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四季草花下絵千載集和歌巻(その六) [光悦・宗達・素庵]

(その六) 和歌巻(その六)

和歌巻5・6.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      鳥羽殿にをはしましけるころ、常見花といへる心
      ををのこどもつかうまつりけるついでによませた
      まうける
77 咲きしよりちるまで見れば木の本に花も日かずもつもりぬるかな(白河院御製)
(花が咲きはじめてから散るまでの間眺めていると、木の下に花も落ち積り、日数も重ねてしまったなあ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

左幾(さき)しよ利(り)知(ち)るま天(で)三連ハ(見れば)木乃(の)本(もと)尓(に)ハな(花)も日数(ひかず)もつも利(り)ぬる哉(かな)

※左幾(さき)しよ利(り)=咲きしより。花が咲きしより。
※知(ち)るま天(で=散るまで。花が散るまで。
※三連ハ(見れば)=見れば。前歌(76の歌)の「三禮盤(みれば)=見れば」の表記とは異なっている。
※※詞書の「鳥羽殿」=白河院が造営した、南殿・北殿・泉殿・馬場殿の総称。京の南、鴨川と桂川の合流地点。鳥羽離宮。
※※常見花=「常ニ花ヲ見ル」の題詠。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sirakawa.html

【 白河院(しらかわのいん) 永承八~大治四(1053-1129) 諱:貞仁

後三条天皇の第一皇子。母は贈皇太后藤原茂子(藤原公成女、藤原能信養女)。異母弟に実仁親王・輔仁親王、同母妹に聡子内親王ほか。中宮賢子(源顕房女。藤原師実の養女)との間に敦文親王・善仁親王(堀河天皇)・郁芳門院・令子内親王(鳥羽皇后)ほかを、典侍源経子との間に覚行法親王をもうけた。また崇徳院・平清盛の実父とする伝がある。
治暦元年(1065)元服し、同四年、親王となる。延久元年(1069)四月、立太子。同四年十二月、即位。第七十二代白河天皇。承保三年(1076)、大井川行幸。応徳三年(1086)十一月、善仁親王に譲位。以後、堀河・鳥羽・崇徳三代にわたって院政を執る。寛治四年(1090)、熊野に参詣し、初めて熊野三山検校を置いた。嘉保三年(1096)、落飾し法皇となる。法諱は融観。大治四年(1129)七月七日、崩御。七十七歳。
承暦二年(1078)、内裏歌合を挙行。応徳三年(1086)九月、藤原通俊に第四勅撰和歌集『後拾遺和歌集』を奏上させる。天治元年(1124)末か二年初め頃、源俊頼に第五勅撰和歌集『金葉和歌集』を上奏させる(初度本)が、返却し、天治二年四月頃、再奏させ(二度本)、さらに大治元年(1126)または翌年頃、再々奏させた(三奏本)。後拾遺集初出。勅撰入集二十九首。 】

(追記メモ) 白河院(第七十二代白河天皇)と後白河院(第七十七代後白河天皇)周辺関連

https://www.cool-susan.com/2016/02/28/%E4%BF%9D%E5%85%83-%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E3%81%AE%E4%B9%B1/

