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醍醐寺などでの宗達(その十五・「松島図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十五 「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「松島図屏風 (宗達筆)」(その二)

松島図屏風.jpg

綴プロジェクト作品(高精細複製品)「松島図屏風」(俵屋宗達筆) 寄贈先:堺・祥雲寺
(紙本金地着色 六曲一双 各一五二・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵)
https://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/vol-01.html

醍醐寺三宝院・庭.jpg

「醍醐寺 三宝院庭園」
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin

 この宗達の「松島図屏風」は、「秋は紅葉の永観堂」で知られている、京都市左京区にある浄土宗西山禅林寺派総本山「禅林寺」の、等伯の「波涛図」を意識しての作ではなかろうか。

等伯・波涛図.jpg

長谷川等伯:波濤図(制作年代不詳)重文(京・禅林寺所蔵) 紙本金地墨画 京都国立博物館寄託 各一八五・〇×一四〇・五㎝ 十二幅のうち二幅
《長谷川等伯展(2010年04月):京都国立博物館》
http://kanjinnodata.ec-net.jp/newpage768.html

 この等伯の「波涛図」(十二幅の「襖絵」)は、慶長四年(一五九九)、等伯、六十一歳前後の作とされている(『新編名宝日本の美術20永徳・等伯(鈴木広之著)』)。この頃、等伯は「自雪舟五代」を自称するように、その絶頂期の頃であろう。
 もともと、この「波涛図」は、禅林寺の「大方丈・中の間」の襖絵で、「方丈」は「一丈(約3メートル)四方の小室」(禅宗寺院における住職の居室)を意味するが、「大方丈」は、その禅宗寺院の「訪客のための接待の場」として、例えば、醍醐寺の三宝院の例ですると、「⑨表書院」のような居住空間であろう。
 この「大方丈・中の間」は、おそらく、「方丈庭園」(南側)に面した「北側」(襖四幅)・「東側(襖四幅)・西側(襖四幅)」と仮定すると、それは、丁度、宗達の「松島図屏風」(六曲一双)
を「北側」として、それらが「東側」(六曲一双)と「西側」(六曲一双)とで、庭に面して囲むような空間のイメージとなって来よう。
 そして、醍醐寺の三宝院の「⑨表書院」の「襖絵(重文)」は、等伯一門の作とされている。等伯には久蔵、宗宅、左近、宗也の四人の子がおり、そのうち久蔵は等伯に勝るほどの腕前を持っていたが、文禄二年(一五九三)、二十六歳で早世している。
等伯一門には、等伯の女婿となった等秀や伊達政宗に重用された等胤、ほか等誉、等仁、宗圜ら多数がいたが、醍醐寺三宝院表書院」の襖絵も、その子や一門の作なのであろう。

三宝院襖絵.jpg

「醍醐寺三宝院表書院」・襖絵(重文)
https://www.daigoji.or.jp/grounds/sanboin.html
【上段の間の襖絵は四季の柳を主題としています。中段の間の襖絵は山野の風景を描いており、上段・中段の間は、長谷川等伯一派の作といわれています。下段の間の襖絵は石田幽汀の作で、孔雀と蘇鉄が描かれています。】

 御所造営の障壁画制作を巡って、狩野永徳一門と長谷川等伯一門とが鋭く対立したのは、永徳が没する天正十八年(一五九〇)で、時に、等伯、五十二歳、そして、永徳は四十八歳であった。永徳没後は、永徳の長男・光信が狩野派を継承するが、その光信も慶長十三年(一六〇八)年に没し、その実弟の狩野孝信(1571 - 1618)が狩野派を率いることとなる。この孝信の三子が、「守信(探幽、1602 - 1674)、尚信(1607 - 1650)、安信(1613 - 1685)」で、その中心になったのが、狩野探幽(守信)ということになる。
 この永徳没の「天正十八年(一五九〇)」から、慶長十五年(一六一〇)の等伯没(享年七十二)までが、等伯の時代であろう。

等伯・楓図.jpg

長谷川等伯筆「楓図」(国宝 1592年頃 智積院)壁貼付四面 紙本金地著色 
各一七四・三×一三九・五㎝ 
【『ウィキペディア(Wikipedia)』 
旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)文禄2年(1593年)頃。『楓図』は日本障壁画の最高傑作と評されている。
楓図 紙本金地著色 国宝
松に秋草図 紙本金地著色 国宝
松に黄蜀葵図 紙本金地著色 国宝
松に草花図 紙本金地著色 国宝
松に梅図 紙本金地著色 重要文化財    】

