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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その五) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その五)「下関」周辺

小倉・下関f.gif

『シーボルト 江戸参府紀行(呉秀三訳注・昭和三年刊・駿南社)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

(再掲)

9  2/23  1/17 晴 下関滞在  門人の来訪・カニの眼
10  2/24 1/18 晴 下関 早鞆岬と阿弥陀寺・安德天皇廟など
11  2/25 1/19 晴 下関 萩の富豪熊谷五右衛門義比など
12  2/26 1/20 晴 下関 門人・知友来訪・病人診療と手術など
13  2/27 1/21 晴 下関 近郊の散策・六連島・捕鯨について
14  2/28 1/22 晴 下関 薬品応手録・コーヒーの輸入など
15  3/1 1/23 晴 下関 正午過ぎ乗船 ブロムホフの詩・下関の市街など
16  3/2 1/24 晴 下関出帆

下関.gif

『日本』に掲載されている「下関」(Nippon Atlas. 5-p14)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=13&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

下関・竹崎.gif

『日本』に掲載されている「下関 竹崎付近の景」(Nippon Atlas. 5-p15)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=14&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

石版画にした関門海峡.gif

「シーボルトが江戸へ向かう道中で、同行者に描かせた画を持ち帰り、石版画にした関門海峡」
https://www.kyushu-u.ac.jp/oldfiles/magazine/kyudai-koho/No.36/36_24.html
『日本』に掲載されている「フアン・デル・カペレン海峡(関門海峡)の景」(Nippon Atlas. 5-p16)

この「フアン・デル・カペレン海峡(関門海峡)の景」(Nippon Atlas. 5-p16)に続いて、次の「フアン・デル・カペレン海峡の地図」(Nippon Atlas. 5-p17)が続く。

フアン・デル・カペレン海峡の地図.gif

『日本』に掲載されている「フアン・デル・カペレン海峡(関門海峡)の地図」(Nippon Atlas. 5-p17)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=16&r=0&xywh=-94%2C485%2C3901%2C4358

シーボルトは、随行させていた「川原慶賀」に、上記の「フアン・デル・カペレン海峡(関門海峡)の景」(Nippon Atlas. 5-p16)を描かせている。そして、シーボルトは、それは、「目に映る『フアン・デル・カペレン海峡(関門海峡)の景』としながら、それらも、資料の一部としつつ、「書記」として随行させている「ビュルゲル」らと共に、この上記の「フアン・デル・カペレン海峡(関門海峡)の地図」を、もろもろの労力と機材を駆使しながら、その作成に没頭していたのである。

https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/202203250000/

≪二月二七日〔旧一月二一日〕 
 竹崎
われわれは竹崎(この町の西部ではそう呼んでいる)とその近郊へ散歩にでかける許可を得た。長門の西南端、小門真岬・小引島・六連諸島を調査することが、今日のわれわれの課題であった。小さいグループでわれわれは西鍋町・入江町・西細江町、それから豊前町を通り、竹筒の海岸通りにある税関〔監視小屋〕の近くで休んだ。
われわれの眼前には引島や舟島や豊前の海岸を望む景色がひらけていた。そこには小さい商船が錨を降ろしていて、波止場では人が荷物の積降しに忙しげに立ち働いていた。第一〇図(注・「下関 竹崎付近の景」)はこの有様を伝えるものである。下関商業の貨物集散地である。
 われわれの到着は評判になった。好奇心を抱いた群衆が殺到してきて、ここでは測量はうまくゆかなかった。また登与助も今度はこの地方の略図が描けなかった。われわれは今浦へ行き、海岸にある漁師の家に立ち寄り、われわれを先へ案内するのをためらっていた日本の士官たちに葡萄酒と酒をすすめて、なおさらよい気分にならせようとした。今浦の村はもう下関の地域に具していなかった。
 早鞘へ小旅行を企てたときにもわれわれはこれと似た状況であった。外国人をもてなすことの禁制は、日本の全住民に非常に恐ろしい力となってのしかかっているので、われわれが体験したいっさいのことから洞察されるように、ひとりの外国人が、見つけられずにただの一日でも日本の土地にとどまっていることは不可能である。
 我々は監視者に対し、我々の仕事には関与せず小門からの帰りをここで待っているようにすすめ、彼らもまたそれに賛成した。我々は彼らの視界から離れてしまうと、すぐに仕事にかかり、一連の測量によって引島のまだ全く知られていない東海岸を確定し、湖のようにここに開けている海のほかの多くの地点を訂正した。最も重要な測量のうちの数例をここに挙げようと思う。
 舟島は南20度東。
内裡の町は引島の東端とともに南10度東、
引島の東北端(天ノ郷崎)は南35度西、
小倉の町は前にある引島のために見ることはできないが、われわれと同行の日本人はその方角をわれわれにはっきりと示した。それによると前方南16度西にあたった。それからわれわれは小門へ急ぎ村の西南にあった岬に登った。
 そこからは玄界灘を望む広々とした景色がひらけていた。ここは日本の地図では大きな欠陥があった(われわれは当時日本の精確な地図も上述した海図も知らなかった)。この地図では九州の海岸からよりも日本(本州)の海岸のほうからいっそう遠く離れている引島は、ただ狭いほとんど一町(14・54メートル)〔109・09メートル〕幅の海峡によって小門鼻岬と隔てられ、そして長細い岬となって西北の方向に延びて、いわば六連島に接しているように見えた。
我々はここで眼前に、この六連島と引島の西北ならびに東北岸を鳥瞰し、登与助は見取図を描いたが、その図は彼が熟練と技術を備えていることを証明していた。
 宣誓な地点
の決定に関しては、われわれは次に掲げておいた。
引島の北端は東68度南、岬のいちばん端、おそらく岬とひとつになっていた笥島(TAKENOKOSIMA)は北86度西、元来上ノ六連(KAMINO―MOTSURE)と呼ばれている六連島の南端は北59度酉、小さい馬島(MUMASIMA)(小六連KOMOTSURAともいう)は北73度西である。長門の西岸にある武久岬は北4度東、室津岬は北9度東で、われわれは同じ名の村をはっきりと見ることができた。武久の近くでは武久川が、室津付近では綾羅木川(ASARAKI‐GAWA)が海に注いでいる。
 六連諸島は六つの小島から成る。
一、塙浦村のある上ノ六連 
二、小六連または馬島 
三、金崎島(KANASAKISIMA) 
四、和合良島(WAKURASIMA) 
五、温子島 
六、片島
で、あとの四つは無人島である。
 向いにある筑前の北岸では鐘崎まで眺められる。
芦屋岬は南87度西、若松の水道(洞海ともいう)は南61度西にある。
芦屋岬と同緯度のところにふたつの小島が並んでいて、双子島とか男女島というが、北の島は男島で北69度西、もうひとつは女島で北73度西にある。
もっとずっと北の方にひとつの島があって、北33度西にあたる。同伴者のいうところでは藍ノ島という由。
小瀬戸という幅の狭い水道は東から西へ延び、小門鼻岬と引島の北端で形造られ、人々の言によると、約114メートルの幅があるだけで、小さい商船だけが航行できる。
 瀬戸の潮流は速く、ちょうど(注・鳥偏の漢字)小門鼻岬の向いに暗礁があるので、航行はなおさら危険である。
 今浦ではわれわれの費用で楽しい事をしていた武士たちに会い、夕方われわれは水路学上の小旅行から下関にもどった。 ≫(「山梨県歴史文学館 山口素堂とともに」:『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』)

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース))その三

https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/book/000153338/

日本地図の絵.jpg

≪被写体:有名な富士山を背景とした日本地図の絵
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833
第1章(65ページ)は地理情報を解説しており、富士山を描いた図が冒頭に掲載されています。緯度、経度、地形の特徴や気候、産出物、山河の風景、支配領域などがここでは説明されます。≫
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011002&hid=55

日本風俗備考・富士山.jpg

『日本風俗備考』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「富士山」(部分拡大図)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11223204/74

この『日本風俗備考』は、『東洋文庫326 日本風俗備考1(庄司三男・沼田次郎:訳注)』『東洋文庫341 日本風俗備考2(庄司三男・沼田次郎:訳注)』の二冊本で平凡社から刊行されている。
 それによると、この「有名な富士山を背景とした日本地図の絵」は、「1 地誌と地形」の「扉絵」ということで、「第1章(65ページ)は地理情報を解説しており、富士山を描いた図が冒頭に掲載されています。緯度、経度、地形の特徴や気候、産出物、山河の風景、支配領域などがここでは説明されます。」(「杉田成卿・箕作阮甫:訳注『日本風俗備考』」を、明瞭な形で提示している。
 ここで、「北斎と『プロムホム・フイッセル・シーボルト』そして『川原慶賀』」との、相互関係ということを見ていくと、「プロムホム・フイッセル」の「江戸参府」(1822)の時に、「北斎」に絵画制作の依頼をし、その成果品を、「スチュルレル・シーボルト・ビュルゲル・川原慶賀」らの「江戸参府」(1826)の時に受け取るというシステムが、その以前から「長崎出島のオランダ商館と葛飾北斎」となされていたという背景が浮かび上がってくる。
 それは、『古画備考(こがびこう):朝岡興貞編』の「三十一・「浮世絵師伝」の「北斎」の項〈天保十年六月十八日針医某話〉」に出てくる「北斎と阿蘭陀のカピタンのエピソード」に関係するもので、その時の「オランダ商館長(カピタン)」は、下記の「153代(145代)、ヘイスベルト・ヘンミー」で、この「ヘンミー」は、「1798年、長崎を出発、江戸で将軍・徳川家斉に拝謁し、長崎へ戻る途中で持病が悪化して掛川の地で没している。」
 この「ヘンミーの死」は、「禁制品の持ち出し」(密貿易関連)に関連しているという挿話で、「研究ノート:日本におけるオランダ人墓(宮永孝)」などでも紹介されている。
 これらのことに関しては、「ウイキペディア」では、「ヘンミー」の名ではなく、「シーボルト事件」とからませ、「シーボルト」の名で紹介されているが、『古画備考(こがびこう):朝岡興貞編』での「カピタンと北斎」との挿話は、「シーボルト」ではなく「ヘンミー」と解すべきなのであろう。

