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源氏物語画帖「その十九・薄雲」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

19 薄雲(光吉筆)=(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)   源氏31歳冬-32歳秋

薄雲・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 薄雲  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575866/2

薄雲・光賢吉.jpg

源氏物語絵色紙帖   薄雲  詞・烏丸光賢
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575866/1

(「烏丸光賢」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/20/%E8%96%84%E9%9B%B2_%E3%81%86%E3%81%99%E3%81%90%E3%82%82%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B8%96%E3%80%91

漁(いさ)りせし影忘られぬ篝火は/身の浮舟や慕ひ来にけむ
(第五章 光る源氏の物語 第五段 源氏、大堰の明石を訪う)

5.5.7  漁(いさ)りせし影忘られぬ篝火は/ 身の浮舟や慕ひ来にけむ
(あの明石の浦の漁り火が思い出されますのは/わが身の憂さを追ってここまでやって来たのでしょうか )

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十九帖 薄雲
 第一章 明石の物語 母子の雪の別れ
  第一段 明石、姫君の養女問題に苦慮する
  第二段 尼君、姫君を養女に出すことを勧める
  第三段 明石と乳母、和歌を唱和
 第四段 明石の母子の雪の別れ
 第五段 姫君、二条院へ到着
  第六段 歳末の大堰の明石
 第二章  源氏の女君たちの物語 新春の女君たちの生活
  第一段 東の院の花散里
  第二段 源氏、大堰山荘訪問を思いつく
  第三段 源氏、大堰山荘から嵯峨野の御堂、桂院に回る
 第三章 藤壺の物語 藤壺女院の崩御
  第一段 太政大臣薨去と天変地異
  第二段 藤壺入道宮の病臥
  第三段 藤壺入道宮の崩御
  第四段 源氏、藤壺を哀悼
 第四章 冷泉帝の物語 出生の秘密と譲位ほのめかし
  第一段 夜居僧都、帝に密奏
  第二段 冷泉帝、出生の秘密を知る
  第三段 帝、譲位の考えを漏らす
  第四段 帝、源氏への譲位を思う
  第五段 源氏、帝の意向を峻絶
 第五章 光る源氏の物語 春秋優劣論と六条院造営の計画
  第一段 斎宮女御、二条院に里下がり
  第二段 源氏、女御と往時を語る
  第三段 女御に春秋の好みを問う
  第四段 源氏、紫の君と語らう
  第五段 源氏、大堰の明石を訪う
(「烏丸光賢」書の「詞」) →  5.5.7

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2891

源氏物語と「薄雲」(川村清夫稿)

【 光源氏は、幼時に亡くした母の桐壷更衣によく似た藤壷女御と密通して、冷泉帝が生まれた。紅葉賀の帖では冷泉帝の誕生に、光源氏も藤壷女御も罪悪感にさいなまれる。公には冷泉帝の父は桐壷帝ということにされ、出生の真実は秘密にされてきた。薄雲の帖では、頭中将と葵上の父である致仕の大臣(ちじのおとど、元太政大臣)が逝去した後、藤壷女御も37歳の若さで崩御して、光源氏は悲嘆にくれる。女御の葬儀が済んだ後になって、女御の信任の厚い加持僧だった年老いた僧都が、冷泉帝に出生の秘密を告白するのである。僧都の台詞を大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「これは来し方行く先の大事とはべることを、過ぎおはしましにし院(桐壷帝)、后の宮(女御)、ただ今世をまつりごちたまふ大臣(光源氏)の御ため、すべて、かへりてよからぬ事にや漏り出ではべらむ。かかる老法師の身には、たとひ愁へはべりとも、何の悔かはべらむ。仏天の告げあるによりて奏しはべるなり。わが君はらまれおはしましたりし時より、故宮の深く思し嘆くことありて、御祈り仕うまつらせたまふゆゑなむはべりし。詳しくは法師の心にえ悟りはべらず。」

