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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その十一) [三十六歌仙]

その十一 三好長慶と毛利元就

三好長慶.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十一 三好長慶」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1479

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二九 毛利元就」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1499

(歌合)

歌人(左方十一) 三好長慶
歌題 寒蘆風衣
和歌 なにはがた入江にわたる風さえて あしの枯葉のおとぞさむけき
歌人概要  戦国期の武将。連歌作者

歌人(右方二九) 毛利元就
歌題 柳 
和歌 あをやぎのいとくり返すそのかみは たが小手巻のはじめ成るらむ
歌人概要 戦国期の武将。歌人、連歌作者  

(歌人周辺)

三好長慶(みよしながよし)生年:大永2.2.13(1522.3.10)  :永禄7.7.4(1564.8.10)

 戦国大名。父は阿波・山城守護代三好元長。幼名千熊丸,通称孫次郎,実名ははじめ範長。伊賀守,筑前守,修理大夫。父元長は天文1(1532)年主細川晴元に疎まれ,同6月一向一揆の攻撃で非業の死を遂げたが,長慶は翌年12歳にして早くも本願寺と晴元の講和を斡旋するなど軍略と勢威に非凡さをみせ,同3年10月には木沢長政の仲介で仇の晴元に帰参した。  
 同8年一時晴元に背くが,8月摂津越水城主となり摂津西半国守護代となる。同11年3月には河内太平寺で長政を敗死させ,晴元被官中最大勢力に成長した。同16年7月,摂津舎利寺の合戦で細川氏綱,遊佐長道の連合軍を破り,その勢いで晴れ初めから離反,宇治綱を擁し,同18年6月摂津江口の戦で晴元軍に大勝,入京して天下人となる。
 その後数年間は将軍足利義輝,細川晴元らと抗戦・和睦を繰り返すが,同22年7月義輝・晴元連合軍を京都霊山に破って将軍らを近江へ追放,事実上の独裁政権を樹立した。江口と霊山の戦勝は,明応2(1493)年以来畿内政治を規定してきた細川宗家による京兆家専制を解体し,のちの織田信長政権のモデルとなる権力を構想したもので意義は大きい。
 以後永禄1(1558)年末まで,旧室町幕府政所執事伊勢貞孝らの補佐を得ながら畿内の最高権力者として専制政治を敷き,分国は山城,丹波,摂津,和泉,淡路,讃岐,阿波の7カ国におよんだ。永禄1年末には将軍義輝と和してその還京を許した。同年山城を失うが翌年河内和泉を,翌々年には大和を併合,本拠を摂津芥川から河内飯盛山に移し,分国数では北条氏と並ぶ大大名に成長する。その領国経営は旧勢力根絶には至らず微温的施策にとどまり,堺や安宅水軍を擁し鉄砲など最先端の軍事技術を保有する半面,キリシタンを受容するなど特異な性格を持った。
 しかし晩年は家宰松永久秀の台頭に押され,嫡子義興を失い,将軍義輝との調整に悩みながら失意のうちに病死した。文芸に秀で,連歌の名手でもあった。<参考文献>今谷明『戦国三好一族』 (今谷明) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/motonari.html


毛利元就(もうりもとなり) 明応六~元亀二(1497-1571) 没年

 弘元の次男として安藝吉田荘(広島県高田郡吉田町)に生れる。母は祥の方。正室は美伊の方。子には隆元・元春・隆景・五龍ほかがいる。大永三年(1523)、兄興元とその子幸松丸の死に伴い、毛利宗家を継ぐ。はじめ尼子氏、ついで大内義隆に仕える。天文十年(1541)、尼子晴久を破る。
 天文二十年、義隆は重臣陶晴賢に離反され追手に囲まれ自害。元就は弘治元年(1555)、厳島合戦で晴賢を敗死させ、主君の仇を討った。同三年、大内義長を滅ぼし、安藝・長門・周防を領国とする。永禄九年(1566)、尼子氏を降し、山陽・山陰十国と豊前・伊予の一部にまで領土を拡げた。
和歌を能くし、『元就卿詠草』『贈従三位元就卿御詠草』『春霞集』(いずれも祖本は同一)と呼ばれる詠草がある。

(三好長慶と毛利元就)

