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四季草花下絵千載集和歌巻(その十三) [光悦・宗達・素庵]

(その十三) 和歌巻(その十三)

和歌巻13.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      堀河院御時、百首歌たてまつりける時、桜
      をよめるひ
84 山ざくらちゞに心のくだくればちる花ごとにそふにやあるらむ(前中納言匡房)
(花の散るのを嘆き、千々に砕けたわが心は、山桜の一つ一つの花びらに寄り添って散ってゆくのであろうか。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
やま左久ら(ざくら)千々(ちぢ)尓(に)心濃(の)久多久(くだく)る盤(は)知累(ちる)ハ(は)なごと尓(に)曾(そ)ふ尓(に)や安(あ)るら舞(む)

※やま左久ら(ざくら)=山桜。
※千々(ちぢ)尓(に)=ちぢに。「山桜が千々(数多く)にくだける(散る)」と「心が千々(さまざま)にくだける(揺れ動く)」とを掛けている。
※知累(ちる)ハ(は)なごと尓(に)=散る一つ一つの花びらに。
※)曾(そ)ふ尓(に)や安(あ)るら舞(む)=寄り添ってゆくのであろうか。
※※堀河院=「藤原基経の邸。京都堀川の東にあった。のち、円融天皇・堀河天皇の里内裏として使われた」の意ではなく、『堀河院百首』『堀河院御時百首和歌』『堀河院初度百首』『堀河院太郎百首』『堀河百首』の「堀河天皇の御時」を指している。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masahusa.html

【大江匡房(おおえのまさふさ) 長久二~天永二(1041-1111) 号:江師(ごうのそち) 
匡衡・赤染衛門の曾孫。大学頭従四位上成衡の子。母は宮内大輔橘孝親女。
神童の誉れ高く、天喜四年(1056)、十六歳で文章得業生に補せられる。治暦三年(1067)、東宮学士として尊仁親王(即位して後三条天皇)に仕えたのを始め、貞仁親王(白河)、善仁親王(堀河)と三代にわたり東宮学士を勤めた。左大弁・式部大輔などを経て、寛治八年(1094)六月、権中納言に至り、同年十一月、従二位に進む。永長二年(1097)、大宰権帥を兼任し、翌年筑紫に下向。康和四年(1102)、正二位に至る。長治三年(1106)、権中納言を辞し、大宰権帥に再任されたが、病を理由に赴任しなかった。天永二年(1111)七月、大蔵卿に任ぜられ、同年十一月五日、薨じた。
平安時代有数の碩学で、その学才は時に菅原道真と比較された。稀有な博識と文才は、『江家次第』『狐媚記』『遊女記』『傀儡子記』『洛陽田楽記』『本朝神仙伝』『続本朝往生伝』など多数の著作を生み出した。談話を録した『江談抄』も残る。漢詩にもすぐれ、『本朝無題詩』などに作を収める。
歌人としては承暦二年(1078)の内裏歌合、嘉保元年(1094)の高陽院殿七番歌合などに参加し、自邸でも歌合を主催した。『堀河百首』に題を献じて作者に加わる。また万葉集の訓点研究にも功績を残した。後拾遺集初出。詞花集では好忠・和泉式部に次ぎ第三位の入集数。勅撰入集百二十。家集『江帥集』がある。 】

(参考) 大江匡房(前中納言匡房)の『千載和歌集』所収「堀河院百首和歌」など

   堀川院御時、百首の歌奉りけるとき、残雪をよめる
道絶ゆといとひしものを山里に消ゆるは惜しきこぞの雪かな(千載4)
【通釈】冬の間は道が途絶えて煩わしく思っていたのに、こうして山里にも春がおとずれてみると、消えてしまうのが惜しくなる、去年の雪であるよ。

   堀川院の御時、百首の歌のうち、霞の歌とてよめる
わぎも子が袖ふる山も春きてぞ霞の衣たちわたりける(千載9)
【通釈】「妻が袖をふる山」という布留(ふる)の山も、春になって、白い衣を纏うように霞が立ちこめたなあ。
【語釈】◇袖ふる山 「ふる」は地名をかけた掛詞。布留山は今の天理市布留あたりの山。石上神宮がある。「袖ふる」は「霞の衣」のイメージと響き合う。
【補記】袖・ふる・はる(春・張る)・きて(来て・着て)・衣・たち(立ち・裁ち)、と縁語を連ねている。