(渋谷現代語訳)
「これは、過去来世にわたる重大事でございますが、お隠れあそばしました院、后の宮、現在政治をお執りになっている大臣の御ために、すべて、かえってよくないこととして漏れ出すことがありはしまいか。このような老法師の身には、たとい災いがありましょうとも、何の悔いもありません。仏天のお告げがあることによって申し上げるのでございます。わが君がご胎内にいらっしゃった時から、故宮には深くご悲嘆なられることがあって、ご祈祷をおさせになる仔細がございました。詳しいことは法師の心には理解できません。」

(ウェイリー英訳)
“The matter of which I speak is one that has had grave results already and may possibly in the future entail worse consequences still. The reputations concerned are those of your late august mother and of someone who now holds a prominent place in the government of our country… it is to Prince Genji that I refer. It is for their sake, and lest some distorted account of the affair should ultimately reach you from other sources, that I have undertaken this painful task. I am an old man and a priest; I therefore have little to lose and, even should this revelation win me your displeasure, I shall never repent of having made it; for Buddha and the Gods of Heaven showed me by unmistakable signs that it was my duty to speak. You must know, then, that from the time of Your Majesty’s conception the late Empress your mother was in evident distress concerning the prospect of your birth. She told me indeed that there were reasons which made the expected child particularly in need of my prayers; but what these reasons were she did not say; so I, being without experience in such matters, could form no conjecture.“

(サイデンステッカー英訳)
“The matter is one which can project its unhappy influence into the future. Silence is damaging for everyone concerned. I have reference to the late emperor, to your late mother, and to the Genji minister. I am old and of no account, and shall have no regrets if I am punished for the revelation. I humbly reveal to you what was first revealed to me through the Blessed One himself. There were matters that deeply upset your mother while she was carrying you within her. The details were rather beyond the grasp of a simple priest like myself.”

 ここでもウェイリー訳は冗長で、サイデンステッカー訳は簡潔である。「過ぎおはしましにし院、后の宮、ただ今世をまつりごちたまふ大臣の御ため」を、ウェイリー訳はThe reputations concerned are those of your late august mother and of someone who now hold a prominent place in the government of our country…it is to Prince Genji that I refer.と、院を抜かした上に心理描写が強く冗長だが、サイデンステッカー訳はI have reference to the late emperor, to your late mother, and to the Genji minister.と、無味乾燥なくらい簡潔である。
「わが君はらまれおはしましたりし時より、故宮の深く思し嘆くことありて」を、ウェイリー訳はYou must know, then, that from the time of Your Majesty’s conception the late Empress your mother was in a evident distress concerning the prospect of your birth.とくどいが、サイデンステッカー訳はThere were matters that deeply upset your mother while she was carrying you within her.と単純そのものである。ただしサイデンステッカーは「すべて、かへりてよからぬ事にや漏り出ではべらむ」と「御祈り仕うまつらせたまふゆゑなむはべりし」を訳していない。「仏天」をウェイリーはBuddha and the Godsと直訳したが、サイデンステッカーはthe Blessed Oneと一神教的に訳している。

 一度臣籍に下った元皇族が皇族に戻って帝位についた例は、少数だが存在する。菅原道真のパトロンとして藤原氏と対立した宇多天皇は、即位前に3年間臣籍に下って源定省(さだみ)と名乗っていた。その皇子で、摂政や関白を置かない天皇親政「延喜の治」を行った醍醐天皇も、源維城(これざね)と名乗っていたのである。出生の真実を知った冷泉帝は、実父である光源氏に譲位しようとした。光源氏は、実の親子であることを知られたとは気付かなかったが、即座に辞退した。光源氏はこの後の若菜の帖で、正妻として迎えた朱雀帝の皇女の女三宮が頭中将の息子の柏木と密通して薫が生まれ、藤壷女御との密通の因果応報を思い知ることになるのである。   】

(「三藐院ファンタジー」その十)

