「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その五) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]
その五「大正十年(一九二一)」
[東洋城・四十四歳。寅彦、豊隆と毎月一回づつ「俳句を通しての漱石研究」の会を始めて「渋柿」に連載した。京都に遊ぶ。米良にて「俳諧草庵」。]
歳旦やわが俳諧のあら尊と(前書に「渋柿新年号扉の一句より」)
※『東洋城全句集(上巻)』所収「大正十年(四十四歳)」の冒頭の一句である。この句の上五の「歳旦や」の「歳旦」は、「① (「旦」は朝の意) 一月一日の朝。元旦。元日。年頭。《季・新年》」の、「年頭」の句ということを意味しているであろう。
これが、これに続く「わが俳諧のあら尊と」の、「わが俳諧」の「俳諧」と結びつけると、この「俳諧=連句」は、「歳旦三つ物(「歳旦開き」の「歳旦三つ物)、「歳旦開きの席で作る発句(ほっく)・脇句(わきく)・第三の、三句。→ (三句形式の連句)」と解することも出来よう。
『東洋城全句集(下巻)』の「連句篇」の冒頭の「歌仙(大正五年)」は、次のとおりの、東洋城の句を発句として、その付け句が、霽月(村上)以下五吟(五人)の「三つ物(三句提示)」と、芭蕉俳諧(連句)などでは見られないものとなっている。
(発句)何時の間に月になり居りし花野かな(東洋城)
(「脇・第三・四句目」=「三つ物」)
(脇句) 鹿かあらぬか遠山の声(霽月)
(第三)温泉冷めすと障子〆切るうそ寒み(同上)
(四) 又くりかへす旅行案内(同上)
(「五・六・七句目」=「三つ物」)
(五) 一昔あはぬ子なれば心せき(枯山楼)
(六) 此世の中は皆めくらなり(同上)
(七)ウ一 物買うて消ゆ山人山人や雪の暮(同上
(「八・九・十句目」=「三つ物」)
(八) 熊が出でしと噂ありけり(喜舟)
(九) 田の中に石油の脈を掘りあてて(同上)
(十) 襖へかかす大観を呼ぶ(同上)
(「十一・十二・十三句目」=「三つ物」)
(十一) 法会済みて猶泊り居る僧二人(坪谷)
(十二) 風呂が涌いたと鳴子曳く見ゆ(同上)
(十三) 西すれば月遠ざかる俥にて(同上)
この、『東洋城全句集(下巻)』の「連句篇」の冒頭の「歌仙(大正五年)」の、五人の連衆(東洋城・霽月・故山楼・喜舟・坪谷)の、この「霽月」は、漱石の「松山時代の愚陀佛庵」に連なる、「子規・漱石」の忘れ得ざる俳人「村上霽月」(1869(明治2)年~1946(昭和21)年)その人であろう。
「村上霽月=むらかみせいげつ」(1869(明治2)年~1946(昭和21)年)
https://tamutamu2020.web.fc2.com/murakamiseigetu.htm
https://www.murakamisangyo.co.jp/about/media.html
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-19
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-27
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-09-02
さらに、「喜舟」とは、昭和二十七年(一九五二)に、東洋城の隠退後の後継者となる「野村喜舟」(1886(明治19)年~1983(昭和58)年)、その人ということになる。
「野村喜舟(のむらきしゅう)」(1886(明治19)年~1983(昭和58)年)
https://www.kitakyushucity-bungakukan.jp/display/169.html
https://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E6%9D%91%20%E5%96%9C%E8%88%9F-1652233
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-09-28