≪「葛飾北斎」と関係があった「オランダ商館長(カピタン)」=特に関係の深いもの※印

153代(145代)、※ヘイスベルト・ヘンミー(1792年11月13日-1798年7月8日)
154代(146代)、レオポルド・ウィレム・ラス(1798年7月8日-1800年7月17日)
155代(147代)、ウィレム・ワルデナール(1800年7月16日-1803年11月4日)
156代(148代)、※ヘンドリック・ドゥーフ(1803年11月14日-1817年12月6日)
著書『ドゥーフ日本回想録』 永積洋子訳 <第3期新異国叢書10> 雄松堂出版 2003年
157代(149代)、※ヤン・コック・ブロンホフ(1817年12月6日-1823年11月20日)
158代(150代)、※ヨハン・ウィレム・デ・スチューレル(1823年11月20日-1826年8月5日)
159代(151代)、※ヘルマン・フェリックス・メイラン(1826年8月4日-1830年8月5日)
著書『メイラン 日本』 庄司三男訳 <第3期新異国叢書1> 雄松堂出版 2002年 ≫(「ウイキペディア」)

≪ 外国人とのトラブル
長崎商館長(カピタン)が江戸参府の際(1826年)、北斎に日本人男女の一生を描いた絵、2巻を150金で依頼した。そして随行の医師シーボルトも同じ2巻150金で依頼した。北斎は承諾し数日間で仕上げ彼らの旅館に納めに行った。商館長は契約通り150金を支払い受け取ったが、シーボルトの方は「商館長と違って薄給であり、同じようには謝礼できない。半値75金でどうか」と渋った。北斎は「なぜ最初に言わないのか。同じ絵でも彩色を変えて75金でも仕上げられた。」とすこし憤った。シーボルトは「それならば1巻を買う」というと、通常の絵師ならそれで納めるところだが、激貧にもかかわらず北斎は憤慨して2巻とも持ち帰ってきた。当時一緒に暮らしていた妻も、「丹精込めてお描きでしょうが、このモチーフの絵ではよそでは売れない。損とわかっても売らなければ、また貧苦を重ねるのは当たり前ではないか。」と諌めた。北斎はじっとしばらく黙っていたが「自分も困窮するのはわかっている。そうすれば自分の損失は軽くなるだろう。しかし外国人に日本人は人をみて値段を変えると思われることになる。」と答えた。
 通訳官がこれを聞き、商館長に伝えたところ、恥じ入ってただちに追加の150金を支払い、2巻を受け取った。この後長崎から年に数100枚の依頼があり、本国に輸出された。シーボルトは帰国する直前に国内情報を漏洩させたことが露見し、北斎にも追及が及びそうになった(シーボルト事件)。
 オランダ国立民族学博物館のマティ・フォラーによると、1822年のオランダ商館長ブロムホフが、江戸参府の際日本文化の収集目的で北斎に発注し4年後受け取る予定としたが、自身の法規違反で帰国。後継の商館長ステューレルと商館医師シーボルトが1826年の参府で受け取った。現在確認できるのは、オランダ国立民族学博物館でシーボルトの収集品、フランス国立図書館にステューレルの死後寄贈された図だという。西洋の絵画をまねて陰影法を使っているが絵の具は日本製(シーボルトコレクションでは紙はオランダ製)である]。≫(「ウイキペディア」)


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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その四) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その四)「長崎・出島」」―「小倉・下関」周辺

長崎より小倉までの紀行.gif

『シーボルト 江戸参府紀行(呉秀三訳注・昭和三年刊・駿南社)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

(再掲)

1  2/15  1/9   晴 出島-諫早     威福寺での別れの宴など
2  2/16  1/10   晴 諫早-大村-彼杵  大村の真珠・天然痘の隔離など
3 2/17  1/11    彼杵-嬉野-塚崎(武雄)嬉野と塚崎の温泉など 
4 2/18  1/12 晴  塚崎-小田-佐賀-神崎 小田の馬頭観音・佐賀など
5 2/19  1/13 晴  神崎-山家 筑後川流域の農業・筑前藩主別荘など
6  2/20 1/14 雨 山家-木屋瀬 内陸部高地の住民など
7 2/21  1/15 雨 木屋瀬-小倉   渡り鳥の捕獲
8 2/22  1/16 晴 小倉-下関   小倉の市場・与次兵衛瀬記念碑など

「長崎湾・オランダ船(フリゲート艦)」.jpg

https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/baai-nagasaki-fregatschepen-kawahara-keiga?coll=ngvn&facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=1&maxperpage=36&identifier=KONB11%3A360-7887

「長崎湾・オランダ船(フリゲート艦)」(川原慶賀筆)制作年次:1823、制作場所:長崎県・日本、大きさ:60 × 80センチメートル、所蔵館:フォルケンクンデ国立美術館=ライデン国立民族学博物館
「解説:この長崎湾の絵は、1824年頃に日本の画家川原慶賀によって作られました。オランダの商館が位置する出島という人工島は、扇形であることがよく分かります。描かれている船はオランダのフリゲート艦アリヌス・マリヌスとアイダ・アレイダと思われる。」

 この絵図の所蔵は、「フォルケンクンデ国立美術館=ライデン国立民族学博物館」所蔵で、次のアドレスのものにより、「ライデン国立民族博物館」の「フィセル・コレクション」(「シーボルト・コレクション」のものではない)で、「4枚一組」のものの一枚のようである。

https://misakimichi.com/archives/3908

≪ 眺望図は4枚一組。出島のオランダ商館員フィッセルのコレクションとされ、オランダのライデン国立民族学博物館が所蔵している。江戸期の1820年前後の風景とみられ、田上方面の山あいに小さく描かれた建物の詳細が不明だった。 ≫

眺望図は4枚一組.jpg

「長崎湾眺望図」(「ライデン国立民族学博物館(フィセル・コレクション)」
(『川原慶賀の「日本」画帳―シーボルトの絵師が描く歳時記(下妻みどり著)』所収「口絵」)

≪ ヨハン・ゲハルト・フレデリック・フォン・オーフェルメール=フィセル(1800-1848、Johannes Gerhard Frederik van Overmeer Fisscher )
オランダのハルデルウェクに生まれる。1820年出島に商館員として赴任。9年間出島に滞在し、1822年にはブロンホフの江戸参府に随行し、絵画や大工道具などをコレクションした。帰国後、豊富な収集品や日本での経験に基づき『日本風俗誌』を著した。1820年ブロンホフが長崎奉行や役人を招待して上演した芝居の中心人物としても知られる。≫

この「フィセル(フイッセル)」(1800-1848)は、「スチュルレル1773-1855))・シーボルト(1796-1866)」らの、この「江戸参府」(1826)の前の「江戸参府(1822)を、使節(商館長)「プロムホフ」(1779-1853)の片腕の「書記」として随行し、その「「プロムホフ」と「スチュルレル」との「商館長」交替後も商館員として残り、「シーボルト事件」(1827にシーボルトの帰国の先発として出国した船が難破し、その積荷に幕府禁制品の地図があったことによる「出国停止(1828)と国外追放処分=1830」を受けた事件)の、その最中(1829)に帰国の途に着いている。
 この「「フィセル」の「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)を前回(その三)で、追記をしたが、その画像などは、「プロムホム・フイッセルそしてシーボルト」の、「オランダ・ライデン国立民族博物館の所蔵作品」の、その中の「川原慶賀作品」なのかどうかを含め、随時、追記ということで、その全容を見ていくことにしたい。

長崎港と湾(出島)の展望.gif

『日本』に掲載されている「長崎港と湾(出島)の展望」(Nippon Atlas. 1-p16)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906465#?c=0&m=0&s=0&cv=15&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

江戸参府紀行2.gif

『日本』に掲載されている「駄馬・駄牛・人足及び旅人」(Nippon Atlas. 5-p2)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1906469&start=&bbinfo_disp=0#?c=0&m=0&s=0&cv=3&r=0&xywh=238%2C425%2C3251%2C3631

(再掲)

江戸参府紀行三.gif

シーボルト『Nippon(初版、未製本)』図版篇
『日本』に掲載されている「オランダ使節団の行列」(Nippon Atlas. 5-p5)
「シーボルト『Nippon(初版、未製本)』図版篇」周辺(九州大学医学図書館所蔵)所収
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-688%2C-291%2C5202%2C5811

大村湾付近f.gif

大村湾駄付近の郡川の景
『日本』に掲載されている「大村湾駄付近の郡川の景(上図)」と「大村へ向かう山道(下図)」(Nippon Atlas. 5-p8)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-07

大村湾千綿.gif

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1667&cfcid=145&search_div=kglist
●作品名:大村湾千綿 ●Title:A view of Oomura, Chiwada
●分類/classification:旅・江戸参府/Travering to Edo
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

小倉 引島を望む景.gif

『日本』に掲載されている「小倉 引島を望む景」(Nippon Atlas. 5-p12)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1906469&start=&bbinfo_disp=0#?c=0&m=0&s=0&cv=11&r=0&xywh=591%2C1114%2C2709%2C3026

  シーボルトの大著『Nippon』(『シーボルト「日本」第一巻~第六巻(第一編~第十二編)+図録第一~三巻・講談社』)の「図録第一・二巻」にも掲載されている、これらの「挿絵図」(石版画)の「原画」(上記の着色画=「長崎湾・オランダ船(フリゲート艦)」・「長崎湾眺望図」・「大村湾千綿」)は、主として、オランダの「ライデン国立民族学博物館」所蔵のもので、その筆者は、「長崎のシーボルト御用絵師・川原慶賀」の作とされている。
 しかし、これらの「長崎出島の町絵師・川原慶賀」の作を収蔵して、オランダに持ち帰った主たる者は、「プロムホフ」(1779-1853)・フイッセル(1800-1848)・シーボルト(1779-1853)」の三人で、そして、「ライデン国立民族学博物館」所蔵になっている、これらの川原慶賀の作品は、シーボルト収蔵のものというよりも、「ブロムホフ・フイッセル」収蔵のものが多いということは特記をして置く必要がある。
 さらに、これらの「川原慶賀」の作品は、その多くは「ライデン国立民族学博物館」所蔵のもので、「国内現存作品」(「長崎県立美術博物館」「長崎市立博物館」「県立長崎図書館」「神戸市立博物館」等)は、確認されているものは五十点に満たず、「第二次大戦前の調査研究の文献に記載されているが現在は不明のものを加えて、七十点ほどが遺されているにすぎない」(『シーボルトと町絵師慶賀 日本画家が出会った西欧(兼重護著)』p11)としている。
 そして、『同著p11』で、「総じて、国内作品は鑑賞を目的として描かれたものに対して、国外作品は主として記録(学術資料)を目的としている」と、「慶賀作品」の鑑賞視点として、「鑑賞用(「絵画的」作品=芸術)」と「記録用(「写生・写真」的作品=学術)との二つの視点を提示している。
 この「鑑賞用(「絵画的」作品=芸術)」と「記録用(「写生・写真」的作品=学術)との二つの視点は、「プロムホフ」(1779-1853)・フイッセル(1800-1848)・シーボルト(1796-1866)」三者の、「慶賀作品」の収集・収蔵傾向にも表れていて、大雑把に、「プロムホフ」=「鑑賞用」的作品、「フイッセル」=「鑑賞用」的作品+「記録用」的作品、そして、シーボルト=「記録用」的作品と、区分けすることも、一つの便法ではあろう。
 これらのことを前提として、上記の、シーボルトの『日本』に掲載されている「挿絵図」(石版画)を見ていくと、これは、紛れもなく、シーボルトが日本に滞在していた、「1823年8月(来日)~1830年(オランダに帰国)」時の「日本の原風景」、そして、「1826年4月( 第162回目のオランダ商館長(カピタン)江戸参府に随行)」時の、「江戸参府紀行の原風景」ということになろう。