 「源氏物語画帖」の「詞書」の執筆者の二十三名のうち、一番若い執筆者は、この「烏山光賢」(一六〇〇~一六三八)で、この画帖の企画者とも目されている近衛信伊(一五六五~一六一四)が亡くなった時には、いまだ、十四・五歳の頃である。
 しかし、この光賢の書は、いかに、能筆家として名高い「烏丸光弘」の嫡子の書としても、例えば、一歳年上の「近衛信尋」(一五九九〜一六四九)の、その「須磨・蓬生」のなどに比して、どうにも手慣れた書という印象を拭えない。
 ここで、この「源氏物語画帖」の「詞書」の裏面に書かれている、その注記の官位名が、「元和三年時点での官位によって占められており、わずかに西園寺実晴・冷泉為頼・花山院定熈らが元和五年時点になっていることに気が付く。そして、この点からは次のような可能性が浮かび上がってくる。つまり、現在ある注記は一筆であることから、元和五年以降に  すべて同時に書かれたものであることはまちがいない。しかし、それを記すにあたっては、すでに元和三年時点で作られていた筆者目録が存在しており、元和五年の筆者名はその目録を参考にして書かれてのではないか、という可能性である。」(『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)
 この「光賢」の「裏書注記」は、「烏丸右中弁藤原光賢」で、その職にあったのは、元和元年(一六一五)十二月から元和五年(一六一九)七月の四年間で、その七月以降に「左中弁」に昇進する。
 この「源氏物語画帖」の「詞書」の執筆者のうち若手のトリオは次の三人である。
 
  近衛信尋(一五九九~一六四九)
  烏丸光賢(一六〇〇~ら一六三九)
  西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)

 この「烏丸光賢・西園寺実晴」が生まれた「慶長五年」(一六〇〇)九月十五日が、天下分け目の「関ヶ原の戦い」で、その決戦の二日前に籠城していた「丹後田辺城」から「後陽成天皇の勅命により退城の講和が成った」、当時唯一の二条派正統の古今伝授の伝承者である「細川幽斎」(本名=藤孝、別姓=長岡)に連なる正室を、「烏丸光賢=幽斎の嫡男『忠興』の娘(万)」、そして、「西園寺実晴=幽斎の嫡男『忠興』の嫡男『忠隆』の娘(徳姫)」を迎えている。
 ここで、下記のアドレスにより、「烏丸光賢」の「書状」と、その紹介記事を紹介して置きたい。

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/481

光賢書状.jpg

【 烏丸光賢〈からすまるみつかた・1600-38〉は光広〈みつひろ・1579-1638〉の嫡男。細川忠興とガラシャ夫人との間に所生したむすめを室に迎えた。その兄が細川忠利〈ほそかわただとし・1586-1641〉である。累進して、寛永7年〈1630〉31歳で正三位・権中納言に至った。この手紙は、宛名に「細川越州様」とあるので、越後守に任じた細川忠利にさし出したもの。つまり、光賢夫人の兄にあてた手紙である。文面によれば、薫衣香(くんえこう)を調合して忠利に贈るに際して添えた手紙と知る。また、「息女、産後により、今に飛鳥井の所に伴きて存じ申し候ゆえ」とあるのは、二女(長女は忠利の嫡男光尚に嫁す)が飛鳥井雅章に嫁ぎ、その出産が臨月に迫っていることを報じている。これらの内部徴証からは、この手紙の年代を正確に判定することはできない。しかしながら、円熟した父親光広ゆずりの自由奔放な書きぶりから、30代半ばすぎの執筆と推定。潤渇こもごも、流れるような筆の速さが颯爽美を見せている。「此の薫衣香共、調合仕り候間、進上致し候。何かと致し御見廻、遅々、所存の外、存じ有るべく候。息女産後により、今に飛鳥井の所に伴きて存じ申し候ゆえ、弥、参上延引仕り候。尚、御産の日、申し上ぐべく候。恐々謹言。五月二十五日光賢/細川越州守様人々烏丸中納言光賢」  】