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-06
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-16
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-24
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-26
[寅彦=寅日子・四十四歳。七月、航空研究員となる。九月、勲四等に叙せられる。この頃、写生のため散策に出かけるようになる。十二月、小宮豊隆、松根東洋城との三人で第一回の漱石俳句研究会を開く。その内容は翌年の一月から七月まで俳誌「渋柿」に掲載される。連句に関心を寄せ始める。]
[豊隆=蓬里雨・三十八歳。 芭蕉研究会に参加。]
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-24
https://jyunku.hatenablog.com/entry/20100925/p1
※大正十年(1921)の「芭蕉研究会」に参加は、東洋城の「渋柿」などとの「芭蕉研究会」ではなく、下記のアドレスのものなどによると、「太田水穂(歌誌「潮音」主宰)・幸田露伴・沼波瓊音・安倍能成・阿部次郎・小宮豊隆・和辻哲郎」らによる研究会のようである。
(追記その一)「東洋城・三允・虚子」の未完「歌仙」(表六句・明治三十七年九月「鵜川・二巻四号)周辺
発句 草の露馬も夜打の支度かな (子規)
脇 秋冷かに草摺の音 東洋城
第三 長き夜の評定の席罷り出て 三允
四 月にゐねむる奴よぶなり 虚子
五 門前にはたと躓(つまづ)く竹箒 子
六 家越車の荷は山の如 城
※ 子規の発句だが、子規は、前々年(明治三十五年)に亡くなっており、その亡き子規の俳句を発句としての、「脇(わき)起(おこ)り・(脇(わき)起(おこ)し)」歌仙である。
明治三十七年(一九〇四)、東洋城、二十七歳の時で、新設の京都帝大(仏法科)に東京帝大から転校した年で、その年末に、東洋城が帰京した折の、虚子の句会(日盛会)での歌仙のように思われる。
この虚子の句会(日盛会)の連衆は、「中野三允(さんいん)・岡本癖三酔(へきさんすい)」らで、この句会は、東洋城が、その翌年(七月)に京都帝大を卒業して、明治三十九年(一九〇六)に宮内省入りした当時は、碧悟桐の「俳三昧」に対抗しての「俳諧散心」(勉強会)へと様変わりをする。
当時の東洋城は、虚子の主宰する「日盛会」・「俳諧散心」などの有力連衆の一人だったのである。そして、東洋城は、そのスタートの時点で、夏目漱石によって開眼した俳句(「松山中・一高・東大」で漱石に師事)と共に、京都の三高に在籍して京都の俳人と親交のある、子規没後の「ホトトギス」の俳句を支えている高浜虚子の「句会」・「勉強会」で、「俳諧(連句)」にも深く足を踏み入れていたのである。
そして、それは、当時の「俳諧(連句)・俳句」で兄事していた「高浜虚子」(東洋城より四歳年長)の影響などが大であることを物語っている。事実、虚子は、子規との両吟など、「俳諧(連句)」に、東洋城以上に、精通していたのである。
http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%AD%90%E8%A6%8F%E3%83%BB%E6%BC%B1%E7%9F%B3%E3%83%BB%E8%99%9A%E5%AD%90%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C
子規と虚子の両吟(明治三十一年十一月号「ほととぎす」)
オ 発句 荻吹くや崩れ初(そ)めたる雲の峰 子規
脇句 かげたる月の出づる川上 虚子
第三 うそ寒み里は鎖(とざ)さぬ家もなし 子規
四 駕舁(かごかき)二人銭かりに来る 虚子
五 洗足の湯を流したる夜の雪 子規
折端 残りすくなに風呂吹の味噌 虚子
ウ 折立 開山忌三百年を取り越して 子規
二 鐘楼に鐘を引き揚ぐる声 虚子
三 うたゝ寝の馬上に覚めて駅近き 子規
