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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その五) [三十六歌仙]

その五 宗碩と蜷川親当

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「五 宗碩」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1509

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二三 蜷川親当」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1492

(歌合)

歌人(左方五) 宗碩
歌題 寄舟恋
和歌 こがれ行くふねながしたるおもひして よらむ方なき君ぞつれなき
歌人概要  戦国期の連歌師

歌人(右方二三)蜷川親当(智蘊)
歌題 暁神楽
和歌 くれてこそ人すむ庵もしられけれ かた山かげのまどのともし火
歌人概要  室町中期の武士・連歌師

(歌人周辺)

宗碩(そうせき) 1474‐1533(文明6‐天文2)

室町後期の連歌師。別号は月村斎(げつそんさい)。出生は尾張ともいうが不詳。宗祇(そうぎ)に師事,1502年(文亀2)宗祇没後,宗祇の種玉庵に住み,宗長(そうちよう)とともに連歌界を指導。三条西実隆,細川高国ら公家や幕府の武将と交わり,たびたび北陸や中国,九州を旅し,種子島まで渡った。長門国で客死。連歌作品に《月村斎千句》《住吉千句》,高国辞世の《懐旧百韻》,紀行に《さののわたり》などがある。【鶴崎 裕雄稿】(出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について)

蜷川親当(になかわちかまさ) ?-1448(文安5) 

室町時代の幕府官僚,連歌師。蜷川親俊(ちかとし)の子。政所(まんどころ)公役,京都沙汰人(さたにん)をつとめる。和歌を清巌正徹(せいがん-しょうてつ)にまなぶ。連歌七賢の一人にかぞえられ,句は「竹林抄」「新撰菟玖波(つくば)集」にある。文安5年5月12日死去。名は親当(ちかまさ)。通称は新右衛門。義教死後出家して智蘊(ちうん)と号した。

(親当《智蘊》と宗碩)

 親当は、足利将軍(足利義教:第六代)の側近で、丹波園部の蜷川城の主である。義教死後出家して智蘊(ちうん)と号し、宗祇の『竹林抄』で「連歌中興七賢人」の一人として、その名を止めている武将上がりの連歌師である。
 一方の、宗碩は、師の宗祇の師筋にあたる宗砌らと同じ「七賢人」の智蘊とは、一時代後の戦国時代の連歌一筋の連歌師ということで、「智蘊と宗碩」との直接的な接点は見出せない。
 強いて挙げると、智蘊の嫡子・蜷川親元が一休禅師の大徳寺の檀徒で、その『親元日記』には、智蘊と一休禅師とのことが記されており、「宗祇→宗長→宗碩(宗祇一門)」の宗長は一休禅師の法弟子で、大徳寺・一休禅師との接点は見出されるのかも知れない。
 連歌を大成した二条良基から七賢人の時代史的な背景は「(参考)二条良基から七賢へ」のとおりである。この良基の編んだ最初の準勅撰連歌集『菟玖波集』の、この題名から、「連歌・俳諧(連句)=筑波の道」が定着し、「和歌・短歌=敷島の道」に代わって、連歌の時代へと変遷して行く。 
 この『菟玖波集』の上位入集者五名はすべて現存者であって、この集を成立に功のあった面々、救済(一二七句)・二品法親王尊胤(九〇句)・良基(八㈦句)・導誉(八一句)・足利尊氏(六八句)である。
 この五名のうち、二品法親王尊胤と良基は公家(堂上連歌)であるが、救済は僧侶、佐々木導誉と足利尊氏は武士(地下連歌)で、この『菟玖波集』において、「堂上連歌」と「地下連歌」の流れが一つとなって行く。
 そして、次の時代が、大内政弘の発願により、宗祇を中心として、猪苗代兼載・宗長・肖柏らの協力により撰集された『新撰菟玖波集』で、明応四年(一四九五)に成立した。
 この『新撰菟玖波集』には、宗祇の『竹林抄』で「連歌中興七賢人」と称えられた「宗砌・智蘊・心敬・専順・行助・能阿・宗伊(賢盛)」の面々(武士・僧侶など)が名を連ねている。

(参考) 

https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/tenjikai/2000/zuroku/p9.html

【 二条良基から七賢へ    

 一四世紀後半、二条良基や救済の働きにより連歌は飛躍的な展開を遂げた。良基は摂政・関白を歴任した高貴の身でありながら、当時幽玄な作風をよくした地下の連歌師救済を師と仰ぎ、順覚・信照・周阿ら連歌師と交流した。
こうして、宮廷・貴族の間で行われた堂上連歌と、毘沙門堂や法勝寺などの寺社の花の下で、堂上以上の隆盛を見せていた地下連歌の流れがひとつになった。良基は、初の准勅撰の連歌撰集『菟玖波集』を撰進し、連歌に和歌と同等の地位を与えようとした。また、乱れていた連歌の式目を整備して「応安新式」を制定、さらに『筑波問答』『十問最秘抄』など多くの連歌書を著した。良基の時代に確立された式目や理論は、その後も根本的には変わることなく受け継がれることになる。
 しかし、その後一世紀の間に、連歌は良基の理想とは別の方向に進み、『菟玖波集』でさえ埋もれた存在になってしまったという。
永享年間(一四二九~一四四〇)になって、連歌を再興したのは、冷泉派の歌人正徹に学んだ宗砌、智蘊、心敬らである。この三人に、専順、行助、能阿、宗伊を加えた七人は、宗祇によっての『竹林抄』に作品を収められ、七賢と呼ばれている。   】

(連歌七賢『竹林抄(宗祇編)』)

宗砌(そうぜい) → 高山民部少輔時重   → 武士
智蘊(ちうん)  → 蜷川親右衛門親当   → 武士
宗伊(そうい)  → 杉原伊賀頭賢盛    → 武士
心敬(しんけい) → 十住院権大僧都    → 僧侶
専順(せんじゅん)→ 六角堂(頂法寺)法師 → 僧侶(華道池の坊開祖)
行助(ぎょうじょ)→ 延暦寺法印      → 僧侶 
能阿(のうあ)  → 将軍義政同朋(文化顧問)→僧侶 


(『新撰菟玖波集』周辺) 

https://koten.sk46.com/sakuhin/shintsukuba.html

準勅撰連歌撰集。二十巻。宗祇ら撰。明応四年(1495)成立。
『菟玖波集』を継承し、永享元年(1429)以後六十年間の作品から約2000句を撰集。心敬
・宗砌・宗祇・兼載らの作品が中心。勅撰和歌集の部立を踏襲しているのは『菟玖波集』と同様だが、俳諧の部が除かれている。新菟玖波集。

日かげほのめく雨のあさかぜ
山はけふ雲ゐにかすむ雪きえて(巻一・春上・宗砌法師)

旅だちし故郷人をまつくれに
山路は雲のかへるをぞみる(巻十一・旅上・宗砌法師)

むかへば月ぞこゝろをもしる
西をのみねがふいほりの夜半のあき(巻十八・釋教・宗砌法師)

かすみこめたる木々のむらだち
みぬはなのにほひにむかふ山こえて(巻一・春上・智蘊法師)

庭にいりたつ木がらしの風
さむき日は野べの小鳥も人なれて(巻六・冬・智蘊法師)

一聲をたのむ思ひのたまさかに
残るほたるやかりをまつらむ(巻四・秋上・法印行助)

わが心こそうはのそらなれ
それとなくみしをおもひの始にて(巻八・戀上・法印行助)

夏くればふかき清水を又汲みて
岩ふみならしこもるやまでら(巻十八・釋教・能阿法師)

又よといひし暮ぞはかなき
ちるうちに人のさきだつ花をみて(巻七・哀傷・権大僧都心敬)

身ををしまぬもたゞ人のため
国やすくなるはいくさのちからにて(巻七・賀・法眼専順)

老のあはれを月もとへかし
風つらきひばらの山の秋の庵(巻十三・雑一・宗伊法師)

雲なき月のあかつきの空
さ夜枕しぐれも風も夢さめて(巻六・冬・宗祇法師)

なみだの水に身をやしづめむ
さのみかくなげくもいかゞ苔のした(巻七・哀傷・法橋兼載)

むつまじきまでなれる袖の香
いづくともしらぬにひきしあやめ草(巻三・夏・肖柏法師)

夏の夜はたゞ時のまのほどなれや
なけば雲ひくやまほとゝぎす(巻三・夏・宗長法師)


(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.htm

宗碩二.jpg

月村斎宗碩(狩野蓮長 画)

親当二.jpg

蜷川親当(狩野蓮長 画)
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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その四) [三十六歌仙]

その四 宗長と肖柏

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「四 柴屋宗長」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1508

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二二 肖柏」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1491

(歌合)

歌人(左方四) 柴屋宗長
歌題 春祝言
和歌 青柳のなびくを人のこゝろにて みちある御代のはるぞのどけき
歌人概要  室町中期~戦国期の連歌師

歌人(右方二二) 肖柏
歌題 月前述懐
和歌 おもふらし桜かざししみや人の かつらををらぬ月のうらみは
歌人概要  室町中期~戦国期の歌人・連歌師(公家出身)

(歌人周辺)

宗長(そうちょう) 生年:文安5(1448) 没年:天文1.3.6(1532.4.11)

室町時代の連歌師。初名,宗歓,号,柴屋軒。駿河国(静岡県)島田の鍛冶,五条義助の子。若くから守護今川義忠に仕えたが,文明8(1476)年義忠戦没後離郷。京都に出て一休宗純に参禅,また飯尾宗祇に連歌を学んだ。宗祇の越後や筑紫への旅行に随伴し,『水無瀬三吟』『湯山三吟』をはじめ多くの連歌に加わった。明応5(1496)年49歳のころ駿河に帰り,今川氏親の庇護を受けるようになり,以後今川氏のために連歌や古典を指導,ときには講和の使者に立つなど政治的な面にも関与した。駿河帰住後も京駿間を中心に頻繁に旅を重ねたが,その見聞を記した『宗長手記』は,戦乱の世相,地方武士の動静,また自身の俳諧や小歌に興じる洒脱な生活などが活写されており興味深い。ほかに句集『壁草』『那智籠』,連歌論に『永文』『三河下り』などがある。(沢井耐三稿・出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について)

肖柏(しょうはく) 生年:嘉吉3(1443)  没年:大永7.4.4(1527.5.4)

室町時代の連歌師。号は夢庵,弄花老人。初めは肖柏と名乗るが,永正7(1510)年に牡丹花(読みは「ぼたんげ」とも)と改名。中院通淳 の子であったが若くして遁世し,摂津国池田に庵を結び,晩年は堺に住んだ。連歌を飯尾宗祇に学び,宗祇やその弟子宗長 と共に『水無瀬三吟百韻』『湯山三吟百韻』などのすぐれた連歌作品を残した。また宗祇,猪苗代兼載の『新撰菟玖波集』選集作業を助け,『連歌新式』を改訂増補するなどその学識で連歌界に重きをなし,古今伝授(『古今和歌集』の和歌の解釈などの学説を授けること)を堺の人々に伝えてもいる。花と香と酒を愛し(『三愛記』),風流華麗な生活をし,句風もまた艶麗であった。
(伊藤伸江稿・出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について)

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

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柴屋宗長(狩野蓮長 画)

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牡丹花肖柏(狩野蓮長 画)

