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四季花卉下絵古今集和歌巻(その二) [光悦・宗達・素庵]

その二 梅(その一)

四季花卉下絵古今集和歌巻71.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」(「四季花卉下絵古今集和歌巻」=『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」)三三・七×九一八・七

      題しらず  
866  限りなき君がためにと折る花は時しもわかぬ物にぞありける(読人知らず)
(限りなき長寿のあなたのお祝いのために折り取った花は、季節に関係なく何時までも咲いている花でしたよ。)
867  紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る(読人知らず)
(紫草が一本あるために、武蔵野の草は、すべていとおしく見えることだなあ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
866 限(かぎり)な幾(き)君可(が)為(ため)尓(に)と於(お)る華盤(は)時しも王可(わか)ぬも乃(の)尓(に)曾(ぞ)有(あり)介(け)る

※限(かぎり)な幾(き) 君可(が)為(ため)尓(に)=限りなき君がために。寿命の無限な貴方の為に。
※於(お)る華盤(は)=折る花は。
※時しも王可(わか)ぬ=時しもわかぬ。必ずしも時節を区別していない。

867 紫濃(の)日とも登(と)遊(ゆ)へ尓(に)武蔵野濃(の)草盤(は)三(み)な可(が)ら哀(あはれ)と曾(ぞ)見る

※紫濃(の)=紫草(むらさきそう)の。
※日とも登(と)遊(ゆ)へ尓(に)=一本(ひともと)故に。一本であるが故に。
※三(み)な可(が)ら=ことごとく。
※あはれ=しみじみとかわいい。いとしい。

 下絵は、「竹」の図から「梅」の図(その一)と変わる。『古今和歌集』の部立(構成)は、「春(二巻)・夏(一巻)・秋(二巻)・冬(一巻)・賀(一巻)・離別(一巻)・羇旅(一巻)・物名(一巻)・恋(五巻)・哀傷(一巻)・雑(二巻)・雑体(一巻)・大歌所御歌(一巻)」の二十巻構成で、その後の勅撰集の模範とされている。
 この「四季花卉下絵古今集和歌巻」の下絵で描かれている「竹・梅・躑躅・蔦・下草(糸薄)」などについては、この『古今和歌集』の「四季(春・夏・秋・冬)」の区分のものではなく、冒頭に、「四君子に属する竹・梅を選び、年初の歳寒のイメージを託す。弐種の素材であるので歳寒二友」ともいうべき、「竹(冬)・梅(春)」、そして、それに続く、「躑躅(夏)・蔦(秋)」という展開のイメージのような雰囲気である。
 いずれにしろ、ここで「竹(冬)」から「梅(春)」へとの場面転換(「季移り」)の図柄である。それに相応してのものなのかどうかは判然としないが、(下絵=竹図=863と864の二首 )と(下絵=梅図その一=866と867)との間に、次の一首(865)が省かれている。
 その一首(865)を、その前(下絵=竹図=863と864の二首)と、その後(下絵=梅図その一=866と867)との間に挿入すると、次のとおりとなる。

(下絵=竹図) 
863  わが上に露ぞ置くなる天の川とわたる舟のかいのしずくか(読人知らず)
(私の体が濡れているのは露が降りているのだそうだ。それならその露は天の川の渡し場を彦星が渡る舟の櫂から落ちた雫なのであろうか。)
864 思ふどちまどゐせる夜は唐錦たたまく惜しきものにぞありける(読人知らず)
(仲のいい者たちが車座に座って楽しいひとときを送っている夜は、立ち上がるのが本当に惜しいものだ。)

865 うれしきを何に包まむ唐衣袂ゆたかにたてと言はしも(読人知らず)
(こんなにたくさんある嬉しいことを何に包んで持って帰ろうか。着物の袖にしまえるように、大きく作ってくれと言っておくのだったなぁ。)

(下絵=梅図その一)
866  限りなき君がためにと折る花は時しもわかぬ物にぞありける(読人知らず)
(限りなき長寿のあなたのお祝いのために折り取った花は、季節に関係なく何時までも咲いている花でしたよ。)
867  紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る(読人知らず)
(紫草が一本あるために、武蔵野の草は、すべていとおしく見えることだなあ。)