四 公事の長びく畑荒れたり 虚子
五 水と火のたゝかふといふ占ひに 子規
六 妻子ある身のうき名呼ばるゝ 虚子
七 鸚鵡鳴く西の廂の月落ちて 子規
八 石に吹き散る萩の上露 虚子
九 捨てかねて秋の扇に日記書く 子規
十 座つて見れば細長き膝 虚子
十一 六十の祝ひにあたる花盛 子規
折端 暖き日を灸据ゑに来る 虚子
ナオ 折立 まじなひに目ぼの落ちたる春の暮 虚子
二 地虫の穴へ燈心をさす 子規
三 しろがねの猫うちくれて去りにけり 虚子
四 卯木も見えず小林淋しき 子規
五 此夏は遅き富山の薬売 虚子
六 いくさ急なり予備を集むる 子規
七 足早に提灯曲る蔵の角 虚子
八 使いの男路で行き逢ふ 子規
九 亡骸は玉のごとくに美しき 虚子
十 ひつそりとして御簾の透影 子規
十一 桐壺の月梨壺の月の秋 虚子
折端 葱の宿に物語読む 子規
ナウ 折立 ひゝと啼く遠音の鹿や老ならん 虚子
二 物買ひに出る禰宜のしはぶき 子規
三 此頃の天気定まる南風 虚子
四 もみの張絹乾く陽炎 子規
五 花踏んで十歩の庭を歩行きけり 虚子
挙句 柿の古根に柿の芽をふく 子規
(参考) 「日本派」特別展4 ―虚子派と碧梧桐派の鍛錬句会稿―
http://www.kyoshi.or.jp/j-huuten/nihonha/nihonha4/03.htm
「短冊 松根東洋城(明治11~昭和39)」
「短夜や沢辺の白を田鶴となす 東洋城」
[ 東京生まれ。松山中学、一高、東大を経て京大卒。39年に宮内庁に入り、一高では漱石に師事。「俳諧散心」に参加。41年から国民俳壇を虚子から引継ぎ、この頃虚子が尤も気にとめていた門人であったが、大正期に国民新聞の俳句選者に虚子が復帰依頼を受けた問題でもめ、後「ホトトギス」を離反した。]
「短冊 中野三允(明治12~昭和30)」
「蚊柱をこれ見玉へや一と抱き 三允」
[ 埼玉生まれ。早稲田大学の学生であった頃子規に師事し、「早稲田俳句会」を設立。俳諧散心第一回句会には参加できず、「デンポーデ フサンヲワビル チヂツカナ」と電報で不参を詫びた。]
[短冊 高浜虚子 (明治7~昭和34)」
「黄金虫擲(なげう)つ闇の深さ哉 虚子」
[軸でも展示しているが、明治41年8月11日、鍛錬句会「日盛会」第11回の作。後に虚子自選句集『五百句』に所収された。 ]
(追記その二)「虚子の連句」(松井幸子稿)
file:///C:/Users/user/Downloads/AN101977030050010.pdf
[東洋城・四十四歳。寅彦、豊隆と毎月一回づつ「俳句を通しての漱石研究」の会を始めて「渋柿」に連載した。京都に遊ぶ。米良にて「俳諧草庵」。]
歳旦やわが俳諧のあら尊と(前書に「渋柿新年号扉の一句より」)
※『東洋城全句集(上巻)』所収「大正十年(四十四歳)」の冒頭の一句である。この句の上五の「歳旦や」の「歳旦」は、「① (「旦」は朝の意) 一月一日の朝。元旦。元日。年頭。《季・新年》」の、「年頭」の句ということを意味しているであろう。
これが、これに続く「わが俳諧のあら尊と」の、「わが俳諧」の「俳諧」と結びつけると、この「俳諧=連句」は、「歳旦三つ物(「歳旦開き」の「歳旦三つ物)、「歳旦開きの席で作る発句(ほっく)・脇句(わきく)・第三の、三句。→ (三句形式の連句)」と解することも出来よう。
『東洋城全句集(下巻)』の「連句篇」の冒頭の「歌仙(大正五年)」は、次のとおりの、東洋城の句を発句として、その付け句が、霽月(村上)以下五吟(五人)の「三つ物(三句提示)」と、芭蕉俳諧(連句)などでは見られないものとなっている。
(発句)何時の間に月になり居りし花野かな(東洋城)
(「脇・第三・四句目」=「三つ物」)
(脇句) 鹿かあらぬか遠山の声(霽月)
(第三)温泉冷めすと障子〆切るうそ寒み(同上)
(四) 又くりかへす旅行案内(同上)
(「五・六・七句目」=「三つ物」)
(五) 一昔あはぬ子なれば心せき(枯山楼)
(六) 此世の中は皆めくらなり(同上)
(七)ウ一 物買うて消ゆ山人山人や雪の暮(同上
(「八・九・十句目」=「三つ物」)
(八) 熊が出でしと噂ありけり(喜舟)
