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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その五) ] [芭蕉翁像]

その五 呉春(月渓)の描いた芭蕉像(四画像)

 『呉春(財団法人逸翁美術館)』には、四点ほど「芭蕉像」が紹介されている。

52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22
(賛) 禅法ハ仏頂和尚に 参して三国相承 験記につらなり 風雅は西行上人を 
   慕うて続扶桑隠逸 伝に載せぬ
蝶夢阿弥陀仏謹書
(解説) 呉春が芭蕉翁の正面像をクローズアップしてえがき、その上に蝶夢法師が上の賛を記している。呉春は筆意謹厳でしたため、翁の容貌はいつも彼がえがく翁の顔である。蝶夢は僧侶であるが後半は誹諧に執心し、芭蕉顕賞に多くの業績をのこした。寛政七年(一七九五)没。

53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41

54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29
(賛) 海島圓浦長汀唫 
あつみ山吹浦かけて夕すゞみ 汐こしや鶴脛ぬれて海すゞし あらうみや佐渡によこたふあまの河 早稲の香や分入右は磯海
明石夜泊
蛸壺やはかなき夢を夏の月
 このつかい這わたるほどといへば
蝸牛角ふり分よ須磨明石
 右芭蕉翁作           嘯山

55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28

呉春の芭蕉像.jpg
右上(52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22)
右下(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)
中央(54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29)
左上(55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28)

 『呉春(財団法人逸翁美術館)』所収の「呉春略年表」によると、「天明二(一七八二)三一歳 池田で迎春、呉春と改む。剃髪」とあり、「月渓」の号を「呉春」と改めたのは、天明二年(一七八二)ということになる。
 しかし、「月渓」と「呉春」とを併用している期間が、寛政元年(一七八九)の応挙の写生画に完全に転向するまでの間には認められるので、この天明二年(一七八二)から寛政元年(一七八九)までの間のものは、蕪村風(南画風)のものには「月渓」、そして、応挙風(写生画風=円山四条派風)のものには「呉春」と、大まかに使い分けしていると理解して差し支えなかろう。
 このような観点から、上記の芭蕉像のうち、呉春の署名のある「52 呉春筆」と「55 呉春筆」のものは、寛政元年(一七八九)以降の創作と理解したい。そして、月渓の署名のある「53 月渓筆」は、落款に「丙午十月十二日月渓拝写」とあり、天明六年(一七八六)の作で、呉春と改号しているが、月渓の署名でしているものと理解をしたい。なお、この「53 月渓筆」は、安永八年(一七七九)、蕪村が金福寺の芭蕉庵再興(再興は安永五年で、再興後の芭蕉忌に因んでのもの)に際しての掛物の「蕪村筆芭蕉像」をモデルにしてのものであろう。
 さて、この中央の「54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛」のものであるが、この異様な無精髭の、眉の濃い、そして、何処となく旅の疲れで窶(やつ)れている感じの芭蕉像は、この芭蕉像の作者、妻と実父の不慮の死に遭遇して、京都から池田へと隠棲した頃の、月渓の風貌を醸し出している雰囲気で無くもない。
 因みに、天明五年(一七八五)十一月二十五日には、池田で田福主催の夜半亭(蕪村)三回忌が執行され、その折りの月渓は、「雲水月渓」の、「雲水」(行脚僧)の二字を、己が号の「月渓」に冠しているのである。
 その「雲水月渓」の描いた「雲水芭蕉像」の雰囲気でも無くもない。そして、それに賛する、蕪村の畏友の嘯山の芭蕉の選句(「奥の細道・笈の小文」)もまた、その「雲水月渓」の、その当時の月渓を思い巡らしているような雰囲気で無くもない。


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