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醍醐寺などでの宗達(その十八・「風神雷神図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十八「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「風神雷神図屏風 (宗達筆)」(その一)

風神・雷神図屏風.jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」(国宝 紙本金地着色 二曲一双 各157.0×173・0cm 建仁寺蔵)→A図
【 落款・印章もないが、万人が宗達真筆と認める最高傑作。左右の両端に風神と雷神の姿を対峙させ、その間に広い金地の空間を作る。風神・雷神は仏画の一部に古くから描かれているが、ここでは一切の宗教性、説明性を排して、純粋に配色と構図の妙をもって画面を構成している。躍動、疾駆する体躯の力強い描写、たらし込みによる雲の軽やかな表現。二神の位置の確かさなど、晩年の円熟した画境を物語っている。 】(『創立百年記念特別展『琳派』目録』所収「作品解説1」)

 このスタンダードの「作品解説」の末尾の「晩年の円熟した画境を物語っている」の、この作品は、宗達の「晩年」(「寛永一九=一六四二、俵屋宗雪法橋の位にあり《隔冥記》宗達すでに没か」=『東洋美術選書宗達(村重寧著)』所収「宗達周辺年表」)の頃の作品なのであろうか?
 これらのことに関して、「俵屋宗達略年譜および各説時代区分で」は、次のとおり紹介されている。

【 「風神雷神図屏風」の制作時期
山根有三説 → 寛永一五(一六三八)~寛永一七(一六四〇) → 晩年(七一歳?以降)
水尾比呂志説→ 寛永一二(一六三五)~寛永一八(一六四一) → 晩年(六八歳?以降)
山川武説  → 元和七(一六二一) ~元和九(一六二三) → 壮年(五四~五六歳?)
源豊宗・橋本綾子説→元和五(一六一九)~元和七年(一六二一)→壮年(五二~五四歳?)
※古田亮説  → 元和二(一六一六)~元和三(一六一七)  →壮年(四九~五〇歳?)
 
  「法橋授位」の時期
山根有三説 →   寛永元(一六二四)           →五七歳?
※水尾比呂志説→  慶長一九(一六一四)~元和二年(一六一六)→四七~四九歳?
山川武説  →   元和八(一六二二)           →五五歳?
源豊宗・橋本綾子説→元和七(一六二一)           →五四歳?
古田亮説  →  元和元(一六一五)~元和四(一六一八)  →四八~五一歳?  】 
(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収俵屋宗達略年譜および各説時代区分))

 この「風神雷神図屏風」の制作時期が、宗達の晩年の「最後に到達しえた画境」(『東洋美術選書宗達(村重寧著)』)などとするのは、上記の「山根有三説」(「山根宗達学」)に由来するものなのであるが、それらの見解は、同時に、「皮肉にも落款(署名)も印もない。他の追随を許さぬこの画面をみてもらえばその必要はなしとしたのだろうか。あるいは恵まれた画歴の最後の時期において、これまでの作画の殻を破るべく、もう一度新たな忘我の境地で、名誉ある『法橋宗達』の自署をあえて捨ててかかったのであろうか」(『村重・前掲書』)となると、どうにも「贔屓の引き倒し」という感が拭えないのである。

 ここは、単純明快に、この「風神雷神図屏風」の「落款(署名)も印もない」というのは、宮廷(「御所」など)御用達(宮廷への進上品など)関連の作品と解して、より具体的に、宗達の「法橋授位」の御礼の、即ち、当時の「後水尾天皇」などへの進上品的絵画作品の一つと解したい。
 そして、その年譜(『村重・前掲書』)に、「元和二(一六一六) 俵屋の記事あり(中院通村日記三月十三日)」とあるのだが、これらのことに関連して、下記のアドレスで、「元和三年(一六一七)五月十一日の和歌会」の「中院通村日記」を紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

【 https://researchmap.jp/read0099340/published_papers/15977062

《五月十一日、今日御学問所にて和歌御当座あり。御製二首、智仁親王二、貞清親王二、三宮(聖護院御児宮)、良恕法親王二、一条兼遐、三条公広二、中御門資胤二、烏丸光広二、広橋総光一、三条実有一、通村二、白川雅朝、水無瀬氏成二、西洞院時直、滋野井季吉、白川顕成、飛鳥井雅胤、冷泉為頼、阿野公福、五辻奉仲各一。出題雅胤。申下刻了。番衆所にて小膳あり。宮々は御学問所にて、季吉、公福など陪膳。短冊を硯蓋に置き入御。読み上げなし。内々番衆所にて雅胤取り重ねしむ。入御の後、各退散(『通村日記』)。