(九) 田の中に石油の脈を掘りあてて(同上)
(十) 襖へかかす大観を呼ぶ(同上)
(「十一・十二・十三句目」=「三つ物」)
(十一) 法会済みて猶泊り居る僧二人(坪谷)
(十二) 風呂が涌いたと鳴子曳く見ゆ(同上)
(十三) 西すれば月遠ざかる俥にて(同上)
この、『東洋城全句集(下巻)』の「連句篇」の冒頭の「歌仙(大正五年)」の、五人の連衆(東洋城・霽月・故山楼・喜舟・坪谷)の、この「霽月」は、漱石の「松山時代の愚陀佛庵」に連なる、「子規・漱石」の忘れ得ざる俳人「村上霽月」(1869(明治2)年~1946(昭和21)年)その人であろう。
「村上霽月=むらかみせいげつ」(1869(明治2)年~1946(昭和21)年)
https://tamutamu2020.web.fc2.com/murakamiseigetu.htm
https://www.murakamisangyo.co.jp/about/media.html
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さらに、「喜舟」とは、昭和二十七年(一九五二)に、東洋城の隠退後の後継者となる「野村喜舟」(1886(明治19)年~1983(昭和58)年)、その人ということになる。
「野村喜舟(のむらきしゅう)」(1886(明治19)年~1983(昭和58)年)
https://www.kitakyushucity-bungakukan.jp/display/169.html
https://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E6%9D%91%20%E5%96%9C%E8%88%9F-1652233
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-09-28
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https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-26
[寅彦=寅日子・四十四歳。七月、航空研究員となる。九月、勲四等に叙せられる。この頃、写生のため散策に出かけるようになる。十二月、小宮豊隆、松根東洋城との三人で第一回の漱石俳句研究会を開く。その内容は翌年の一月から七月まで俳誌「渋柿」に掲載される。連句に関心を寄せ始める。]
[豊隆=蓬里雨・三十八歳。 芭蕉研究会に参加。]
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-24
https://jyunku.hatenablog.com/entry/20100925/p1
※大正十年(1921)の「芭蕉研究会」に参加は、東洋城の「渋柿」などとの「芭蕉研究会」ではなく、下記のアドレスのものなどによると、「太田水穂(歌誌「潮音」主宰)・幸田露伴・沼波瓊音・安倍能成・阿部次郎・小宮豊隆・和辻哲郎」らによる研究会のようである。
(追記その一)「東洋城・三允・虚子」の未完「歌仙」(表六句・明治三十七年九月「鵜川・二巻四号)周辺
発句 草の露馬も夜打の支度かな (子規)
脇 秋冷かに草摺の音 東洋城
第三 長き夜の評定の席罷り出て 三允
四 月にゐねむる奴よぶなり 虚子
五 門前にはたと躓(つまづ)く竹箒 子
六 家越車の荷は山の如 城
※ 子規の発句だが、子規は、前々年(明治三十五年)に亡くなっており、その亡き子規の俳句を発句としての、「脇(わき)起(おこ)り・(脇(わき)起(おこ)し)」歌仙である。
明治三十七年(一九〇四)、東洋城、二十七歳の時で、新設の京都帝大(仏法科)に東京帝大から転校した年で、その年末に、東洋城が帰京した折の、虚子の句会(日盛会)での歌仙のように思われる。
この虚子の句会(日盛会)の連衆は、「中野三允(さんいん)・岡本癖三酔(へきさんすい)」らで、この句会は、東洋城が、その翌年(七月)に京都帝大を卒業して、明治三十九年(一九〇六)に宮内省入りした当時は、碧悟桐の「俳三昧」に対抗しての「俳諧散心」(勉強会)へと様変わりをする。
