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源氏物語画帖「その三十二 梅枝」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

32 梅枝(光吉筆) =(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)    源氏39歳春

土佐光吉・梅枝.jpg

源氏物語絵色紙帖  梅枝  画・土佐光吉
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900648&parent_data_id=323&data_id=538

日野資枝・梅枝.jpg

源氏物語絵色紙帖  梅枝  詞・日野資勝
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900648&parent_data_id=323&data_id=539

(「日野資勝」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/02/%E6%A2%85%E6%9E%9D_%E3%81%86%E3%82%81%E3%81%8C%E3%81%88%E3%83%BB%E3%82%80%E3%82%81%E3%81%8C%E3%81%88%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%B8%96

花の香をえならぬ袖にうつしもて ことあやまりと妹やとがめむ
とあれば、「いと屈したりや」と笑ひたまふ。御車かくるほどに追ひて
めづらしと故里人も待ちぞ見む 花の錦を着て帰る君
(第一章 光る源氏の物語 薫物合せ 第四段 薫物合せ後の饗宴)

1.4.18 花の香をえならぬ袖にうつしもて ことあやまりと妹やとがめむ 
(この花の香りを素晴らしい袖に移して帰ったら、女と過ちを犯したのではないかと妻が咎めるでしょう。) 
1.4.19 とあれば、(と言うので、)
1.4.20 「 いと屈したりや」(「たいそう弱気ですな」)
1.4.21 と笑ひたまふ。 御車かくるほどに、 追ひて、(と言ってお笑いになる。お車に牛を繋ぐところに、追いついて、)
1.4.22 めづらしと故里人も待ちぞ見む花の錦を着て帰る君 (珍しいと家の人も待ち受けて見ましょう。この花の錦を着て帰るあなたを、)
1.4.23 またなきことと思さるらむ (めったにないこととお思いになるでしょう。)


(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十二帖 梅枝
  第一章 光る源氏の物語 薫物合せ
   第一段 六条院の薫物合せの準備
   第二段 二月十日、薫物合せ
   第三段 御方々の薫物
   第四段 薫物合せ後の饗宴
(「日野資勝」書の「詞」) → 1.4.18 1.4.19 1.4.20 1.4.21 1.4.22 1.4.23  
  第二章 光る源氏の物語 明石の姫君の裳着
   第一段 明石の姫君の裳着
   第二段 明石の姫君の入内準備
   第三段 源氏の仮名論議
   第四段 草子執筆の依頼
   第五段 兵部卿宮、草子を持参
   第六段 他の人々持参の草子
   第七段 古万葉集と古今和歌集
  第三章 内大臣家の物語 夕霧と雲居雁の物語
   第一段 内大臣家の近況
   第二段 源氏、夕霧に結婚の教訓
   第三段 夕霧と雲居の雁の仲

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3673

源氏物語と「梅枝」(川村清夫稿)

【 光源氏は、文化的には流行に流されない、保守的な趣味の持ち主であった。彼は織物に関しても、「錦、綾なども、なほ古きものこそなつかしうこまやかにはありけれ」(錦、綾なども、やはり古い物が好ましく上品であった)と言っている。彼は、明石の君との間にもうけた娘である明石の姫君を東宮妃として入内させる準備を進めていた。他方、光源氏の子息である夕霧は、内大臣の娘である雲居の雁と恋愛関係にあったが、なかなか身を固めなかった。そこで光源氏は、自分の恋愛経験を話しながら、結婚を勧めるのであった。では光源氏の台詞を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「つれづれとものすれば、思ふところあるにやと、世人も推し量るらむを、宿世の引く方にて、なほなほしきありありてなびく、いと尻びに、人悪ろきことぞや。」

「いみじう思ひのぼれど、心にしもかなはず、限りのあるものから、好き好きしき心つかはるな。いはけくより、宮の内に生ひ出でて、身を心にまかせず、所狭く、いささかの事のあやまりもあらば、軽々しきそしりをや負はむと、つつしみだに、なほ好き好きしき咎を負ひて、世にはしたなめられき。位浅く、何となき身のほど、うちとけ、心のままなる振る舞ひなどものせらるな。心おのづからおごりぬれば、思ひしづむべきくさはひなき時、女のことにてなむ、かしこき人、昔も乱るる例ありける。」

