中的に制作された作品群であった。 】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P242)

 これらの「洛中洛外図屏風・舟木本」そして「又兵衛風絵巻群」の、これらの謎解きの経過は、次の著書などにより明らかにされているのだが、未だに、「洛中洛外図屏風・舟木本」の「注文主」は、「越前藩主の松平忠直であった」とは、言明していない。それは、それなりに、何か、そう言明出来ない、何かしらの、納得し兼ねるものがあるのかも知れない。

一 『江戸図屏風の謎を解く(黒田日出男著・角川選書471)』
二 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』
三 『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』

四  徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主(黒田日出男稿)
https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E5%8F%A2%E6%9B%B846.pdf

五 『岩佐又兵衛と松平忠直(黒田日出男著・岩波現代全書1.03)』
六 『岩佐又兵衛風絵巻の謎を解く(黒田日出男著・角川選書637)』
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「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その三) [岩佐又兵衛]

(その三) 「舟木本)」の「祇園会で神輿の前座の母衣武者は何を意味するのか?」

三人の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者」(左隻第二扇上部) → A図

 祇園会の「神輿」集団の前に、この「傘鉾・三人の母衣武者」集団が描かれている。この先頭集団は、拡大すると次の図のとおりである。

三人の母衣武者の先頭集団.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者」の先頭集団(左隻第二扇上部)→ B図

 「三条通り」から「寺町通り」を下って、横の「四条通り」を練り歩いている、この中央の「大きな朱傘」が、「傘(笠)鉾」である。
『洛中洛外図舟木本―町のにぎわいが聞こえる(奥平俊六著)』では、この場面を次のように解説している。

【 四条通りを行く傘鉾、大きな朱傘を押し立てて、鬼面の者が団扇を振り仰ぎ、赤熊(赤毛のかぶり物)の者が笛や太鼓で囃す。先頭で踊るのは棒振り。みな異形の出で立ち、激しく踊り、囃す。見物も興味津々と見ている。『御霊会細記』によるとスサオノミコトが巨旦(こたん)を退治したときに、鬼たちが北天竺まで送っていった姿という。鉾というと巨大な山鉾を思い浮かべるが、この傘ひとつが鉾である。もともと祭礼の作り物や出で立ちは、過差風流(かさふうりゅう)、すなわち、日常とかけ離れたほどに工夫し、飾り立てる趣向を競うものであった。この傘鉾には風流の伝統が横溢している。長く途絶えていたが近年復活した。ところで、祇園祭礼の山鉾巡行は、洛中洛外図の主要モティ-フであり、室町期の作例にも江戸期の作例にも必ず描かれるが、本図にはこの傘鉾以外描かれない。これはどうしてだろうか。洛中をクロ-ズアップした本図に大きな山鉾を描き込むと周りの人々も含めて尺度感が微妙にずれる。その代わりに傘鉾を描き、母衣武者をやや誇張気味に大きく描いている。画家の構図や尺度感に対する慎重な配慮に感嘆せざるを得ない。 】(『洛中洛外図舟木本―町のにぎわいが聞こえる(奥平俊六著)』所収「祭りは異形の風流にみちている」)

山鉾(住吉具慶).jpg

「祇園会の山鉾巡行(「寺町通り」と「四条通り」の交差点)」(「洛中洛外図」(歴博F本・右隻・拡大図)→C図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_f_ex/r

 この「洛中洛外図」(歴博F本)」に関しては、次のアドレスで紹介されている。

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/164/witness.html

【 「職人風俗絵巻」と「洛中洛外図屏風歴博F本」

●職人風俗絵巻 → (略)
●職人の種類  → (略) 
●路上の人物  → (略)
●洛中洛外図屏風「歴博F本」→ (略)
●住吉具慶との関係 
それがどんな工房だったかについては、実は「自己申告」がなされていて、歴博F本には、「法眼具慶筆」という落款がある。落款は後世に書き込まれることもあるが、F本とよく似た別の屏風にも、やはり「法眼具慶筆」の落款があるので、制作当初から書かれていたと見られる。
 「法眼具慶」は、住吉具慶(すみよしぐけい)(一六三一~一七〇五)のことで、江戸幕府の奥絵師となり、大和絵の一派をなした画家だが、本人の筆としてはいかにも下手だし、落款もやや異なるようだ。しかし、「職人風俗絵巻」は、住吉具慶の代表作として知られる「洛中洛外図巻」(東京国立博物館蔵)や「都鄙図巻(とひずかん)」(興福院(こんぶいん)<奈良市>蔵)と似た構成を取っているとも言えるし、歴博F本も、画面は基本的に横方向の金雲で区切られ、つまり絵巻を縦に並べたような画面になっている。住吉具慶と何らかの関係があるか影響を受けた工房で、具慶をブランドとして用いていたのかもしれない。
●シェアと購買層
いずれにしても、現存の洛中洛外図屏風で言えば、この工房が最も「シェア」が高く、この種の都市風俗図をかなり量産していたことは間違いない。ということは、一方に安定した需要があったはずだが、いったいどのような人々がそれを購入していたのだろうか。この「職人風俗絵巻」も、実物はかなり美麗で、けっして安価なものだったとは思われない。上級の武家や公家・寺社、有力町人などが、その享受者だったと一応想定できよう。「職人風俗屏風」は、書き込まれた文字がほとんど平仮名なので、女性向きに作られたものと思われる。洛中洛外図屏風は嫁入り道具として好まれたことが知られており、これもそうだったのかもしれない。 】

この「洛中洛外図」(歴博F本)」は、「嫁入り道具として好まれた」、謂わば、誰にでも分かりやすい、「洛中洛外図」の「住吉具慶ブランド」の屏風物として、恰好のものである。そして、下京の代表的な風物詩として、この「山鉾巡行」は、主要なテ-マで、その屏風の主要な部分を占めてしまうことになる。
「舟木本」では、大胆に、この「山鉾巡行」を、何と、「一つの傘鉾と三人の母衣武者」で見立て替えして、しかも、今から、下京入りする「神輿」の、その前座の場面として描くという、これは、確かに、「奇想派の元祖」の「岩佐又兵衛」の面目躍如たるものがある。
 それにしても、この三人の母衣武者の「母衣」(鎧の背にかけて流れ矢を防ぎ,あるいは装飾にした袋状の布)の、周囲の建物の以上の大きさで、何とも目を惹くように描かれていることか。この「三人の母衣武者」を描くのに参考にしたような「二条城の前を行く母衣武者」の図がある。

二条城の前を行く母衣武者.jpg

「二条城の前を行く母衣武者」(「洛中洛外図(歴博D本)」左隻第二・三扇・中部)→D図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html

 この「洛中洛外図(歴博D本)」は、「大仏の前での乱闘場面や六条三筋町の遊郭が描かれている」など「舟木本」との共通点が多く、恐らく、「舟木本」と同時代の、そして、「舟木本」の先行的な作品で、「舟木本」は、ここから多くの示唆を受けているというような雰囲気なのである。

歴博D本の山鉾巡行.jpg

「三条橋・四条橋・五条橋と山鉾巡行」(「洛中洛外図(歴博D本)」右隻第二・三・四扇・中部)→E図)
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_r.html

 これは、「洛中洛外図(歴博D本)」の、「三条橋・四条橋・五条橋と山鉾巡行」の図である。上記の鴨川に架かる橋、右から「五条(大)橋・四条橋・三条(大)橋」と、下京の中心街を行く「山鉾巡行」の図である。
 この「E図」は、上記の「C図」(「祇園会の山鉾巡行(「寺町通り」と「四条通り」の交差点)」(「洛中洛外図」(歴博F本・右隻・拡大図))と、ほぼ、同じ方向の場面(その大小の差はあれ)と解して差し支えなかろう。 
 「舟木本」の「右隻」では、これらの「山鉾巡行」は全てカットして、その代わりに、
「洛中洛外図(歴博D本)」の「二条城の前を行く母衣武者」(D図)を換骨奪胎して、「傘鉾・三人の母衣武者」(A図)を仕上げたのではないかという印象を深くする。
 さらに、細かく指摘すると、「二条城の前を行く母衣武者」(D図)の、その「二条城の前で母衣武者一行を見守っている二条城の武将たち」の三人の武将(五人のうちの三人)、この冒頭の「傘鉾・三人の母衣武者」(A図)の、その「三人の母衣武者」のモデルなのではないかという見方である。

二条城前の徳川五人衆.jpg

「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(「洛中洛外図(歴博D本)」左隻第二・三扇・中部)→E図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html

 この二条城の前で、座って、祇園祭礼の仮装した「母衣武者行列」一行を見守っている、
Bの五人の武将たちの、左端の「馬藺(ばりん)」の「光背(こうはい)指物」を背にしている武将は、二条城の総大将の「徳川家康」の見立てということになる。
 そして、次の「軍配」を持っている武者は、家康の跡を継いで二代目将軍となる「徳川秀忠」ということになる。 

馬藺指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」(左隻第二扇上部) → A-1図

この巨大な「指物」(鎧の受筒に立てたり部下に持たせたりした小旗や飾りの作り物。旗指物。背旗)の「馬藺」(あやめの一種である馬藺の葉をかたどった檜製の薄板を放射状に挿している飾り物)の母衣武者(A-1図)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)の「馬藺」の指物を背にした総大将「徳川家康」の見立てと解すると、「徳川家康」という見立ても許されるであろう。

軍配指物の母衣武者.jpg
「傘鉾・三人の母衣武者の二番目の武者」(左隻第二扇上部) → A-2図

 同様に、この「軍配」(武将が自軍を指揮するのに用いた指揮用具。軍配団扇 の略。)の指物を背にした母衣武者(A-2図)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)の」軍配」を手にしている武将が「徳川秀忠」の見立てとすると、これまた、「徳川家忠」と見立てることは、決して、無理筋ではなかろう。

羽指物の母衣武者.jpg
「傘鉾・三人の母衣武者の三番目の武者」(左隻第二扇上部) → A-3図

 問題は、この三番目の母衣武者なのである。この背にある指物は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)には出て来ない。そこ(E図)での三番目の武者は、この羽色をした母衣を背にした武将で、その武将は、この(A-3図)のような、甲冑の「胴」に「日の丸」印のものは着用していない。
 そして、この「日の丸」印は、上記の「A-1図」では、「徳川家康」と見立てた母衣武者の左脇に、「日の丸」印の「陣笠」(戦陣所用の笠の称)に、「金色」のものが記されている。
 その「A-2図」では、「徳川秀忠」と見立てた母衣武者の右側で、今度は「団扇」に「日の丸」印が入っている。
 さらに、「B図」を仔細に見て行くと、「A-1図」の「徳川家康」と「A-2図」では、「徳川秀忠」周囲の「陣笠」は、「赤い日の丸」印と、「金色の日の丸」印とが、仲良く混在しているのに比して、この「A-3図」の母衣武者周囲の「陣笠」には、次の図(「A-4図」)のように、「無印」か「日の丸印」ではないもので、さらに、その左端の上部の男性の手には、「日の丸印」の「扇子」が描かれている。

日の丸胴母衣武者周囲.jpg
「三番目の母衣武者周辺」(左隻第二扇上部) → A-4図

 この「A-4図」の母衣武者(「A-3図」)集団と、「A-1図」(「徳川家康」の見立て)と「A-2図」(「徳川秀忠」の見立て)集団とは、別集団という雰囲気なのである。
 そして、この「A-3・4図」の母衣武者の甲冑の胴の「日の丸」と、「A-4図」の左端上部の「祭礼関係者?」の持つ扇子の「日の丸」は、「徳川幕府の天下統一」の「江戸幕府の公用旗」(「ウィキペディア」)に類するもののような印象なのである。
 その上で、この「A-3・4図」の母衣武者は、例えば、「徳川四天王」(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)の家臣団ではなく、「徳川親藩大名」(「徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩」)の、下記の藩主の一人という雰囲気を有している。

尾張徳川家(尾張藩)
紀州徳川家(和歌山藩)
水戸徳川家(水戸藩)
越前松平家(福井藩|松江藩|津山藩|明石藩|前橋藩 → 川越藩 → 前橋藩)
会津松平家(会津若松藩)
越智松平家(館林藩 → 棚倉藩 → 館林藩 → 浜田藩)

 このうちで、この岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」が作成された、「大阪冬の陣」(慶長十九年=一六一四)・「大阪夏の陣」(元和元年=一六一五)に、「徳川家康・同秀忠」と共に参戦した藩主は、十三歳にして越前六十七万石を継承した、越前福井藩主・松平忠直
が挙げられるであろう。
 その「大阪の陣の殊勲」関連について、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』から要約して抜粋して置こう。

【 慶長十九年十月に大阪冬の陣が起こった。十月四日に出陣の命令があり、同十六日、忠直は、越前からの軍勢と近江坂本と合流した。十一月十五日、徳川軍は大阪へ向かい、越前勢は前田・井伊・藤堂軍と共に大阪城の東南方に陣した。大阪城の東南部端には出城(真田丸)が築かれ、真田信繁が守っていた。(略)十二月四日、真田丸の挑発で前田軍が攻めかかったが、真田丸の猛烈な発砲によって死傷者が続出し、その援軍の井伊勢と越前勢は、先を争って進撃するが、こちらも真田丸や総構(そうがまえ)からの射撃で多数の戦死者を出し、忠直にとっては惨めな結果であった。
翌二十年(元和元)年四月に再び緊張が高まり、五月三日には徳川方が大阪城を包囲した。夏の陣である。そして五月七日の城攻めにおいて、天王寺表の先鋒を命じられた越前軍は「掛レカヽレノ越前衆、タンダ掛レノ越前衆、命シラズノ爪クロノ旗」と当時流行の小唄に謡われたような勇猛果敢さを発揮して一番乗りし、真田信繁を含む三千七百五十の首をとるなどの大殊勲をあげたのであった。
(当時、血気盛んな二十歳代の青年大名・松平忠直の英姿である。) 】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』p124-127)

ここで紹介されている小唄の「爪クロノ旗」は、「真田勢=赤甲冑・赤旗」に対する「越前勢=黒甲冑・黒旗」のイメージだが、それは、丁度、「A-4図」の「三番目の母衣武者周辺」の、この「黒い陣笠」の集団が、「大阪夏の陣」の「命シラズノ爪クロノ旗」集団を見立てているものと理解をしたい(下記の「参考」を参照)。
 そして、その理解の上に、もう一つ、次の「飛躍した理解」を積み重ねたい。

「三人の母衣武者の三番目の武者」(A-3図・A-4図)の、この「母衣武者」は、「大阪冬の陣・夏の陣」の頃の、「徳川家康」(一番手の母衣武者=大御所・家康)と「徳川秀忠」(二番手の母衣武者=徳川二代目将軍・秀忠)に続く、三番手の徳川親藩・越前福井藩主「松平忠直」(「徳川家康」の孫、「秀忠」の「兄・結城秀康の嫡子、娘・勝姫の婿)の「見立て」(あるものを他になぞらえてイメージすること)と解したい。

 さらに、もう一つ、その「砂上の楼閣」を重ねるように、この「越前松平家の当主・松平忠直こそ、岩佐又兵衛の、この『洛中洛外図屏風・舟木本』の、その背後に蠢いている中核に居座る「注文主」のその人である」ということを、様々な、この『洛中洛外図屏風・舟木本』の「見立て」の「謎解き」をして、その実像に迫りたいということなのである。

 ここでは、その「謎解き」の、そのスタートに相応しいものを記して置きたい。

【 忠直は、元和元年前後には岩佐又兵衛とその作品を知っており、翌二年に越前に呼び寄せた。そして、又兵衛を中心とした画工集団に、自分の選んだ『堀江物語』以下の物語を次々に絵巻に作らせたのであった。したがって、「又兵衛風絵巻群」の絵巻としての諸特徴には、忠直の好みがよく現れており、忠直が進んで絵巻化した五つの物語には、彼の倫理や願望が色濃く映しだされている。「又兵衛風絵巻群」は、越前藩主松平忠直の斑紋と彼の趣味が生み出した稀有の作品群であり、「忠直絵巻群」だったのだ。】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』p242-243)

ここに、簡略な「松平忠直のプロフィール」も併記して置きたい。

【 松平忠直(まつだいらただなお) (1595―1650)
江戸前期の大名。2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の兄結城秀康(ゆうきひでやす)の長男。母は中川一茂(かずしげ)の娘。1607年(慶長12)父秀康の領地越前(えちぜん)国福井城(67万石といわれる)を相続し、11年将軍秀忠の三女を娶(めと)る。
15年(元和1)の大坂夏の陣では真田幸村(さなだゆきむら)らを討ち取り大功をたてた。その結果同年参議従三位(じゅさんみ)に進むが領地の加増はなく、恩賞の少なさに不満を抱き、その後酒色にふけり、領内で残忍な行為があるとの評判がたった。
また江戸へ参勤する途中、無断で国へ帰ったりして江戸へ出府しないことが数年続いたりしたので、藩政の乱れを理由に23年豊後萩原(ぶんごはぎわら)(大分市)に流され、幕府の豊後目付(めつけ)の監視下に置かれた(越前騒動)。
豊後では5000石を生活のために支給され、当地で死んだ。いわば将軍秀忠の兄の子という優越した家の抑圧の結果とみられる。なお処罰前の乱行について菊池寛が小説『忠直卿(きょう)行状記』を著したので有名となるが、かならずしも史実ではない。[上野秀治]
『金井圓著「松平忠直」(『大名列伝 3』所収・1967・人物往来社)』 】(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

(参考)「松平忠直」周辺

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao3.htm

「忠直をめぐる動き」

1595(文禄4)
 結城秀康の長男、長吉丸(忠直)誕生
1601(慶長6)
 秀康、越前入国。北庄城の改築始まる
1607 秀康、北庄で死去
忠直、越前国を相続
1611 勝姫と婚姻
1612 家臣間の争論、久世騒動起きる
1615(元和元)
 大坂夏の陣で戦功、徳川家康から初花の茶入れたまわる。
 長男仙千代(光長)北庄に誕生
1616 家康、駿府で死去
1618 鯖江・鳥羽野開発を命じる
1621 参勤のため北庄を出発も、今庄で病気となり北庄に帰る。
仙千代、忠直の名代として江戸へ
1622 参勤のため北庄たつも関ケ原で病気再発、北庄に帰る。
永見右衛門を成敗
1623 母清涼院通し豊後国へ隠居の上命受ける。3月北庄を出発、
5月豊後萩原に到着
1624(寛永元)
 仙千代、越後高田に転封。弟忠昌が高田より越前家相続。
 北庄を福井と改める
1626 忠直、豊後萩原から同国津守に移る
1650(慶安3)
 9月10日、津守で死去。56歳。10月10日、浄土寺で葬儀