(参考) 「四季花卉下絵古今集和歌巻」(竹・梅その一・梅その二)

四季花卉下絵古今集和歌巻一.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」彩箋墨書、三三・七×九一八・七

http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00000074.htm

隆達節断簡・梅.jpg

A図「梅下絵隆達節断簡」紙本墨書金銀泥 縦:33.8cm 横:89.9cm MIHO MUSEUM蔵
【 堺の高三隆達によって始められた「隆達節」は,慶長年間(1596~1615)に流行した歌謡で,この隆達節をおよそ百種をおさめた巻物が作られたのだが,今は諸所に分蔵されている。
この巻物の特徴は,料紙に肉筆による装飾を施すのではなく,木版の金銀泥刷によって梅蔦細竹太竹を表現している点である。本図はそのうちの梅の部分の断簡で,梅の他の部分はたとえば東京国立博物館に所蔵される。
巻末にあたる部分は京都民芸館の所蔵で,そこには,慶長10年(1605)9月,高三隆達自身が京の豪商として名高い茶屋又四郎にこの巻物一巻を贈った旨が記されている。
なお,俵屋宗達による金銀泥下絵巻物とこの木版金銀泥刷下絵巻物とは,深い関係があることは確かではあるが,宗達との直接的関係を断定するのは時期尚早とすべきであろう。 】

 この紹介文の「東京国立博物館蔵」のものは、次のものである。

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0036766

隆達節断簡・梅・東京国立博物館.jpg

B図「四季草花木版下絵隆達節小歌巻断簡」 画像番号:C0036766 32.9×81.0 東京国立博物館蔵
【 花卉摺絵隆達節断簡 伝角倉素庵 一幅 紙本金銀泥摺絵墨書 33.0×81.3 東京国立博物館蔵  】(『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/tja1948/17/2/17_2_155/_pdf/-char/ja

【(14)慶長十年九月茶屋又一郎宛本
角倉素庵筆というが、現所蔵者・内容共に未詳。その断簡と思われるもの(十章)、現在、東京国立博物館保管。左の如くである。
8   たねとりてうへし。うへなはむさし野も。せはくやあらん。わかおもひ草
9  みるめ。はかりになみたちて。なるとふねかや。あハてこかるエ
10  枕の海ハ、なみたつはかり。さらはみるめの。ありもせて
11  あハぬうらみハつもれとも。見れハことの葉もなし
12 うらみあるこそたのみなれ。おもハぬ中は。ふらすふられす
36 物のしゆむなハ春のあめ。なをもしゆむなは。たひのひとりね
37 華に。あらしのふかはふけ。君の心の。よそへちらすは
38 ひとりねてふたり。ぬるよのありさまを。かたるな人に。なふまくら
39 見製ゆるとなさけ。あれかし夢にさへ。つれなのふりや。なふきみは
40 月はにこりの水にもやとる。かすならぬ身に。なさけあれきみ
(頭の数字は文緑二年百五十章本の歌詞番号) 】(「隆達小歌集の伝本について(浅野健二稿)」)

http://www.ccf.or.jp/jp/04collection/item_view.cfm?P_no=2245

【高三隆達〈たかさぶりゅうたつ・1527-1611〉は、堺の薬種商の家の生まれ。日蓮宗顕本寺(けんぽんじ・大阪府堺市)の僧となり、日長(にっちょう)と改める。庵室を自在院(じざいいん)といい、高三坊(たかさぶぼう)と称したが、やがて還俗。小歌の名手としての盛名を高め、隆達節(りゅうたつぶし)と呼ばれる新しい歌謡を民衆に広めた。伏見城の能舞台において、細川幽斎〈ほそかわゆうさい・1534-1610〉の鼓に合わせて歌い、豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1537-98〉らの喝采を浴びたことは有名。書にも巧みで、自ら書写した「隆達節」(一巻・個人蔵)などが伝存する。さらに、本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉周辺の紙師宗二(そうじ)調製の料紙(金銀雲母下絵)に角倉素庵〈すみのくらそあん・1571-1632〉が揮毫した「隆達節」(もとは一巻。断簡が東京国立博物館に収蔵)などもあり、その交友も広範囲に及んでいたことを推察する。書流系譜においては、牡丹花肖柏〈ぼたんかしょうはく・1443-1527〉を祖とする堺流に挙げられる。これは、隆達自作の小歌(=隆達節)を短冊形に書写したもの。かなりの能書で、手馴れた筆致である。文句の右横には、墨譜(曲節を明らかにするための点)がしるされる。隆達の遺墨は稀少で、この譜付けの一幅などは、尊貴な遺品といえよう。】

https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=21363&item_no=1&page_id=13&block_id=83