等伯・知恩院壁画.jpg

旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)
左=長谷川等伯筆「楓図」(壁貼付四面)  各一七四・三×一三九・五㎝ 
右=長谷川久蔵筆「桜図」(壁貼付四面)  各一七四・三×一三九・五㎝ 

松に黄蜀葵図・違棚.jpg

旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)「松に黄蜀葵(とろろあおい)図」(長谷川等伯筆)
これは元々書院を飾るために描かれたため、宝物館に再現された書院にそのままの配置で展示されている。
https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/chisyakuin-temple/02-chisyakuin-tohaku.html#.YF7WtNJxfIV

松に立葵図・違棚.jpg

旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)『松に立葵図』「(長谷川派))
https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/chisyakuin-temple/02-chisyakuin-tohaku.html#.YF7WtNJxfIV

松に葵図.jpg

旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)「松に立葵図」(「長谷川派」筆) 
https://www.mizuha.biz/saijiki/080909tisyakuin/index.html

【 天下人の思惑を秘めた、葵の図

https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/chisyakuin-temple/02-chisyakuin-tohaku.html#.YF7WtNJxfIV

 智積院の障壁画には、秀吉が好んだという「松」が多くモチーフとされていますが、これはつまり、松は豊臣家を示すもの、と考えることが出来ます。対して、この絵に松と共に描かれている「葵」は、豊臣家とは対立する徳川家の家紋にも使われている花です。
 風に揺れる葵の花を、まるで圧迫するかのように上から松の木が枝葉を広げている―これは「豊臣家が徳川家を抑えている」、つまり「天下は豊臣のもの」という意味を暗に示している、と解釈される向きもあったのだそうです。
 結局その後秀吉が亡くなり、天下は徳川のものとなります。普通、そのような不届きな話があるものは無くしてしまってもなんらおかしくはありません。しかし一方で、この絵を見た徳川家康が、葵が勢いよく伸び松を覆いつくさんばかりに描かれており、「豊臣の天下は終わり、徳川がそれを凌駕する」という意味に解釈し、わざとそのまま残させた、という逸話も伝えられているのです。 】

松に黄蜀葵図.jpg

国宝「松に黄蜀葵及菊図」の想定復元模写
https://www.housen.or.jp/common/pdf/26_07_yasuhara.pdf

【「旧祥雲寺客殿障壁画の復元研究― 国宝「松に黄蜀葵及菊図」智積院蔵の想定復元模写を中心として ―安原 成美 (東京藝術大学大学院)」  

< 祥雲寺と智積院障壁画の変遷
本図は、智積院の前身である祥雲寺客殿の障壁画として描かれた。祥雲寺は天正 19 年(1591)愛児・鶴松(棄丸)の菩提を弔うために豊臣秀吉が創建した禅宗寺院で、その中核をなす客殿の規模は、従来の禅寺のそれをはるかに超えていたが、天和2 年(1682)7 月の護摩堂から発した火災で灰塵に帰してしまう。その際、幸いにも障壁画の主要部分は持ち出され焼失を免れる。焼失を免れた障壁画は、再建された客殿や大書院などの障壁画に転用された。その後、明治25 年(1802)の盗難や昭和 23 年(1947)の火災で、更にその一部が失われたと考えられる。

< 先行研究 >
(略)
< 作品調査及び復元配置 >
(略)

< 想定復元模写 >
 調査結果を基に想定復元模写を行った。復元された本図の右寄り3枚は、二股に別れた巨大な松が画面の天地を貫くように描かれており、廻りには、黄蜀葵、芙蓉、菊の花が咲き乱れ、芒が大きくその葉を伸ばしている。向かって左に伸びる松の奥には群青で描かれた水面が見える。水面は向かって右から左にいくほど広がっており、失われた左寄り 3 枚の下方には、この水面が更に展開しその廻りには草花が生い茂っていたと想像される。水面の手前に描かれている芒の葉のうち半分あまりは隣の画面から伸びてきているため、左寄り 3 枚目の画面には多くの芒が生えていたことがわかる。

