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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その十三) [三十六歌仙]

その十三 伊達政宗と武田信玄

伊達政宗.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十三 伊達政宗」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1481

武田信玄.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三十一 武田信玄」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1501

(歌合)

歌人(左方十三) 伊達政宗
歌題 関雪
和歌 ささずとて誰かは越えむあふ坂の 関の戸うづむ夜半のしら雪
歌人概要  桃山~江戸前期の大名。仙台藩主。連歌作者

歌人(右方三十一) 武田信玄
歌題 松間花
和歌 立ちならぶかひこそなけれやまざくら 松に千とせの色はならはで
歌人概要 戦国期の武将。  

(歌人周辺)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masamune.html

伊達政宗(だてまさむね) 永禄一〇~寛永一三(1567-1636) 号:貞山 通称:独眼竜

 出羽国米沢城主伊達左京大夫輝宗の長男。五歳の時、天然痘で右目を失う。天正五年(1577)元服し、藤次郎政宗と改名。天正十二年、十九歳で家督を継ぐ。同十三年、安達郡小浜城主の大内氏を破ったのを始め、会津の蘆名氏、白河の結城氏、須賀川の二階堂氏などを攻めて次々に領土を拡げた。
 同十八年、豊臣秀吉より小田原参陣を命ぜられ、母と対立、毒を盛られたが一命を取り止める。弟を殺し母を実家に追放したのち、遅れて小田原に馳せ参じた政宗は、死を決意し白装束を着て秀吉の前に現れたという。
 天正十九年(1591)、米沢から玉造郡岩出山に移る。同二十年、文禄の役に出兵。秀吉の没後、長女を徳川家に輿入れする。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦では東軍に参戦、上杉領白石城を陥落させ、刈田郡を与えられて六十万石となる。同七年、新築の仙台城に移る。同八年(1613)、支倉常長らをローマに派遣する。寛永十三年(1636)、江戸の桜田屋敷で死去。
 晩年はことに文雅を好み、たびたび歌会などを催した。木下長嘯子とは交友があった。家集『貞山公集』などに歌が伝わる。川田順編『戦国時代和歌集』には四十三首の歌が収録されている。

武田信玄(たけだしんげん)生年:大永1.11.3(1521.12.1)  没年:天正1.4.12(1573.5.13)

 戦国時代の武将。実名は晴信,通称太郎。大膳大夫,信濃守。出家し信玄と号す。甲斐(山梨県)守護武田信虎の嫡男,母は大井信達の娘。長禅寺で岐秀元伯の教えを受けて成長。若くして上杉朝興の娘を妻にするが死別,天文5(1536)年室町幕府将軍足利義晴の諱の1字を得て元服し,京都の公家三条公頼の娘と再婚する。
 同10年,溝を深めた父を強制的に隠居させ今川義元のもとへ放逐,家臣団の支持を得て当主の座に着くや,父と同じく信濃への侵攻を開始する。同11年妹婿の諏訪頼重を打倒し,進んで村上・小笠原氏らと対峙,同22年これを撃破し越後へ追って北信濃へ進出,上杉謙信との対立を引き起こす。翌23年今川・北条氏と同盟を結んで謙信を圧し,5回にわたる川中島の戦を経て着実に北信濃を掌握,その間木曾・仁科氏らも下して信濃の大半を制圧すると飛騨へ侵入,永禄9(1566)年には長野氏を滅ぼし西上野をも支配下に収めた。
 これより先,今川義元の娘を妻とする嫡子義信と対立,永禄8年西に領土を接す織田信長の養女を4男勝頼に迎え,苦悩の末に義信を幽閉し駿河進出の機会をうかがう。同10年義信一派粛清で動揺する家臣団から起請文を徴し,手堅く内部の結束を強化する一方,今川氏真と断交して娘を信長の子信忠に配し,織田・徳川氏と結んで背後の憂いを絶つ。同11年駿河を占領して氏真を遠江へ追い,翌年伊豆へ攻め入って北条氏政と対峙,この年越相(越後,相模)同盟が成って謙信に背後を圧迫されるが,越後本庄氏や一向一揆を誘うなど外交手腕の冴えを見せてこれを牽制し,小田原城を攻め氏政を三増峠に破る。
 元亀2(1571)年謙信と絶った氏政と再び結び,本願寺,一向一揆や浅井・朝倉氏らとも協調して信長包囲網を形成した。こうして万全の態勢を整えると,同3年病を押して遠江へ出陣,家康・信長連合軍を三河三方原に破り,翌年三河野田城を包囲するが,病が悪化しやむなく甲府へ帰陣の途中,信濃駒場で波乱に満ちた生涯を閉じた。死因は胃癌。
 妻の三条氏を介して義兄弟の管領細川晴元,本願寺顕如を通じ,京都とのつながりや本願寺,一向一揆との関係を存分に活用。さらに姉妹や子女を今川・北条・穴山・仁科・木曾氏ら国内外の大名,国人の養子,妻として配し,人脈の輪を拡げて遠交近攻策を展開,鮮やかな政治的手腕を発揮する。それは内政にも発揮され,天文16(1547)年には分国法「甲州法度之次第」を制定して分国統治の拠り所とし,検地や棟別調査を実施して家臣団の増強を図り,才覚ある家臣を奉行や各地の城将として配置するなど手堅い分国支配を行っている。
 また城下町や交通路の整備,治水,新田開発などにも力を注いだ。儒学,禅学,兵法,詩歌などの勉学にいそしみ,天性の才能に磨きをかけて統合の要となったが,一族,家臣ともに,その個人的力量に頼り過ぎたきらいがある。中肉の体型で,若いときから毛髪がやや薄めで,柔和ななかにも精悍さのある風貌を持っていた。<参考文献>奥野高広『武田信玄』,井上鋭夫『謙信と信玄』,芝辻俊六『武田信玄』(市村高男) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(「伊達政宗」の一句)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masamune.html