(渋谷現代語訳)
「所在なく独身でいると、何か考えがあるのかと、世間の人も推量するであろうから、運命の導くままに、平凡な身分の女との結婚に結局落ち着くことになるのは、たいそう尻すぼまりで、みっともないことだ。」

「ひどく高望みしても、思うようにならず、限界があることから、浮気心を起こされるな。幼い時から宮中で成人して、思い通りに動けず、窮屈に、ちょっとした過ちもあったら、軽率の非難を受けようかと、慎重にしていたのでさえ、それでもやはり好色がましい非難を受けて、世間から非難されたものだ。位階が低く、気楽な身分だからと、油断して、思いのままの行動などなさるな。心が自然と思いあがってしまうと、好色心を抑える妻子がいない時、女性関係のことで、賢明な人が、昔も失敗した例があったのだ。」

(ウェイリー英訳)
“But what I wanted to say to you now was this: your present unsettled way of living is doing your reputation a great deal of harm. Naturally everyone assumes that a previous attachment of some kind is holding you back, and the impression most people are likely to get is that you have got tied up with someone so lowborn or discreditable that you cannot possibly introduce her into your family. I know that this idea is the opposite of the truth; indeed no one could possibly accuse you of aiming too low. But it is now perfectly clear that you cannot get what you want… Under such circumstances the only thing to do is to take what one can get, and make the best of it…”

“I myself had just the same sort of trouble at your age. But things were even worse; for in the Palace one is hedged round by all kinds of rules and restrictions. All eyes were upon me, and I knew that the slightest indication on my part would be eagerly seized upon and exploited by those who stood to gain by my undoing. In consequence of this I was always extremely careful… Yes. In spite of all my precautions I did once get into trouble, and it even looked at one time as though I had ruined myself for good and all. I was still low in rank then and had not particularly distinguished myself in any way. I felt that I was free to do as I chose, and that if things went wrong I had not much to lose. As a matter of fact it is just at such a moment in life that one makes the most far-reaching and irreparable mistakes, for it is then that passion is at its strongest, while the checks and restraints, that in middle age inevitably protect us against the wilder forms of folly, have not yet come into play. To suggest that you need advice on this subject is in no way derogatory to your intelligence; for in their relations with women people who show the utmost good sense in other matters seem constantly to get into the most inextricable mess.”

(サイデンステッカー英訳)
“People think there is something odd about you because you are not married, and if in the end it seems to have been your fate to disappoint us, well, we can only say that you once showed promise. Do please always be on guard against the possibility that you are throwing yourself away because your ambitions have proven unreal.”

“I grew up at court and had little freedom. I was very cautious, because the smallest mistake could make me seem reckless and giddy. Even so, people said that I showed promiscuous tendencies. It would be a mistake for you to think that because you are still relatively obscure you can do as you please. The finest of men - it was true long ago and it is still true today - can disgrace themselves because they do not have wives to keep them from temptation.”

 ウェイリー訳が冗漫なのに対して、サイデンステッカー訳は簡潔である。しかし「なほなほしきありてなびく」をウェイリーはtied up with someone so lowborn or discreditableと的確に訳しているが、サイデンステッカーの訳は意味がわからない。「位浅く、何となき身のほど」をサイデンステッカーはyou are still relatively obscureと正確に訳しているが、ウェイリーは光源氏のことだと勘違いしている。I felt that I was free to do as I choseからin middle age inevitably protect us against the wilder forms of folly, have not yet come into playまでは、原文にないウェイリーの創作である。この光源氏の恋愛体験談は、「帚木」の帖の冒頭にある光源氏の紹介と内容が一致する。

 夕霧と雲居の雁は、次の「藤の裏葉」の帖で、晴れて結婚するのである。 】


(「三藐院ファンタジー」その二十二)