※御製=後水尾天皇(二十二歳)=智仁親王より「古今伝授」相伝
※智仁親王=八条宮智仁親王(三十九歳)=後陽成院の弟=細川幽斎より「古今伝授」継受
※貞清親王=伏見宮貞清親王(二十二歳)
※三宮(聖護院御児宮)=聖護院門跡?=後陽成院の弟?
※良恕法親王=曼珠院門跡=後陽成院の弟
※※一条兼遐=一条昭良=後陽成院の第九皇子=明正天皇・後光明天皇の摂政
※三条公広=三条家十九代当主=権大納言
※中御門資胤=中御門家十三代当主=権大納言
※※烏丸光広(三十九歳)=権大納言=細川幽斎より「古今伝授」継受
※広橋総光=広橋家十九代当主=母は烏丸光広の娘
※三条実有=正親町三条実有=権大納言
※※通村(三十歳)=中院通村=権中・大納言から内大臣=細川幽斎より「古今伝授」継受
※白川雅朝=白川家十九代当主=神祇伯在任中は雅英王
※水無瀬氏成=水無瀬家十四代当主
※西洞院時直=西洞院家二十七代当主
※滋野井季吉=滋野井家再興=後に権大納言
※白川顕成=白川家二十代当主=神祇伯在任中は雅成王
※飛鳥井雅胤=飛鳥井家十四代当主
※冷泉為頼=上冷泉家十代当主=俊成・定家に連なる冷泉流歌道を伝承
※阿野公福=阿野家十七代当主
※五辻奉仲=滋野井季吉(滋野井家)の弟 》  

 そして、この背後には、「後陽成・後水尾天皇」の、次の系譜が繋がっている・。

(別記)

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢   ※二条綱平

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

 この「後陽成天皇」(後陽成院)の系譜というのは、単に、上記の「後水尾院」そして、「醍醐寺三宝院門跡・覚定」の醍醐寺関連だけではなく、皇子だけでも、下記のとおり、第十三皇子もおり、その皇子らの門跡寺院(天台三門跡も含む)の「仁和寺・知恩院・聖護院・妙法院・一乗院・照高院」等々と、当時の「後陽成・後水尾院宮廷文化サロン」の活動分野の裾野は広大なものである。

第一皇子:覚深入道親王(良仁親王、1588-1648) - 仁和寺
第二皇子:承快法親王(1591-1609) - 仁和寺
第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)
第四皇子:近衛信尋(1599-1649) - 近衛信尹養子
第五皇子:尊性法親王(毎敦親王、1602-1651)
第六皇子:尭然法親王(常嘉親王、1602-1661) - 妙法院、天台座主
第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮
第八皇子:良純法親王(直輔親王、1603-1669) - 知恩院
第九皇子:一条昭良(1605-1672) - 一条内基養子
第十皇子:尊覚法親王(庶愛親王、1608-1661) - 一乗院
第十一皇子:道晃法親王(1612-1679) - 聖護院
第十二皇子:道周法親王(1613-1634) - 照高院
第十三皇子:慈胤法親王(幸勝親王、1617-1699) - 天台座主     】

 これらのことに関して、ここで、宗達の「法橋授位」の時期は、「※水尾比呂志説→慶長一九(一六一四)~元和二年(一六一六)→四七~四九歳?」に近いものにして置きたい。

【 宗達への法橋授位は、かかる嵯峨本におけるすぐれた下絵や、多くの金銀泥料紙の制作といふ業績に対して、公卿や上層町衆の推挙により行われた、と私は推定する。それは一寺院の障壁画制作よりもはるかに重要な業績として宮廷に認められ得るものであり、推挙者にも最高の強力なメンバーが揃っている。絵屋俵屋の宗達は、画系上では何の格式も持たぬ一介の町絵師に過ぎなかったけれども、みづからもその一員たる上層町衆の位置から考えれば、当時の宮廷との関係は、現実的に狩野土佐その他の画人よりもいっそう親密であったとしてよい。加えるに嵯峨本というみごとな業績と強力な推挙者に恵まれていたのである。
法居叙任は、至極当然たったといえよう。 】(『琳派 水尾比呂志著』所収「俵屋宗達から法橋宗達へ」)

