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町物(京都・江戸)と浮世絵(その五 呉春) [洛東遺芳館]

(その五) 呉春の「手描き友禅」「双六」

手描き友禅.jpg

呉春 手描 白絖地雪中藪柑子図描絵小袖 一領

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html

 蕪村の、天明初年(一七八一)五月二十六日付け佳棠宛て書簡に、次のような文面のものがある。

「小糸かたより申こし候は、白ねりのあはせに山水を画(えが)きくれ候様にとの事に御座候。これはあしき物好きとぞんじ候。我等書き候てはことの外きたなく成候て、美人には取合(とりあわせ)甚あしく候。やはり梅亭可然候。梅亭は毎度美人之衣服に書き覚(おぼえ)候故、模様取(どり)、旁(かたがた)甚よろしく候。小糸右之道理をしらずしての物好きと被存候。我等が画きたるを見候はゞ、却(かえつ)て小糸後悔可致ときのどくに候。小糸事に候ゆへ、何をたのみ候てもいなとは申さず候へども、物好きあしく候ては、西施に黥(イレズミ)いたす様成(なる)物にて候。美人之形容見劣り可申といたはしく候。二三日中に右あはせ仕立候て、もたせ遣(つかわし)候よし申遣候。どふぞ小糸に御逢被成候て、とくと御聞かせ可被下候。縷々(るる)筆談に尽しがたく候。何事も御顔御物がたりと申候。以上」

 天明初年(一七八一)というと、蕪村、六十六歳の時である。ここに出て来る「小糸」とは、晩年の蕪村の贔屓の芸妓である。この頃の蕪村の書簡には、「杉月(さんげつ)・雪楼(富永楼)・一菊楼・玉松亭・中村屋・井筒屋」などの茶屋(料亭)の名が、しばしば出て来る。
 この茶屋遊びには芸妓が付き物だが、蕪村の贔屓の芸妓は、「小糸・小雛・石松・琴野」などで、中でも、小糸に対する寵愛ぶりは相当なものがあったらしい。

「青楼(せいろう)の御意見承知いた候。御もつともの一書、御句にて小糸が情も今日限りに候。よしなき風流、老いの面目をうしなひ申し候。禁ずべし。さりながせ、もとめ得たる句、御批判下さるべく候。
 妹(いも)がかきね三味線草の花咲きぬ 」(安永九年四月二十五日付け道立宛て書簡)

 「青楼」とは遊郭のことだが、ここは茶屋(料亭)遊びのこと。上記の書簡は、道立が蕪村の茶屋遊びを諫めているものの返書なのであろう。儒学の名門に生まれ、自らも儒学者であった樋口道立は、夜半亭一門では蕪村に諫言できる唯一の人物であったのであろう。
 蕪村書簡で、道立の名はしばしば出て来るが、蕪村は必ず「様」「子」「君」などの敬称を付けており、道立を呼び捨てにしているものは目にしないない。年齢的に、道立は蕪村よりも二十歳程度も年下なのであるが、蕪村は道立を一目も二目も置いていたのであろう。

 いとによる物ならにくし凧(いかのぼり)  大阪 うめ
  さそえばぬるむ水のかも河           其答
 盃にさくらの発句をわざくれて          几董
  表うたがふ絵むしろの裏           小いと
 ちかづきの隣に声す夏の月            夜半(蕪村)
  おりおりかほる南天の花            佳棠

 天明二年(一七八二)、蕪村、六十七歳の折に刊行した、春興帖『花鳥篇』の中の俳諧(連句)の半歌仙(十二句の「連句」)の、表六句である。この表六句の発句は、大阪の梅女からの書簡に見える一句である。この「梅女」こそ、後に、呉春の後妻になる、当時の大阪の名妓なのである。
 この梅女の発句の句意は、「(蕪村さんが上げている)この凧(歌仙)が、(蕪村さんが肩入れしている)小糸(こいと)さんにによるものなら、何とも、憎らしい」というようなことであろう。
 それ続く、脇句の作者「其答(きとう)」とは、歌舞伎役者、初代・沢村国太郎その人である。俳号「其答」、屋号「三笠屋(後に「天満屋)で、京坂の舞台で活躍した大立者である。それに付けての「第三」は、夜半亭二世・蕪村の名跡を継ぐ、夜半亭三世・高井几董である。
 それに続く「四句目」は、蕪村御贔屓の芸妓、小糸の句である。「蕪村さんの御贔屓は表面だけで、その裏の真意は分かりません」というようなことであろうか。それに、蕪村がぬけぬけとと五句目を付けている。「近づきの印に小糸との語らいに、外には夏の月が掛かっている」と、ご満悦の様子である。
 続く、六句目の折端の句は、蕪村のパトロンの一人の、京都の書肆汲古堂の主人、田中庄兵衛こと、俳号・佳棠の句である。この佳棠が、蕪村の茶屋遊びの指南役なのであろう。

