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町物(京都・江戸)と浮世絵(その二十 河鍋暁斎「風流蛙大合戦之図」など) [洛東遺芳館]

(その二十) 河鍋暁斎「風流蛙大合戦之図」など

蛙大合戦之図風流.jpg

河鍋暁斎「風流蛙大合戦之図」 大判三枚続 河鍋暁斎記念美術館蔵 元治元年(一八六四)作

 本図は暁斎が、蛙合戦に見立てて描いた幕府の長州征伐だといわれる。それは、右端の大鵬の車輪や陣幕には紀州徳川家の裏紋・六葉葵が、相手方の陣幕には毛利家の紋・沢瀉(おもだか)が描かれていることからわかる。水鉄砲に蒲の穂の槍と武器はユーモラスだが、細部には首を切られて血を流す蛙や突き刺す蛙もいる壮絶な合戦図だ。お咎めを恐れ版元は「スハヰ」、「暁斎」は「狂人」「狂者」と、それぞれ仮名を使っている。
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(加美山史子稿)

 月岡芳年が、「最後の浮世絵師」と冠せられるのに比すると、河鍋(かわなべ)暁斎(きょうさい)は「幕末の天才絵師」、あるいは、「奇想の天才絵師」と、「浮世絵師」よりも、より広い意味合いのある「絵師」(浮世絵師+日本画家)のネーミングが用いられるのが多い(『別冊太陽 河鍋暁斎―奇想の天才絵師 超絶技巧と爆笑戯画の名手―)・安村敏信監修』)。
 芳年(天保十年=一八三九~明治二十五年=一八九二)と暁斎(天保二年=一八三一~明治二十二年=一八八九)とは、暁斎が芳年よりも年長であるが、ほぼ、同時期(幕末の江戸期から明治期への大動乱時代)に活躍し、その同時期の人気を二分した双璧的な「浮世絵師・日本画家」と解して差し支えなかろう。
 そして、共に、歌川国芳門なのであるが、暁斎の国芳門(天保八年=一八三七=七歳~二年程度)の期間は短く、天保十一年(一八四〇=十歳)には、駿河台狩野派(前村洞和・狩野洞白)に入門し、嘉永二年(一八四九=十九歳)には、「洞郁陳之(とういくのりゆき)」の画号を得て、異例の若さで、狩野派の御用絵師の一角に、その名を記している。
 すなわち、暁斎は、浮世絵師・歌川国芳門というよりも、駿河台狩野派門の「本画」(「浮世絵」に対する「本画)の絵師というバックグラントを、終生、堅持し続けていることを、「河鍋暁斎」の、その全体像を把握するのには、ここからスタートとする必要がある。
 それに比して、芳年は、嘉永三年(一八五〇=十一歳)に、歌川国芳門に入門し、国芳没(文久元年=一八六一)後も、その国芳の「浮世絵」の世界を、これまた、終生、堅持し続けていることを、「月岡芳年」の、その全体像を把握するのには、やはり、ここからスタートする必要があろう。

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『暁斎画談. 外篇 巻之上』所収「暁斎幼時国芳ヘ入塾ノ図」(補記二)

 暁斎には、自らが挿絵を描いた伝記『暁斎画談』(瓜生政和著 河鍋洞郁画)がある。上記の図は、暁斎が七歳の時に、浮世絵師・歌川国芳門に入塾した折りの暁斎自身の挿絵である。中央の猫を抱いて、右手に筆をもって、子供の絵に手入れをしているのが、国芳である。そして、国芳の指導を受けているのが、幼少名・周三郎こと暁斎その人である。猫好きの国芳は猫を抱きながら、その文台の前にも猫が数匹居る。国芳は暁斎を「奇童」と呼び、可愛がったとの記述がある。
 幼少時の暁斎には、この猫好きの、そして、反骨精神の旺盛な国芳の影響が大きかったというのは、この挿絵からも強烈に伝わって来る。

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『暁斎画談. 外篇 巻之上』所収「駿河台狩野洞白氏邸宅ノ図」(補記二)