 この指摘のうちの「嵯峨本」については、京都嵯峨の豪商角倉家の角倉素庵(了以の嫡子)が、光悦と宗達との協力を得て出版した私刊本の総称で、「光悦本」とも「角倉本」とも呼ばれている。その代表的な『伊勢物語』の校閲者は、『中院通村日記』の通村の父通勝で、
ここにも、光悦・素庵らの上層町衆と宮廷文化人との密接な協力関係がその背景にある。
 さらに、「多くの金銀泥料紙の制作といふ業績」に関連しては、その中心をなすのは、「光悦書・宗達画」の二人のコラボレーションの、下記のものに代表される「光悦書・宗達画和歌巻」の世界ということになろう。これらの作品は、慶長十年代から元和初年にかけての制作であることが、「山根宗達学」などの先達によって考証されている。

① 「四季花卉下絵古今集和歌巻」一巻、畠山記念館蔵、重要文化財
② 「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」一巻、京都国立博物館蔵、重要文化財
③ 「鹿下絵新古今集和歌巻」一巻、MOA美術館、シアトル美術館ほか諸家分蔵
④ 「蓮下絵百人一首和歌巻」一巻、焼失を免れた断簡が東京国立博物館ほか諸家分蔵
➄ 「四季草花下絵千載集和歌巻」一巻、個人蔵

 上記の「光悦書・宗達画和歌巻」については、④の「蓮下絵百人一首和歌巻」を除いて、これまでに、下記のアドレスなどで主要な課題として取り上げてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-19

 ここで、改めて、これらの「嵯峨本」や「金銀泥料紙の制作」、そして、「光悦書・宗達画和歌巻」の世界は、「後陽成天皇(一五七一~一六一七)→第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、一五九六~一六八)・第四皇子:近衛信尋(近衛信尹養子、一五九九~一六四九)・第九皇子:一条兼遐=一条昭良、一六〇五~一六七二)→智仁親王(後陽成院の弟、一五七九~一六二九)」時代の、その中枢に位置した「後陽成天皇」(後陽成院)の、その「天皇権威復活・王朝文化回帰」への悲願ともいうべきものが、その原点にあったという思いを深くする。
 これらのことについては、下記のアドレスで触れたが、宗達の、この「風神雷神図屏風」と関連させて、再度、その周辺を探索してみたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-14

後陽成天皇画.jpg

後陽成天皇筆「鷹攫雉図」(国立歴史民俗博物館所蔵)
【『天皇の美術史3 乱世の王権と美術戦略 室町・戦国時代 (高岸輝・黒田智著)』所収「第二章 天皇と天下人の美術戦略 p175~ 後陽成院の構図(黒田智稿)」   

p175 国立歴史民俗博物館所蔵の高松宮家伝来禁裏本のなかに、後陽成院筆「鷹攫雉図(たかきじさらうず)」がある。背景はなく、左向きで後方をふり返る鷹とその下敷きになった雉が描かれている。鷹の鋭い右足爪はねじ曲げられた雉の鮮やかな朱色の顔と開いた灰色の嘴をつかみ、左足は雉の左翼のつけ根を押さえつけている。右下方に垂れ下がった丸みのある鷹の尾と交差するように、細長く鋭利な八枚の雉の尾羽が右上方にはね上がっている。箱表書により、この絵は、後陽成院から第四皇女文高に下賜され、近侍する女房らの手を経て有栖川宮家、さらに高松宮家へと伝えられた。後陽成天皇が絵をよく描いたことは、『隔冥記(かくめいき)や『画工便覧』によってうかがえる。

p177~p179 第一に、王朝文化のシンボルであった。鷹図を描いたり、所有したりすることは、鷹の愛玩や鷹狩への嗜好のみならず、権力の誇示であった。鷹狩は、かつて王朝文化のシンボルで、武家によって簒奪された鷹狩の文化と権威がふたたび天皇・公家に還流しつつあったことを示している。
第二に、天皇位にあった後陽成院が描いた鷹図は、中国皇帝の証たる「徽宗(きそう)の鷹」を想起させたにちがいない。(以下省略)
第三に、獲物を押さえ込む特異な構図を持つ。(以下省略)  
第四に、獲物として雉を描くのも珍しい。(以下省略)
 天皇の鷹狩は、天下人や武家によって奪取され、十七世紀に入ってふたたび後陽成院周辺へと還流する。それは、次代の後水尾天皇らによる王朝文化の復古運動の先鞭をなすものとして評価できるであろう。
 関ヶ原合戦以来、数度にわたり譲位の意向を伝えていた後陽成天皇が、江戸幕府とのたび重なる折衝の末にようやく退位したのは、慶長十六年(一六一一)三月のことであった。この絵が描かれたのは、退位から元和三年(一六一七)に死亡するまでの六年ほどの間であった。この間、江戸開府により武家政権の基礎が盤石となり、天皇・公家は禁中並公家諸法度によって統制下におかれた。他方、豊臣家の滅亡、大御所家康の死亡と、歴史の主人公たちが舞台からあいついで退場してゆくのを目の当たりにした後陽成院の胸中に去来りしたのは、天皇権威復活のあわい希望であったのだろうか。 】