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)」その二

≪ 口絵に描かれた神農と伏犧の図は、葛飾北斎の『北斎漫画』に掲載されている同図を参考にしています。本書に収録された他の図版も北斎や川原慶賀ら日本の画を典拠としています。≫「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)」その一(抜粋)

伏犠と神農.jpg

「伏犠と神農,最初の日本の人間夫婦,そのほか風神と雷神の図,および鶴すなわち幸福の象徴によって守られている将軍の紋章の絵」「(日文研データベース・外像)」
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011001&hid=55
≪被写体 : 伏羲と神農,最初の日本の人間夫婦,そのほか風神と雷神の図,および鶴すなわち幸福の象徴によって守られている将軍の紋章の絵
掲載書名 :日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名 :フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代 :1833   ≫

伏犠(ふっき・右図)と神農(しんのう・左図.gif

『北斎漫画. 3編』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「伏犠(ふっき・右図)と神農(しんのう・左図)」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851648

≪伏犠=ふっき〔フクキ〕【伏羲/伏犠】
中国古代伝説上の帝王。初めて八卦(はっけ)を作り、婚姻の制度を整え、民に漁や牧畜を教えたという。女媧(じょか)の兄あるいは夫といわれ、三皇の一人。太昊(たいこう)。庖犠(ほうき)。宓犠(ふくき)

神農=しんのう【神農】
中国古代神話上の帝王。三皇の一。人身で牛首。農耕神と医薬神の性格をもち、百草の性質を調べるためにみずからなめたと伝えられる。日本でも、医者や商人の信仰の対象となった。炎帝神農氏。≫(「デジタル大辞泉」)

風神(左図)と雷神(右図).gif

『北斎漫画. 3編』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「風神(左図)と雷神(右図)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851648

≪風神・雷神(ふうじん・らいじん)
風の神と雷の神。仏教では千手観音の眷属として二十八部衆とともに安置される。三十三間堂の鎌倉時代の木像と建仁寺蔵の俵屋宗達筆と伝えられる屏風は有名。東京,浅草寺の門にはこの2神が安置されているので雷門という。≫(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-03-31

(再掲)

≪ 『北斎漫画』の「初編」は、文化十一年(一八一四)、「二編」と「三編」は、その翌年の文化十二年(一八一五)に刊行された。「初編」の号は、「葛飾北斎」そして、「二編・三編」の号は、「北斎改葛飾戴斗」と、「北斎」から「戴斗」に改まっている。
 北斎の画号の変遷などは、概略、次のとおりである。
 (省略)
 ここで『北斎漫画』の「漫画」とは、「笑い(コミック)」を内容とした「戯画(カリカチュア)」ではない。それは、北斎の前半生の総決算ともいうべき、「浮世絵」の「絵師・彫師・塗師」の、その「絵師(「版下・原画を担当する絵師)」の、その総決算的な意味合いがあるものと解したい。
 そして、この『北斎漫画』を忠実にフォローしていた、当時の絵師の一人として、日本に西洋医学を伝えたドイツ人医師・シーボルトの側近の絵師・川原慶賀が居る。この川原慶賀については、以下のとおりである。
【天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日したシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。】

https://blog.goo.ne.jp/ma2bara/e/433eda67b8a4494aed83f88d08813179

 この川原慶賀が模写した、北斎の「風神雷神図」がある。
北斎 二.jpg

『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)

http://froisdo.com/hpgen/HPB/entries/77.html

 この川原慶賀が模写した「風神雷神図」は、オランダの「ライデン国立民族学博物館」に収蔵されている。それらは、シーボルト(1796~1866)が寄贈したものの一部なのであろう。
シーボルトは、 ドイツの医者・博物学者。1823(文政六)年オランダ商館医官として来日。長崎の鳴滝塾で診療と教育を行い、多くの俊秀を集めた。28(文政十一)年離日の際、日本地図の海外持ち出しが発覚、国外追放となる(シーボルト事件)。59(安政六)年再来日。著「日本」「日本動物誌」「日本植物誌」などがある。
シーボルトと北斎との出会いは、1826(文政九)年に、シーボルトがオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行し、時の将軍、徳川家斉に謁見した頃に当たるのであろう。この時、北斎は六十七歳の頃で、為一の画号時代ということになる。
この商館長の江戸参府は、四年毎に参府することが義務付けられていて、この1826(文政九)年の参府の折りなどに、北斎(北斎と門弟による「北斎工房」)に、江戸の風景や人々の日常風景などを題材にした浮世絵などを注文し、次の参府の際に完成した作品を引き取るといった流れで、為されていったようである。
シーボルトの場合は、単に、浮世絵などの蒐集の他に、文学的・民族学的コレクション、当時の日用品や工芸品、植物学、地理学など様々な分野から大量のコレクションを蒐集し、それらが、オランダの「ライデン国立民族学博物館」に収蔵されているということなのであろう。
このシーボルトのオランダの「ライデン国立民族学博物館」のルートの他に、「フランス国立図書館」ルートのものもあり、これらが一同に会して、2007年12月4日(火)~2008年1月27日(日)に江戸東京博物館に於いて「北斎 ヨーロッパを魅了した江戸の絵師」が公開されたのであった。

https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/special/1659/
北斎%E3%80%80ヨーロッパを魅了した江戸の絵師/

 ここで、シーボルトのお抱え絵師の「川原慶賀」の作品と、シーボルトなどが特注した「北斎と北斎工房」の作品とは異質のものであるが、「北斎漫画」やその下絵に準拠している作品と解すると、広い意味での「北斎工房」の作品と解しても差し支えなかろう。
  とした上で、冒頭の『北斎漫画三編』の「風神雷神図」と、上記の『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)とを、相互に比して行くと、まざまざと、「北斎」作品と「北斎工房(川原慶賀作を含めて)」作品とでは、「形(かたち)」は同じであっても、その「心(こころ・狙っているところのもの)」の、その落差が大きいことを実感する。それは、「北斎(その人)」と「北斎らしさ(北斎らしき人)」との、歴然とした相違点ということなのかも知れない。
 すなわち、オランダの「ライデン国立民族学博物館」に収蔵されている。『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)の、その「風神雷神図」は、それは、紛れもなく、北斎を私淑する。「北斎派の一人」の、当時の鎖国下における長崎の「出島出入絵師・川原慶賀」の作品の一つと解すべきなのであろう。 ≫

(再掲)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-23

北斎・雷神図一.jpg

北斎筆「雷神図」(一部・拡大)フリーア美術館蔵(「オープンF|S」)
署名「八十八老卍筆」 印章「百」 弘化四年(一八四七)


風神.jpg

北斎「風神図」(落款「八十五老卍筆」 印章「冨士型」)
弘化元年(一八四四) 個人蔵

(特記事項)
 この「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)は、日本での図書名は『日本風俗備考』(「22巻からなる」)として、幕末に「杉田成卿・箕作阮甫」らの蘭学者によって分担翻訳されている。
 その『日本風俗備考』(「22巻からなる」)が、次のアドレスの「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧することができる。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11223204/23

日本風俗備考・口絵.jpg

『日本風俗備考』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「口絵」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11223204/23

日本風俗備考・口絵・拡大図.jpg

『日本風俗備考』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「口絵」(部分拡大図)

 この『日本風俗備考』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「口絵」(部分拡大図)に描かれている「風神雷神」図は、これは、まさしく、上記の「ライデン国立民族学博物館」所蔵の『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)より転載(244「風神・雷神図」)の「風神・雷神図」(原図をトレスしての「表」と「裏」)のような雰囲気を有している。

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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その三) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その三)「シーボルト『江戸参府行列図』」(「1826年(文政9年)」)周辺

江戸参府行列図.gif

「江戸参府行列図(医師=シーボルトが乗っている駕籠)」
http://blog.livedoor.jp/toyonut/archives/1475250.html

 この「江戸参府行列図」(第31図)などは、「シーボルト『日本』の研究と解説(講談社)」所収の「1826年の『江戸参府紀行』(斎藤信稿)」などを参考にすると、次のようである。

 この図(第31図)の、前方の「駕籠」には、「小通詞・岩崎弥十郎」が乗っている。「駕籠かき(人)」は二人、「従僕」(「公設」か「私設」かは不明?)は一人である。その後ろの「両掛」(旅行用の行李の一種。また、それを担ぐこと)は、「小通詞・岩崎弥十郎」の「荷物」と「荷物を担ぐ人」(人夫?)ということになる。
 そして、その後ろの「駕籠」には、「公式使節団の一員の『医師』のシーボルト」が乗っている。その「駕籠かき(人)」は四人、「従僕」(「公設」か「私設」かは不明?)は二人、その「「両掛」(旅行用の行李の一種。また、それを担ぐこと)」は、次の図(第32図)に描かれている。)

ここで、「出島商館長江戸参府行列図」の、その「行列」順序は、凡そ次のとおりとなる・

一 「献上品」(「献上品」を担ぐ「馬」と「人夫」)
二 「宰領」(「付添検使」下の「世話人」の一人、乗馬している。「第4図」)
三 「小通詞と医師の図」(上記の「第31図」)
四 「書記の図」(第32図)
五 「使節(商館長)の図」(第33図)
六 「付添検使=」(第37図)
(他に、「総数、四十五図」から成る。)