(参考) 水無瀬三吟 → 『日本詩人選一六 宗祇(小西甚一著)』など

水無瀬三吟何人百韻
   長享二年(一四八八)正月二十二日

〔初折りの表〕(初表=八句)         (式目=句材分析など)
一  雪ながら山もと霞む夕べかな    宗祇  春・降物・山類(体)
二    行く水遠く梅匂う里      肖柏  春・水辺(用)・木・居所(体)
三  川風にひとむら柳春見えて     宗長  春・水辺(体)・木
四    船さす音もしるき明け方    宗祇  雑・水辺(体用外)・夜分
五  月やなほ霧渡る夜に残るらん    肖柏  秋・光物・夜分・聳物
六    霜置く野原秋は暮れけり    宗長  秋・降物
七  鳴く虫の心ともなく草枯れて    宗祇  秋・虫・草
八    垣根をとへばあらはなる道   肖柏  雑・居所(体)
〔初折りの裏〕(初裏=十四句)
九  山深き里や嵐におくるらん     宗長  雑・山類(体)・居所(体) 
一〇   馴れぬ住まひぞ寂しさも憂き  宗祇  雑
一一 いまさらに一人ある身を思ふなよ  肖柏  雑・人倫・述懐
一二   移ろはむとはかねて知らずや  宗長  雑・述懐
一三 置きわぶる露こそ花にあはれなれ  宗祇  春・降物・植物・無常
一四   まだ残る日のうち霞むかげ   肖柏  春・光物
一五 暮れぬとや鳴きつつ鳥の帰るらん  宗長  春・鳥
一六   深山を行けばわく空もなし   宗祇  雑・山類(体)・旅
一七 晴るる間も袖は時雨の旅衣     肖柏  冬・降物・衣類・旅
一八   わが草枕月ややつさむ     宗長  秋・光物・夜分・旅
一九 いたずらに明かす夜多く秋更けて  宗祇  秋・夜分・恋
二〇   夢に恨むる荻の上風      肖柏  秋・夜分・草・恋 
二一 見しはみな故郷人の跡もなし    宗長  雑・人倫 
二二   老いの行方よ何に掛からむ   宗祇  雑・述懐
〔二の折りの表〕(二表=十四句)
二三 色もなき言の葉にだにあはれ知れ  肖柏  雑・述懐
二四   それも伴なる夕暮れの空    宗祇  雑
二五 雲にけふ花散り果つる嶺こえて   宗長  春・聳物・山類(体)
二六   きけばいまはの春のかりがね  肖柏  春・鳥
二七 おぼろげの月かは人も待てしばし  宗祇  春・光物・夜分・人倫
二八   かりねの露の秋のあけぼの   宗長  秋・降物・夜分
二九 末野のなる里ははるかに霧たちて  肖柏  秋・居所(体)・聳物
三〇   吹きくる風はころもうつこゑ  宗祇  秋・衣類
三一 冱ゆる日も身は袖うすき暮ごとに  宗長  秋・人倫・衣類
三二   頼むもはかなつま木とる山   肖柏  雑・山類(体)・述懐
三三 さりともの此世のみちは尽き果てて 宗祇  雑・述懐
三四   心細しやいづち行かまし    宗長  雑
三五 命のみ待つことにするきぬぎぬに  肖柏  雑・夜分・恋
三六   猶なになれや人の恋しき    宗祇  雑・人倫・恋
〔二の折りの裏〕(二裏=十四句)
三七 君を置きてあかずも誰を思ふらむ  宗長  雑・人倫・恋
三八   その俤に似たるだになし    肖柏  雑・恋
三九 草木さへふるき都の恨みにて    宗祇  雑・植物・述懐
四〇   身の憂きやども名残こそあれ  宗長  雑・人倫・居所(体)・述懐
四一 たらちねの遠からぬ跡に慰めよ   肖柏  雑・人倫・述懐
四二   月日の末や夢にめぐらむ    宗祇  雑
四三 この岸をもろこし舟の限りにて   宗長  雑・水辺(体)・旅
四四   又むまれこぬ法を聞かばや   肖柏  雑・釈教
四五 逢ふまでと思ひの露の消えかへり  宗祇  秋・降物
四六   身をあき風も人だのめなり   宗長  秋・人倫・恋
四七 松虫のなく音かひなき蓬生に    肖柏  秋・虫・草・恋
四八   しめゆふ山は月のみぞ住む   宗祇  秋・山類(体)・光物・夜分
四九 鐘に我ただあらましの寝覚めして  宗長  雑・夜分・述懐
五〇   戴きけりな夜な夜なの霜    肖柏  冬・夜分・降物・述懐
〔三の折りの表〕(三表=十四句)
五一 冬枯れの芦たづわびて立てる江に  宗祇  冬・鳥・水辺(体)
五ニ   夕汐かぜの沖つふ舟人     肖柏  雑・水辺(体)・人倫
五三 行方なき霞やいづく果てならむ   宗長  春・聳物 
五四   来るかた見えぬ山里の春    宗祇  春・山類(体)・居所(体)
五五 茂みよりたえだえ残る花落ちて   肖柏  春・植物
五六   木の下わくる路の露けさ    宗長  秋・木
五七 秋はなど漏らぬ岩屋も時雨るらん  宗祇   秋
五八   苔の袂に月は馴れけり     肖柏  秋・光物・夜分・衣類・釈教
五九 心ある限りぞしるき世捨人     宗長  雑・人倫・釈教
六〇   をさまる浪に舟いづる見ゆ   宗祇   雑・水辺(用)・旅
六一 朝なぎの空に跡なき夜の雲     肖柏 雑・聳物
六二   雪にさやけきよもの遠山    宗長  冬・降物・山類(体)
六三 嶺の庵木の葉の後も住みあかで   宗祇  冬・山類(体)・居所(体)・木 
六四   寂しさならふ松風の声     肖柏  雑・木
〔三の折りの裏〕(三表=十四句)        
六五 誰かこの暁起きを重ねまし     宗長  雑・人倫・夜分・釈教
六六   月は知るやの旅ぞ悲しき    宗祇  秋・光物・夜分・旅
六七 露深み霜さへしほる秋の袖     肖柏  秋・降物・衣類
六八   うす花薄散らまくもをし    宗長  秋・草
六九 鶉なくかた山くれて寒き日に    宗祇  秋・鳥・山類(体)
七〇   野となる里もわびつつぞ住む  肖柏  雑・居所(体)・述懐
七一 帰り来ば待ちし思ひを人や見ん   宗長  雑・人倫・恋
七二   疎きも誰が心なるべき     宗祇  雑・人倫・恋
七三 昔より唯あやにくの恋の道     肖柏  雑・恋
七四   忘れがたき世さへ恨めし    宗長  雑・恋
七五 山がつになど春秋の知らるらん   宗祇  雑・人倫
七六   植ゑぬ草葉のしげき柴の戸   肖柏  雑・草・居所(体)
七七 かたはらに垣ほの荒田かへし捨て  宗長  春・居所(体)
七八   行く人霞む雨の暮れ方     宗祇  春・人倫・降物
〔名残りの表〕(名表=十四句)
七九 宿りせむ野を鴬やいとふらむ    宗長  春・鳥
八〇   小夜もしづかに桜さく蔭    肖柏  春・夜分・鳥
八一 灯火をそむくる花に明けそめて   宗祇  春・夜分・植物
八二   誰が手枕に夢は見えけん    宗長  春・人倫・恋
八三 契りはや思ひ絶えつつ年も経ぬ   肖柏  雑・恋
八四   いまはのよはひ山も尋ねじ   宗祇  雑・山類(体)・述懐
八五 隠す身を人は亡きにもなしつらん  宗長  雑・人倫・述懐
八六   さても憂き世に掛かる玉のを  肖柏  雑・述懐
八七 松の葉をただ朝夕のけぶりにて   宗祇  雑・木・聳物
八八   浦わの里はいかに住むらん   宗長  雑・水辺(体)・居所(体)
八九 秋風の荒磯まくら臥しわびぬ    肖柏  秋・水辺(体)・旅
九〇   雁なく山の月ふ更くる空    宗祇  秋・鳥・山類(体)・光物・夜分
九一 小萩原うつろふ露も明日や見む   宗長  秋・草・降物
九二   阿太の大野を心なる人     肖柏  雑・人倫
〔名残りの裏〕(名裏=八句)
九三 忘るなよ限りや変る夢うつつ    宗祇  雑・述懐
九四   思へばいつを古にせむ     宗長  雑・述懐
九五 仏たち隠れては又いづる世に    肖柏  雑・釈教
九六   枯れし林も春風ぞ吹く     宗祇  春・植物・釈教
九七 山はけさ幾霜夜にか霞むらん    宗長  春・山類・降物
九八   けぶりのどかに見ゆる仮庵   肖柏  春・聳物・居所(体)
九九 卑しきも身をを修むるは有つべし  宗祇  雑・人倫
一〇〇  人をおしなべ道ぞ正しき    宗長  雑・人倫

(補注)

一 宗祇=三十四句、時に六十八歳。肖柏=四十六歳。宗長=三十三句、時に四十一歳。 

二 宗祇の発句「雪ながら山もと霞む夕べかな」は、後鳥羽院の「見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ」(『新古今集』春上)を踏まえている(後鳥羽院二五〇回忌に詠まれた後鳥羽院の鎮魂の奉納連歌とも解せられている)。

三 「連歌式目」(「式目・句材分析)の要点など

句数=続けてもよい句の数、または続けなければいけない句の数。→連続の制限
去嫌=同じ季や類似の事柄が重ならないように一定の間隔を設けた句の数。→間隔の制限

句材の分類(句材と去嫌・句数など)

(一) 季(春・夏・秋・冬)
春秋    同季五句去り、句数三句から五句まで。
夏冬    同季二句去り、句数一句から三句まで。

(二の一)事物一(句意全体に関わりのあるもの) 

恋(妹背など) 三句去り、句数二句から五句まで。
旅(草枕など) 二句去り、句数一句から三句まで。
神祇(斎垣など)・釈教(寺など) 二句去り、句数一句から三句まで。
述懐(昔など)・無常(鳥辺野など)三句去り、句数一句から三句まで。

(二の二)事物二(句意全体には関わりを持たないもの)

山類(峯など)・水辺(海など) 三句去り、句数一句から三句まで。
居所(里・庵など) 三句去り、句数一句から三句まで。異居所は打越を嫌わない。
降物(雨など)・聳物(雲など) 二句去り、句数一句から二句まで。
人倫(誰など) 原則二句去り、句数は自由。打越を嫌わない。
光物(日など)・夜分(暁など) 二句去り、句数一句から三句まで。打越を嫌わない。
植物(木類・草類) 二句去り、句数一句から二句まで。木と草は打越を嫌わない。
動物(虫・鳥など)二句去り、句数一句から二句まで。異生類は打越を嫌わない。    
衣類(衣・袖など)二句去り、句数一句から二句まで。
国名・名所(音羽山など) 二句去り、句数一句から二句まで。
※「山類・水辺・居所」については、「体」(固定的なもの=峯など)と「用」(可動的なもの=滝など)と「体用の外(例外規定=富士・浅間など)の特殊な区分がある。
※※連歌(百韻)では、各折りに「花」の句、表(面)には「月」の句を詠み、「四花八月」の決まりがある。
※※※連歌の「可隔何句物(なんくをへだつべきもの)」は、上記の「去嫌(さりきらい)」と同じ意である。

(三)一座何句物(何回以上用いてはいけないもの) → 重複の制限

一座一句物 「鶯」「鈴虫」「龍」「鬼」など「月・花(定座)」に匹敵する句材
一座二句物 「旅」「命」「老」「雁」「鶴」など「一句物」に次ぐ句材
一座三句物 「桜」「藤」「紅葉」「鹿」「都」などの「二句物」に次ぐ句材
一座四句物 「空」「天」「在明」「雪」「氷」などの「三句物」に次ぐ句材
一座五句物 「世」「梅」「橋」などの「四句物」に次ぐ句材
『源氏物語』を本説とする句は「一座三句物」と同じ。
「感動の助詞」の「かな」は、「発句」の「かな」だけ。

(その他)

(一)「たとへば歌仙は三十六歩也。一歩も後に帰る心なし」(三冊子)→俳諧はすべて前に進む事をもって一巻を成就する。同じ場所や状況に停滞したり、後へ戻ったりすることは許されない。ために類似した詞や縁の深い物が続いたり、近づいたりすることを嫌う。それを避けるために生まれたのが句数と去嫌である。

(二)「差合の事は時宜にもよるべし。まづは大かたにして宜し」(三冊子)→蕉門では外的な形式よりも、内的な余情や匂いを重んじる故に、式目上の句数や去嫌については、季、花、月を除いては余りこだわってはいない。     

四 上記のことを念頭において、この「水無瀬三吟」の百句をじっくりと見ていくと、まさしく、この「水無瀬三吟」は、「連歌」「俳諧(連句)」の、最も枢要なことを教示してくれる聖典(バイブル)のような思いがしてくる。

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その三) [三十六歌仙]

その三 浄通尼と桜井基佐

浄通尼.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三 浄通尼」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1507
歌人(左方三) 浄通尼
歌題 山月入簾
和歌 秋の夜のつゆの玉だれひまをあらみ もりくるものは山の端の月
歌人概要  足利義晴母

基佐桜井.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二一 桜井基佐」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1490
歌人(右方二一) 桜井基佐
歌題 萩聲驚夢
和歌 さびしさの種をぞうゑし宵々に ゆめおどろかす庭の荻原
歌人概要  室町中期の歌人・連歌師

(画帖周辺その三)→ 『酒井抱一と江戸琳派の全容(求龍堂)』所収「酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳華帖』について(岡野智子稿)」