   堀川院御時、百首の歌奉りけるとき、梅の花の歌とてよめる
にほひもて分わかばぞ分わかむ梅の花それとも見えぬ春の夜の月(千載20)
【通釈】どの辺に咲いているか、匂いでもって区別しようと思えば出来るだろう。春夜の朧月の下、それと見わけがつかない梅の花だけれど。

   堀川院の御時、百首の歌奉りけるとき、春雨の心をよめる
よもの山に木の芽はる雨ふりぬればかぞいろはとや花のたのまむ(千載31)
【通釈】四方の山に春雨が降り、木の芽をふくらませるので、花は春雨を父母と頼りにするのだろうか。
【語釈】◇木の芽はる雨 「はる」は、(芽が)張る・春(雨)の掛詞。◇かぞいろは 父母、両親。日本書紀などに見える語。

   堀川院の御時、百首の歌奉りける時、桜をよめる
山桜ちぢに心のくだくるは散る花ごとにそふにやあるらむ(千載84)
【通釈】山桜を思って、心は千々に砕けてしまった。花びらの一枚一枚に、私の心のカケラが連れ添って散ってゆくとでもいうのか。

   堀川院の御時、百首の歌奉りける時、春の暮をよめる
つねよりもけふの暮るるを惜しむかな今いくたびの春と知らねば(千載134)
【通釈】三月晦日、いつにもまして今日の暮れるのが惜しまれるよ。このあと何度めぐり逢えるかわからない春だから。

  堀川院の御時、百首の歌奉りける時よめる
高砂のをのへの鐘の音すなり暁かけて霜やおくらむ(千載398)
【通釈】高砂の峰の上から鐘の音が聞えてくる。暁にかけて霜が降りたのだろう。
【語釈】◇高砂のをのへ 前出。ここでは播磨国の歌枕と考えてよいだろう。高砂には弘仁六年(816)弘法大師創建と伝わる十輪寺がある。◇霜や置くらむ 唐の豊山の鐘が霜に和して鳴るという故事に拠る。「豊嶺に九鐘有り、秋霜降れば則ち鐘鳴る」(山海経)。

   堀川院の御時、百首の歌奉りける時、別れの心をよみ侍りける
行末を待つべき身こそ老いにけれ別れは道の遠きのみかは(千載480)
【通釈】あなたといつか再びお逢いできるとしても、その将来を待つべき自分の身は年老いてしまった。別れは道が遠いだけではない。恐らく生と死を隔てることになるのだ。

(参考) 「堀河天皇」と「堀河院百首」周辺

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/horikawa.html

【 堀河天皇( ほりかわてんのう) 承暦三~嘉承二(1079-1107) 諱:善仁(たるひと)

白河院第二皇子。母は中宮賢子(藤原師実の養女。実父は源顕房)。鳥羽天皇の父。
応徳元年(1084)、母を亡くす。同二年、叔父の皇太子実仁親王が死去したため、翌三年(1086)十一月、立太子し、即日父帝の譲位を受けて即位した。時に八歳。寛治七年(1093)、篤子内親王を中宮とする。嘉保三年(1096)、重病に臥したがまもなく快復。康和元年(1099)、荘園整理令を発布。同五年、宗仁親王(のちの鳥羽天皇)が生れ、同年、皇太子にたてる。嘉承二年(1107)七月十九日、病により崩御。二十九歳。
幼くして漢詩を学び、成人後は和歌をきわめて好んだ。近臣の源国信・藤原仲実・藤原俊忠、および源俊頼らが中心メンバーとなって所謂堀河院歌壇を形成、活発な和歌活動が見られた。長治二年(1105)か翌年、最初の応製百首和歌とされる「堀河百首」(堀河院太郎百首・堀河院御時百首和歌などの異称がある)奏覧。同書は後世、百首和歌の典範として重んじられた。康和四年(1102)閏五月「堀河院艶書合」を主催、侍臣や女房に懸想文の歌を詠進させ、清涼殿で披講させた。なお永久四年(1116)十二月二十日成立の「堀河後度百首」(永久百首・堀河院次郎百首とも)は、堀河天皇と中宮篤子内親王の遺徳を偲び、旧臣仲実らが中心となって催した百首歌とされる。金葉集初出。勅撰入集九首。  】