(「三好四兄弟」の死)

https://kamurai.itspy.com/nobunaga/miyosi.htm

 斉藤道三が 息子・義龍に討たれ、織田信長が桶狭間で今川義元を倒した頃、三好家はその政略が実を結び、足利将軍家との講和に成功し、近畿地方の中央部から四国の東側まで広がる広大な領土を持つ大国となっていました。
 しかし近畿地方では相変わらず、政争や権力闘争、内乱が続いていました。細川家の残存勢力はまだ反攻を続けており、足利家も表向きは講和していましたが、裏では三好家の勢力を弱体化させるために様々な工作を行っていました。それらによって各地の勢力も反三好の活動を続けており、三好家 は政略と反乱鎮圧に奔走しなければならなかったのです。
 そんな中・・・ 三好家に、急速に暗雲が垂れ込める事になります。三好長慶 の弟の1人で、四国 における戦いで大活躍し、三好家の中で軍事的に重要な地位を占めていた 「十河一存」 が、急死したのです。
 彼が死んだのは、病死と 事故死 とも言われていますが・・・やや、暗い影が見えるという説もあります・・・さらにその翌年、同じく三好家において政治・軍事の両面で重要な役割を果たしていた 三好長慶 の弟 「三好義賢」 が、三好家に敵対する残存勢力との戦いで、命を落としてしまいます。
 さらに追い討ちをかけるように、評判が高く将来を嘱望されていた 三好長慶 の長男 「三好義興」 も、突然の病死を遂げてしまいます。次々と訪れる身内の不幸と、息子を失ったショックで 長慶 は落ち込み、政務への熱意も冷めてしまいます・・・これらの事件の裏には、三好家の謀略家「松永久秀」 の影があると言われています。
 加えて松永久秀は、三好家の軍事行動のポイントであった淡路島を拠点とする海賊衆「安宅水軍」の頭領で、長慶の弟でもあった「安宅冬康」に策謀をかけ、三好長慶に殺させてしまいます。
四国・近畿・海上、それぞれのトップの将軍をまとめて失った事は、三好家 瞬く間に衰退していく大きな要因となりました。さらに足利家や敵対勢力の裏工作なども続き、精神的に参ってしまった 三好長慶 は、弟や息子の後を追うように、それから間もなく病死してしまいます・・・ 享年、43 歳。

(毛利元就の「三子教訓状」)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第一条
何度も繰り返して申すことだが、毛利の苗字を末代まで廃れぬように心がけよ。

第二条
元春と隆景はそれぞれ他家(吉川家・小早川家)を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬし、毛利を忘れることがあっては、全くもって正しからざることである。これは申すにも及ばぬことである。

第三条
改めて述べるまでもないことだが、三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。諸氏を破った毛利の子孫たる者は、特によその者たちに憎まれているのだから。たとえ、なんとか生きながらえることができたとしても、家名を失いながら、一人か二人が存続していられても、何の役に立つとも思われぬ。そうなったら、憂いは言葉には言い表せぬ程である。

第四条
隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。今でこそ元春と隆景は、それぞれの家中を抑えていくことができると思っているであろうが、もしも、毛利が弱くなるようなことになれば、家中の者たちの心も変わるものだから、このことをよくわきまえていなければならぬ。

第五条
この間も申したとおり、隆元は、元春・隆景と意見が合わないことがあっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。また元春・隆景は、隆元と意見が合わないことがあっても、彼は長男だからおまえたちが従うのがものの順序である。元春・隆景がそのまま毛利本家にいたならば、家臣の福原や桂と上下になって、何としても、隆元の命令に従わなければならぬ筈である。ただ今、両人が他家を相続しているとしても内心には、その心持ちがあってもいいと思う。

第六条
この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う。しかし、そう願いはするけれども、末世のことまでは、何とも言えない。せめて三人の代だけは確かにこの心持ちがなくては、家名も利益も共になくしてしまうだろう。

第七条
亡き母、妙玖に対するみんなの追善も供養も、これに、過ぎたるものはないであろう。

第八条
五龍城主の宍戸隆家に嫁いだ一女のことを自分は不憫に思っているので、三人共どうか私と同じ気持ちになって、その一代の間は三人と同じ待遇をしなければ、私の気持ちとして誠に不本意であり、そのときは三人を恨むであろう。

第九条
今、虫けらのような分別のない子どもたちがいる。それは、七歳の元清、六歳の元秋、三歳の元倶などである。これらのうちで、将来、知能も完全に心も人並みに成人した者があるならば、憐憫を加えられ、いずれの遠い場所にでも領地を与えてやって欲しい。もし、愚鈍で無力であったら、いかように処置をとられても結構である。何の異存もない。しかしながら三人と五龍の仲が少しでも悪くなったならば、私に対する不幸この上もないことである。

第十条
私は意外にも、合戦で多数の人命を失ったから、この因果は必ずあることと心ひそかに悲しく思っている。それ故、各々方も充分にこのことを考慮せられて謹慎せられることが肝要である。元就一生の間にこの因果が現れるならば三人には、さらに申す必要もないことである。