日野資枝・渕亀.jpg

「日野資枝筆詠草」
https://objecthub.keio.ac.jp/object/744

【 日野資枝〈ひのすけき・1737-1801〉は、江戸時代中期の公卿、歌人。内大臣烏丸光栄の末子だが、日野資時の子が相次いで没したため、嗣子となった。賀茂社奉行・神宮弁など歴任したのち、宝暦13年〈1763〉参議に列せられた。翌年、権中納言に任ぜられ、以後累進し、天明5年〈1785〉権大納言に任ぜられ、寛政5年〈1793〉従一位に昇った。日野家は代々、儒道と歌道をもって朝廷に仕えた。歌学者の実父・光栄の血もあってか、資枝は歌人として名高い。冷泉為村・烏丸光胤・有栖川宮職仁親王らに歌道を学んだのち、為村の没後の、宮廷歌壇において主要な存在となったのである。塙保己一や内藤正範らは歌道を資枝に学んだ。その書は日野流の系譜にあるという。この詠草では、最後の一行に位署を記す。57歳から65歳で没するまでの間に書かれた、晩年期の筆跡であるが、豪放な書きぶりである。「渕の亀すむ亀はさこそ齢も限りなき千尋の渕ををのが常世に/従一位資枝」

(釈文)

渕亀すむかめはさこそよはひもかぎりなき千ひろの渕ををのがとこ世に従一位資枝  】


(参考)「日野資枝」周辺

 「日野家」(「日野家」嫡流)の「日野資勝」(1577-1639)と、「烏丸家」(「日野家」庶流)の「烏丸光広」(1579-1638)とは、資勝が二歳年上で、亡くなったのは、光広の方が一年早く、この二人は、下記の略歴のとおり、同時代の、謂わば、資勝が兄貴、光広が弟分というような関係にある。
 この『烏丸家』から「日野家」の当主(三十六代)になつたのが、「蕪村・秋成」時代の「日野資枝」(1737-1801)で、この資枝も、資勝や光広と全く同じような、謂わば、「儒学と和歌と実務官僚という家職を持って、名家の家格を確立した日野家(そして烏丸家)」(「中世文人貴族の家と職―名家日野家を中心として―(申美那稿)」)の一典型的な道を歩むことになる。
 そして、それは、「日野流儒者・日野流歌人・日野流書家」で、且つ、「名家(日野家・烏丸家)」としての「実務官僚」(資勝=踏歌内弁・神宮伝奏・武家伝奏等、光広=踏歌外弁・賀茂伝奏等、資枝=踏歌外弁・賀茂伝奏等)の重役を歴任することになる。

(日野資勝)  →  「日野家」29代当主
生没年:1577-1639
父:権大納言 日野輝資
1578 従五位下
1581 従五位上
1581 侍従
1585 正五位下
1586 左少弁
1589 右中弁
1590-1595 蔵人
1590 正五位上
1594 左中弁
1595 従四位下
1595 従四位上
1597 正四位上
1597 蔵人頭
1599 左大弁
1599 参議
1600 従三位
1601 美作権守
1601-1604 勘解由長官
1611 正三位
1611 権中納言
1614 権大納言
1615 従二位
1616 踏歌内弁
1619 正二位
1626-1628 神宮伝奏
1630-1639 武家伝奏
妻:(父:准大臣 烏丸光宣)
1591-1630 光慶
娘(左大臣 三条実秀室)
養玉院(対馬府中藩二代藩主 宗義成室)
娘(権中納言 平松時庸室)
日野光慶