  ささずとて誰かは越えむあふ坂の関の戸うづむ夜半のしら雪(「集外三十六歌仙」)

【通釈】閉ざさなくても、誰が越えようか。逢坂の関の門戸を埋める、夜間降り止まぬ白雪よ。
【本歌】九条良通「千載集」
ふるままに跡たえぬれば鈴鹿山雪こそ関のとざしなりけれ

(閑話休題)

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1150056096

Q 武田信玄と伊達政宗はどちらが強いですか。

A 国が境を接しておれば、当然晴信の標的になります、ガチの戦争は互角だと思うのですが、この戦争に至るまでの布石を晴信は着々と積み上げて実行してきますよね。これには、謀略好きの伊達政宗は舌を巻くしかないでしょうね、この点については晴信のほうが一枚も二枚も上手と考えます。
ですから、村上義清ではありませんが、大勝して晴信を跳ね除けても、次の戦い次の戦いとだんだんと不利になって行って、最後はその土地を奪われるという図式です。あの、上杉影虎も結局なんだかんだと言われながら、晴信も弟を失うなどの犠牲を払いながらも、土地を奪われていますからね、戦国時代の定義である土地の奪い合いと言う定義で言えば、はっきりと上杉影虎の負けですからね。
 伊達政宗が東北で最大の勢力を誇っていたのは紛れも無い事実ですよ、でも最大になった瞬間に秀吉から呼び出しを受けて、父から譲ってもらった最初の振出にまで戻されましたけどね。あと何年早く生まれていても、意味がありません、当時の東北地方は網の目のように、親戚状態でお互いを牽制しあっていたんですよ、その当事者であれば政宗だって出来る事と出来ない事があるんですよ。
 下手したら、周りを全部敵にしかねないんですよ、政宗だから出来る事も当然あり、むしろこの方が多かったのでしょうね、血筋的に自分からは少し離れますから、又いとことかの関係になれば誼も深く通じていないですからね。それに、そんなに早く生まれたら、当然自分が太れば越後の影虎君とお隣同士になりますよ、この影虎君に政宗は非道な人間だから助けてくれと泣きこまれたら、そりゃ大変な事になりますよ。佐竹は当然影虎君の味方なので、下から横から攻められちゃいますよ。
 単純な発想のアホウがそのような事を言うのでしょうが、政宗の性格からして早く生まれていたなら、逆に滅亡していたと自分は考えますよ、親戚一同からひんしゅくを買って袋叩きに会うか、そうでなくとも秀吉の命令には絶対逆らって小田原になんか行かなかった思いますよ。
 逆に、三代将軍家光なんか、どんなに生まれながらの将軍だと威張ってみた所で、戦一つしたことがないんですから、父秀忠と自分で改易に継ぐ改易でとうとう戦国時代をしる、大名はこの世に存在しなくなっていたのです、将軍家光から尊敬を一身にうける伊達政宗は将軍家につぐ家柄とされ、幕末までの保証を得ているんだから、これが結局正解ですよ。あれ以上遅く生まれても早く生まれてもダメだったんですよ。

(「バーチャル歌合」(「伊達政宗」対「武田信玄」)

歌人(左方十三) 伊達政宗
歌題 関雪
和歌 ささずとて誰かは越えむあふ坂の 関の戸うづむ夜半のしら雪

歌人(右方三十一) 武田信玄
歌題 松間花
和歌 立ちならぶかひこそなけれやまざくら 松に千とせの色はならはで

(判詞=宗偽) 
 「左方」の「関ノ雪」の作者(伊達政宗)は、「逢坂ノ関」(山城・近江国境の峠道。畿内の北限とされ、関が設けられていた。ここを越えれば東国であった)を越え、京都へと馬を進め、天下人を憧れたのでろうか(?)
 対する「右方」の「松間ノ花」の作者(武田信玄)は、「かひ(甲斐)こそ/松に千とせの色はならはで」と、何にもまして、自国の安定を願ったのであろうか(?)
 共に、群雄割拠した戦国時代の武将の生きざまを、この一首に託していることを可とし、「持」(引き分け)とす。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

伊達政宗二.jpg

伊達政宗(狩野蓮長画)

武田信玄二.jpg

武田信玄(狩野蓮長画)

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