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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その六「山口素絢」) [洛東遺芳館]

(六)山口素絢筆「郭子儀図」(洛東遺芳館蔵)

山口素絢.jpg

山口素絢筆「郭子儀図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

郭子儀は唐時代の武将です。自身栄達しましたが、子孫もみんな出世しました。ですから郭子儀図には子孫繁栄の願いが込められています。山口素絢は円山応挙の弟子です。この作品は応挙の「郭子儀図」(三井記念美術館)を写したものです。

山口素絢(やまぐちそけん、宝暦九年=一七五九~ 文政元年(一八一八))は、応門十哲の一人に数えられている。通称は武次郎、字は伯後、号は山斎など。京都の人。円山応挙に画技を学び,寛政七年(一七九五)大乗寺障壁画制作(後期)に参加している。文化十年(一八一三))版の『平安人物志』により、そのころ祇園袋町に住していたことがわかる。人物画をよくして時様の和美人を得意とし、兄弟子の源琦の唐美人と併称された。
 さて、冒頭に掲げた「郭子儀図(素絢筆)は、次の「郭子儀祝賀図」(応挙筆)の模写絵である。

郭子儀祝賀図.jpg

「郭子儀祝賀図」(応挙筆)一幅 絹本着色 一七七五(安永四)一一八・〇×五八・五cm
三井記念美術館蔵
「郭子儀は唐時代陜西華州の人で、数々の武功に輝く名将である。八男七女をもうけ孫は数十人、長寿を誇ったという。老夫妻を頂点に人物が環状に配される構図は、この故事を絵画化したものである。本図は三井高美から実弟である高彌へ隠居祝いとして贈られた。商売にあまり熱心でなかった高美に代わり、高彌は三井家の家業をよくまとめたのである。子孫繁栄と長寿を慶ぶ郭子儀の顔は、なんと高彌の肖像で描かれている。」(『もっと知りたい 円山応挙(樋口一貴著)』)

 応挙は、この郭子儀について、大乗寺障壁画の「郭子儀の間」でも、その襖絵を描いているが、これと全く同じ図柄で、その着衣の色だけを異にしたものを描き、さらに、その「郭子儀図粉本」まで、今に残している(「東京国立博物館(植松家旧蔵)」・「郭子儀携小堂図」「郭子儀図粉本」)。
 すなわち、応挙は、「人物画」「花鳥画」「山水画」などの主たる画題(モチーフ)について、この種のマニュアル(粉本・下絵等)を作成しておいて、制作依頼の需に応じて、いわゆる、応挙工房(応挙と側近門人たち)で、門弟たちが応挙の代筆なども可能にしていたように思われる。
 そして、これらのことは、当時の狩野派にしろ琳派にしろ、障壁画などの大作を制作するような場合には、そういうマニュアル・手順書の類いのものは必須であって、今日の芸術品とか美術品とかを鑑賞する視点とはやや異なるという思いを深くする。
 また、当時の応挙にしろ、蕪村にしろ、芸術家と同意義の「画家・画人」という意識よりも、職人的な「絵師・画工」、そして、何人かで制作する場合のリーダー格は、「絵師・画工の棟梁」(「大乗寺文書(応挙書簡)」など)というような意識だったような思いを深くする。
 冒頭の素絢の、師・応挙の「郭子儀祝賀図」の模写絵のような作品も、「子孫繁栄・長寿」の吉祥的な贈答品の類いのものと理解するのが妥当なのかも知れない。
この「郭子儀祝賀図」の郭子儀の顔は、三井家惣領家(北三井家)四代目高美が一族から義絶された後に、暫定的に高美の跡を継いだ高美の実弟高彌(三井新町家三代目当主)の肖像で描かれているとのことで、こと、三井一族に取っては、この高彌肖像の「郭子儀図」というのは、需要が多く、そんなことと関係しているのかも知れない。
 というのは、そもそも、この三井家四代目の高美は、「大乗寺文書(円山派名簿)」(補記一)に、「京都三井八郎右衛門」と、その名が登場する、列記とした「円山派」の画人の一員なのである。そして、その血筋は、面々と、三井家六代目・高祐、七代目・高就、八代目・高福などが、応挙・応瑞・応震と引き継がれていく円山派の画人として、その作品を今に残している(補記四)。
とすれば、「京都三井八郎右衛門」(三井家惣領家)周辺においては、この種のもの(素絢筆「郭子儀図」)の制作依頼も多かったと解することも可能であろう。
 そもそも、絵師になるために画塾のシステムというのは、口伝による秘伝のようなもので、「臨写を以て始め臨写を以て終る」(橋本雅邦「木挽町絵所」)の、模写教育というのが中心であったのだろう。
 しかし、一人前の絵師になるには、この模写の世界から、自らの創意工夫による、いわゆる「新図」的な世界を会得しないと、例えば、後世に「応門十哲」の一人と目せられるようなことはなかろう。
 そして、「応門十哲」の一人と目せられている山口素絢は、まぎれもなく、応挙の「人物画」の世界を超え、素絢ならではの「美人風俗画」的世界を構築していることが(補記五)、その証左の一つになろう。そして、それらのことが、素絢をして「和美人画に関しては円山派随一」との評価を得ている背景なのであろう。

補記一 円山派(円山応挙工房・応挙画塾)の画人たち

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-21

補記二 大乗寺障壁画「郭子図襖」(応挙筆)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-10-22

補記三 東京芸術大学蔵(植松家旧蔵)「郭子儀携小童図」(応挙筆)

http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0007134

補記四 三井家当主(六代目・七代目・八代目)の作品など

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2017.html

補記五 山口素絢筆「百美人図」について―関連作品との比較から―

https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/23180/039000140008.pdf



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