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao7.htm

「大阪夏の陣の松平忠直」

夏の陣の松平忠直.jpg

「大阪夏の陣の松平忠直」(「大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵)」右隻・部分拡大図)→F-1図

 この図は、上記の「本田忠朝」(「本田忠勝」の次男)は、この大阪夏の陣で戦死を遂げる。
その下が「松平忠直」の「越前勢」で、「赤備え」の「真田勢」との合戦の場面である。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/18/The_Siege_of_Osaka_Castle.jpg

夏の陣松平忠直・爪黒の旗.jpg

「大阪夏の陣の松平忠直」(「大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵)」右隻・部分拡大図)→F-2図

この図(F-2図)は、F-1図の拡大したもので、この中央に黒馬に跨っている若き武将が、「越前勢」の総大将「松平忠直」の英姿であろう。その上に林立する「吹流し」が、小唄に謡われた「掛レカヽレノ越前衆、タンダ掛レノ越前衆、命シラズノ爪クロノ旗」の「爪クロノ旗」なのかも知れない。

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao8.htm

「恩賞にもらった初花の茶入れ」

https://www.saizou.net/rekisi/hideyasu.htm

「結城秀康は松平本家を継いだ?」

https://www.saizou.net/rekisi/etizen/matudaira.htm

「将軍は本家、越前は嫡家」

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao1.htm

「松平忠直の謎」
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「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二) [岩佐又兵衛]

(その二) 「舟木本)」の「祇園会で神輿を担いでいる男は誰か?」

 「2021年4月14日(水)[NHK・BSプレミアム]前10:45~11:15」に、「洛中洛外図屏風 舟木本(国宝)」が放送されていた。その時の、ネット記事が、下記のアドレスで次のとおり紹介されている。

https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=28261

【京都のパノラマを描いた洛中洛外図屏風。現存する100を超える洛中洛外図屏風の中で、異彩を放つのが江戸時代のはじめに描かれた国宝「舟木本」。この屏風には、権力者である武士のみならず、庶民や商人まで2700人を超える人物が所せましと描かれ、当時の風俗を知る一級資料として注目されています。日本の中心が江戸に移ったころの京都にはどんな暮らしがあったのか? 450インチのスクリーンに屏風を投影し、ゲームコントローラーで拡大すると、現代にはない商売人の姿や意外な女性像などが次々と発見できます。さらに、現代の京都地図と比較しながら深掘りすると、隠された政治的メッセージが見えてくる!?  400年前の知られざる京都の姿に迫ります。】

 そして、次の図がアップされていた。

舟木本・神輿を担ぐ男.jpg

「洛中洛外図・舟木本」の「神輿を担ぐ男」(「2021年4月14日(水)[NHK・BSプレミアム]図)

 この「神輿を担ぐ男」を、「洛中洛外図・舟木本」右隻(C図)と「洛中洛外図・舟木本」左隻(D図)から、「権力者である武士のみならず、庶民や商人まで2700人を超える人物」の中から、探し出すのは容易ではない)。

舟木本・神輿を担ぐ男(板倉勝重?).jpg

「洛中洛外図・舟木本(A・B図)」の「神輿を担ぐ男」(左隻=B図・第三扇上部)

 確かに、この「神輿を担ぐ男」は、「洛中洛外図・舟木本」の「左隻=D図・第三扇上部」に、上図のとおり出てくる。
 この図の左端の、神輿を担いでいる、愛嬌のある、ふっくら顔の「おっさん」風情の男が、上記の、アップして放映されていた男性である。この男性は、「町人なのか? 武士なのか?」……、周りの男性は、町人というよりも武士という雰囲気である。右隣りの日の丸の扇子をかざしている男は、どう見ても武士という恰好であろう。
 この図は、祇園会の神輿を担いでいる図である。この「舟木本」の祇園会は、この「神輿渡御」(八坂神社主宰の「官祭」)関連のみで、「山鉾巡行」(八坂神社氏子主宰の「町衆祭」 )関連のものは、出て来ない。
 ここで、上記の放映記事の、「現代の京都地図と比較しながら深掘りすると、隠された政治的メッセージが見えてくる!?  400年前の知られざる京都の姿」が、この「舟木本」の六曲一双に、巧妙に配置されていることに思い知る。
 これらのことを、冒頭に掲げた、「舟木本」の解説記事(「東京国立博物館」)を、下記に再掲し、その「隠された政治的メッセージ」などの一端を記して置きたい。
 
【 (再掲)
右端には豊臣氏の象徴ともいうべき方広寺大仏殿の偉容を大きく描き、左端には徳川氏の二条城を置いて対峙させ、
《隠された政治的メッセージ》豊臣時代の「桃山文化」を右端に、そして、徳川時代の「パックス・トクガワ-ノ(徳川の平和)」の到来を象徴する「二条城」を左端に、その両者を対峙させる。
その間に洛中、洛東の町並が広がる。右隻を斜めによこ切る鴨川の流れが左隻に及び、2隻の図様を密に連繋させている。建物や風俗をとらえる視点は一段と対象に近づき、随所に繰り広げられる市民の生活の有様を生き生きと描出する。
《隠された政治的メッセージ》応仁の乱以降、戦乱の中を逞しく、そして、「公家・武家文化」から「町衆文化」を生み出していく、京の人々の生き様を描出する。

右隻の上方には桜の満開する豊国廟をはじめ、清水寺、祇園などの洛東の名刹が連なり、鴨川の岸、四条河原には歌舞伎や操り浄瑠璃などが演じられ、歓楽街の盛況ぶりが手にとるように眺められる。
《隠された政治的メッセージ》右隻の上方に、「豊国廟」(豊臣秀吉の眠る廟)・「清水寺・祇園」(古都京都を代表する「清水寺」そして、京の人々の「産土」の「祇園さん・八坂さん」)などを背景にして、鴨川の岸、四条河原には「歌舞伎・浄瑠璃・能」の小屋が建ち並び、それに続く「遊楽歓楽街」の盛況ぶりが活写される。

左隻では祇園会の神輿(みこし)と風流が町を進行し、南蛮人の姿も認められる。右下の三筋町の遊廊では路傍で遊女と客が狂態を演じ、街には各種の階層の人々がうごめき、その数はおよそ2500人に及ぶ。
《隠された政治的メッセージ》五条の橋を渡り、左隻では、祇園会の「神輿」(八坂神社主催の「神輿渡御」)が出発し、その前座の「山鉾」(祇園社氏子の「町衆」主催)に代わり、母衣を背にした鎧武者と仮装した町衆の「風流」衆が、練り歩いている。その「三条通・四条通・五条通」の下方に、二条城の整備に関連して移住してきた「六条三筋町」の遊郭街が現出する。この「下京」(商業街区の「町衆」の町)と「上京」(御所のある「公家・武家・上層町衆」の町)との、各種・各層の2500人とも2700人と言われている人々が生き生きと描かれている。

その活趣あふれる人物の諸態を見事に描き表した画家の名は不明であるが、岩佐又兵衛が候補にあげられている。
《隠された政治的メッセージ》この「活趣あふれる人物の諸態を見事に描き表した画家の名」は、「岩佐又兵衛」、あるいは、その一派(岩佐又兵衛工房)の手によると伝えられている。この「岩佐又兵衛」は、近松門左衛門による人形浄瑠璃の演目の一つ『傾城反魂香(けいせい はんごんこう)』の中に登場する大津絵師・「吃又平(どものまたへい)」とか、在世中から「浮世又兵衛」のあだ名で呼ばれている「又兵衛浮世絵開祖説」有する、その人物像は伝説化している。 】

 さて、冒頭の「神輿を担ぐ男」に戻って、祇園会の「山鉾」は、祇園社氏子の「町衆」(町人)が主催するのに対し、「神輿」は、八坂神社主催の「神事」で、その担ぎ手は「輿丁(よちょう)といい、同じ法被姿(白装束など)で、この「神輿を担ぐ男」も町人風情であるが、隣りの裃姿で日の丸扇子を煽っている武士風情の男性などと関係からすると、何やら、武士階級の「輿丁」の一人という雰囲気で無くもない。

左六下・板倉勝重の九曜紋.jpg

(「九曜紋の板倉勝重」(左隻第六扇下部)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-11

 上記のアドレスに出てくる、この京都所司代の「九曜紋の板倉勝重」(1545-1624)は、幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧であったが、三十七歳の時、徳川家康の命で還俗して武士となり、家督を相続したという、家康配下の十六武将の一人だが、他の武将と違った経歴の持ち主なのである。
 板倉勝重が、京都所司代になったのは、関ヶ原の戦い後の慶長六年(一六〇一)のことで、
その職務は、「朝廷や公家の監察、畿内の天領の訴訟処理、さらには豊臣家や西国大名の監視」という、単に、京都という区域内に関するものではなかった。
 元和六年(一六二〇)に、長男・重宗に京都所司代の職を譲るまで、その名所司代として、下記のアドレスでは、その業績として、次の三点を挙げている。

https://tikugo.com/osaka/busho/itakura/b-itakura-sige.html

一 朝廷にメスを入れる → 慶長十四年(一六〇九)の「猪熊事件」(女官・公家の密通事件)に際し、後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。

二 大坂冬の陣・夏の陣の功労者 → 慶長十九年(一六一四)からの大坂の陣の発端となった「方広寺鐘銘事件」、続く、「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」の、和議交渉と、豊臣家滅亡後の一連の終戦処理に主導的役割を果たした。

三 公家諸法度の制定の立役者 → 慶長十九年、改元して、元和元年(一六一四)に発効した「公家諸法度」の制定の立役者であると同時に、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に怠りがなかった。

 ここで、この京都所司代・板倉勝重の、これらの業績のことごとくが、何やら、この「洛中洛外図屏風・舟木本(岩佐又兵衛作)」の「右隻」「左隻」の六曲一双の屏風の中に、それとなく描かれているようなのである(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男男)著』)。

 として、この「九曜紋の板倉勝重」に似通っている人物が、「権力者である武士のみならず、庶民や商人まで2700人を超える人物」([NHK・BSプレミアム]、「東京国立博物館」では2500人)から、「あれかこれか」していたら、どことなく、何と、冒頭の「神輿を担ぐ男」と交差してきたのである。

板倉勝重と神輿男.jpg

(「神輿を担ぐ男」=左隻第三扇上部と「九曜紋の板倉勝重」=左隻第六扇下部)

 もとより、「他人の空似」(まったく血のつながりがない者同士なのに、肉親であるかのように顔つきがよく似ていること)の世界のものなのかも知れないが、そうとも取れない、次のような情報がある。

「天下で切支丹御法度となった事」→ 「稲荷の神輿」に関する「板倉勝重」の「板倉政要」の一つ(?)

【 天下で切支丹が御法度となった事について、それは板倉伊賀守(勝重)が京都所司代に成った頃のこと、五条松原通を稲荷の神輿が渡っていた所、柳の馬場の辻において、神輿に半弓が射掛けられた。これにより神輿の渡りは出来なくなってしまい、この事は板倉伊賀守に報告された。
 ↓
伊賀守は早速配下を数多遣わしてこれを捜査した所、犯人が切支丹宗旨の者だと判明した。
そしてこの事件以降、切支丹が御法度と成ったのである。
 ↓
三条五条の橋に、切支丹の者たちを竹のす巻きにして欄干にもたせ掛けて置き、宗旨変えを誓う者は赦された。宗旨を変えない者たちは、その後七条河原にて70人が火炙りを仰せ付けられた。以降、切支丹は厳重に禁止された。  (長澤聞書)  】

 もう一つある。

「彼らは勅封蔵に忍び入り」→ 両替商の亭主の妻女の訴え

【 この頃、南都東大寺の衆徒三人が搦め捕られ、この他一人同宿の者、以上四人が搦め捕られた。
何故かといえば、六、七年前、彼らは勅封蔵(正倉院)に忍び入り、敷板を切り抜き、宝物の内金作の鶏、同じく盂を捜し取って、折々京都へ持って上がり、金として両替し私用に使った。
 今年、かの盂をそのままにて両替することを両替商に相談した所、その亭主はこの盂を見ると、
「これは尋常の物ではない、殊に昔の年号が有り、きっとこれは勅物、もしくは御物では無いだろうか」
と不審に思い、この旨をかの僧に申した。

僧は難儀に及び、往々この事が亭主の口より漏れてしまうと思い、別宿にて亭主に振る舞いをし、そこで鴆毒を摂取させ、亭主はたちまち死に果てた。

この亭主の妻女は、すぐに板倉伊賀守(勝重)の所へ行この旨を言上した。伊賀守は奈良代官に届けたため、かの僧三人、并びに同宿一人が搦め捕られ京都に上らされた。伊賀守はの彼らに対し事の内容を直接に尋問したところ、ありのままに白状した。

そして彼らの身柄は南都へ下し置かれ、またこの事件については東国(駿府、江戸)に報告された。捕縛された者たちは、来年二月、薪の能見物に集まる貴賤にその姿を晒した上で成敗される、などと風聞されている。また猿澤の池傍に牢が構えられ、彼らはそこに入れられ、これを貴賤が見物している という。『当代記』  】

 この、板倉勝重に訴える「(毒殺された)両替商の亭主の妻女」の図、舟木本に、下記の図により描かれている。

 これに関連する二図を下記に掲げて置きたい。下記の図の、左上が、この裁判での女性の訴えを聞いている板倉勝重である。この中央(下方)の女性が、板倉勝重に必死に何かを訴えかけている女性である。

民事裁判する市倉勝重.jpg

「裁判で女性の訴えを傾聴している板倉勝重」(左隻第六扇下部)

板倉勝重に訴える女.jpg

(「裁判で板倉勝重に訴えている女性」(左隻第六扇下部「上記の図」の部分拡大)

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「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その一) [岩佐又兵衛]

(その一) 「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」読解のための二つの「洛中洛外図」(歴博D本と歴博F本)との比較など

岩佐又兵衛の「洛中洛外図・舟木本」(国宝・東京国立博物館蔵・六曲一双)の全体図は、下記のものである。

右一・二・三・四・五・六.jpg

「洛中洛外図・舟木本」右隻(上部=豊国廟・妙法院・清水寺・祇園社・知恩院・四条河原
/中部=大仏堂(方広寺)・伏見街道・六波羅密寺・五条通・建仁寺・五条大橋・五条寺町
 /下部=三十三間堂・七条河原・鴨川・六条三筋町)→ A図

左一・二・三・四・五・六.jpg

「洛中洛外図・舟木本」左隻(上部=鴨川・三条大橋・寺町通・三条通・六角堂・紫宸殿・中長者町通・清涼殿・東洞院通 /中部=室町通・四条通・五条通・新町通・下立売通・二条通・堀川通・二条城 /下部=東本願寺・東寺・西本願寺)→ B図

https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 上記のアドレスの、「東京国立博物館(e国宝)」の解説は、次のとおりである。

【京都の市中とその周辺を描く、洛中洛外図の1つで、もと滋賀の舟木家に伝来したため、舟木本の名で親しまれている。初期の町田本や上杉が示す洛中洛外図の一定型
――上京(かみきょう)と下京(しもぎょう)をそれぞれ東と西から別々に眺望して2図に描き分ける形式――
を破り、1つの視点からとらえた景観を左右の隻に連続的に展開させるものである。
右端には豊臣氏の象徴ともいうべき方広寺大仏殿の偉容を大きく描き、左端には徳川氏の二条城を置いて対峙させ、その間に洛中、洛東の町並が広がる。右隻を斜めによこ切る鴨川の流れが左隻に及び、2隻の図様を密に連繋させている。建物や風俗をとらえる視点は一段と対象に近づき、随所に繰り広げられる市民の生活の有様を生き生きと描出する。
右隻の上方には桜の満開する豊国廟をはじめ、清水寺、祇園などの洛東の名刹が連なり、鴨川の岸、四条河原には歌舞伎や操り浄瑠璃などが演じられ、歓楽街の盛況ぶりが手にとるように眺められる。左隻では祇園会の神輿(みこし)と風流が町を進行し、南蛮人の姿も認められる。右下の三筋町の遊廊では路傍で遊女と客が狂態を演じ、街々には各種の階層の人々がうごめき、その数はおよそ2500人に及ぶ。その活趣あふれる人物の諸態を見事に描き表した画家の名は不明であるが、岩佐又兵衛が候補にあげられている。景観の情況から元和初年(1615)頃の作とされている。】

 この「舟木本」に似通っているものに、次の「歴博D本」がある。

歴博D本右.jpg

「洛中洛外図」(歴博D本)右隻(上部=豊国廟・清水寺・八坂の塔=法観寺・祇園社・知恩院・粟田口・南禅寺・永観堂・吉田社・糺森・下鴨社 /中部・下部=三十三間堂・耳塚・大仏堂(方広寺)・五条橋・四条橋・芝居小屋・三条橋・誓願寺・妙養寺・内裏 ) →C図

歴博D本左.jpg

「洛中洛外図」(歴博D本)左隻(上部=鞍馬寺・貴船者・大徳寺・寺=鹿苑寺・北野社・北野経堂・嵯峨釈迦堂=清水寺・天龍寺・虚空蔵=法輪寺・桂川・松尾社 /中部=賀茂競馬・京都所司代・堀河通・二条城・神泉院・東寺・壬生寺・西本願寺 /下部=相国寺・六条三筋町・東本願寺) →D図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html

 この「歴博D本」は、大仏堂(方広寺)」での乱闘場面や六条三筋町の遊郭が描かれているなど「舟木本」との共通点が多い。しかし、「町並みは簡略化され、現実の京都というよりも、抽象化された町になっている。」(『都市を描く―京都と江戸―(人間文化研究機構連携展示・国立歴史民俗博物館/国文学研究資料館編/大学共同利用機関法人 人間文化研究機構刊)』

歴博本F本・右隻.jpg

「洛中洛外図」(歴博F本)右隻(上部=伏見稲荷・豊国廟・三十三間堂・大仏堂(方広寺)・清水寺・八坂の塔=法観寺・建仁寺・祇園社・芝居小屋・知恩院・南禅寺・永観堂・黒谷=金戒光明寺・銀閣寺=慈照寺・吉田社・比叡・山鞍馬山 /中部=鴨川・五条橋・四条橋・三条橋・下賀茂社・上賀茂社・賀茂の競馬 /下部=東本願寺) → E図

歴博本F本・左隻.jpg

「洛中洛外図」(歴博F本)左隻(上部=金閣寺・北野社・栂尾=高山寺・平野社・影向の松・高雄=神護寺・嵯峨釈迦堂=清水寺・御室(仁和寺)・妙心寺・二尊院・野の宮・天龍寺・虚空蔵=法輪寺・梅宮社・松尾社・尼寺=大通寺・山崎・西芳寺 中部=京都
所司代・二条城・神泉院・東寺・西本願寺 /下部=堀河通) → F図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_f_ex/rakuchu_f_ex_l.html