 上記の図は、国芳画塾を後にして、天保十一年(一八四〇・十歳)に狩野派の絵師・前村洞和門に入った後、洞和が病に倒れ、洞和の師筋の、駿河台狩野洞白に入門した天保十ニ年(一八四一・十一歳)以降の「駿河台狩野洞白氏邸宅ノ図」である。
 ここでも、洞和が、暁斎を「画鬼」と呼んで可愛がったとの記述があり、この図の右上にお茶をもって、客間の方に行く童子が、「画鬼」と呼ばれていた暁斎のようでもある。
この狩野派画塾で、狩野派の根幹である「臨写」は勿論、さまざまな「古画」の修得、さらには、大和絵、文人画など、あらゆるジャンルのものに食指を伸ばし、嘉永二年(一八四九・十九歳)に、狩野派絵師として独立し、安政二年(一八五五・二十五歳)の江戸大地震(安政大地震)の年、仮名垣魯文の戯文に「鯰絵」を描いて、一躍人気絵師の仲間入りをする。
この背景には、御用絵師の狩野派絵師だけでは成り立たない時代で、謂わば、浮世絵師としての戯画・風刺画、そして、挿絵画を手掛け、その傍流の画業のもとに、主流の注文画(本画)を続けるというのが、当時の絵師の日常であったのかも知れない。
そして、暁斎は、この二刀流(狩野派絵師+浮世絵師)の達人で、安政五年(一八五八・二十八歳)には、「惺々狂斎(せいせいきょうさい)」と号して、暁斎の「狂画」の世界における「狂斎」の時代がスタートとする。
その一方、その翌年の、安政六年(一八五九・二十九斎)には、駿河台狩野派絵師として、芝増上寺宝蔵院・黒本尊の院殿修復にも参加し、この狩野派の一員であることは、例えば、明治十七年(一八八四・五十四歳)の年譜に、「八月、狩野洞春秀信(前名洞栄)死亡。暁斎は洞春臨終に際して駿河台狩野派の画技遵守を依頼され、宗家である狩野永悳立信(えいとくたちのぶ)に再入門する」など、それは頑として堅持し続けている。

 さて、冒頭の「風流蛙大合戦之図」に戻って、これを制作した「元治元年(一八六四・三十四歳)」には、暁斎は、その年譜の「浮世絵の大家、三代歌川豊国(この年に没)に引き立てられ、狂斎、周麿の画号を用いて数々の錦絵を合筆とする」など、暁斎の最初の師の国芳よりも人気の高かかった三代豊国(国貞)と合筆するという、狩野派絵師「暁斎」よりも浮世絵師「(惺々)暁斎・狂斎」の画業が群れを抜いていた頃のものである。
 一方、「最後の浮世絵師」の名が冠せられる芳年は、この年(元治元年)、二十六歳の頃で、その翌年(慶應元年=一八六五=二十七歳)に、当時の『流行一覧歳盛記』(浮世絵師細見)で、その第十位に名を連ねている頃に当たる。
 そして、先に紹介した芳年の「猫鼠合戦」(安政五・六年=一八五八・五九)は、二十歳代の芳年のデビュー当時のもので、暁斎(狂斎)の、冒頭の「風流蛙大合戦之図」(元治元年=一八六四)とは、その背景は、幕末から明治に掛けての大動乱の時代のものであるが、相互に、無関係なものと解した方が無難のようである。
 しかし、両者に共通することは、「鎖国(保守=旧)派対開国(革新=新)派」(芳年の「猫鼠合戦」)と「幕府軍(攘夷穏健派=保守派=旧」対長州軍(過激攘夷派=革新派=新」(暁斎の「風流蛙大合戦之図」)との、新しい時代の幕開けの「旧派と新派」との混沌とした世相を見事に風刺化する、二人の共通の師である「歌川国芳」の「諧謔精神」を見事に引き継いでいる、すなわち、「国芳の継承者」であることは、断言しても差し支えなかろう。

「風流蛙大合戦之図」の「謎々」と恣意的な「コメント」(絵文字入りコメント)

一 この「大判錦絵(浮世絵版画)三枚続(三枚続きのパノラマ画図)」の版元「スハヰ」、そして、絵師の「暁斎・狂人・狂者」など、この画図が、お咎めを恐れてのアングラ版的な用例であることは、そうなのかも知れない(((;◔ᴗ◔;)))

二 この「三枚続」を、「右・中・左」の合成の、「風流蛙大合戦之図」と解して、全体として、「右」の画面の「六葉葵」(紀州徳川家の裏紋=幕府・長征軍)と左の画面の「沢瀉」(毛利家の紋=長州軍)の「青蛙」(幕府・長征軍)と「赤蛙」(長州軍)との合戦図(第一次長州征討)と解することも、そうなのかも知れない(((;◔ᴗ◔;)))