(烏丸光広)  → 「烏丸家」9代当主
生没年:1579-1638
父:准大臣 烏丸光宣
1581 従五位下
1583 侍従
1583 従五位上
1586 正五位下
1589 右少弁
1594 左少弁
1595 正五位上
1595 蔵人
1599 左中弁
1599 従四位下
1599 蔵人頭
1599 従四位上
1600 正四位下
1600 正四位上
1601 左宮城使
1604 右大弁
1606 参議
1608 従三位
1609 左大弁
1609 猪熊事件
1609-1611 蟄居
1611 参議
1611 左大弁
1612 権中納言
1613 正三位
1616 権大納言
1617 従二位
1617 踏歌外弁
1620 正二位
1625 春日祭上卿
1627 賀茂伝奏
1637 春日祭上卿
正室:鶴姫(父:江戸重通、義父:結城晴朝、結城秀康未亡人)
側室:清源院(父:越後村上藩初代藩主 村上頼勝)
1600-1638 光賢
妻:家女房
1632-1679 勘解由小路資忠(勘解由小路家へ)
(生母不明)
?-1658 六角広賢
親広
1624-1709 明正院梅小路局
西本願寺宗西光寺照貞室
昭子内親王上臈

(日野資枝) →  (「烏丸家」→「日野家」36代当主)
生没年:1737-1801
父:内大臣 烏丸光栄
義父:権大納言 日野資時
1742 従五位下
1746 従五位上
1746 侍従
1753 権右少弁
1750 正五位下
1752 蔵人
1752 右衛門権佐
1752 正五位上
1753-1761 賀茂社奉行
1753-1756 御祈奉行
1753-1758 神宮弁
1754 左少弁
1755 権右中弁
1756 右中弁
1758 左中弁
1761 蔵人頭
1761 従四位下
1761 従四位上
1761 正四位下
1762 正四位上
1762 左大弁
1763 参議
1764 従三位
1764-1774 権中納言
1765 踏歌外弁
1767 賀茂伝奏
1768 正三位
1774 従二位
1778 正二位
1785 権大納言
1793 従一位
妻:喜子(父:准大臣 広橋勝胤)
1756-1830 資矩
1763-1819 北小路祥光(北小路家へ)
娘(典薬頭 錦小路頼尚室)

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2009/662.html

「中世文人貴族の家と職―名家日野家を中心として―(申美奈稿)」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kinseibungei/101/0/101_17/_pdf/-char/ja

「日野資枝の画賛(田代一葉稿)」

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/50076/gobun95_12.pdf

「交誼と報謝 : 秋成晩年の歌文(飯倉 洋一稿)」

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0020-84512

「日野資枝百首(宮内庁書陵部)」

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0020-84515

「日野資枝金毘羅社壇詠百首(宮内庁書陵部)」

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/sukeki.html

「日野資枝千人万首(asahi net)」
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源氏物語画帖「その三十一 真木柱」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

31 真木柱(光吉筆)=(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)   源氏37歳冬-38歳冬 

光吉・真木柱.jpg

源氏物語絵色紙帖  真木柱  画・土佐光吉
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=1900645&data_id=321

日野資勝・真木柱.jpg

源氏物語絵色紙帖  真木柱  詞・日野資勝
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900645&parent_data_id=321&data_id=535

(「日野資勝」書の「詞」)

正身は、いみじう思ひしづめて、らうたげに寄り臥したまへりと見るほどに、にはかに起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取りを取り寄せて、殿の後ろに寄りて、さと沃かけたまふ
(第二章 鬚黒大将家の物語 第五段 北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける)

2.5.7 正身は、いみじう思ひしづめて、らうたげに寄り臥したまへりと見るほどに、にはかに起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取りを取り寄せて、殿の後ろに寄りて、さと沃かけたまふ(ほど、人の ややみあふるほどもなう、あさましきに、 あきれてものしたまふ。)
(ご本人は、ひどく落ち着いていじらしく寄りかかっていらっしゃる、と見るうちに、急に起き上がって、大きな籠の下にあった香炉を取り寄せて、殿の後ろに近寄って、さっと浴びせかけなさる(間、人の制止する間もなく、不意のことなので、呆然としていらっしゃる)。)

(周辺メモ)