 この「歴博F本」は、上記の「舟木本」と「歴博D本」を読み解くには、極めて参考になる。何よりも、下記のアドレスの、「職人風俗絵巻」(「歴博F本」と「同じ絵師・工房の作品」と思われる)と連動されると、興味が倍増してくる。

https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/shokunin_f/shokunin_f.pdf

「舟木本」に関連しては、上記に掲げた、「東京国立博物館(e国宝)」(アドレスは、下記に再掲)の「右隻・左隻」を「あれかこれか」していると、その全貌が見えてくる。

https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

(参考)

https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/webgallery_fo.html#b

「国立歴史民俗博物館」の「WEBギャラリー」での、「洛中洛外図屏風」は、次のものが紹介されている(※印の記述は、『都市を描く―京都と江戸―』(人間文化研究機構連携展示・国立歴史民俗博物館/国文学研究資料館編/大学共同利用機関法人 人間文化研究機構刊)などを参考としている。●印=「舟木本」読解のための二つの「比較本」)

一 洛中洛外図屏風(歴博甲本) 【重要文化財】 [16世紀前期](室町時代後期)
※現存最古の洛中洛外図屏風。狩野元信(1476-1559)作が有力。右隻に「内裏」、左隻に「幕府(花の御所)」の第一定型。
二 洛中洛外図屏風(歴博乙本) 【重要文化財】 [16世紀後期](桃山時代)
※初期洛中洛外図屏風のひとつ。狩野元信の子の松栄(1519-1592)周辺の作。第一定型。
三 洛中洛外図屏風(歴博C本) [江戸時代前期]
※寛永二条城行幸を描く片隻のみ。二条城が中心。遊興図要素は少ない。
●四 洛中洛外図屏風(歴博D本) [江戸時代前期]
※祇園会の祭礼行列や遊楽の場面が特色。第二定型(右隻=内裏、左隻=二条城)の構図だが、二条城は比較的小さい。統治者の視点で描かれていない。大仏の前での乱闘場面や六条三筋町の遊郭が描かれているなど「舟木本」との共通点が多い。町並みは簡略化され、現実の京都というよりも、抽象化された町になっている。
五 洛中洛外図屏風(歴博E本) [江戸時代中期]
※名所案内記『京童』の挿絵を使った異色作。第二定型の構図だが、二条城は名所の一つ(左隻)、「傾城町」(島原遊郭)が描かれるなど遊興的な色彩が強い。
●六 洛中洛外図屏風(歴博F本) [江戸時代中期]
※装飾的な絵画となった洛中洛外図屏風。「法眼具慶筆」落款あり。住吉具慶(1631-1705)
と関係の深い工房が量産していることも考えられる。第二定型(内裏=右隻、二条城=左隻)
※「職人風俗絵巻」と連動している(同じ絵師・工房の作品と思われる)。
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/shokunin_f/shokunin_f.pdf
【「職人風俗絵巻」 31.7×750 ㎝ 江戸時代中期 本館蔵 H-10
洛中洛外図屏風の市中の一部を切り取ったような、道に面した町屋にいろいろな職人を
配した巻物。描かれた職人は、ひとつずつの店として描かれており、職人名が記されてい
るのは、次の 24 種類である。
弓屋 くミや(組屋〔組紐〕) うちわや(団扇屋) つかまきや(柄巻屋) へにや
(紅屋) せと物や(瀬戸物屋) ことや(琴屋) やはき(矢作) かさはり(傘貼り)
かゝミや(鏡屋) まき物や(巻物屋) くつや(沓屋) そうめん屋(素麺屋) やり
屋(槍屋) えほしや(烏帽子屋) ひものや(檜物屋) ぬいものや(縫い物屋) 筆
屋 じゅずや(珠数屋) あふきや(扇屋) まりや(鞠屋) うつほや(靫屋) 太刀
や たはこや(煙草屋)
この他にも、路上に多くの人物が描かれており、名前は記されていないが、次のような
生業や芸能が見られる。
鉦叩(かねたたき)、獅子舞、琵琶法師、柴売り、山伏、草履(ぞうり)売り、傀儡師
(くぐつ=人形遣い)、虚無僧(こむそう)、八丁鉦(はっちょうがね=歌念仏の一種)、
猿曳(さるひき)、綿売り、高野聖(こうやひじり)、油売、竹売。
絵は洛中洛外図屏風「歴博F本」に似ており、同一の工房と思われる。この工房作の洛
中洛外図屏風などは他にも多く、嫁入り道具のような需要に応えていたと思われる。】
七 東山名所図屏風 [16世紀後期](桃山時代)
※清水寺を中心に東山と市街の一部を描いたもの。京都の名所を題材とした装飾的な絵画傾向が強くなってくる。
八 京都名所図屏風 [江戸時代後期]
※四条派の絵師・松川龍椿(1818-1830)の作。京都の東西の名所だけを描いたもの。内裏・二条城・祇園会などは登場しない。金雲の合間に名所を散りばめた構成は、名所への関心に回帰した洛中洛外図屏風の一つの終着点とも言える。
タグ:岩佐又兵衛
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源氏物語画帖「その四十八 早蕨」(京博本)周辺 [源氏物語画帖]

48 早蕨(長次郎筆) =(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)  薫25歳春

長次郎・早蕨.jpg

源氏物語絵色紙帖  早蕨  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

冷泉為頼吉・早蕨.jpg

源氏物語絵色紙帖  早蕨  詞・冷泉為頼
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「冷泉為頼」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/23/%E6%97%A9%E8%95%A8_%E3%81%95%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%B3%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%B8%96_%E5%AE%87%E6%B2%BB%E5%8D%81%E5%B8%96%E3%81%AE

年改まりては何ごとかおはしますらむ御祈りはたゆみなく仕うまつりはべり今は一所の御ことをなむ安からず念じきこえさするなど聞こえて蕨つくづくしをかしき籠に入れてこれは童べの供養じてはべる初穂なりとてたてまつれり手はいと悪しうて歌はわざとがましくひき放ちてぞ書きたる
  君にとてあまたの春を摘みしかば常を忘れぬ初蕨なり
(第一章 中君の物語 第一段 宇治の新春、山の阿闍梨から山草が届く)

(周辺メモ)

第四十八帖 早蕨
 第一章 中君の物語 匂宮との結婚を前にした宇治での生活
  第一段 宇治の新春、山の阿闍梨から山草が届く
  第二段 中君、阿闍梨に返事を書く
  第三段 正月下旬、薫、匂宮を訪問
  第四段 匂宮、薫に中君を京に迎えることを言う
  第五段 中君、姉大君の服喪が明ける
第六段 薫、中君が宇治を出立する前日に訪問
第七段 中君と薫、紅梅を見ながら和歌を詠み交す
  第八段 薫、弁の尼と対面
  第九段 弁の尼、中君と語る
 第二章 中君の物語 匂宮との京での結婚生活が始まる
  第一段 中君、京へ向けて宇治を出発
  第二段 中君、京の二条院に到着
  第三段 夕霧、六の君の裳着を行い、結婚を思案す
  第四段 薫、桜の花盛りに二条院を訪ね中君と語る
  第五段 匂宮、中君と薫に疑心を抱く

(参考)

「冷泉為頼筆和歌懐紙」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/690

【冷泉為頼〈れいぜいためより・1592-1627〉は、江戸時代初期の公卿、歌人。為満〈ためみつ・1559-1619〉の長男。寛永4年〈1627〉、従三位に進んだが、この年、36歳で没した。為頼は、歌道をもって朝仕する上冷泉(かみれいぜい)家第7代として家学を継承。父為満とともに小堀遠州〈こぼりえんしゅう・1579-1647〉の歌道の師をつとめた。また、書は父と同様、遠祖藤原定家〈ふじわらのさだいえ・1162-1241〉の書風を受け継ぎ、筆線の細太を強調する、典型的な定家流(ていかりゅう)を見事にこなしている。この懐紙は、「松契多春」の歌題により、慶長17年〈1612〉1月19日の御会始における詠とわかる。為頼21歳の筆跡。装飾性の高い書である。「春の日、同じく「松、多春を契る」ということを詠める和歌/侍従藤原為頼/生末の年いくかへりこめつらん松に根ざしの御代の初春」

(釈文)

春日同詠松契多春和謌侍従藤原為頼おひすゑのとしいくかへりこめつらん松にねざしの御代のはつ春         】

(参考) 「智仁親王の源氏物語研究」(小高道子稿)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/chukobungaku/63/0/63_29/_pdf


(「三藐院ファンタジー」その三十八)

鷹を手に据える公家.jpg

「鷹を拳に据える『かぶき者』の公家」(左隻第四扇下部)

 これは、「かぶき者」の武士ではなく、「かぶき者」の公家なのだ。この「左隻第四扇中部」に、次の「突然暴れ出した馬」の図が描かれている。

突然暴れ出した馬.jpg

「突然暴れ出した馬」(左隻第四扇下部)

 二条城に向かう行列一行の、中ほどの二頭の馬が突然暴れ出して、何やら騒動を起こしている。この行列一行は、武士の行列で、この中には「かぶき者の公家」は混ざっていないようである。黒馬の武士は手綱を引き絞り、この黒馬は、後ろの白馬を蹴飛ばしているように見える。そして、この白馬は、前方の「二条城」(左隻第六扇)に行くのを嫌がり、後方の「豊国廟・大仏殿」(右隻第一扇)へ帰らんとし、その白馬の武士は、落馬すまいと、馬の首にしがみついている感じでなくもない。
 すなわち、大胆な「三藐院ファンタジー」的な見方は、当時の「方広寺大仏殿鐘銘事件・大阪冬の陣・大阪夏の陣」を背景にしての、「黒馬=東軍、黒馬の武士=徳川秀忠」に対する「白馬=西軍、白馬の武士=豊臣秀頼」を、「突然暴れだした」二頭の馬(「黒馬」と「白馬」とが暗示している、その見立ていうことになる。

乗馬した板倉重昌.jpg

「暖簾『銭屋・寶・雪輪笹』の前の武士一行(板倉重昌)」(左隻第四・五扇中部)

 この図の暖簾の「銭屋」は、「両替商」(現在の金融業、「本両替」と「脇両替」に分化、「本両替」=小判および丁銀の金銀両替および預金・貸付など信用取引を仲介する業務)、「脇両替」=銭貨の交換・売買などの窓口業務)で、その隣で「脇両替」の店舗を開いている。
「寶」というのは特殊な暖簾で、「寶=豊=豊太閤=豊臣家御用達店」というような感じの暖簾のようである。これと同じような暖簾で「光」という暖簾も、この「洛中洛外図屏風・舟木本」に描かれており、それも「光=太(閤) =豊太閤=豊臣家御用達店」な感じの暖簾と解して置きたい(この「寶」と「光」は(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』をベースにしている)。
 次の「雪輪笹」の暖簾は、呉服商・笹屋(笹谷半四郎)のもので、その「笹谷」の奥庭(この図の左上)の人物が、笹谷半四郎(その父か祖父)、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主ではないかと『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では推定している。
 この通りは「二条通り」なのであろうか(?) この舟木屏風では、右隻の第一扇の「方広寺大仏殿」→「五条大橋」→「五条通り」(右隻第六扇)から左隻第一・二・三扇の「五条通り」を経て、第四扇(上の「「突然暴れ出した馬」)に入り、ここから、「五条通り」が「二条通り」に変身し、そして、次の第六扇の「二条城」に至るという道筋になる。
 即ち、舟木屏風のトリックは、この左隻第四扇の「突然暴れ出した馬」の図あたりに、その種明かしの一端が隠されていると解したい。
この図の後方の「豊国廟・大仏殿」(右隻第一扇)へ帰らんとしているように見える「白い馬」は、「この道は、今まで通ってきた道とは違う」ということで暴れ出し、その白い馬を「蹴飛ばして前方の「二条城」(左隻第六扇)の方に行こうとしている黒い馬」は、「そんなことはない。何故、従順について来ない」のかと暴れだした図という理解である。
そもそも、一つの「洛中洛外図」に、「五条通りと二条通り」を、一本の「通り」に結び付けて、しかも、それを、メインの『東から西へと行く主要な通りにする』という発想は、「奇想」(辻惟雄の命名=「奇想の系譜」「奇想の図譜」「奇想の挿絵」「奇想の発見」ギョッとする絵画」)というネーミングが相応しいのかも知れない。
 しかし、この「奇想」というのは、この「洛中洛外図・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」が生きた「戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮」の「かぶき者・傾奇者・歌舞伎者=世間の常識や権力・秩序への反発・反骨などの表現」と深く関わっているもので、「数寄者=数寄に傾いた者=茶人・連歌師・俳諧師など」より、さらに傾いている「傾奇者」というネーミングも捨て難い。
 と言うのは、岩佐又兵衛と同時代の「本阿弥光悦・俵屋宗達」などを「数寄者絵師・書家」とすると、岩佐又兵衛は「傾奇者絵師」というネーミングの方が、より好みということに他ならない。
 さて、この「二条城へ向かう武家行列」、そして、その先頭集団の、この「暖簾『銭屋・寶・雪輪笹』の前の武士一行」の図の、「銭屋」という暖簾の前の、この「黒塗笠を被って乗馬姿の若き武士」は誰か(?)
 この「黒塗笠を被って乗馬姿の若き武士」は、先に、「二条城の民事裁判」(左隻第六扇下部)に出てくる「板倉勝重の九曜紋」(左隻第六扇下部=拡大図)の、当時の京都所司代の「板倉勝重」の次男坊の、当時、徳川家康の「近習筆頭人」の一人であった「板倉重昌」だと、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、推定というよりも、断定に近い「謎解き」を提示している。
 そして、その断定に近い「謎解き」は、「板倉勝重の九曜紋」の「九曜紋」にあらず、「板倉重昌の鞠挟紋」だと、またもや、「家紋」を、その「謎解き」のキィーポイントの一つにしている。

鞠挟紋の駕籠・板倉重昌.jpg

「鞠挟紋の駕籠舁き」(左扇第五扇中部)

 この図の右端が、前図の「黒塗笠を被って乗馬姿の若き武士」の英姿である。その前に誰やらが乗っている「駕籠」が二人の「駕籠舁き」と共に描かれていて、その「駕籠舁き」の交替要員(二人)も後ろに描かれているようである。
この四人の「駕籠舁き」の「揃いの衣服の家紋」は、板倉家の通常の家紋の「左巴三頭や九曜紋」ではなく、この「鞠挟紋」も使用している「板倉重昌」固有の紋のようなのである。それが、「父勝重や嫡男の重宗」(この二人は名「京都所司代」として夙に知られている)と区別出来る、謂わば、「板倉重昌」専用の「板倉家」の家紋で、この「駕籠」に乗っている人物は、「板倉重昌」との謎解きの解を導いている。
当時、家康の「近習出頭人」(大御所の側近で、幕政の中枢に参与した者)の一人であった板倉重正は、駿府に居て、駿府から上洛する時は、駕籠と馬とを利用し、ここは、京の都に入り、駕籠を降りて、乗馬に乗り換えたのであろう。
 そして、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、この時の上洛は、「方広寺鐘銘事件に際しての上洛」ではなく、「猪熊事件の際の上洛」との謎解きをしている。
 これらの謎解きは、『源氏物語』の「章と段」の目次ですると、次のような過程を経ての謎解きの展開ということになる。

第六章 二条城へ向かう武家行列と五条橋上の乱舞―中心軸の読解
 第一段 牛馬の数
 第二段 物資や人を運ぶ牛馬
 第三段 二条通が五条通につながる
 第四段 舟木屏風を座って見る
 第五段 中心軸上に描かれた二つの印象的な集団
 第六段 ドグマからの脱却
 第七段 表現上の焦点となっている二つの集団
 第八段 二条城に向かう武家の行列
 第九段 読解の手かせかりはないか?
 第十段 駕籠舁きの鞠挟紋
第十一段 近習出頭人
第十二段 鞠挟紋は重昌の家紋
第十三段 板倉重昌の上洛とその政治的役割
第十四段 方広寺鐘銘事件での上洛ではない
第十五段 猪熊事件の際の上洛
第十六段 大御所家康の政治意思
第十七段 板倉重昌は乗馬しているのでは?
第十八段 注文主は板倉氏か?
第十九段 五条橋上で踊る一行
第二十段 老後家尼
第二一段 花見踊りの一行の姿
第二二段 傘の文様は?
第二三段 豊国祭礼図屏風の老後家尼
第二四段 高台院の屋敷が左隻第四扇に描かれている
第二五段 どこで花見をしたのか?
第二六段 豊国社の枝垂れ桜は物語る
第二七段 右隻の中心で踊る高台院
第二八段 両隻にある「寶」「光」と豊公贔屓
第二九段 徳川美術館本豊国祭礼図屏風の「豊光」の旗
第三十段 暖簾に豊公敬意の心情を描く
第三一段 右隻は物語る
第三二段 近世風俗画誕生の「坩堝」

 これらの「老後家尼・高台院(北政所禰々=ねね・おね)」や「近習筆頭人・板倉重昌」の背後には、「大御所・徳川家康」が見え隠れしている。その徳川家康も、この「近習筆頭人・板倉重昌」図の上部右(左隻第四扇)に描かれている。

家康の乗っている牛車.jpg

「牛車の参内行列(家康・義直・頼宣)」(左隻第四扇上部)