三 しかし、第一次長州征討は、この合戦図のように、両軍がぶつかり合うことはなく、「禁門の変」に関係した、長州藩の三家老(国司親相、益田親施、福原元僴)の切腹と四参謀(宍戸真澂、竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛)の斬首、五卿(三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修)の追放ということで、一応の決着がなされている。そして、その停戦の仲介役として大きな役割をしたのが、薩摩藩の西郷隆盛(幕府・長征軍の参謀)で、どうやら、右上の、大きな青蛙の上に乗って、何やら采配をふっている大きな赤蛙が、その西郷隆盛(吉之助)なのかも知れない(((;◔ᴗ◔;)))

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(上記三の「大きな赤蛙」)

四 そして、この「風流蛙大合戦之図」のポイントなる「大砲」の如き玩具の「水鉄砲(大砲)」と「六葉葵」(紀州徳川家の裏紋=幕府・長征軍)は、その時の「停戦条件」(毛利藩に一方的な過酷な条件ではなく、言わば、「蛙に水」で、呑める条件の意があるのかも知れない)を示唆しているのかも知れない☻☻♫•*¨*•.¸

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(上記四の「水鉄砲(大砲)」・「六葉葵」など)

五 そして、その「水鉄砲(大砲)」の前に、衝撃的且つ鮮明な「赤い血痕・血しぶき」と「斬首された蛙の首」などは、まさに、上記三の停戦条件(「参謀の斬首」)に合致するのである。また、この「六葉葵」の陣幕周辺は、上記の停戦条件の「家老の切腹」を示唆するのかも知れない。とすると、画面「中」の「大きな赤蛙」は、追放された「五卿」の一人、三条実美を示唆しているのかも知れない。まさに、この周辺の図は、「合戦」の図というよりは、海へ突き落している「追放」の図という雰囲気が相応しい☻☻♫•*¨*•.¸

六 第一次長州征討の「幕府・長征軍」は、次の五か所から、総勢約十五万の兵員を陸・海から包囲・進軍し、萩城のある萩ではなく、藩主父子が政務を司っている山口にとどめを刺すという遠大なものであった。「風流蛙大合戦之図」の「右」図は、その陸路、「中」図は、その陸路と海路、そして、「左」図は、長州の「山口」と「萩」の光景で、「水鉄砲(大砲)」の砲弾が命中し、爆破した所は、山口なのであろう。
そして、その背後で整然と見守っている長州軍は、日本海に面した「萩」城下であろうか。しかし、上記の「停戦条件」の成就のもとに、この図のような砲弾(らしきもの)が大爆破するようなことは無かったのである。しかし、この大爆破があって、空中に舞い上がっている「赤蛙」は、即時挙兵派の「高杉晋作」派と、「青蛙」は融和派の「赤禰武人」派と、これらの「赤蛙」「青蛙」が、次の、「元治の内乱」「第二次長州征討」の、それぞれの歴史の一コマに登場して来るのであろう。
 おそらく、暁斎は、ここに出て来る一匹、一匹の、その隅々まで、何らかの寓意や風刺を込めて、そして、それを自分の分身である「蛙」に語らせようとしていることは間違いない。
 さらに、慶應二年(一八六六)の「第二次長州征討」の翌年に、「放屁合戦絵巻(ほうひかっせんえまき)」(二巻)という長大(各28.2×897.0cm)な絵巻(鳥羽僧正覚猷筆のパロディ化)ものも手掛けているが、それとも連動しているように思われるのである☻☻♫•*¨*•.¸

① 芸州口・陸路、広島から岩国を経て山口へのルート
広島藩、松山藩、松代藩、福山藩、勝山藩、播州山崎藩、岡山藩、竜野藩など
② 石州口・陸路、石見国から萩を経て山口へのルート
鳥取藩、浜田藩、津和野藩、津山藩、松江藩、丸岡藩など
③ 周防大島口・海路、四国から徳山を経て山口へのルート
徳島藩、高松藩、宇和島藩、今治藩など
④ 小倉口・海路、下関から山口へのルート
肥後藩、小倉藩、中津藩、筑前藩、佐賀藩、唐津藩など
⑤ 萩口・海路、萩から山口へのルート
薩摩藩、島原藩、久留米藩、柳川藩など

補記一 これぞ暁斎!(ゴールドマンコレクション) 石川県立美術館

http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/exhibition/4441/

補記二 『暁斎画談. 外篇 巻之上』 (国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850342
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