(別記)「一八二六年(文政9年)の江戸参府紀行の序」(抜粋)

「シーボルト 江戸参府紀行(1)」

https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/202203280000/

≪ 一八二六年(文政9年)の江戸参府紀行の序

概要

……旅行の準備
……江戸滞在の延長計画
……蘭印政庁の後援
……※日本人との深い理解・公使の不機嫌
……※和蘭使節の一行
……※日本の通詞およびその他の従者の描写
……使用人
……旅行具ならびに他の機具類の装備
……和蘭使節の特権
……ヨーロッパの使節に対する日本的格式の不適当な応用
……旅行進捗の方途・駕寵・挿箱・荷馬・荷牛・駕寵かき
……荷物運搬入についての記述
……郵便制度・運搬人および馬に対する価格の公定
……郵便および飛脚便
……狼煙打上げ式信号
……旅館および宿舎
……浴場
……茶屋など
……国境の警備
……橋
……航海および航海術・造船・造船所・港
……河の舟行
……運河
……堤防   

……※日本人との深い理解・公使の不機嫌(抜粋)
 私が公使ドゥ・スチュルレル大佐から期待したものは、そんなものではなかった。
私は悲しい思いでそのことを告白せざるをえないのであるが、この男はジャワにおいては私の使命に対してたいへん同情をよせ、非常な熱の入れ方で援助を借しまなかったのに、今この日本に来てしまってからは、みずから私の企てに関連していたすべてのことに対して、ただ無関心であったり冷淡であったばかりでなく、無遠慮にも妨害を続けて頓挫させ、困難におとしいれようとさえしたのである。このような不機嫌の原因は何にあったのか。
 政庁の指示によって私の活動範囲が拡大され、私の学問研究にこれまで以上の自主性が重んじられたことによって、よしんぱ彼自身の計画に齟齬(そご)を来たさなかったにせよ、おそらく彼の利害関係を損ったことに、その原因があったのか。
あるいは貿易改善のために彼が行なった提案に対して、政庁があまり都合のよくない決定を下し、それがもとで不満もつのり、それに病弱も加わって、こうした変化をひき起こしたのかどうか、私には判断を下すことができない。しかしいずれにせよ、彼が最初に日本研究のための私の使命と準備とに対して寄せていた功績は、何といっても忘れることができないのである。そして、私は感謝の念をこめてそれを認めるのにやぶさかではない。
(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p7)

……※和蘭使節の一行(抜粋)
 先例によると、江戸旅行のわれわれ側の人員は、公使となる商館長と書記と医師のわずか3人ということがわかっていた。私はできることならビュルガー氏とドウ・フィレネーフエ氏を同伴したかったのであるが、今度はとても無理であった。そこでいろいろ面倒な手だてを重ねて、やっとピュルガー氏を書記の肩書で連れていくことが許されるようになった。日本人随員の身分についてはなお若干の所見を加えさせていただきたい。
(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p8)

……※日本の通詞およびその他の従者の描写(抜粋)

 (大通詞)
 本来の日本人は外国人との交渉もなく、自国の風習に応じてしつけられ教育されているので……出島でわれわれと交際しているこのような日本人と通詞とが話題にのぼる場合には、こういう相違にいつも留意しなければならない。
 この旅行で重要な役割を演じ、現金の出納を担当し、給人と連帯して政治・外交の業務を行なう大通詞として末永甚左衛門がわれわれに同行した。60歳に近く、立派な教養といくらかの学問的知識をもっていた。彼はオランダ人との貿易には経験も多く、さらに貿易にかこつけて巧みにそれを利用した。
日本流の事務処理にすぐれた能力があり、賢明で悪知恵もあった。また同時に追従に近いほど頭も低く、洗練された外貌をもち非常に親切でもあった。そのうえ物惜しみはしないが倹約家で、不遜という程ではないが自信家であった。甚左衛門は、出島にいる大部分の同僚と同じように、少年時代に通詞の生活にはいり、オランダの習慣に馴れていて、通詞式のオランダ語を上手に話したり書いたりした。フォン・レザノフおよびフォン・クルーゼンシュテルンの率いるロシアの使節が来た時(1804~05年)に、特にペリュー卿の事件(1890年)の際に、彼は幕府のためにたいん役に立ったので、長崎奉行の信望もあつく、恵まれた家庭的な境遇のうちに暮らしていた。
彼は小柄で痩せていたし、少し曲がった鼻と異状な大きさの眼をし、顎(あご)は尖っていた。非常に真面目な話をする時に、彼の口は歪んで微笑しているような表情となり、普段はそういう微笑でわざとらしい親愛の情をあらわすので、鋭い輪郭をした彼の顔は、なおいっそう人目をひき、目立つのである。彼の顔色は黄色い上に土色をおびていた。剃った頭のてっぺんは禿げて光り、うえに上を向いた薄い髷(まげ)がかたく油でかためて乗っていた。

(小通詞)
 小通詞は岩瀬弥十郎といった。彼は60歳を少々越していて、体格やら身のこなし方など多くの点でわれわれの甚左衛門に似ていた。ひどいわし鼻で、両その方の眼瞼(まぶた)はたるみ顎は長く、口は左の笑筋が麻痺していたので、いつもゆがんで笑っているように見えた。大きな耳と喉頭の肥大は彼の顔つきを特徴づけていた。彼は自分の職務に通じていて精励し、旧いしきたりを固くまもった。彼は卑屈なくらい礼儀正しく、同時に賢明だったが、ずるささえ感じられた。しかしそれを彼は正直な外貌でつつんでいたし、また非常にていねいなお辞儀をし、親切で愛想もよく、駆け足と言ってよいぐらいに速く歩いた。
 彼の息子の岩瀬弥七郎はたいそう父親似であった。ただ父は病気と年齢のせいで弱かったのに対し、息子の方は気力に欠けた若者だった点が違っていた。そうはいうものの噂では彼は善良な人間で、お辞儀をすることにかけてはほとんど父に劣らず、何事によらず「ヘイヘイ」と答えた。彼は世情に通じていたし、女性を軽視しなかった。女性だちといっしょにいるとき、彼はいつでもおもしろい思いつきをもっていた。またわれわれに対してはたいへん親切で日常生活では重宝がられた。彼は今度は父の仕事を手伝うために、父の費用で旅行した。

 (公使=商館長の「私設通詞」)
 公使の私的な通訳として、野村八太郎とあるが、NAMURA(名村)の誤り〕とかいう人がわれわれに随行した。当時われわれと接していた日本人のうちで、もっとも才能に恵まれ練達した人のひとりであったことは確かである。彼は母国語のみならず支那語やオランダ語に造詣が深く、日本とその制度・風俗習慣にも明るく、たいへん話好きで、そのうえ朗らかだった。彼の父は大通詞だったが、退職していた。だから、父が存命していて国から給料をもらっている間は、息子の方は無給で勤めなければならなかったし、そのうえ息子八太郎は相当な道楽者だったから、少しでも多くの収入が必要だったのに、実際にはわずかしかなかった。信用は少なく、借金は多かった。二、三のオランダの役人と組んで投機をやり、いくばくかの生計の資を得ていた。彼自身はお金の値打ちを知らなかったが、お金のためにはなんでもやった。われわれの間で彼を雇ってやると、たいそう満足したし、それで利益があると思えば、いつもどんな仕事でもやってのけた。彼は痩せていて大きな体格をしていた。幅の広い円い顔にはアバタがいっぱいあったし、鼻はつぶれたような格好をしていたし、顎は病的に短く、大きな口の上唇はそり返り、そこから出歯が飛び出して、彼の顔の醜さには非の打ちどころがなかった。

 (付添検使=御番上使=給人)
 日本人の同伴者のうちで最も身分の高い人物は給人で、御番上使とも呼ばれ、出島ではオッペルバンジョーストという名で知られていた。彼の支配下に三人の下級武士がいて、そのうちのひとりはオランダ船が長崎湾に停泊している時には見張りに当たるので、船番と呼ばれていた。それからふたりの町使で、これは元来わが方の警察官の業務を行なう。船番の方は出島では、普通オンデルバンジョーストは「下級」の意〕と呼ばれ、町使の方は出島の住人にはバンジョーストという名でと名づている。長崎奉行の下には通常一〇名の給人がいる。大部分は江戸から来ている警察官〔役人のこと〕で、公務を執行している。彼らは国から給料を受けていない。彼らが役所からもらっている給金はごくわずかだが、彼らが……合法と非合法とによって受けとる副収入はなおいっそう多かった。貿易の期間中、彼らは出島で交替に役目についた。彼らは重要な業務において奉行の代理をつとめるから、貿易並びにわれわれ個人の自由に対し多大の影響を与えた。輸出入に関しては彼らはわれわれの国の税関吏と同様に全権を委ねられ、従って密貿易の鍵を手中におさめていた。そういうわけだから、彼らは奉行所の書記や町年寄の了解のもとで、密輸に少なからず手加減を加えた。
長崎奉行のこういう役人のひとりが例の給人で、今度の旅行でわれわれに随行することになっていた。役所は彼に厳命を下し、その実行に責任をもたせ、彼に日記をつけさせ、旅行が終わったとき提出させた。われわれに同行するそのほかの武士や通詞たちも、互いに監視し合う目的で日記帳を用意しておく責任があった。
それゆえ彼らは手本として、また旧習を重んずる意味で以前の参府旅行の日記を携えてゆき、疑わしい場合にはそれを参考にして解明していくのである。我々は我々と行をともにする給人一名をカワサキ・ゲンソウ(Kawasaki GenzO)といった……を賢明で勇気ある男として知り合っていた。
 彼の部下たちは彼を手本として行動した。上述の通詞や武士たちのほかに、四人の筆者と二人の宰領・荷物運搬人夫の監督一人・役所の小使7人・われわれのための料理人2人・日本の役人の仕事をする小者31人と料理人1人、従って随員は日本人合計57名であった。

 (従者)
 われわれの従者は誠実で信用のおける人々であった。彼らは若いころから出島に出仕していた。彼らのうちで年輩のものは、かつて上司の指揮のもとでこういう旅行に加わった経験があって、旅行中すばらしく気転がきき、職務上や礼儀作法にかかわるいっさいに通じていた。また彼らは、わかりやすいオランダ語を話したり書いたりした。