 この牛車には「三つ葉葵と桐紋」があり、「大御所家康か秀忠」が乗っているようだが、
その後ろに、二挺の「手輿(たごし)」が並んでおり、脇には被衣の二人の女と、赤傘をさしかけている侍女が描かれている。この「手輿」には、家康の幼い子息が乗っているようである。
 家康は、慶長十一年(一六〇六)八月十一日に、五郎太丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、後の紀伊の徳川義宣)を元服させて、その二人を伴って叙任の参内をしている。この参内行列は、その時のものであろうと、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では推測をしている。
 この前年の慶長十年(一六〇五)に、高台院は、徳川家康の助力のもとに、秀吉の菩提を弔うための「高台寺」を創建しており、ここに、「高台院→徳川家康→板倉重昌」が一線上に結びついてくる。
 ここでは、このような史実に基づく実証的な「謎解き」ではなく、謂わば、「三藐院ファンタジー」の「ファンタジー」(空想・幻想・想像=創造)的な「謎解き」を加味すると、先の、「猪熊事件・方広寺鐘銘事件・大阪冬の陣・大阪夏の陣」に大きく関わった「近習出頭人・板倉重昌」(1588-1638)は、この「洛中洛外図屏風・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」の、後のパトロンとなる、徳川家康の孫の、「越前国北ノ庄(福井)藩主・松平忠直」(1595-1650)が、「板倉重昌の大御所家康に寄せる忠誠心」に、自分の「大御所家康への忠誠心」を重ね合わせ、この七歳程度年上の「板倉重昌」の、この上記の二条城に向かう英姿に、己の姿をダブルイメージしていたような、そんな雰囲気が察知されるのである。
 そして、この「黒塗笠の乗馬姿の板倉重昌」の真上に描かれている、「数寄者(茶人)・隠遁者」風の人物は、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、この「洛中洛外図・舟木本」の注文主の、「『雪輪笹』の暖簾主の、呉服商・笹屋(笹谷半四郎)」の、京の有力町衆「笹谷半四郎」と推測しているのだが、それを「是」としても、この「数寄者(茶人)・隠遁者(市中の山居人)」風の人物は、限りなく、この大作「洛中洛外図・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」その人 の、その当時のイメージが、これまた、ダブルイメージとしてオ―バラップしてくるのである。

乗馬した板倉重昌.jpg

(再掲) 「暖簾『銭屋・寶・雪輪笹』の前の武士一行(板倉重昌)」(左隻第四・五扇中部)

 この図の左上部の「数寄者(茶人)・隠遁者(市中の山居人)」風の人物が、この大作「洛中洛外図・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」その人 のイメージをも宿しているとすると、この「岩佐又兵衛」と同時代に生きた、「狩野派」に匹敵する大きな画壇を形成してくる「琳派の創始者」と目されている「本阿弥宗達・俵屋宗達」、そして、この二人に深い関係にある、当時の三大豪商の一人の「角倉素庵」なども、この「洛中洛外図・舟木本」の中に、何らかの形で描かれているのではなかろうか?
 これらのことに関して、「角倉素庵」関連では、確かに、この「右隻第六扇と左隻第一扇」の接点の「三条大橋」(左隻第一扇上部)の左手(左隻第二扇上部)に、「角倉了以・素庵」の父子が、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河の「高瀬川」の「船入」場が描かれており、その周辺に「角倉屋敷」などが描かれている雰囲気である。
 それを「寺町通(第二扇上部)→四条通(第二扇中部)→室町通(第二扇中部)→五条通(第二扇中部)に、次の図が出てくる。

扇屋.jpg

「扇屋(扇屋の店内風景と裏手で琵琶を聞く数寄者二人)」(左隻第二扇中部)

 この扇屋は、元和七年(一六二一)頃に出版された古活字版仮名草子『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)に出てくる「五条は扇の俵屋」と一致する感じで無くもない。とすると、その裏手に描かれている、俳諧師のような数寄者風情の一人は、「俵屋宗達」、そして、もう一人の人物は、「本阿弥宗達」と解しても、「三藐院ファンタジー」的な「謎解き」としては、許容範囲の内ということになろう。
 そして、この五条通りの「扇屋(扇屋の店内風景と裏手で琵琶を聞く数寄者二人)」の図が、二条城(左隻第六扇中部)の方に視線をずらして行くと、二条通りと堀川通りと接点の
「暖簾『銭屋・寶・雪輪笹』の前の武士一行(板倉重昌)」(第五扇中部)と、横一線上に繋がってくるのである。
 そして、この「暖簾『銭屋・寶・雪輪笹』の前の武士一行(板倉重昌)」の、板倉重昌の上部に、「洛中洛外図・舟木本」の注文主ではないかと推測されている、「『雪輪笹』の暖簾主の、呉服商・笹屋(笹谷半四郎)」の、京の有力町衆「笹谷半四郎」(「数寄者(茶人)・隠遁者」風の人物)と、好一対をなしてくるのである。
 この京の有力町衆「笹谷半四郎」(「数寄者(茶人)・隠遁者」風の人物)は、「三藐院ファンタジー」風の見方では、この「洛中洛外図・舟木本」を描いた張本人の「岩佐又兵衛」のイメージと重なるとしたのだが、何やら、この、五条通りの数寄者「俵屋宗達・本阿弥光悦」と、この二条通りの数寄者(「市中の山居人」)「岩佐又兵衛」とは、相互に、何かしらの因縁を有しているような雰囲気を醸し出している。
 なお、『竹斎物語』と「俵屋宗達」の関連などについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

 ここで、ひとまず、『源氏物語画帖』周辺の探索は、ピリオドを打って、これまで敬遠していた「岩佐又兵衛」の、そして、未だに、どうにも謎めいた、曖昧模糊としている、その初期の、若干、三十八・九歳時の頃に携わったと言われている、「洛中洛外図屏風・舟木本」へと、そのステップを進めたい。
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源氏物語画帖「その四十七 総角」(京博本)周辺 [源氏物語画帖]

47 総角(長次郎筆) =(詞)久我通前(一五九一~一六三四)  薫24歳秋-冬

光吉・総角.jpg

源氏物語絵色紙帖  総角  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

久我・総角.jpg

源氏物語絵色紙帖  総角  詞・久我通前
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html


(「久我通前」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/22/%E7%B7%8F%E8%A7%92_%E3%81%82%E3%81%92%E3%81%BE%E3%81%8D%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%8D%81%E4%B8%83%E5%B8%96_%E5%AE%87%E6%B2%BB%E5%8D%81%E5%B8%96%E3%81%AE

明け行くほどの空に妻戸押し開けたまひてもろともに誘ひ出でて見たまへば霧りわたれるさま所からのあはれ多く添ひて例の柴積む舟のかすかに行き交ふ
(第四章 中の君の物語 第四段 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十七帖 総角
 第一章 大君の物語 薫と大君の実事なき暁の別れ
  第一段 秋、八の宮の一周忌の準備
  第二段 薫、大君に恋心を訴える
  第三段 薫、弁を呼び出して語る
  第四段 薫、弁を呼び出して語る(続き)
  第五段 薫、大君の寝所に迫る
  第六段 薫、大君をかき口説く
  第七段 実事なく朝を迎える
  第八段 大君、妹の中の君を薫にと思う
第二章 大君の物語 大君、中の君を残して逃れる
  第一段 一周忌終り、薫、宇治を訪問
  第二段 大君、妹の中の君に薫を勧める
  第三段 薫は帰らず、大君、苦悩す
  第四段 大君、弁と相談する
 第五段 大君、中の君を残して逃れる
 第六段 薫、相手を中の君と知る
  第七段 翌朝、それぞれの思い
 第八段 薫と大君、和歌を詠み交す
 第三章 中の君の物語 中の君と匂宮との結婚
  第一段 薫、匂宮を訪問
  第二段 彼岸の果ての日、薫、匂宮を宇治に伴う
  第三段 薫、中の君を匂宮にと企む
  第四段 薫、大君の寝所に迫る
  第五段 薫、再び実事なく夜を明かす
  第六段 匂宮、中の君へ後朝の文を書く
  第七段 匂宮と中の君、結婚第二夜
第八段 匂宮と中の君、結婚第三夜
 第四章 中の君の物語 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る
  第一段 明石中宮、匂宮の外出を諌める
  第二段 薫、明石中宮に対面
  第三段 女房たちと大君の思い
  第四段 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る
  第五段 匂宮と中の君和歌を詠み交して別れる
  第六段 九月十日、薫と匂宮、宇治へ行く
  第七段 薫、大君に対面、実事なく朝を迎える
  第八段 匂宮、中の君を重んじる
 第五章 大君の物語 匂宮たちの紅葉狩り
  第一段 十月朔日頃、匂宮、宇治に紅葉狩り
  第二段 一行、和歌を唱和する
第三段 大君と中の君の思い
  第四段 大君の思い
  第五段 匂宮の禁足、薫の後悔
 第六段 時雨降る日、匂宮宇治の中の君を思う
 第六章 大君の物語 大君の病気と薫の看護
  第一段 薫、大君の病気を知る
  第二段 大君、匂宮と六の君の婚約を知る
  第三段 中の君、昼寝の夢から覚める
  第四段 十月の晦、匂宮から手紙が届く
  第五段 薫、大君を見舞う
  第六段 薫、大君を看護する
  第七段 阿闍梨、八の宮の夢を語る
  第八段 豊明の夜、薫と大君、京を思う
 第九段 薫、大君に寄り添う
 第七章 大君の物語 大君の死と薫の悲嘆
  第一段 大君、もの隠れゆくように死す
  第二段 大君の火葬と薫の忌籠もり
  第三段 七日毎の法事と薫の悲嘆
  第四段 雪の降る日、薫、大君を思う
  第五段 匂宮、雪の中、宇治へ弔問
  第六段 匂宮と中の君、和歌を詠み交す
  第七段 歳暮に薫、宇治から帰京

(参考)

【久我 通前(こが みちさき)
生誕 天正19年10月14日(1591年11月29日)
死没 寛永12年10月24日(1635年12月3日
 元和元年(1615年)に叙爵。以降累進して、侍従・右近衛少将・左近衛中将を経て、寛永元年(1624年)後水尾天皇の中宮徳川和子の中宮権亮となるが寛永6年(1629年)の天皇の譲位にともない辞職。寛永7年(1630年)より権中納言に転じた。寛永8年(1631年)に正三位となったが、寛永12年(1635年)には薨去した。享年45。 】

(「三藐院ファンタジー」その三十七)

左五下・二条城大手門・公家一行.jpg

「大手門を潜る公家一行」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇下部)

《二条城の大手門を潜る一行は誰か?》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P167-169)

「二条城の大手門には、今しも立烏帽子・狩衣。指貫姿の公家が一人やってきており、裃姿の武士たちが迎えている。この公家には風折烏帽子の公家が三人付き従っており、その背後には白丁たちがいる。この公家は何者か? そして、この公家は何のために二条城に来たのか?

左六下・二条城内振舞準備.jpg

「振舞い料理の準備」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇下部)

《二条城の大手門を潜る一行は誰か?》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P167-168)

「二条城内で料理の真っ最中である。包丁人が調理しようとしているのは鯛と鯉であり、鴨であろうか。毛をむしり、内臓を取り去った鳥を洗っている。竈では煮炊きが始まっている。これは、所司代板倉勝重が、その公家を招待し、その振舞いの料理の準備している図だ、その公家は武家伝奉ではなかろうか?

《武家伝奉》《武家伝奉が一人だけだった時期がある》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P168-170)

「朝廷と幕府の交渉を担った公家の役職。慶長八年(一六〇三)から、武家伝奉は、広瀬兼勝と勧修寺光豊の二人であった。その勧修寺光豊が、慶長十七年(一六一二)十月十七日に亡くなり、その後任の三条西実条が任命されたのは、慶長十八年(一六一三)七月十二日のことであった。この新武家伝奉が任命される約八か月余り、武家伝奉は広橋兼勝が一人で武家伝奉を努めていた。

《駿府の広橋兼勝と板倉勝重》《公家衆法度の制定》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P170-172)

「武家伝奉が広橋兼勝一人だけであった、この時期は、丁度、公家衆法度の作成プロセスと合致する時期であった。慶長十八年(一六一三)四月九日、武家伝奉広橋兼勝は駿府に下った。駿府の大御所徳川家康の下で、京都所司代板倉勝重と武家伝奉広橋兼勝とは、この任に当たったのである。そして、同年六月十六日に、大御所徳川家康は公家衆法度を制定した。

 諸公家(公家衆)法度

一、公家衆家々之学問(以下略)=要約( 公家は各家の代々の学問に油断無く励むべきこと)
一、不寄老若背行儀法度(略)=要約( 行儀・法の違反老若問わず流罪に処すべきこと)
一、昼夜之御番老若背行為(略)=要約( 昼夜懈怠なく老若共に仕事を相勤むべきこと)
一、夜昼共ニ無指用所ニ(略)=要約(昼夜用無き所に徘徊することを堅く禁ずること)
一、公宴之外私ニテ不似合勝負(略)=要約(賭事・不行儀の公家近侍も先条に因ること)

 この「公家衆法度五ヵ条」は、慶長十四年(一六〇九)の「猪熊事件」を踏まえての、公家衆の風儀の矯正を狙いとしたもので、特に、その二条の「行儀・法の違反老若問わず流罪に処すべきこと(但し、罪の軽重に依る「年序」別に定るべきこと)」は、公家衆の予期せぬものであったことが、『時慶卿日記』(慶長十八七月十二・十三日条)から読み取れる。」

【(メモ)
 この「諸公家(公家衆)法度」が、さらに、大坂の夏の陣で、豊臣家が滅亡した直後の元和元年(一六一五)七月十七日に、「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」が、京都二条城で「本文に大御所徳川家康、将軍秀忠、前関白二条昭実が連署したものを武家伝奏に渡す形」で制定され、同月三十日に、公家・門跡衆に公布されることになる。
 この「「禁中並公家諸法度」については、次のアドレスのものを、「原文・読み下し文・注釈・現代語訳」の全文を掲載して置きたい。

http://gauss0.livedoor.blog/archives/2559131.html

〇「禁中並公家諸法度」(全文) 元和元年7月17日制定

一 天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。
一 三公之下親王。其故者右大臣不比等着舎人親王之上、殊舎人親王、仲野親王、贈太政大臣穂積親王准右大臣、是皆一品親王以後、被贈大臣時者、三公之下、可為勿論歟、親王之 次、前官之大臣、三公、在官之内者、為親王之上、辞表之後者、可為次座、其次諸親王、但儲君各別、前官大臣、関白職再任之時者、摂家之内、可為位次事。
一 淸花之大臣、辭表之後座位、可爲諸親王之次座事。
一 雖爲攝家、無其器用者、不可被任三公攝關。況其外乎。
一 器用之御仁躰、雖被及老年、三公攝關不可有辭表。但雖有辭表、可有再任事。
一 養子者連綿。但、可被用同姓。女縁其家家督相續、古今一切無之事。
一 武家之官位者、可爲公家當官之外事。
一 改元、漢朝年號之内、以吉例可相定。但、重而於習禮相熟者、可爲本朝光規之作法事。
一 天子禮服、大袖、小袖、裳、御紋十二象、諸臣礼服各別、御袍 、麹塵、青色、帛、生気御袍、或御引直衣、御小直衣等之事、仙洞御袍、赤色橡、或甘御衣、大臣袍、橡異文、小直衣、親王袍、橡小直衣、公卿着禁色雑袍、雖殿上人、大臣息或孫聴着禁色雑袍、貫首、五位蔵人、六位蔵人、着禁色、至極臈着麹塵袍、是申下御服之儀也、晴之時雖下臈着之、袍色、四位以上橡、五位緋、地下赤之、六位深緑、七位浅緑、八位深縹、初位浅縹、袍之紋、轡唐草輪無、家々以旧例着用之、任槐以後異文也、直衣、公卿禁色直衣、始或拝領任先規着用之、殿上人直衣、羽林家之外不着之、雖殿上人、大臣息亦孫聴着禁色、直衣直垂、随所着用也、小袖、公卿衣冠時者着綾、殿上人不着綾、練貫、羽林家三十六歳迄着之、此外不着之、紅梅、十六歳三月迄諸家着之此外者平絹也、冠十六未満透額帷子、公卿従端午、殿上人従四月西賀茂祭、着用普通事。
一 諸家昇進之次第、其家々守舊例可申上。但学問、有職、歌道令勤学、其外於積奉公労者、雖為超越、可被成御推任御推叙、下道真備雖従八位下、衣有才智誉、右大臣拝任、尤規摸也、蛍雪之功不可棄捐事。
一 關白、傳奏、并奉行職事等申渡儀、堂上地下輩、於相背者、可爲流罪事。
一 罪輕重、可被守名例律事。
一 攝家門跡者、可爲親王門跡之次座。摂家三公之時者、雖為親王之上、前官大臣者、次座相定上者、可准之、但皇子連枝之外之門跡者、親王宣下有間敷也、門跡之室之位者、可依其仁体、考先規、法中之親王、希有之儀也、近年及繁多、無其謂、摂家門跡、親王門跡之外門跡者、可為准門跡事。
一 僧正大、正、權、門跡院家可守先例。至平民者、器用卓抜之仁希有雖任之、可爲准僧正也。但、國王大臣之師範者各別事。
一 門跡者、僧都大、正、少、法印任叙之事。院家者、僧都大、正、少、權、律師法印法眼、任先例任叙勿論。但、平人者、本寺推擧之上、猶以相選器用、可申沙汰事。
一 紫衣之寺住持職、先規希有之事也。近年猥勅許之事、且亂臈次、且汚官寺、甚不可然。於向後者、撰其器用、戒臈相積、有智者聞者、入院之儀可有申沙汰事。
一 上人號之事、碩學之輩者、本寺撰正權之差別於申上者、可被成勅許。但、其仁躰、佛法修行及廿箇年者可爲正、年序未滿者、可爲權。猥競望之儀於有之者、可被行流罪事。

 右、可被相守此旨者也。

 慶長廿年乙卯七月 日

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)