「いつもとは申しながら、この節季(せつき)、金ほしやと思ふことに候。今日はあまりのことに、手水鉢(ちようずばち)にむかひ、かかる身振り(手水鉢を叩こうとする人物を描く)いたし候へども、その金ここに、といふ人なきを恨み候。されどもこの雪、ただも見過ごしがたく候。二軒茶屋中村屋へと出かけ申すべく候。いずれ御出馬下さるべく候。是非是非。以上 二十七日 佳棠福人 」

 「かかる身振り」というのは、浄瑠璃の「ひらがな盛衰記」の登場人物、梅が枝(え)のしぐさで、彼女が金が欲しいといいながら手水鉢を叩くと、二階から「その金ここに」と小判三百両が投げ出される。金が無いといいながら、茶屋で雪見酒と洒落ようというのである。金が無いというのは、支払いの方は佳棠さんよろしくということであろう。福人は、その金持ちの敬称で、佳棠も福人と敬称で言われれば、雪見酒の費用は持たない訳にはいかないということであろう。佳棠の汲古堂の店は、寺町五条上ル町にあった。

 さて、司馬遼太郎に、呉春を主人公にした「天明の絵師」という小説がある。登場人物は、「蕪村・呉春・応挙・上田秋成」などである。そこでは、呉春について、「おそろしく器用なのだ。尋常一様の器用ではない。いまからすぐ呉服屋の番頭がつとまるほど如才ないし、手さきの器用さにかけては、それこそ人間ばなれしていた」と、呉春の、マルチの多芸多才ぶりを記している。
 そして、この呉春の師匠の蕪村は、「蕪村の病中、家計がいよいよ窮迫し、呉春は必死にかけまわってね金策した。借りられるところはすべて借りた。蕪村の俳句の弟子である宇治田原の庄屋奥田治兵衛には、正月の粟餅の無心をいったほどだ」と、その窮乏振りを記している。
 そして、蕪村と呉春について、「蕪村は現世で貧窮し、呉春は現世で名利を博した。しかし、百数十年後のこんにち、蕪村の評価はほとんど神格化されているほどに高く、『勅命』で思想を一変した呉春のそれは、応挙とともにみじめなほどひくい」と、この両者の比較を結語にしている。
 しかし、同じ時代に生きた、「天明の絵師」の、年齢順に、「蕪村・応挙・呉春」の三人のうちで、「茶屋遊び・芝居好き」にかけては、上記の佳棠との交遊などにあるとおり、その筆頭格であったことであろう。
 上記の、「『勅命』で思想を一変した呉春」といのは、「蕪村の絵は所詮は世捨てびとの手なぐさみにすぎず、権門成家の大建築に描くような張りのあるものではない」、「いま勅命があって、御所の杉戸、襖、天井などに絵をかけ、といわれれば、蕪村の絵ではつとまらんよ」という、応挙の画論のことで、呉春が、蕪村亡き後に、応挙の、この画論に従い、応挙門の、御所向きの絵に様変わりしたという指摘なのである。
 それらに続けて、「応挙の死後御所の御用をつとめ、その権威も手つだって画料はいよいよ高騰し、門人は数百人をかぞえるにいたり、呉春が四条通りに住んだところから門人たちはその周辺に居を移し、このため呉春の派は、『四条派』といわれ、繁栄し、その流儀の系列は、明治、大正、昭和の日本画の画壇にまで及んでいる」とし、「呉春が、もし蕪村の流れに生涯貞潔であったとすれば、単に無名の月渓でおわったろうし、また天明ノ大火がなかったなら、呉春は貧窮のうちに死んでいたのかもしれない」と、「蕪村好き」の司馬遼太郎らしい、「応挙・呉春」観を披露している。
 しかし、画人、あるいは、画壇の主流というのは、この「応挙・呉春」の流れであって、いわゆる、日本の文人画という「蕪村」の流れというのは、その亜流と化し、今や絶滅品種の類いのものということであろう。

 さて、また、冒頭の、呉春の「手書き友禅」に戻って、こういうものは、その師匠の蕪村も、上記の蕪村書簡にあるとおり、手掛けなかったし、また、司馬遼太郎の「御所向きの大建築の障壁画」を目指している応挙も、いかに、懇望されても、「その任に非ず」と、この種のものは、今に遺されていないようである。
 そして、マルチの、多芸多才の呉春は、この種のものだけでなく、子供向けの「双六」まで手掛けているのである。

双六.jpg

呉春 下絵 すごろく 木版 寛政十年

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html

 こういう、「天明の絵師」の、マルチの多芸多才の「呉春」に匹敵する人物は、浮世絵師・北尾政演こと戯作者・山東京伝、そして、図案集『小紋新法』、滑稽図案集『絵兄弟』、滑稽本『腹筋逢夢石(はらすじおうむせき)』、そして、紙製煙草入れ店を開き、そのデザインした煙草入れを大流行させた、「天明のマルチ・スーパースター」の、呉春より九歳年下の、江戸の「山東京伝」を抜きにしては語れないであろう。

補記一 司馬遼太郎の「天明の絵師」周辺

http://rikachanhouse.com/3914.html%E3%80%8D

補記二 山東京伝の「デザイン」周辺

http://www.ee-kimono.net/komon.html



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