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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その六) [三十六歌仙]

その六 永閑と安達冬康

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「六 永閑」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1510

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二四 安達冬康」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1493

(歌合)

歌人(左方六) 永閑
歌題 月前雁
和歌 ききそむる雲井の雁の声よりも おどろかれぬる月のかげかな
歌人概要  室町後期から戦国期の連歌師

歌人(右方二四) 安達(宅)冬康
歌題 暁神楽
和歌 うたふ夜のあか月ふかく声さえて 神代ながらのすずの音かな
歌人概要  戦国期の武将、三好長慶の弟

(歌人周辺)

永閑(えいかん)→ 能登永閑 ?-? 戦国期の連歌師

能登(石川県)の人。宗碩(そうせき)にまなび,京都を中心とした連歌壇で活躍。古典に精通し,天文14年(1545)「源氏物語」の注釈書「万水一露」をあらわした。宗碩の異母弟との説もある。別号に宗閑。(出典・講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて)

安達(宅)冬康(あたぎ ふゆやす)享禄元年(1528年)?~永禄7年(1564)

戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好元長の三男。安宅氏へ養子に入り淡路水軍を統率し、三好政権を支えたが、兄・三好長慶によって殺害された。経緯・理由については様々な見解があり不明な部分が多い。
冬康は和歌に優れ『安宅冬康句集』『冬康長慶宗養三吟何人百韻』『冬康独吟何路百韻』『冬康賦何船連歌百韻付考証』など、数々の歌集を残し、「歌道の達者」の異名を持った。中でも代表的な歌は、「古を 記せる文の 後もうし さらずばくだる 世ともしらじを」である。この歌には冬康の温和な性格がよく現れている。歌の師は里村紹巴、宗養、長慶である。なお、細川幽斎は著書『耳底記』の中で、安宅冬康の歌を「ぐつとあちらへつきとほすやうな歌」と評している。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

(永閑の『万水一露』)

連歌師月村斎宗碩の門人である連歌師能登永閑の作とされる。『山下水』や『岷江入楚』などの室町時代後期の多くの注釈書と同様に、諸註集成の性格を強く持った注釈書であり、『河海抄』や『花鳥余情』『細流抄』『弄花抄』の4書を「『源氏物語』を理解するための必須の注釈書であり、これらはどれが欠けても不都合である」としてこの4書の肝要な部分の省略することなく一書にまとめたのが本書であるとする。なお、本書では先行する諸注釈書に記されている説の他に、「碩」として永閑の師月村斎宗碩の説や「閑」として永閑自身の説を多く引いており、連歌師の源氏学の集大成としての性格を持っている。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

(冬康の人物像・多芸を極める男)

https://sengoku-his.com/226

和歌や書に巧みであった冬康は、連歌句集「安宅冬康句集」を編纂するほどであった。他にも「冬康長慶宗養三吟何人百韻」や「冬康独吟何路百韻」、「冬康賦何船連歌百韻付考証」といった、彼の名を冠した歌集をいくつか発表している。
温厚で心穏やかな性格であった冬康は、復讐心に駆られて恩人や敵対人物を次々と殺戮していた長慶を、たびたび諌めていた。現在でも記録に残っているのは鈴虫を贈った時の言であり、「夏虫でもよく飼えば冬まで生きる。まして人間はなおさらである」と言ったという。武勲をおさめる優秀な武人であったにも関わらず、平素は無益な殺生を好まない人物であった。南海道の戦国期をまとめた書「南海治乱記」においても、冬康は優秀な将として評されているほどである。

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安宅冬康像(国立国会図書館蔵)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287625

 これは冬康の肖像画である。冬康は、永禄七年(一五六四)に「兄の三好長慶の居城・飯盛山城に呼び出されて自害させられた」とも伝えられている。時に、三十七歳とも三十九歳ともいわれている。
 冬康の歌の師は「里村紹巴、宗養、兄の長慶」とされ、細川幽斎は、三好長慶と、その弟の安宅冬康を高く評価していたことが、松永貞徳の『戴恩記』などに記されている。
 この『集外三十六歌仙図画帖(抱一筆)』には、「三好長慶(左方一一)・宗養(左方一二)・里村紹巴(右方二五)・宗牧(右方二六)・細川幽斎(右方二七)・里村昌叱(右方三四)・松永貞徳(右方三六)」と、今回の「永閑と冬康」とに深く関わってくる武将と連歌師の面々が登場して来るので、それらの人物像を紹介するときに、その都度触れて行くことにする。
 ここでは、先に「常縁(左方一)と宗祇(右方一九)」で触れた「古今伝授」の、その「伝授系図」が、『三鳥三木三草秘伝之書』で、次のように記されている(『戦国武将と連歌師(綿貫豊昭著)』)ことに触れたい。

(『古今伝授』系図)

常縁(左方一)→宗祇(右方一九)→宗長(左方四)→※永閑(左方六)→宗牧(右方二六)→宗養(左方一二)→昌叱(右方三四)→細川幽斎(右方二七)

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(『戦国武将と連歌師(綿貫豊昭著)』)

 この「伝授系図」で、「※永閑」は「久我諸太夫能登守」とあり、公家の「久我家」に仕え、先の『源氏物語』の注釈書『『万水一露』などに携わり、連歌師として『源氏物語』や古典の講釈などに携わっていたのであろうか。
 そして、その「伝授系図」に出てくる「宗牧・宗養(親子)」や「里村紹叱」、そして、紹叱の義父の「里村紹巴」や「細川幽斎」は、「三好長慶・安宅冬康(三好兄弟)」と、同じ連歌ネットワークで結ばれており、冬康の連歌は「永閑・紹巴」の流れに位置するように思われる。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

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永閑(狩野蓮長画)

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安達(安宅)冬康(狩野蓮長画)
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