【 添書   
雨花庵抱一誌 「文詮」(朱文瓢印)
此集外三十六歌仙は、後水尾の天皇のおり居させ給ひし/時の御すさミにして/東福門院の御屏風の色帋にさせ玉へかし/なりとて武人各座にをさめしを写置ものなるへし  】 

 この抱一自身の「添書」に記載されている「後水尾天皇」と「東福門院」との、この二人のうち、この「東福門院」が、この「集外三十六歌仙」の編纂関連には大きく関わっているように思われる。

【 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)
[生]慶長1(1596).6.4. 京都
[没]延宝8(1680).8.19. 京都
第 108代の天皇 (在位 1611~29) 。名は政仁 (ことひと) ,幼称は三宮,法名は円浄という。後陽成天皇の第3皇子。母は中和門院藤原前子 (太政大臣近衛前久の娘) 。慶長 16 (11) 年受禅,即位した。元和6 (20) 年将軍徳川秀忠の娘和子を女御とし,寛永1 (24) 年皇后宣下,中宮とした。しかし朝廷に対する幕府の圧迫が激しいため,同6年中宮和子所生のわずか7歳の興子内親王 (明正天皇) に譲位し,以後明正,後光明,後西,霊元天皇の4代にわたって院政を行なった。慶安4 (51) 年剃髪。学問を好み,詩歌にすぐれ,歌集『後水尾院御集』 (原名『鴎巣集』) がある。修学院離宮は天皇の造営にかかるものとして有名である。陵墓は京都市東山区今熊野泉山町の月輪陵。 】

https://kotobank.jp/word/後水尾天皇-66160

【 東福門院(とうふくもんいん)
[生]慶長12(1607).10.4. 江戸
[没]延宝6(1678).6.15. 京都
後水尾天皇の中宮和子。父は徳川秀忠,母は浅井長政の娘徳子。徳川氏は『禁中並公家諸法度』を公布して朝廷を押える一方,婚姻政策で朝廷を懐柔しようとした。元和6 (1620) 年和子は 14歳で女御となり,寛永1 (24) 年皇后に冊立されて明正天皇をはじめ,2皇子,5皇女を産んだ。同6年院号宣下,後光明,後西,霊元の3天皇の養母となった。陵墓は京都市東山区今熊野の月輪陵。 】

https://kotobank.jp/word/東福門院-104089

(歌人周辺その二)→ 「集外三十六歌仙( 続々群書類従本による)」

浄通尼 → 室町幕府十二代将軍足利義晴の母
桜井基佐(さくらいもとすけ) 生没年未詳 通称:中務丞・弥次郎・弥三郎 法号:永仙

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/motosuke_s.html

生国は摂津・越中・下総など諸説ある。康正三年(1457)九月七日の「武家歌合」に正徹・心敬らと共に出席しており、正徹一門の歌人であったと見られる。主に連歌師として活動し、初め心敬の、のち宗祇の門に入ったかと言う。文明~明応頃、宗祇らと共に連歌会に出座。晩年は山城に住した。永正六年(1509)十二月の連歌会が判明する最終事蹟。家集『基佐集』、句集『基佐句集』がある。

(基佐の一句)

  萩聲驚夢
さびしさの種をぞうゑし宵々に ゆめおどろかす庭の荻原(集外三十六歌仙)

【通釈】秋風に蕭条と葉音を立てる荻叢に、夜ごと夢を破られる。庭に植えたのは外ならぬ寂しさの種だったのだ。
【補記】「荻原」は荻の茂みを指す歌語。「原」すなわち「広い平らな地」の意は無い。

(歌人周辺メモ)

 浄通尼と桜井基佐との接点は不明であるが、共に、当時の地下歌人として名を馳せていた二人と解したい。ちなみに、この「集外三十六歌仙」は、次のように分類することも出来るのかも知れない。
【連歌師=十五人】心敬・宗祇・宗長・宗牧・宗養・宗碩・肖柏・兼載・兼与・小幡永閑・里村紹巴・昌叱・玄陳・心前・松永貞徳
【武将=十四人】東常縁・大田道灌・三好長慶・安宅冬康・毛利元就・北条氏康・武田信玄・北条氏政・今川氏真・伊達政宗・細川幽斎・木下長嘯子・小堀遠州
【地下歌人=八人】正徹・津守国豊・浄通尼・桜井基佐・蜷川智蘊・正広・尚証・佐川田昌俊

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

浄通尼二.jpg

浄通尼(狩野蓮長 画)

桜井基佐二.jpg

桜井基佐(狩野蓮長 画)

(参考)「東福門院和子の涙」→出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『東福門院和子の涙』は、宮尾登美子による日本の時代小説。『家庭画報』(世界文化社)にて1990年4月号から1993年3月号まで連載され、加筆を経て1993年4月に講談社で刊行された。1996年9月に講談社文庫が刊行(上下に改版、2016年2月)。

(あらすじ)

徳川二代将軍・秀忠の末娘・和子(まさこ)は、武家から朝廷へ嫁いだ初めての女性だった。「幸運の姫君」と称えられる傍らで、彼女は朝廷の冷たい仕打ちに耐え忍び、心から笑った日はなかった。和子が8歳の頃から、16歳で朝廷へ嫁ぎ、72歳で崩御するまで仕え続けた今大路ゆきが語り手となり和子の生涯が語られる。

(登場人物=抜粋=徳川和子と後水尾天皇)

徳川和子(とくがわ まさこ)→東福門院和子(とうふくもんいん まさこ)
本作の主人公。お江与と秀忠の末っ子、第八子。大変な難産の末に産まれた。生来より天真爛漫な気質で、不思議と周りをも明るくしてしまう性格。幼い頃より「朝廷へ嫁ぐ」ことを念頭に育てられ、大御所・家康の死と先帝・後陽成上皇の死が相次いだことや、およつご寮人が既に二子をもうけていたことが問題となり、婚儀は延期されたものの、16歳で京へ。後水尾天皇付きの典侍らにより、寝所への招きを伝えられないなど嫌がらせを受け、入内から2年以上経って初めて寝所を共にした。後水尾天皇が和子より年上の多数の女御たちと床を共にする中、わずか28歳でお褥下がりとなるなど、後水尾天皇を取り巻くほかの女人の存在に悩み続けたが、一切弱音を吐かなかった。一の宮・興子内親王のほか、7人の子をもうけた。

後水尾天皇(ごみずのおてんのう)
後陽成天皇の三の宮。兄2人が仏門へ入れられたため、108代天皇として即位する。乳児の頃、陰陽頭の占いで、歴代の天皇の中でも一際光り輝く星を頭に戴いていると予言された。凛々しい顔立ちに、逞しい骨格の男子。
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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その二) [三十六歌仙]

その二 津守国豊と心敬

津守国豊.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二 津守国豊」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1498
歌人(左方二) 津守国豊
歌題 残花
和歌 よしのやまところせきまでみしひとの 散々(ちりぢり)になるはなのふるさと
歌人概要  住吉大社社人

心敬.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二〇 心敬」(姫路市立美術館蔵)→A図

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1489
歌人(右方二〇) 心敬
歌題 月前述懐
和歌 こしかたも帰るところもしらぬ身を おもへばそらにみする月かな
歌人概要  室町中期の歌人・連歌師

(画帖周辺その二)→ 『酒井抱一と江戸琳派の全容(求龍堂)』所収「酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳華帖』について(岡野智子稿)」

 この画帖の巻末には、抱一自身の「添書」(下記のとおり)が貼付されている。

【 添書   
雨花庵抱一誌 「文詮」(朱文瓢印)
此集外三十六歌仙は、後水尾の天皇のおり居させ給ひし/時の御すさミにして/東福門院の御屏風の色帋にさせ玉へかし/なりとて武人各座にをさめしを写置ものなるへし  】 

 これによると、「後水尾天皇の撰により、東福門院の屏風の色紙に描かれたものを写した」となるが、この「集外三十六歌仙」は、寛政九年(一七九七)、抱一、三十七歳当時に、版本も刊行されており、それらの版本やら写本などを参考にして制作されたのではないかとされている(「岡野稿」)。
 その寛政九年刊の『集外三十六歌仙』が、先(その一)に「参考」で紹介した下記のアドレス(早稲田図書館蔵(雲英文庫))のものである。

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.htm

 これによると、撰者(編集・著者)は「後水尾天皇」、そして、「原画:狩野蓮長 画:緑毛斎栄保典繁 書:芝江釣叟 序:安田貞雄 跋:稲梁軒風斎(寛政8年)」となるが、この「撰者」は、後水尾天皇の第八皇子「後西天皇」が「東福門院」の懇望により「撰」をし、「狩野蓮長」が描いたとする記録(国会図書館蔵『清水千清遺書』所収写本奥書)があり、「後西天皇」説もある(「岡野稿」)。

(歌人周辺その二)→ 「集外三十六歌仙( 続々群書類従本による)」

津守国豊 → 下記のアドレスには国豊に関する記載はない。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ex36k.html#02

心敬(しんけい) 応永十三~文明七(1406-1475) → 下記のアドレスの紹介は次のとおり。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sinkei.html

 紀伊国名草郡田井庄(現在の和歌山県和歌山市)に生まれ、三歳で上洛し、僧となる。はじめ蓮海(連海とも)を名のり、また心恵とも号した。比叡山で修行し、宝徳(1449~1452)頃、権律師の地位にあり、のち権大僧都に至る。
 永享初年頃より和歌を正徹に学ぶ。永享五年(1433)二月、将軍足利義教が開催した「北野社法楽一万句」に参加(名は連海)。以後、京洛の歌会・連歌会に出座し、五十歳頃には心敬を名のって連歌界の中心人物として活躍した。寛正三年(1462)、土一揆等で混乱する京を離れ、故郷の田井庄に下り、翌四年、百首和歌を詠じ、連歌論書『ささめごと』を著わす。のち帰洛し、寛正五年(1464)には洛東の音羽山麓十住心院に住んでいたことが知られる。
 いよいよ戦乱が激しさを増した応仁元年(1467)、伊勢参宮の後、関東の豪商鈴木長敏に招かれ、武蔵国品川に住む。文明三年(1471)夏、相模国大山の麓に隠棲。同六年、太田道灌邸の「武州江戸歌合」では判者を務めた。同七年四月十六日、帰洛の願いを果たせぬまま、大山に没す。七十歳。
 歌集に『権大僧都心敬集』(以下「心敬集」と略)や『心敬僧都十体和歌』(以下「十体和歌」と略)、句集に『心玉集』『吾妻辺云捨』等、論書に『ささめごと』『ひとりごと』『老のくりごと』等がある。門弟に宗祇・兼載・心前ほかがいる。

(歌人周辺メモ)

 津守国豊は、住吉大社の宮司の「津守家」の当主で、津守家の当主は歴代歌人としても名高く、当時の「神官」を代表する歌人と解して差し支えなかろう。
 一方の心敬は、連歌論集の『ささめごと』などで今に夙に知られているが、京都十住心院の住持となり、権大僧都、法印に叙せられた「沙門」代表する歌人と解して、これまた差し支えなかろう。

(心敬の一首)

 河月
月のみぞ形見にうかぶ紀の河や沈みし人の跡のしら浪(心敬集)

【通釈】今では月だけが、亡き人を思い出すよすがとして影を浮かべている、紀の川――その水底に沈んだ人の果敢ない痕跡を示すごとき白波よ。
【補記】寛正四年の百首歌。当時京は土一揆で混乱していたが、心敬の故国紀伊でも守護畠山氏の家督を巡る争乱が続いていた。自註には「此河にしづみ侍る人の数千八百人など申し侍る。そのうちに若とし見なれ侍りし人しづみうせ侍れば、たびたび此川の月を見侍る折、あはれなる事ども思ひいで侍れば」と制作時の心境を明かしている。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sinkei.html#WT

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

津守国豊二.jpg

津守国豊(狩野蓮長 画)

心敬二.jpg

心敬(狩野蓮長 画) → B図

(抱一周辺メモ)

 抱一が描いた心敬(A図)と蓮長が描いた心敬(B図)との顔貌が全然違うのには驚かされる。そして、抱一の心敬(A図)は、文政七年(一八二四)、六十四歳時に、連日日課(三十三幅)の如く描いた「日課観音菩薩像」の顔貌を彷彿とさせる。