鳥羽天皇系図.jpg

 白河院(1053-1129))は、後白河院(1127-1192)の曽祖父にあたり、白河院は、堀河・鳥羽・崇徳三代にわたっておよそ四十年間の院政を敷き「治天の君」として仰がれ、一方、後白河院も、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽天皇の五代、一時の中絶はあるが、およそ三十余年に及ぶ院政を行い、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝より「「日本一乃大天狗」の異名を授かっている。
 上記の「天皇家略系図」は、第七十二代白河天皇から第七十八代二条天皇までのものであるが、この略系図は、「白河院-鳥羽天皇―崇徳天皇―後白河天皇」、そして、これらの天皇(院)を背景とする「保元の乱・平治の乱」を知る上で恰好のものである。
 同時に、これらの天皇(院)周辺と、千載集撰者の「藤原俊成」、さらには、俊成と並び称せられる歌人の「西行」などの関連を知る上でも便利なものである。
 平安時代末期の保元元年(一一五六)の「鳥羽法皇」崩御に伴い、その皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が「後白河天皇」方と「崇徳上皇」方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変が「保元の乱」である。この「保元の乱」は、崇徳上皇方が敗北し、崇徳上皇は讃岐に配流され、以後、後白河天皇の時代となり、その政変に「源平」両氏の武士団が加わり、後の約七百年にわたる武家政権へと移行する導火線となった政変である。
 この「保元の乱」がどうして起こったのか、その元凶は「白河院」にある。上記の「鳥羽天皇」の白河院在世中の中宮は「待賢門院璋子(藤原璋子)」で、その第一皇子が「崇徳天皇」、その第二皇子が「後白河天皇」である。
 この崇徳天皇は、白河院の養女で、その白河院の子を宿したまま鳥羽天皇の中宮になったとされる(『古事談』)「待賢門院璋子」の、その夫の「鳥羽天皇」よりは、「叔父子(祖父の子)」と呼ばれて育った第一皇子なのである。
 その鳥羽天皇は「待賢門院璋子(藤原璋子)」の他に、白河院崩御後、待賢門院璋子(藤原璋子)」の次の皇后となる「美福門院得子(藤原得子)」の間に、崇徳天皇の次の天皇となる「近衛天皇」(崇徳天皇は譲位し「上皇」となる)の実母なのである。この近衛天皇が、久寿二年(一一五五)、十七歳で夭逝し、その後継天皇が、あろうことか、当時の崇徳上皇の弟の「後白河天皇」となり、ここで、完全に「白河院―待賢門院璋子(藤原璋子)-崇徳天皇(上皇)」の途は閉ざされ、以後、「鳥羽上皇―美福門院得子(藤原得子)=後白河院(鳥羽院と待賢門院璋子の実子)」の流れとなり、その後白河天皇の次が、その「二条天皇」ということになる。
 そして、この「待賢門院璋子(藤原璋子)」と「美福門院得子(藤原得子)」とが、それぞれ当時のエリート女官を擁し、それぞれ「待賢門院璋子(藤原璋子)」サロン、「美福門院得子(藤原得子)」サロンを形成していて、その代表的な女流歌人が、「待賢門院璋子(藤原璋子)」サロンでは「待賢門院堀河(堀川)」、「美福門院得子(藤原得子)」サロンでは「美福門院多賀」
(西行の友人の寂超の妻、寂超出家後、俊成の妻、定家の母)などが挙げられよう。
 さらに、この「待賢門院璋子(藤原璋子)」は、鳥羽院の北面武士として仕えていた西行(佐藤義清)の出家の動機の一つとされている「失恋説」の相手方とも目されている(『源平盛衰記』など)。
 一方の「美福門院得子(藤原得子)」側の北面の武士は、「保元の乱」そして「平治の乱」を通じて天下の覇者となる平清盛もその一人とされている。さらに、この「美福門院得子(藤原得子)」に仕えた「美福門院多賀」が、西行と俊成の共通の友人である「常盤(大原)三寂」の「寂念・寂然=唯心房・寂超」三兄弟の「寂超」の妻で、その「寂超」との間に「歌人で肖像画の名手・藤原隆信」、その「寂超」出家後、俊成の妻となり「俊成の後継者となる藤原定家」の実母となる、どうにも、一つの大きなドラマの一コマを形成する女性ということになる。
 これらのことについては、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-08-11

 このアドレスのもののほか、次のアドレスの「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十六)と『新々百人一首(丸谷才一著)』で、の「藤原忠通(良経の祖父)~藤原良経」関連のものを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-06-06

(再掲)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十六)

久寿二年(1155)慈円誕生。摂政関白藤原忠通の子。兼実・兼房らの弟。良経らの叔父。
保元元年(1156)保元の乱(「崇徳上皇・藤原頼長」対「後白河天皇・藤原忠通」の争い)
平治元年(1159)平治の乱(「後白河院政派・源義朝」対「二条親政派・平清盛」の争い)
永万元年 (1165) 慈円、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門、道快を名のる。十歳。
仁安二年(1167)平清盛 太政大臣就任。武家政権成立。
治承四年(1180)源頼朝挙兵し、鎌倉に入る。
文治元年(1185)壇ノ浦合戦、平氏滅亡。慈円、三十歳。
建久三年(1192)頼朝、征夷大将軍。慈円、天台座主に就任する。三十七歳。
建久七年 (1196) 建久七年の政変(兼実の失脚。慈円天台座主などの職位を辞す。)
建仁元年 (1201) 慈円は再び天台座主に補せられる(後鳥羽院院政)。
元久二年(1205)『新古今和歌集』成る。慈円、五十歳(「和歌所」寄人)。
建暦二年(1212)鴨長明『方丈記』成る。慈円、三たび天台座主に就く。五十七歳。
承久二年(1220)慈円『愚管抄』成る。六十五歳。
承久三年(1221)承久の乱。後鳥羽上皇ら配流。六十六歳。
嘉禄元年 (1225) 慈円入寂。七十歳。

(再掲)

