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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その十) [三十六歌仙]

その十 太田持資(道灌)と心前

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「一〇 太田持資」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1478

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二八 心前」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1497

(歌合)

歌人(左方一〇) 太田持資(道灌)
歌題 冬野
和歌 かり衣すそのの原の花すすき ほの見しかげもしもがれにけり
歌人概要 太田道灌。室町後期の武将  

歌人(右方二八) 心前
歌題 行路時雨
和歌 かへりみるあとの山風ふきしより やがて時雨のみちいそぐらし
歌人概要 桃山期の連歌師 

(歌人周辺)

太田道灌(おおたどうかん) 永享四~文明十八(1432-1486)

 清和源氏、源頼政の末裔と伝わる。扇谷上杉家の執事太田資清の子。幼名は鶴千代、本名は資長(持資とも)。のちに剃髪して法号道灌。相模国に生れる。幼くして鎌倉建長寺等に預けられ勉学に励む。文安三年(1446)、元服して資長を名のり、享徳二年(1453)、従五位下左衛門大夫に叙任される。康正元年(1455)、家督を嗣ぎ、扇谷上杉家の家宰として仕える。翌年、古河公方の南進から扇谷上杉家を守るため江戸城の築城に着手し、長禄元年(1457)、完成入城。文明八年(1476)、山内上杉家の家臣長尾景春が謀反を起こすと、武蔵・相模・下総に景春の軍と戦い、同十二年(1480)、ついに乱を鎮圧した。
 名声は関東に響きわたるが、却って道灌に対する猜疑心・警戒心を主君に抱かせる結果ともなった。同十八年、道灌に謀反の心ありとの讒訴を受け、上杉定正は同年七月二十六日、道灌を相模国糟屋館に誘い出し、刺客に暗殺させた。風呂場で殺される際、道灌は「当方滅亡」と叫んだと伝わる。墓は神奈川県伊勢原市上糟屋の洞昌院などにある。
 和歌を好み、飛鳥井雅世・雅親・心敬に指導を受けた。また冷泉為富や木戸孝範との交友も知られる。文明六年(1474)六月十七日、江戸城内で「武州江戸歌合」を開催。家集『慕景集』が伝わるが、父資清(入道道真)の家集の誤伝とする説など、古くから道灌の家集であることに疑義が呈されている。他に飛鳥井雅親に点を請うた『花月百首』など。

心前(しんぜん) ?-1589? 戦国-織豊時代の僧,連歌師。

 真言宗奈良元興寺の高坊(たかんぼう)にすむ。のち京都にうつり,里村紹巴(じょうは)の側近となり,おおくの連歌にくわわる。代表作に母の十三回忌追善の独吟「心前千句」。天正(てんしょう)17年11月16日?死去。俗姓は蘆中。号は蘆箏斎,蘆中庵。 (出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて)

(太田道灌の「武州江戸歌合」など)

武州江戸歌合.jpg

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0204-034707

 この太田道灌が主宰した「武州江戸歌合」は、文明六年(一四七四)六月十七日に、道灌が築城した「江戸城」で興行された。判者は心敬(「集外三十六歌仙図画帖(抱一筆)」の「右方三〇 心敬」)その人である。心敬は、この翌年(文明七年=一四七五)、その七十年の生涯を閉じている。

 上記の、「海上夕立 心敬判 三井寺心敬僧都」の「海上夕立」は、当興行の、その「御(お)題=歌題」である。
 そのトップ(一番)は、「左方 平盛」で、「右方 心敬」との「組合せ」(番い)である。
その二番手が、「左方 孝範」と「右方 道灌」との「組合せ」(番い)である。
 
「左方 孝範(たかのり)」
 ↓
潮(しほ)を吹く沖の鯨のわざならで一筋くもる夕立の空     木戸孝範
(潮を吹く 沖の鯨の技のように、一筋曇る 夕立の空)

 「右方 道灌(どうかん)」
  ↓
海原(うなばら)や水巻く竜の雲の浪はやくもかへす夕立の雨  太田道灌
(海原の その竜巻の雲の浪、一瞬にして化す 夕立の雨)

(木戸孝範)きべたかのり(きど-) 永享六~文亀二以後(1434-1502以後)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/takanori_k.html


 上野国木部邑(今の群馬県邑楽郡大泉町)出身の豪族。木戸氏は清和源氏新田流とも言うが、『兼載雑談』は孝範を桜町中納言の末裔で藤家の血筋と伝える。代々関東管領の重臣の家柄。父小府は連歌の上手であったという(『雲玉和歌抄』)。
 永享八、九年(1436~7)頃、父が自殺し、嘉吉二年(1442)、九歳の時に将軍義教のはからいで上洛する。下冷泉持為に和歌を学び、貞常親王や正徹の指南も受けたらしい。文明以後は関東に住み、文明六年(1474)、太田道灌主催の「武州江戸歌合」(心敬判)に参加するなど、関東歌壇で活躍。自ら歌合の判者を務めることもあった。
 心敬・道灌・宗祇等との親交が知られる。文亀二年(1502)七月までの生存が確認でき(六十九歳)、その後まもなく没したか。自撰と思われる家集『孝範集』には百数十首の歌を残す。他に『自讃歌注』等の著がある。