日課観音菩薩.jpg

抱一筆「日課観音菩薩像(六月朔日)」(部分図) 一幅 個人蔵
【文政七年五月、抱一は連日、同様の観音像三十三幅を描いており、現在数点が知られる。いずれも上部に「文政七年甲申五月日課三十三幅之一」の朱文重郭長方印があり、墨書きのみで簡潔に観音を描く。落款の下に、「五日」「廿日」「六月朔日」などの日付が記され、鎌倉寿福寺の釈迦像納入品で、北条政子筆と伝える日課観音像に依ると指摘されている。】
(『酒井抱一と江戸琳派の全容(求龍堂)』所収「図版解説一五二(岡野智子稿)」)
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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その一) [三十六歌仙]

その一 平常縁(東常縁)と宗祇

東常縁.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「一 平常縁」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1487
歌人(左方一)平常縁
歌題 嶺炭窯
和歌 たちのぼるけぶりならずば炭がまを そこともいさやみねのしら雪
歌人概要  東常縁(とうのつねより) 室町時代の歌人

宗祇.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「一九 宗祇」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1488
歌人(右方一九)宗祇
歌題 関月
和歌 清見がたまだ明けやらぬ関の戸を 誰がゆるせばか月のこゆらん
歌人概要  室町中期~戦国期の歌人・連歌作者

(画帖周辺その一)→ 『酒井抱一と江戸琳派の全容(求龍堂)』所収「酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳華帖』について(岡野智子稿)」

 抱一の「集外三十六歌仙図画帖」(二帖)は、「集外」(「二十一代集」の集外」)の歌人三十六人の肖像と和歌を描いた歌仙画帖で、もと一帖であったが、現在は改装されて二帖となっている。絹本の縦二十三・七センチ、横二十一・二センチの色紙に、水墨と金泥で三十六歌仙を描く。画面の右側に歌題と歌人名、上部に和歌を抱一が記している。

(画帖周辺メモ)

 この歌仙(三十六歌仙)画帖は、右方(歌人・十八名)と左方(歌人・十八名)とに分かれ、「歌合(うたあわせ)」(和歌の作者が左右に分れて出題された歌題を歌に詠み,これを合せ比べて優劣を競う文学遊戯の一つ)形式となっている。
 この画帖は、右方(一から十八)と左方(十九から三十六)とに分かれ、一枚一枚の抱一筆「集外三十六歌仙」の「肖像画」と「賛(歌題・和歌)」を観賞するには適しているが、この「歌合」の観点からすると難点がある(そこで、上記のとおり左右の相対する歌人を並列することにしている)。

(歌人周辺その一)→ 「集外三十六歌仙( 続々群書類従本による)」

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ex36k.html

東常縁(とうのつねより) 生没年未詳 通称:東野州 法号:素伝

 桓武平氏。下総千葉氏の庶流。美濃国郡上郡篠脇を伝領する。父祖には源実朝以下の鎌倉将軍に仕えた胤行(素暹)をはじめ、勅撰歌人が少なくない。常縁の父は新続古今集に「素明法師」として歌を載せる下野守益之である。子に素純がいる。
 生年は応永八年(1401)、同十四年(1407)説がある。享徳三年(1454)、左近将監となり、従五位下に叙せられる。翌年の康正元年(1455)、下総で千葉氏の内乱が起こると、将軍足利義政に鎮圧を命ぜられて下向、各地を転戦して長く関東に留まった。
 この間、京で勃発した応仁の乱は地方へ波及し、篠脇の所領は守護代斎藤妙椿によって攻め取られてしまう。ところが常縁がこれを嘆いた歌「思ひやる心のかよふみちならで便もしらぬ古郷の空」等に心を動かされた妙椿は領地を常縁に返却したという(『常縁集』)。文明元年(1469)、帰京し、やがて美濃に帰国。同五年までに下野守となる。同十六年(1484)頃に没したと推定されている。
 上洛して宝徳二年(1450)、尭孝門に入り、二条派和歌の正統を継承する一方、異風の正徹にも学んだ。文明三年(1471)三月、伊豆三島の陣中で宗祇に古今集の講釈を行い、古今聞書の証明を授けた(「古今伝授」の初例とされる)。ほかにも新古今集・百人一首・伊勢物語など古典を講釈し、多くの歌書を書写した。歌学書に『東野州聞書』、注釈書に『新古今和歌集聞書』などがある。家集『常縁集』がある。勅撰集への入集はない。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sougi.html

宗祇(そうぎ) 応永二十八~文亀二(1421-1502) 別号:自然斎・種玉庵・見外斎

 出自未詳。姓は飯尾(いのお/いいお)とされ(一説に母の筋)、父は猿楽師であったとの伝がある。生国は紀伊と伝わるが、近年、近江説も提出された。
 前半生の事蹟はほとんど不明。一時京都五山の一つ相国寺で修行し、三十余歳にして連歌の道に進んだらしい。宗砌(そうぜい)・専順・心敬らに師事し、寛正六年(1465)頃から連歌界に頭角を表わす。文明三年(1471)、東常縁より古今聞書の証明を授かる(「古今伝授」の初例とされる)。同四年には奈良で一条兼良の連歌会に参席し、同八年(1476)には足利幕府恒例の連歌初めに参席するなど、連歌師として確乎たる地歩を占めた。
 同年、宗砌・専順・心敬らの句を集めて『竹林抄』を編集する。同十九年(1487)四月、三条西実隆に古今集を伝授する。長享二年(1488)正月二十二日、肖柏・宗長と『水無瀬三吟百韻』を巻く。同年三月には足利義尚の命により北野連歌会所奉行に就く栄誉を得たが、翌年の延徳元年(1489)にはこの任を辞した。明応二年(1493)、兼載と共に准勅撰連歌集『新撰菟玖波集』を撰進、有心連歌を大成した。
 この間、連歌指導・古典講釈のため全国各地を歴遊し、地方への文化普及に果たした役割も注目される。文亀二年(1502)七月三十日、箱根湯本の旅宿で客死。八十二歳。桃園(静岡県裾野市)の定輪寺に葬られた。
 飛鳥井雅親・一条兼良・三条西実隆らと親交。弟子には肖柏・宗長・宗碩・大内政弘ほかがいる。著書には上記のほかに源氏物語研究書『種玉編次抄』、歌学書『古今和歌集両度聞書』『百人一首抄』、連歌学書『老のすさみ』『吾妻問答』、紀行『筑紫道記』などがある。家集には延徳三年(1491)以後の自撰と推測される『宗祇法師集』があり、自撰句集には『萱草(わすれぐさ)』『老葉(わくらば)』『下草』『宇良葉(うらば)』がある。

(歌人周辺メモ)

 東常縁と宗祇とは、宗祇が「文明三年(1471)、東常縁より古今聞書の証明を授かる(「古今伝授」の初例とされる)」、すなわち、師(東常縁)弟(宗祇)間の関係にあり、その観点からの歌合せということになろう。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

常縁二.png

(平常縁)

宗祇二.jpg

(種玉庵宗祇)

(抱一周辺メモ)

抱一筆「三十六歌仙図屏風」(参考「光琳の『三十六歌仙図屏風』など)については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-21

「三十六歌仙」(平安時代の三十六人の和歌の名人)

柿本人麻呂 山部赤人 大伴家持 猿丸大夫 僧正遍昭 在原業平 小野小町 藤原兼輔
紀貫之 凡河内躬恒 紀友則 壬生忠岑 伊勢 藤原興風 藤原敏行 源公忠 源宗于
素性法師 大中臣頼基 坂上是則 源重之 藤原朝忠 藤原敦忠 藤原元真 源信明 
※※斎宮女御 藤原清正 藤原高光 小大君 中務 藤原仲文 清原元輔 大中臣能宣
源順 壬生忠見 平兼盛

「集外三十六歌仙」(「室町時代から江戸初期に至る三十六人の歌人」「短歌一首ずつを選び、左右に配した、歌仙形式の秀歌撰」「地下(じげ)歌人より成り、公家方からは一人も選出されていない」「連歌師と武将歌人が殊に多い」「女性はただ一人、足利将軍義晴の母、浄通尼」)

左方
平常縁 津守国豊 浄通尼 柴屋宗長 月村斎宗碩 永閑 釈正徹 釈正広 耕閑斎兼載 太田持資 三好長慶 宗羪 伊達政宗 兼与 里見玄陳 佐川田昌俊 尚証 木下長嘯子
右方
種玉庵宗祇 心敬 基佐 牡丹花肖柏 蜷川親当 安達冬康 紹巴 宗牧 細川玄旨 心前 毛利元就 北条氏康 武田信玄 北条氏政 今川氏真 昌叱 小堀政一 松永貞徳
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(二十五) [抱一の「綺麗さび」]

その二十五 抱一筆「夕顔に扇図」(挿絵)など

夕顔に扇図.jpg

酒井抱一挿絵『俳諧拾二歌僊行』所収「夕顔に扇図」 → A図

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200015438/images/200015438_00034.jpg

 この抱一の挿絵(「夕顔に扇図」)は、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)所収「酒井抱一略年譜」で、抱一が亡くなる「文政十一年(一八二八)六十八歳」に「三月、『俳諧拾二歌僊行』に挿絵提供(抱一)、十一月、抱一没、築地本願寺に葬られる(等覚院文詮)」に出てくる、抱一の「最後の作品」(「第四章太平の『もののあわれ』「絶筆四句」)で紹介されているものである。
 この挿絵が収載されている『俳諧拾二歌僊行(はいかいじゅうにかせんこう)』については、上記のアドレスで、その全容を閲覧することが出来る。これは、大名茶人として名高い出雲国松江藩第七代藩主松平不昧(ふまい)の世嗣(第八代藩主)松平斉恒(なりつね・俳号=月潭)の七回忌追善の俳書である。
 大名俳人月潭(げったん)が亡くなったのは、文政五年(一八二二)、三十二歳の若さであった。この年、抱一、六十二歳で、抱一と月潭との年齢の開きは、三十歳も抱一が年長なのである。
 抱一の兄・忠以(ただざね、茶号=宗雅、俳号=銀鵞)は、抱一(忠因=ただなお)より六歳年長で、この忠以(宗雅)が、四歳年長の月潭の父・治郷(はるさと、茶号=不昧)と昵懇の間柄で、宗雅の茶道の師に当たり、この「不昧・宗雅」が、当時の代表的な茶人大名ということになる。
 この不昧の弟・桁親(のぶちか、俳号=雪川)は、宗雅より一歳年長だが、抱一は、この雪川と昵懇の間柄で、雪川と杜陵(抱一)は、米翁(べいおう、大和郡山藩隠居、柳沢信鴻=のぶとき)の俳諧ネットワークの有力メンバーなのである。
 さらに、抱一の兄・忠以(宗雅)亡き後を継いだ忠道(ただひろ・播磨姫路藩第三代藩主)の息女が、月潭(出雲国松江藩第八代藩主)の継室となっており、酒井家(宗雅・抱一・忠道)と松平家(不昧・雪川・月潭)とは二重にも三重にも深い関係にある間柄である。
 そして、実に、その月潭が亡くなった文政五年(一八二二)は、抱一の兄・忠以(宗雅)の、三十三回忌に当たるのである。さらに、この月潭の七回忌の追善俳書(上記の『俳諧拾二歌僊行』)に、抱一が、上記の「夕顔と扇面図」の挿絵を載せた(三月)、その文政十一年(一八二八)の十一月に、抱一は、その六十八年の生涯を閉じるのである(『井田・岩波新書』)所収「酒井抱一略年譜」)。
 その意味でも、上記の「夕顔と扇面図」(『俳諧拾二歌僊行』の抱一挿絵)は、「画・俳二道を究めた『酒井抱一』の生涯」の、その最期を燈明する極めて貴重なキィーポイントともいえるものであろう。
 さらに、ここに付記して置きたいことは、「画(絵画)と俳(俳諧)」の両道の世界だけではなく、それを「不昧・宗雅」の「茶道」の世界まで視点を広げると、「利休(侘び茶)→織部(武家茶)→遠州(「綺麗さび茶」)」に連なる「酒井家(宗雅・抱一・忠道・忠実)・松平家(不昧・雪川・月潭)・柳澤家(米翁・保光)の、その徳川譜代大名家の、それぞれの「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)=平和=太平」の一端を形成している、その「綺麗さび」の世界の一端が垣間見えてくる。
 それは、戦乱もなく一見すると「太平」の世であるが、その太平下にあって、それぞれの格式に応じ「家」を安穏を守旧するための壮絶なドラマが展開されており、その陰に陽にの人間模様の「もののあはれ」(『石上私淑言(本居宣長)』の、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」)こそ、抱一の「綺麗さび」の世界の究極に在るもののように思われる。
 抱一の若き日の、太平の世の一つの象徴的な江戸の遊郭街・吉原で「粋人・道楽子弟の三公子」として名を馳せていた頃のことなどについては、下記のアドレスで紹介している。 