風神・雷神図(視線の彼方).jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」国宝・二曲一双 紙本金地着色・建仁寺蔵(京都国立博物館寄託)・154.5 cm × 169.8 cm (部分拡大図)

(宗達ファンタジー その一)

慶長二十年(一六一五)五月の大坂夏の陣において江戸幕府が大坂城主の羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼしたことにより、応仁の乱(東国においてはそれ以前の享徳の乱)以来、百五十年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了し、同年七月元号は「元和」となり、ここに「元和偃武(えんぶ)」の時代が幕開けする。
 この年、近衛信尹(三藐院・没五〇)、角倉了以(没六一)、海北友松(没八三)が没し、古田織部が豊臣氏に内通した咎で切腹(没六二)している。この織部の切腹などに関連するのかどうかは謎のままだが、本阿弥光悦(五八歳)も、家康より洛北鷹が峰の地を与えられ、それまでの上京区の本阿弥辻から恰も所払いように移住することとなる。
 この翌年の元和二年(一六一六)に、徳川家康が没(七五)し、その翌年の元和三年(一六一七)に後陽成院が崩御(四七)する。この元和二年(一六一六)の「中院通村日記(三月十三日条)」に「俵屋絵の記事」が掲載された前後に、「絵屋・俵屋」の一介の町絵師から、宮廷絵師の「法橋」の授位を賜り、それは、上層公卿(「烏丸光広・中院通村」など)や上層町衆(「本阿弥光悦・角倉素庵」など)の推挙という異例のものであった。

宗達・風神雷神図一.jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風(部分図)」(右隻=風神図、左隻=雷神図)

 この宗達の最高傑作とされている、無落款(署名)・無印章の「風神雷神図」屏風は、何時頃制作されたのか?
 このことについては、家康が没(七五)した元和二年(一六一六)から後陽成院が崩御(四七)した元禄三年(一六一七)に掛けてのもので、それは、宗達の「法橋授位」の御礼の「禁裏(後水尾天皇)、仙祠御所(後陽成院)」などの御所進呈品の一つと解して置きたい。
 そして、その上で、この宗達の「風神雷神図屏風風」は何を主題したものなのかどうか?
このことについては、町絵師の「俵屋宗達」から、宮廷絵師「法橋(俵屋)宗達」へと推挙した、「町衆文化(「光悦・素庵」らの新興する「町衆文化」)と、「宮廷文化(「光広・通村」らの「宮廷文化」)との、新たなる止揚としての「元和偃武の王朝文化の復権」を目指すものであったと解したい。
 として、「法橋(俵屋)宗達」が使用することとなる「対青」そして「対青軒」の印章に照らして、右隻の「風神図」の「風神」の、この「白色」ならず有色の「緑・青色」の世界は、
「宮廷文化(「光広・通村」らの「宮廷文化」)、そして、左隻の「雷神図」の「雷神」の、この「白色」の世界こそ、当時、勃興する「町衆文化」を象徴するもと解して置きたい。
 ここで、この宗達筆の「風神雷神図屏風(部分図)」(C図)と、先の後陽成天皇筆の「鷹攫雉図」(B図)とを、じっくりと交互に鑑賞してみたい。
 とすると、この「風神雷神図屏風(部分図)」(C図)の左隻の「白色」の「雷神」図は、「鷹攫雉図」(B図)の、「白色」の胸毛を露わにした「雉ヲ攫ウ鷹」図と化し、一方の「風神雷神図屏風(部分図)」(C図)の右隻の「風神」図は、「鷹攫雉図」(B図)の、「有色」の「緑・青」の「鷹ニ襲ワレタ雉」の形相を呈してくることになる。
 後陽成天皇(後陽成院)のポジションは、常に、時の巨大な武門の覇権者(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)との熾烈な修羅場に身を置くことを余儀なくされた環境下にあり、好むと好まざるとに関わらず、そういう二極対立上の世界のものとして鑑賞されやすいが、この宗達の「風神雷神図屏風」の「風神」と「雷神」との見立ては、全く、これらを鑑賞する者の自由裁量に委ねられている。
 そして、これらのことと、この風神と雷神とを一双の両端上部に配置し、中央の二扇を全て金地の余白とした構図と密接不可分の関係にあり、これこそが、この「風神雷神図屏風」の、いわゆる「宗達マジック・宗達ファンタジー」の原動力があるように思われる。
 ここで、この「風神雷神図屏風」の出来上がるまでの、そのモデル(宗達が見本としたもの)の段階的な一つのイメージ化(仮想的な形象化)を提示したい。