 この紹介記事の「細川忠興とガラシャ夫人との間に所生したむすめ」は、「ガラシャ夫人」ではなく、「側室:小也(明智光忠女)」なのかも知れない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88

 さらに、ここで、「西園寺実晴」の書状も、下記のアドレスのものを紹介して置きたい。

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi06/chi06_04714/chi06_04714_0033/chi06_04714_0033_p0001.jpg

西園寺実晴・書状.jpg

(追記) 「細川幽斎」周辺

【 《細川 幽斎 ・細川 忠興 ・細川 忠隆》

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%B9%BD%E6%96%8E

細川 幽斎(ほそかわ ゆうさい) / 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、歌人。幼名は万吉(まんきち)。元服して藤孝を名乗る。雅号は幽斎。法名を玄旨という。

初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍・足利義昭の擁立に尽力した。後に義昭が信長に敵対して京都を追われると、信長に従って名字を長岡に改め、丹後国宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、信長の死に殉じて剃髪して家督を忠興に譲ったが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。】

天正6年(1578年)、信長の薦めによって嫡男忠興と光秀の娘玉(ガラシャ)の婚儀がなる。光秀の与力として天正8年(1580年)には長岡家単独で丹後国に進攻するが、同国守護一色氏に反撃され失敗。後に光秀の加勢によってようやく丹後南部を平定し、信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められて宮津城を居城とした(北半国である中郡・竹野郡・熊野郡は旧丹後守護家である一色満信(義定)の領有が信長から認められた)。甲州征伐には一色満信と共に出陣。

天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、藤孝は上役であり、親戚でもあった光秀の再三の要請を断り、剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし、田辺城に隠居、忠興に家督を譲った。同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断り、軍事力的劣勢に陥った光秀は山崎の戦いで敗死した。

慶長5年(1600年)6月、忠興が家康の会津征伐に丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加したため、幽斎は三男の細川幸隆と共に500に満たない手勢で丹後田辺城を守る。7月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興の夫人ガラシャは包囲された屋敷に火を放って自害した。田辺城は小野木重勝、前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍に包囲されたが、幽斎が指揮する籠城勢の抵抗は激しく、攻囲軍の中には幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲に乏しかったこともあり、長期戦となった(田辺城の戦い)。

幽斎の弟子の一人だった八条宮智仁親王は7月と8月の2度にわたって講和を働きかけたが、幽斎はこれを謝絶して籠城戦を継続。使者を通じて『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。ついに八条宮が兄後陽成天皇に奏請したことにより三条西実条、中院通勝、烏丸光広が勅使として田辺城に下され、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日、勅命による講和が結ばれた。幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて9月18日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入った。

忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成の軍と戦い、戦後豊前国小倉藩39万9000石の大封を得た。この後、長岡氏は細川氏に復し、以後長岡姓は細川別姓として一門・重臣に授けられた。その後の幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれている。慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88

細川 忠興(ほそかわ ただおき) / 長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。

足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府15代将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。

足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人の細川 三斎(ほそかわ さんさい)としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。

天正10年(1582年)6月、岳父・明智光秀が本能寺の変後、藤孝・忠興父子を味方に誘ったが、細川父子は信長の喪に服す事を表明し剃髪することで、これを拒否した。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加し、天正13年(1585年)には従四位下・侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられ七将に数えられた。

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、石田三成らと対立し、徳川家康に誼を通じた。慶長4年(1599年)には加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政・黒田長政らと共に三成襲撃に加わった。

同年、豊臣家の大老の筆頭であった家康の推挙で、丹後12万石に加え豊後国杵築6万石が加増され、城代として重臣の松井康之・有吉立行を置いた。これにより、都合18万石の大名となった。

(関ヶ原の戦い)

徳川家康からの「味方につけば丹後の隣国である但馬一国(10万石)を進ぜよう」という言を受け慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。

このとき、豊臣恩顧の有力大名である上、父と正室が在京していたため、その去就が注目されたが、東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われている。