当時の東洋城は、虚子の主宰する「日盛会」・「俳諧散心」などの有力連衆の一人だったのである。そして、東洋城は、そのスタートの時点で、夏目漱石によって開眼した俳句(「松山中・一高・東大」で漱石に師事)と共に、京都の三高に在籍して京都の俳人と親交のある、子規没後の「ホトトギス」の俳句を支えている高浜虚子の「句会」・「勉強会」で、「俳諧(連句)」にも深く足を踏み入れていたのである。
そして、それは、当時の「俳諧(連句)・俳句」で兄事していた「高浜虚子」(東洋城より四歳年長)の影響などが大であることを物語っている。事実、虚子は、子規との両吟など、「俳諧(連句)」に、東洋城以上に、精通していたのである。
http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%AD%90%E8%A6%8F%E3%83%BB%E6%BC%B1%E7%9F%B3%E3%83%BB%E8%99%9A%E5%AD%90%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C
子規と虚子の両吟(明治三十一年十一月号「ほととぎす」)
オ 発句 荻吹くや崩れ初(そ)めたる雲の峰 子規
脇句 かげたる月の出づる川上 虚子
第三 うそ寒み里は鎖(とざ)さぬ家もなし 子規
四 駕舁(かごかき)二人銭かりに来る 虚子
五 洗足の湯を流したる夜の雪 子規
折端 残りすくなに風呂吹の味噌 虚子
ウ 折立 開山忌三百年を取り越して 子規
二 鐘楼に鐘を引き揚ぐる声 虚子
三 うたゝ寝の馬上に覚めて駅近き 子規
四 公事の長びく畑荒れたり 虚子
五 水と火のたゝかふといふ占ひに 子規
六 妻子ある身のうき名呼ばるゝ 虚子
七 鸚鵡鳴く西の廂の月落ちて 子規
八 石に吹き散る萩の上露 虚子
九 捨てかねて秋の扇に日記書く 子規
十 座つて見れば細長き膝 虚子
十一 六十の祝ひにあたる花盛 子規
折端 暖き日を灸据ゑに来る 虚子
ナオ 折立 まじなひに目ぼの落ちたる春の暮 虚子
二 地虫の穴へ燈心をさす 子規
三 しろがねの猫うちくれて去りにけり 虚子
四 卯木も見えず小林淋しき 子規
五 此夏は遅き富山の薬売 虚子
六 いくさ急なり予備を集むる 子規
七 足早に提灯曲る蔵の角 虚子
八 使いの男路で行き逢ふ 子規
九 亡骸は玉のごとくに美しき 虚子
十 ひつそりとして御簾の透影 子規
十一 桐壺の月梨壺の月の秋 虚子
折端 葱の宿に物語読む 子規
ナウ 折立 ひゝと啼く遠音の鹿や老ならん 虚子
二 物買ひに出る禰宜のしはぶき 子規
三 此頃の天気定まる南風 虚子
四 もみの張絹乾く陽炎 子規
五 花踏んで十歩の庭を歩行きけり 虚子
挙句 柿の古根に柿の芽をふく 子規
(参考) 「日本派」特別展4 ―虚子派と碧梧桐派の鍛錬句会稿―
http://www.kyoshi.or.jp/j-huuten/nihonha/nihonha4/03.htm
「短冊 松根東洋城(明治11~昭和39)」
「短夜や沢辺の白を田鶴となす 東洋城」
[ 東京生まれ。松山中学、一高、東大を経て京大卒。39年に宮内庁に入り、一高では漱石に師事。「俳諧散心」に参加。41年から国民俳壇を虚子から引継ぎ、この頃虚子が尤も気にとめていた門人であったが、大正期に国民新聞の俳句選者に虚子が復帰依頼を受けた問題でもめ、後「ホトトギス」を離反した。]
「短冊 中野三允(明治12~昭和30)」
「蚊柱をこれ見玉へや一と抱き 三允」
[ 埼玉生まれ。早稲田大学の学生であった頃子規に師事し、「早稲田俳句会」を設立。俳諧散心第一回句会には参加できず、「デンポーデ フサンヲワビル チヂツカナ」と電報で不参を詫びた。]
[短冊 高浜虚子 (明治7~昭和34)」
「黄金虫擲(なげう)つ闇の深さ哉 虚子」
[軸でも展示しているが、明治41年8月11日、鍛錬句会「日盛会」第11回の作。後に虚子自選句集『五百句』に所収された。 ]
(追記その二)「虚子の連句」(松井幸子稿)
file:///C:/Users/user/Downloads/AN101977030050010.pdf