第三十一帖 真木柱
 第一章 玉鬘の物語 玉鬘、鬚黒大将と結婚
  第一段 鬚黒、玉鬘を得る
  第二段 内大臣、源氏に感謝
  第三段 玉鬘、宮仕えと結婚の新生活
  第四段 源氏、玉鬘と和歌を詠み交す
 第二章 鬚黒大将家の物語 北の方、乱心騒動
  第一段 鬚黒の北の方の嘆き
  第二段 鬚黒、北の方を慰める(一)
  第三段 鬚黒、北の方を慰める(二)
  第四段 鬚黒、玉鬘のもとへ出かけようとする
  第五段 北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける
(「日野資勝」書の「詞」)  →  2.5.7
  第六段 鬚黒、玉鬘に手紙だけを贈る
  第七段 翌日、鬚黒、玉鬘を訪う
 第三章 鬚黒大将家の物語 北の方、子供たちを連れて実家に帰る
  第一段 式部卿宮、北の方を迎えに来る
  第二段 母君、子供たちを諭す
  第三段 姫君、柱の隙間に和歌を残す
  第四段 式部卿宮家の悲憤慷慨
  第五段 鬚黒、式部卿宮家を訪問
  第六段 鬚黒、男子二人を連れ帰る
 第四章 玉鬘の物語 宮中出仕から鬚黒邸へ
  第一段 玉鬘、新年になって参内
  第二段 男踏歌、貴顕の邸を回る
  第三段 玉鬘の宮中生活
  第四段 帝、玉鬘のもとを訪う
  第五段 玉鬘、帝と和歌を詠み交す
  第六段 玉鬘、鬚黒邸に退出
  第七段 二月、源氏、玉鬘へ手紙を贈る
  第八段 源氏、玉鬘の返書を読む
  第九段 三月、源氏、玉鬘を思う
 第五章 鬚黒大将家と内大臣家の物語 玉鬘と近江の君
  第一段 北の方、病状進む
  第二段 十一月に玉鬘、男子を出産
  第三段 近江の君、活発に振る舞う

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3657

源氏物語と「真木柱」(川村清夫稿)

【 源氏物語の31番目の帖「真木柱」は、22番目の帖「玉鬘」から続いてきた玉鬘十帖の最後の帖である。髭黒大将は北の方(妻)がいるにもかかわらず、玉鬘と強引に男女の仲を結んでしまった。北の方は夫の不倫に狂乱して香炉の灰を投げつけ、髭黒大将は家族と離別してしまった。彼の愛娘の真木柱は家の柱に父との離別の歌を書きつけ、母と行動を共にした。玉鬘を髭黒大将に取られた光源氏は悔しがり、彼女に恋文を送るが、髭黒大将は彼女の名をかたって返事をよこすのであった。

 それでは、光源氏からの恋文に髭黒大将が返事をよこす場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「同じ巣にかへりしかひの見えぬかな
 いかなる人か手ににぎるらむ
などか、さしもなど、心やましうなむ」
などあるを、大将も見たまひて、うち笑ひて、
「女は、まことの親の御あたりにも、たはやすくうち渡り見えたてまつりたまはむこと、ついでなくてあるべきことにあらず。まして、なぞ、この大臣の、をりをり思ひ放たず、恨み言はしたまふ」
と、つぶやくも、憎しと聞きたまふ。…
「巣隠れて数にもあらぬかりの子を
 いづ方にかは取り隠すべき
よろしからぬ御けしきにおどろきて、すきずきしや」
と聞こえたまへり。
「この大将の、かかるはかなしごと言いたるも、まだこそ聞かざりつれ、めづらしう」
とて、笑ひたまふ。心のうちには、かく領じたるを、いとからしと思す。