  「徳川禁令考」より

<読み下し文>

一、天子御芸能之事、第一御学問也。学ならずんば則ち古道明らかならず、而して政を能して太平を致す者未だこれあらざるなり、貞観政要[1]の明文也、寛平遺誡[2]に経史[3]を窮めずと雖も、群書治要[4]を誦習[5]すべしと云々。和歌は光孝天皇[6]より未だ絶えず、綺語[7]たりと雖も我が国の習俗也、棄置くべからずと云々。禁秘抄[8]に載せる所、御習学専要候事。
一、三公[9]の下は親王[10]。その故は右大臣不比等[11]は舎人親王[12]の上に着く。殊に舎人親王[12]、仲野親王[13]は(薨去後に)贈(正一位)太政大臣、穂積親王[14]は准右大臣なり。一品親王は皆これ以後、大臣を贈られし時は三公の下、勿論たるべし。親王[10]の次は前官大臣。三公[9]は官の内に在れば、親王[10]の上となす。辞表の後は次座たるべし。その次は諸親王[10]、但し儲君[15]は格別たり。前官大臣、関白職再任の時は摂家の内、位次たるべき事。
一、清華[16]の大臣辞表の後、座位[17]は諸親王[10]の次座たるべき事。
一、摂家[18]たりと雖も、その器用[19]無き者は、三公[9]・摂関に任ぜらるるべからず。況んやその外をや。
一、器用[19]の御仁躰、老年に及ばるるといへども、三公[9]摂関辞表あるべからず。但し辞表ありといへども、再任あるべき事。
一、養子は連綿[20]、但し同姓を用ひらるべし。女縁者の家督相続、古今一切これなき事。
一、武家の官位は、公家当官の外[21]たるべき事。
一、改元[22]は漢朝の年号[23]の内、吉例[24]を以て相定むべし。但し重ねて習礼[25]相熟むにおいては、本朝[26]先規の作法たるべき事。
一、天子の礼服は大袖・小袖・裳・御紋十二象、御袍[27]・麹塵[28]・青色、帛[29]、生気[30]御袍[27]、或は御引直衣、御小直衣等之事。仙洞[31]御袍[27]、赤色橡[32]或ひは甘御衣[33]、大臣袍[27]、橡[32]異文、小直衣、親王袍[27]、橡[32]小直衣、公卿[34]は禁色[35]雑袍[36]を着す、殿上人[37]と雖も、大臣息或は孫は禁色[35]雑袍[36]を着すと聴く、貫首[38]、五位蔵人、六位蔵人、禁色[35]を着す、極臈[39]に至りては麹塵[28]袍[27]を着す、是申下すべき御服之儀也。晴[40]之時と雖も下臈[41]之を着す、袍[27]色、四位以上橡[32]、五位緋、地下赤之、六位深緑、七位浅緑、八位深縹[42]、初位浅縹[42]、袍[27]之紋、轡唐草輪無、家々旧例をもって之を用いて着す、任槐[43]以後は異文也、直衣、公卿[34]禁色[35]直衣、或は任を拝領して始め、先規にて之を用いて着す、殿上人[37]直衣、羽林家[44]之外之を着さず、殿上人[37]と雖も、大臣息亦孫は禁色[35]を着すと聴く、直衣直垂、随所着用也、小袖、公卿[34]衣冠[45]の時は綾[46]を着す、殿上人[37]は綾[46]を着さず、練貫[47]、羽林家[44]三十六歳迄之を着す、此外は之を着さず、紅梅[48]、十六歳三月迄諸家は之を着す、此外は平絹也、冠十六未満は透額[49]、帷子[50]、公卿[34]は端午[51]より、殿上人[37]は四月西賀茂祭[52]より、着用普通の事。
一、諸家昇進の次第はその家々旧例を守り申上ぐべし。但し学問、有職[53]、歌道の勤学を令す。その外奉公の労を積むにおいては、超越たりといえども、御推任御推叙なさるべし。下道真備[54]は従八位下といえども、才智誉れ有るにより右大臣を拝任、尤も規摸[55]なり。蛍雪の功[56]は棄捐[57]すべかざる事。
一、関白・伝奏[58]并びに奉行職等申渡す儀、堂上地下の輩[59]、相背くにおひては、流罪たるべき事。
一、罪の軽重は名例律[60]を守らるべき事。
一、摂家門跡[61]は親王門跡[61]の次座たるべし。摂家三公[9]の時は親王[10]の上たりといえども、前官大臣は次座相定む上はこれに准ずべし。但し皇子連枝の外の門跡[61]は親王[10]宣下有るまじきなり。門跡[61]の室の位はその仁体によるべし。先規を考えれば、法中の親王[10]は希有の儀なり、近年繁多に及ぶが、その謂なし。摂家門跡[61]、親王門跡[61]の外門跡[61]は准門跡[61]となすべき事。
一、僧正[62](大、正、権)・門跡[61]・院家[63]は先例を守るべし。平民に至りては、器用[19]卓抜の仁、希有にこれを任ずるといへども、准僧正たるべき也。但し国王大臣の師範は各別の事。
一、門跡[61]は僧都[64](大、正、少)・法印[65]叙任の事、院家[63]は僧都[64](大、正、少、権)、律師[66]、法印[65]、法眼[67]、先例から叙任するは勿論。但し平人は本寺の推学の上、尚以て器用[19]を相撰び沙汰を申すべき事。
一、紫衣の寺[68]は、住持職[69]、先規希有の事[70]也。近年猥りに勅許の事、且は臈次[71]を乱し且は官寺[72]を汚す、甚だ然るべからず。向後においては、其の器用[19]を撰び、戒臈[73]相積み、智者の聞こえあらば、入院の儀申沙汰有るべき事。
一、上人号[74]の事、碩学[75]の輩は、本寺として正確の差別を撰み申上ぐるにおひては、勅許なさるべし。但しその仁体、仏法修行二十箇年に及ぶは正となすべし、年序未満は権となすべし。猥らに競望[76] の儀これ有るにおいては流罪行なわるべき事。

 右此の旨相守らるべき者也。

   慶長廿年[77]乙卯七月 日  

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)

【注釈】

[1]貞観政要:じょうがんせいよう=唐の2代皇帝太宗と群臣の問答録で、帝王学の教科書として日本でも読まれた。
[2]寛平遺誡:かんぴょうのゆいかい=宇多天皇が醍醐天皇に与えた訓戒書。
[3]経史:けいし=四書五経や歴史書。
[4]群書治要:ぐんしょちよう=唐の2代皇帝太宗が編纂させた政論書。
[5]誦習:しょうしゅう=読み習うこと。書物などを口に出して繰り返し読むこと。
[6]光孝天皇:こうこうてんのう=第58代とされる天皇(830~887年)で、『古今和歌集』に歌2首が収められている。
[7]綺語:きぎょ=表面を飾って美しく表現した言葉。
[8]禁秘抄:きんぴしょう=順徳天皇が著した有職故実書(1221年頃成立)。
[9]三公:さんこう=太政大臣、左大臣、右大臣のこと。
[10]親王:しんのう=天皇の兄弟と皇子のこと。
[11]右大臣不比等:うだいじんふひと=藤原不比等(659~720年)のことで、奈良時代初期の廷臣。藤原鎌足の次男。
[12]舎人親王:とねりしんのう=天武天皇の第3皇子(676~735年)で、藤原不比等の死後、知太政官事となり、没後太政大臣を贈られた。
[13]仲野親王:なかのしんのう=桓武天皇の皇子(792~867年)で、没後太政大臣を贈られた。
[14]穂積親王:ほづみしんのう=天武天皇の皇子(?~715年)で、知太政官事、一品にいたる。
[15]儲君:ちょくん=皇太子のこと。
[16]清華:せいが=公家の名門清華家のことで、摂関家に次ぎ、太政大臣を極官とし、大臣、大将を兼ねる家。久我、花山院、転法輪三条、西園寺、徳大寺、大炊御門、今出川 (菊亭) の7家。
[17]座位:ざい=席次のこと。
[18]摂家:せっけ=摂政、関白に任命される家柄、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家のこと。
[19]器用:きよう=能力。学識。
[20]連綿:れんめん=長く続いて絶えないこと。
[21]公家当官の外:くげとうかんのほか=官位令に規定される公家の官位とは別扱い。
[22]改元:かいげん=元号(年号)を改めること。
[23]漢朝の年号:かんちょうのねんごう=中国の年号。
[24]吉例:きちれい=縁起の良いもの。
[25]習礼:しゅうらい=礼儀作法をならうこと。
[26]本朝:ほんちょう=日本のこと。
[27]袍:ほう=束帯用の上衣。
[28]麹塵:きくじん=灰色がかった黄緑色。
[29]帛:はく=きぬ。絹布の精美なもの。羽二重の類。
[30]生気:しょうげ=生気の方向を考慮して定めた衣服の色。東に青、南に赤を用いるなど。
[31]仙洞:せんどう=太上天皇のこと。
[32]橡:つるばみ=とち色のことだが、四位以上の人の袍の色となる。
[33]甘御衣:かんのおんぞ=太上天皇が着用する小直衣(このうし)。
[34]公卿:くぎょう=公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいう。参議は四位も含める。
[35]禁色:きんじき=令制で、位階によって着用する袍(ほう)の色の規定があり、そのきまりの色以外のものを着用することが禁じられたこと。また、その色。
[36]雑袍:ざっぽう=直衣(公家の平常服)のこと。上衣。
[37]殿上人:でんじょうびと=清涼殿の殿上間に昇ることを許された者(三位以上の者および四位,五位の内で昇殿を許された者)
[38]貫首:かんじゅ=蔵人頭のこと。
[39]極臈:きょくろう=六位の蔵人で、最も年功を積んだ人。
[40]晴:はれ=正月や盆、各種の節供、祭礼など、普段とは異なる特別に改まったとき。
[41]下臈:げろう=官位の下級な者。序列の低い者。
[42]縹:はなだ=一般に、タデ科アイだけを用いた染色の色で、ややくすんだ青のこと。
[43]任槐:にんかい=大臣に任ぜられること。
[44]羽林家:うりんけ=摂家や清華ではないが、昔より代々中将・少将に任じられてきた家(冷泉・灘波・飛鳥井など)。
[45]衣冠:いかん=男子の最高の礼装である束帯の略装の一形式。冠に束帯の縫腋の袍を着て指貫をはく。
[46]綾:りょう=模様のある絹織物。
[47]練貫:ねりぬき=縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物。
[48]紅梅:こうばい=襲(かさね)の色目の一つで、表は紅色で、裏は紫色。
[49]透額:すきびたい=冠の額の部分に半月形の穴をあけ、羅うすぎぬを張って透かしにしたもの。
[50]帷子:かたびら=夏の麻のきもの。
[51]端午:たんご=端午の節句(旧暦5月5日)のこと。
[52]賀茂祭:かもまつり=加茂の明神のまつり(旧暦4月中の酉の日)のことで、現在の葵祭。
[53]有職:ゆうそく=朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識。また、それに詳しい人。
[54]下道真備:しもつみちのまきび=吉備真備(695~775年)のこと。従八位下から正二位・右大臣にまで昇った。
[55]規摸:きぼ=手本。模範。
[56]蛍雪の功:けいせつのこう=苦労して勉学に励んだ成果。
[57]棄捐:きえん=捨てて用いないこと。
[58]伝奏:てんそう=江戸時代に幕府の奏聞を取り次いだ公武関係の要職。
[59]堂上地下の輩:どうじょうじげのやから=殿上人とそれ以外の官人。
[60]名例律:みょうれいりつ=律における篇の一つで、刑の名前と総則を規定する。
[61]門跡:もんぜき=皇族・貴族などが出家して居住した特定の寺院。また、その住職。
[62]僧正:そうじょう=僧綱の最高位。僧都・律師の上に位し、僧尼を統轄する。のち、大・正・権ごんの三階級に分かれる。
[63]院家:いんげ=大寺に属する子院で、門跡に次ぐ格式や由緒を持つもの。また、貴族の子弟で、出家してこの子院の主となった人。
[64]僧都:そうず=僧綱(僧尼を統率し諸寺を管理する官職)の一つで、僧正に次ぎ、律師の上の地位のもの。
[65]法印:ほういん=僧位の最上位で、僧綱の僧正に相当する。この下に法眼・法橋があった。
[66]律師:りっし= 僧綱(僧尼を統率し諸寺を管理する官職)の一つで、僧正・僧都に次ぐ僧官。正・権の二階に分かれ、五位に準じた。
[67]法眼:ほうげん=僧位の第二位で、法印と法橋のあいだ。僧綱の僧都に相当する。
[68]紫衣の寺:しえのてら=朝廷から高徳の僧に賜わった紫色の僧衣を着る高僧が住持となる寺格。
[69]住持職:じゅうじしょく=住職。
[70]先規希有の事:せんきけうのこと=先例がほとんどない。
[71]臈次:ろうじ=僧侶が受戒後、修行の功徳を積んだ年数で決められる序列。
[72]官寺:かんじ=幕府が保護した寺のことで、五山十刹などをさす。
[73]戒臈:かいろう=修行の年功。
[74]上人号:しょうにんごう=法橋上人位の略称。修行を積み、智徳を備えた高僧の号。
[75]碩学:せきがく=修めた学問の広く深いこと。また、その人。
[76]競望:けいぼう=われがちに争い望むこと。強く希望すること。
[77]慶長廿年:けいちょうにじゅうねん=慶長20年7月は13日に元和に改元されたので、実際の制定時7月17日は元和元年となる。

<現代語訳>

一、天皇が修めるべきものの第一は学問である。「学を修めなければ、すなわち古からの道は明らかにならない、学を修めないでいて良き政事をし、太平をもたらしたものは、いまだないことである。」と、『貞観政要』にはっきり書かれていることである。『寛平遺誡』に四書五経や歴史書を極めていないといっても、『群書治要』を読み習うこととしかじか、和歌は光孝天皇より未だ絶えず、表面を飾って美しく表現した言葉であるといっても、我が国のならわしである、捨ておいてはならないとしかじか、『禁秘抄』に掲載されているところは、学習されるべき最も大切なところである。
一、現役の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の席次の下に親王がくる。特に、舎人親王、仲野親王は薨去後に贈(正一位)太政大臣、穂積親王は准右大臣となった。一品親王は皆これ以後、大臣を贈られし時は三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の下となることは、勿論のことである。親王の次は前官大臣である。三公(太政大臣、左大臣、右大臣)は在任中であれば、親王の上とするが、辞任後は次座となるべきである。その次は諸親王、ただし皇太子は特別である。前官大臣、関白職再任の時は摂家の内、位次であるべきである。
一、清華家の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)辞任後の席次は、親王の次となるべきである。
一、摂関家の生まれであっても、才能のない者が三公(太政大臣、左大臣、右大臣)・摂政・関白に任命されることがあってはならない。ましてや、摂関家以外の者の任官など論外である。
一、能力のあるお方は、高齢だからといっても、三公(太政大臣、左大臣、右大臣)・摂政・関白を辞めてはならない。ただし、辞任したとしても、再任は有るべきである。
一、養子連綿、すなわち、同姓を用いるべきである、女縁をもってその家督を相続することは、昔から今に至るまで一切無いことである。
一、武家に与える官位は、公家の官位とは別扱いのものとする 。
一、元号を改めるときは、中国の年号から縁起の良いものを選ぶべきである。ただし、今後(担当者が)習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである。
一、天皇の礼服は大袖・小袖・裳・御紋十二象、束帯用の御上衣は灰色がかった黄緑色・青色、絹布、生気色の束帯用の御上衣、あるいは御引直衣、御小直衣等の事。太上天皇の束帯用の御上衣は赤色橡色あるいは甘御衣、大臣の束帯用の上衣は橡色の異文、小直衣、親王の束帯用の上衣は橡色の小直衣、公卿は位階によって決められた色の上衣を着用する。殿上人といっても、大臣の息子あるいは孫は、位階によって決められた色の上衣を着用すると聴く。蔵人頭は五位蔵人、六位蔵人は、位階によって決められた色を着用する。六位の蔵人で最も年功を積んだ人に至っては、灰色がかった黄緑色の束帯用の上衣を着用する。これは申し下すべき御服の決まりである。はれの儀式の時は序列の低い者もこれを着用する。束帯用の上衣の色は、四位以上は橡色、五位は緋色、地下は赤色、六位は深緑色、七位は浅緑色、八位は深いくすんだ青色、初位は浅いくすんだ青色、束帯用の上衣の紋は、轡唐草は輪無しについては、家々の旧例に従って、これを用いて着用する。大臣任官以後は異文である。直衣については、公卿は位階によって決められた色の直衣、あるいは任を拝領して始め、先規にてこれを用いて着用する。殿上人は直衣、羽林家のほかはこれを着用しない。殿上人といっても、大臣の息子また孫は位階によって決められた色を着用すると聴く。直衣直垂については、随所着用である。小袖については公卿の最高の礼装の時は、模様のある絹織物を着用する。殿上人は模様のある絹織物は着用しない。平織りの絹織物については羽林家は36歳までこれを着用する。このほかは、これを着用しない。表は紅色で、裏は紫色のかさねについては、16歳3月まで諸家はこれを着用し、それ以後は、平絹を着用する。冠16歳未満は透額とする。夏の麻の着物については、公卿は端午の節句(5月5日)より、殿上人は4月中の酉の日の賀茂祭より、着用するのは普通のことである。
一、諸家の昇進の順序は、その家々の旧例を守って、報告せよ。ただし、学問、朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識、歌道の学問に勤め励むことを命じる。その他.、国家や朝廷のために一身をささげて働くことを重ねた者は、順序をとびこえているといっても、上位の者の推挙によって官につかせたり、位を上げたりするべきである。下道真備(吉備真備)は従八位下ではあったけれど、才智がすぐれていたため右大臣を拝任した、もっとも手本となる。苦労して勉学に励んだ成果は捨ててはならないことである。
一、関白・武家伝奏・奉行職が申し渡した命令に堂上家・地下家の公家が従わないことがあれば流罪にするべきである。
一、罪の軽重は名例律が守られるべきである。
一、摂家門跡は、親王門跡の次の席次とする、摂家は、現職の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の時には親王より上の席次といっても、辞任後は親王の次の席次と定められたことにより、これに准ずる。ただし、皇子兄弟のほかの門跡は親王宣下があってはならないことである。門跡の室の位はそのお方によるべきである。先規を考えれば、僧侶の中の親王は希なことである、近年非常に多くなっているが、その言われはない。摂家門跡と親王門跡のほかの門跡は准門跡とするべきである。
一、僧正(大、正、権)・門跡・院家は先例を守るべきことである。平民に至りては、卓越した才能のある人を、稀にこれを任命することがあるといっても、准僧正であるべきだ。ただし、国王大臣の師範とするものは特別のこととする。
一、門跡については、僧都(大、正、少)・法印を叙任することである。院家は、僧都(大、正、少、権)、律師、法印、法眼、先例から叙任するのはもちろんである。ただし、平人は本寺の推学の上、さらに才能のある人を選んで命じるべきである。
一、紫衣が勅許される住職は以前は少なかった。近年はやたらに勅許が行われている。これは(紫衣の)席次を乱しており、ひいては官寺の名を汚すこととなり、はなはだよろしくないことである。今後はその能力をよく吟味して、修行の功徳を積んだ年数を厳重にして、学徳の高い者に限って、寺の住職として任命すべきである。
一、上人号のことは、修めた学問の広く深い人は、本寺として正確に判断して選んで申上してきた場合は、勅許されるべきである。ただし、そのお方が、仏法修行20年に及ぶ者は正とすること、20年未満の者は権とすること。みだらに、われがちに争い望むことが有る場合は、流罪にするべきである。

 右の旨は守らなければならない。

 慶長20年(1615年)7月 日

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)          】

《板倉勝重、広橋兼勝を招いて振舞う》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P172-174)

「『時慶卿記』の慶長十八年(一六一三)七月三日条に、京都所司代板倉勝重が武家伝奉広橋兼勝を招宴した記載があり、この「洛中洛外図・舟木本」(左隻第五扇下部)に描かれている「大手門を潜る公家一行」は、この時のものであることが裏付けられる。」
 もう一方の、京都所司代板倉勝重は、次の「二条城内での裁判」(左隻第六扇下部)で、民事訴訟を裁いている図で描かれている。

