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四季草花下絵千載集和歌巻(その三・四) [光悦・宗達・素庵]

(その三・四) 和歌巻(その三・四)

和歌巻3.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

     歌合し侍ける時、花歌とてよめる
74 を初瀬の花のさかりを見わたせば霞にまがふみねの白雲(太宰大弐重家)
(初瀬山の花の盛りを遠く望むと、霞にまぎれて峰の桜は白雲と見分けがつかないよ。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-05

【 藤原重家  大治三~治承四(1128-1180)
 もとの名は光輔。六条藤家顕輔の子。清輔の弟。季経の兄。経家・有家・保季らの父。
諸国の守・刑部卿・中宮亮などを歴任し、従三位大宰大弐に至る。安元二年(1176)、出家。法名蓮寂(または蓮家)。治承四年十二月二十一日没。五十三歳。
 左京大夫顕輔歌合・右衛門督家成歌合・太皇太后宮大進清輔歌合・太皇太后宮亮経盛歌合・左衛門督実国歌合・建春門院滋子北面歌合・広田社歌合・九条兼実家百首などに出詠。また自邸でも歌合を主催した。兼実家の歌合では判者もつとめている。兄清輔より人麿影像を譲り受けて六条藤家の歌道を継ぎ、子の経家に伝えた。詩文・管弦にも事蹟があった。
『歌仙落書』に歌仙として歌を採られる。自撰家集『大宰大弐重家集』がある。千載集初出。 】

75 さゞなみや長等(ながら)の山のみねつゞき見せばや人に花のさかりを(藤原範綱 本名雅清)
(さざ波の長等の山の峰から峰へと続く花の盛りを、心ある人にみせたいものだなあ。)

【 藤原範綱 生年未詳、治承三年(一一七九)十月以降没(道因没年と同年)
 本名、雅清または永綱、覚綱の父、従五位上右馬頭。永万元年(一一六五)出家、法名、西遊。「千載集二首入集(七五、一一四) 】(『新日本古典文学大系10 千載和歌集』)

(参考)

和歌巻34.jpg
(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

釈文(揮毫上の書体)=上図右側

をハつ世乃(の)ハ那(はな)の盛(さかり)を三(み)わ多(た)勢(せ)ハ(ば)霞尓(に)ま可(が)ふ三年(みね)乃(の)しら雲

※をハつ世(せ)=を初瀬、初瀬山。大和国の枕詞。
※ハ那(はな)の盛(さかり)=花の盛り。
※三(み)わ多(た)勢(せ)ハ(ば)=見わたせば。
※三年(みね)乃(の)しら雲=峰の白雲。

釈文(揮毫上の書体)=上図左側

左々波(さざなみ)やな可(が)らの山濃(の)三年(みね)徒々幾(つづき)見勢ハ(みせば)や人尓(に)ハ那(はな)乃(の)左可里(さかり)を

※左々波(さざなみ)や=「さざなみ(楽浪)」は、琵琶湖南西岸の古名。「さざなみや」で志賀(滋賀)の枕詞。
※な可(が)らの山=長等(ながら)の山。滋賀県大津市中西部にある山。長柄山、長良山とも書き、志賀山(しがやま)ともいう。歌枕。
※三年(みね)徒々幾(つづき)=峰続き。
※見勢ハ(みせば)や=見せばや。
※ハ那(はな)=花。
※左可里(さかり)=盛り。

(参考)

【 本阿弥行状記(一一二)にも、「散る花、かたぶく月こそ見る所も深しと、つれづれに書き置かれし兼好法師の志こそありがたけれ」という。心のままにしげれる秋の野らは、置きあまる露にうづもれて、虫の音かごとがましく、と千草にすだく虫の音のもきこえるかのような野辺の情緒がわきおこってくる。この和歌巻に盛られている自然の景色は、王朝人のおりふしのうつりゆきのなかにあったあわれさから来たものであり、それが生きた洛外の風物のなかから生き生きとえがかれている。木版下絵は木版という技法のうちから雲母刷りによってあらわされる特殊な洒脱さをもっているが、この巻はまともに専門の画家の手に出たとおもわれる精密さがあり、調度品として、心をつくして作られた和歌巻であろう。】
(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

※「紙師(唐紙師)宗二」周辺

http://nico-wisdom.com/newfolder1/newfolder1/wasi-history6.html

(再掲)