 『新々百人一首(丸谷才一著)』で、「藤原忠通(良経の祖父)~藤原良経」までの歌を掲出して置きたい(配列番号=時代順番号)。

54 限りなくうれしと思ふことよりもおろかの恋ぞなほまさりける(忠通=兼実・慈円の父)
55 かざこしを夕越えくればほととぎす麓の雲のそこに鳴くなり(藤原清輔=六条藤家)
56 花すすき茂みがなかをわけゆかば袂をこえて鶉たつなり(俊恵=源俊頼の子、長明の師)
57 七夕のとわたる舟の梶の葉にいく秋かきつ露のたまづさ(俊成=御子左家、定家の父)
58 あらし吹く峯の木の葉にさそはれていづち浮かるる心なるらん(西行=俊成と双璧)
59 朝夕に花待つころは思ひ寝の夢のうちにぞ咲きはじめける(崇徳院=保元の乱時の上皇)
60 あふさかの関の杉むら霧こめて立ちども見えぬゆふかげの駒(侍賢門院堀河)
61 ますら男がさす幣(みてぐら)は苗代の水の水上まつるなるらん(源有房=俊恵歌壇)
62 舟出する比良のみなとのあさごほり棹にくだくる音のさやけさ(顕昭=六条藤家)
63 逢ふまでの思ひはことの数ならで別れぞ恋のはじめなりける(寂蓮、俊成の甥、養子)
64 なにはがた汀の蘆は霜がれてなだの捨舟あらはれにけり(二条院讃岐)
65 ゆく春のあかぬなごりを眺めてもなほ曙やおもがはりせぬ(藤原隆信=定家の異父兄)
66 ささなみや志賀の都は荒れ西にしを昔ながらの山桜かな(平忠度=清盛の末弟、俊成門)
67 難波江の春のなごりにたへぬかなあかぬ別れはいつもせしかど(祇寿=江口の妓・遊女)
68 桜咲くたかねに風やわたるらん雲たちさわぐ小初瀬の山(兼実=慈円の兄、良経の父)
69 山おろしに散るもみぢ葉つもるらん谷のかけひの音よわるなり(長明=『方丈記』作者)
70 旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢を見るかな(慈円=『愚管抄』の作者)
71 秋風に野原のすすき折り敷きて庵あり顔に月を見るかな(家隆=定家と双璧の歌人)
72 わが恋は知る人もなしせく床の泪もらすなつげの小枕(式子内親王=『新古』女流代表)
73 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ(定家=『百人一首』撰者)
74 昔たれかかる桜の花を植ゑて吉野を春の山となしけん(良経=『新古』「序」の起草者)

(再掲)

54 限りなくうれしと思ふことよりもおろかの恋ぞなほまさりける(忠通=兼実・慈円の父)
68 桜咲くたかねに風やわたるらん雲たちさわぐ小初瀬の山(兼実=慈円の兄、良経の父)
70 旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢を見るかな(慈円=『愚管抄』の作者)
74 昔たれかかる桜の花を植ゑて吉野を春の山となしけん(良経=『新古』「序」の起草者)

 ここで、慈円と同年齢(共に久寿二年=一一五五の生れ)の鴨長明の『方丈記』と『愚管抄』とを紹介して置きたい。また、上記の主要な歌人などと「慈円・長明」との年齢の開きも付記して置きたい。

https://nenpyou-mania.com/n/jinbutsu/11260/慈円

「藤原忠通」   →五十八歳年上
「藤原俊成」   →四十一歳年上
「西行・平清盛」 →三十七歳年上
「崇徳天皇」   →三十五歳年上
「後白河天皇」  →二十七歳年上
「藤原隆信」    →十三歳年上
「藤原(九条)兼実」 →六歳年上
「藤原家隆」     →二歳年下
「藤原定家」     →六歳年下 
「藤原(九条)良経」→十三歳年下
「後鳥羽天皇」  →二十五歳年下
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yahantei

https://sakuramitih31.blog.fc2.com/blog-entry-4966.html

鳥羽殿へ 五六騎急ぐ 野分かな 蕪村

 この「鳥羽殿」は鳥羽離宮。さまざまなドラマがあった。「保元の乱」を象徴するような離宮。若き日の西行は、ここの「待賢門院璋子(藤原璋子)」を警護する北面の武士であったか。この貴人との「失恋説」を彷彿させるような、恰好な舞台であったことであろう。
 その「待賢門院璋子(藤原璋子)」と西行周辺の、女流歌人には、これまた、当時の鳥羽離宮のことが偲ばれる。これに比すると「美福門院得子(藤原得子)」周辺の女流歌人は余り目にしないが、「平治の乱」(「後白河院政派・源義朝」対「二条親政派・平清盛」の争い)以降を見ていくと、相当な女性であったのであろう。西行の「失恋説」の相手は、こちらの「美福門院得子(藤原得子)」とする見方もあるようだが、おそらく、そういう見方が出てくるような、「待賢門院璋子(藤原璋子)」より以上の、話題性を有している女性という感じでなくもない。そして、「美福門院得子(藤原得子)」に仕えた、定家・隆信の異父兄弟の実母の「美福門院加賀」というのも、これまた、ドラマチックである。




(待賢門院とそのの女房たち)

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu3/42.html

〇中納言の局
〇堀川の局
〇兵衛の局
堀川の局の妹。待賢門院のあとに上西門院に仕えています。西行との贈答歌が山家集の中に三首あります。
〇帥の局
〇加賀の局→大宮の加賀 
西行より13歳の年長ということです。母は新肥前と言うことですが、詳しくは不明です。千載集に一首採録されています。この人は待賢門院の後に近衛院の皇后だった藤原多子に仕えて、大宮の女房加賀となります。有馬温泉での贈答歌が135Pに二首あります。ただし、  西行の歌は他の人の代作としてのものです。寂超長門入道の妻、藤原俊成の妻、藤原隆信や藤原定家の母も加賀の局と言いますが、年齢的にみて、この美福門院加賀とは別人とみられています。 ○紀伊の局
〇安芸の局
〇尾張の局
〇新少将
源俊頼の娘。新古今集・新拾遺集に作品があります。



by yahantei (2020-10-12 10:05) 

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