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四季草花下絵千載集和歌巻(その十一) [光悦・宗達・素庵]

(その十一) 和歌巻(その十一)

和歌巻9.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      後朱雀院御時、うゑのをのこども東山の花見
      侍けるに、雨ふりにければ白河殿にとまりて、
      をのをの歌よみ侍けるによみ侍ける
82 春雨にちる花見ればかきくらしみぞれし空の心ちこそすれ(大納言長家)
(春雨に散る花を見ていると、一面にかき曇った空から雨まじりの雪が降ってくる心地がするよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
春雨尓(に)知る(散る)ハ那(はな)見連盤(見れば)可幾久らし(かき暗し)三曾禮(みぞれ)し空乃(の)心知(ここち)こ曾(そ)須連(すれ)

※知る(散る)ハ那(はな)見連盤(見れば)=散る花見れば。
※可幾久らし(かき暗し)=あたり一面を暗くする。
※三曾禮(みぞれ)し=霙(みぞれ)し。
※心知(ここち)こ曾(そ)須連(すれ)=心地こそすれ。
※※後朱雀院=一条天皇第三皇子。母は道長の女彰子。
※※うゑのをのこども=殿上の男ども。
※※白河殿=白河法皇の御所。南殿と北殿があり、現在の京都市左京区の岡崎公園付近にあった。もと藤原良房の山荘で、頼道の死後朝廷に献上され御所となる。のち、法勝(ほっしょう)寺が建立された。白河第(てい)。白河院。白河別業。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nagaie.html

【 藤原長家(ふじわらのながいえ) 寛弘二~康平七(1005-1064)  
関白道長の六男。母は源高明の娘高松殿明子(養父は盛明親王)。源雅信の娘倫子の養子となる。頼通・頼宗・彰子の弟。道家・忠家・祐家の父。御子左家の祖で、俊忠の祖父、俊成の曾祖父にあたる。
寛仁元年(1017)、元服し従五位上に叙される。侍従・右少将・右中将などを経て、治安二年(1022)、従三位。同三年、正三位権中納言。同四年、正二位。長元元年(1028)、権大納言。寛徳元年(1044)、民部卿を兼ねる。康平七年(1064)十月、病により出家し、同年十一月九日薨ず。六十歳。
長元八年(1035)、「関白左大臣頼通歌合」に出詠。自邸で歌合を主催するなど、歌壇の庇護者的存在であった。家集があったらしいが現存しない。後拾遺集初出。勅撰入集四十四首


(参考) 「保元の乱」当時の「高松殿」と「白河殿」周辺

https://kyotomichi.hatenablog.com/entry/2016/01/09/171821

白河殿.jpg

【保元の乱 1156年7月5~11日】
勝者:後白河天皇、藤原忠通、信西、平清盛、平重盛、源義朝、源頼政
敗者:崇徳上皇、藤原頼長、平忠正、平家広、源為義、源為朝

崇徳上皇らは、白河北殿に逃げ込み、敵襲を迎え打とうとした。一方後白河天皇側が高松殿へ集結。高松殿だけでは狭く、東三条殿にも集まった。そして、源義朝ら200騎、平清盛ら300騎、足利義康ら100騎他、白河北殿を急襲。崇徳上皇は配流、多くの武将は処刑される。
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yahantei

「保元の乱」当時の「高松殿」と「白河殿」周辺の地図は、「大内裏・京都御苑(京都御所)・高松殿・三条殿・白河殿」の地理関係を知る上で、一番見やすい。この「白河殿」の下(北)に、清盛の「六波羅」がある。この「六波羅」と「鳥羽殿」が入ると、「保元・平治の乱」が浮き彫りになってくる。
 藤原長家は、関白道長の六男、御子左家の祖で、藤原俊成の曽祖父にあたる。俊成の編んだ「千載集」というのは、用意周到な、隅々まで、俊成の細やかな配慮というのがうかがえる。
by yahantei (2020-10-24 08:47) 

yahantei

「白河殿」の下(北)→「白河殿」の下(南)の誤記。この種の誤記は、管理ページで修正せず。この欄を活用。 
by yahantei (2020-10-26 08:32) 

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