《二条城と所司代屋敷》《舟木屏風の制作は元和元年の禁中並公家諸法度制定以前である》《二条城の民事裁判》《民事訴訟を裁く京都所司代板倉勝重》《京の秩序を守る所司代》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P174-178)

「実際の『武家伝奉広橋兼勝の招宴』や、『民事訴訟の裁判』をする所は、二条城に隣接した所司代屋敷であろうが、この舟木屏風では、それらを一体のものとして、二条城の一角での図として描かれている。」


左六下・二条城内裁判.jpg

「二条城の民事裁判」(左隻第六扇下部)

「女が何事かを懸命に訴えている。縁で訴状が読み上げられ、周囲には武士や訴訟関係者たちが取り巻いている。この中央の武士は誰か? 」

左六下・板倉勝重の九曜紋.jpg

「板倉勝重の九曜紋」(左隻第六扇下部=拡大図)

「この中央の武士の羽織には、かすかに九曜紋が読み取れる。板倉(勝重)家の家紋は、『左巴・九曜巴・菊巴・花菱』などである(『寛政重修諸家譜』)。これは「九曜巴」で、この中央の武士こそ、板倉勝重なのである。」
 (メモ) 板倉勝重は、徳川家康の信任が厚く、慶長六年(一六〇一)に京都所司代となり、十八年に及び市政に尽力し、『板倉政要』(判例集)は彼と子重宗の京都市政の記録で、その名奉行ぶりは夙に知られている。その書は本阿弥光悦に学び、元和元年(一六一五)の、光悦の「鷹峯」(芸術の村)移住なども、家康との仲介をとり、板倉勝重の配慮として伝えられている。」

鷹を手に据える公家.jpg

「鷹を拳に据える『かぶき者』の公家」(左隻第四扇下部)

《堀川の上で拳に鷹を据えている『かぶき者』》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P161-162)
↓ 
「堀川に架かっている橋の上には、不思議な着流し姿の四人組の男と彼らに付き従っている一人の少年の姿がある。そのうち三人の男は茶筅髷で羽織(胴服か)を着ており、大小の刀を腰に差している。左の二人は髭を生やしている。今一人は銀杏髷(二つ折り髷)で、羽織は着ていない。少年は羽織袴姿で、刀を肩に担いでいる。かれらの衣服には派手な文様があり、いかにも「かぶき者」的な姿に描かれている。
 注目すべきは、彼らのうち二人が、拳に鷹を据えていることだ。鷹を扱う一番の基本は、鷹を拳にとまらせることで、これを「据える」といい、鷹を拳に据えられるようになったら、町中を出歩く。これを「据え回し」という。しかし、男たちは着流し姿であり、「据え回し」というよりも、鷹を拳に据えてたむろしているという図である。」

《公家の鷹狩りは禁止された》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P162-1653

「『言緒卿記』(慶長十七年六月八日条)によれば、『鷹狩り』は公家には相応しくないということで、大御所家康の「(公家の)放鷹禁止」の「上位」が、京都所司代板倉勝重を通して、武家伝奉に伝えられたのである。」

【(メモ)
https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2904&item_no=1&page_id=13&block_id=83

「近世の鷹狩をめぐる将軍と天皇・公家」(,根崎光男稿)」によると、この「公家の統制と鷹狩禁止策」は、この時点では、江戸幕府の意向を受けて、朝廷側で、その幕府の意向を受けての「朝廷法」ともいうべきもので、「若輩之公家」の「鷹狩禁止」ということで、徹底しているものではなかった。
 しかし、慶長十八年(一六一三)六月十六の「諸公家(公家衆)法度」、そして、慶長二十年あけて元和元年 (一六一五)七月十七日制定の「「禁中並公家諸法度」により、「朝廷法」というのは「幕府法令」と化して行く。 】

《公家の「かぶき者」たち》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P163-165)

「『かぶき者』というと、武士のそれを思い浮かべるかもしれないが、それは違う。慶長十年代の京都らは、公家のなかかにも『かぶき者』がいた。「かぶき者」たちが公家社会に横行していたのである。」

「辻切りの横行と公家に向けられた嫌疑」「諸公家(公家衆)法度」↓
「この慶長十年代、公家社会の中に、辻斬りをする『かぶき者』が横行していたのである。このような公家の『かぶき者』の行動を取り締まり、あるべき公家の姿に統制して意向とするものが、『公家の放鷹禁止』、そして、それに続く『諸公家(公家衆)法度』」であった。」

《公家の姿かたちとは》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P166)

「公家のフォーマルな姿は、『束帯姿や烏帽子直衣姿』の公務のイメージであるが、『普段着の公家の姿』は、この図のように、京の町に出歩く際に、武士と同じような姿をしていたのであろう。」

《振り返って二条城を見ている「かぶき者」の公家》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P166-167)

「この堀川の橋にいる四人の男(そのうちの二人は鷹を据えている)は、鷹狩りの好きな四人の公家なのだ。そして、鷹狩りを一部の武家の特権として、公家は公家らしく、鷹狩りなどは禁止するという幕府の統制に、冷ややかな眼差しをもって、その幕府の統制に一翼を担っているような、二条城の大手門を潜ろうとしている、武家伝奉一行を見守っている図のようである。」(要点要約・意訳)

かぶき公家供揃図.jpg

「かぶき公家供揃図」(古田織部美術館蔵)
https://ja.kyoto.travel/event/single.php?event_id=3461

http://jarsa.jp/wp/wp-content/uploads/2017/03/e7517-flyer.pdf

http://sengokudama.jugem.jp/?eid=4895

 この「かぶき公家供揃図」について、下記のアドレスで、次のような記事を紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-07-27

【 江戸初期の慶長年間(1596-1615)、京ではかぶき(傾き)者(いたずら者)の文化が一世を風靡していました。なかでも、「かぶき手の第一」(『当代記』)といわれたのが、織田信長の甥・織田左門頼長(道八)です。また、公家の世界では、「天下無双」の美男と称され、ファッションリーダーでもあった猪熊少将教利、彼と親しかった烏丸光広などの若い公家たちの行動が「猪熊事件」へと発展します。さらに、「天下一」の茶人だった古田織部が好んだ、奇抜で大胆な意匠の茶器や斬新な取り合わせも、数寄の世界でかぶきの精神を表現したものといえるでしょう。本展では、織部好みの茶器や刀、織田頼長の書状、猪熊事件に連座した公家衆の直筆短冊などの品を通して、かぶいた武士・公家衆の人物像を探ります。 
※「光源氏」になぞらえた京のファッションリーダー猪熊少将の「猪熊様」と言われた髪型をついに解明! → 「かぶき公家供揃図」には、月代(さかやき)を大きく剃った大額(おおひたい)に茶筅髷(まげ)、襟足を伸ばして立てるという異風の髪型の公家が描かれているが、これが「猪熊様(よう)」と推定されます。  】

 先ほどの「鷹を拳に据える『かぶき者』の公家」(左隻第四扇下部)の四人は、普段着ではなく、フォーマルな公家姿で、例えば、天正九年(一五八一)の、織田信長が京都で行った大規模な観兵式・軍事パレードの「京都御馬揃え」時の「公家衆」と仮定すると、次のようなメンバ―の、そこに出てくる公家衆の普段着の姿のようにも思われるのである。

【 公家衆:近衛殿(近衛前久)、正親町中納言殿(正親町季秀)、烏丸中納言殿(烏丸光宣)、日野中納言殿(日野輝資)、高倉藤衛門佐殿(高倉永孝)、細川右京大夫殿(細川信良)、細川右馬殿(細川藤賢)、伊勢兵庫頭殿(伊勢貞為)、一色殿(一色義定)、山名殿(山名氏政)、小笠原(小笠原長時)、高倉永相、竹内長治   】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 そもそも、若き日の織田信長の「茶筅髷」(毛先を茶筅のように仕立てた男性の髪型)が「かぶき者」の代名詞とすると、公家衆の筆頭の「かぶき者」は、当時の、「武闘派」の「騎馬好き・鷹狩好き」の「近衛前久(龍山)」(「近衛信尹の父」)の英姿と重なってくる。
 そして、「猪熊事件」で処罰を受けた公家衆(猪熊教利・大炊御門頼国・花山院忠長・飛鳥井雅賢・難波宗勝・松木宗信・烏丸光広・徳大寺実久) は、これらは、全て、この武闘派」の「かぶき者」の公家「近衛前久(龍山)・近衛信尹(三藐院)」に連なる、上層公家衆の面々ということになろう。
 ここで、「鷹を拳に据える『かぶき者』の公家」(左隻第四扇下部)の四人は、「猪熊教利(四辻家四男・山科家相続、後に別家の猪熊家)・四辻季満(教利の兄・四辻家の長男・鷲尾家相続)・四辻季継(教利の兄・四辻家四男・四辻家相続)・高倉(藪)嗣良(教利の弟・四辻家の五男・高倉家相続)と見立てるのも一興であろう。
 ちなみに、後水尾天皇の典侍で、一男一女を生み、東福門院徳川和子が後水尾天皇の中宮として入内するに当たり、幕府から圧力を受けて天皇から遠ざけられ内裏より追放された「およつ御寮人事件」の「四辻与津子」は、猪熊教利の妹である。
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源氏物語画帖「その四十六 椎本」(京博本)周辺 [源氏物語画帖]

46 椎本(長次郎筆)=(詞)久我敦通(一五六五~?)    薫23歳春-24歳夏

長次郎・椎本.jpg

源氏物語絵色紙帖  椎本  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

久我・椎本.jpg

源氏物語絵色紙帖  椎本  詞・久我敦通
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「久我敦通」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/19/%E6%A4%8E%E6%9C%AC_%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%8C%E3%82%82%E3%81%A8%E3%83%BB%E3%81%97%E3%81%B2%E3%81%8C%E3%82%82%E3%81%A8%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%8D%81

阿闍梨の室より炭などやうのものたてまつるとて年ごろにならひはべりにける宮仕への今とて絶えはつらむが 心細さになむと聞こえたりかならず冬籠もる山風ふせぎつべき綿衣など遣はししを思し出でてやりたまふ
(第四章 宇治の姉妹の物語 第一段 歳末の宇治の姫君たち)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十六帖 椎本
 第一章 匂宮の物語 春、匂宮、宇治に立ち寄る
  第一段 匂宮、初瀬詣での帰途に宇治に立ち寄る
  第二段 匂宮と八の宮、和歌を詠み交す
  第三段 薫、迎えに八の宮邸に来る
  第四段 匂宮と中の君、和歌を詠み交す
  第五段 八の宮、娘たちへの心配
 第二章 薫の物語 秋、八の宮死去す
  第一段 秋、薫、中納言に昇進し、宇治を訪問
  第二段 薫、八の宮と昔語りをする
  第三段 薫、弁の君から昔語りを聞き、帰京
  第四段 八の宮、姫君たちに訓戒して山に入る
  第五段 八月二十日、八の宮、山寺で死去
  第六段 阿闍梨による法事と薫の弔問
 第三章 宇治の姉妹の物語 晩秋の傷心の姫君たち
  第一段 九月、忌中の姫君たち
  第二段 匂宮からの弔問の手紙
  第三段 匂宮の使者、帰邸
  第四段 薫、宇治を訪問
  第五段 薫、大君と和歌を詠み交す
  第六段 薫、弁の君と語る
  第七段 薫、日暮れて帰京
第八段 姫君たちの傷心
 第四章 宇治の姉妹の物語 歳末の宇治の姫君たち
  第一段 歳末の宇治の姫君たち
  第二段 薫、歳末に宇治を訪問
  第三段 薫、匂宮について語る
  第四段 薫と大君、和歌を詠み交す
  第五段 薫、人びとを励まして帰京
 第五章 宇治の姉妹の物語 匂宮、薫らとの恋物語始まる
  第一段 新年、阿闍梨、姫君たちに山草を贈る
  第二段 花盛りの頃、匂宮、中の君と和歌を贈答
  第三段 その後の匂宮と薫
  第四段 夏、薫、宇治を訪問
  第五段 障子の向こう側の様子

(参考)

【久我 敦通(こが あつみち)
生誕 永禄8年8月21日(1565年9月15日)
死没 寛永元年11月22日(1625年1月1日)

室町時代後期から安土桃山時代の公卿。主に正親町天皇(106代)・後陽成天皇(107代)の二代にわたり朝廷に仕え、官位は正二位権大納言まで昇った。父は久我通堅。母は佐々木氏。初名は吉通、季通。一字名は橘。号は円徳院。
(生涯)
永禄9年(1566年)に叙爵。
永禄11年(1568年)に父が目々典侍との密通の風聞がたったことで正親町天皇の勅勘を被り、京都から追放され、元亀4年(1573年)には祖父の晴通が将軍・足利義昭の京都追放に同行してしまう。
その後、天正3年(1575年)3月に祖父が、翌4月には父が客死してしまうが、織田信長の配慮で家督継承が認められて、11月には信長から所領の安堵を受けた。
 以降累進し、天正6年(1578年)に従三位に達して公卿に列した。
 天正10年(1582年)に権大納言、天正15年(1587年)に従二位となる。
 文禄4年(1595年)より武家伝奏となり、朝廷と豊臣氏との取り次ぎに活躍。豊臣家からも信頼を受けて、しばしば加増を受けている。
 慶長4年(1599年)、勾当内侍との密通の風聞がたったことで、子の通世とともに後陽成天皇の勅勘を被り、京都から追放されている。  】(ウィキペディア)

(「三藐院ファンタジー」その三十六)

左五上・紫宸殿.jpg

「紫宸殿」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇上部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

 「紫宸殿」の「垂簾(すいれん)」の中には、天皇(後陽成天皇か次の後水尾天皇)が出御しているのであろう。その前の「簀子縁(すのこえん)」には、冠束帯姿のトップクラスの殿上公家が居並んでいる。垂簾の右脇に黒い枠の「格子」(上に「半蔀」で夜間に「蔀戸」になる)があり、左方にも黒い「格子」が見える。

左五上・舞楽.jpg

「紫宸殿南庭の舞台の舞樂(青海波)」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇上部)

 その「紫宸殿」の南庭に舞台が設置され、二人舞の「青海波」が演じられている。その右側に、「大太鼓・笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・横笛(おうてき)・笏拍子(しゃくびょうし)などの楽器を演奏する人が描かれている。
 この舞台は架設用の舞台ではなく、慶長期の内裏造営は、「慶長十七年末より慶長十八年中工事が行われ、同年十二月八日、新造内裏の移徒(わたまし)の日時が定められ、後水尾天皇が仮内裏から新内裏へ移徒したのは、同年十九日。そして、慶長十九年年(一六一四)に、紫宸殿の前に舞台や楽屋が建てられた」(『新訂京都御所(藤岡通夫)』)、したがって、「舟木屏風の制作時期は、それ以降ということになろう」(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P144-145)との見解を提示している。

左上六上・清涼殿.jpg

「清涼殿」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇上部)

 一見すると、「紫宸殿」と同じかという印象を受けるが、「紫宸殿」は、「内裏」(天皇の日常居住する住居)の「正殿」(朝賀・即位・大嘗会などの重要な儀式を行う建物)で、「清涼殿」は、天皇の日常の御座所の、四方拝・小朝拝や除目などの諸公事を行う建物と、まず、その建てられている位置関係が、異なっている。
 すなわち、「紫宸殿」の前庭は「南庭」に位置し、その左右に「左近の桜」(東方)と「右近の橘」(西方)が植えられている。一方の「清涼殿」の前庭は、「東庭」に位置し、北方に「呉竹」(格子の籬垣の中に淡竹が植えられている)、南方に「河竹」(格子の籬垣の中に漢竹が植えられている)が据えられている。
 この「清涼殿」の後方(北側)に、宮中の后妃・女官が居住する殿舎(七殿五舎)が位置し、これらが、いわゆる、「後宮(こうきゅう)」である。
 これらの全体像を把握するのには、次の「源氏物語(源氏物語画帖)に見る内裏の図」が分かりやすい。

内裏.jpg

「源氏物語に見る内裏の図」
http://wakogenji.o.oo7.jp/sonota/dairizu.html

【1.紫宸殿(ししんでん)→宮中の行事を執り行う御殿。
「桐壺・第1帖」で第一皇子(弘徽殿の春宮)が御元服の儀を行った所。
「花宴・第8帖」で桜の宴が催された。
2.清涼殿(せいりょうでん)→帝の住まい。これより北側の建物を後宮と言い多くの女性が暮らしていた。
「桐壺・第1帖」で源氏の君の御元服の儀が行われた。
「紅葉賀・第7帖」舞楽の予行演奏がこの前庭で催され、源氏の君が清海波を舞われた。
3.後涼殿(こうりょうでん)→清涼殿の西隣で帝付きの女房の住まい。
「桐壺・第1帖」で淑景舎8に住む桐壺の更衣が女房達のイジメを受け、帝に最も近いこの御殿を賜ることになる。
4.弘徽殿(こきでん)→桐壺帝の第1皇子を産んだ女御の住まい。物語を通して、源氏の君と反目する立場にある。
「花宴・第8帖」源氏の君の須磨流離の原因となる朧月夜の姫君との出逢いの場となる。
5.飛香舎(ひぎょうしゃ)→藤壷と呼ばれる御殿。
「桐壺・第1帖」桐壺の更衣亡き後、中宮として迎えられた先帝の姫君の住まいで、源氏の君がこの継母を愛することから物語が展開される。
6.凝華舎 (ぎょうかしゃ)→梅壺と呼ばれる殿。
「賢木・第10帖」桐壺院亡き後、弘徽殿の大后が使われた部屋。当時弘徽殿には、朱雀帝の寵愛を受けていた朧月夜の姫君が住んでいた。
7.麗景殿(れいけいでん)→帝に仕えた女御の住まい。
「花散里・第11帖」の姫君(花散里)はここに住む女御の妹君に当たる。
8.淑景舎(しげいしゃ)→桐壺と呼ばれ、北側の一番遠い所にある。
「桐壺・第1帖」光源氏の母君は帝の寵愛を受けながら更衣という低い身分のためここにいた。
9.温明殿(うんめいでん)→帝に仕える女房の住まい。
「紅葉賀・第7帖」老女典侍と源氏の君とのお戯れの場。   】

左六上・若公家と上臈.jpg

「若公家と上臈の逢瀬」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇上部)

《内裏の不思議な光景》《若い公家と上臈の逢瀬》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P151-153とP154)

「この内裏様には、これまで誰も着目してなかった、じつに不思議な光景が二か所にあることに気付く。一つは、清涼殿の左側(奥)に描かれている、この『若公家と上臈の逢瀬』である。このような男女の表現は、他の洛中洛外図屏風にはおそらくない。
 この図だけでは解釈が難しいが、次の「短冊を書いている五人の上臈たち」と合わせ考えれば、これは、「猪熊事件あるいは官女密通事件という一大不祥事」に関係しているように思えるのである。