第十一条
私、元就は二十歳のときに兄の興元に死に別れ、それ以来、今日まで四十余年の歳月が流れている。その間、大浪小浪に揉まれ毛利家も、よその家も多くの敵と戦い、さまざまな変化を遂げてきた。そんな中を、私一人がうまく切り抜けて今日あるを得たことは、言葉に尽し得ぬ程不思議なことである。我が身を振り返ってみて格別心がけのよろしきものにあらず、筋骨すぐれて強健なものにもあらず、知恵や才が人一倍あるでもなく、さればとて、正直一徹のお陰で神仏から、とりわけご加護をいただくほどの者でもなく、何とて、とくに優れてもいないのに、このように難局を切り抜け得られたのはいったい何の故であるのか、自分ながら、その了解にさえ苦しむところであり、言葉に言い表せないほど不思議なことである。それ故に、今は一日も早く引退して平穏な余生を送り、心静かに後生の願望をも、お祈りしたいと思っているけれども、今の世の有様では不可能であるのは、是非もないことである。

第十二条
十一歳のとき、猿掛城のふもとの土居に過ごしていたが、その節、井上元兼の所へ一人の旅の僧がやってきて、念仏の秘事を説く講が開かれた。大方様も出席して伝授を受けられた。その時、私も同様に十一歳で伝授を受けたが、今なお、毎朝祈願を欠かさず続けている。それは、朝日を拝んで念仏を十遍ずつとなえることである。そうすれば、行く末はむろん、現世の幸せも祈願することになるとのことである。また、我々は、昔の事例にならって、現世の願望をお日様に対してお祈り申し上げるのである。もし、このようにすることが一身の守護ともなればと考えて、特に大切なことと思う故、三人も毎朝怠ることなくこれを実行して欲しいと思う。もっとも、お日様、お月様、いずれも同様であろうと思う。

第十三条
私は、昔から不思議なほど厳島神社を大切にする気持ちがあって、長い間、信仰してきている。折敷畑の合戦の時も、既に始まった時に、厳島から使者石田六郎左衛門尉が御供米と戦勝祈祷の巻物を持参して来たので、さては神意のあることと思い、奮闘した結果、勝つことが出来た。その後、厳島に要害を築こうと思って船を渡していた時、意外にも敵の軍船が三艘来襲したので、交戦の結果、多数の者を討ち取って、その首を要害のふもとに並べて置いた。その時、私が思い当たったのは、さては、それが厳島での大勝利の前兆であろうということで、いざ私が渡ろうとする時にこのようなことがあったのだと信じ、なんと有難い厳島大明神のご加護であろうと、心中大いに安堵することができた。それ故、皆々も厳島神社を信仰することが肝心であって、私としてもこの上なく希望するところである。

第十四条
これまでしきりにいっておきたいと思っていたことを、この際ことごとく申し述べた。もはや、これ以上何もお話しすることはない。ついでとはいえ言いたいことを全部言ってしまって、本望この上もなく大慶の至りである。めでたいめでたい。

(「バーチャル歌合」(「三好長慶」対「毛利元就」)

歌人(左方十一) 三好長慶
歌題 寒蘆風衣
和歌 なにはがた入江にわたる風さえて あしの枯葉のおとぞさむけき

歌人(右方二九) 毛利元就
歌題 柳 
和歌 あをやぎのいとくり返すそのかみは たが小手巻のはじめ成るらむ

(判詞=宗偽)
 「左方」の歌、「寒蘆風衣」の題を得て、「平明・直叙」の作風は可とするが、「あし(蘆)の枯葉」と「おと(音)のさむけ(寒気)き」に推敲の余地あり。対する、「右方」の句は、歌題の「柳」を「あおやぎ(青柳)」と特定し、続く、「いとくり返すそのかみは」の、その「かみ(「上」と「髪」)」と趣向を凝らし、さらに、「だが(誰か)小手巻(「小手巻き」返しの「技」)と、その連続の「わざ(技)」は見事也。依って、「右方」を「勝」とす。

(毛利元就の一句)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/motonari.html

   躑躅
岩つつじ岩根の水にうつる火の影とみるまで眺めくらしぬ(『春霞集』)

【通釈】岩躑躅が夕日に照り映えて岩根の水に映る火影かと見えるようになるまで、眺め暮らしてしまった。
【語釈】◇岩根 どっしりと大地に根付いた岩。「岩根の水」は岩を巡らした庭池を言うか。◇火の影 水面に映った炎の反映。
【補記】躑躅の赤い花が入日に映えて、燃え上がるような紅へと移りゆく。その変化に見とれるうちに日が暮れてしまったというのである

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

三好長慶二.jpg

三好長慶(狩野蓮長画)

毛利元就二.jpg

毛利元就(狩野蓮長画)
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