   同じ御時后宮にて、花契遐年といへる心を、うへの男ども
   つかうまつりけるによませ給うける
千歳まで折りて見るべき桜花梢はるかに咲きそめにけり(堀河院御製「千載611」)
【通釈】梢の遥かな先端まで、花が咲き始めたよ。あなたが千年の将来にわたり手折っては賞美するだろう、桜の花が。
【語釈】◇同じ御時 堀河天皇代。永長元年(1096)三月十一日の中殿和歌管弦御会かという(岩波新古典大系本の注に拠る)。◇后宮 堀河天皇の皇后、篤子内親王(後三条天皇皇女)。◇花契遐年 花遐年ヲ契ル。桜の花が長久の年月を約束する、の意。

堀河百首(堀河院百首和歌)(類聚百首)(太郎百首)

一 (主催者) 主催:堀河天皇 題者:大江匡房 勧進:藤原公実
二 (時期)  長治2年5月29日〜同3年3月11日奏覧(1105–06年)
三 (部立・題等) 春 20題 夏 15題 秋 20題 冬 15題 恋 10題 雑 20題
四 (詠進歌人) 藤原朝臣公実 大江朝臣匡房 源朝臣国信 源朝臣師頼 
藤原朝臣顕季 源朝臣顕仲  藤原朝臣仲実 源朝臣俊頼 
源朝臣師時  藤原朝臣顕仲 藤原朝臣基俊 永縁  隆源    
肥後    紀伊 河内
五 (備考) 最初の応製(天皇や上皇の命により指名された歌人が詠進する)百首
最初の組題(細かい歌題が指定される)百首
最初の部類(勅撰集に準じた部立構成を持つ)百首
(「定数歌」 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

※上記の「補足説明」(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

平安後期、堀河天皇のとき、源俊頼(としより)、源国信(くにざね)らが中心に、当時の有力歌人に詠進させた百題による百首歌(組題百首)の集成。1105年(長治2)から1106年の間に成立か。当初、藤原公実(きんざね)、大江匡房(まさふさ)、源国信、源師頼(もろより)、藤原顕季(あきすえ)、藤原仲実(なかざね)、源俊頼、源師時(もろとき)、藤原顕仲(あきなか)、藤原基俊(もととし)、隆源(りゅうげん)、肥後、紀伊、河内(かわち)の14人、のちに源顕仲、永縁(えいえん)が加わり、題ごとに部類した。『堀河院御時百首和歌』『堀河院太郎百首』『堀河院初度百首』などの名称もある。和歌史上最初の大規模な組題百首の試みとして後代に規範とされ、題詠、習作の際に取り組む形式として尊重された。内容面でも、新しい歌題には堀河朝歌壇の新風が多様に反映して、時代色の断面をうかがわせている。[近藤潤一]
『橋本不美男・滝沢貞夫著『校本堀河院御時百首和歌とその研究 本文研究篇』(1976・笠間書院)』▽『橋本不美男・滝沢貞夫著『校本堀河院御時百首和歌とその研究 古注索引篇』(1977・笠間書院)』
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yahantei

 堀河天皇は、「嘉承二年(1107)七月十九日、病により崩御。二十九歳。」で夭逝した。「白河院制」時代のスタートの頃である。「堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇」と続く。堀河天皇は、その「生き様」を、「堀河百首(堀河院百首和歌)(類聚百首)(太郎百首)」に刻んだ。ここから、「千載集」・「新古今集」が生まれてくる。この「堀河百首」の「源朝臣俊頼」と「藤原朝臣基俊」のお二人は、俊成の「二人の和歌の師」であった。俊成の編んだ「千載集」は、この二人に捧げる、俊成にとっては、最大の精魂を傾けた「勅撰集」ということになる。
 そして、その礎となった「堀河百首」の中の、「肥後・ 紀伊・河内」の女流歌人については、次のアドレスなどが参考となる。

https://core.ac.uk/download/pdf/67689925.pdf

by yahantei (2020-10-27 17:02) 

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