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「源氏物語画帖(その六)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

6-1 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六)源氏18歳春-19歳春

末摘花・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 末摘花  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/532678/2

末摘花・詞一.jpg

源氏物語絵色紙帖 末摘花 詞・西洞院時直
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/532678/1

(「西洞院時直」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/07/%E6%9C%AB%E6%91%98%E8%8A%B1_%E3%81%99%E3%81%88%E3%81%A4%E3%82%80%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%83%BB%E3%81%99%E3%82%91%E3%81%A4%E3%82%80%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_

  もろともに大内山は出でつれど入る方見せぬいさよひの月
と恨むるもねたけれど、この君と見たまふ。すこしをかしうなりぬ。人の思ひよらぬことよと憎む憎む。
  里わかぬかげをば見れどゆく月のいるさの山を誰れか尋ぬる
(第一章 末摘花の物語 第三段 新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く)

1.3.29  もろともに大内山は出でつれど入る方見せぬいさよひの月
(ご一緒に宮中を退出しましたのに、行く先を晦ましてしまわれる十六夜の月ですね。)
1.3.30 と恨むるも ねたけれど、この君と見たまふ、すこしをかしうなりぬ。
(と恨まれるのが癪だが、この君だとお分かりになると、少しおかしくなった。)
1.3.31 「 人の思ひよらぬことよ」と憎む憎む、
(「人が驚くではないか」と憎らしがりながら、)
1.3.32  里わかぬかげをば見れどゆく月のいるさの山を誰れか尋ぬる
(どの里も遍く照らす月は空に見えても、その月が隠れる山まで尋ねる人はいませんよ)

6-2 (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書) 

末摘花・長次郎.jpg

源氏物語絵色紙帖 末摘花  画・長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/574656/2

末摘花・詞二.jpg

源氏物語絵色紙帖 末摘花  詞・青蓮院尊純
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/574656/1

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第六帖 末摘花
 第一章 末摘花の物語
  第一段 亡き夕顔追慕
  第二段 故常陸宮の姫君の噂
  第三段 新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く→「西洞院時直」書の『詞』=1.3.29/1.3.30/1.3.31/1.3.32 
「青蓮院尊純」書の詞=1.3.29/1.3.30/1.3.31/1.3.32 
  第四段 頭中将とともに左大臣邸へ行く
  第五段 秋八月二十日過ぎ常陸宮の姫君と逢う
  第六段 その後、訪問なく秋が過ぎる
  第七段 冬の雪の激しく降る日に訪問
  第八段 翌朝、姫君の醜貌を見る
  第九段 歳末に姫君から和歌と衣箱が届けられる
  第十段 正月七日夜常陸宮邸に泊まる
 第二章 若紫の物語
  第一段 紫の君と鼻を赤く塗って戯れる

(参考)

末摘花・挿絵.jpg

http://www.genji-monogatari.net/

(参考五) 「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

正親町天皇→陽光院 →     ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
    ↓※青蓮院尊純法親王 ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
               ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良
                          ↓良純法親王 他

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図は、上記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

※後陽成天皇(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(関屋・絵合・松風)
※八条宮智仁親王(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純法親王(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋(須磨・蓬生)
※近衛信尹(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)

① 筆者のなかで最も早く死亡しているのは、近衛信尹(一五六五~一六一四)で、その死亡する慶長十九年(一六一四)以前に、その大半は完成していたと解せられている。因みに、土佐光吉は、その一年前の、慶長十八年(一六一三)五月五日に、その七十五年の生涯を閉じている。

② 筆者のなかで最も若い者は、烏丸光広(一五七九~一六三八)の嫡子・烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)で、慶長十九年(一六一四)当時、十五歳、それに続く、近衛信尋(一五九九~一六四九)は、十六歳ということになる。なお、烏丸光賢の裏書注記は、「烏丸右中弁藤原光賢」で、その職にあったのは、元和元年(一六一五)十二月から元和五年(一六一九)の間ということになる。また、近衛信尋の裏書注記の「近衛右大臣左大将信尋」の職にあったのは、慶長一九年(一六一四)から元和六年(一六二〇)に掛けてで、両者の詞書は、後水尾天皇が即位した元和元年(一六一五)から元和五年(一六一九)に掛けての頃と推定される。

③ この近衛信尋(一五九九~一六四九)の実父は「後陽成天皇(一五七一~一六一七)」で、その養父が「近衛信尹(一五六五~一六一四)」、そして「後水尾天皇」(一五九六)~一六八〇)の実弟ということになる。この「近衛信尋」と「近衛信尹息女太郎君(?~?)」の二人だけが、上記の詞書のなかに「署名」がしてあり、本画帖の制作依頼者は「近衛信尹・近衛信尋・近衛信尹息女太郎(君)」周辺に求め得る可能性が指摘されている。(「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)
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