■経師からの分業
 鎌倉時代にはいって書院造りが普及し、「唐紙師(からかみし)」という唐紙の専門家があらわれ、表具師(布や紙を具地に貼る)は分業化され、その名を引き継いで経師(きようじ)ともいわれた。経師が唐紙の木版摺(す)も行ったようである。経師とは、本来は経巻の書写をする人のことであったが、経巻の表具も兼ねていた。 のちにその表具の技術を活かして、依頼されて唐紙を障子(襖)に張った。
しだいに襖の表具も兼ねるようになり、「からかみ」の国産化に伴って、木版を摺(す)る絵付けまで守備範囲が拡大したようである。むろん当時の「から紙障子」は公家や高家の貴族の邸宅に限られており、需要そのものが少なく、専門職を必要とはしていなかった。
 南北朝から室町初期に記された『庭訓往来(ていきんおうらい)』には、「城下に招き居えべき輩(やから)」として多くの商人、職人の名を列挙しており、襖障子に関係するものとして唐紙師、経師、紙漉、塗師、金銀細工師などを挙げており、襖建具が分業化された職人を必要とするほどに、しだいに武士階級に普及していたことがわかる。
 『庭訓往来』の作者は南北朝の僧玄恵とされ、室町初期前後の成立ながら、江戸初期に名古屋で代表的な書肆(しよし)(出版社兼書店)であった永楽屋東四郎が出版し、広く使用された手習いの教科書と言えるものである。往来物(往復の手紙)の形式をとり、寺子屋で習字や読本として使用された。手紙文の形で社会生活に必要なさまざまなことばを手習わせることを目的のひとつとした 。当時の風俗を知る手がかりとしての史料価値が高い。
■きらら
  「からかみ」は、紋様を彫った版木に雲母(うんも)または具(顔料)を塗り、地紙(じがみ)を乗せて手のひらでこすって摺(す)る。 雲母は、花崗岩(かこうがん)の薄片状の結晶の「うんも」で、古くは「きらら」、現在では「キラ」といい、白雲母の粉末にしたものを用いる。独特のパール状の光沢があり、どの顔料ともよく混ざり、大和絵の顔料として用いられてきた。
 具は、蛤(はまぐり)などの貝殻を焼いて粉末にした白色顔料の胡粉(こふん)に膠(にかわ)や腐糊(ふのり) と顔料を混ぜたものである。胡粉(こふん)は鎌倉時代までは鉛白(えんぱく)が使われ、白色顔料として使用された。胡粉(こふん)は顔料の発色が良くなり、また地紙の隠蔽性(いんぺいせい)を高める。このため地塗りとしても使用された。一般的には、顔料を混ぜた具で地塗りをし、雲母で白色の紋様を摺(す)る方法(地色が暗く、紋様を白く浮かせるネガティブ法)と、逆の雲母で地塗りし具で摺(す)る、具摺(す)り(地色が白く、紋様に色がつくポジティブ法)も行われた。
■絹篩(ふるい)
 これらを基本に各種の顔料や金銀泥(きんぎでい)を加えて紋様が摺(す)られるが、絵具を版木に移すときに絹篩(ふるい)いという用具を用いる。絹篩(ふるい)は、杉などの薄板を円形状に丸めた木枠に、目の粗い絹布か寒冷紗(かんれいしや)(粗くて硬い極めて薄い綿布)を張ったもので、これに絵具を刷毛で塗り、版木に軽く押しつけて顔料を移す。顔料の乗った版木の上に地紙をのせて、紙の裏を手のひらで柔らかくこする。 その動作が平泳ぎのような手の動きに似ている事から、「泳ぎ摺(す)り」ともいう。
 版画のように版木に直接絵具を刷毛(はけ)塗りをせず、から紙は絹篩(ふるい)を通して絵具を移し、手の平でこするのは、顔料の着量の調節が目的で、ふっくらとした風合いのある仕上がりを得るためである。木版摺(すり)には、この他に空(から)摺・利久摺(利休紙)・月影摺・蝋箋(ろうせん)などの技法も使用されていた。
タグ:千載集
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yahantei

https://artsandculture.google.com/exhibit/NwKiNwCzwStOJg?hl=ja

「立命館大学アート・リサーチセンター 協力:京都女子大学」の「江戸からか」---江戸の町が育んだ、料紙由来の美しくも大らかな襖紙---」のサイトのアドレスである。
 「紙師宗二」は、「光悦書・宗達(宗達工房)画」の「和歌巻」の、その原動力のような、光悦の右腕のような「唐紙師」であったのであろう。
 それにしては、「光悦。宗達。素庵」の背後に隠れて、表舞台に出て来ないが、「光悦=宗達=素庵」を結びつける、その中心的人物こそ、この「紙師宗二」なのであろう。
 そして、この「紙師宗二」関連の情報は、上記のサイトのように、ネット上で貴重な記事が紹介されていることが、「光悦書・宗達(宗達工房)画」の「和歌巻」を知る上で必須のように思えて来る。
 このコメント欄は、入力そのままで、後で見ると、その「誤記入」がどうして出て来るのかを知る上でも面白い。
by yahantei (2020-10-09 17:07) 

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