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鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その十九) [光悦・宗達・素庵]

(その十九)J図『鶴下絵和歌巻』(15坂上是則)

鶴下絵和歌巻J図.jpg

15坂上是則 み吉野の山の白雪積もるらし 古里寒くなり増さるなり(「撰」「俊」)
(釈文)三芳野濃山乃しら雪徒もるらし舊里寒久成ま左流也
三条院女蔵人(小大君)
     岩橋の夜の契りも絶えぬべし 明くる侘びしき葛城の神(「撰」「俊」)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/korenori.html

    奈良の京にまかれりける時に、やどれりける所にてよめる
15 み吉野の山の白雪つもるらし古里さむくなりまさるなり(古今325)

【通釈】吉野の山では雪が積もっているに違いない。奈良の古京ではますます寒さが厳しくなってゆくのを感じる。
【語釈】◇み吉野 奈良県の吉野地方。山深く、雪深い土地として歌に詠まれた。◇つもるらし 積もっているらしい。助動詞「らし」は客観的な事実を受け入れての推定判断をあらわす。掲出歌の場合、「古里さむくなりまさる」という事実を承けて、吉野山のありさまを推し量っている。◇ふるさと (1)荒れた里、(2)古い由緒のある里、(3)昔なじみの土地、など様々なニュアンスで用いられる語。ここは詞書にある「奈良の京」を指し、まず(2)の意であると共に、作者是則にとっては坂上氏の本拠地として(3)の意味ももったであろう。◇さむくなりまさるなり 「なり」はいわゆる伝聞推定の助動詞。視覚以外の感覚による判断をあらわし、掲出歌では皮膚感覚によって「さむくなりまさる」と判断していることをあらわす。

坂上是則一.jpg

坂上是則/竹屋参議光長:狩野尚信/慶安元年(1648)  金刀比羅宮宝物館蔵
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

み吉野の山の白雪つもるらし古里さむくなりまさるなり(古今325)

(周辺メモ)

竹屋家(たけやけ)は、藤原北家日野氏流広橋氏流の公家である。家格は名家。室町時代の権大納言広橋仲光の子・右衛門督兼俊を祖とする。兼俊の後、冬俊(初名冬光)、治光、光継と続くが光継が出家後、中絶する。江戸時代になり、権大納言広橋総光の次男・権中納言光長によって中興された。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

坂上是則二.jpg

『三十六歌仙』(坂上是則)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

み吉野の山の白雪つもるらし古里さむくなりまさるなり(古今325)

(追記)烏丸光広の歌と書(周辺メモ)

天(あめ)が下常盤の陰になびかせて君が千代(ちよ)ませ宿のくれ竹(黄葉集一四八〇)

歌意は、「天下を常緑の木陰に従わせて、君のお治めになる千年の間生えていてください。この宿のくれ竹よ。」

【 寛永三年(一六二六)秋、前将軍徳川秀忠と三代将軍家光父子が江戸から上洛し二条城に滞在した。九月六日から十日の間二条城に、後水尾天皇と中宮和子(徳川秀忠の娘)、中和門院(天皇の母)、女一宮(天皇と和子の間の長女。後の明正天皇)を迎えて寛永行幸があり、さまざまなもてなしが行われた。
 七日には舞楽が、八日には歌会が、十日には猿楽(能)が天皇への接待として行われた。八日の歌会は、徳川御三家を含めた将軍家一門と、関白・太閤以下宮廷の重臣が合せて二十名、歌会の部屋の畳の上に列席し、部屋の外にも公家が詰めて行われた。この歌会に歌を出した者は総勢で七十八名にもなる。歌はすでに作られた懐紙に書かれて用意されていて、歌会では、それを披講といって皆の前で歌い上げる儀式を行うのである。読み上げ順序に懐紙をそろえる読師の役は内大臣二条康道がつとめ、講師といって始めに歌を読み上げる役は冷泉中将為頼が行った。最後に天皇の歌を披講するとき、役を交替して、読師を関白左大臣近衛信尋が、講師を大納言烏丸光広がつとめた。大変に晴れがましいことであった。
 題は「竹遐年ヲ契ル」。常緑の竹が長寿を約束するという意味で、祝の題として鎌倉時代からよまれてきた。光広の「歌」の「君」は表面上は天皇を指すが、将軍の意味も含むように感じられる。双方をうまくもり立ててよみこんだ巧妙な歌であろう。
 光広は徳川家とは縁が深く、慶長十三年には徳川家康と側室お万の方の仲人により、家康次男の未亡人を妻とし、翌年後陽成天皇の勅勘を受けた時には、駿府の家康のもとにすがって流刑を免れている。 】(『松永貞徳と烏山光広・高梨素子著』)

光広・むさしのの月.jpg

詠草「むさしのゝ月」 烏丸光広筆 江戸時代・17世紀 (東京国立博物館蔵)
和歌懐紙 紙本 三五・五×四七・五cm
https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=5899
【 光広は、いわゆる寛延の三筆に比肩して、江戸初期を代表する能書のひとりであった。その書の特色は、運筆が比較的速いこと、側筆を好んで用いること、線は浅いが軽妙洒脱な味わいを持つこと、一字一字の形を整えることよりは全体の流れの美に重点が置かれていること、などであろう。
 そして、その書風は本阿弥光悦の影響が濃厚にうかがわれる。光広は、その和歌の弟子であった古筆了佐(1582-1662)とともに、上代様の研究、鑑定に深く、現存古筆切中の烏丸切はその遺愛品であり、また、古筆切の箱書なども遺しているほどである。したがって、その書は、単なる光悦の模倣に終るのではなくて、上代様の基礎の上に立つ独自の面目を示すものである。この詠草などもかれの書の特色を十分に発揮している。
  むさしのゝ月
       光広
  さぞなみむ
   山のはしらぬ
    むさし野に
  秋はも中の
     有明の月   】
(『書道全集第二三巻 日本・江戸一(平凡社)』所収「図版解説・釈文26」)

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