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-25

  御供してあらぶる神も御国入(いり)  抱一(『句藻』「春鶯囀」)

 この句には、「九月三日、雲州候月潭君へまかり、「翌(あす)は国に帰(かへる)首途(かどで)なり」として、そぞめきあへりける時」との前書きがある(『井田・岩波新書』「第四章太平の『もののあはれ』」)。
 この句が収載されているのは、文化十四年(一八一七)、抱一、五十七歳の時で、この年は、抱一にとって大きな節目の年であった。その年の二月、『鶯邨画譜』を刊行、五月、巣兆の『曽波可理』に「序」を寄せ、その六月に鈴木蠣潭が亡くなる(二十六歳の夭逝である)。その鈴木家を、其一が継ぎ、また、小鶯女史が剃髪し、妙華尼を称したのも、この頃である。
 そして、その十月に「雨華庵」の額(第四姫路酒井家藩主)を掲げ、これより、抱一の「雨華庵」時代がスタートする。掲出の句は、その一カ月前の作ということになる。
 句意は、「出雲では陰暦十月を神無月(かんなづき)と呼ばず、八百万(やおよろず)の神が蝟集することから神有月(かみありづき)と唱える。神有月近いころ、『あらぶる神』が出雲の藩主月潭の国入りの『御供』をするという一句である」(『井田・岩波新書』「第四章太平の『もののあはれ』」)。
 この年、出雲の藩主月潭は、二十七歳の颯爽としたる姿であったことであろう。そして、それから十一年後の、冒頭の抱一の「夕顔に扇面図」の挿絵が掲載された『俳諧拾二歌僊行』は、その月潭の七回忌の追善俳書の中に於いてなのである。
 とすれば、抱一の、この「夕顔に扇面図」の、この「夕顔」は、『源氏物語』第四条の佳人薄命の代名詞にもなっている「夕顔」に由来し、そこに三十ニ歳の若さで夭逝した出雲の藩主月潭を重ね合わせ、その「太平の『もののあはれ』」の、 そのファクターの一つの「はかなさ」を背景に託したものと解すべきなのであろう。

  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮  藤原定家 

  I looked beyond; / Fiowers are not, / Nor tinted leaves./
On the sea beach / A solitary cottage stands /
In the waving light / Of an autumn eve. (岡倉天心・英訳)

 見渡したが / 花はない、/ 紅葉もない。/
   渚には / 淋しい小舎が一つ立っている、/ 
秋の夕べの / あせゆく光の中に。        (浅野晃・和訳)

 『茶の本 Ter Book of Tea (岡倉天心著 浅野晃訳 千宗室<序と跋>)』 で紹介されている藤原定家の一首(『新古今』)で、千利休の「侘び茶」の基本的な精神(和敬静寂)が込められているとされている。
 それに続いて、小堀遠州の「綺麗さび」の茶の精神を伝えているものとされている、次の一句が紹介されている。

   夕月夜海すこしある木の間かな (宗長作とも宗碩作とも伝えられている)

A cluster of summer trees,/
A bit of the sea,/
A pale evening moon. (岡倉天心・英訳)

  ひとむらの夏木立、
  いささかの海、
  蒼い夕月。 (浅野晃・和訳)

 抱一にも、次の一句がある。

   としせわし鶯動く木の間かな   抱一(『句藻』「春鶯囀」)

 この抱一の句は、先に紹介した月潭の「九月三日、雲州に御国入り」の際の「御供してあらぶる神も御国入(いり)」と同じ年(文化十四=一八一七)の「歳末」の一句である。
 この抱一、五十八歳時の、「雨華庵」時代がスタートした年の歳末吟の一句は、「不昧・宗雅・抱一」の、その茶の世界に通ずる、小堀遠州の「綺麗さび」の世界に通ずる一句と解したい。

(再掲)

扇面夕顔図.jpg

酒井抱一筆「扇面夕顔図」 一幅 四〇・八×五五・〇㎝ 個人蔵 → B図

【現在の箱に「拾弐幅之内」と記されるように、本来は横物ばかりの十二幅対であった。全図が『抱一上人真蹟鏡』に収載されており、本図は六月に当てられている。扇に夕顔を載せた意匠は、「源氏物語」の光源氏が夕顔に出会う場面に由来する。細い線で輪郭を括り精緻だが畏まった描きぶりは、この横物全般に通じる。模写的性質によるためか。「雨花抱一筆」と款し「抱弌」朱方印を押す。 】 (『酒井抱一と江戸琳派の全貌 求龍堂』所収「図版解説一三二(松尾知子稿)」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-05

【 酒井抱一「扇面夕顔図」
『抱一上人真蹟鏡』に縮写される抱一の共箱には、表に「横物十二幅対」とあり、蓋裏に「雨花菴抱一誌」として、「円窓福禄寿」「浪に燕」「雀児 徐崇嗣之図」「色紙 ほととぎす画賛」「競馬」「扇夕顔」「盆をとり 尚信之図」「月夜狐」「伊勢物語 河内通ひ」「時雨のふし 松花堂うつし」「寒牡丹」「雪鷹狩 □の君」の各画題が記されている。『真蹟鏡』ではこれらに十二ケ月を当てて順に全図が写されている。和漢の古典に題材をとった十二幅であったようだ。松花堂写しの富士にはも、「叡麓隠士抱一図」と款記がある。 】(じょうき所収「作品解説一三二(松尾知子稿)」)

 上記の『抱一上人真蹟鏡』の縮図は、次のアドレスで見ることができる。

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko06/bunko06_01266/bunko06_01266_0001/bunko06_01266_0001_p0010.jpg

六月・扇.jpg

『抱一上人真蹟鏡 上下』( 抱一上人 [画]・ 池田孤邨 [編])所収「上・六月」
早稲田大学図書館蔵(坪内逍遥旧蔵) → C図

 この縮図(D図)は、間違いなく、「扇面夕顔図」(B図)を模写したものに違いない。しかし、「夕顔に扇図」(A図)と「扇面夕顔図」(B図)とでは、明らかに図柄が違っている。この「夕顔に扇図」(A図)は、抱一が亡くなる八か月前に刊行された『俳諧拾二歌僊行』に収載されたもので、抱一の絶筆に近いものと解して差し支えなかろう。
 そして、図柄は違っていても、同じ主題の「A図」と「B図」とは、その制作時期は、ほぼ同じ頃のものと解したい。とすると、『抱一上人真蹟鏡 上』に収載されている「横物十二幅対」は、抱一の晩年の作を知る上で貴重な作品群ということになる。
 『酒井抱一と江戸琳派の全貌 求龍堂』の「作品解説一三二(松尾知子稿)」など基にして、そこに若干のメモ(抱一の「綺麗さび」の世界の一翼を担っているものなど)を併記して置きたい。

「横物十二幅対」(一月~十二月)(※※=上記の「B図」 ※=『酒井抱一と江戸琳派の全貌 求龍堂』に収載されているもの)

一月 → 「円窓福禄寿」→ ※抱一筆「寿老図」(個人蔵)→最晩年の作(?) 
二月 →「浪に燕」→光琳筆「波上飛燕図」(『琳派三風月・鳥獣』所収「作品一三一」)
※三月 →「雀児 徐崇嗣之図」(姫路市立美術館蔵)→「徐崇嗣」(宋初の花鳥画家)
四月 →「色紙 ほととぎす画賛」→蕪村筆「岩くらの狂女恋せよほととぎす」自画賛?
五月 →「競馬」→ 狩野昌運筆「競馬図」(?) 
※※六月 →「扇夕顔」(個人蔵)→『源氏物語』第四帖「夕顔」
七月 → 「盆をとり 尚信之図」→ 狩野尚信筆「盆踊り図」 
八月 → 「月夜狐」→ 円山応挙「白狐図」(?) 
九月 → 「伊勢物語 河内通ひ」→光琳筆「伊勢物語図 武蔵野・河内越」(?) 
十月 → 「時雨のふし 松花堂うつし」→ 抱一筆「松花堂昭乗」肖像画(?)
十一月 → 「寒牡丹」 → 宗達筆「牡丹図」(?)
十二月 → 「雪鷹狩 □の君」 → 狩野(清原)雪信筆「王昭君図」(?)

小堀遠州.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三五 小堀政一」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1505

 抱一の『集外三十六歌仙図画帖』の中に、「綺麗さび」の世界を切り拓いた、茶人大名の「小堀遠州(小堀政一)」が収載されている。上記の肖像と歌がそれである。

歌題 河邊寒月
歌  かぜさへてよせくるなみのあともなし 氷る入江の夜の月

 ここに、前掲の「茶の本」(岡倉天心著)の、小堀遠州の愛唱句を再掲して置きたい。

(再掲)

夕月夜海すこしある木の間かな (宗長作又は宗碩作)

A cluster of summer trees,/
A bit of the sea,/
A pale evening moon. (岡倉天心・英訳)

  ひとむらの夏木立、
  いささかの海、
  蒼い夕月。 (浅野晃・和訳)

 そして、岡倉天心の、この句に寄せての感慨(和訳)を、ここに記して置きたい。

【彼(小堀遠州公)の意味するところは、推察するに難くない。彼は、過去の影のような夢のさ中になおまだ徘徊しつつも、やわらかな霊の光の甘美な無意識(無我)のなかに浴しつつ、漂渺たる彼方に横たわる自由にあこがれる—―そういった魂の新しい目ざめの相を、つくり出そうと欲したのである。 】(『茶の本 Ter Book of Tea (岡倉天心著 浅野晃訳 千宗室<序と跋>)』)

 ここに、抱一の「綺麗さび」の一端が集約されている。
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(二十四) [抱一の「綺麗さび」]

その二十四 抱一筆「月に秋草鶉図屏風」など

月に秋草鶉図屏風.jpg

酒井抱一筆「月に秋草鶉図屏風」二曲一隻 紙本金地著色 一四四・七×一四四・〇㎝
落款「抱一畫於鶯邨書屋」 印章「抱弌之印」朱文重郭方印 「文詮」朱文瓢印 重要美術品 山種美術館蔵 → A図

月に秋草図屏風.jpg

酒井抱一筆「月に秋草図屏風」六曲一双 紙本金地著色 一三九・五×三〇九・〇㎝
落款「雨華菴抱一筆」 印章「文詮」朱文円印 「文詮」朱文瓢印 重要文化財
東京国立博物館寄託(ペンタックス株式会社蔵) → B図

兎に秋草図襖.jpg

酒井抱一筆「兎に秋草図襖」板絵著色 各一六二・五×八四・〇㎝ 三井記念美術館蔵 
→ C図

 この「月に秋草鶉図屏風」(A図)は、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)の口絵の冒頭に掲載されているものである。

  野路や空月の中なる女郎花  抱一(『屠龍之技』「第二かぢのおと」)

 この抱一の句は、夏目漱石の「門」の中に出てくる一句である。

【下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描いた上に、真丸な月を銀で出して、其横の空いたところへ、野路や空月の中なる女郎花、其一と題してある。
宗助は膝を突いて銀の色の黒く焦げた辺から、葛の葉の風に裏を返してゐる色の乾いた様から、大福程な大きな丸い朱の輪廓の中に、抱一と行書で書いた落款をつくづくと見て、
父の行きてゐる当時を憶ひ起さずにはゐられなかつた。 】(夏目漱石「門」より)

 これらのことに関して、次のアドレスで、次のように紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/20190108

【上記の「野路や空月の中なる女郎花」は抱一の句で、抱一の高弟・鈴木其一が、その句を書き添えているというのであろう。この抱一の句は、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「かぢのおと」に、「野路や空月の中なるおみなへし」の句形で収載されている。俳人でもある夏目漱石は、確かに、抱一の自撰句集『屠龍之技』を熟知していて、そして、上記の抱一の「月に秋草図屏風」類いのものを目にしていたのであろう。】(再掲)

 『井田・岩波新書』では、その「序章」(「画俳二つの世界」)で、その夏目漱石の「門」に出てくる、この抱一句を紹介しながら、この「月に秋草鶉図屏風」(口絵)で、次のように紹介している。