第一ステップ → まず、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」を、宗達がモデルにしているということからスタートしたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-20

三十三間堂.jpg

「三十三間堂」=「雷神像(右)」「風神像(左)」

第二ステップ → 続いて、宗達は、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」から得た着想を、海北友北筆の「阿吽の双龍図」(建仁寺蔵)にダブらせて、「風神像」を「右」に、「雷神図」を「左」にの、「二曲一双」の屏風スタイルを着想したと解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-04

友松・龍右.png

海北友松筆「雲龍図」(襖八面)「右四幅」重要文化財 京都・建仁寺蔵 慶長四年(一五九九)

友松・龍左.jpg

海北友松筆「雲龍図」(襖八面)「左四幅」重要文化財 京都・建仁寺蔵 慶長四年(一五九九)

第三ステップ → 第一と第二ステップで着想を得た「風神(右)・雷神(左)」の二曲一双の屏風形式の配色は、後陽成天皇筆「鷹攫雉図」の「金地」を背景としての、「鷹」の「白」と「雉」の「緑・青」とを基調したいというインスピレーション(閃き)が、元和改元(後陽成天皇から後水尾天皇への代替わり)、そして、宗達自身の「町絵師(町衆をバックとする絵師)」から「法橋絵師(宮廷をバックとする絵師)」への脱皮を契機として、揺るぎないものとして定着してくる。

後陽成天皇画.jpg

後陽成天皇筆「鷹攫雉図」(国立歴史民俗博物館所蔵)

第四ステップ → 最終的な構図は、これまでの絵屋(扇屋)の最も得意とする、その「扇面性」(放射性と湾曲性)によって仕上げている。

風神・雷神図(構図三).jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風(部分図)」(右隻=風神図、左隻=雷神図)の構図
《「放射性」=「扇子」の「矩形」の中心点(上記の二点の中心点)からする構図 と、「湾曲性」=その「放射性」の中心点から湾曲(画面を弧状に横切る) 的な構図とによる、「扇面性」の構図を基調としている。》(『琳派(水尾比呂志著)所収「扇面構図論―宗達画構図研究への序論―」「宗達屏風画構図論」)
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yahantei

第一ステップ → まず、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」を、宗達がモデルにしているということからスタートしたい。

第二ステップ → 続いて、宗達は、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」から得た着想を、海北友北筆の「阿吽の双龍図」(建仁寺蔵)にダブらせて、「風神像」を「右」に、「雷神図」を「左」にの、「二曲一双」の屏風スタイルを着想したと解したい。

第三ステップ → 第一と第二ステップで着想を得た「風神(右)・雷神(左)」の二曲一双の屏風形式の配色は、後陽成天皇筆「鷹攫雉図」の「金地」を背景としての、「鷹」の「白」と「雉」の「緑・青」とを基調したいというインスピレーション(閃き)が、元和改元(後陽成天皇から後水尾天皇への代替わり)、そして、宗達自身の「町絵師(町衆をバックとする絵師)」から「法橋絵師(宮廷をバックとする絵師)」への脱皮を契機として、揺るぎないものとして定着してくる。

第四ステップ → 最終的な構図は、これまでの絵屋(扇屋)の最も得意とする、その「扇面性」(放射性と湾曲性)によって仕上げている。

 これは、これで、「なかなか面白い」と思ったのだが、次の『ウィキペディア(Wikipedia)』のデータとの関連をクリアするのが、これまた、厄介である。



「宗達の最高傑作と言われ、彼の作品と言えばまずこの絵が第一に挙げられる代表作である。また、宗達の名を知らずとも風神・雷神と言えばまずこの絵がイメージされる事も多い。現在では極めて有名な絵であるが、江戸時代にはあまり知られておらず、作品についての記録や言及した文献は残されていない。京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだ きんのり? - 正保4年(1647年))が、寛永14年(1637年)からの臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念に妙光寺に寄贈するため製作を依頼したとされる。後に妙光寺住職から建仁寺住職に転任した高僧が、転任の際に建仁寺に持って行ったという。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

by yahantei (2021-04-11 17:07) 

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