 (シーボルトの「私設従者」など)
 私の研究調査を援助してもらうために、私はなお2、3の人物を遮れて行った。彼らのうち一番初めには高良斎(注・阿波出身の医師、「鳴滝塾」出身)をあげるが、彼はこの2年来私のもっとも熱心な門人に数えられていたひとで、四国の阿波出身の若い医師であり、特に眼科の研究に熱心であった。けれども私か彼をえらぶ決心をしたのは、日本の植物学に対するかれの深くかつ広範な知識と、漢学に造詣が深くオランダ語が巧みであったこと、さらにまた彼が信頼に値し誠実であったからである。彼は私によく仕えた。私が多くの重要なレポートを得たのは、彼のおかげであるといわざるをえない。
画家としては登与助(注・「川原慶賀」)か私に随行した。彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は私の著作の中で彼の功績が真実であることを物っている。
 乾譜標本や獣皮の作製などの仕事は弁之助とコマキ〔これは熊吉の誤り〕にやらせた。私の召使のうちのふたりで、こういう仕事をよく教えこんでおいたのである。
これらの人々のほかにひとりの園丁と三人の私の門人が供に加わった。それは医師の敬作(注・「二宮敬作」=宇和島の医師、「鳴滝塾」出身)・ショウゲン(注・宗氏の家臣の古川将監?・「鳴滝塾」出身?)・ケイタロウ(通詞の西慶太郎?・「鳴滝塾」出身?=後に長崎医学校の教官)の三人で、彼らは助手として私に同行する許可がえられなかったので、上に述べた通訳たちの従者という名目で旅行に加わった。彼らは貧乏だったので、私は彼らの勤めぶりに応じて援助してやった。私は2、3人の猟師を長綺の近郊でひそかに使っていたので、できれば連れて行きたかったのだが、狩猟はわれわれの旅行中かたく禁じられていた。≫(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p12)

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース))その一

https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/book/000153338/

≪解説

 著者のフィッセル(Johan Frederik van Overmeer Fisscher, 1800-1848)は、1820年から1829年の間にかけて日本に滞在した出島商館員で、ドゥーフ(Hendrik Doeff, 1777-1835)の後任商館長ブロムホフ(Jan Cock Blomhoff, 1779-1853)の江戸参府(1822年)にも随行しています。フィッセルは滞日中に書物、焼き物、絵画、仏像、衣装などを大量に蒐集していて、現在もそれらはライデンの民族学博物館に収蔵されています。
 本書は、これらを活用しながらフィッセル自身の見聞をまとめた日本論です。テキストは全12章構成で、各章ごとに設けられたテーマに沿って、フィッセルが調べたことや見聞したことが記されています。特に人々の文化や生活についての記述が充実しており、書物だけからではなく、実際に彼が見聞したことに基づいて書かれてるため、当時の日本文化を知るための優れた資料と言えます。
 フィッセルの帰国後1833年に、本書は刊行されましたが、図版に彩色を施して特別の装丁を誂えた特装版と、白黒の図版を収録する通常版との二種類があり、当館が所蔵しているのは特装版です。表紙には、徳川家の葵紋と天皇の菊花紋(ただし一部改変されています)が金箔で描かれています。本書は、フィッセルが持ち帰ったコレクションから取られた図版が豊富に収録されていることも特徴の一つで、口絵に描かれた神農と伏犧の図は、葛飾北斎の『北斎漫画』に掲載されている同図を参考にしています。本書に収録された他の図版も北斎や川原慶賀ら日本の画を典拠としています。
 まず、前書きでは、日本について調査することは、外国人にとって容易ではないことを強調。続く序文では、習慣・宗教・政治についてヨーロッパに劣らない日本という国について正しい像を描き出すことが、本書の意図であると述べています。序文は日本についての概説にあてられており、日本の歴史、ヨーロッパ人との交流史、統治機構、階級制度、司法制度、税制、交通網、食べ物、人々の気質などについてコンパクトに解説しています。

 第1章(65ページ)は地理情報を解説しており、富士山を描いた図が冒頭に掲載されています。緯度、経度、地形の特徴や気候、産出物、山河の風景、支配領域などがここでは説明されます。

 第2章(88ページ)は学問と言語を扱い、かな文字の一覧図が掲載されています。ここでは日本語の考察に特に力が入れられており、ドゥーフ(Hendrik Doeff, 1777-1835)がフランソワ・ハルマ(François Halma, 1653-1722)による蘭仏辞書を基礎として作成した蘭和辞書ドゥーフ・ハルマも賞賛しながら紹介しています(92ページ)。また、100ページからは、オランダ語とアルファベットで表記した日本語とを併記した会話帳も収録しています。

 第3章(116ページ)は、骨董品や古銭、稀覯品についての紹介で、老哲学者を描いた図が掲載されています。ここでは、「珍しい(Mierasji)」とされる日本の品々が紹介されています。第4章(129ページ)は、書画の技法について論じ、絵を描く婦人の図が掲載されています。日本の技術はヨーロッパには及ばないとしながらも、独特の画法を有しているとして紹介されています。

 第5章(137ページ)は、宗教を扱い、寺院の内部を描いたとする図が掲載されています。ここでは、日本人は自身が神の末裔であると信じていると紹介し、神道の解説から始められています。またその関連で内裏(天皇)と公家のしきたりについても紹介しています。続いて仏教についても解説しています。

 第6章(158ページ)は、兵器と武器について解説しており、源義経を描いた図が掲載されています。日本は、武力と勇敢さでその独立を確立した国であるとして、軍機構や演習の様す、具体的な武器について紹介しています。

 第7章(175ページ)は、奢侈と贅沢についてと題されていて、贈答習慣や衣装、豪華な食事、祝祭日などが紹介されています。ここでは女中にかしずかれた礼装の日本人夫妻を描いた図が掲載されています。

 第8章(197ページ)では、様々な娯楽を紹介しており、旅芸人を描いた図が掲載されています。日本人は娯楽の追求に熱心で、もはや義務であるかのようであると論じています。音楽や舞台芸術、見世物についての紹介もされています。

 第9章(211ページ)は、動植物についての解説で、特に人々の生活に関係する動植物について説明しています。馬車が利用されておらず、乗馬以外の目的に使われていないことや、羊やロバが全くいないことを報告しています。ここには農業神としての稲荷大明神の図が掲載されています。
 第10章(223ページ)は、家事と生活を解説しており、日本では家事が極めて簡素に済ますことができるため、余暇に充てる時間が豊富であると述べています。また、日本の清潔さを賞賛する一方で戸締り設備がほとんどない点を欠点としてあげています。後半では衣装や化粧についても説明しています。ここでは5歳の袴着の儀を描いたと思われる図が掲載されています。

 第11章(240ページ)では、工業、産業全般を論じており、職人による版木掘りの場面を描いた図が掲載されています。職人が道具の手入れに熱心であることや彫刻の人気が高いこと、職人の賃金などの説明のほか、造船技術についての解説もあります。

 最後の第12章(254ページ)は、雑録として、ジャワから日本までの航海や、長崎に到着した際の様子、出島商館についての詳しい解説(264ページ)、そして江戸参府紀行(281ページ)に関する説明がここにはまとめて収録されています。収録されている図版は、野外での宴会を描いた図、礼服を着た男性の図、普段着の女性の図です。(「羽田孝之」稿 ≫
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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行 [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その二)「シーボルト江戸参府紀行図」(「1826年(文政9年)」)と参加者

(別記)「シーボルト江戸参府紀行図」

オランダ商館長の江戸参府と鞆の浦.gif

「オランダ商館長の江戸参府と鞆の浦」(矢田純子稿・比較日本学教育研究センター研究年報第6号)
http://hanamoriyashiki.blogspot.com/2019/05/20-2-14ch-de-villeneuve.html

「オランダ商館長の江戸参府と鞆の浦」(矢田純子稿・比較日本学教育研究センター研究年報第6号)

≪ 江戸参府は、オランダ商館長が江戸へ行き将軍に拝謁し、献上品を送ることで、寛永十年(1633)以来恒例となる。寛文元年(1661)以降、旧暦正月に長崎を出発し、三月朔日前後に拝謁するよう改められ、寛政二年(1790)からは4年に1回となり、嘉永三年(1850)が最後の参府となる。
 参府の経路を述べると、当初は長崎から平戸を経由し海路下関に向かっていたが、万治二年(1659)以降、長崎から小倉までは陸路となり、小倉から下関、下関から兵庫は海路で、兵庫-大坂から陸路で江戸へ向かっていた。下関から兵庫は順風であると約8日間を要した(【第1図】=上記図の原図)。
 なお経路はその年により多少の変動がある。参府旅行全体には平均90日前後を要し、江戸には2、3週間滞在していた。旅行の最長記録は以下で取り上げる文政九年(1826)の事例で、商館長スチュルレル一行が143日間をかけて参府旅行を行った。
 また、小倉では大坂屋善五郎、下関では伊藤杢之丞、佐甲三郎右衛門(隔年交代)、大坂では長崎屋五郎兵衛、京都で海老屋余右衛門、江戸においては長崎屋源右衛門というように、5つの都市には定宿が存在していた。≫

 上記の論稿の「商館長スチュルレル一行が143日間をかけて参府旅行」の、この紀行が、「シーボルド・川原慶賀」らが参加した「文政九年(1826)」の江戸参府紀行で、その「使節(公使)」の「オランダ商館長」は「スチュルレル(大佐)」(シュトューラー)、その随行員の「医師(外科)、生物学・民俗学・地理学に造詣の深い博物学者」が「シーボルト(大尉)」(ジ~ボルド)、もう一人の「書記」が「ビュルガル(薬剤師)」(ビュルガー)で、生物学・鉱物学・化学などに造詣が深く、シーボルドの片腕として同道している(もう一人、画家の「フィルヌーヴ」(フィレネーフェ)をシーボルドは同道させようとしたが、「西洋人」枠は三人で実現せず、その代役が、出島出入りを許可されている「町絵師・川原慶賀」ということになる)。

「渡辺崋山の戯画に描かれたビュルゲル」.gif 

「渡辺崋山の戯画に描かれたビュルゲル」抜粋(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%83%AB

 「渡辺崋山の描いたランプについて(大谷勝治郎稿)」(「Untitled - ライデン大学東京事務所」)には、上記の戯画とともに、「滝沢馬琴・屋代弘らの九人の筆で纏めた『兎園小説外集』の、次の「カピタンが献上目次 文政九年丙戊三月廿五日」が、詳細に紹介されている。