大坂城内の玉造の細川屋敷にいた妻の玉子(ガラシャ)は西軍の襲撃を受け、人質となることを拒み、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。護衛であったはずの稲富祐直は包囲部隊に弟子が多数居た為逃げるように懇願され、ガラシャを置き去りにして逃亡した。忠興は後に追討をかけるが家康が家来として召し抱えたため断念した。また、この事件に際して忠興は嫡男・忠隆を廃嫡している。

また、弟の幸隆と父の幽斎は忠興の留守をよく守り、丹後田辺城に籠城したが(田辺城の戦い)、後陽成天皇からの勅命により関ヶ原の戦いの前に開城し、敵将・前田茂勝の丹波亀山城に入った。豊後国では飛び地の杵築の杵築城が旧領主(元豊後国主)である大友吉統に攻撃されたが、松井康之と有吉立行が防戦に尽くし、やがて救援に駆けつけた黒田如水により石垣原の戦いで吉統は打ち破られた。一方、松井康之の居城である久美浜城の留守を守っていた忠興のかつての養父・細川輝経は西軍の誘いを受けて久美浜城を占拠したが、合戦後に康之から問い詰められて自害したという。

慶長16年(1611年)3月24日、伏見城の徳川家康のもとへ祗候するために上洛をした時に病に倒れた。この時、忠興に癪の持病があることを知っていた家康は、本多正純を通して漢方薬の万病円を忠興に遣わしており、快復した忠興がその日のうちに家康のもとに祗候し、礼を述べている。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣でも参戦する。戦後、松平の苗字の下賜を辞退する[15]。元和6年(1620年)、病気のため、三男の忠利に家督を譲って隠居する。この頃、出家して三斎宗立と名乗った。

忠興は立孝に自分の隠居領9万5,000石を継がせて立藩させることを強く望んでいたようであるが、正保2年(1645年)閏5月に立孝が早世し、忠興も同年12月2日に死去したため、叶わなかった。臨終の際には「皆共が忠義 戦場が恋しきぞ」と述べており、最後まで武将としての心を忘れていなかった。享年83。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E9%9A%86

細川 忠隆(ほそかわ ただたか)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。細川忠興の長男。官位は従四位下・侍従。天正15年(1587年)、羽柴名字であったことが確認される。
慶長9年(1604年)の廃嫡後は長岡 休無(ながおか きゅうむ)と号した。

文武に優れ、祖父・細川幽斎にも可愛がられていた。慶長4年(1599年)に幽斎が烏丸光広や中院通勝らを招いて天橋立見物の歌会をした際にも加わり、忠隆が詠んだ和歌短冊が丹後国の智恩寺に現存する。

(廃嫡事件)

慶長5年(1600年)の徳川家康の留守中に五奉行の石田三成らは挙兵し、三成らは忠隆の母・ガラシャに対して人質となるよう迫った。ガラシャは拒絶して大坂玉造の細川屋敷で自決したが、忠隆正室の千世は姉・豪姫の指図で隣の宇喜多屋敷に逃れた。

忠隆は剃髪して長岡休無と号し、千世と長男の熊千代を伴い京都で蟄居した。なお、熊千代は同年のうちに夭折し、空性院即謳大童子として西園寺に葬られている。

廃嫡後の休無の京都での生活は、6,000石の自領を持ち京都に隠居在住していた祖父・幽斎が支えた。また、幽斎の死後に遺領6,000石を整理した際に、休無に対して細川家からの隠居料として扶持米3,000石が支給されるようになり、経済的に安定した。

(忠興との和解)

寛永9年(1632年)に肥後熊本藩に移った忠興は、寛永19年(1642年)に休無を居城の八代城に招いて正式和解し、八代領6万石を与えるので熊本で住むように申し付けたが、休無は固辞して京都に帰った。

正保3年(1646年)に京都で死去、享年67。死去にあたり、忠恒と忠春に計2,000石分、徳(西園寺家御台所)やそのほかの娘たちにも計1,000石分の隠居料相続を遺言し、実行された。 】

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