左五上・五人の上臈.jpg

「短冊を書いている五人の上臈たち」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇上部)

《内裏の不思議な光景》《短冊に恋の歌を書いている五人の上臈たち》》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P151-153)

「この屏風は、改装の際に各扇の上下左右を切り落とされている。その結果として、肝心の読解が困難になってしまった個所が多い。この図も上部が裁ち落とされて読解が困難なのだが、『短冊に恋の歌を書いている五人上臈たち』が描かれているように思える。
 この五人の上臈の数が、「猪熊事件」(官女密通事件)に関わった五人の官女の数と一致するのである。

《猪熊事件あるいは官女密通事件という一大不祥事》《事件の発端》《「かぶき者」の公家猪熊教利と兼屋頼継》《発覚》《処罰》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P154-158)

 「猪熊事件」(官女密通事件)については、豊富な資料に基づき、その詳細が記述されているが、これらのことについては、下記アドレスで紹介したものと大筋で一致するので、それらの一端について、下記に再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-07-27

【  https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-23

《 猪熊事件(いのくまじけん)は、江戸時代初期の慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

公家衆への処分
慶長14年(1609年)9月23日(新暦10月20日)、駿府から戻った所司代・板倉勝重より、事件に関わった公卿8人、女官5人、地下1人に対して以下の処分案が発表された。

死罪    
左近衛少将 猪熊教利(二十六歳)
牙医 兼康備後(頼継)(二十四歳)

配流《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》
左近衛権中将 大炊御門頼国《三十三歳》→ 硫黄島配流(→ 慶長18年(1613年)流刑地で死没)
左近衛少将 花山院忠長《二十二歳》→ 蝦夷松前配流(→ 寛永13年(1636年)勅免)
左近衛少将 飛鳥井雅賢《二十五歳》→ 隠岐配流(→ 寛永3年(1626年)流刑地で死没)
左近衛少将 難波宗勝《二十三歳》→ 伊豆配流(→ 慶長17年(1612年)勅免)
右近衛少将 中御門(松木)宗信《三十二歳》→ 硫黄島配流(→ 流刑地で死没)

配流(年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時=下記のアドレスの<女房一覧 桃山時代 106代正親町天皇―107代後陽成天皇>)
新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)<二十歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
権典侍 中院局(中院通勝の娘)<十七歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
命婦 讃岐(兼康頼継の妹)<?>→ 伊豆新島配流→ 元和9年9月(1623年)勅免)

恩免《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》
参議 烏丸光広《三十一歳》
右近衛少将 徳大寺実久《二十七歳》    》

https://ameblo.jp/kochikameaikouka/entry-11269980485.html

《 ※広橋局と逢瀬を重ねていた公家は花山院忠長です。
※中院仲子については烏丸光広との密通を疑われた、と言われています。  》

https://toshihiroide.wordpress.com/2014/09/18/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85%EF%BC%881%EF%BC%89/

《 権典侍中院局の兄で正二位内大臣まで上り詰めた中院通村(なかのいん・みちむら)が、後水尾帝の武家伝奏となって朝幕間の斡旋に慌ただしく往復していたころ、小田原の海を眺めつつ妹の身を案じて詠んだ歌がある。
  ひく人のあらでや終にあら磯の波に朽ちなん海女のすて舟
 一首は「私の瞼には、捨てられた海女を載せて波間を漂う孤舟が浮かぶ。いつの日か舟をひいて救ってくれる人が現れるであろうか。それとも荒磯に打ちあげられて朽ちてしまうのか。かわいそうに可憐な妹よ、私はいつもお前のことを憂いているのだよ」と。】

https://tracethehistory.web.fc2.com/nyoubou_itiran91utf.html

<女房一覧 桃山時代 106代正親町天皇―107代後陽成天皇>)   》  】

 すなわち、「短冊を書いている五人の上臈たち」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇上部)の、その「五人の上臈たち」とは、次の五人の女臈を指している。

新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)<二十歳?>
権典侍 中院局(中院通勝の娘)<十七歳?>
中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘)<?>
菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘)<?>
命婦 讃岐(兼康頼継の妹)<?>

 そして、「若公家と上臈の逢瀬」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇上部)に描かれている二人は、「左近衛少将 花山院忠長(二十二歳>と新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)<二十歳?>)ということになる。
 さらに、この「新大典侍 広橋局」の父親の、当時、武家伝奏として朝廷と幕府の融和に努め、「出頭無双」といわれその権勢は大きかったが、幕府に譲歩も強いられ「奸佞の残賊」と罵られる存在でもあった「広橋兼勝」が、「二条城大手門を潜る一行」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇下部)、また、その「猪熊事件」の裁定に大きく関わった、時の京都所司代の「板倉勝重」(伊賀守)が、「二条城内での裁判での九曜紋の板倉勝重」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇下部)が描かれているとの見解が記述されている(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P171-178)。
 これは、次の「三藐院ファンタジー」で記述することにして、ここでは、「内裏」(御所=後水尾天皇)の近くの「院御所」(後陽成院)の図を掲載して置きたい。

左四上・院御所.jpg

「院御所(後陽成院)」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第四扇上部))

《院御所》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P160)

「名所は上部が切れていて、「□□所」とある。この建物は「女院御所」と「院御所」の二つの解釈があるが、簀の子縁では文書が作成されている最中である。これは院政の表現なのであろう。とすれば、この院御所にいるのは、譲位したばかりの後陽成上皇なのである。この点に着目すると、内裏は後水尾天皇のそれということになる。」

《内裏様のダブルイメージ》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P161)

「つまり、舟木屏風には二つの内裏が表現されている。後陽成天皇の内裏と、即位してまだ間もない後水尾天皇の内裏である。慶長十六年三月二十七日、後陽成天皇は退位し、同年四月十二日に後水尾天皇が即位した。その以前の後陽成天皇の内裏とそれ以後の後水尾天皇の内裏、そのいずれにも見えるように描かれている。このダブルイメージとして描いたのは、注文主の意向に基づく画家又兵衛と創作ということになる。」(要点、要約記述)

 このことを「猪熊事件」当時に当てはめてみると、「猪熊事件」が発覚したのは、慶長十四年(一六〇九)六月半ば頃で、後陽成天皇の時代であった。後陽成天皇は、自分に仕える官女たちと若公家衆による集団的な密通行為を知って、捜査権を有する幕府(京都所司代)に、厳罰(死罪)に処したい意向を伝えたが、事件を聞いた大御所・徳川家康の命を受け、京都所司代の板倉勝重およびその三男重昌が、この事件の裁定に関わり、すべて幕府主導のままにその結着を見ることになる。
 その結着は、国母(後陽成天皇の生母)新上東門院(勧修寺晴子)などの意向を汲んでの、後陽成天皇の意向は無視され、結果的に、死罪(二人)、配流(十名)、恩赦(二人)ということになった(個々の処分裁定は前述のとおり)。後陽成天皇は、この処分措置には大不満で、その後、周囲と孤立しまま、不本意な譲位を余儀なくされ、徳川家康が亡くなった翌年の元和三年(一六一七)に崩御した。
 すなわち、後陽成天皇は、幕府主導の後水尾天皇の譲位を強いられ、この「院御所」で、意のままに、後水尾天皇の背後で、後陽成上皇としての「院政」を行う状況下には置かれていなかった。
 「院御所(後陽成院)」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第四扇上部))の、「簀の子縁では文書が作成されている最中である。これは院政の表現なのであろう」というのは、後陽成天皇時代の、「慶長勅版」(大型木活字による勅版の開版)や「近臣を動員した収書・書写活動に専心し禁裏本歌書群の基礎を築いた」、その業績を、象徴的に見立てたもので、「院政の表現」の見立てではなかろう。
 そして、「見立て」(あるものを他になぞらえて創作すること)というは、その「なぞらえて創作したもの」が、その「本体が何か」ということを暗示するもので、「ダブルイメージ」というよりも、臨機応変に「多様なイメージ」を伝達するということが、その本意なのであろう。
 例えば、「若公家と上臈の逢瀬」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇上部)の図は、「猪熊事件」の見立てというよりも、『源氏物語』の主人公「光源氏」と「実父の桐壺帝の後添えの藤壺中宮、亡き母の面影を宿している光源氏の初恋の女性」との「不義密通」の見立てで、その描かれている位置は、その「藤壺中宮」が住んでいる、清涼殿の後方(北側)の《5.飛香舎(ひぎょうしゃ)=藤壷と呼ばれる御殿=「桐壺・第1帖」桐壺の更衣亡き後、中宮として迎えられた先帝の姫君の住まいで、源氏の君がこの継母を愛することから物語が展開される》(先の「源氏物語に見る内裏の図」)の箇所辺りに、この「若公家と上臈の逢瀬」が描かれている。
 また、「紫宸殿南庭の舞台の舞樂(青海波)」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇上部)の図も、これも、「源氏物語」の「紅葉賀・第7帖」での、「光源氏が、その藤壺の御前で青海波を舞う」、それをイメージしての見立てと解することも出来よう。

岩佐勝友・青海波.jpg

「紅葉賀」(岩佐勝友筆「源氏物語屏風・六曲一双・紙本金地著色・各155.2×364.0・出光美術館蔵」の「紅葉賀・右隻第二扇」)

 この『源氏物語・第七帖』の「紅葉賀」の「青海波」の図は、「又兵衛工房と岩佐派のゆくえ(戸田浩之稿)」(『岩佐又兵衛―血と笑いとエロスの絵師(辻惟雄・山下裕二著・とんぼの本)』)所載のものであるが、これに続く「花の宴・第八帖」は次のものである。

岩佐勝友・花の宴.jpg

「花の宴」(岩佐勝友筆「源氏物語屏風・六曲一双・紙本金地著色・各155.2×364.0・出光美術館蔵」の「花の宴・右隻第二扇」)

 これを描いた「岩佐勝友」(屏風縁裏に「勝友書之」の署名あり)は、岩佐又兵衛の弟子で、「又兵衛工房」の一人なのだが、詳細は不明である。又兵衛の「又兵衛工房」を継いだのは、又兵衛の福井移住後の、長男・勝重(?~一六七三)、そして、その子の陽雲(?~一七〇八)だが、それらの「又兵衛工房」の実態は謎のままである。
 そして、又兵衛の弟子の、この岩佐勝友筆の「花の宴」は、「若公家と上臈の逢瀬」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇上部)のイメージと重なってくる。このイメージは「光源氏と朧月夜の君との逢瀬」の見立てということになる。
 この「洛中洛外図屏風・舟木本」(六曲一双)のような屏風絵(画)の展開は、「俳諧」(俳諧の連歌)の、三十六場面(句)からなる「歌仙(三十六句形式の俳諧=連句)」の構造と極めて類似している。
 すなわち、六曲一双屏風の「右隻」(第一扇~第六扇を各三区分=上・中・下して「十八場面」)、「左隻(「右隻と同じ構造で「十八場面」)の「三十六場面」で、その「三十六場面」が、「一場面一場面の独自の面白さ(創作)」があり、「他の場面と連動しての面白さ(創作)」があり、その連動の仕方に、「物付け・心付け・余情付け」などの配慮がなされる。さらに、「一巻(全体)として、舞楽の拍子の『序・破・急』の展開の面白さ(創作)」が、その創作(作る=場面を作る・味わう=場面を味わう)に加わった人に、「盤上転珠(ばんじょうてんじゅ)=盤の上を珠が転がる」の「心地よさ」にさせる」というのが基本になる。
 そして、この俳諧の「他の場面と連動しての面白さ(創作)」では、その連動しようとする場面(前の場面)を自分なりに「見立てて」(他人の作ったものを、自分なりに解釈して連動させる)創作(作句)することになる。
 具体的には、「紫宸殿南庭の舞台の舞樂(青海波)」の図に連動して、「若公家と上臈の逢瀬」の図は、「花の宴」(「光源氏と朧月夜の君との逢瀬」)のようにも思えるが、それを、当時の「猪熊事件」の「若公家と上臈の逢瀬」と「見立て替え」して、次のステップの図を創作するということになる。
 この次のステップ以降の展開を、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』をベースにして見ていくことにする。
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源氏物語画帖「その四十五 橋姫」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

45 橋姫(長次郎筆) =(詞)四辻季継(一五八一~一六三九) 薫20歳-22歳(以下宇治十帖)

長次郎・橋姫.jpg

源氏物語絵色紙帖  橋姫  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

四辻・橋姫.jpg

源氏物語絵色紙帖  橋姫  詞・四辻季継
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「四辻季継」書の「詞」)

雲隠れたりつる月のにはかにいと明くさし出でたれば扇ならでこれしても月は招きつべかりけりとてさしのぞきたる顔いみじくらうたげに匂ひやかなるべし
(第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る 第三段 薫、姉妹を垣間見る)

(周辺メモ)

第四十五帖 橋姫
 第一章 宇治八の宮の物語 隠遁者八の宮
  第一段 八の宮の家系と家族
  第二段 八の宮と娘たちの生活
  第三段 八の宮の仏道精進の生活
  第四段 ある春の日の生活
  第五段 八の宮の半生と宇治へ移住
 第二章 宇治八の宮の物語 薫、八の宮と親交を結ぶ
  第一段 八の宮、阿闍梨に師事
  第二段 冷泉院にて阿闍梨と薫語る
  第三段 阿闍梨、八の宮に薫を語る
第四段 薫、八の宮と親交を結ぶ
 第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る
  第一段 晩秋に薫、宇治へ赴く
  第二段 宿直人、薫を招き入れる
  第三段 薫、姉妹を垣間見る
  第四段 薫、大君と御簾を隔てて対面
  第五段 老女房の弁が応対
  第六段 老女房の弁の昔語り
  第七段 薫、大君と和歌を詠み交して帰京
  第八段 薫、宇治へ手紙を書く
  第九段 薫、匂宮に宇治の姉妹を語る
 第四章 薫の物語 薫、出生の秘密を知る
  第一段 十月初旬、薫宇治へ赴く
  第二段 薫、八の宮の娘たちの後見を承引
  第三段 薫、弁の君の昔語りの続きを聞く
  第四段 薫、父柏木の最期を聞く
  第五段 薫、形見の手紙を得る
  第六段 薫、父柏木の遺文を読む

(参考)

四辻季継書状.jpg

「四辻季継筆書状」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/402

【四辻季継〈よつつじすえつぐ・1581-1639〉は、正二位・権大納言公遠〈きんとお・1440-95〉の二男。初名は教遠(のりとお)。寛永3年〈1626〉、46歳の時、正二位・権大納言に至る。四辻家は、もともと和琴・箏をもって朝廷に仕えた家柄であった。この書状は、某年の一月、仙洞(後水尾上皇)における御会始の歌会にあたって詠んだ詠草ながら、その不出来を恥じつつ、その添削を中院亜相(亜相は大納言の唐名)、すなわち、中院通村〈なかのいんみちむら・1588-1653〉に求めたものである。季継の権大納言在任(寛永3年〈1626〉~同16年〈1639〉=死去)と通村の権大納言在任期間(寛永6年〈1629〉~同19年〈1642〉)から、季継の50代の筆跡と判明する。かれは、書流系図においても近衛流の能書として知られるが、この書状にもその特徴が見え隠れしている。「仙洞の御会始めの愚作に候。何とも成らず候て、正体無く候。御詞加えられ候て、下され候はば、畏れ入り候。殊に御急ぎにて候て、赤面此の事に候。猶、面拝を以って申し入るべく候。恐々謹言。十九日中(院)亜相公四辻大納言季継」

(釈文)

仙洞之御会始之愚作ニ候何とも不成候て無正躰候御詞被加候て被下候者可畏入候殊御急に候て赤面此事候猶以面拝可申入候恐々謹言十九日(花押)四大納言中亜相公季継   】

(「三藐院ファンタジー」その三十五)

豊国祭礼図・秀頼周辺.jpg

『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』カバー表紙図

 この「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」右隻第六扇・部分拡大図)は、豊臣秀頼と徳川家忠との「大阪夏の陣」の見立てで、その登場人物は、主役の「秀頼と家忠」の他に、「淀殿・高台院・千姫・大野治長・治房兄弟・孝蔵主・方広寺関係僧・蜂須賀家・前田家・浅野家関係武士」などが読み取れるというのが、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』などの謎解きであった。
 この「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館本)は、「洛中洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)と連動していて、この「豊国祭礼図屏風」の「高台院」が、同じ格好をして、「洛中洛外図・舟木本」に出て来るというのである(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』)。

右四・五中・五条大橋で踊る高台院.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第四・五扇中部部分拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

右四中・高台院アップ.jpg

同上(五条橋で踊る老後家尼)第五扇拡大図

《老後家尼》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P204)

「この桜の枝を右手に持って肩に担ぎ、左足を高くあげて楽しげに踊っている、この老後家尼は、ただの老女ではありえない。又兵衛は、いったい誰を描いているのだろう。」

《花見帰りの一行の姿』((『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』)P204-205)

「この老後家尼の一行は、笠を被った男二人、それに続き、女たち十二人と男たち十人余りが踊っており、六本の傘が差しかけられている。乗掛馬に乗った武士二人と馬轡持ち二人、荷物を担いでいる男四人、そして、五人の男が振り返っている視線の先に、酔いつぶれた男が両脇から抱きかかえられ、その後ろには、宴の食器や道具を担いだ二人の男がいる。総勢四十五人以上の集団である。」

《傘の文様は?》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P205-206)

「六本の傘を見ると、先頭の白い傘には日の丸(日輪)、次の赤い傘には桐紋、三本目の赤い傘は鶴と亀の文様である。四本目は不明、五本目は日・月の文様のようであり、六本目は花か南蛮の樹木の葉のようである。この先頭の日輪と二本目の桐紋が決定的に重要だ。このような後家尼の姿で描かれる人物は、秀吉の後家、高台院(北政所おね)以外にあり得ない。」

《豊国祭礼図屏風の老後家尼》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P206-207)

「ここで、拙著『豊国祭礼図を読む』の記述を想い起こしたい(二六六頁)。そこで、淀殿の乗物の脇にいて、慌てて飛び退いている老後家尼の高台院がかかれていると指摘しておいた。この高台院も、舟木屏風の老後家尼と同様の姿で描いている。つまり舟木屏風は、徳川美術館本豊国祭礼図屏風に先行して、高台院を五条橋の上で踊る老後家尼として描いていたのである。」