(渋谷現代語訳)
「せっかくわたしの所でかえった雛が見えませんね
 どんな人が手に握っているのでしょう
どうして、こんなにまでもと、おもしろくなくて」
などとあるのを、大将も御覧になって、ふと笑って、
「女性は、実の親の所にも、簡単に行ってお会いなさることは、適当な機会がなくてはなさるべきではない。まして、どうして、この大臣は、度々諦めずに、恨み言をおっしゃるのだろう」
と、ぶつぶつ言うのも、憎らしいとお聞きになる。…
「巣の片隅に隠れて子供の数にも入らない雁の子を
 どちらの方に取り隠そうとおっしゃるのでしょうか
不機嫌なご様子にびっくりしまして、懸想文めいていましょうか」
とお返事申し上げた。
「この大将が、このような風流ぶった歌を詠んだのも、まだ聞いたことがなかった。珍しくて」
と言って、お笑いになる。心中では、このように一人占めにしているのを、とても憎いとお思いになる。

(ウェイリー英訳)
“What an extraordinary man this Genji is!” he said. “Why, even if he were your real father he could not now that you are married expect to meet you except on particular occasions. What does he want? He seems, in one way or another, to be always complaining that he does not see you.” She did not seem to have any intention of acknowledging the gift, …
“I am not minded that any should reclaim her, this fledging that was not counted among the brood of either nest.” Such was the poem he sent, and he added: “My wife was surprised at the nature of your gift, and was at a loss how to reply without seeming to attach an undue importance to it…”
Genji laughed when the note was brought to him. “I have never known Higekuro stoop to concern himself in such trifles as this,” he said, “What is the world coming to?” But in his heart he was deeply offended by the arrogantly possessive tone of Higekuro’s letter.

(サイデンステッカー英訳)
“I saw the duckling hatch and disappear. Sadly I ask who have taken it.”
Higekuro smiled wryly. “A lady must have very good reasons for visiting even her parents. And here is His Lordship pretending that he has some such claim upon your attentions and refusing to accept the facts.”
She thought it unpleasant of him. …
“Off in a corner not counted among the nestlings, It was hidden by no one. It merely picked up and left.
“Your question, sir, seems strangely out of place. And please, I beg of you, do not treat this as a billet-doux.”
“I have never seen him in such a playful mood,” said Genji, smiling in fact, he was hurt and angry.
 
 ウェイリーの翻訳に手抜きが目立つのに対し、サイデンステッカーは原文に忠実で簡潔な翻訳をしている。ウェイリーは光源氏と髭黒大将の和歌を訳さなかったので、訳文が説明調で味気ない。billet douxとは、「懸想文」のフランス語訳である。

玉鬘は男児を出産して、髭黒大将の新妻になった。内大臣が頭中将だった時に夕顔ともうけた玉鬘は、養女扱いしながら不純な恋愛感情を持つ光源氏の手から離れたところで、「玉鬘十帖」は終わるのである。  】

(「三藐院ファンタジー」その二十一)

 「日野資勝」に関連しては、総括的に、次のアドレスが、そのスタート地点ということになる。

https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%B3%87%E5%8B%9D-14898

【日野資勝(読み)ひの・すけかつ
没年:寛永16.6.15(1639.7.15)  生年:天正5(1577)
江戸前期の公家。権大納言輝資の子。母は津守国繁の娘。慶長4(1599)年参議,16年権中納言,19年権大納言となる。後水尾天皇譲位に際して,幕府の譴責を受け辞任した中院通村にかわり,父輝資が武家昵近衆として徳川家康の知遇を受けたことから,寛永7(1630)年武家伝奏となり朝幕間の斡旋に努める。16年まで在職。その日記『資勝卿記』は,10年にわたる武家伝奏在任期の記録も残され,江戸前期の朝幕関係を知る貴重な資料。資勝は,また後水尾院の立花会の重要メンバーであり,当時ブームとなった椿栽培においても珍種「日野椿」の栽培で知られる。法名涼源院。<参考文献>熊倉功夫『寛永文化の研究』 (母利美和)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 】

 ここに、年号の「慶長」から「元和」へ、そして「元和」から「寛永」へと、その元号が変わる時の、それらを審議した、謂わば、その時の「審議公家一覧」(「改元陣儀上卿一覧)」を添えて見たい。

https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/9279/HNkeizai0003301710.pdf
「戦国・織豊期の朝廷政治」(池享稿)

