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「源氏物語画帖(その四)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

「源氏物語画帖(その四)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺
4-1 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏17歳秋-冬

夕顔.jpg

源氏物語絵色紙帖 夕顔 画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/583950/2

夕顔・詞.jpg

源氏物語絵色紙帖 夕顔 詞・飛鳥井雅胤
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/583950/1

(「飛鳥井雅胤」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/05/%E5%A4%95%E9%A1%94_%E3%82%86%E3%81%86%E3%81%8C%E3%81%8A%E3%83%BB%E3%82%86%E3%81%B5%E3%81%8C%E3%81%BB%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%B8%96%E3%80%91_%E5%8D%8A

中将の君、御供(ごくう)に参る。紫苑(しおん)色の折にあひたる、羅(ら)の裳(も)、鮮やかに引き結ひたる腰つき、たをやかになまめきたり。見返りたまひて、隅の間の高欄に、しばしひき据ゑたまへり。うちとけたらぬもてなし、髪の下がりば、めざましくもと見たまふ。
咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎ憂き今朝の朝顔 (第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語 第一段 霧深き朝帰りの物語)

3.1.7 咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎ憂き今朝の朝顔
(咲いている花に心を移したという風評は憚られますが、やはり手折らずには素通りしがたい今朝の朝顔の花です)

4-2 (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)

夕顔・長次郎.jpg

源氏物語絵色紙帖 夕顔 画・長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575436/2

夕顔・詞二.jpg

源氏物語絵色紙帖 夕顔 詞・青蓮院尊純

(「青蓮院尊純」の「詞」)

3.1.7
咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎ憂き今朝の朝顔
3.1.8/ 3.1.9 
いかがすべきとて、手をとらへたまへれば、いと馴れてとく、
3.1.10
朝霧の晴れ間も待たぬ気色にて 花に心を止めぬとぞ見る

(第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語 第一段 霧深き朝帰りの物語)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四帖 夕顔
第一章 夕顔の物語 夏の物語
  第一段 源氏、五条の大弐乳母を見舞う
  第二段 数日後、夕顔の宿の報告
 第二章 空蝉の物語
  第一段 空蝉の夫、伊予国から上京す
 第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語
  第一段 霧深き朝帰りの物語 →「飛鳥井雅胤」書の「詞」=3.1.5/ 3.1.6/ 3.1.7
              →「青蓮院尊純」の「詞」=3.1.7/3.1.8/ 3.1.9/3.1.10          
 第四章 夕顔の物語(2) 仲秋の物語
  第一段 源氏、夕顔の宿に忍び通う
  第二段 八月十五夜の逢瀬
  第三段 なにがしの院に移る
  第四段 夜半、もののけ現われる
  第五段 源氏、二条院に帰る
  第六段 十七日夜、夕顔の葬送
  第七段 忌み明ける
 第五章 空蝉の物語(2)
  第一段 紀伊守邸の女たちと和歌の贈答
 第六章 夕顔の物語(3)
  第一段 四十九日忌の法要
 第七章 空蝉の物語(3)
  第一段 空蝉、伊予国に下る

(参考)

夕顔三.jpg

「飛鳥井雅胤」周辺

http://www.ic.daito.ac.jp/~hama/gallery/syo-tanzaku-asukaimasatane-000.html

難波宗勝・飛鳥井雅胤と同一人。飛鳥井雅庸(まさつね)の二男として天正14年12月16日に生まれ、難波家を相続する。慶長5年正月月従五位上。同年12月28日侍従。同12年正月11日左権少将。同14年(1609)7月女官との密通事件(猪熊事件)が後陽成天皇の耳に達し連座の勅勘を蒙り伊豆に配流された。同17年(1612)勅免され帰洛し、翌同18年(1613)名を雅胤と改めて飛鳥井家を相続する。難波家は子の宗種が相続した。同20年(1614)正月11日左中将。寛永3年(1626)12月3日参議。同5年正月29日左衛門督。同7年正月11日権中納言。同16年権大納言、慶安4年(1651)従一位、同年3月21日薨ず。享年66歳。
 難波家を再興して難波宗勝を名乗ったが、後名は雅宣、雅胤。法名演雅、法号潜龍院太素演雅。能書家で栄雅流。

「青蓮院尊純」周辺(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

尊純法親王(そんじゅんほっしんのう、天正19年10月16日(1591年12月1日)- 承応2年5月26日(1653年6月21日))は、江戸時代前期の天台宗の僧。父は応胤法親王。母は福正院。
1598年(慶長3年)天台宗青蓮院第48世の門跡に入る。1604年(慶長9年)権少僧都・権大僧都を歴任し、1607年(慶長12年)良恕法親王から灌頂を受けた。1615年(元和元年)大僧正に任じらる。1640年(寛永17年)に親王宣下を受け、尊純と号した。1644年(正保元年)天台座主173世となり、日光山法務を兼帯、日光東照宮の営繕をつとめた。1647年(正保3年)には二品に叙せられ、1653年(承応2年)天台座主177世に就任している。書に秀でていた。

「源氏物語画帖と土佐光吉・長次郎」周辺

https://artsandculture.google.com/asset/scenes-from-the-tale-of-genji-tosa-mitsuyoshi-and-ch%C5%8Djir%C5%8D/5AG60ggMg9LJDA?hl=ja
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