 それだけではないのである。「豊国祭礼図屏風」の、豊臣秀頼と徳川秀忠の「かぶき者の喧嘩」に見立てての「大阪夏の陣」に対応する「大阪冬の陣」が、何と、「洛中洛北屏風・舟木本」の、右隻第二扇の「方広寺大仏殿」の上の、「妙法院」の門前で「かぶき者らしき男たちの喧嘩」の見立てで、又兵衛は、それとなく描いているのである。
 その舟木本の「かぶき者らしき男たちの喧嘩」の図は、次のものである。

舟木本・大阪冬の陣.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第二扇中部部分拡大図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主
―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E

【《二年前に出した拙著『豊国祭礼図を読む』では、徳川美術館本の右隻第五・第六扇の喧嘩の場面に、「かぶき者」に見立てられた豊臣秀頼の姿を見出したというに、みの舟木本の喧嘩の場面については、肝心のディテールを「見落とし」てしまったのである。家紋を見落としたのだ。》

《妙法院と照高院の門前で喧嘩が始まっている。双方六人ずつ、武器は鑓・薙刀と刀である。》

《この妙法院と照高院の門前の喧嘩は何を意味しているのか? それを物語るのが、右側の男の背中に描かれている家紋であったのだ。この男の茶色の短い羽織の背中には、「丸に卍紋」が大きく描かれている。この「丸に卍紋」は阿波の蜂須賀氏の家紋である。妙法院・照高院の門前に描かれているのは下郎ないし「かぶき者」の喧嘩であるが、この家紋は、それが大きな戦いの「見立て」であることを示唆している。》

《慶長十九年(一六一四)十月からの「大阪冬の陣」において、とくに目立った軍勢は阿波の蜂須賀家勢(蜂須賀隊)であった。十一月十九日、大阪方の木津川の砦を、蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄の三者で攻めることになったが、蜂須賀至鎮は抜け駆して、砦を陥落させたのであった。次に蜂須賀勢が著しい成果を挙げたのは、同月二十九日の未明に、薄田隼人の守っていた博労ケ淵の砦を攻撃し、砦を奪取した。また逆に、十二月十六日の深更に、蜂須賀勢の陣地は、大阪方の塙団右衛門らによって夜襲をかけられてもいる。》

《すなわち、大阪冬の陣における蜂須賀勢の攻防・活躍はとくに顕著であり、世間によく知られたことであった。他方、「大阪夏の陣」での蜂須賀軍はどうだったか。蜂須賀軍は、荒れた海と紀伊の一揆のために、夏の陣の決戦には間に合わず、夜通し進軍して、五月八日(大阪城の落城は五月七日)に住吉に着陣し、茶臼山と岡山の陣営に行って家康と秀忠に拝謁したのであった。》

《したがって、「かぶき者」の背中に描かれた「丸に卍紋」は、大阪冬の陣における蜂須賀勢を意味する。この場面は、大阪冬の陣における戦いを「かぶき者」たちの喧嘩に見立てたものだったのである。以上のように読むと、舟木本の右隻第二扇の喧嘩は、徳川美術館本の右隻第五・六扇上部に描かれた「かぶき者」の喧嘩の場面と繋がってくる。》 】
(「一 舟木本「洛中洛外図屏風」読解の「補遺」」の要点要約)

 この「徳川美術館蔵「豊国祭礼図か」の注文主(黒田日出男稿)」の論稿は、平成三十年(二〇一八)の徳川美術館での講演用のものを改稿したもので、この種の読解は現在進行形の形で、その後の知見も集積されていることであろう。
 それらの中には、おそらく、この「大阪冬の陣に見立てた『かぶき者』の喧嘩」が、「何故、『妙法院・照高院』の門前で描かれているのか」にも触れられているのかも知れない。
 これは、大阪冬の陣の勃発の発端となった「方広寺鐘名事件」の震源地の「方広寺」の総括責任者が、当時の方広寺を所管していた「照高院・興意法親王」で、この「方広寺鐘名事件」で、一時「照高院」は廃絶され、興意法親王は「聖護院宮」に遷宮となり、方広寺は「妙法院・常胤法親王」の所管となり、その「方広寺鐘名事件」関連の終戦処理は、その「妙法院・常胤法親王」が担うことになる。この「方広寺鐘名事件」に関連する、「興意法親王」の書状が今に遺されている。

興意法親王書状.jpg

御書状 「立札通」(聖護院宮 興意法親王書 ・海の見える杜美術館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/237671
【 慶長十年(一六〇五)徳川秀忠江戸下向の際、暇乞に信尹や常胤らと礼参(義演准后日記)するなど、時の為政者によく仕えていたが、慶長十九年(一六一四)の方広寺鐘銘事件では、大仏殿住職の職を解かれ、聖護院にて遷居となった。なお、常胤が大仏殿住職を継いだ。
 後陽成天皇の皇弟で、酒樽二つ贈られた礼状。宛名は「金□□」と見えるが、明らかにしない。「諸白」はよく精白した米を用いた麹によってつくられた酒である。江戸へ下向して将軍に会ったことを述べて、末尾にはお目に懸ってまた申しましょうとあるが、文末の決まり文句で「期面云々」「面上云々」などを結びとするのが通例である。(『名筆へのいざない―深遠なる書の世界―』海の見える杜美術館2012 解説より)  】

豊国祭礼図・秀頼周辺.jpg

『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』カバー表紙図

 上記の図について、前回、下記のとおり記した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-07-30#comments

【ここまで来ると、上記の図・上部の「大阪城から脱出した千姫」と思われる貴女の、左後方の屋敷から、喧嘩の状況を見極めているような人物は、千姫を大阪城の落城の時に、家康の命により救出した「坂崎直盛(出羽守)」という「見立て」も可能であろう。
 さらに、この図の下部の「秀頼と秀忠との喧嘩を止めようとしている僧侶(三人?)
のうちの中央の身分の高い僧衣をまとった人物は、「方広寺鐘銘事件」が勃発した時の、方広寺門跡「興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)」の「見立て」と解することも、これまた、許容されることであろう。
そして、この後陽成天皇の弟にあたる興意法親王(照高院)の前の、家忠に懇願しているような僧が、「方広寺鐘銘事件」の、問題の「国家安康」(家康の身首両断を意図している呪文の文字)と「君臣豊楽」(豊臣家の繁栄を祈願している文字」とを撰した、禅僧の「文英清韓」という「見立て」になってくる。
 この「方広寺鐘銘事件」と「興意法親王(照高院)」との関連などについては、下記のアドレスで取り上げている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-26

ここで、先の(参考一)に、興意法親王(照高院)も入れて置きたい。

(参考一)「源氏物語画帖」と「猪熊事件」そして「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」との主要人物一覧

※※豊臣秀吉(1537-1598) → 「豊臣政権樹立・天下統一」「豊国祭礼図屏風」
※※土佐光吉(1539-1613) → 「源氏物語画帖」
※※徳川家康(1543-1616) →「徳川政権樹立・パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」
花山院定煕(一五五八~一六三九)  →「夕霧」「匂宮」「紅梅」
※※高台院 (1561? - 1598) →  「豊国祭礼図屏風」
近衛信尹(一五六五~一六一四)   →「澪標」「乙女」「玉鬘」「蓬生」
久我敦通(一五六五~?)      →「椎本」
※※淀殿(1569?-1615) →  「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣 」
後陽成院周仁(一五七一~一六一七) →「桐壺」「帚木」「空蝉」
日野資勝(一五七七~一六三九)   →「真木柱」「梅枝」
※※興意法親王(照高院)(一五七六~一六二〇) → 「方広寺鐘銘事件」
※大炊御門頼国(1577-1613) →「猪熊事件」

※※岩佐又兵衛(1578-1650)→「豊国祭礼図屏風」「洛中洛外図・舟木本」

※※徳川秀忠(1579-1632) →「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※烏丸光広(一五七九~一六三八) →「猪熊事件」→「蛍」「常夏」 
八条宮智仁(一五七九~一六二九) →「葵」「賢木」「花散里」
四辻季継(一五八一~一六三九)  →「竹河」「橋姫」

※織田左門頼長(道八)(1582-1620) →「猪熊事件」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※猪熊教利(1583-1609)      →「猪熊事件」
※徳大寺実久(1583-1617)     →「猪熊事件」

飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)   →「夕顔」「明石」
中村通村(一五八七~一六五三)    →「若菜下」「柏木」 
※花山院忠長(1588-1662) →「猪熊事件」
久我通前(一五九一~一六三四     →「総角」    
冷泉為頼(一五九二~一六二七)     → 「幻」「早蕨」
※※豊臣秀頼(1593-1615)  → 「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
菊亭季宣(一五九四~一六五二)    →「藤裏葉」「若菜上」
※※松平忠直(1595-1650)   →「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
近衛信尋(一五九九~一六四九)    →「須磨」「蓬生」
烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)   →「薄雲」「槿」
西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)   →「横笛」「鈴虫」「御法」  】

 さらに、次のアドレスのものも再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-20

【「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)
 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図()周辺は、下記記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

正親町天皇→陽光院(誠仁親王)→ ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)
      ↓        ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
      ↓          ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良(養父・一条内基)
      ↓        ↓興意法親王     ↓良純法親王 他
    ※青蓮院尊純法親王(常胤法親王の王子、良恕法親王より灌頂を受け親王宣下)
 
※後陽成院周仁(誠仁親王の第一皇子・一五七一~一六一七) →(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(誠仁親王の第二皇子・一五七三~一六五〇) →(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(誠仁親王の第三皇子・一五七三~一六四三) →(関屋・絵合・松風)
興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)→方広寺大仏鐘銘事件(蟄居?)
※八条宮智仁親王(誠仁親王の第六皇子・一五七九~一六二九) →(葵・賢木・花散里)
※妙法院常胤法親王(誠仁親王の弟・一五四八~一六二一)  →(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純(常胤法親王の子・一五九一~一六五三)→(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋→(後陽成天皇の子・後水尾天皇の弟・信尹の養子・太郎君の夫?・一五九九~一六四九)→(須磨・蓬生)
※近衛信尹→(信尹の養父・太郎君の父・一五六五~一六一四)→(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)
※近衛太郎(君)→(近衛信尹息女・慶長三年(一五九八)誕生?)・ 信尋の正室?)→(花散里・賢木)   】

舟木本・大阪冬の陣.jpg

(再掲)「洛中・洛外図屏風・舟木本」の「右隻第二扇中部部分拡大図」(東軍=蜂須賀勢)

舟木本・大阪冬の陣・幸村の槍.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第二扇中部部分拡大図」
(西軍=真田勢)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

 「照高院・妙法院」前の、「かぶき者」の小競り合い(六人対六人)が、何と、「大阪冬の陣」の見立てとし、その「東軍」の代表選手が、薙刀を持って、背中に「丸に卍紋」の軍羽織をした男が「蜂須賀勢」を意味するとなると、それに相対する「西軍」の代表選手は、
 この下図の「大千鳥十文字槍」を持っている男の「真田勢」ということになろう。

大千鳥十文字槍.jpg

「真田信繁(幸村)愛用の大千鳥十文字槍」(真田宝物資料館蔵)
https://monorog.com/archives/1112

 上記のアドレスのものは、「大千鳥十文字槍の由来 現在の持ち主は真田宝物資料館?」というもので、関連する記事として、「大阪冬の陣の歴史 真田丸の戦いとは?」「大阪夏の陣の歴史 豊臣家の滅亡と高台院」の、三本立ての記事として見ると、この「洛中洛外図屏風・舟木本」そして「豊国祭礼図屏風」の見立てを読み解くのには参考となる。
 ついでに、「東軍」の「蜂須賀勢」(「丸に卍紋の軍羽織」を着ている男)が手にしている「薙刀」も、「蜂須賀勢」を象徴するものでなく、これも、「真田信繁(幸村)」が、大阪夏の陣で、越前松平勢(藩主は岩佐又兵衛のパトロンとなる松平忠直)に討ち取られた時に使用していたものとして、越前松平藩に伝わっているものに由来があるように思われる。

幸村所用の薙刀.jpg

「真田信繁(幸村)が大阪夏の陣で越前松平藩に討ち取られた際の所用の薙刀」(越葵文庫蔵)
http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tenji/kaisetsusheets/yukimura.pdf

 上記のアドレスに、次のように解説されている。

【 采配とともに真田信繁を討ち取った福井藩士・西尾宗次の子孫の家に伝わったもので、のち藩主松平家に献上され、松平家に伝来している。由緒書が残されており、
「慶長二十年乙卯七月十三日元和ト改 大坂御陣茶臼山御本陣之節 真田左衛門尉幸村ヲ討取采配ト長刀 西尾仁左衛門尉宗次」
「此長刀及采配ハ当藩士西尾仁左衛門尉宗次が茶臼山陣ニ於テ真田幸村ヲ討取リタル際分捕セシモノ也」
「采配 薙刀西尾久馬所持 祖先西尾仁左衛門尉宗次大阪ノ役ニ茶臼山陣ニ於テ真田左衛門尉幸村ヲ討取此両品ヲ分捕」といった文言が見える 】

 ここで、真田信繁(幸村)は、越前松平藩(藩主は岩佐又兵衛のパトロンとなる松平忠直)に討ち取られたのは、この大阪冬の陣ではなく、それに続く、大阪夏の陣に於いてなのである。
とすると、「豊国祭礼図屏風」の「大阪夏の陣」の何処かに、真田信繁(幸村)を見立てているものが描かれている筈である。

かぶき者の「窯〇怒』紋.jpg

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E5%8F%A2%E6%9B%B846.pdf

 このアドレスの「徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)の記述は次のとおりである。

【「かぶき者」の「鎌〇怒(かまわぬ)」紋があることに気付く(指図四)。この紋は、従来、幡随院長兵衛の頃に生まれたとされてきたが、慶長期の「かぶき者」がすでに使用していた紋であったことは、これで明らかになった。このような判じ物的な趣向は、江戸中期まで下らず、慶長期の「かぶき者」たちがすでに好んでいたものであった(註9=「岩佐又兵衛の『豊国祭礼図屏風』から歴史を読む」=『Kotoba』(集英社) 30号。2018年12月)。】

 上記の「かぶき者」の「鎌〇怒(かまわぬ)」紋の読み方は、それだけではない。もう一つの読み方は、「かぶき者」は、上半身裸の主人公の「殿様スタイル」の男なのである。   
 そして、それを引き留め取っているような「鎌〇怒(かまわぬ)」紋の男と、その下の、真田家の家紋の「六文銭」もどきの紋章の男二人は、この「もろ肌脱ぎの主人公(殿様)」が誰であるかを証明している、その示唆を投げかけている、謂わば「説明用の黒子の人物」ということに他ならない。
 すなわち、上記の「もろ肌脱ぎの主人公(殿様)」は、「鎌〇怒(かまわぬ)」紋の、「鎌」形の「(大千鳥)十文字槍」の「鎌槍(十文字槍など)」と、次の「六文銭」もどきの男の、この二つ備えて示唆している、すなわち、「真田信繁(幸村)」ということになる。

豊国祭礼図屏風・主役たち.jpg

『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』カバー表紙図の下部の拡大(「中央=興以法親王(照高院門跡)・文英清韓)、左方、「豊臣秀頼・真田信繁(幸村)」、右方、「徳川秀忠・徳川忠直(岩佐又兵衛のパトロン「越前松平藩主)」

 ここで、この「豊国祭礼図屏風」(右隻第六扇・中部)の「かぶき者の喧嘩図」に戻って、この喧嘩図が、「大阪夏の陣」の見立てで、左方の上半身裸の「かぶき男」が、西軍の「豊臣秀頼」で、右方の上半身が、東軍の「徳川秀忠」とすると(『黒田・角川選書533)、
この秀頼の後方の、もろ肌脱ぎの「かぶき男」は、西軍の代表選手の「真田信繁(幸村)」という見立てが成り立つという、「三藐院ファンタジー」的な推理なのである。
 そして、右方の秀忠の右後方の、もろ肌脱ぎの「かぶき男」は、この大阪夏の陣で、その「真田信繁(幸村)」を討ち取った越前松平藩主の「徳川忠直」(岩佐又兵衛のパトロン)と解したいという、これまた、「三藐院ファンタジー」的な見立てなのである。
 この「松平忠直」(1595-1650)と「岩佐又兵衛」(1578-1650)との関連などについては、
『岩佐又兵衛と松平忠直(黒田日出男著・岩波現代全書1.03)』で詳細に記述されているのだが、ここでは、そのタイトルの副題にあるとおり、「パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎」解きに関連するもので、「豊国祭礼図屏風」や「洛中洛外図屏風・舟木本」に関する事項は、皆目出て来ない。
 そして、下記アドレスの「徳川美術館蔵『豊国祭礼図』の注文主(黒田日出男稿)」では、「豊国祭礼図屏風」の注文主は、阿波の徳島藩主の「蜂須賀家政(蓬庵)」(1558-1639)、そして、「洛中洛外図屏風・舟木本」は、「京の上層町人・暖簾『雪輪笹』の室町二条上ルの笹屋半四郎(呉服商)」と推定をしているのだが、この「洛中洛外図屏風・舟木本」も、阿波徳島藩主の「蜂須賀家政(蓬庵)」に匹敵する、後に、岩佐又兵衛のパトロンとなる、越前松平藩主の「松平忠直」こそ、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主に相応しい人物と推定をいたしたい。

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%

 ここで、「松平忠直」のプロフィールを紹介して置きたい。

【 松平忠直(まつだいらただなお・1595―1650)
江戸前期の大名。2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の兄結城秀康(ゆうきひでやす)の長男。母は中川一茂(かずしげ)の娘。1607年(慶長12)父秀康の領地越前(えちぜん)国福井城(67万石といわれる)を相続し、11年将軍秀忠の三女を娶(めと)る。15年(元和1)の大坂夏の陣では真田幸村(さなだゆきむら)らを討ち取り大功をたてた。その結果同年参議従三位(じゅさんみ)に進むが領地の加増はなく、恩賞の少なさに不満を抱き、その後酒色にふけり、領内で残忍な行為があるとの評判がたった。
また江戸へ参勤する途中、無断で国へ帰ったりして江戸へ出府しないことが数年続いたりしたので、藩政の乱れを理由に23年豊後萩原(ぶんごはぎわら)(大分市)に流され、幕府の豊後目付(めつけ)の監視下に置かれた(越前騒動)。豊後では5000石を生活のために支給され、当地で死んだ。いわば将軍秀忠の兄の子という優越した家の抑圧の結果とみられる。なお処罰前の乱行について菊池寛が小説『忠直卿(きょう)行状記』を著したので有名となるが、かならずしも史実ではない。 [上野秀治] 『金井圓著「松平忠直」(『大名列伝 3』所収・1967・人物往来社)』 】
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