 どちらも、当代きっての武将に相応しい、豪快なイメージの歌である。この二首の「歌合」の判定(判者=心敬)は、「右方道灌」の「勝」となっている。ここは、この「歌合」の実質的な主宰者である太田道灌に意を払ってのもののように思われる。

(「歌合」概要と用語) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

概要

審判役を判者(はんざ)、判定の詞(ことば)を判詞(はんし)という。この判詞はだんだんと文学的な性格を帯びるようになり、歌論へとつながっていった。役割は判者の他に方人(かたうど;歌を提出する者)、念人(おもいびと;自陣の歌を褒め、弁護する役)とがあり、左右両陣の念人による一種のディベートによって判者の判定を導くものである。
平安時代に始まり、記録にあるものとしては仁和元年(885年)の在民部卿家歌合が最古のものとされる。他に天徳4年(960年)の天徳内裏歌合、建久3年(1192年)の六百番歌合、建仁元年(1201年)の千五百番歌合などが名高い。基本的に「遊び」であるが、平安期には歌の優劣が出世にもかかわる重大事であったため今日行われるような気軽なものではない。また、時代が下るにつれて文学性が高くなり、前述のように「判詞」が文学論・歌論としての位置づけを持つようになった。
近代短歌以後、「遊び」の要素が嫌われて一旦廃れたが、1980年代ころからまた行われるようになってきている。念人は歌をどれだけ高く評価し、その良さを引き出すことができるか、という読みの力を試され、また方人はその掘り下げに耐える深みのある歌を作る力を試されることになり、これは近代以降の文学としての短歌にとっても有用なことであると考えられるようになったためである。

用語

●方人(かたうど)
歌合の歌を提出する者。作者。平安期には身分の低い者に詠ませることがあり、その場合には歌合には方人は出席しないが今日では念人と同一である場合がほとんどである。
●念人(おもいびと)
自陣の歌を褒め、敵陣の歌の欠点を指摘して議論を有利に導く。方人と同一視されることも多い。複数が左右に別れて評定(ひょうじょう;ディベート)を行う。
●判者(はんざ)
左右の歌の優劣を判定して勝敗を決める。持(じ;引き分け)とする場合もある。主に歌壇の重鎮が務める。新古今時代以降、衆議判と言って、参加者によって優劣が判定されることも多くなった。
●講師(こうじ)
歌合の場で歌を読み上げる役。読み上げることを披講(ひこう)という。披講は左方を先に行う。平安時代は左右それぞれにいたが、のちに一人となった。現代では特に置かないことが多い。
●判詞(はんし)
判者が述べる判定の理由。
●題(だい)
優劣の判断がつくように歌合の歌は現代においても題詠である。
●左方(ひだりかた)・右方(みぎかた)
高舞台の上に左右各5人に分かれて着座し、左方は青の装束、右方は赤の装束を着用して、歌合を行う。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

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太田持資(道灌)(狩野蓮長画)

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心前(狩野蓮長画)

(参考)「愛宕百韻」での「心前」の句(十五句)

初表
06  かたしく袖は有明の霜         心前  冬(霜)・夜分・降物・衣装
初裏
13  漕ぎかへる蜑(あま)の小舟の跡遠み  心前  雑・水辺
20  我よりさきにたれちぎるらん      心前  雑・恋・人倫
二表
25  泊瀬路やおもはぬ方にいざなわれ    心前  雑・旅
30  あらためかこふ奥の古寺        心前  雑・釈教
二裏
39  鴛(をし)鴨や下りゐて羽をかはすらん 心前  冬(鴛・鴨)・水辺・鳥
48  所々にちる柳陰            心前  秋(ちる柳)・木
三表
51  下(した)解くる雪の雫の音すなり   心前  春(解くる雪)・降物
62  夕さびしき小(さ)雄鹿の声      心前  秋(小雄鹿)・獣
三裏
65  みどり子の生い立つ末を思ひやり    心前  雑・述懐・人倫
72  秋の螢やくれいそぐらん        心前  秋(秋の蛍)・虫
78  引きすてられし横雲の空        心前  雑・聳物
名残表
81  むら蘆の葉隠れ寒き入日影       心前  冬(寒き)・光物・水辺・草
90  石間(いはま)の苔はいづくなるらん  心前  雑・草
名残裏
99  色も香も酔をすすむる花の本      心前  春(花)・木

(補注)
「06 かたしく袖は有明の霜」の「かたしく袖」は「ひとり寝の袖」。
「13 漕ぎかへる蜑(あま)の小舟の跡遠み」の「蜑の小舟」は「漁夫の釣りする小さな船」。
「25 泊瀬路(はつせぢ)や」の「泊瀬路」は『源氏物語』(玉鬘)の「奈良県桜井市初瀬」の「初瀬詣で」の意。
「99 色も香も酔をすすむる花の本」は「花のもと露のなさけは程もあらじゑひなすすめそ春の山かぜ」(『新古今』寂然)の本歌取り。
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