【 レモン型の月は、薄と接する低さである。薄や鶉は、藤原定家の和歌に基づく定家詠十二か月花鳥図の九月に出現する景物である。鶉の描き方は、南宋の画院画家、李安忠の筆と伝える「鶉図」(根津美術館)、それに倣った土佐派・狩野派に通ずるものがある。抱一が描いたとき、これらの要素は念頭にあったろうが、目を凝らせば、この第一扇にも実は女郎花が配されている。先述の句とは約二〇年という時期は隔ててはいるが、やはり武蔵野を舞台とする点では交響してくることになる。 】(『井田・岩波新書』「序章」)

 この「月に秋草鶉図屏風」は、落款に「抱一畫於鶯邨書屋」とあり、文化十四年(一八一七、抱一・五十七歳)以前の作と推定され、そして、この句の『屠龍之技』の章名「かぢのおと(梶の音)」(「梶の音」所収句の下限=寛政四年・一七九二・三十二歳)からすると、この画と句との制作時期の開きは「約二十年」位のスパンがあるということなのであろう。
 そして、この句の句意を理解するためには、その補助線として、「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ」(俗謡・『続古今和歌集』源通方「武蔵野は月の入るべき峯もなし尾花が末にかかる白雲」)を媒介すると、「武蔵野の野道を歩いていくと視界が開け、空に続かんばかり。そこにあるわずか一メートルほどの女郎花が、低い月のなかにあるようにみえる」という句意を紹介している。
 この月(A図)は「上弦の月」で、武蔵野の地平線から空に昇っていく光景であろう。

https://weathernews.jp/s/topics/201802/220075/


上弦の月.jpg

【「月に秋草図」(B図)は、同様(A図と同様)に総金地に秋草を描きながら、一転して曲線を基調とした描写である。ここでは抱一得意の葛が主役をつとめているが、その葉は彩色に変化をもたせて下から輝く金地の効果を巧みに使っている。署名に「雨華庵抱一筆」とあり、抱一が「雨華庵」の庵号を用いた文化十四年五十七歳以降の作品とわかるが、草花が折り重なるところや芒の穂のしなだれるところなど晩年の代表作「夏秋草図屏風」(東京国立博物館蔵)の表現に近い。 】
(『琳派二 花鳥二(紫紅社)』所収「作品解説二三一(奥平俊六稿)」)

 この「月に秋草図」(B図)の月は満月である。「月に秋草図(一幅)」(MOA美術館蔵)「月に秋草図(一幅)」(山種美術館蔵)「月に葛図(一幅)」(萬野美術館蔵)「月夜楓図(一幅)」(静岡県立美術館蔵)「雪月花図(三幅)」(MOA美術館蔵)「月に秋草図扇(一本)」(東京国立博物館蔵)「秋夜月扇(一本)」(太田記念美術館蔵)「月扇(一本)」(太田記念美術館蔵)、これらは、全て満月である。

 次の「兎に秋草図襖」(C図)の月も満月である。

【全面に斜めに薄い板を貼り、重ねて地とした襖に、満月に照らし出された野分の吹き荒れる秋の野を描いている。秋草は左から風に大きく揺らぎ、驚いたように白い兎が飛び出している。草の葉は、墨にわずかに色を加えて地味に描かれ、金泥で葉脈が描き添えられる。月の光を受けたシルエットによる夜の表現がなされているためで、薄の白い穂花、葛の淡いピンクの花、山帰来の赤い実が印象的に色を加えている。斜めに貼られた木の線が強い風を表現し機知的効果をもたらしているが、新しい木地は光も反射する。襖に当たる光の加減によっては、反射した光が、月光のように画面から発せられたに違いない。抑えられた色調と、金や銀とは違った光の反射を楽しむ繊細な美意識、瀟洒な感覚が部屋を覆っていたに違いない。画面には署名は無く「文詮」朱文円印と「文詮」朱文瓢印が捺されている。 】
(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』所収「作品解説Ⅳ-18(田沢裕賀稿)」)

光悦・兎扇面図.jpg
 
本阿弥光悦筆「月に兎図扇面」紙本金地著色 一七・三×三六・八㎝ 畠山記念館蔵 
→D図

【扇面を金地と濃淡二色の緑青で分割し、萩と薄そして一羽の白兎を描く。薄い緑は土坡を表わし、金地は月に見立てられている。兎は、この月を見ているのであろうか。
扇面の上下を含んで、組み合わされた四本の孤のバランスは絶妙で、抽象的な空間に月に照らし出された秋の野の光景が呼び込まれている。箔を貼った金地の部分には『新古今和歌集』巻第十二に収められた藤原秀能の恋の歌「袖の上に誰故月はやどるぞと余所になしても人のとへかし」の一首が、萩の花を避けて、太く強調した文字と極細線を織り交ぜながら散らし書きされている。
薄は白で、萩は、葉を緑の絵具、花を白い絵具に淡く赤を重ねて描かれている。兎は、細い墨線で輪郭を取って描かれ、耳と口に朱が入れられている。
単純化された空間の抽象性は、烏山光広の賛が記され、「伊年」印の捺された「蔦の細道図屏風」(京都・相国寺蔵)に通じるものの、細部を意識して描いていく繊細な表現は、面的に量感を作り出していく宗達のたっぷりとした表現とはやや異なるものを感じる。
画面左隅に「光悦」の黒文方印が捺されており、光悦の手になる数少ない絵画作品と考えられる。  】(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』所収「作品解説Ⅰ-14(田沢裕賀稿)」)

この作品解説は、『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』の「二〇〇八年」に開催された図録によるものであるが、それより、三十六年前の「一九七二年」に開催された『創立百年記念特別展 琳派 目録 (東京国立博物館)』の作品解説は下記のとおりである。これからすると、上記の扇面画は、光悦作と解して差し支えなかろう。

【 本阿弥光悦筆「扇面月兎画賛」一幅 紙本墨書 一七・〇×三六・五㎝ 畠山記念館蔵
秋草に兎、扇面という形態の構図を十分に考慮した作品である。緑青をバックに映える白い兎、これに対して大胆にも、金箔の月が画面の三分の一以上を占める。光悦の筆になる和歌は、『新古今集』(巻一二)の藤原秀能の一首で、「袖の上に誰故月ハやどるぞとよそになしても人のとへかし」と読める。左下に、大きな「光悦」の墨方印がある。】(『創立百年記念特別展 琳派 目録 (東京国立博物館)』)

 この光悦画・賛の「月に兎図扇面」の右半分の金箔地が、下弦の月である。抱一の「兎に秋草図襖」(C図)は、「反転」というよりも「変転」(変奏)しているもののように思われる。そして、この「兎に秋草図屏風」は、「月に秋草図」(B図)と同時代の「雨華庵」時代の晩年の作のように思われる。
 そして、これらの大作に先行しての作品が、「鶯邨」時代の「月に秋草鶉図屏風」(A図)と解したい。

富士山図.jpg

酒井抱一筆「富士山図」(『絵手鑑』七十二図中の十九図)各二五・一×一九・七㎝ 
静嘉堂文庫美術館蔵

 この抱一の「富士山図」について、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)では、「富士は絹本に塗った群青色の空にシルエットで示され、眩しい朱色の太陽をそえる」(「第三章花開く文雅」「俳趣味と地域色)と、この白富士の右上の朱色の「満月」のようなものを朱色の「太陽」としている。
 ここは、上記の「月に秋草鶉図屏風」(A図)「月に秋草図屏風」(B図)「兎に秋草図襖」(C図)「月に兎図扇面」(D図)に連なる、「武蔵野の果ての雪の白富士と旭日を帯びた『朱の満月』」と解したい。
 そして、それは、抱一のスタート地点「浮世絵時代」の「紅嫌い(色彩を抑制した)」の「松村村雨図」(細見美術館蔵)の「月下の世界への興味」(『井田・岩波新書』「第一章『抱一』になるまで」「月下の世界への興味」)と連なっていると解したい。

  枯枝の梅と見へけり朧月  楓窓杜龍(抱一)(『俳諧尚歯会』)

「朧月によって、枯枝に梅花が咲いているようだと幻視したのか、それとも、朧月が枯枝に咲いた梅花のようであると見立てのか。おそらく、意識的に両方を意味するようにぼかしているのだが、この句もまた月下のモノクロームの幻の世界である。」(『井田・岩波新書』「第一章『抱一』になるまで」「月下の世界への興味」)

 抱一の「綺麗さび」の世界というのは、この両義性の世界、そして、月下の幻想世界からスタートしている。
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(二十三) [抱一の「綺麗さび」]

その二十三 「秋夜月」と「月」扇子(抱一筆)

秋夜月と月.jpg

(右)酒井抱一筆「秋夜月」扇子 一本 一七・七×五一・〇㎝ 太田記念美術館蔵
(左)酒井抱一筆・賛「月」扇子 一本 一六・五×四五・〇㎝ 太田記念美術館蔵

(右) https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-03

【 秋の夜空を紺碧で、月を金で表す。単純ながらも大胆な構図と配色が印象的な扇。印章「抱弌」(朱文方印)・「文詮」(朱文瓢印)の朱色も背景に映える。賀茂季鷹(一七五四~一八四一)による和歌は「類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月」。季鷹は京都の歌人で国学者。大田南畝らとも交流し、俗文芸にも接触をもった。抱一の画譜(文化十四年<一八一七>)に序を寄せており、抱一との交流も知られる。裏面には墨書「抱一上人此月を/□□□□/□□□□季鷹に賛をと/頗りにの給ひ/けれは/いなひ/かたくて/筆を/とれるに/なん」があり、季鷹が賛を請われた様子をうかがうことができる。  】(『鴻池コレクション扇絵名品展』所収「作品解説七(赤木美智稿)」)

(左) https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-07

【 隷書体で記された「月白風清此良夜如何」は、蘇軾(そしょく)『後赤壁賦』にある語句。宋の元豊五年(一〇八一)十月、蘇軾が流刑地の黄州で友人らとともに長江に遊覧して詠んだもの。上部には銀箔でかたどった月を、表裏でほぼ同じ位置に配する。月や月光を好んだ抱一らしい趣向である。隷書体で記された詩文とあいまって風雅なおもむきを備える。署名「雨華抱一書」、印章「(印文不明)」(白文方印)。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展』所収「作品解説八(赤木美智稿)」)

 この二本の扇子(右と左)は、大きさも題名も違う、別々の扇子なのであろうか。それとも、大きさや題名が異なっていても、二本一組の「対」の扇子と解すべきなのであろうか。
 この問については、後者の、二本一組の「対」の扇子と解したい。そして、右の扇子は、金の月の「金」、季鷹(すえたか)の和歌の賛の「和」に対して、左の扇子は、銀の月の「銀」、蘇軾(そしょく)『後赤壁賦』の漢詩の賛の「漢」との、二極相対立する「対」(取り合わせ)の扇子と解したい。
 この「金に対する銀」、「和に対する漢」などの二極対立の構造(視点)は、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)では、「唱和」(「一方の作った詩歌に答えて、他方が詩歌を作ること」)の一形態の「反転」(「表=先行詩歌」の世界を「反転」(逆転)させて、「裏=後行詩歌」の世界を、水平的に創作する「反転の法」)に他ならないとしている。
 この「反転」(主として、「蕪村の反転の法」)については、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-05-03

 そして、「金に対する銀」の「反転」の世界については、下記のアドレスなどで触れている。ここでは、一部順序を入れ替えて、さらに、補足と修正を加えつつ再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-30

(再掲)

波濤図屏風.jpg

尾形光琳筆「波濤図屏風」二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】
(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

 これは、光琳の「金」の世界(「退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品」)である。これを「反転」させたのが、次の抱一の「銀」の世界である。

抱一・波図屏風.jpg

酒井抱一筆「波図屏風」六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇cm
文化十二年(一八一五)頃 静嘉堂文庫美術館
【銀箔地に大きな筆で一気呵成に怒涛を描ききった力強さが抱一のイメージを一新させる大作である。光琳の「波一色の屏風」を見て「あまりに見事」だったので自分も写してみた「少々自慢心」の作であると、抱一の作品に対する肉声が伝わって貴重な手紙が付属して伝来している。宛先は姫路藩家老の本多大夫とされ、もともと草花絵の注文を受けていたらしい。光琳百回忌の目前に光琳画に出会い、本図の制作時期もその頃に位置づけうる。抱一の光琳が受容としても記念的意義のある作品である。 】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 と同時に、光琳の「金」世界(「退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品」)は、「群青」の世界でもあった。その「群青」の世界をも踏襲したものが、右の「秋夜月」扇子の「群青」ということになる。

秋夜月・全体.jpg

(右)酒井抱一筆「秋夜月」扇子(「金」と「群青」の世界)