カピタンが献上目次 .gif

「カピタンが献上目次 文政九年丙戊三月廿五日」(抜粋) 「渡辺崋山の描いたランプについて(大谷勝治郎稿)」(「Untitled - ライデン大学東京事務所」)

 ここに出てくる、この三人が、この「江戸参府」の公式メンバーの三人で、それは、「かぴたん(カピタン=オランダ商館長):すてゆるねす(スチュルレル・52歳)」、「役人(書記):ぴゅるげる(ビュルゲル・22歳)」、そして「外科(医師):しいぼると(シーボルト・24歳)」ということになる。
 これらの三人について、下記のアドレスのものと「ウィキペディア」などで、紹介して置きたい。

【 ヨハン・ウィレム・デ・スチュルレル(de Surler, Joan Willem, 1773 マーストリッヒ– 1855 パリ)
 シーボルトとともに 1823 年に来日。当時陸軍大佐で前任者ブロムホフ(J. Cock Blomhoff)のあとをうけて出島のオランダ商館長となる。在任中ジーボルトとはげしく対立し、総督に対しジーボルトに不利な報告をした。貿易改善には力を注いだが、厳格に過ぎてその目的を達成することができなかった。1826(文政九)年の末にバタヴィアに帰る。のちシーボルト事件がおこりその処分が決定されると、彼に対しても日本への再渡禁止が伝えられた。
(http://hanamoriyashiki.blogspot.com/2019/05/16-10-villeneuve-karel-hubert-de.html )

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ドイツ語: Philipp Franz Balthasar von Siebold、1796年2月17日 - 1866年10月18日)は、ドイツの医師・博物学者。標準ドイツ語での発音を日本語で表記すると「ズィーボルト」「ジーボルト」だが、日本では「シーボルト」と表記されることが多い。出島の三学者の一人。(「ウィキペディア」)

ハインリヒ・ビュルゲル(Heinrich Bürger、Heinrich Burger、1804年2月29日か11月7日か1806年1月20日生まれ、- 1858年3月25日)はドイツ生まれの薬剤師、生物学者である。オランダ政府に雇われてシーボルトの助手となって日本に滞在した。シーボルトの日本の動植物に関する研究において重要な役割をはたした。(「ウィキペディア」) 】

 この三人の他に、シーボルトが公式メンバーの一人として参加させようとした「画家・フィルヌーヴ(ウィルヌーヴ,フィレニューフェ,フィレネウフェ)」と、「ヘルマン・フェリックス・メイラン(「シーボルト事件時の商館長)・ファン・デル・カペレン男爵(シーボルト日本派遣時の東インド総督)」とを同記のアドレスで紹介して置きたい。

http://hanamoriyashiki.blogspot.com/2019/05/16-10-villeneuve-karel-hubert-de.html

【 ウィルヌーヴ(ウィルヌーヴ,フィレニューフェ,フィレネウフェ),Villeneuve, Karel Hubert de (Charles Hubert de, Carel Hubert de, 1800 - 1874. 09. 29) は,フランス系オランダ人で, Saint-Omer, Pas-de-Calais, Nord-Pas-de-Calais, France,サントメール、パ=ド=カレー県,ノール=パ・ド・カレー地域圏,フランス(一説にはオランダのハーグ),で,Arnould de Villeneuve と Maria Sybilla van Halmの息子として生まれ,蘭領東インド陸軍病院に勤務していた.文政8 (1825) 年シーボルトの招きで,薬剤師ビュルガーと共に来日した。
 一時ジャワに渡りバタヴィアで Maria Johanna Josephine van Wingerden (マリア・ヨハンナ・ヨセフィナ・ファン・ウィンヘルデン)と結婚し,1829年8月19日に妻を伴ってジャワ号で再来日したが,女性の上陸は認められず,マリアは船上で生活し,彼は四カ月間,船から商館に通った。
左図(省略)は唐絵目利・御用絵師であった石崎融思が,一日,出島役人に従い実見した上で描写した.賛には彼女の「名はミミー(彌々)で1 9 歳,画工フィレニューフェの妻」とある。
その後マリアは,国外追放となったシーボルト(ハウプトマン号)と共に,1829年12月,ジャワ号でバタヴィアに送り返された。
 フィルヌーヴは絵画に優れており,シーボルトの助手として動植物の生態,風俗,人物画などを描いた.また,川原慶賀に西洋画の技法を指導した。現在長崎に残されている彼の作品に『シーボルト肖像画 』,『石橋助左衛門像』がある。
彼の画は,シーボルトの著作『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などに散見されるが,写実的で正確な筆致の描写がうかがわれる.特に慶賀が苦手とした哺乳類の描画に優れ,シーボルトが追放された後も多くの絵を送った。 

ヘルマン・フェリックス・メイラン(Meijlan,Germain Felix,1775 ライデン - 1831 バタビア(現ジャカルタ))
 江戸時代後期のオランダの長崎出島商館長。 1806年東インド会社会計副検査官となり、のち検査官、地租監督官を経て、26年日本商館長に任命され、文政 9 (1827) 年長崎に着任した。在任中は、脇荷貿易(対日私貿易)の改善、1829年のシーボルト事件では円満解決につくす。バタビアに帰任してまもなく 46歳で死去。日本事情を調査し、日本誌"Japan" (1830) および『日本貿易史』 Geschiedkundig Overzigt van den Hendel der Europezen op Japan (1833) を著わした。

ファン・デル・カペレン男爵(Baron van der Capellen, Godert Alexander Gerard Philip, 1778 – 1848)
1815 年に、Cornelis Theodorus Elout と Arnold Adriaan Buyskes と共に、 Commissioners-General of the Dutch East Indies に任命され,1819年にオランダ領東インド総督 (Governor-General of the Dutch East Indies, Gouverneur-generaal van Nederlands-Indië) として、ジャワに赴任。本国政府の政策を受け、日本との貿易を革新するためには、日本を総合的・科学的に調査・研究する必要を認識し,シーボルトを出島の医師として派遣した.この目的のために,シーボルトに財政的・精神、に多大の援助を与えた。 】

 また、下記のアドレスにより、「スチュルレル」の前任の商館長(プロムホ)なども、ここに併記して置こう。

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/dejimasyoukan/dejimasyoukan.html

【 ヤン・コック=ブロムホフ(1779-1853、Jan Cock Blomhoft)
 オランダのアムステルダムに生まれる。1809年に荷倉役として赴任し、フェートン号事件の際には当時の商館長ドゥーフと共に活躍し、その後1817年に商館長として再赴任する際、家族を同伴して来日したことで知られる。オランダでの公的な日本コレクションはブロンホフに始まったとされ、日本の文化風俗を伝える様々な文物を持ち帰った。ブロンホフの持ち帰った江戸後期の出島模型を元にして、長崎の出島復元事業は進められている。

 ヨハン・ゲハルト・フレデリック・フォン・オーフェルメール=フィセル(1800-1848、Johannes Gerhard Frederik van Overmeer Fisscher )
 オランダのハルデルウェクに生まれる。1820年出島に商館員として赴任。9年間出島に滞在し、1822年にはブロンホフの江戸参府に随行し、絵画や大工道具などをコレクションした。帰国後、豊富な収集品や日本での経験に基づき『日本風俗誌』を著した。1820年ブロンホフが長崎奉行や役人を招待して上演した芝居の中心人物としても知られる。】(「川原慶賀の見た江戸時代の日本1 - 長崎歴史文化博物館」)

 この時の、「日本人」の随行者は、「シーボルト『日本』の研究と解説(講談社)」所収の「1826年の『江戸参府紀行』(斎藤信稿)p129」によると、その主だったメンバーと役職などは次のとおりである。

一「付添検使」(この旅行の責任者。江戸から派遣されている長崎奉行配下の「給人・御番所衆」=幕府・大名から知行地あるいはその格式を与えられた旗本・家臣など)=「川崎源蔵」の名で記述されている(この「川崎源蔵」は「シーボルト事件に関する申渡書」に出てくる「大草能登守の家臣・水野平兵衛」ではないかとされている。)
二「大通詞」(オランダ語通訳官の長官)=「末永甚左衛門」
三「小通詞(「大通詞」に次ぐ通訳官)=「岩崎弥十郎」
四「公使(使節・商館長)の私設通詞」=「名村八太郎」
五「宰領」(「付添検使」下の「世話人」)=二人?
六「筆者」(「書画」を筆記する人)=四人?
六「賄方」(料理人の責任者)=二人?
七「同心」(下級の役人)・「従僕」(私設の下男)=三十一人? など「随員は日本人合計57名」

 これらの「江戸参府紀行の使節団」関連として、下記のアドレスでは、下記のように紹介している。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1903/index.html

