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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京都の画人たち」(その一「応挙」) [洛東遺芳館]

(一) 応挙筆「五柳先生」

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応挙筆「五柳先生」(洛東遺芳館蔵)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

「安永五年(一七七六)、応挙四十四歳の時の作品です。五柳先生とは陶淵明のことです。
陶淵明の自伝と言われる「五柳先生伝」の中に、「宅辺に 五柳樹あり」とあります。この作品では、その柳と頭巾が陶淵明である ことを示しています。籬の下に菊が描かれているのは、陶淵明の有名な詩の一節「菊を採る東籬のもと」に基いています。いかにも応挙らしい円満な表情が特徴です。」

 この安永五年(一七七六)四月十三日、大雅が五十四歳の生涯を閉じた。当時、六十一歳の蕪村は、「大雅堂も一昨十三日故人と相成り候。平安の一奇物、をしき事に候」との書簡(安永五年四月十五日付け霞夫宛書簡)を今に残している。
 その前年の『平安人物志』(安永四年版)の画家の部には、「応挙(四条麩屋町西エ入町)・若冲(高倉錦小路上ル町)・大雅(祗園下河原)・蕪村(仏光寺烏丸西エ入町)」の順で、今に時めく四人の名が登載されている。
 この四人は、謂わば「応挙工房・画塾サロン」「若冲錦小路サロン」「大雅書画サロン」「蕪村画俳サロン」というような、一部、共通するメンバーを抱え、近接な場に居を構えていながら、それぞれ活動の場を異にしていて、相互の交流関係というのは、それほど密ではない。
 同年齢の「蕪村・若冲」とは、若冲が生粋の京都人とすると、蕪村は浪華の在の生まれで江戸放浪などを経て帰洛した他所人で、蕪村、若冲のどちらの側からも、この二人の直接的な交遊関係の接点というのは見えてこない。
 「蕪村・大雅」とは、共に日本南画の大成者として、画人としては、同じ文人画・南画というフィ―ルドで活躍しながら、今に「十便十宣図画冊」(「十便図=大雅筆」「十宣図=蕪村筆)の合作(鳴海の下郷学海の斡旋)を残すくらいでで、この二人の親密な関係というのも、これまた見えて来ない。
 この四人の中で、「蕪村・応挙」との関係は、この二人が茶屋などで小宴を催し、応挙が猫の戯画、蕪村が杓子の戯画と「ぢいもばばも猫もしゃくしもおどりかな」の戯句を賛しての、「猫も杓子も図画賛」(蕪村・応挙合作)などが今に残されており、比較的親密であったことが了知される。

 ここで、冒頭の「五柳先生」(応挙筆)に関連して、「蕪村」の号の由来は、陶淵明の「帰去来兮辞(ききょらいのじ)」の「田園将(まさ)ニ蕪(あ)レナントトス胡(なん)ゾ帰ラザル」とし、続けて、「蕪は荒れるの意味であり、『蕪村』は荒れ果てた村」の意であり、すなわち、蕪村にとって、生まれ故郷は「『帰るに帰れない』、その脳裏にのみ存在するものであった」(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)というのが、大方の「蕪村の号」の由来の、その根拠というようなことになろう。
 さらに、続けるならば、蕪村没後、蕪村の画俳二道の後継者の一人で、且つ、応挙に、亡き蕪村の高弟として遇せられる月渓(呉春)が、亡き師の机上にあった『陶靖節(淵明)詩集』に挟まれていた、師(蕪村)自筆の「桐火桶無弦の琴(きん)の撫でごころ」の栞を見付けて、これに画(陶淵明像)と賛(蕪村自筆であることの証文など)を付した「嫁入手(よめいりて)蕪村筆栞・月渓筆陶淵明図」(逸翁美術館蔵)が今に伝存されている。

 翻って、その文人画家・蕪村のスタートを飾った作品も、「陶淵明山水図(中村美術サロン蔵)」で、『蕪村全集六絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平他編))』の第一番目に登載されているのを始め、次のようなものが紹介されている。

一 絵画・模索期(宝暦八~明和六年)
48 陶淵明図 紙本淡彩 一幅 款「河南超居写」 国立博物館蔵
80 陶淵明聴松風図 双幅 款「東成謝長庚写」「辛巳冬写於三菓軒中謝長庚」 宝暦十
一年 「当市西陣平尾氏、上京井上氏旧蔵品入札」(大正六・四)
163 陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「倉家並某旧家什器入札」(昭四・六)
164  陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「大阪市某氏入札」(大十五・三)
二 絵画・完成期(明和七~安永六)
220 五柳先生図 一幅 款「写於夜半亭謝春星」 「第五回東美入札」(昭五四・三)
221 五柳先生図 絹本着色 一幅 款「謝春星写於三菓堂中」 「題不明入札(大阪)」(昭二十九・十) 
437 後赤壁賦・帰去来辞図 紙本淡彩 双幅 款「日東謝寅画幷書」「日東々成謝寅画且 
書」 逸翁美術館蔵
556 柳下陶淵明図 絹本淡彩 一幅 款「謝寅」 「七葉軒、不老庵入札」(昭四・四)
557 陶靖節図 絹本着色 一幅 款「倣張平山筆意 日東謝寅」 「松坂屋逸品古書籍書画幅大即売会目録」(昭和五十二・六)

 上記のとおり、蕪村の「五柳先生図」と題するものも、二点ほどあり、これらの、蕪村の「陶淵明(五柳先生)」にあやかり、応挙風の「「陶淵明(五柳先生)」の、応挙にしては、
その、蕪村(「五柳先生」のイメージの強い)への、俳諧(連句)の、挨拶句的な意味合いの強いものという雰囲気で無くもない。

 いずれにしろ、この応挙筆の「五柳先生」(陶淵明)は、陶淵明(五柳先生)」と深い縁のある蕪村との、「応挙と蕪村」との、知られざる何かを語っているイメージを受けるのである。

補記一 蕪村と月渓が描いた陶淵明像

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-13

補記二 蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その一)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

補記三 蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その二)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-06-01

補記四 蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その三)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-06-03


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