改元陣儀上卿一覧

改元陣義上卿一覧.jpg

 この「慶長」(後陽成天皇)の元号から、「元和」(後水尾天皇)の元号に代わった「元和元年」(一六一五)は、「大阪夏の陣」で豊臣家が滅亡した年である。その前年の「慶長十九年」(一六一四)が「大阪冬の陣」で、この年の十一月に「近衛信尹」が亡くなっている(享年五十)。この年に、「近衛信尋」が若干十五歳で、近衛家第十九代当主となり「右大臣」に進み、
元和六年(一六二〇)に左大臣、元和九(一六二三)には関白に補せられている。
 この「元和」の改元の審議に携わったトップが「右大臣・近衛信尋」で、その審議に携わったメンバーが、「権大納言・花山院定煕、同・日野資勝」等の十人ということになる。
これらの上記の「慶長・元和・「寛永」の改元に携わったメンバーのうち、「源氏物語画帖」の詞書の筆者となっているものが、「久我敦通・花山院定煕・近衛信尋・日野資勝・烏丸光広・四辻季継・阿野実顕・中院通村」の八人で、その他、「烏丸光賢〈烏丸光広〉・西園寺実晴〈西園寺公益〉・飛鳥井雅胤〈飛鳥井雅庸〉・菊亭季宣〈菊亭宣季〉・久我通前〈久我敦通〉」も上記のメンバー〈括弧書き〉と親子関係などの一族ということになる。
ここで、「源氏物語画帖」の詞書の二十三名の筆者のうち、皇族関係者と上記の公卿関係者と親子関係など直接的な関係に無い者は、「西洞院時直・冷泉為頼」の二人で、「西洞院時直」は、「西洞院時慶」の長男で、後水尾天皇の側近であると同時に、「西洞院」家は「近衛」家の「家司」で、その執事的な家政を司っていた人物ということになる。
もう一人、「冷泉為頼」は、第十代「上冷泉家」の当主で、「冷泉流歌道」と「定家流(書流)」との正統を伝承している人物ということになろう。そして、この「冷泉為頼」と、清華家の当主の「久我通前」との二人が、「定家流をもって詞書を書いている点は、その幅広い流行を物語る一例として興味深い」との指摘がなされている(『源氏物語画帖(京博本・勉誠社)』所収「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)。
ここで、源氏物語画帖」の詞書の二十三名の筆者のうち、皇族関係者を除いて、五摂家の「近衛家」などの公家の筆者を、この「書流」(書道の流派)の観点から見て行くと、当時の「書流」の代表的な能筆家の面々による制作であったということが浮き彫りになってくる。

https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000001278246-02.html

「三藐院流(近衛流)」
  近衛信尹(信輔・信基・三藐院) → 「澪標・乙女・玉鬘・蓬生」
  近衛信尋(応山)        → 「須磨・蓬生」
  近衛太郎(君)          → 「花散里・賢木」
  四辻季継            → 「竹河・橋姫」
  (西洞院時慶) → 西洞院時直  → 「若紫・末摘花」  
(西園寺公益) → 西園寺実晴  → 「横笛・鈴虫・御法」

「光悦流」
  阿野実顕            → 「行幸・藤袴(蘭)」
烏丸光広

「定家流」
  冷泉為頼            → 「幻・早蕨」
  久我通前            → 「総角」
  烏丸光広
  烏丸光賢
  日野資勝

「光広流」
  烏丸光広            → 「蛍・常夏」
  烏丸光賢            → 「薄雲・朝顔(槿)」

「中院流」             
  中院通村            → 「若菜下・柏木」
 菊亭季宣(今出川季宣・経季)    → 「藤裏葉・若菜上」

「栄雅流」
  飛鳥井雅胤            → 「夕顔・明石」

「花山院流」
  花山院定煕            → 「夕霧・匂兵部卿宮・紅梅」

「道澄流」
  久我敦通             → 「椎本」

「日野流」
  日野資勝             → 「真木柱・梅枝」



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