 そして、この「金と群青」の世界は、次の「朱と群青と白富士」に変転(変奏)してくる。

絵手鑑・富士図.jpg

酒井抱一筆「富士山図」(『絵手鑑』七十二図中の十九図)各二五・一×一九・七㎝ 
静嘉堂文庫美術館蔵

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-10-07

 そして、この群青は、北斎の、次の「神奈川沖浪裏(北斎筆)」の「群青(ベルリン藍=ベロ藍)の波濤図」と協奏してくる。

神奈川沖浪裏.jpg

北斎筆「神奈川沖浪裏」横大判錦絵 二六・四×三八・一cm メトロポリタン美術館蔵 
天保一~五(一八三〇~三四)
【房総から江戸に鮮魚を運ぶ船を押送船というが、それが荷を降ろしての帰り、神奈川沖にさしかかった時の情景と想起される。波頭の猛々しさと波の奏でる響きをこれほど見事に表現した作品を他に知らない。俗に「大波」また「浪裏」といわれている。】
(『別冊太陽 北斎 生誕二五〇年記念 決定版』所収「作品解説(浅野秀剛稿)」)

 さらに、抱一の「朱と群青と白富士」は、次の北斎の「赤(朱)富士」と通称されている「凱風快晴」に連なっていると解したい。

凱風快晴.jpg

北斎筆「凱風快晴」(『富嶽三十六景』全四十六図中の一図)横大判錦絵 二四・一×三七・二cm 天保一~三(一八三〇~三二) 東京冨士美術館蔵

https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=3769

 次に、「和に対する漢」の「反転」については、例えば、「抱一筆十二か月花鳥図における和と漢」(『琳派 響きあう美(河野元昭著)』所収)で取り上げられている「和性と漢性の美しい均衡こそ、抱一筆十二か月花鳥図最大の美的特質である」の、「和性」(日本的イメージ)と「漢性」(中国的イメージ)との視点に立っての「反転」ということになる。
 これは、冒頭の「秋夜月」(右)の賛(賀茂季鷹の和歌「類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月」)の「和性の賛」を、「月」(左)の賛(蘇軾の漢詩「月白風清此良夜如何」)の「漢性の賛」に「反転」しているということになる。
 この抱一の「和性と漢性」との視点ということについては、下記のアドレスの「雨華庵の四季(その一~その十八)」で、その「四季花鳥図巻」(上=春夏=「春夏の花鳥」・下=秋冬=「あきふゆのはなとり」)をとおして見てきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-12

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-16

 この「四季花鳥図巻」の、抱一自身が書いた題簽(上巻=「春夏の花鳥」と下巻=「あきふゆのはなとり」)の一つをとっても、抱一が、所謂、『古今和歌集』の、「真名序=漢性の序=紀淑望の序」と「仮名序=和性の序=紀貫之の序」の「漢性(中国風=漢詩風)と「和性」(日本風=和歌風)」との両極性を内在的に有していたことが察知される。
 ここで、抱一の、この「漢性」と「和性」との両極性ということについて、尾形光琳筆「紅白梅図屏風」を媒介として、それらをクローズアップさせていきたい。

(再掲)

紅白梅図屏風.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-05-08

尾形光琳筆「紅白梅図屏風」二曲一双 各一五六・〇×一七二・二cm MOA美術館蔵

【 平安時代に入り、国風文化が徐々に強まるとともに、梅は桜にその地位を譲ることになる。十世紀に初めに編まれた『古今和歌集』になると、桜は七十三首も詠まれて堂々と首位を占め、「花」といえば、それはただちに桜を意味するようになるのである。しかし、中国を意味する梅に対する尊敬は、けつして廃れることはなかった。ただし、この場合も日本化が起こって、中国で尊ばれた白梅に代わって、紅梅に対する愛好が生まれた。菅原道真や清少納言は大の紅梅ファンであった。これを琳派についていえば、尾形光琳筆「紅白梅図屏風」(MOA美術館蔵)においても、白梅は中国を、紅梅は日本を象徴していることが指摘されている。このような梅の暗喩を、和漢の教養豊かにして、光琳に私淑した抱一が知らないはずはなかった。 】
(『琳派 響きあう美(河野元昭著)』所収)「抱一筆十二か月花鳥図における和と漢」)

 この右隻の「紅梅」(和性)に、冒頭に掲載した「秋夜月」(和性=類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月=賀茂季鷹)、そして、その左隻の「白梅」(漢性)に、冒頭の「月」(漢性=月白風清/此良夜如何=蘇軾)を重ね合わせると、この「右隻」と「左隻」の中央に、上から下へと貫通する「光琳波の水流」は、光琳を継承する抱一の「江戸琳派」の流れを意味してくる。
 そして、その「江戸琳派」の流れは、次のアドレスの、鈴木其一・池田孤邨らに継承されていく。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-10-15
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(二十二) [抱一の「綺麗さび」]

その二十二 「月」扇子(抱一筆)

抱一・月扇面.jpg

酒井抱一筆・賛「月」扇子 一本 一六・五×四五・〇㎝ 太田記念美術館蔵

【 隷書体で記された「月白風清此良夜如何」は、蘇軾(そしょく)『後赤壁賦』にある語句。宋の元豊五年(一〇八一)十月、蘇軾が流刑地の黄州で友人らとともに長江に遊覧して詠んだもの。上部には銀箔でかたどった月を、表裏でほぼ同じ位置に配する。月や月光を好んだ抱一らしい趣向である。隷書体で記された詩文とあいまって風雅なおもむきを備える。署名「雨華抱一書」、印章「(印文不明)」(白文方印)。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展』所収「作品解説八(赤木美智稿)」)

「月白風清/此良夜如何」(蘇軾『後赤壁賦』)関連(※印)の原文と訳は次のところである。

   已而嘆曰      已にし嘆じて曰く
  有客無酒      客有れども酒無し
  有酒無肴      酒有れども肴無し
※ 月白風清      月白く風清らかに
※ 如此良夜何     此の良夜如何せん
  客曰        客曰く
  今者薄暮      今薄暮
  舉網得魚      網舉げ魚得たり
  巨口細鱗      巨口細鱗
  状似松江之鱸    状松江の鱸に似たり
  顧安所得酒乎    顧ふに安くの所の酒を得ん

 蕪村に出て来る『後赤壁賦』関連は、上記に続く、次(※印)のところである。

  歸而謀諸婦     歸って諸婦に謀る
  婦曰        婦曰く
  我有鬥酒      我に鬥酒有り
  藏之久矣      之を藏すること久し
  以待子不時之需   以て子の不時の需め待てり
  於是攜酒與魚    是に於いて酒と魚とを攜へ
  復遊於赤壁之下   復た於いて赤壁の下に遊ぶ
  江流有聲      江流聲有り
  斷岸千尺      斷岸千尺
※ 山高月小      山高くし月小にし
※ 水落石出      水落ちて石出づる
  曾日月之幾何    曾ち日月の幾何ぞや
  而江山不可復識矣  而るに江山復た識るべからず


  月白風清/此良夜如何
 くれぬ間に月は懸(かか)れり冬木立  抱一「隅田川遠望図」賛)

  山高月小/水落石出
 柳散リ清水涸レ石処々(トコロドコロ) 蕪村(『反古襖』「遊行柳のもしにて」)

 この抱一と蕪村との句の背景には、「曾日月之幾何(曾ち日月の幾何ぞや)/而江山不可復識矣(而るに江山復た識るべからず)」の感慨が去来している。

 抱一の、この句が出てくる「隅田川遠望図」(池田孤邨筆・酒井抱一賛)は、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-04

 ここに、その抜粋を再掲して置きたい。また、、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)で、その補足をして置きたい。

(再掲)

孤邨・隅田川遠望図.jpg

池田孤邨筆「隅田川遠望図」(酒井抱一賛)一幅 絹本淡彩色 文政九年(一八二六)
五五・五×一〇七・六㎝ 江戸東京博物館蔵
【 抱一は、夕暮れ時の舟中で酒肴を愉しんだ孤邨らの隅田川周遊を、中国北宋の文人・蘇東坡が詠んだ「赤壁賦」に見立てた。自らは参加できなかったものの、気持ちの赴くまま、末尾に「くれぬ間に 月は懸れり 冬木立」の一句を詠じている。 】(『別冊太陽 江戸琳派の美』所収「江戸琳派における師弟の合作(久保田佐知恵稿)」)

(追記一) 抱一の「賛」の全文は次のとおりである。

 是歳丙戌冬十一月桐生の竹渓
 貞助周二の二子をともなひ墨水
 舟を泛夕日の斜ならんとするに
 猶綾瀬に逆のほり舟中使者
 有美酒有網を挙れハ巨□
 細鱗の魚を得陸を招けは
 □□葡萄の酒傍らに奉る
 嗚呼吾都会の楽ミ何そ蘇子か
 赤壁の遊ひに異ならんや
 冨士有筑波有観音精舎の
 かねの聲は漣波に響き 今戸
 の瓦やく烟水鳥の魚鱗鶴翼に
 飛廻るは草頭にも盡
 かたきを門人孤邨か
 一紙のうちに冩して予に
 此遊ひを記せよといふ予
 その日の逍遥に
 もれたるも名残なく
 其意にまかせて
 俳諧の一句を吃く
  くれぬ間に
   月は懸れり
    冬木立
 抱一漫題「雨華菴」(朱文扇印)「文詮」(朱文瓢印) 

 孤邨の落款は、「蓮葊孤邨筆」の署名と「穐信」(朱文重郭印)である。なお、抱一の「賛」中の、「竹渓」は、桐生の「書上(かきあげ)竹渓」(絹の買次商・書上家の次男)で、市川米庵にも学ぶ文化人という。桐生は佐羽淡斎を通じて抱一とは関わりの深いところで、抱一を慕う者が多かったようである。
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説115(岡野智子稿)」)

(補足)

 『井田・岩波新書』での、上記(追記一)の賛の訳文は次のとおりである。

是(この)歳(とし)丙戌(へいじゆつ)冬十一月、桐生の竹渓(ちくけい)、/
貞助・周二の二子をともなひ、墨水(ぼくすい)に/
舟を泛(うかぶ)。夕日(せきじつ)の斜(ななめ)ならんとするに、/
猶(なほ)、綾瀬(あやせ)に逆(さか)のぼり、舟中佳肴(かかう)有(あり)、/
美酒有り。網を挙(あぐ)れば巨口(きよこう)/
細鱗(さいりん)の魚(うを)を得、陸を招けば、/
蘭陵(らんりよう)葡萄の酒、傍(かたわら)に来る。/
嗚呼、吾(わが)都会の楽(たのし)み、何そ蘇子(そし)が/
赤壁の遊びに異ならんや。/
冨士(ふじ)有(あり)、筑波有(あり)。観音精舎の/
かねの聲は、漣波(れんぱ)に響き、今戸(いまど)/
の瓦やく烟(けむり)、水鳥の魚鱗(ぎよりん)鶴翼(かくよく)に/
飛(とび)廻(まは)るは筆頭にも盡(つくし)/
がたきを、門人孤邨が/
一紙のうちに冩して、予(よ)に/
「此(この)遊ひを記せよ」といふ。予、/
その日の逍遥に/
もれたるも不慢(ふまん)ながら、/
其(その)意(い)にまかせて、/
俳諧の一句を吐く。/
  くれぬ間に/
   月は懸(かか)れり/
    冬木立/

 この抱一の長文の賛は、『井田・岩波新書』では、最終章(「第四章 太平の『もののあはれ』」)の最終節(「五 追憶と回顧---最晩年」)に収載されている。この長文の賛に関連する貴重な記述について、抜粋して掲載して置きたい。

【(「隅田川遠望図」の賛)
 (前略) 
抱一はこの舟遊びに誘われなかったが、賛を求められた。その賛は、蘇東坡の「赤壁賦(せきへきのふ)」「後(こう)赤壁賦」という、東坡が長江(ちょうこう)流域の景勝地赤壁に遊んだ際になした名高い文章を踏まえていて、孤邨画に奥行きを与えている。ただし、隅田川には墨堤があるものの、かの赤壁に擬すべき切り立った断崖はなく、賛の趣向として赤壁を取り入れるのには少し無理がある。「赤壁賦」が「壬戌(じゅんじつ)の秋、七月既望(きぼう)、蘇子(そし)客と舟を泛(うか)べて赤壁の下に遊ぶ」と始まるのを考えあわせると、実はこの賛に抱一はもう一つ、個人的な感慨を点じていたと考えられる。
相見香雨によれば、溯ること二四年、壬戌(享和二年)の秋、七月既望(一六日の夜)、抱一は文晁・鵬斎と舟を泛べ、国府台(こうのだい)(千葉県市川市)の下に遊ぶ約束をしていたのである。国府台、つまり江戸川に面する切り立った河岸段丘を赤壁に見立て、七二〇年前の東坡の風雅を偲ぶこの好企画が実現したか否か、今は傍証をもたない。