≪ オランダ商館の重要な仕事の一つに「江戸参府」があります。独占貿易の感謝を伝えるため、商館長自ら献上品を持って江戸まで赴き、将軍に拝謁するというものです。貿易が盛んだった時代は毎年行われており、1690年から2年滞在したケンペルは、2回江戸参府に参加することができました。ところが、貿易量が半分に落ち込んだ1790年以降は4年に1回になり、シーボルトは6年間滞在したにも関わらず江戸参府参加は1度だけでした。
「日本の調査」というミッションを持ったシーボルトにとって、日本縦断の旅は最大のチャンス。「江戸参府紀行」の序文で「国土とその産物について得た知識ならびに国民の文化程度。商工業・国家や国民の社会慣行などについての私の見聞を、あらゆる方面にわたって広げることがいまや来るべき江戸旅行の主目的であった」と書いています。
 この旅で最大限の成果をあげられるよう、2年かけて入念な準備をしました。調査は1人で行うよりも複数のほうが効率的です。そこでシーボルトは調査団を作ることにしました。
 江戸参府に参加できるオランダ人は商館長、書記、医者の3名だけです。ただしオランダ人が自分で費用を負担すれば、複数の従僕を連れていくことが許されていました。そこでシーボルトは、専門性の高い能力を持った8名を雇い入れ「チーム・シーボルト」を結成したのです。
「ビュルガー」(注:「ビュルゲル」、「書記」として「公式随行員」として参加している。)
 ビュルガーは1825年に、シーボルトの日本調査を手助けするために派遣された人物で、江戸参府には「書記」として参加しました。この旅でビュルガーは、シーボルトの右腕として大活躍、旅行記には幾度となく名前が出てきます。(略)ビュルガーは主に地質学の分野を担当していたことがわかります。
「川原慶賀」(注:「筆者」又は「シーボルト」の私設「従僕」?)
 写真が発明される以前は、記録として残しておきたい物は絵に描くしかなく、画家を連れていく必要がありました。本国から呼び寄せたオランダ人の画家がいましたが、江戸参府には行けるオランダ人が三人と決まっていたために、シーボルトが日本に来る以前からオランダ商館専属の絵師として出島に出入りしていた川原慶賀に白羽の矢が立ちました。
「高良斎」他(注:公式の「従僕」か「シーボルト私設の従僕」かは、不明?)
 阿波出身の医師で、シーボルトが信頼する門人の一人。オランダ語がスラスラで、植物学と漢学に長けていることからメンバーに選ばれました。良斎のほかにも医学の門人「二宮敬作」、「ショウゲン」「ケイタロウ」らも同行しました。いく先いく先、シーボルトに治療してほしい病人が詰め掛けており、彼らがシーボルトの助手をつとめたものと思われます。
 「弁之助」「熊吉」という作業担当のメンバーがいました。捕えた動物を剥製(はくせい)にしたり、採取した植物を乾燥させて標本にしたりするのが彼らの仕事。こういった技術は出島にいるときに仕込んでおきました。「庭師」も一人同行、植物の採取などを担当したと思われます。猟師も連れて行きたかったのですが、旅行中の狩猟は禁じられていたため諦めました。
「外部スタッフ」
 長崎でシーボルトの指導を受けた門人たちのうち、すでに地元に戻っていた者たちは、シーボルトが滞在している宿まで訪ねてきました。地元の産物を集めてくる者もいれば、学位論文を提出する者もいます。また他にも、手紙のやり取りで知り合った者や、現地で会い、そのまま門人になった者など多数の「外部スタッフ」がいました。主な人物としては「山口行斎」「水谷助六」「伊藤圭介」「大河内存内」「湊長安」「最上徳内」が挙げられます。≫
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西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その一) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その一)「シーボルト江戸参府紀行日程」(「1826年(文政9年)」)周辺

江戸参府紀行一.jpg

Author: Kawahara Keiga
Copyright: Rijksmuseum voor Volkenkunde
https://bigwalk2009.at.webry.info/201101/article_2.html
≪オランダ王立図書館(KB)の電子図書館(het geheugen van nederland)で"Hofreis"をkey wordにして検索すると、hofreis関連のVisual Material一覧(43種類)が表示され、閲覧することができる。
http://www.geheugenvannederland.nl/?/nl/zoekresultaten/pagina/1/Hofreis/%28Hofreis%29/&colcount=0&wst=Hofreis ≫(「江戸参府ビッグウォーク2009」)

 この絵図(原画)は、上記のアドレスで検索すると、次のとおり紹介されている(その「日本語」翻訳のままに記載する。誤訳など注意書きをしたいものは※印を付し括弧書きしている。)

https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/stoet-hofreis-kawahara-keiga?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=1&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3A1-4488-33

≪ 行列の宮廷旅行
メーカー  アーティスト:川原圭(※慶)賀
製造年   1826
製造場所  日本
定義    オランダ人は毎年、江戸(現在の東京)にある日本の軍事指導者である将軍の宮廷を訪れなければなりません。それを買う(※それを許された)余裕のある人は皆、ノリモノ(キャリーチェア=※駕籠)で旅をしました。画像はオランダ人の行列が向かっているところです。
オブジェクトのタイプ  絵画
寸法      20.9 × 47.4センチメートル
徴収(※来歴)  オランダ - 日本
施設(※情報・出典先) Koninklijke Bibliotheek(※ハーグにあるオランダの国立図書館)
源(※所蔵館)     1-4488-33 (絵画), アムステルダム国立美術館
著作権        情報(※所蔵館): 国立美術館             ≫

この原画での、シーボルトの『NIPPON』の挿絵図も下記のように紹介されている。

江戸参府紀行二.gif

https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/hofstoet?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-

≪ 従者
製造年  1832-1839
製造場所 ライデン/アムステルダム
定義   オランダ人が日本を通り抜けて、日本の軍事指導者である将軍の宮廷まで、江戸(現在の東京)へ向かう行列。
徴収   オランダ - 日本
施設   Koninklijke Bibliotheek
源    YAA 403 [-408] (イラスト), コニンクリケ図書館
著作権  情報: Koninklijke Bibliothee    ≫

この「コニンクリケ図書館(オランダ)」所蔵の「シーボルト『Nippon』図版篇」所収図と、その由来を同じくすると思われる「シーボルト『Nippon(初版、未製本)』図版篇」周辺(九州大学医学図書館所蔵)の、その所収図は、次のものである。

江戸参府紀行三.gif

「Nippon Atlas. 5-5」
「シーボルト『Nippon(初版、未製本)』図版篇」周辺(九州大学医学図書館所蔵)所収
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-688%2C-291%2C5202%2C5811

 この「シーボルト『Nippon(初版、未製本)』図版篇」周辺(九州大学医学図書館所蔵)に関連して、次のアドレスのとおり、「シーボルト『Nippon(初版、未製本)』図版篇のデジタル化画像を公開しました」と、その全貌をデジタル化し、公開している・

https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/news/15036

≪ このたび、本学医学図書館所蔵のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト『Nippon(初版、未製本)』図版篇(刊行:1832年~)のデジタル化画像(口絵+図版362枚;図版4枚欠)を九大コレクションで公開しました。
 シーボルトの『Nippon』は本文篇と図版篇から成り、オランダのライデンで1832年からおよそ20年の年月をかけて分冊で刊行されました。今回デジタル化した資料の原本は、大正15(1926)年に九州大学医学部法医学研究室が3,000円で購入したものとされ、未製本の初版になります。ヴォルフガング・ミヒェル本学名誉教授は、「一九二六年に法医学教室が購入した初版は、分冊のまま保存されており、出版当時の複雑な流れを示す極めて重要な史料である。また、詳細なところまで観察できる、三六七枚に及ぶ大型図版の多くは、縮小された第二版以降には収録されていない。」(九大広報, vol.53)としています。
 19世紀初頭の日本をビジュアルでヨーロッパに伝えた図版の数々をご覧ください。

資料一覧

九大コレクション > 貴重資料 > 「シーボルト nippon」等のキーワードで検索してください。
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_browse/rare/

Atlas 1
http://hdl.handle.net/2324/1906465

Atlas 2
http://hdl.handle.net/2324/1906466
Atlas 3
http://hdl.handle.net/2324/1906467
Atlas 4
http://hdl.handle.net/2324/1906468
Atlas 5(※113番、123番は欠図)
http://hdl.handle.net/2324/1906469
Atlas 6
http://hdl.handle.net/2324/1906470
Atlas 7-8
http://hdl.handle.net/2324/1906471
Atlas 9-10
http://hdl.handle.net/2324/1906472
Atlas 11-12
http://hdl.handle.net/2324/1906473
Atlas 13-14
http://hdl.handle.net/2324/1906474
Atlas 15
http://hdl.handle.net/2324/1906475
Atlas 16
http://hdl.handle.net/2324/1906476
Atlas 17-18
http://hdl.handle.net/2324/1906477
Atlas 19-20(※361番、367番は欠図)
http://hdl.handle.net/2324/1906478
原資料

『Nippon; Archiv zur Beschreibung von Japan, und dessen Neben- und Schutzländern: Jezo mit den südlichen Kurilen, krafto, Koorai und den Liukiu-Inseln, nach japanischen und europäischen Schriften und eigenen Beobachtungen.』(医学図書館所蔵)
http://hdl.handle.net/2324/1001615671

関連文献

日本語訳『日本 : 日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』(雄松堂書店, 1977-1979)
http://hdl.handle.net/2324/1000295399
復刻版『Nippon : Archiv zur Beschreibung von Japan』(講談社, 1975)
http://hdl.handle.net/2324/1000951631
Michel Wolfgang「九大至宝:シーボルトNIPPON」(九大広報, vol.53, 2007.9)
http://www.kyushu-u.ac.jp/f/4959/No53.pdf#page=2
宮崎克則『シーボルト『NIPPON』の書誌学研究』(花乱社, 2017)
http://hdl.handle.net/2324/1001626623                    ≫

 これは、「西洋(オランダ)=オランダ王立図書館(KB)の電子図書館(het geheugen van nederland)」と「日本=九州大学付属図書館(https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/news/15036)」との、その「邂逅」(出会い)に他ならず、、そして、その、「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らとの、この「『西洋人(シーボルト)と日本人(川原慶賀)』らの「江戸参府の紀行日程」」の、その全貌は、下記のアドレスにより、次(別記)のとおりである。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~masaji/lolietravel/capitan/index.html

(別記)「シーボルト江戸参府紀行日程(1826年(文政9年)」周辺(一部要約抜粋)
≪参考文献:「江戸参府紀行 ジーボルト著 斎藤信訳(平凡社)」「シーボルト 板沢武雄著(吉川弘文館)」≫