< 祥雲寺客殿室中障壁画の構成 >
 さらに想定復元模写を制作したことで、旧祥雲寺客殿の内部構成と障壁画の配置位置について具体的な検証が可能となった。本図の配置されていた部屋の問題であるが、先行研究では 8 室形式で復元した山根案と 6 室形式で復元した小沢案があるが、両案とも本図を「松に秋草図」とともに、室中に配置することで一致している。筆者も両案に同意であるが、今一度、再確認を行う。
 室中の画題としては当時の方丈建築の多くがそうであるように松が相応しく、本図が収まる可能性は充分にあるが、松を描いた旧祥雲寺客殿障壁画は、本図以外にも「松に秋草図」「松に立葵図」「雪松図」が現存する。
 本図が室中に収まっていた根拠として注目すべきは、描かれている草花の種類である。鶴松の死去とその3回忌が旧暦8月5日に行われており新暦で8月29日にあたるこの時期に開花する草花を、主要な部屋である室中には描いていると考えるからである。本図に描かれている草花は、黄蜀葵、芙蓉、薄、菊であり、開花時期は黄蜀葵が 8 月から 9 月、芙蓉が 8 月から 10 月初め、菊が 10 月から 12 月、薄が穂をつけるのが 8 月から 10 月と、法要の時期と一致する。「松に秋草図」の草花も黄蜀葵が描かれていないこと以外は本図と共通する。
 それでは、本図と「松に秋草図」は室中にどのように配置されていたのであろうか。配置箇所の特定のために先ず注目すべきは襖の幅である。復元した祥雲寺客殿室中の平面4 をもとに割り出した襖の寸法によると、室中には幅の違う 3 種類の襖が使用されていたと推測され、そのうち本図の幅である 166.7㎝のものは室中と東西の部屋を間仕切るものであり、そこに収まっていたことは間違いない。
 それぞれが東西どちらに収まるかであるが、両者は寸法と引手の位置が全く同じであるので、図柄により判断するしかない。本図の印象的な特徴として、画面の左から右に向かって吹いている風の存在がある。本図は左から右に向かって風が吹いている。「松に秋草図」は、その逆に向かって風が吹いているので、向かい合って配置した場合には、風は一方向に吹くことになる。そこから、室中西面に本図、東面に「松に秋草図」を配置し、室中に入った人々の視線を風の表現によって仏壇の間に誘うように演出したと考える。風の方向の他に配置位置の手掛かりとなるのと考えるのが、土坡である。本図と「松に秋草図」の画面下方には、土坡が存在するが、それぞれ形の特徴が異なる。
 本図の土坡は、向かって右端が徐々に下がっていく。それに対して、「松に秋草図」の土坡は向かって右端が急激にせり上がっていく。仮に「松に秋草図」を西面に配置すると、室中北面の襖絵は土坡が不自然に高い位置にある画面構成になる。
 以上のことから本図は客殿室中の「松に秋草図」と向かい合うように西面に配されていたことが明らかである。

< 本研究を通して得られた成果 >
本研究により、失われた祥雲寺客殿の室中障壁画が視覚的に復元された。長谷川等伯が狩野永徳の巨大樹による大空間の構成に、草花の四季の変化や風などの自然現象を巧みに利用した場面の展開など、独自の表現を加え建物内部を障壁画により壮大に演出している様が示せたものと考える。ここまで詳細に、祥雲寺客殿障壁画自体の復元研究が行われたことはなく、祥雲寺客殿だけでなく桃山期の障壁画研究における大きな成果となった。 】

タグ:松島図屏風
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yahantei

 宗達の前の時代は「永徳・等伯」の時代なのだ。「永徳と等伯」との切磋琢磨が、「安土桃山」時代、そして、それに続く、「パクス・トクガワーナ」(徳川の平和)の、その三百年の「江戸・徳川の文化」の礎になったことであろうか。
 「長谷川等伯が狩野永徳の巨大樹による大空間の構成に、草花の四季の変化や風などの自然現象を巧みに利用した場面の展開」、それこそが、等伯の「旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)」の原動力になった、その根底のものであろう。
 旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)『松に立葵図』とか「松に黄蜀葵(とろろあおい)図」とか、これまで、解らなかった世界が、「国宝「松に黄蜀葵及菊図」の想定復元模写」などによって、そのベールが開かれようとしている。

https://www.housen.or.jp/common/pdf/26_07_yasuhara.pdf
by yahantei (2021-03-28 17:23) 

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