(揺曳する鵬斎)
 抱一が著賛したのは文政九年、その三月九日に鵬斎は没していた。数年来、中風で薬餌に親しんでいたという。この年は月見の約束を交わした享和二年と同じ戌年であったが、愉しい時代はすでに過ぎてしまっていた。抱一は「いかにせむ賢き人もなきあとに今(こ)としもおなじ花ぞ散りける」(『句藻』「月日星」)と文政一〇年の鵬斎一周忌に際して一首捧げているが、季節は何事もなくめぐり、また日常が繰り返されてゆくという気分が濃い。
(中略)
 「赤壁賦」は七月で秋、「後赤壁賦」は一〇月で冬。隅田川でのこの舟遊びは冬であった。賛の末尾にそえた抱一句にどこか寂寥がたゆたうのは、東坡の赤壁という往古を想う漢詩、冬という季節感、あるいは画面にみられる夕方という時間帯のせいだけなのであろうか。舟遊びにおける時間の経過のほか、おそらくは人間における時間というものの経過のままならさが一句に立ち込めるからである。
(後略)

(最晩年)
 文政一〇年一一月一一日、水戸徳川家の茶会に抱一は正客として招かれた。(藩主斉修公の抱一への答礼の趣向に感激し、)「誠、関東画工の目面(面目)をほどこし、難有(ありがたかり)けり」と感激している(『句藻』「竹鶯」)。大名社会からは逸脱したが、「画工」として名を立て、再び大名社会に迎え入れられたという自己認識なのであろうか。
(後略)

(絶筆四句)
 文政一一年(一八二八)一一月二九日、抱一は雨華庵で六八年の生涯を静かに終えた。晩年の弟子田中抱二は「一一月まで稽古に通ったという」(「雨華庵図」)から、急逝とみられる。『句藻』「はつ音」には、最期に書きつけられた四句のあと、索漠たる空白が広がっている。

  寄雪述懐(ゆきによするしゆつかい)
 月出(いで)て帰(かへる)風なり雪見舟(ゆきみぶね)
 残菊(ざんぎく)や慈童(じどう)は一里酒買(かひ)に
 木の瘤(こぶ)の残りて寒き鴉(からす)かな
 鹿の来てならすや菴(いほ)の楢(なら)紅葉(もみぢ)  

(後略)   】(『井田・岩波新書』「「第四章 太平の『もののあはれ』」)
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(二十一) [抱一の「綺麗さび」]

その二十一 「秋夜月扇子」(抱一筆・季鷹賛)

秋夜月・全体.jpg

酒井抱一筆「秋夜月(あきよづき)」扇子 一本 一七・七×五一・〇㎝
太田記念美術館蔵

秋夜月.jpg

酒井抱一筆「秋夜月(あきよづき)」扇子 (拡大図)

【 秋の夜空を紺碧で、月を金で表す。単純ながらも大胆な構図と配色が印象的な扇。印章「抱弌」(朱文方印)・「文詮」(朱文瓢印)の朱色も背景に映える。加茂季鷹(一七五四~一八四一)による和歌は「類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月」。季鷹は京都の歌人で国学者。大田南畝らとも交流し、俗文芸にも接触をもった。抱一の画譜(文化十四年<一八一七>)に序を寄せており、抱一との交流も知られる。裏面には墨書「抱一上人此月を/□□□□/□□□□季鷹に賛をと/頗りにの給ひ/けれは/いなひ/かたくて/筆を/とれるに/なん」があり、季鷹が賛を請われた様子をうかがうことができる。  】(『鴻池コレクション扇絵名品展』所収「作品解説七(赤木美智稿)」)

 この賀茂季鷹(かものすえたか)について、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)で、次のように記述している。

【 季鷹は抱一より七歳年長で、抱一の自撰画譜『鶯邨画譜』に序(文化十三年九月)を寄せた国学者・歌人である。しかし、実は文政三年五月まで、抱一は季鷹(雲錦先生)に対面したことはなかった。「錦雲(ママ=雲錦が正しい)先生、江都に有し頃は廿年(はたとせ)の昔にて、予も金馬門に繋がれて、花鳥の交(まじはり)をなさず/季鷹の吾嬬(あづま)下りや初茄子(はつなすび)/ころは五月(さつき)の末にぞ有(あり)ける」(『句藻』「藪鶯」)とあるとおりである。「一富士、二鷹、三茄子」からの連想であるが、富士は「ぬけ」にしてある。季鷹は初対面後の一〇月、『屠龍之技』に新たに序を加え、「抑(そもそも)、我、はやうよりむつびかはせる雨華庵の屠龍君」と述べている。つまり、文政三年以前より両者のあいだに文通があったことがわかる。  】(『井田・新書』)

 ここで紹介されている『鶯邨画譜』の「序」(賀茂季鷹)などについて、下記のアドレスで触れている。ここに再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-03

(再掲)

ここでは、この『鶯邨画譜』の、抱一と親しく交流のあった国学者加茂季鷹と、漢詩人中井敬義の、その「序」を掲載しておくことに止めたい(なお、『鶯邨画譜』は、初版と後刷本とがあり、早稲田図書館蔵本は後刷本で、この「序」は付せられていない)。

①序文(加茂季鷹)

大方ゑかく人、くれ竹の世に其名きこえたる上手、其いと多かる中にも、百とせばかりむかし、光琳法橋ときこえしハ、倭もろこし乃おかしき所々をとり並べことそぎたる中に、力を入てみやびかなるおもむきせしもむねと書あらはし筒、其頃此道にならぶ人は多なかりけり、こゝに等覚院抱一君ハ弓を袋にをさめて画に世を乃がれたまひ、かの法橋のあとをしたひてかき出たまへるが、山乃たゝずまい、水のこゝろばへは、いふもさらなり、鳥、化物、はふむしなどハ、さながらたましひ有てうごき出ぬべき心ちなんせられける、とりたてかくこ乃み給ふ事あらたまのとし月つもらざりせば、いかでかくは物しき給ふべき、されば彼法橋もなかなかに及びかたかめりとさへ見侍るハ、藍を出しあゐの藍より青してふためしならむかし、あまりあやしきまで見めでつゝたくもえあらで、いさゝかゝきしるし侍る也、あなめでたあなめでた

②序文(中井敬義)

此一帖は抱一上人ねん翁の、いとまことに画なしぬへるものにして、いたり深くやことなきすとハ、けにたとふへきかたなしかし、上人早うより世の塵を厭ひて、おくまりたる山陰に庵し候て、ひたすら水艸のきく傳を慰めにてかき籠り給へるを、あたらしきことにおもひて、こゝろよせきこゆる人は、あなかちにまいり給はむ、くひておのかしゝ迺心やりにとてかき捨たまへる原繪なとこひ閲(み)ゆるも、あまたありぬ契のもとなり、ためしなき上手にておはすうへに、からくにのふるきおきてをまなへり、我国のミやひたる跡をとめて、ひろくまねひ、ふかく習ひとなぬへき、尤なほさりの墨かきたき世の人とはいとことなり、そもそも三乗の法をときて聖人の御果を絵かき給ふとて、かしこの傳にもありとか法の属にして画をし覚すきたまへる、さるいはれあることになん、おのれ此本をうちひらき見より、上人のらうしねんに走しらす事にならひて其侭に気韻高かりけると、かたかた尊きことおほえて世のひとゝきのやさしきも忘れて、此はしつかたをふとけかしつせるは、感すこゝろの深きよりと、人も又見ゆるしなん也

(『江戸名作画帖全集六(駸々堂)』所収「図版解説・資料」)

  類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月  (賀茂季鷹)

 抱一にとって、季鷹は、京都の「国学者・歌人」の、その書簡にあるとおり「雲錦先生」(「雲錦は庵号で抱一の七歳年長)なのである。この雲錦先生は、抱一の画賛に登場する江戸派の歌人(国学者)の双璧の、加藤(橘)千蔭(二十六歳年長)と村田春海(十五歳年長)と知己で、季鷹と抱一との関係は、抱一と親交の深い千蔭と春海とが介在していることであろう。
 また、季鷹は、狂歌にも精通して居り、抱一の狂歌の師の一人・大田南畝(狂歌名=四方赤良、十二歳年長)などの狂歌連とのネットワークも介在しているとことであろう。

  敷島のやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花 (本居宣長)

 「大和魂」の代名詞にもなっている、この歌の作者・本居宣長(国学者・歌人、抱一より三十一歳年長)は、抱一と直接的な関係は何もない。しかし、抱一と深い親交に結ばれている江戸派の歌人(国学者)の「加藤千蔭・村田春海」は、賀茂真淵(国学者・歌人)の「県門(けんもん)」であり、宣長もまた後に真淵門(県門)に入っており、京都の季鷹(真淵と関係の深い賀茂神社の祠官)共々、真淵の「県居(あがたい)派」の歌人と解して差し支えなかろう。
 
  類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月    (賀茂季鷹)
  敷島のやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花 (本居宣長)

 この季鷹の歌は、宣長の「本歌取り」の一首と、これまた、解して差支えなかろう。

季鷹・掛幅.jpg

 月  類なき 光を四方に 敷しまや
    日本島嶋根の 秋の夜の月     季鷹

http://www.suguki-narita.com/blog/2016/09/tiyuusyunomeigetu.html

 これは上記のアドレスで紹介されている季鷹の掛幅である。これに対応する宣長の掛幅は次のものであろう。

宣長像.jpg

「本居宣長六十一歳自画自賛像」(『本居宣長(小林秀雄著・新潮社)』所収「口絵」→表)
【(右上の賛)古連(これ)は宣長六十一寛政乃(の)二登(と)せと/いふ年能(の)秋八月尓(に)手都可(づか)らう都(つ)し/多流(たる)おの可(が)ゝ(か)多(た)那(な)里(り)
(左上の賛)筆能(の)都(つ)い天(で)尓(に)/志(し)き嶋のやま登(と)許(ご)ゝ(こ)路(ろ)を人登(と)ハ(は)ゝ(ば)/朝日尓(に)ゝ(に)ほふ山佐久(ざく)ら花  】(『本居宣長(小林秀雄著・新潮社)』所収「口絵」→裏)

 この『本居宣長(小林秀雄著・新潮社)』の冒頭の章(一)に、「(駅まで見送った折口信夫が小林秀雄に)『小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら』と言われた」という一節がある。
 この折口信夫の小林秀雄への遺言のようなメッセージ「本居さんはね、やはり源氏ですよ」の「源氏」は、『源氏物語』で、折口信夫の、このメッセージは「もののあはれ」(『見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」』=『石上私淑言(いそのかみのささめごと)』)こそ、「敷島(日本)のやまと心(大和心)」ということが、そのメッセージの意であったようなのである。

 『井田・岩波新書』の最終章(第四章)のタイトルは「太平の『もののあはれ』」で、この「もののあはれ」は、抱一の最高傑作の一つ「夏秋草図屏風」(別称「風雨草花図」・国立博物館蔵・重要文化財)を主題とし、それは、表の「風神雷神図屏風」(光琳作)の「晴れやかさ」に対し、裏の「『うつろう先』の『一抹の不穏な空気』」が漂い、それは、「本居宣長が主張した『もののあはれ』にも近接した空気である」としている。
 抱一の絵画作品などで、本居宣長(上記の「本居宣長六十一歳自画自賛像」など画技にも長けている)に関するものは寡聞にして知らない。しかし、宣長が「もののあはれ」を見て取った『源氏物語』とその作者「紫式部」に関しては、下記のアドレスなどで、しばしば遭遇している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-11-18

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-04-21

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-05

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-11

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-16

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-07-21

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-07-30

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-08-06

 ここで、冒頭の「秋夜月(あきよづき)」扇子(抱一筆・季鷹賛)に戻って、その「作品解説」の「抱一上人此月を/□□□□/□□□□季鷹に賛をと/頗りにの給ひ/けれは/いなひ/かたくて/筆を/とれるに/なん」とに遭遇すると、これは、賛をした季鷹ではなく、抱一その人が、季鷹に賛を請い、そして、それを秘蔵していたものと解したい。

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