日数 西暦  和暦 天候  行程       日誌
1  2/15  1/9  晴 出島-諫早     威福寺での別れの宴など
2 2/16 1/10 晴 諫早-大村-彼杵  大村の真珠・天然痘の隔離など
3  2/17  1/11    彼杵-嬉野-塚崎(武雄)嬉野と塚崎の温泉など 
4  2/18  1/12 晴  塚崎-小田-佐賀-神崎 小田の馬頭観音・佐賀など
5  2/19  1/13 晴  神崎-山家 筑後川流域の農業・筑前藩主別荘など
6 2/20 1/14 雨 山家-木屋瀬 内陸部高地の住民など
7  2/21  1/15 雨 木屋瀬-小倉   渡り鳥の捕獲
8  2/22  1/16 晴 小倉-下関   小倉の市場・与次兵衛瀬記念碑など
9  2/23  1/17 晴 下関滞在       門人の来訪・カニの眼
10  2/24 1/18 晴 下関 早鞆岬と阿弥陀寺・安德天皇廟など
11  2/25 1/19 晴 下関 萩の富豪熊谷五右衛門義比など
12  2/26 1/20 晴 下関 門人・知友来訪・病人診療と手術など
13 2/27 1/21 晴 下関 近郊の散策・六連島・捕鯨について
14 2/28 1/22 晴 下関 薬品応手録・コーヒーの輸入など
15 3/1 1/23 晴 下関 正午過ぎ乗船 ブロムホフの詩・下関の市街など
16 3/2 1/24 晴 下関出帆  
17 3/3 1/25 晴 船中 夜風強まり屋代島の近くに舟をつなぐ
18 3/4 1/26 晴 屋代島の東南牛首崎に上陸・象の臼歯化石発見・三原沖に停泊
19 3/5 1/27 晴 船中 水島灘・阿伏兎観音・琴平山・内海の景観・日比に停泊
20 3/6 1/28 晴 早朝上陸 日比の塩田と製塩法
21 3/7 1/29 晴 日比-室津上陸 室のホテル(建築様式・家具など)
22 3/8 1/30 晴 室滞在 室の付近について・娼家・室明神・室の産物
23 3/9 2/1 晴、夜雪 室-姫路 肥料・穢多・非人・大名の献上品など
24 3/10 2/2 雪 姫路-加古川 高砂の角力者の招待
25 3/11 2/3 晴 加古川-兵庫 敦盛そば・兵庫の侍医某来訪
26 3/12 2/4 晴 兵庫-西宮 楠正成の墓・生田明神
27 3/13 2/5 吹雪 西宮-大坂  
28 3/14 2/6 快晴 大坂滞在 多数の医師来訪・薬品応手録印刷できる
29 3/15 2/7 晴 大坂 二、三の手術を行なう・動脈瘤
30 3/16 2/8 晴 大坂 鹿の畸形・飛脚便について
31 3/17 2/9 晴 大坂-伏見 淀川の灌漑など
32 3/18 2/10 晴 伏見-京都 小森玄良、新宮涼庭らと会う
33 3/19 2/11 晴 京都滞在 小森玄良、小倉中納言来訪
34 3/20 2/12 晴 京都 多数の医師が病人を伴って来る
35 3/21 2/13 晴 京都 来訪者多数・名所見物を帰路に延ばす
36 3/22 2/14 晴 京都 二条城・京都は美術工芸の中心地
37 3/23 2/15 晴 京都 天文台・京都の人口
38 3/24 2/16 晴 京都 明日の出発準備
39 3/25 2/17 晴 京都-草津 日付はないが琵琶湖付近の風景の記述
40 3/26 2/18 晴 草津-土山 梅木の売薬・植物採集の依頼・三宝荒神
41 3/27 2/19 晴 土山-四日市 鈴鹿山のサンショウウオ
42 3/28 2/20 四日市-佐屋(原文 Yazu)二度の収穫・桑名の鋳物
43 3/29 2/21 晴 佐屋-宮-池鯉鮒 水谷助六・伊藤圭介・大河内存真同行
44  3/30 2/22 晴 池鯉鮒-吉田 矢矧橋
45 3/31 2/23 曇・雨空 吉田-浜松 雲母の採集・白魚
46  4/1 2/24 晴 浜松-掛川 秋葉山・商館長ヘンミーの墓
47 4/2 2/25 晴・寒  掛川-大井川-藤枝 大井川の渡河・川人足
48 4/3 2/26 強雨 藤枝-府中 軟骨魚類の加工・駿府の木細工と編細工
49 4/4 2/27 晴 府中-沖津 沖津川増水・上席検使に化学実験を見せる
50 4/5 2/28 快晴 沖津-蒲原 製紙・急造の橋
51 4/6 2/29 快晴 蒲原-沼津 富士川の舟・富士山高度・原の植松氏の庭園
52 4/7 3/1 晴 沼津-箱根-小田原 中津侯家臣神谷源内一行の出迎え
53 4/8 3/2 雨 小田原-藤原 旅館満員で娼家に泊まる
54 4/9 3/3 晴 藤沢-川崎 長崎屋源右衛門出迎え
55 4/10 3/4 晴 川崎-江戸 薩摩中津両侯大森で、桂川甫賢ら品川で出迎え
56 4/11 3/5 江戸滞在 面会ゆるされず、桂川甫賢・神谷源内・大槻玄沢ら来訪
57 4/12 3/6 江戸 終日荷解き・薩摩侯より贈物・夜中津侯来訪
58 4/13 3/7 江戸 桂川甫賢、宇田川榕庵から乾腊植物をもらう
59 4/14 3/8 江戸 将軍、その世子への献上品を発送
60 4/15 3/9 江戸 中津島津両侯の正式訪問・日本の貴族
61 4/16 3/10 江戸 最上德内来訪、エゾ、カラフトの地図を借りる 
62  4/17 3/11 江戸 桂川甫賢・大槻玄沢来訪
63 4/18 3/12 江戸 高橋作左衛門来訪
64 4/19 3/13 江戸 桂川甫賢来訪し、シーボルトの長期滞在の見通しを伝える
65  4/20 3/14 江戸 豚の眼の解剖など手術の講義・地震など
66  4/21 3/15 江戸 最上德内とエゾ語を研究・謁見延期となる
67 4/22 3/16 江戸 付添いの検使、研究に対して好意を示す
68 4/23 3/17 江戸 幕府の医師に種痘を説明
69 4/24 3/18 江戸 天文方の人びと来訪
70 4/25 3/19 江戸 将軍家侍医にベラドンナで瞳孔を開く実験をみせる
71 4/26 3/20 江戸 兎唇の手術・種痘の方法を教える
72 4/27 3/21 江戸 再び二人の子供に種痘
73 4/28 3/22 江戸 ラッコの毛皮を売りにくる
74 4/29 3/23 江戸 天文方来訪
75 4/30 3/24 江戸 幕府の侍医らジーボルトの長期江戸滞在の幕府申請など
76 5/1 3/25 江戸 登城し将軍に拝謁・拝礼の予行と本番など
77 5/2 3/26 江戸 町奉行・寺社奉行を訪問
78 5/3 3/27 江戸 庶民階級の日本人との交際
79 5/4 3/28 江戸 将軍および世子に暇乞いのため謁見・江戸府中の巡察など
80 5/5 3/29 江戸 使節の公式の行列
81 5/6 3/30 江戸 官医来訪
82 5/7 4/1 江戸 中津侯、グロビウス(高橋作左衛門)来訪
83 5/8 4/2 江戸 漢方医がジーボルトの江戸滞在延期に反対するという
84 5/9 4/3 江戸 知友多数来訪〔10以後記事を欠く〕
85 5/10 4/4 江戸  
86 5/11 4/5 江戸  
87 5/12 4/6 江戸  
88 5/13 4/7 江戸  
89 5/14 4/8 江戸  
90 5/15 4/9 江戸 高橋作左衛門が日本地図を示し、後日これを贈ることを約す
91 5/16 4/10 江戸 滞在延期の望みなくなる
92 5/17 4/11 江戸 明日江戸出発と決まる
93 5/18 4/12 晴 江戸-川崎 江戸の富士
94 5/19 4/13 晴 川崎-藤沢 鶴見付近のナシの棚
95 5/20 4/14 晴 藤沢-小田原  
96 5/21 4/15 曇 小田原-三島 山崎で江戸から同行した最上德内と別れる
97 5/22 4/16 曇 三島-蒲原 再び植松氏の庭園をみる
98 5/23 4/17 晴 蒲原-府中 牛車について
99 5/24 4/18 晴 府中-日坂 薬用植物のこと
100 5/25 4/19 曇 日坂-浜松 高良斎の兄弟来る
101 5/26 4/20 晴 浜松-赤坂 植物採集とその整理
102 5/27 4/21 豪雨 赤坂-宮 宮で水谷・伊藤らと会う
103 5/28 4/22 晴 宮-桑名-四日市 宮の渡し舟のこと
104 5/29 4/23 晴 四日市-関  
105 5/30 4/24 強雨 関-石部 夏目村の噴泉
106 5/31 4/25 晴 石部-大津 川辺の善性寺の庭・タケの杖・瓦の製法
107 6/1 4/26 曇 大津-京都  
108 6/2 4/27 晴 京都滞在 友人門人、小森、新宮ら来訪・京都特に宮廷など
109 6/3 4/28 晴 京都 宮廷に関する記事
110 6/4 4/29 晴 京都 小森玄良から宮廷の衣裳の話
111 6/5 4/30 晴 京都 小森の家族と過ごす
112 6/6 5/1 晴 京都 所司代・町奉行を訪問
113 6/7 5/2 晴 京都-伏見-大坂 知恩院・祗園社・清水寺・三十三間堂など
114 6/8 5/3 晴 大坂滞在 大坂についての記述
115 6/9 5/4 晴 大坂 研究用品の購入と注文
116 6/10 5/5 晴 大坂 心斎橋・天下茶屋・住吉明神・天王寺など
117 6/11 5/6 晴 大坂 町奉行および製銅家を訪問
118 6/12 5/7 晴 大坂 芝居見物・日本の劇場・妹背山の芝居
119 6/13 5/8 晴 大坂 来訪者多数・明日は出発
120 6/14 5/9 晴 大坂-西宮 肥料船のこと
121 6/15 5/10 晴 西宮-兵庫  
122 6/16 5/11 兵庫 向い風のため出帆延期
123 6/17 5/12 兵庫 向い風のため出帆延期
124 6/18 5/13 兵庫 向い風のため出帆延期
125 6/19 5/14 夜兵庫を出帆
126 6/20 5/15 船中 朝 室の沖合で経度観測
127 6/21 5/16 船中 朝に室の沖合-正午与島にゆく・造船所など
128 6/22 5/17 船中 夜備後の海岸に向かって進み、陸地近くに停泊
129 6/23 5/18 船中 引き船で鞆に入港・正午上陸・夜半に港外へ
130 6/24 5/19 船中 島から島へ進み、夕方御手洗沖・夜半停泊
131 6/25 5/20 船中 御手洗より患者が来て診察をもとむ・家室島の近くに停泊
132 6/26 5/21 船中 風雨強く午後出帆し、上関瀬戸を経て夜上関入港
133 6/27 5/22 上陸し上関見物・室津へゆく・夜出港
134 6/28 5/23 船中 午後二時過ぎ下関入港
135 6/29 5/24 下関滞在 海峡の図を受け取る・友人来訪
136 6/30 5/25 下関-小倉  
137 7/1 5/26 小倉-飯塚  
138 7/2 5/27 飯塚-田代  
139 7/3 5/28 田代-牛津  
140 7/4 5/29 牛津-嬉野  
141 7/5 6/1 嬉野-大村 出島の友人みな元気との知らせを受ける
142 7/6 6/2 大村-矢上 出迎えの人その数を増す
143 7/7 6/3 矢上-出島 正、同郷人に迎えられ出島につく
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