「角倉素庵と『方丈記』(小秋元段 稿)」

 なお、「梅下絵隆達節断簡」(MIHO MUSEUM蔵)の紹介文で、「巻末にあたる部分は京都民芸館の所蔵で,そこには,慶長10年(1605)9月,高三隆達自身が京の豪商として名高い茶屋又四郎にこの巻物一巻を贈った旨が記されている」の「京都民芸館」ものは、次のものである。

http://drei-punkte.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/2-fbf6.html

隆達断簡・隆達署名・素庵筆.jpg

C図「花卉摺絵隆達節断簡」・京都民芸館蔵 (『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』)

 ここで、「本阿弥光悦略年譜」(『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収)の「慶長十年(一六〇五)」の項を見ると、次のような記載がある。

「慶長十年(一六〇五) 四八(歳) この年の紀年のある角倉素庵筆と伝える隆達節の巻物がある。四十八歳になったという手紙がある。この年の紀年をもつ八十嶋道除筆木版下絵『琵琶幷序』がある。この頃『蓮下絵和歌巻』(前半)を書くか。」

 この「本阿弥光悦略年譜」に記載されている「この年の紀年のある角倉素庵筆と伝える隆達節の巻物がある」というのが、上記の【C図「花卉摺絵隆達節断簡」・京都民芸館蔵】を指しているように解せられる。
 しかし、この【C図「花卉摺絵隆達節断簡」・京都民芸館蔵】が紹介されている『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』(出品目録五)には、「伝角倉素庵筆」の記載はなく、同時に出品されていた【B図「四季草花木版下絵隆達節小歌巻断簡」・東京国立博物館蔵】(出品目録二)の「作者」欄に、「伝角倉素庵筆」の記載があり、この【B図「四季草花木版下絵隆達節小歌巻断簡」・東京国立博物館蔵】(出品目録二)と【C図「花卉摺絵隆達節断簡」・京都民芸館蔵】(出品目録五)と、さらに、【A図「梅下絵隆達節断簡」(MIHO MUSEUM蔵=「神慈秀明会」旧蔵)】とは、元々は一巻のものと解しての、「伝角倉素庵筆」としているのかも知れない。

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200008233/viewer/11

隆達・自筆.jpg

D図「初歌集」・著者:隆達・国文学研究資料館 貴重書・ 書誌ID:200008233 

 この【D図「初歌集」・著者:隆達・国文学研究資料館蔵】は、「高三隆達」の自筆筆とされており、この「自庵(隆達の号「自在院」の「自庵」)の署名・花押・紀年と宛名書き」は、
【C図「花卉摺絵隆達節断簡」・京都民芸館蔵】と同一であり、これらは、全て、「伝角倉素庵筆」ではなく、「高三隆達筆」と解するのが最も素直な理解のようにも思われる。
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yahantei

 これは、随分前になるが、其角関連で、英一蝶の「朝妻舟図」などのことを思い出していた。そこに、「高三隆達」の「隆達節」に触れたような記憶が甦ってきた。それが、どえにも、その記事が、この自分のブロックの「検索」で出て来ない。
 さらに、蕪村関連で、蕪村の師の「早野巴人」(夜半亭宋阿)関連で、この「高三隆達」の「放下僧」(「何かの能」との関連か?)のことを記したのだが、どうにも思い出されない。
 しかし、「高三隆達」と「本阿弥宗達」と「角倉了以・素庵」と「茶屋史郎次郎」(二代か三代か)、そして、慶長年間の、「関ヶ原」のステージは、何とも面白い。
by yahantei (2020-11-21 17:05) 

yahantei

「どえにも」→「どうにも」
「茶屋史郎次郎」→「茶屋四郎次郎」

(読む返すたびに、ミスが目につく。)

by yahantei (2020-11-23 08:49) 

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